第66話
決戦、六武衆③
一体幾度、焼き切られたのか。一体幾度、地に倒れたか。数える余裕など端からなかったが故に、ヒビキにそれは分からない。
唯、彼は諦めなかった。諦めず、真っ直ぐに、無謀であっても、無駄であっても、焼かれる度に傷を癒やし、倒れる度に立ち上がった。だから、なのだろう。彼はその時まで生き延びた。
気付けば火の手が止んでいる。ふらつきながらも立ち上がる少年の前に立つ男は、眼前ではない何処か遠くを見詰めて立ち尽くしていた。
「……逝ったか、子龍」
恐らくは、幾つもの感情が胸の内で渦巻いていたのであろう。炎王は静かに目を伏せて、世を去った臣下の名を舌の上に踊らせた。
敵対者から目を離し、配下を想うその姿。傍から見れば、隙だらけとも言えるだろう。実際攻められれば、彼は容易く対処してみせるのであろうが。
しかしヒビキが立ち止まり、攻めなかった理由はそうではない。先と同じだ。これは突いてはならない隙だと、そう思ったから少年もまた立ち止まっていた。
「忠道、大儀である」
暫し黙祷を捧げてから、炎王は配下の行いにそう言葉を掛けた。それ以外の言葉を口にすれば、それは死者の意思を侮辱するものとなってしまう。だから、彼はそれだけを告げるのだ。
「済まぬな。また、待たせた」
「別に。回復はさせて貰ったから良いよ」
「ふっ、そうか」
炎王が礼を言葉にすれば、太々しいとも感じる態度でヒビキは返す。隙を突くべきではないとは思ったが、その時間を無駄にする気も彼にはなかった。
故に今の一時の間に、自身の体内で一つの魔術を行使していた。限定的な時間の巻き戻し。周囲一体を巻き戻そうとすれば炎王の存在が故に上手くはいかないが、己の内側に限定するならば時間回帰も不可能ではない。
しかし肉体全てを回帰させると折角得た耐性さえも失ってしまうし、肉体の外に僅かでも漏れ出せば炎王の存在故に魔術は破綻してしまう。故に彼は、消費した瘴気のみを回帰させることで間接的に自らの肉体を回復させた。
結果として今のヒビキは、戦闘開始時と同等の魔力量と生命力を取り戻した状態で得た耐性も維持出来ている。
だがこのような回復が出来るのは、これが最後と見て良いだろう。特定事象のみを回帰させる時間回帰には、相応以上の集中力が必要になる。そんな隙を、炎王が軽々しく作ってくれるとは思えぬのだから。
「正直に言おう。お前のことは好ましい。お前の足掻きを、己は気に入っている」
「え?」
攻撃を行っていないとは言え、隙を突いて自らに利するように動いたのは事実。この相手の性格からして、それを責められることはないとは思っていた。
だが、そんな風に言われるとは完全に予想外。構えを崩さずとも目を白黒させるヒビキ。そんな少年の姿に小さく笑ってから、しかし炎王は己の我を抑え込む。
「だが、臣の忠義を前にして、己は示さねばならなくなった。故、これで終わりにするとしよう」
眼前の少年の足掻き。どれ程に追い詰められようと、何処までも追い掛けようと立ち上がる。その事実に好感を抱こうと彼は敵でしかなく、王には余り時間がない。
そしてそれだけではなく、臣下の命が一つ散った。後の世には要らぬ者らとは言え、何の感慨も抱かぬと言えば嘘になる。
ならば、此処で彼に、彼らに、何かを示さねば嘘となろう。
――内外実行・以って我は心の底の真を示す――
故に王は決めたのだ。この少年の足掻きは、此処で終わらせる。その為に、己の矜持を一つ捨てよう。それこそを、散った臣下への手向けとする。
そう。これより為すのは、闘争ではない。これまでの教導でもなく、一方的な蹂躙粉砕。炎王をして嫌いな手口だと言わしめる、姑息や悪質と言える類の技だ。
――唵、迦楼羅蘇婆訶――
「させ、るかっ!」
神威法は第四階梯、真威解放。それも先に見た焔の世界ではなく、それとは異なる新たな力。炎王がこのような前言を口にしてまで用いる力だ。どう考えても全うなものではない。
そう判断したヒビキは即座に大地を蹴って、敵に向かって飛翔する。止められる自信なんてない。阻めない理屈の方が多く浮かぶ。だとしても、その発動を黙って見届ける訳にはいかなかったのだ。
――降魔除病延命守護。祈雨止風日和乞。天龍八部が護法を此処に――
飛び出して、飛び掛かって、拳を振るう。その一撃はしかし、やはり片手で容易く受け止められる。星すら砕く破壊の力が、たった一人の修羅を砕けない。
視線が合う。反撃を恐れて冷や汗を掻くヒビキの予想に反して、炎王はしかし掴んだ片手を払うように振るうだけ。嵐に吹かれる紙屑のように、吹き飛ばされる少年の身に追撃はない。
――光輝に満ちた鳥の王。千の竜を喰らう神の翼よ――
そんなもの、必要ないのだ。この詠唱が完了すれば、その時点で勝敗は決する。ヒビキ・タツミヤ=アジ・ダハーカは何一つ抵抗出来ずに、敗北すると決まっているのだから。
――神々の王さえ恐れる力以て、汝は一切悪を清め払う。ならば同じ翼持つ我に、為せぬ道理は一切なし――
そう。炎王にはもう分かっている。この真威、意図したものではない。だが、何の因果か偶然か、ヒビキに対する特攻と成っていた。
最初から分かっていたのだ。この力を使えば終わると。ヒビキが何をしようと何を思おうと、一切知らぬと踏み躙れると。そんな力が、王にはあった。
――不浄なるもの。悪しき思考。世の大悪が一切を、迦楼羅炎以て我は制さん――
その力を最初から使わなかったのは、単純にそれが彼の美観に合わぬから。少年の足掻きを前に、その在り様を快いと思っていたから。
だから、炎王は臣下の一人を失った。故にその拘りは此処に捨てよう。早急に、確実に、この抗いを終わらせよう。此処に、一つの真威が発動した。
――真威・解放――
「三毒折伏・迦楼羅天」
詠唱の終了。それとほぼ同じタイミングで、炎王を中心に不可視の力場が展開される。飲まれた、とヒビキが感じたのは一瞬だけ。
そして変化は、微々たるものだ。何かが変わったと分かるのに、それが何かは分からない。ただ、明確な変化が一つだけ。炎王の背に、後光があった。
火炎後光、或いは迦楼羅炎と呼ばれるもの。それを背負った炎王が大地を蹴る。蹴ったとヒビキが理解したのは、眼前に迫る拳を認識した後だった。
「く――っ! 早いっ! けど、そんなのは分かって、――っ!?」
そして、更なる異常はその時に。認識したから防ごうと腕を動かそうとした筈なのに、その脅威から逃れようと足を動かそうとした筈なのに。
両腕が鉛のように動かない。両足がまるで地に生えた木に成ってしまったかのようだ。或いは神経を切断された感覚と言っても良いかもしれない。兎角、事実は一つだけ。
(体が、動か、ないっ!?)
ヒビキの意思で、ヒビキの体が動かない。故に当然の結果として、ヒビキはその拳を無防備に受けてしまう。
加減はされていたのだろうが、それでも耐えられるようなものではない一撃。それを受けた頭部は半壊し、中身が地面に零れていく。
大地に崩れ落ちた彼の体は、それでもまだ瘴気に満ちている。故にこの程度の欠損ならば、直ぐに癒せる筈だった。なのに――
(傷が、治ら、ないっ!? 瘴気は、さっき回復させたのにっ!!)
再生が行えない。魔物として有する最低限の自己回復力以外が、この真威によって封印されてしまっている。
故に自己回復は最低限。ゆっくりと塞がる傷口は、先までのそれと比すれば天と地だ。その事実に、ヒビキは戦慄する。
(権能も、使えない! だから、元から術式を覚えてなかった今の僕には、傷を治療する為に、どんな魔術を、どんな風に使えば良いのか、それが全く分からない!)
そして、それだけでもない。治療の魔術も時間回帰の魔術も、その術式が思い出せない。竜の権能が、機能を停止していた。
血が足りないだけではない理由で、少年の顔は青褪める。理解してしまったのだ。炎王が用いたこの真威。その余りの悪辣さを。
「内外実行の真威とは、自他に法則を強制するもの」
大地に両手を付いたまま、真面に動かぬ顔を青褪めさせているヒビキ。彼にゆっくりと近付く炎王は、その無情な事実を示す。
「質量を持つ物体同士が引き合うように、エネルギーの総量は形を変えても常に一定に保たれるように、大前提となる決まり事を術者と対象の双方に強いる」
木になった林檎が地に落ちるように、干上がった水が雨となって降り注ぐように、当然とある物理法則。
内外実行の真威とは現行世界を改竄し、その規模の物理法則を追加すると言うものだ。
物理法則であるが故に、影響を受けるのは相手だけではない。法則によっては自滅も在り得る代物だ。
だがだからこそ、自滅のリスクが縛りと成って強度が増す。このタイプの真威は条件さえ満たしたならば、神さえ抗えぬものなのだ。
「己の法は、単純よ。竜とは鳥の糧である。そうであるが故、竜であるお前は己に対し何も出来ない。無防備に立ち尽くし、唯己の拳を受けること。それだけが、今のお前に許された行為の全てだ」
三毒折伏する迦楼羅天。炎王が用いた真威の効果は、自他に鳥と竜と言う役割を強制するもの。より鳥に近い側が、より竜に近い側を一方的に屈服させると言う能力だ。
竜とは鳥の糧である。その法則がある限り、竜は鳥が許した行為以外を行えない。傷を癒すことも叶わなければ、体を動かすことさえ許されない。逃走なんて不可能で、闘争なんて論外だった。
「何だよ、それ。反則にも、程がある、だろ」
立ち上がることさえも許されぬ少年は、地に崩れたまま悔し気に見上げる。それは、もう分かり切っていたから。今、自分が生きていられることすら、彼の慈悲によるものなのだと。
「それが事実なら、貴方は、想像するだけで僕を殺せる。僕に瘴気の利用を、許さなければ良い。それだけで、僕はもう死んでいた。傷の治療、って話じゃない。人間にとっての生命力が、魔物にとっての瘴気。だから、利用を禁じられれば、それだけで生きてられなくなる」
「そうだな。己は何時でも、お前の命を終わらせられる」
見上げる瞳を見下ろし告げる。魔王や大魔獣と言う常識離れした存在は、瘴気の有無によってその破綻を誤魔化している。在り得ぬその生態は、負の想念によって支えられたものである。
その事実は悪竜王とて変わらない。彼の内には人としての生命力も確かにあるが、悪竜の力を有する肉体を支える程の量はないのだ。故に体内の瘴気を使えなくなれば、結果は哀れな餓死と成る。
「だが、このような手は好まぬ。それは今も変わらん。矜持を一つ歪めはしたが、全てを捨てた訳ではないのでな。お前は殺さん。唯、その心のみを圧し折ろう。もう、お前に出来ることは何もない。疾く倒れるが良い。悪竜王」
(ああ、そうだ。僕に出来ることはもう何もない。平伏して、屈服する以外の全てを禁じられたから。立ち上がることさえ、もう許されないから)
静かに立つ王を前に、ヒビキの瞳に涙が浮かぶ。心が悲鳴を上げている。理性が既に諦めている。死ぬ訳ではないのだから、もうこれで良いだろう。もう十分に頑張っただろうと。
ヒビキのような弱い奴が、此処まで足掻けたことこそ奇跡のようなもの。もう勝機なんてないのだから、そう割り切って認めよう。寧ろ誇っても良いくらいではないか。そんな思考が、胸を満たす。
(……本当に?)
けれど、それで良いのかと己に問うた。
(本当に、もう何も出来ないんだろうか?)
もう何もないのか。もう全部出し切ったのか。もう諦めてしまうのか。
(いいや、違う)
まだだ。まだ、全てを出し切ってなどいない。まだ、満足なんてしていない。ならばそう。もう一度、立ち上がろう。少年は瞳を閉じて、開く。その黒い瞳で、炎王を再び見上げた。
「ほう」
黒い髪が、風に揺れる。流れる血で視界の半分を染めながら、震える手足で立ち上がる。痛みを感じない割れた頭蓋を片手で抑えながら、ヒビキは残る瞳で炎王を見るのだ。まだ、見上げるしかないその王を。
「竜が、鳥に勝てない、なら、竜じゃ、なくなれば、良い」
「成程、然りだ。お前の力は確かに竜だが、お前自身はまだ竜ではない。故、悪竜の因子を眠らせれば、己の法則から逃れることも可能ではある」
覚悟を決めた少年の姿は、何処までも普通の人間だった。竜の因子を自らの意思で眠らせて、人の形骸へと戻った姿。誰もが息を飲む美貌を凄惨に歪めた少年は、それでも己の足で立っていたのだ。
「だがな。今のお前の行為は自殺と同義だ。人はその傷では生きられんぞ?」
黒髪黒目の少年は、悪竜王でなくなることで炎王の真威の対象ではなくなった。故に立ち上がることが可能になった彼は、しかし故にこそ既に詰みの一歩手前だ。
人は頭蓋が砕けて中身が零れた状態で、生きていることなど出来ぬのだから。悪竜の因子を眠らせた時点で、先の傷は致命傷と変わった。今のヒビキは、何時死んでもおかしくない状態だった。
「ああ、だけど、僕にだって、出来る筈なんだ」
荒い息で告げる。遠退く意識を保つ為、片足の腿に爪を立てる。血が滲む程に強く強く、それで如何にか己を保つ。そんな少年は、きっと出来る筈だと口にする。
「他の魔術師は、権能なんて持ってない。それに比べたら、何だ! 僕は、何度も何度も、使ってきた筈だろうっ!」
治療に使える魔術。その術式を、完全には覚えていない。当然だ。息をするように出来たこと。誰もが普段は呼吸の仕方など考えることもないように、魔術の使い方なんて全くと言って良い程に覚えていない。
それでも、理論上は出来る筈なのだ。人は一度見た物を忘れることはなく、唯思い出せなくなるだけだと言う。ならば幾度も幾度もその魔術を用いたヒビキには、思い出すことも不可能ではない筈なのだ。
「他の誰かが作った物だとしてもっ! ズルしてそれを盗んでいただけだとしてもっ! 僕はその魔術を、何度も何度も使った筈だ! なら、悪竜じゃないからって、そんなの使えなくても良い理由にならないっ!!」
そうとも、ずっとズルをしてきた。誰かが積み重ねた物を勝手に盗んで、好き放題に使っていた。
その事実を前に、だからどうしたと鼻で笑って胸を張るなら、せめて掌握して自分の物にしなくては嘘だろう。
出来ないなんて理屈は知らない。思い出せないなんて弱さは要らない。無様でも良い。不格好でも構わない。周囲には、体内には、まだ瘴気が残っている。これを生命力と混ぜて魔力に変えて、術式を思い出して行使する。
その程度出来なくて、どうして眼前の王を追い掛けることが許されようか。
「穏やかなる水の流れ。爽やかなる風の歌。山から下りて海へと帰る。海から昇りて山へと落ちる。其は瞭然たる平穏。其は凡庸なる道理。故に否定し、入れ替えろ。明日に続く昨日を此処に。我が意に従い、世界よ変われ。発動――身勝手な時空改竄!」
第九小節魔術。人一人の傷を癒す為に使うには、明らかに過剰な魔術であった。竜の権能が機能していれば、もっと都合の良い魔術なんて幾らでも見付けられたであろう。
だが、彼が思い出せた術式はこれだけ。だから過剰と分かっていながら、ヒビキはその術式を行使する。
ビデオを逆再生するかのように治っていくヒビキの姿に、炎王は動かない。それは慈悲が故、ではない。
「がっ! ぎぃっ!?」
「人であるならば、身に過ぎた瘴気を宿せば、堕落するのもまた道理」
第九小節魔術が起こす心と体と魂への汚染。それを制するだけの技術を、ヒビキと言う少年は有していないから。傷を治す際に発生した瘴気が、彼自身を追い詰める。
悪竜の因子が眠る今、堕落を果たすと如何なる魔物に堕ちるのか。異様に膨れ上がった頭部を必死に直そうと足掻いている少年を見て、ふとそんな場違いな疑問を抱く。その疑問への答えは、しかし返ることはなかった。
「げぇ、はぁ、はぁ……」
一瞬だけ竜の因子を起こして、そちらに汚染を押し付ける。そして再び真威の対象となる前に、竜の因子を眠らせて人に戻る。
唯それだけの行動で、既にヒビキの心身は限界寸前。今にも吐き出しそうな表情で、それでもヒビキは前を見た。
「だが、それでもお前は、立ち上がるのか」
「当、然っっ!!」
炎王の問い掛けに、返すは力強い言葉。何が出来た訳でもない。何が出来る訳でもない。何も出来ないまま、唯吠える。それは情けない負け犬の理屈。
されど吠えることさえ出来ない奴よりは、遥かにマシなことだから。言葉だけは力強く、威勢だけは意地で保つ。
「分かっている筈だ。時間の問題でしかないと」
そう。まだ何かが出来た訳ではない。ヒビキはまだ、死ななかっただけなのだ。必死に足掻いて、それしか出来ていない。そしてそれすら、そう遠くない未来に出来なくなる。
「まだ、お前自身は竜と認定されていない。だが、竜とは鳥に負けるモノ。故、追い詰められれば追い詰められる程、この法はお前を竜と認定する」
三毒折伏する迦楼羅天は本来発動後に、彼我の言動行動からどちらにどの役を与えるのか決定する。先の発動直後に成立した理由は、見るからにヒビキが竜であったからに他ならない。
どちらが竜か、どちらが鳥か、分からぬ今は停止している。だが時間が経過すれば、自然と明らかになるだろう。どちらが強いのかは既に明白なのだ。
竜は鳥に食われるならば、弱者は竜と言う式が成り立つ。炎王に負け続けることで、悪竜王ではない人のヒビキもまた竜の認定を受けるであろう。
「気付いている筈だ。無駄な足掻きにしかならないと」
そう。もう何も出来はしない。この真威が発現した時点で、何を為そうと唯の時間稼ぎにしかならない。ヒビキに勝ちの目など、何一つとしてありはしないのだ。
「人の身で魔術を修め、己に抗った所で届きはしない。最期の時を、引き伸ばす結果にしかならんのだと」
「ああ、分かってるよ。貴方の真威がまた効果を発揮するのが早いのか。僕の身が、僕の魂が、瘴気の汚染に耐えられなくなるのが早いのか。結局の所、今に見えている未来はその二つだけ」
そうとも、言われなくても分かっている。この足掻きが無駄でしかないと。何も出来ない。何も出来ていない。そんなヒビキには、言われなくても分かっていた。
「だけど、さぁっ! 分かってたんだよ、最初から! 貴方には勝てないって! だけど、それでも僕は勝ちたいって、言ってんだよっ!!」
だけどそう。そんな理屈など今更だ。最初から分かっていたとも、炎王はヒビキの遥か先に居る。
先の邂逅では全力の一端さえ引き出せなかった彼に対し、勝機なんて欠片もないとは知っていた。
知っていて、だから先は逃げたのだ。分かっていて、だからもう逃げたくはないと此処に来たのだ。
負けるのは良い。勝てないのは良い。でも、勝ちたい。そう思う、自分からは逃げたくない。だから全力を振り絞って、最後の時まで前を見たまま足掻くのだ。
「だから、僕は今、此処に居る! こんな理屈で折れるなら、最初から僕は、こんな所に来ていないっっっ!!」
「そうか」
人の身で、一歩を踏み出す。見て学び、教わった通りに拳を握る。微弱な生命力を戦うと言う意思で闘気と変えて、降り抜き放つは央座玉雀。
その拳は、当然の如く受け止められる。腰を大きく落として、片手で受けた炎王の姿は先の焼き直し。だがその実態は、先より遥かに劣っているもの。
当然だろう。先には竜の膂力があった。今はそれがない。小学生の女児にも劣る腕力で、ならば幾ら闘気で強化しようと大した威力にはならない筈だ。
「だが、己の決定は変わらん。故、精々恨め。その矜持、この手で打ち砕いてやろう」
受け止めた手に、痺れはない。地面は揺れぬし、雲は晴れない。だが、何故だろうか。炎王には、先より重く感じられた。
だから軽く払う動作で転がし、倒れた相手を見下ろす瞳に油断はない。確実に潰す。その心を折る。そうして、炎王は動き出す。
(まだ、あの人には、僕を殺す心算はない。なら、まだ抗える。なら、まだ足掻いてみせろよっ! ヒビキっ!!)
急激に増す圧力。その存在感だけで呼吸困難となりながら、それでも己を鼓舞して立ち上がる。
まだ負けない。負けたくないと負け犬のように吠えながら、立ち上がった少年は大地を駆ける。
唯前へ、唯前へ。理屈は知らない。勝機も要らない。唯、挑む為に、乗り越える為に、少年は必死に駆け続けた。
◇
右足に刻まれた魔術を発動。隆起する大地を波に見立て、その波濤に乗るが如くに移動する。瞬く間に間合いの内へ、踏み込むと同時に拳を振るう。
その鋭さは流石の一言。英雄級と言う呼び名は過言ではなく、されど敵も英雄級。凶狼が放つ拳の軌道を読み切って、当たる前には既に刃を置いている。
互いに強化された拳と武具。闘気の量はほぼ同量であれば、素の性能差が明暗を分かつ。肉の拳は鋼に打ち勝つことは出来ず、ならば斬られることこそ必定か。
「はぁっ、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
いいや、否。振り抜いた拳に纏わせた焔の魔術が、彼我の性能差を埋める。高熱が鋼の刃を一瞬溶かして鈍らに、拳と鈍器がぶつかり合えば高音と共に両者の体は後退する。
弾かれるように距離を取ったデュランは、静かに己の剣を見詰める。そして刀身の強化を解くと、もう片方の手に持った刃で自らその刃を砕いてみせた。
そして一振り。無言のままに砕けた側の刃を振るう。まるでカメラ映像を早回しにしたかの速度で、液体金属を思わせる何かが刀身を覆い、元の鋭い剣へと戻っていく。
(ちっ、武器の破壊は出来ねぇか)
内心で舌打ちをしてから、リアムは再び大地を蹴る。今度は空中で左足の魔術刻印を発動し、強風によって己の体を前進させる。
上からの襲撃に、対処するのは難しいものだ。リアム自身も多少は動きを制限されるが、それを補って十分な程には上を取るとは重要なこと。
だがその程度、英雄級ならば出来て当然。頭上から落ちて来るリアムが放つ頭部狙いの回し蹴りを、目で見るのではなく風で感じ取ったデュランは数歩退く。それだけで、男の一撃は躱された。
そして、着地する。その瞬間に生じた明確な隙に、しかしデュランは動かない。離れ過ぎぬ程度に距離を取り、リアムの動きを待つだけだった。
「はっ、どうしたどうした、十三使徒! へっぴり腰で、誘ってんのかぁっ!」
着地の瞬間の隙は僅かなもの。多少の手傷を負うであろうが、致命傷となる前にリアムならば反応出来る。
それを察していたから、デュランは無理に攻めようとはしなかった――と言う訳ではない。
そのリスクが分かっていなかった訳ではないが、重要なのは其処ではないのだ。デュラン・カルリエ=ラ・モールには、無理に攻める理由がない。唯時間を掛ければ、それだけでリアムの側は詰むのだから。
「所詮は身内殺しの糞野郎。背中を向けてる仲間以外は切れねぇってのかよぉっ!」
「……」
挑発の言葉にも無反応。もう一度内心で舌打ちをしたリアムは、止むを得ずに自ら仕掛ける。攻め続けなければ負けるのだと、彼自身にも分かっていたのだから。
(ちっ、挑発には乗らねぇってか。嫌になる程に冷静な野郎だ。時間を掛ければ、勝手にこっちが潰れると分かってやがる)
リアムがデュランに与えたダメージは、血反吐を吐く程の威力の掌底。軽いダメージではないが、しかし致命と言える程ではない傷だけだ。
対するリアムは自らの身に纏う炎によって、常に自傷ダメージを受け続けている。天秤は既にひっくり返るか、その一歩手前と言う所であろう。
(しかし実際、どうしたもんかね。炎を纏ったままだと先にこっちが潰れるが、それを止めれば毒の血を防げねぇ。と、なるとだ)
さりとて、この炎を止める訳にもいかない。デュランの持つ技の中で、リアムが最も恐れているのは毒血の刃だ。
掠っただけでも致命傷に成り得るそれを、掠りもせずに防ぐ手段をリアムは持たない。故に死神の刃を使われれば、その時点で敗北は確定と言えた。
そんな状況で、更にリアムには攻め手を緩めると言う選択肢もない。敵は忌々しい聖教徒。
肉体の回復は神聖術の得意とする分野であれば、時間を与えてしまえば折角の不意打ちが無駄となるのだ。
「忌々しいが、使うしかねぇわなぁ。この俺の切り札をよぉっ!」
故に選択肢は最早一つ。拳のラッシュを放ちながら、至近距離にてリアムは叫ぶ。此処で切り札を用いる以外に、既に勝機はなかったのだから。
――内功実行・以って我は心威を示す――
眼前の男が詠唱を始めても、対する処刑人は心を一切揺らさない。今も続くラッシュを鋼の刃で受け流しながら、彼が優先するのは己の被害を軽減すること。
一見すれば臆病な戦い方に見えて、その実はリアムが最もされたくはない戦い方。余裕を持って防戦に専念するデュランには、先の一撃以外の有効打が一切ないのだ。
――熊、猪、狼。毛皮を纏い、フュアカトにてヒヨスを飲み干し、我は獣と成りて狂うモノ――
拳を振るい続けるリアムは思う。本来ならばもう一撃か二撃は与えてから、切り札を使いたかった所だと。彼にも分かっていた、己が切り札を使えば相手がどういう動きをするのかと。
――秘薬と共に痛みを忘れ、激しい怒りを吠えたてろ。盾の端を嚙み千切り、出会う全てを喰い殺せ――
リアムとデュランの力は現状互角だ。近接戦での技量はリアムがやや勝り、身体強化に用いられる闘気の量はややデュランが上。どちらも誤差、と言って良い程度の差異。
故にこそ、リアムの心威は大きな意味を持つ。身体能力の超絶強化と再生能力の獲得。自らを焼く火による被害は無視出来るようになり、その圧倒的な能力差で順当に相手を倒せるようになるだろう。
――忘我の果てに、残すは芯深く刻まれた焔の庭。嘗ての傷は、我が焦がれ。我が身焼く炎こそ、今も乞い願う憎悪の憧憬――
ならば当然、デュランはそれを通さない。彼の有する聖典ならば、発動後にリアムの心威を無効化出来る。十三番目の聖典が生み出す領域下において、あらゆる奇跡は奇跡足り得ないのだから。
――我は唯、戦士となりたい。王の敵を討つ、一本の牙であらんと願う。故に強く、弱さを捨てた獣と変われ――
互いに能力を封印された真っ向勝負。されど技術によって作り上げられた鋼は、その領域においても封印されることはない。
魔術刻印によって如何にか埋めている武具の差が、より明白となってしまうのだ。故にこれより先、圧倒的な不利となるのはリアムの側。
されど、それが分かって、他に術はない。ならばその死地、嗤って乗り越えてみせようぞ。修羅の一員に相応しく、リアムは狂笑と共にその力を発動した。
――心威・解放――
「月夜に狂え――狼面狂者」
「聖典顕彰――無価値なる罪人の裁定」
変化は一瞬。コンマ一秒にも満たない差で、狼男と成り掛けたリアムの体は無理矢理に人のそれに戻される。
肉体の治癒は叶わない。自らを焼く火によるダメージは残ったまま、四肢の魔術刻印からは全ての力が消えていた。
「分かってたぜぇ、そう来るってよぉっ!!」
圧倒的な不利。明白なまでの死地。それが分かって、浮かぶ笑みは強がりの類。されどそれがどうしたと、リアムは拳を握り構えを取る。
「異能を使えない世界。それはテメェも同じなんだろ。なら、こっから先は真っ向勝負。殴り合いなら、俺の方が強ぇぇぇぇぇっ!」
「そうだな。だが――」
そして、疾走。闘気による強化も使えない今、その速度は先と比べれば遥かに遅い。それでも鍛え抜かれた亜人であるが故、常人よりも遥かに早い。
人間のトップアスリートと速さを競えば、容易く周回遅れに出来てしまうであろう。腕力速力耐久力。それら全てにおいて、リアムはこの状況下でも敵に勝る。
「殴り合いではなく、拳と剣だ。どちらが有利か、気狂いにも分かるだろう」
「はっ、知らねぇなぁっ! そんな理屈なんざよぉっ!!」
されどそれは、武具の差を超えられる程ではない。鋭い拳を躱されて、返すように振るわれる刃。
前のめりの首を狙う一撃を、リアムは踏み込んだ足を無理に動かし上体を反らすことで如何にか躱す。
そうして体勢の崩れた体に、隙と見たデュランの追撃が続く。高速で振るわれる斬撃の嵐。
目で追えぬ程ではないが故に致命傷は避けられても、完全回避は容易くない。掠り傷からの出血は、何れ無視出来ぬ程になるだろう。
(ちっ、言われなくても分かってんだよ)
手痛い反撃を受けて距離を取ったリアムは、まるで挑発を返すかのように先の自身と同じ動きをするデュランを前に舌打ちする。
前方に跳躍してからの回し斬り。蹴りが刃に変わっただけの攻勢を前に、リアムは更に後退して距離を取る。動く度に刻まれた切り傷からは、血が溢れて滴った。
(殴り合いなら、俺が強い。だから、野郎は武器を手放さねぇ。武器の差がある以上、忌々しいが野郎の方が上だ)
こうなるとは分かっていた。剣道三倍段と言う言葉があるように、無手で剣を攻略するには相応の実力差か余程の奇策が必要となる。
素手の間合いより、鋼の間合いの方が広いのは当然の理屈だ。その刃圏の内側に入り込めれば話は変わるが、それが分かっているからこそ相手は無理攻めだけはして来ない。
先より攻勢に寄ってはいるが、それでも余裕だけは保っているデュラン。余程の奇策を警戒している彼が選ぶのは、徹底した塩試合。
順当に詰めて詰ませていく。そんな相手を前にして、リアムに出来ることなどそう多くはなかった。
(こっちの有利は一つだけ。度肝を抜いた瞬間に打ち込んだ一撃。腹へのそれが、どんだけの負担になってるか。はっ、過度な期待は出来ねぇか。だからこそ、もう一発くらい当てて置きたかったんだがな)
だからこそ、この状況になる前にもう一撃は与えたかった。そう歯噛みしながら刃を躱したリアムは、拳を握って踏み込み放つ。
上体を揺らさず隙を少なく、放たれた拳はしかし身を翻しただけのデュランに防がれる。肩に羽織ったペリースは、鋼の盾より硬かったのだ。
(嫌な予感がする。長引かせれば、負けるのは俺だと。ああ、そうだろうな。ああいうタイプは、どうせ切り札を何枚も隠してやがるんだ。こちとら、これ以上はねぇってのによぉ)
まるで拳が割れたように痛む。或いは本当に、骨に罅が入っているか。脂汗を流しながらもリアムは、振るわれる刃を見落とさずに退き躱す。
下手に攻めても、唯自分のダメージが増えるだけの現状。それでも攻め続ける理由の一つは、敵がまだ切り札を隠していると言う確信があるから。
まず間違いなく、デュランは全ての手札を明かした訳ではない。そして恐らく、伏せた札の中には最悪と言って良い類の切り札が残っている。
勘ではあったが、同時にそうだと確信もしていた。故にリアムは罅の入った右手を再び握り直して、大きく踏み込むと同時にその拳を打ち放った。
「強ぇな、本当に!」
「……」
甲高い音がする。再び肩の盾に防がれて、届かなかった拳が更に痛む。泣き叫びたい程の痛みに耐えながら、更にと踏み込みリアム。
若干押されたデュランはしかし平然と、何処までも冷静さを失わない敵の姿に思わずリアムは感嘆していた。本当に、この男は強いなと。
「だが、聖教徒には負けられねぇんだ。テメェがそういう奴じゃねぇんだとしても、その旗を背負った奴にだけは負けられねぇんだよっ!」
それでも、亜人の内には負けられない理由がある。他の誰に負けるよりも、許せない理由が確かにある。その十字の旗に対して向ける、怒りも憎悪も軽くはない。
故に砕けた拳でそのままに、体重を乗せて相手を押し切る。盾ごと潰してみせると言わんばかりの意地を前にして、然したる拘りのない処刑人はあっさりと退くと距離を取った。
無駄に競い合う必要はない。無駄に感情を見せる必要もない。唯純粋に必要な場所で、必要なことだけをすれば良い。
そんな乾いた思考を揺るがせぬまま、しかし一つだけ男はそこに無駄を混ぜる。
「……一つ、聞かせろ」
「何だよ、急に」
「弔いの花の数だ。何人分が必要だ?」
それが余りに意外過ぎて、リアムは思わず目を丸くした。まさか亜人を塵のように踏み躙る聖教徒が、そんなことを言うのかと。呆気に取られて、苦笑する。存外、悪い気持ちにはならなかった。
「は――っ、今更かよ」
「そうだな。だが、お前が死ねば、弔う者も居なくなろう。ならばその首を貰う対価だ。俺が記憶しておこう」
「必要ねぇよ。そんなもん」
「そうか」
きっとそれは、言葉に悪意がなかったからだろう。亜人を見下すのではなく、単純に犠牲になった者らを案じると言う思考。
善良と言えるその言葉に対し、何で今更と言う思いはある。同時に今更だからか、と言う得心もあって。だから、苦笑をするしか出来なかったのだろう。
そんな男は、故に距離を詰めることなく、そのままの間合いで問い返す。相対する処刑人の姿が、あの悪辣な宗教家たちとは重なることがなかったから。
「こっちからも聞かせろ。お前、何でそんなとこに居んだよ」
「……さて、な」
氷のような非情さが、一瞬砕けて苦笑が漏れる。何故、こんな所に居るのだろう。その言葉に対し、返せるものがなかったからだ。
デュラン・カルリエに他の道はなかった。選べる選択肢は、決して多くなかったのだ。だから気付けば、こんな場所でこんなことばかりしている始末。
「胸を張れる理由はない。だが、背を向ける訳にもいかない。だから、そうだな。言ってしまえば、成り行きか」
「はっ、詰まんねぇ奴」
「自覚はある」
アルビノの男が如何にか返したその言葉を、狼の亜人は鼻で笑う。詰まんねぇ奴だなと言う字面の割には、悪意の情が籠らぬ言い方。互いに思う。何となく、嫌いになれない奴だなと。
「失ってしまった。だから退かない」
「奪って来た。だからこそ退けない」
互いに吐露する言葉は、似ているようでしかし異なる。処刑人は積み上げた屍故に退けぬと語り、狼男はもう失わぬ為に退かぬと語る。そこに在るのは、意識の違いだ。
退けないと言うのは、受動的な在り方だろう。それ以外には選べぬと言う言葉であろう。対して退けぬと言う言葉は、能動的な選択だ。それ以外は選ばぬと言う、矜持を宿した言葉である。
「目指す場所がある。だから負けたくない」
「背負うものがある。だから負けられない」
そうとも、リアムは能動的だ。自分で決めた道だから、この道では負けたくないのだと叫んでいる。
対してデュランは受動的だ。こうするしかないから此処に居て、そうするしかないからそうして居る。
故に彼我に差が生じると言うのならばその一点。勝利に賭ける熱意の差こそが、リアムがデュランに勝る唯一無二の要素と言えよう。
そうとも、デュランは心の何処かで負けても問題がないと考えている。そうとも、リアムは決して負けぬと足掻いているのだ。
「はっ、息苦しいんじゃねぇのか? むっつり野郎」
「そうだな。だが、生きるとはそういうことだろう」
「いいや、違うね。生きるってのはよぉ、唯生きてるだけの状態を言わねぇのよっ!」
故にリアムは疾走し、左の腕を大きく振り抜く。先までの焼き直しにも思える一撃に、返すデュランの選択もまた変わらない。腕の動きを見切って、その先に刃を置くだけだ。
ならば当然、その指先は刃に触れる。リアムの血潮が飛び散る光景に、目を見開いたのはデュランの側。何故と問いに答えが出る前に、リアムは更に踏み込み開いていた手で刃を握り締めた。
更に刃が肉に食い込んで、血の赤色が互いを濡らす。一瞬の迷いの後に、処刑人が予想したのは右手による追撃。その拳に対する為に、自身も左の刃を振るう。
されど結果は予想に反して、リアムが選択したのは右手で自身を守ること。迎撃の為に振られた体重の乗っていない斬撃は、その右腕を切断するには威力が足りない。
右腕の皮膚を斬り、肉を裂いて骨に食い込む。されど其処で止まった刀身を見て硬直したデュランの前で、一つ嗤ったリアムは左手で握っていた刃を強く引く。
押すのではなく、弾くのでもなく、己に向かって左手を引く。その意図は何かと気付くより前に、周囲に響くは肉を裂く音。その剣をリアムは、自らの腹に突き刺したのだ。
「――っ!? 自ら、俺の剣をっ!!」
「は、ははっ! 痛ぇ、痛ぇなぁ、おいっ! 飯を食えなくなったら、どうしてくれんだこらぁっ!」
意味が分からない。訳が分からない。合理的ではない。だからこそ思考を硬直させたデュランに向けて、リアムは血を吐きながら笑って返す。
そうしてそのまま、相手が体勢を立て直す前に右足で前蹴りを。先に掌底で付けられた腸の傷を射抜くような蹴撃に、デュランもまた血を吐きながらに吹き飛ばされる。
「よぉし、よぉし、離したなぁ!」
それでもデュランも然したるものか、蹴りが直撃する直前で自ら武器を手放し離れている。故に受けた一撃は、重症ではあるが致命傷にはまだ届かぬ程度。
腹を片手で抑えて距離を取り、息を整えているその姿。それを見て笑みを深くしたリアムは、己の右手と胴に深々と刺さった二本の剣を引き抜くと地面に投げ捨てた。
「く――っ! 武器狙いかっ! だとしても!?」
「はぁっ、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「肉を切らせて、どころではないっ! 骨を断たせて肉を切るようなものだろう、それではっ!?」
「だからこそ、テメェの裏が取れんだろうがっ! ごちゃごちゃ抜かしてんじゃねぇぞぉぉぉっ!!」
そして血塗れのままに疾走する。リアムの目的は、彼我の差を生み出していた武器を相手から奪うこと。
刃を呼び寄せる機能があっても、この異能を無効化する空間では使えない。故にこその行動は、しかし正当解とは口が裂けても言えないだろう。
何故なら明らかに、リアムの方が負傷の度合いが大きいからだ。多少の優位を得る為だけに、自ら死に掛けるなど正気の沙汰ではない。
損得の勘定が見合っていないのだ。命を賭けるのならば、絶対の勝利を前に賭けるべきであろう。
そう思ってしまうからこそ、デュランにはリアムの行動の予想が出来なかったのだ。
「これで、こっからは殴り合いだ。テメェの剣が特別でも、この空間じゃ戻ってはこねぇんだろ?」
「それが、お前の目的、か。俺の武器を奪う為に、自ら死に掛けるだと? 損得の勘定さえ出来ないのか、狂狼め」
「算術なんざ、知らねぇなぁっ! 合理も常識も何もかもっ! 勝利の前には安いんだよぉっ!!」
正に狂狼。正に狂戦士。明らかに死に瀕しながらも高らかに嗤って、リアムは踏み込み構えた拳を振るう。その動きは素人目には、先と比べて欠片も見劣りしない絶技。
「だから、お前は愚かだと言う」
「ぐ、ぅ――っ!」
「素の技量は貴様の方が上だとしても、半死人に負ける程に俺は未熟じゃない」
「ご、は――っ!」
されど、英雄の域にある者の目から見れば大きく見劣りするものだ。故に当然の如く、防がれ躱され返される。
振った拳を受け流されて、空いた上体に握った拳を返される。その度に血が傷口から噴き出して、リアムの意識は飛びそうになった。
「技量の差で覆すには、自傷のし過ぎだ。その狂気こそ、お前の敗因だよ。リアム・ファミーユ!」
「がぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
拳の殴打。連撃からの流れるような蹴撃。鋭い回し蹴りに吹き飛ばされて、崩れ掛けたリアムは苦悶の声を上げながらも踏み止まる。
リアムとデュランの技量差は、殆ど誤差と言える程度の物。だからこそ、この結果は当然だ。半死人に押し負ける程、デュラン・カルリエは弱くない。
(ああ、やべぇな。こりゃ。体が、上手く動かねぇ。痛ぇと感じる、感覚すら鈍ってきやがった)
大地を赤く染めながら、視界を白く染めながら、傷だらけの獣はそれでも前を見る。敵対者たる処刑人は揺らぎなく、揺るぎなく、止めの追撃を狙って大地を疾走している。
彼我が間合いに入るのはもう間もなく、先の交差で明らかになった差を埋める手段は浮かばない。
となれば当然、結果は敗北。その末路を察する。或いはその結末も、当然かと自嘲する。
(何となく、分かってはいたんだ。俺は弱ぇ。修羅じゃねぇんだ。あいつらみてぇな、特別じゃねぇ。そんな俺が、名を聞くだけで、十三使徒のどいつもこいつもビビるような奴と戦う。そりゃ、負けて当然だわなぁ)
本当はずっと分かっていた。東国六武衆に名を連ねても、肩を並べたと言える程の力を得てはいないのだと。誤解を承知で言えば、リアムは仲間達に憧れていたのだ。
戦う為に作られた修羅達。どれ程に傷付いても立ち続け、勝利を掴み取ろうとするその在り方。リアムが得た月夜に狂う狼面狂者と言う心威すら、その憧れが形に成った力と言えよう。
だからこそ、違いを強く感じている。五番目の席次ですら、過大な評価なのではないかとも思う。そんな男がどうして、他の仲間達でも遅れを取るような強者を相手に勝てると言うのか。
「けど、よぉ」
「――っ! その傷で、まだ動くかっ!?」
「理屈じゃねぇのよっ! こういうことはよぉぉぉぉぉっ!!」
それでも、弱いからと負ける心算は一切ない。勝ち目がないからと、勝ちを諦める程に殊勝ではないのだ。力が足りないと言うのなら、他の何かで埋めれば良い。
追撃の為に放たれたデュランの拳を、体勢を低くしたリアムは額で受けて吠える。額が割れて流れる血が視界に入っても怖気ることなく、そのまま押し込み拳を振るった。
「ぐ――っ!?」
「喧嘩の勝敗ってぇのはぁ、気合の違いで決まるもんだろうがぁっ!」
予想外の反撃を受けて、デュランが一歩蹈鞴を踏む。だが浅い。だが弱い。故に一歩で済んだ後退。その後ろ足に力を込めて、踏み込むと同時にデュランは拳を放つ。その一撃を、リアムは胴で受け止めた。
「喧嘩、だと!? そんな低俗なっ!!」
「殴り合いしか出来ねぇなら、そりゃそうだろ喧嘩だろうがっ!」
痺れる感覚。鈍い痛み。それらを実感するより前に、拳を使って殴り返す。三度の打撃が体に響いていたのか、それとも異なる理由であるのか、デュランは躱すことなくその拳を身に受けた。
「テメェの拳は確かに痛ぇが、それ一発で死ぬようなもんじゃねぇっ! なら――歯を食い縛って喰らい付けば、こうして殴り返すくらいは出来んだよっ!」
「くっ、出鱈目なっ!」
「はっ、だからよぉっ! そういう理屈は、要らねぇって言ってんだろうがっ!!」
其処から始まる、互いに防御と回避を捨てた殴り合い。まるで意地をぶつけ合うように、殴打と殴打を繰り返す。誰がどう見ても、先に倒れるのは亜人の男である筈だった。
「殴り合おうぜ、足を止めてよ。拳を振るって、潰し合おうぜ。喧嘩だ喧嘩だ大喧嘩だ。意思の弱い方が、先にくたばるってだけの話でよぉっ!」
されど、倒れない。いつ崩れ落ちてもおかしくない状態で、それでもリアムは立っている。立って、嗤って、拳を振るうのだ。
「……付き合ってられるか」
果たして幾度の交差の後か、先に意地を捨てるのは当然この男。リアムの熱に釣られていたが、このまま続ける必要はないと彼は気付いた。故にデュランは、大きく後退して距離を取ったのだ。
「真面に動けもしない奴と、何故正面から殴り合う必要がある。放っておけば、お前は死ぬ。なら距離を取って、お前が死ぬまで待てば良い」
「こんのぉ、塩試合野郎がっ!」
「俺は戦士ではない。処刑人だ。これは喧嘩でもなければ、戦闘でもない。お前の処刑でしかないんだよ」
既にリアムは、意地だけで動いている半死人だ。出血量や積み重なったダメージの量は最早誤魔化せず、放置していれば時間の経過で死に至る。
対するデュランには今も伏せる切り札もあり、時間経過で解禁されるそれを含めれば距離を取って待つことこそ最適解。
多少矜持が傷付くが、万が一の可能性を考えれば、これ以上付き合う道理は彼にはなかった。
「が、は――ぁっ! くそ、血が、足りねぇ。目が、霞んできやがった」
敵の様子を観察出来るが、その手は踏み込んでも届かない。その程度の距離を維持しながら、動かぬデュランにリアムは歯噛みする。
足を止めての殴り合いならば、此処からでも勝利してみせる心算はある。されどこうして距離を取られ続けては、勝機など欠片も残らなかった。
「はっ、このままじゃぁ、此処で終わりだな。それが、気に入らねぇって、言うならよぉ。此処で、殻を破らねぇといけねぇ訳だ!」
故に、リアムは最後の賭けに出る。荒れた呼吸を整えて、体内で闘気を練り始める。
これを体外に放出すれば、或いは強化に用いれば、直ぐにもこの異界に無効化されていただろう。
それでも予想に反することなく、体内で練り上げている段階では無効化されないようではある。
それを確認してからニヤリと嗤うと、己の内にある闘気を四つの属性に分けて混ぜ始めた。
(あれは、奴らの王が使っていた。この異界でも、使える闘気かっ!)
「白の闘気。テメェにゃ、理解出来ねぇ力なんだろ。陛下からは聞いてるぜ?」
今までも、練り上げるだけなら出来た力。されど実用しようとすれば、余りの難度に霧散させてしまう。炎王の絶招とは、この闘気を戦いの中で練り上げ運用する為にあるものだ。
リアムにはこれまで、その央座の鳥は使えなかった。それは今も変わらず、一歩も動けばこの白の闘気は自壊し消えてしまうだろう。足を止めた状態でなければ、練ることさえも出来やしない。
「顔色が変わったな。逃げを打つのを、止める気になったか?」
「速やかに排除した方が良いとは判断した」
「はっ、上等っ!」
それでも、それが分からぬ敵の視点から見れば明確な脅威だ。白の闘気は第十三聖典の影響下でも効果を発揮する異能。リアムがそれを使えるならば、彼我の優位はひっくり返る。
闘気で強化された亜人に対し、闘気を使えぬ人間が勝る道理はないのだ。その強化率がどれ程のものかは分からぬが、彼我の傷の差を埋める程度にはあると見るべき。故にデュランは、大地を蹴った。
(狂狼は、殻を破ると言ったな。なら、他の闘気のようにはまだ使えないと見るべきだ。使い方に習熟する前に――)
疾走するデュラン。迫る脅威を前に、失血からか揺らいだリアムが数歩蹈鞴を踏む。
位置が変わった。そう理解し踏み込んだ足の向きを変えたデュランは、その足元にある刃に気付いて拾い上げた。
「速攻で、確実に、潰すっ!」
先にリアムが投げ捨てたデュランの剣。その片方が偶然、進行方向の途中にあった。となれば、拾って使わぬ道理はない。
殴っただけでは、この男は止まらぬかもしれない。だが首を刎ねれば、流石に其処で死ぬだろう。故にと選んだその道は、しかし意図して残された道だった。
「読めてたぜぇ、その動きっ!」
「な――っ!?」
白の闘気を練り始めた時点で、投げ捨てた武器の場所には気付いていた。体調不良を装い位置を調整すれば、処刑人ならばそれを拾うと分かっていた。
だから、来る方向は分かっている。次の一手が分かっていて、互いに特殊な力は使えぬ以上、対処は決して不可能なことではない。その両手で、リアムは剣を掴んでいた。
真剣白羽取り。両手で挟んだ刃をその勢いのまま、斜め下へと流して踏み込む。離した右手で放つ裏拳の牽制をデュランの額に当てて視界を奪うと、深く踏み込み構えを取った。
「それと悪いな。俺、この闘気は練り上げるだけで限界でよ。ブラフなんだわ」
(剣を、投げ捨てていたのは誘い。なら、こいつの狙いは――っ!)
「行くぜ、護法神鳥! 東青!」
そして一歩踏み出すと共に、左の拳でアッパーカット。風の闘気は宿らずとも、疾風を思わせる鋭さに曇りなし。顎を強打されたデュランの意識は、一瞬遠退き掛けていた。
それでも、と歯噛みし意識を保ったデュラン。体勢を如何にか立て直そうとする彼の眼前で、振り抜いた拳の勢いのままに一回転したリアムは次の一撃を既に準備し終えている。
「く――っ!」
「西白!」
身を回しながらに放つのは、血塗れの右手を刀に見立てて放つ一撃。凍て付く氷を思わせるその鋭さに、デュランの体は浅く斬られる。
傷が浅いのは、リアムの深手とデュランの実力が故に。既に体勢を整えつつあるデュランの姿を見て、一筋縄ではいかぬなとリアムは嗤ってみせた。
「こ、の――っ!」
「南赤!」
更にその身を独楽のように回して、放つは右の回し蹴り。烈火を思わせるその一撃は、しかし盾と構えられた肩マントに防がれている。
弾かれるように飛ばされる両者。絶招たる連続攻撃は阻まれて、後退したリアムはしかし気にした素振りも見せずに次を放つ。
「だが――二度目だ! 凌いでみせるっ!」
「北紫!」
大きく踏み込んで、その勢いのままに放たれたのは雷を思わせる蹴り上げだ。それをデュランは再び盾で受け、敢えて自ら跳ぶことで威力を更に軽減する。
敢えて跳ばずとも、受け止めることは出来ていただろう。それでも自ら退いた理由は、少しでも余力を残す為。
デュランが警戒していたのは、一撃で戦いを決することが出来るフィニッシュブローだ。
(来るっ! 先に受けた、あの必殺がっ!)
自ら大きく飛び上がり、回転しながら落ちて来る。その落下に合わせて放たれるであろう絶招は、当然放てる方向を制限されている。ならばその先に、刃を置いて合わせることは決して不可能なことではない。
そうとも、デュラン・カルリエの狙いは端から此処だ。その絶招の性質を、彼は既に見抜いている。
変幻自在の四連撃は本命ではなく、白の闘気を練り上げる為の牽制打だ。白の闘気は炎王をして、練り上げるのに時間が掛かるもの。
そうであるが故に単独で用いれば、直撃させるのは難しい。故に鳳凰拳武とは、白の闘気を練る為に生み出した四属の闘気。それを用いて、隙を隠す為の技なのだ。
ならば本命とは最後。央座に位置する玉雀を凌げば、最早勝利は確定である。故に先に受けた一撃から予測したタイミングに、完璧に合わせて振られた刃。
その斬撃は――しかし、空を切っていた。
「央座・玉雀――――なんてな」
「は――?」
「言ったろうがぁ、使えねぇってよぉっっっ!!」
落下しながら剣を振り抜いたデュランは、敢えて立ち止まっていたリアムの姿に目を見開く。そうとも端から見抜かれていると、リアム自身も見抜いていたのだ。
それがブラフであると分かっていても、可能性がある限りは最後の一撃を警戒せねばならない。
故に最後でそれを敢えて外すのだ。そうすることで、作り出せるのは過去最大の隙となる。
「ま、ず――っ!?」
「こいつは唯の飛び蹴りだぁっ! はぁっ、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
剣を振り抜いた後の胴へと、打ち込まれる全力の飛び蹴り。もうこれで終わっても良いと言わんばかりに、残る全てを注いだ一撃。
それは確かに、央座の鳥には劣るであろう。それでも確かに、常人と化している処刑人を仕留めるには十分な威力を有する一撃だった。
直撃と共に吹き飛ばされて、デュランの体は近くの商店の壁へと叩き込まれる。常人を大きく超える鍛え抜かれた亜人の脚力は、闘気の補助がなくとも壁を砕く程度には強力であった。
それまでの攻防の余波も相俟って、当然の如くに家屋は倒壊を始める。直撃を受け直ぐには動けなかったデュランは、その倒壊に巻き込まれていった。
「名付けるならば、偽四凶鳥。陛下に良いのを喰らったテメェだ。万が一を考えちまったろ?」
崩れ落ちる家屋を背に、着地したリアムは首を回しながらに嗤って告げる。常ならばフィニッシュブローと言うには物足りない一撃であっても、この異界の中では致命にも届く物となる。
闘気や神聖術の助けもなく、倒壊する家屋に潰されて平然としていられる人間など王を除けば存在しない。故にこれにて決着だ。
店先に並べられていた果実が転がって、足元に来たそれを拾い上げるとリアムは嗤って食い千切る。
「あー、しんど。だが、今回は俺の勝ちだ」
多少でも傷を治す為の補給だと、食いながらに空を見上げる。聖典の力によって色が変わっていた空は、何時しか元通りの星空に。
使えるようになった闘気で己の傷を塞ぎながら、リアムは肩越しに背後を見やる。そして既に動かぬ気配に向けて、男は笑って言葉を掛けるのであった。
「一勝一敗の引き分けだからよ。また今度やろうぜ、むっつり野郎」
「……お前の相手なんて、二度と御免だ」
果たして言葉を返すのが限界であったのか。崩れた家屋の中から聞こえた音を最後に、背後の気配は消え失せる。
死んだのか、とは思わない。この程度で死ぬような相手に、苦戦する心算などないのだから。
次はもっと楽に倒せるようにならなくてはな、と内心で反省しながら歩を進める。
「……ちっ、あいつら。負けたのかよ」
戦場跡に背を向けて、立ち去るリアムは周囲の気配を察して舌打ちする。気配の感知に、仲間のそれが引っ掛からない。負けたのか、と。
「しゃぁねぇな。尻拭いでも、してやるとするかね」
舌打ちをしてから、僅か目を伏せ、そして嗤う。仲間が敗れたのならば、その仇を取るのが王の忠臣である己が役目。
まだ己の戦いは終わらぬのだから、涙を流して見送るのは全てが終わった後での話。今は唯、迷わず進む。そう決めて、リアムは故にそうするのだ。
聖女の弟VS賢者の息子、2回目。まだ初見殺しを幾つか有するデュラン君ですが、使う暇もないまま抱え落ち。賢者の息子が借りを返した形になります。
勝敗を分けたのは、本文中にも書いた通りに互いの意欲差でしょう。
自陣の戦力を失わず、敵陣の戦力を削りに来たデュランにとって、負けても死ぬ可能性の低いこの戦場は絶対に勝たねばならない場所ではなかった。対して矜持が為に負けられなかったのがリアム。
双方の実力がほぼ拮抗しており、初見殺しも通じぬ2回目なら、この結末も妥当であると言う訳です。




