第7話
く~ろ~ま~く~
◇聖王歴1337年火ノ月60ノ日
神の祝福に満たされし、地上における至高の楽土。吟遊詩人が斯く謳う、この国の名はシィクィード聖王国。
千年を超えて繁栄してきた光輝く王国には、しかし薄暗い場所も多い。照らす光が強ければ、生まれる影もまた強くなるものだから。
そんな影の一つが、亜人に対する差別であろう。元より土台はあったのだ。聖なる教えは亜人と言う存在を、その教義の中で否定してきた。
信心深い者達は亜人を見れば顔を顰め、心ない者は侮蔑の一つも向けていた。奴隷制度も古くよりあり、長く虐げられる立場にあったのが獣人達だ。
されど迫害と言う行為自体に反発する層も確かにおり、表立って亜人を迫害する者達は極一部。それが十年は前の常識だった。だが、今は違う。
「……寒い」
日差しの届かぬ暗い影の中、栗毛の少女は膝を抱えて座っていた。輝かしい王国の、美しい街並みの、その裏路地にあるゴミ山の直ぐ傍で。
痩せこけた頬は、数日程度の絶食ではこうはならぬだろうと言う見た目。目の下に深く刻まれた隈は、満足に睡眠すら出来ていないと言う証左。裏路地にいる理由は一つ、表は危なくて歩けないから。
いつからか、亜人に対する迫害は強くなった。差別を隠していた時代から、侮蔑を露わにする形を経て、今では市民が率先して石を投げ付けるような環境に。
中央の店舗は、亜人に物を売らない。中央の兵士は、亜人が表立って歩いているだけで剣を構える。中央の法律では、亜人から何を奪っても罪にはならない。
食事なんて出来る訳がない。睡眠だって熟睡してたら命に関わる。何もしていないのに石を投げられ追い立てられて、騒ぎになったら兵が大挙してやってくるのだ。日中に日陰から、出ることさえ危険である。
純粋な人間種が祝福されたこの国で、その対価とばかりに亜人達は虐げられている。冬の寒さには慣れていた少女だったが、空腹や孤独が生み出す、こんな寒さには慣れてなかった。こんな寒さがあるなどと、知りもしなかったのだ。
「……どうして」
まるで鼠や羽虫のような小動物。暗がりの中を必死に逃げて、どうにか命を繋いでいる。そんな思いをしてまでどうして、己は此処に居るのだろうか。
空腹が、疲労が、心と思考を擦り減らす。理由を思い出す度に、脳裏に蘇る悍ましい光景。こうするしかなかったと、他に選べる道などなかった。世界は実に理不尽だから。
もう死んでしまいたい。そんな風にも思うけど、そうしてしまえば多くを見捨てる事になる。だから瞳を揺らしていても、それを望まぬと言うのなら、こうして生きる以外に道はなかったのだ。
「あら、珍しい。こんなところでネコビトに会うだなんて」
そんな人気のない裏路地で、項垂れた少女へと声が掛かる。何時から其処に居たのだろうか、路地裏のゴミ山を前に佇むは眼鏡を掛けた美女。
長い黒髪をポニーテールに、同じ黒色のナイトドレスと肩には白いケープを羽織る。病的な程に真っ白な肌と、鮮やかな赤色の口紅が特徴的な女であった。
「……誰?」
この国に着た直後なら、もっと快活に問い掛けたであろう。この国に着て暫くが経った頃ならば、遮二無二逃げ出していた筈だ。だが今は、そんな気力なんて残っていない。
焦点の合わない瞳を向けて、ぼんやりと問い掛けるだけ。傍から見ても明らかに、限界寸前と言った様相。このまま時が過ぎ去れば、少女は近くの山の一部と化していたことだろう。
どうしてそうなったのか、予想するに容易いこと。此処、中央大陸において亜人の立場と言うのは酷く弱い。国教である聖教が、差別と迫害を是としているから。
亜人は罪深い生き物で、生きているだけで害悪なのだ。殺してやることが救済で、それ以外の慈悲を与えてはならない。聖なる教えとやらは今、真顔でそんなことを言っている。
敬虔な信徒がいる場所では、亜人は町を歩くだけで私刑を受ける。悪知恵の働く者がいる場所では、身包み剥がされ奴隷落ちも当たり前。
その点、このシャリティエの町はまだマシだ。大通りを歩けば石を投げられ、店へと入れば殴られて追い出される程度で済む。町名の由来通り、実に慈悲深い場所だろう。
そんなどうしようもない事実を前に、女は笑いを堪えるのに苦労する。亜人の成り立ちを少しでも調べれば、どれ程に的外れなことをしているのか分かると言うのに。ああ、何と、誰も彼も愚かであるのか。
「私? そうね」
手にした日傘でそんな笑みを隠して、女は暫し思考する。このネコビトの少女に対し、何と返すべきであろうか。良くも悪くも、女の名は知れている。
世界的な考古学の権威と、西方では名声を。中央では、まあ悪名だ。教鞭を執っていた経験もあるが、公然と王族や宗教を罵倒したこともある身である。偽名の一つ二つ、名乗るべきなのかもしれないと。
「ディアナよ。ディアナ・プロセルピナ」
日傘の向こうの笑みを変える。穏やかな微笑みを浮かべて口にしたのは、長く使っている本名。隠す必要などはなく、気付かれたらそれはそれ。そんな気軽い態度で名乗る。
女は柔らかな所作で左手を回して、日傘の先はくるりくるりと。入り込んできた夕日に僅か目を細めながら、傘を閉じて地に向ける。赤いリップを小さく開いて、女は優しく問い掛けた。
「それで、ネコビトさん。貴女、何処から来たのかしら? 生まれの氏族は? ミュレ? ルヴー? ヴァッシュ? それともリオンかしら?」
音を紡ぐ唇に塗られた色は、毒々しいまでに鮮やかな赤。少し趣味が悪いなと、意識が朦朧としている少女でさえ思ってしまう色。そんな風に思える程度には、女の声は優し気だった。
「……ミュシャ・ルシャ。北に、住んでた」
「まあ、ルシャの氏族。純血も純血、グノーメの直系じゃない」
けれどミュシャは、思わず不思議に思ってしまう。何がそんなに楽しいのだろうか。何でそんなに嬉しそうなのだろうか。少しだけ焦点が合った緑の瞳を、薄っすらと青み掛かったレンズの向こう側にある瞳が見詰め返す。
優しそうな声音。嬉しそうな微笑み。妙齢であろうに、何処か童女を思わせる表情。だと言うのに、どうしてだろうか。何故だかその目は、笑っていないようにも見えてしまう。
「それで、どうしてルシャの士族が中央にいるのかしら。貴女たちは、祭司の一族でしょう」
「……知らない」
そんな女を虚ろな瞳で見上げるミュシャは、知らない。本当に何も知らなかった。一族の長が口伝を代々残しているのは知っていたが、自分には関係がないと他人事で過ごしていた。
だから、ミュシャは知らない。本当に何も分からなかった。分からないまま、一人になった。気が付けばもう二度と教わることが出来なくなっていて、自分は何故かこんな苦しい場所にいる。
命じられたのだ。探りに行けと。拒絶は許されなかったのだ。今の少女に自由はない。だから彼女は、小さく呟く。
「……どうして、こんなことに、なったの」
消え入るような声で吐露して、その両膝へと顔を埋める。そうしなければ、水も真面に飲んでないのに、零れ落ちてしまいそうだったから。
揺れるグラスの表面は、一度溢れ出したのならば止まらぬだろう。そしてそれは終わりを意味する。この地に人でない少女を守ってくれるモノなど何もなかったから。
「そう。貴女は知らないの」
頬や腹に青痣を付けた、痩せ衰えた亜人の少女。疲弊し切って虚ろな目をした彼女はこのままならば、明日の朝を迎える事すら出来ない。
夜半には雨が降る。冷たい豪雨は残飯を漁る気力もない彼女の体力を使い尽くして、物言わぬ屍を作り上げる。それがミュシャと言う少女の末路。
ああ、何と哀れな話だろうか。救いがなくて、皮肉に満ちていて、思わず顔に出てしまいそうになる。だからそんな哀れな少女へ、女は嘆きの色で囁き掛ける。
「教えられていないのか、そもそも失伝してしまったのか。失われるというのは悲しいことね」
「…………」
赤い唇を唾液で濡らして、切なげな表情を作ったディアナ。その顔を見上げる事も出来ないミュシャは、顔を埋めたままに小さく頷く。
失われることは悲しいと、その言葉は彼女に響いた。失って、残された者だから。その悲しさが、とても良く分かる。痛い程に、分かってしまう。
「ねぇ、貴女。良かったら、私と来ない?」
そんな少女に、女は笑みを浮かべて提案した。言われたミュシャは、意味が分からないと顔を上げる。どうしてだろうと、頭は上手く回らない。
座り込んだままのミュシャを覗き込むように、姿勢を低くしたディアナは真っ白な右手を伸ばす。広げた手を掴みなさいと、深い笑みを浮かべたまま。
「私ね、考古学の研究をしているの。専攻は、滅び去った先史文明について」
ディアナは研究者だ。古き時代に失われた文明について、彼女は長年に渡り調べている。
先史文明、それは聖王国が設立する以前に栄え滅びた文明。魔王の手によって、滅ぼされた過去の遺物。
「現存する遺跡には、血筋による認証を必要とするものも幾つかあるのよ。だから、特別な血の持ち主は貴重なの」
当時の技術は、文明が滅んだ今も一部が残り続けている。それは世界各地に点在する遺跡であり、或いは王国に残る血筋や宝物という形となって。
「300年続いた暗黒期に、多くの血筋が散逸してしまったわ。王家やブラッドホルダーであるロス家とモラン家、その辺りに伝手があれば良かったのだけど」
聖王国の王家は、先史文明の直系だと言われている。当時の者たちから正式に王に任命されたという伝説が、王権の証明となっている。
王権神授に近い形で、この国は成り立っていた。だがそれも邪教の暗躍により起きた長き暗黒期の途中、戦火の中でその多くが失われてしまった。
「そのロス家にした所で、10年前の粛清でほぼ族滅。唯一の生き残りは北方だから、王国系の血筋は本当に手が出し難いの。そうなると別のアプローチを試す必要があるのよね」
さらに言えば現在、聖王国は荒れている。14年前に起きた大魔女の襲来。三将軍の手で撃退されるも、その4年後に刀将の反乱未遂が起こり、年を明けぬ内に何者かに聖王が毒殺された。王党政府はロス家の先代党首が主犯と断じ、同調した貴族院が粛清を実施。以降、王座の空白は10年経った今も続いている。
聖王国の絶対的な指導者である王はなく、ならば次点以下の勢力はどうしているのかと言えば内乱一歩手前の状態だった。
先ずは軍部。頂点である三将軍の一角であった刀将オリヴィエ・ロワ・ルゥセーブル・ロスが欠け、空将ヨアヒム・マルセイユが王族守護の名目で宮廷に軟禁状態。残る雷将は友人の忘れ形見を守るため、政争に負けたと言う名目で北に逃げた後。
故に現状、軍部を支えているのは六師団長と呼ばれる者たち。とは言え職責以上の仕事を要求されている彼らにも余裕はなく、荒れる国を前に組織を維持するだけで限界と言った状態だ。
次に政府。王の手足として国内を統制するための組織だが、現在は平民出の宰相に完全掌握されている。王を毒殺した主犯ではないかとも目される男は、現状を解決するでもなく私腹を肥やすばかり。貴族院の対立を煽っては、勝ち馬に乗ろうとしていると言うのが一般の見方だ。
最後に貴族院。各地の貴族が合議制で語り合う場であるが、五大貴族筆頭として君臨していたロス家が消えたことで内部は大きく荒れている。特に王の任命権を持つ選定侯、五大貴族の対立関係が深刻なのだ。
元はロス家についていた二家、ダグラスとベルナールは第一王位継承者のエリーゼ姫を時期王にと指名している。だが、モラン家とアヴェーヌ家、特に野心家である現モラン公爵は第三王位継承者である自分こそが次の王に相応しいと主張していた。
国力こそあるが故に問題はまだ表層化していないが、上層部がこのような有様なのだ。更に国は荒れていくだろう、と目端の利く者ならば直ぐに分かる。率先して、関わりたいような状況ではなかった。
「グノーメ、オンディーナ、ホォロンユエン、シルフィード。星の触覚たる彼女らの血筋なら、リュウフワやルゥセーブルを或いは凌ぐ程の価値がある。貴女の血は、尊ぶべきものなのよ」
だが遺跡を調べるためには、特別な血族が必要となる。理想を言えば王族か、ロス家かモラン家の血族。とは言えどちらも嵐の只中にあるのだから、火中の栗を拾うようなリスクがある。
だから王家以外の血族を。人の為に残された遺跡群へと立ち入るのに、星の触覚に連なる血ではやや不適格ではあるだろう。それでも直系王族に期待が出来ない以上は、製作者である四の血筋に連なるルシャの士族は貴重な存在だった。
「ギブアンドテイク。私に付いてくれば、色々と教えてあげるわ。中央で生きるコツだとか、考古学の基本だとか、遺跡の調べ方だとか」
故に必要ならば、己の知識を分け与えることも良しとする。故に必要ならば、人ひとりを養うことなど些細な出費だ。
ディアナは確信を抱いている。否、これは既知の事象である。このネコビトは、己に頼るしかない。このまま死ぬか、この手を取るか。彼女に選択肢は存在しない。
見上げたミュシャにも分かっていた。栄養不足で上手く回らぬ思考の中でも、これが最後に残った蜘蛛の糸なのだと。これを逃せば彼女には、無残な屍を晒す未来しか存在しない。
だが、それでも思ってしまうのは、余りに都合が良い話だからか。此処に至るまでの数週間で、ミュシャは人の悪意と言うものを嫌と言う程に味わった。
だからその手を取ったとして、また手酷い裏切りを受けるのではないか。そもそも生き延びたとして、己に何が出来るというのか。だから躊躇ってしまう。
だが、それでも思ってしまうのは、この生き地獄のような苦痛がまだ続くのかと言う話。帰る場所を失って、ミュシャは人の悪意に晒され続けて来た。
だからこの場を生き延びたとして、それで幸福に成れるのだと何故に信じられようか。此処で塵の一つとなるのが、己にとっては幸いなのではなかろうか。だから躊躇ってしまうのだ。
「ああ、そう言えば知っているかしら?」
そんな少女の内心を、あらかじめ知っていた女は唇を湿らせる。そうして笑みを作り直して、一つの呪いを口にした。
「ルシャの士族が生まれた地。シャーテリエの森深くにあるカシェテーレの遺跡には、大いなる力が眠っているらしいわよ」
ディアナは知っていた。彼女は少女の身に起きた出来事を、そして何といえばこのネコビトが望む通りに動くのかと言う事も。
だからディアナは、一つの布石を此処に打つ。北の地で起きた事象から、この少女はきっと――力を欲しているのだと知っていたから。
何もかもを解決してくれるような、そんな都合の良い力を。誰も彼もを救える、そんなありもしない答えを。だから少し誘導してやれば、きっと彼女は食らい付く。
「大いなる、力? それって、どんな……」
「ふふ、興味が湧いたみたいね」
シャーテリエの森は、グノーメの血族が生まれ育つ隠れ里がある場所の名だ。カシェテーレの遺跡も、その直ぐ近くにある樹海遺跡のことである。
ミュシャはこれらを、とても良く知っている。生まれ育った場所なのだ。いつか成人した時には、管理を任されることになっていた遺跡なのだから。
その存在を知らない訳がなく、しかし大いなる力など聞いたこともなかった。だが、女は己の知らない己のことを知っていた。ならば、もしかしたら本当に、そんなものがあるのかもしれない、と。
「物や形は、分からないわ。ただ――」
「ただ?」
「それは死者さえも、蘇らせることが出来るのだとか」
「――っ!」
もしも本当に、死者さえも蘇らせる程の力があるなら。それはきっと、皆を救う唯一無二の手段となる。
追い詰められて、疲れ切っていた少女はそう信じた。そう縋るしかない程に、彼女には希望がなかったから。
「……教えて、ください」
だから、ミュシャは頭を下げる。痩せこけた体で立ち上がり、それだけで転びそうになって、そのまま土下座のような形へと。心の底から、全身全霊で頼み込む。
「ええ、勿論。ただ、その前に――」
女は何を言う気なのだろうか。顔を上げたミュシャの瞳に映るのは、深窓の令嬢を思わせる優雅な微笑み。
そうしてディアナは、その綺麗な手で少女の手を優しく包み込む。泥や汚物に塗れて、汚れてしまったミュシャの手を。
「お腹が空いているでしょう? まずは食事にするとしましょう」
優しく掴んだ掌を、ディアナは両手で引き上げる。釣られるように立ち上がったミュシャは、しかし足に力が入らず転び掛けた。
そんな少女の体を、女は己の体で受け止める。汚れ切って浮浪者然とした少女に嫌な顔一つせず、優しく包み込むように抱き留めるのだ。
「あらあら」
疲れ切った少女にとって、これは久方振りの慈愛。懐かしいと感じてしまう程、もう遠くなってしまった感情。
思わず溢れてしまいそうになる程に、ミュシャの心は揺り動かされる。一度決壊してしまえば、もう止まらなかった。
――例えそれが、愛玩動物に向けるような情であったとしても。
「ふふ、疲れちゃったのね。けど、もう大丈夫」
そうしてミュシャは、ディアナと言う女と共に行くことになる。考古学者の弟子として、彼女と共に過ごした時は2年に過ぎない。
「これからは一緒よ。可愛い猫ちゃん」
赤いリップが耳元で嗤う。本当は気付いていた、それでいて気付かない振りをした。それはとても大切な記憶だから。
彼女は有名だ。ディアナ・プロセルピナと言う女の名は良くも悪くも知られていて、少し調べればその正体には気付けていたから。
善意だけではないと分かっていた。悪意だけではないと信じたかった。だから今も大切で、離れ離れになった後も時折こうして夢に見る。とてもとても、大切な思い出だった。
◇聖王歴1339年風ノ月5ノ日
「夢」
ふと目が覚める。思っていたよりも、疲れていたのだろう。新緑の香りがする森の中に張られたテントの中で、気付けば熟睡してしまっていた。
魔物の巣食う森深く、何時襲われてもおかしくはない場所。魔性の類を遠ざける香や道具も存在するが、それらも完全無欠と言う訳ではない。一人旅なら尚の事、寝ずの番が必要である。
結界の類で防げない類の魔物も居れば、悪意を有する野盗の類も居るからだ。隙を晒せば身包みを剥がされ何もかもを奪われよう。この時代に旅をすると言うのは、そう簡単な事ではないのだ。
ミュシャはディアナと言う女に、そうした生き方を学んできた。魔物の脅威や人の悪意への対処法。旅路に必要な道具類から、効率的な使い方なども教わっていた。
テントの回りに撒かれた魔物除けの作り方も教わったし、収納の魔術が掛かった小さな鞄も貰っている。本当に沢山の事を、ミュシャはディアナと言う師から受け取ったのだ。
「結局、私は先生に、何か返せたのかな」
けれど沢山のことを教えて貰って、その分だけの恩を返せたのか。問えば答えは、きっと否となるだろう。
確かに幾つか遺跡の扉を開く鍵代わりにはなってみせたが、その程度では返し切れない程の恩を貰っている。
(先生は、良い教師だった。……旦那さんの惚気話になると、日の出から日の入りまでエンドレスで話し続けるのがきつかったけど)
本当は、もっと一緒に居たかった。何時までもあの人の後を追い掛けて、もっと色々なことを教えて貰いたかった。
全てを失って、諦めの中で生きていたあの日。出会って以降に手にした時間は、確かに幸せだったと思える優しい時間であった。
けれど、帰って来いと言われたのだ。もう中央にいる必要はないと、そう言われてしまえばミュシャに自由はない。
その時のミュシャには抗う力がなくて、自由を得る為にもこの地に戻って来る必要があった。だからこの地に舞い戻り、それが失敗だった。
呼び出されて、利用されている内に隙を突いてカシェテーレ遺跡に入ろうと考えていた。しかし彼の不死者は既に、ミュシャを不要と断じていたのだ。
故に森に立ち入った瞬間に襲われて、遠く離れた地より聞こえてくるのは呵々大笑。もう無理かと諦め掛けて、ごめんなさいと皆に詫びて、しかし運命とは皮肉な物。最後の最後を前にして、女に一つの出会いを与えてくれた。
「……大丈夫。今度は、失敗しない。今の私には、この子が居る」
寝袋に包まって、寝ている美しい少年を見る。少女にしか見えない整った容姿の子どもは、しかしミュシャが知る他の何よりも強大な力を有する存在だ。
こうして危険地帯で隙を晒して居られるのも、彼が此処に居るだけで魔性の類が逃げ惑って遠ざかるからなのだ。まるで無人の野を行くが如く、進み続ける事が出来る。
最初の晩は少し警戒していたが、二日目の晩にはミュシャの心にも余裕が出来た。警戒するだけ損であるのだと、一度思ってしまったが故に熟睡してしまったのだ。
師が知れば、呆れるだろうか笑うだろうか。どうあれ危険はもう殆どない。危険な森の奥深くに野盗の類が出て来る事は先ずないし、現れたとしてもこの少年が動けば終わる。
あの恐ろしい賢者の使いですら、恐れて逃げ出す力は正しく規格外。唯腕を軽く振るうだけでも、人も魔物も怯えて逃げ去って行くだろう。正に、絶対なる力と言えよう。
「こうして見ると、可愛らしいだけなんだけどなー」
ツンツンと指の腹で頬を突けば、むずがるように寝返りを打って遠ざかろうとする。そんな姿が微笑ましくて、だからミュシャは少しだけ気持ちが暗くなる。
幾ら力があるとは言え、この子は小さな子どもである。そんな相手を身勝手に利用している、己自身の浅ましさ。それでも手段は選べないのだと、震えるその手を握り締めた。
「ミミ」
大気に溶けてしまいそうな小ささで、懐かしい名前を呟く。もう笑えなくなってしまった妹の姿が、どうしようもなく重なってしまう。
一度そう思えば、駄目だった。まだ三日。それだけの時間しか一緒に居ないのに、こうして情が湧いている。それが分かって、それでもミュシャに自由はない。
「ごめんね。私は、君を利用する」
握り締めていた手を解いて、寝ている子の髪を撫でる。けれど頑なな拳は解けても、頑なな想いは解けない。寧ろ思い出す度に、強く重くなっていく。
大丈夫。この子の力さえあれば、己を縛る死人の王とて敵ではない。だから、そうとも。この子と共に居れば、大いなる力が手に入る。その力を以ってして、妹を、家族を救うのだ。それだけが、ミュシャに残った最後の希望。
「今度こそ、今度こそ、失敗は出来ない。絶対に手に入れる」
カシェテーレ遺跡に眠る力によって、己は幸福を取り戻す。そうとも、きっと手段はある筈なのだ。そうでなければ、余りに世界はバランスが悪い。
答えは何処かに必ずある。明確な真実は常に一つだけ存在していて、普段は探しても見付からないだけ。心の底からミュシャ・ルシャは、世界がそういうものだと信じている。だから――
「全部終わったら、その時は――」
夢に見る。また皆で一緒に過ごせるようになる時を。故郷を救ったその後は、また先生に弟子入りして大陸中を回るのも良いかもしれない。そんな夢を、あの日の夢を見たからだろうか。
「君も一緒に、私と来る?」
全部終わった後ならば、こうして寝ている迷子の少年に手を伸ばしても、良いかもしれないと思った。
あの日に先生が己を救ってくれたように、今度は自分がこの小さな子供の手を握る。全部終わった後ならば、それも良いかと思えたのだ。
「なーんて、ね」
けれどそれは、まだ先の話。捕らぬ狸の皮算用など、している余裕は少女にはない。
そんなミュシャは小さく笑って、無防備に眠り続ける少年の銀糸を思わせる髪を梳く。
いや、無防備なのは果たしてどちらか。少女に見える見た目とは言え、相手は列記とした異性。
それも高位の魔物ともなれば、女の尊厳を踏み躙るための機能はしっかりと備わっているであろう。
そんな相手と一つ屋根の下、互いに無防備な寝顔を晒す。そうした行動に違和感さえ覚えなかったのは、一体何故であるのか。
共に行動を始めてまだ三日。相手を深く知っているという訳ではないが、それでも大丈夫だと思えてしまった。その理由はきっと――
「ん」
暫くミュシャが髪を撫で続けていると、流石に触れる指の感触に気付いたのか、ヒビキはゆっくりと瞼を開く。
むくりと起き上がった少年の眼はとろんとしてまだ眠そうで、ミュシャはそんな姿に苦笑を漏らしながら口を開いた。
「おはよう、ヒビキ」
「ん、おは、よう」
おはよう、とそんな当たり前の挨拶を交わす。少女の胸が不思議と踊るのは、師と別れて以来の真っ当なやり取りだからか。
いけないいけないと、ミュシャは自省して立ち上がる。全てが終わった後なら兎も角、今はまだこれ以上はいけない。心が折れてしまうから。
「もう少ししたら、出発するよ。ささっと支度してね」
「……40秒で?」
「にゃはは、何それ。そんなに急がなくても大丈夫よ」
寝惚けるヒビキに言い残して、ミュシャはテントの外に出る。普段着で横になっていたから体は硬いが、しっかり寝たので頭は実にスッキリしていた。そんな女に数分遅れて、テントから出て来た少年が言う。
「準備、出来た」
「ヒビキ! って、服が前後反対じゃない!」
「ん?」
「ほら、こっち来て」
寝巻に着替えた訳でもないのに、一体どうして服が前後逆になっているのか。意味が分からないと嘆息しながら、ミュシャはヒビキの下へ。傍目に見ても、親愛の情を感じる光景。どうにも踏み込み過ぎていると、自覚はどちらにもありはしない。
「さぁ、カシェテーレ遺跡に出発にゃー!」
「おー」
女はその胸中に一物を抱えて、それでも親愛の情に疑いの余地はなく。故にヒビキも素直な思いを彼女に返して、そんな彼らは同じ道を歩いて行く。向かうはカシェテーレ、古き時代に作られた先史文明の遺跡である。
【旧版との相違点③】
某第四魔王さんがとある事情で活動していないので、その分黒幕さんの仕事が増えた。
結果、作中でも一・二を争うであろう外道とヒロインが師弟関係になりました。




