第65話
決戦、六武衆②
崩れた時計塔を前に、闘争と言うよりも鍛錬に近い時間を過ごしていた両者。心折れることなく挑み続けていた少年の前で、雄々しく構えていた男は僅かな驚きの色を見せた。
よもやと目を疑ったのは、その結果があり得ぬと踏んでいたから。だが、そのようなこともあるかと得心すると構えを解いて静かに目を伏せる。それは明確なまでの隙ではあった。
それでも、ヒビキは踏み込まなかった。臆したのかと問われれば、確かにそれは否定出来ない。隙につけ込んだからと言って、如何にかなる相手ではないのだ。
だが、きっとそれだけではない。多くの者に執着しまいと歯噛みしている目の前の男が、確かに見せた人間臭さ。それを目にして、だから思うのだ。この隙を突いてはならないと。
「退いたか、武鋼」
故に出来た硬直。静けさを増した公園の中で、炎王は静かに言葉を紡ぐ。その言葉には、万感の想いが込められていた。
「お前には言いたいことが幾つもあるが、内の一つだけを伝えよう」
六武の先将。誰よりも長く生きた修羅。彼に対し、王が思うことは多くある。言ってしまえば男にとっては仇の一人だ。彼さえ居なければと、思ったことがないと言えば嘘となろう。それでも、何か一つだけ告げることがあるのだとすれば――
「感謝する。よくぞ己のような男に、流儀を変えて仕えてくれた」
今は唯、感謝を。あの老人は幾つもの感情を抑え、幾つもの流儀を捨てて、炎王と言う勝者の行く道へと着いて来てくれた。
何の興味もないであろう世界の統一と救済。それに此処まで付き合ってくれたのだから、それ以上を望むのは無粋であろう。
故にそう、口にしたのは感謝の言葉一つだけ。聞こえているかも分からぬ相手にそんな別れの言葉を告げて、静かに王は目を開いた。
「貴方は」
「すまんな。少し待たせた」
その僅か寂しげな表情に、何を言うべきか言葉を無くしたヒビキが漏らす。迷いが漏れた呟きは、明確な音になる前に王の言葉で止められる。
感情が表に出たのは一瞬だけ。直ぐに自らを律し、真顔となった炎王は冷たく告げる。これより先は修羅の楽しみではなく、王の矜持を優先すると。
「そしてもう一つ、謝罪を送ろう。私人として戯れに興じることの出来る時間は、もう終わりだ。己は王故にな、誇るべき臣らに、己が行いで応えねばならんのだ」
「――っ」
空気が変わる。圧が変わる。先までの幼い子を教え導くような態度ではなく、敵対者を叩き潰すためのやり方へと。
抑えていた闘気の圧力が膨れ上がり、一瞬息をすることさえも困難となる。そうして硬直してしまったヒビキの前で、先に見た炎の剣が燃え上がった。
――心威・解放――
「清め払え――片刃朱雀」
炎王の右手に現れた炎の剣が、空の雲を焼き払う。一瞬で大気中の水分が蒸発し、乾き切った空気は痛ささえも感じさせる程のもの。
迫る脅威を前に、ヒビキは歯噛みし拳を握ると意識を切り替える。怯えては駄目だ。飲まれては駄目だ。それでは一瞬で終わってしまうから。
されど――
「来る! 心威の剣がっ!」
「殺しはせん。死なせはせん。だが、それ以外は保証せん」
備えたからと言って、如何にかなる話でもなかった。
「ぐ、うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
警戒はしていた。目は反らしていなかった。瞬きだってしてはいなかったと言うのに、ほんの一瞬後には己の体が燃やされている。
それも当然、妥当な話。ヒビキは全力ですらない炎王の動きにも、真面に付いていけてはいなかったのだ。それでどうして、本気になった男の動きに反応出来ると言う。
気付けば、斬られている。目の前に居た筈の炎王の姿は、気付けば少年の背後数メートルは先の位置に。擦れ違い様に振られた剣が、少年の体の八割程を灰にしていた。
「う、ぐ、がっ! 僕、は……まだっ!」
肉体の大半を一瞬で消し飛ばされて、それでも隆起する血肉が傷口を塞いでいく。胴が再生し、手足が生えて、消し炭とされた衣服も復元する。
そこまで直したのは単なる意地だ。この男の前では恰好の一つも付けたいと、そんな拘りを見せる余裕はあるのだと、立ち上がったヒビキを前に炎王は一つ頷く。
「やはり、治るな。よい、それで良い」
その気になれば、彼はこの一撃で少年を殺せた。しかしそうしなかったのは、王者としての矜持と自負が故。私人としての戯れは止めても、手段を選ばぬ程に追い詰められた訳ではないのだ。
炎王は既に判断を下している。眼前に立つ少年は己の敵ではあるが、それでも死すべきものではないのだと。故に北の地で相対した英雄英傑らと同じく、王が居なくなった後の世を生きるべき者の一人である。
「心を折り、お前を下す。己はその意思で剣を取るが故、お前も好きに足掻いてみせろ」
故に、手段を制限する。殺しはしない。だが心を折る。己には逆らえぬのだと魂の奥深くにまで刻み込み、それを以って後の世での抑止とする。これこそを、男は王の責務と定めたのだ。
そして、再び刃が振るわれる。此度は踏み込みは一歩のみ。此度もヒビキが気付けたのは、斬られた後になってから。気が付けば体の殆どを灰さえ残らず消し飛ばされた少年が倒れ込む姿に、一瞬王は眉を顰めた。
「く、そ――っ!」
再びの再生。その度に力を消耗する。不死身に近い再生能力を有する悪竜王であっても、欠損がダメージにならないと言う訳ではない。故に複数の回復手段を彼は持つのだ。
(治るのが、遅いっ! 無からの再生は、負担が大きいってのにさっ! こうも軽々、焼いてくれるよっ!)
最良は時間回帰による回復。これは時間を回帰させるために消費する魔力さえも回帰後には戻るため、文字通りの完全回復と言える手段。
しかし欠点として、発動に詠唱が必要となる点が挙げられる。単純に呪文を唱える時間が掛かると言うのもそうだが、発動時には集中することが必要となるため緊急時には使えないものだ。
それに仮に、隙があったとしても炎王に対しては使えまい。時の回帰は、巻き込む相手の強さによっては妨害されてしまうが故に。ヒビキでは、炎王に対しこれは通せない。
(時間回帰は無理。あの人を巻き込む時点で、その存在規模の所為で、あの人に干渉出来なくて弾かれる。なら、他の回復手段に頼ることになるんだけど)
次善は不浄の収束による再生。散らばった肉片や周囲に存在する悪性生物を集め、自身に取り込み血肉と変える悍ましい復元再生。
これは完全回復と言う訳にはいかないが、失った血肉を外部からの補充で取り戻すと言う性質上、再生の効率が良い。消費に対する効果が非常に高いのだ。
しかしこれも欠点が二つ。一つは響希の抱いたトラウマ故に、ヒビキとなった今でも悪虫が血肉に変わると言う光景は気持ちが悪い。平時ならば恐らく一度使うのが精々で、それ以上は心が悲鳴を上げてしまう。
それでも、今だけは――そんな意識があるからこそ、この戦いでは複数回は使える気がする。
だがしかし、精神的にはどうしても消耗してしまうのだ。使える回数は然程多くはなく、更に言えば補充出来る物が周囲になければ使えないと言う欠点もある。
(僕の肉片も、あの人は欠片も残さないから、悪性変異による回収も簡単には出来ない。と、なると残る手段は一つだけ)
残るヒビキの再生手段は、自身の再生能力を向上させる類の自己再生だ。魔物の生態としての機能であるが、魔力や瘴気と言った力をその分だけ消費する。
消費した分までも完全回復出来る時間回帰や、消費した分の全てではなくとも九割程を回収出来る悪性変異に比すれば効率は大きく下がるだろう。
アジ・ダハーカが海のように膨大な瘴気を内包しているとは言え、アカ・マナフのように直接人の総意と繋がっている訳ではない。
故に彼の再生能力は無尽ではないのだ。斬られる度に焼かれる度に、その現在値は減っていく。
あと数百数千と斬られても、再生出来なくなることはないだろう。だがあと万度斬られれば、恐らくは力の総量が足りなくなって来る。
(瘴気による再生。でも、再生する度に消費する力の量を考えると、僕でもあと一万回くらいが限界、か? それで、あの人に追い付けるの?)
内心で冷や汗を流しながらも、構えを取り直すヒビキ。あと一万と言う再生限界は、真っ当に考えれば十分過ぎる回数だろう。
これで悪竜王が真に暴走し、炎王が人の側に居なければ、正に手に負えない怪物として猛威を振るっていた筈だ。
しかし、炎王と言う人の極致を相手にするとなれば話は大きく変わってくる。時間回帰と復元再生を封じても、一万回は復活して来ると言う生命力ですら足りていないと思えてならない。
残機の量は即ち戦闘可能時間とイコールだ。この数が尽きるまでに、目で追うことも出来ぬ王の動きを捉えることが出来るようにならねばならない。
ヒビキの戦いとは詰まりはそういう領分の話で、だから当然三度目の攻撃に対する対応なんて間に合わない。
反応が出来たのは、炎王が刃を振り抜いた後のこと。躱すことも防ぐことも出来ずに、体の大半を焼き尽くされて地に転がる。
体は自然と再生を始めてはいるが、反応出来なかったと言う事実は重い。三の命を消費して一歩も進めていないのなら、一万の後には本当に届き得るのかと。
内心で戦慄しているヒビキに対し、その姿に刃を振り抜いた形で腕を止めていた炎王は静かに佇む。そして一言、成程そうかと得心の籠った言葉を呟いた。
「耐性、か。斬られる度に、斬られ難くなる。焼かれる度に、燃え難くなる。そうした機能も、お前は有しているのか」
「――っ! たった三度で、気付くのかっ!?」
隠している心算であったもう一つの勝ち筋を見抜かれて、立ち上がろうとしていた少年は動揺し歯噛みする。
何時かは暴かれるだろうと覚悟はしていても、こんなにも早く見抜かれるとは考えてもいなかったが故に。
そうとも、先に土の精霊王に対して見せたように、悪竜王には受けた攻撃を学習して耐性を得ると言う機能がある。
一万の命を使い潰す前に、炎王の動きに対処出来るようになるか、或いは炎王の炎に耐えられるようになるか。ヒビキの勝ち筋は、その二つがあったのだ。
それに炎王が気付いたのは、彼が三度の攻撃全てを同じ威力で放っていたから。用いた力は同じであるのに、ヒビキが受ける被害は微妙に違った。だからこそ、彼はその性質に気付いたのだろう。
だが、それに気付いたから、何だと言うのか。あらゆる全てに耐性を得ると言うヒビキの性質は、凶悪と言っても良い代物だ。
最初は微々たる効果でも何れは何も通らなくなるのだから、相対する者らからすれば絶望的な事実ですらある。
(大丈夫。耐性の獲得なんて、気付かれても対処法があるようなもんじゃない)
最初の一撃。それはヒビキの体の八割程を消し飛ばすものだった。だが同じ威力の二撃目で、ヒビキが受けた被害は全身の七割九分九厘と言ったところか。
一度の学習で得られる耐性は相手の実力にも依る。例えば弱い魔物の攻撃などなら、一度でほぼ完全な耐性を得て二度目以降のダメージは皆無。
アンジュのような英雄域に届かぬ一流が相手なら、攻撃を受ける度にダメージは半減と言った塩梅だろう。
朧クラスの実力者相手で、攻撃の度に得られる耐性による軽減率は5~10%と言ったところか。
英雄級は闘気での耐性貫通なども接近戦では仕掛けて来るが故に断言はし辛いが、それでも炎王相手に攻撃を受ける度に0.1%程度の攻撃耐性を得ては居る。
故に理論上、1000回攻撃を受ければ1001回目以降の攻撃被害は、一部の技を除いて無効化出来る。
だから一万回は再生が出来ると言う時点で、時間はヒビキの味方となった。そう断言出来る、筈だと言うのに。
(だから、大丈夫――な筈なのに)
そんな当然の理屈が、しかし自己欺瞞にもならない。理屈で言えば利はどこまでもヒビキの側にあると言うのに、ヒビキ自身にもそれが信じられなかったのだ。
(この人には、怖さがある。耐性の有無なんて、知ったことかと踏み潰せるような。そんな怖い程の、凄みがあるんだ)
見抜かれたと言う事実に恐怖したのは、そんな理屈などを踏み潰して踏破するような恐ろしさを有する相手であるから。
大丈夫。大丈夫。そう己に言い聞かせながら立ち上がる少年は、故にその直後に凍り付く。燃え上がる炎の剣がその身に宿す、己を燃やす破壊の威力が、先程までとは比較にならぬ程に上がっていたから。
剣が振られる。直撃ではない。掠っただけだ。それでも、それだけで十分過ぎる程の破壊であった。
余波だけで地面が溶ける程の熱量は、それでも周囲に大きな影響を与えぬように加減されたものであったのだろう。
そう、手加減だ。先まで直撃していた刃は加減されていたのだと明らかに分かる一撃は、その余波だけでヒビキの体の大半を蒸発させて過ぎ去っていったのだ。
「さて、少し力を入れたが、直撃させるとこれでは死ぬ、か。すまんが不器用でな。己も気を配るが、お前の耐性を考慮すれば万が一があるやもしれん。故、ここらで折れてくれると助かるのだがな」
手にした炎の熱で大気が歪む。恐ろしい程の圧迫感を放つ炎王は、しかしまだまだ本気とは程遠いのだろう。
少し本腰を入れただけで、付いた耐性による軽減分などあっさりと超えられてしまった。
だとするならば、一体幾度攻撃を受ければ、この炎への完全耐性を得られるのか。
炎王の最高火力がどれ程か分からぬが故に、一体どの程度軽減出来ているかが分からない。
0.01%か? 0.001%か? 0.0001%か? いいや、きっと0を100や200並べても足りない程度の軽減率しか得られてはいないのではないか?
ならば万度再生したとしても、結局追い付けぬのではないか? そんな不安に、少年の胸中は揺れていた。
(怖い。怖い。怖い。痛みに耐えて、必死に足掻いて、それでも追い付けないんじゃないかって、それが、怖い)
起き上がる途中で、地面に手を付いたままに止まってしまう。起き上がれば、五度目の炎が襲ってくるから。
痛みに耐えて、必死に足掻いて、それでも万度の果てが無意味な伽藍洞であったのなら、きっと心は折れてしまう。
見下ろす炎王は、見下ろされるヒビキに対して何もしない。追撃すれば何時でも殺すことは出来るけど、命までは奪う心算がないから。
だがそれとて、まだと言う装飾が付く言葉。必要となればこの王は、少年をあっさりと仕留めるだろう。
だから、怖い。だから、恐ろしい。この強過ぎる男は、怖くて怖くて仕方がなくて――でもそんなこと、始めから分かり切ったことである。
(けど、そんなこと。初めから、分かっていたことだろう! 分かって僕は、追い掛けるって決めたんだろうっ! なら――)
だから、ヒビキは立ち上がる。前を向くと決めたのだ。前に進むと決めたのだ。届かないのだとしても、果てが伽藍洞であったとしても、追い掛けると決めたのだ。
「誰が、折れるか! 誰が、諦めるものかっ! 僕を舐めるな! 東の武王っ!!」
ならば、泣き言なんて今は要らない。後悔とは後になって悔やむもの。まだ後には成っていないのだ。ならばどうして、途中で足を止められようか。
「そうか。ならば、好きに足掻け」
歯噛みして立ち上がり、前を向いて中身のない言葉を吠える。去勢であった。見苦しくはあった。勝ちの目などはなかった。それでも吠えた少年に、襲い来るのは恐るべき炎。
炎剣の軌跡はまだ見えない。動き出しもまだ分からない。振り抜かれた後に、襲ってくる痛みで分かるだけ。全身を燃やされ尽くして始めて認識して、焼かれたヒビキはまた倒れそうになる。
「ぐっ、おああああああああああああああああああっっっ!!」
それでも、吠えた。倒れないぞと踏み止まろうとして、しかし重心を維持出来なくて地に転がる。結果は同じ。剣の軌跡さえも分からぬまま、体の大半を消し飛ばされて倒れるだけ。
けれど、過程は少しだけ違う。だから、大丈夫。進めてはいる。耐性を得てはいる。結果が何も変わらなくても、過程がほんの少しでも変わっているなら、積み重ねることは出来ている。
(まだ、見えない。まだ、届かない。だけど、諦めない。それだけが、今の僕に出来ることだから――それだけは、貫き徹すと決めたんだよっ!)
あと何度で、立ったままでいられるのか。疑問は要らない。あと何度まで、立ち上がれるのか。今はその思考を捨てよう。あと何度で、追い付けるのか。そんなことは考えなくて良い。
追い付くのだと、必要なのはその意思だけ。歯を食い縛って、負けるものかと叫べば良い。今は中身のない去勢でも、何時か中身が出来て本物になる筈だから。覚悟を決めて、今を貫き徹すのだ。
戦場は変わる。殺意はなくとも敵意を以って、少年を壊しに来る炎王。圧倒的に実力で劣っているヒビキには、まだ勝ち目と言えるものはない。そうと分かって、それでも彼は諦めずに拳を握る。
歯を食い縛って、負けるものかと叫びを上げる。それだけが今の彼に出来る精一杯だから、それだけは譲ってはやらぬのだと。覚悟を決めた少年は一歩も動けぬまま、それでも最強の王に立ち向かっていた。
◇
凍て付くような吹雪の中で、三つの刃が煌めき踊る。氷と雷は二重奏。奏でる音色は絶え間なく、正に阿吽の呼吸と言えた。
されど攻め手の顔に余裕はない。それは主導権を与えれば数の利を失うに等しいと知るが故、そして怒涛の攻めすら流されている現状が故に。
「きついなぁ、えらい疲れたわ」
「口ではそう言いながらも、随分と上手く捌くではないか」
「そら、躱さんと割れるやん」
舞踏の最中で、鋼と鋼が打ち合い動きが止まる。へらへらとした笑みのまま、泣き言にも挑発にも聞こえる言葉を嘯く子龍。
鍔迫り合いを続けながら、オードレは舌打ちを返す。女傑の気質を考えれば、子龍の言はどちらの意味でも腹立たしいものであった。
罵倒も拮抗も一瞬、打ち勝ったのは男の側。筋力も技量も勝るのだから、それも或いは当然か。
体が凍り付いていることなど意にも返さぬかのように、男の大太刀が女の刃を押し返し圧し潰す。
「そうなって欲しいと思って、こちらは剣を振ってるのですよ」
させぬと其処に割り込むのは、この場における三番手。場の誰よりも未熟な女は、しかしこの場においては最速だ。
周囲に雷光を撒き散らしながら駆けたシャルロットは、姉弟子を追い詰めんとする子龍の体側を刺突で貫かんと狙う。
だが敵も然る者。流し目を向けてタイミングを計ると、直撃の寸前で身を引き刃を躱してしまう。
そしてそのまま、大太刀を横に流し斬る。シャルロットの防御は当然間に合うが、しかしそれこそ子龍の狙い。
「く――っ!」
刃で防いだシャルロットの体が、意図した方向へと吹き飛ばされる。その先には、押し切られそうになって片膝を付いていたオードレの姿が。
投げ飛ばして武器の変わりとする気か、或いは目晦ましに使う気か。先に状況に気付いたオードレは即座に起き上がると、片手で飛んで来たシャルロットを受け止めて一歩を引いた。
その直後、先まで居た場所へと落ちてくる子龍の斬撃。跳躍からの大上段による一刀は、既に誰も居ない地を叩く。
地が割れその衝撃は、寮の主柱さえも打ち崩す。自重を支えられなくなった建造物は、三者を巻き込んだまま音を立てて倒壊した。
「は――っ。何だ、貴様も余裕はないようだな。なるべく殺すな、なるべく壊すな。大方、そうした指示を受けているのだろうに。もう随分と必死だなぁ」
抱き抱えたシャルロットを空中で手離して、崩れる瓦礫や破片を足場にオードレは駆ける。
空中で落ちながら、踊るように剣を振るう。その美しき氷の刃は、やはり子龍の命には届かない。
闘気を放出して一瞬、重力からの解放を。自身の落下を止めた男は小枝のように大太刀を振るって、襲い来る氷の刃を弾き返す。されど男も空中では、それが限界であったのだろう。
雷光が迸る。オードレに続いて瓦礫を蹴ったシャルロットの刃が、氷を弾いた直後の子龍に襲い来る。その鋭い刺突を完全には躱し切れず、子龍の肩が僅かに砕けた。
巨大な氷の端が欠けるように、壊れた自己に対する不安も怯懦も男の顔には一切ない。唯上手く動かなくなった左の腕に、眉を僅か顰めてから片手で大太刀を振るう。
弾き返されたオードレは危なげなく、吹き飛ばされたシャルロットは何処か危うく、地に着地して構えを取り直す。二人の女の前で、余裕の笑みを浮かべたまま、子龍は音も立てずに地に下りた。
「ほんまにいけずなこと、おっしゃる人らや。そないなことばっかやと、高値の花になりますえ」
「下らん物言いだ。その程度で怖気づくような惰弱に、摘まれる心算は端からない」
動かぬ片腕を視界に入れて、すぐさま視線を戻して悪態を吐く。行き遅れどもがと言う罵倒に、片眉を僅か動かしただけであっさりと返すオードレ。シャルロットが言葉を返せぬのは、余裕がないからか思う所があるからか。
ともあれ対話を続けるような関係性でも状況でもない。踏み込みの速度はほぼ同時、再び三者は刃を振るう。
その結果は先の焼き直し、にはならない。さしもの子龍も片手だけでは、オードレの剣を押し切れない。雷の追撃に、反撃を挟む余裕もなかった。
「しかし、ほんましんどいわ。これ、考えたんはあの猫ちゃん?」
本来、修羅は十分な量の闘気さえあれば、大概の傷を治せる人間離れした生き物だ。常人であれば多少の擦り傷を塞げる程度の治癒能力向上で、無くした手足や内臓さえ戻せるのは修羅だけが有する性質である。
だからこそ欠損を然して気にせぬ彼らであるが、特定の条件下においては傷の治療が行えなくなる。
一つは朧が過去に右腕を失っていたように、欠損直後に闘気の不足などで新たな腕を生やせず傷が塞がってしまった場合だ。これで完治と肉体が認識してしまえば、例え修羅であろうと新しい腕は生えて来ない。古傷の類は治せないのだ。
「さあ、どうでしょうねっ!」
「答える義理は、ないと言う訳だ!」
そして、もう一つ。闘気は染まりやすい。その性質上、傷口に精霊力や瘴気が残留している状態では治療の難易度が上がる。先ず其処にある汚染要素を排除した上で、大量の闘気を流す必要が出るからだ。
今の子龍も正にこれ。霧と化した肉体を凍らせられてしまった時点で、体内には膨大な量の精霊力が充満している。先ずはこれを除去して凍結を解除しなければ、霧化を解除することも叶わない。
だが当然、そんな余裕を二人の女が与えてはくれぬのだ。故にこの状況で凍結した体を砕かれてしまえば、壊れた体の修復も出来ないのだ。
「ふ~ん。なるほどなるほど」
防戦一方。片手を封じられた子龍は、二人の女の絶え間ない攻撃から逃げ回ることしか出来ていない。だと言うのに余裕そうな笑みのまま、一人得心がいったと頷くばかり。
修羅を相手にする際に、その再生手段を何らかの方法で防ぐのは最適解の一つであろう。修羅覚醒による闘気の増幅を考慮すれば、最低条件と言っても良い。故に策としては優れていようと、認めて頷く男の姿にオードレは僅かな懸念を抱いていた。
「何だ。奴は何を企んでいる」
「構いません。何を企んでいようと、これで決めます!」
「待て、シャルロット!」
されど、現状が好機であることに違いはない。他の場所で戦う仲間たちの安否も知れぬ中、勝機と見れば踏み込むべきだとまだ若いシャルロットは此処で逸った。
「雷翔一迅・七歩っ!」
音速の六万倍。今のシャルロットに出せる最高速で、雷を纏った刺突を放つ。オードレの制止は間に合わず、子龍の反応も間に合わない。
正に一瞬でその刃は、子龍の心臓を貫き抉る。赤い血潮が噴き出して、シャルロットの顔を染める。その段になって漸く、シャルロットはその異常に気が付いた。
(赤い、血? 氷、ではない。凍結を治したと言うの? 何故っ!?)
凍った筈の血液が、熱い熱と共に溢れている。その現象が示すのは、直撃の寸前に子龍が凍結と霧化を解除していたと言う事実。
凍結の解除は、分からなくもない。シャルロットの一撃へ対処するのを捨てて、それに専念すれば闘気で精霊の力を押し流すのも子龍には不可能ではないのだろう。
だが、霧化の解除を此処でしたのは何故だ。霧のままでは再び凍ると言うのは分かるが、今までそれを行わなかったのはオードレの聖典を警戒してのことだろうに。
いいやそもそも、此処でシャルロットに切られたのは何故だ。凍結の解除が間に合ったのならば、霧化を解除しなければ刃に貫かれることもなかった筈なのに。
「つ~か~ま~え~た!」
何故、と。どうして、と。頭の中に浮かぶ疑問。それに答えを返す前に、子龍がにやりと笑って動き出す。
心の臓を刃で貫かれているとは思えぬ機敏さで、大太刀を振り上げ下ろす修羅の男。対するシャルロットは、咄嗟にそのまま逃れようとして――
「なっ!? 剣が、抜けなっ!?」
「ほな、さいなら」
子龍の胸に刺さった剣が動かず、故に一手動きが遅れた。若さが生んだ失策。その代償は、此処に結実する。
振り降ろされた大太刀が頭部を砕く、直前に子龍が僅かに手を捻る。結果として行われたのは、頭部に対する柄頭での強打。
命を奪う、程ではなかった。だが、意識を奪うには十二分。頭を鈍器で割れられた女は、そのまま大地に崩れて落ちた。
「シャルっ!」
「あらら、怖い怖い」
直後に迫る氷の刃。水の色に周囲が輝いているのは、オードレが聖典の力を発現しているからだろう。刃を躱した筈の子龍の体に、しかし斬撃は刻まれる。
笑いながらも蹈鞴を踏んで後退する子龍に対し、倒れたシャルロットを抱えて同じく後退するオードレは歯噛みする。呼吸があるのを確認してから、安堵の息を一つ。
心臓に刺さった刃を平然と引き抜く男から目を外さずに、オードレは近くの建物の影にシャルロットを横たえる。そうしてから、レイピアを投げ捨てた男を睨んで問うた。
「貴様っ! どういう、ことだ!?」
「ん。どしたん、話聞こか?」
「聖典の刃が通っていない。貴様の心威は、霧になる能力ではなかったのかっ!?」
オードレの聖典は、既に効果を発揮している。数十を超える斬撃が子龍の身に刻まれていると言うのに、対する男は何かしたかと言わんばかりの無反応。
動かなくなっていた筈の左腕を軽く回して、調子を確認している子龍を見据える瞳が鋭くなる。
一体如何なる道理であるのか、今の彼は霧ではない。吹雪は変わらず続いているのに、凍結していないのが証左であった。
「そやね。逆に聞くけど、いつ、誰が言うたんよ。僕が変われるのが、霧だけやって」
「なに?」
「そやから、今の僕は人の形した金剛石や。剣では砕けん。凍りもせん。唯それだけの話やろ?」
子龍の心威「深山で人喰う徳無僧」は肉体変化の能力だ。もう一つの心威である「結跏趺坐する大野槌」が変幻自在であったように、こちらの心威もまた同様。
この心威を発動している間、子龍の体を構成する材質は子龍が望んだ物に変更出来る。先までの霧化が極小規模の水分子への変化なら、今の彼は超高密度の炭素結合体である。
「ダイヤモンド。……成程、シャルの剣が然して効いていないのは、電気が流れる前に自らを絶縁体に変えたが故か」
「効いてない訳ちゃうよ。刺さった直後は、そらもう痛い思い我慢してん。そやかて、勝つためには必要経費。しゃーないなぁと割り切ったんや」
舌打ちと共に、オードレは聖典の力を幾度も行使する。霧化と異なり炭素化は実体がある。聖典の必中は不発とはならず、その応用技ならば使用が出来た。
斬撃と同時の転移。それを以って子龍の剣舞を躱すオードレ。だがしかし、積もる疲労は既に濃い。発動の度に、信仰力も減っていく。
だがそれだけのリスクを負っても、得られる成果は子龍の体がほんの僅かに欠けると言うものだけ。
「実際、君もこれには困るやろ?」
「ち――っ!」
「金剛石は端から固体や。いくら冷やそうと、これ以上には凍らへん」
吹雪は今も続いている。大量の精霊力を必要とし、その増幅のためにオードレの闘気は今も減り続けている。
闘気とは生命力だ。修羅のような例外でもない限り、戦いの中でそれが減るのは大きなリスクだ。
だが、だとしても吹雪を止める訳にはいかない。何時でも子龍は、肉体を霧に変えられるのだ。
今は効果がない凍結の力場でも、一度解除すれば張り直すのに多少の時間が掛かる。その隙を、目の前の男が見過ごしてくれる筈がない。
刻一刻と様々なリソースを消費しながら、しかしオードレの側には決定打がない。聖典を止めると言うのも無しだ。
二人掛かりでやや優勢だったと言う技量差故に、一対一では先ず間違いなく完封される。
オードレの技量では、真面に打ち合えば三手も持てば良い方だろう。金剛石の肉体に致命傷を与える手がない以上、時間を凍結させた所で逆転の一手とはならない。
だから何か一つでも、有効打を見付ける必要が女にはあった。
「君の聖典の欠点も知っとる。剣の刃が通らん相手には、無力なんやろ?」
「だが、ダイヤならば――っ! 衝撃には弱いだろうっ!」
故に一つ、此処で賭けに出る。肉体がダイヤモンドになっていると言うのなら、斬撃はともかく打撃のような強い衝撃には弱い筈だと。
闘気を氷桜刃の柄頭に込めて、聖典で転移した直後に殴り付ける。子龍の背中を抉るように打ち込まれた一撃は、しかしオードレの予想に反した成果しか生みはしない。
「な――っ!?」
「ごめんなぁ。これ、僕のイメージする金剛石であって、実物とは違うんよ。そやから、殴った程度じゃ壊れんねん」
にやりと笑う男は言葉に反して悪びれず、その度し難い事実を告げる。心威の効果は、使い手のイメージによるのだと。
故に霧になっても思考が出来るし、金剛石になっても関節は普通に動く。子龍と言う男は自分にとって、都合の良い物理法則だけを受け入れているのだ。
「都合の良い、面だけを抽出した物質だと! ふざけたことをっ!」
「そら心威って、そういうもんやし。心の強さが、力の強さに直結する。分かりやすいやろ」
ほんの僅か、表皮だけが砕けた結果に吐き捨てるオードレ。しかし僅かでも足を止めていれば、その瞬間にも狩られると知るが故に後退する。
戦闘は再び、一方的な展開に。攻勢に回るのはオードレだ。聖典の転移と一瞬の時間停止。それらを交えて、子龍の反撃を回避し、猛攻を繰り返す。
「くっ、このっ!」
「気張るなぁ、無駄やのに。僕の体、ちょっと削るだけで限界やん」
「おぉぉぉぉぉぉぉっ!」
「はいはいはい、っと。猫ちゃんが他に策を練ってるかもって、少し警戒しとったけど無駄やったね」
対する子龍は、相手の動きに合わせて返しの剣を振るうだけ。全て当たらず躱されるが、その表情に焦りの色は一切ない。
相手の攻撃に有効打はないのだ。そして現状の猛攻を続けるだけで、勝手にオードレは消耗していく。となれば子龍が警戒するのは、他に罠がないかと言う点のみ。
「ま、そらそか。二人掛かりなら普通は勝てる思うやろうし、僕も危ないって思うたから態々やられた振りした訳や。そやからこれも、妥当な幕引きってことやね」
しかし同時に、もう策はないだろうとも察してはいた。策があるなら、シャルロットが落ちる前にやっている。彼女が倒れる瞬間を、見過ごす理由がないからだ。
故にもう速攻を掛けて、潰してしまっても問題はないのだろう。それでも子龍がそうしないのは、万が一の反撃を警戒しているからと言うのが一つ。そしてもう一つの理由は。
「腕、もう上がらんのちゃう? 諦めぇよ。君らじゃ僕には勝てんし、僕も君らはなるべく殺したない。陛下に失望されるんは、これ以上ごめんやもん」
なるべく殺すなと言われている。裏があったとは言え罠師を潰した己が、これ以上を殺せば流石に王からの叱責は免れない。
となれば勢い余って殺してしまう攻勢に移るより、このまま守勢を続けて女の体力切れを待った方が楽だろう。そうした判断で、子龍はその時を待っているのである。
「は、既に勝った心算で笑うか」
「そら、此処から返されるとは思わんよ」
肩で荒い息をするオードレは、既に体力的には限界だ。このまま現状が続けば、数分と持たずに倒れるだろう。
さりとてだからと勝負に出ても、並大抵の手では対処される。その隙を子龍に突かれれば、数分後の敗北が数秒後の敗北に変わってしまう。
故に――
「……良いだろう。認めてやる。貴様には、私の切り札を使う価値があると!」
今、此処でオードレに選べる札は唯の一つ。並大抵ではない切り札を、それ以外に勝機は欠片もないのだから。
「何や分からんけど、させると思うん?」
「出来るさ! 貴様こそ、防げると思うなっ!! 氷翔一陣・極!!」
切り札の発動を妨害しようと、子龍の動きが変わるが問題はない。天の星々すら凍結させるオードレにとって、距離とは意味を為さぬものなのだから。
残る精霊力のほぼ全てを消費して、周囲の時間を凍結させる。闘気で干渉して来た子龍の力で、実際に停止出来たのは体感で一秒にも満たない刹那。だが、それで十二分。
可能な限り距離を取る。縮地を用いたとしても、一歩では踏み込めないだけの距離。其処で片膝を付いたオードレは、胸に右手を押し当て体内から水色に輝く聖なる書物を取り出した。
風すら止まった世界の中で、聖典が音を立てて解けていく。世界の凍結が解除され、場所に気付いた子龍が一歩を詰める。
あと一息で、大太刀の刃が届く間合い。されどその一歩分が、此処に結果を確定させる。
「第二顕彰――限りなき牡牛の疾走!!」
解けたページが風に舞い、世界に馴染むように溶けて世界自体の色を変える。半球状に広がる水色の異界には、数え切れない程の刃が浮かんでいた。
「なんや、これ? 嬢ちゃんの剣が、沢山?」
「我が第二聖典の法則は必中。故に結果だけを示すことも出来るが、これを抜く必要がある程の敵には敢えて見せることにしている。その死を齎す、刃の真実をっ!」
中空に浮かんだ無尽の刃。その全てが氷桜刃と同じもの。その威容を前に足を止めた子龍に向けて、立ち上がって告げたオードレが片手を上げる。
まるで指揮される楽団のように、上げた女の手に合わせ刀身は目標に狙いを付けた。
「因果を改竄し、過程を書き換える。時の流れすら無視したその奇跡の最奥とは、過去現在未来全ての時間軸と或いは有り得た可能性。それら全てを現実の物に変え、一度に振るうと言うものだ」
「それは、詰まり――」
「そう。無限の刃。貴様が死ぬまで、尽きることはない斬撃だ! 例え貴様が刃の通らぬ肉体を持とうと、僅かにでも削れる時点で、私に殺せぬ道理はないっ!!」
これぞ、第二聖典の第二顕彰。絶対に相手の最も脆い弱所に当たると言う斬撃の奇跡を、オードレと言う使い手に合わせて最適化した結果こそがこの極地。
過去現在未来。並行世界の全てを含めて、あらゆる場所から自身が振るう斬撃と言う可能性を持って来る。
その性質上、理論上の威力は無限。僅かにでも傷が付く相手なら、オードレは必ず殺すことが出来るのだ。
「く――っ!」
「逃げようとしても無駄だ! 先に私を殺そうと言うのも無意味だ! 私の剣は必中故にっ! この光景が見えた時点で、既にお前に当たっている!」
防げはしない。躱せもしない。耐えられもしない。必中の奇跡は変わりなく、展開された時点で既に打つ手は失われている。
故に逃走を脳裏に浮かべ、否と先に敵を沈黙させようと切り替えて、大地を蹴った子龍の行動は全く無意味。
因果は確定している。当たると言う結果は既に過ぎ去った後なのだから、今から躱すことなど出来ぬのだ。
「此処で落ちろ、六武衆!!」
剣が降り注ぐ。だが、その視覚的な光景すらも、本質的には意味がないもの。振り始めた直前にはもう、既に子龍の全身は無限の刃に切り裂かれている。
前からも後ろからも、右からも左からも、上からも下からも、360度隙間のない斬撃。それに体皮を削られて、研磨されるように肉と骨と臓腑を失う。
耐えられる道理はない。その刃の雨は、子龍が死ぬまで続くのだ。刃が降った時点で、既に終わりは確定している。子龍は既に、死んでいた。
(ああ、あかん。これ、死ぬなぁ)
だから、きっとこれは走馬灯。死を間際に、或いは死の直後に、脳の錯覚が見せた幻影。崩れ落ちる子龍は、その景色に、静かに想いを馳せた。
(けど、それでええかもなぁ。そやかて、僕らは、産まれるべきやなかったんやし)
ずっとずっと後悔していた。己の為した行いを。ずっとずっと思っていた。産まれるべきではなかったと。
その過去を、死を前に想う。その轍を、死を後に振り返る。生を受けた時点で救いなんてなかった、修羅と言う悍ましい在り様を。
(僕が産まれたんは、東の名家。古い歴史のある武家で、長子の誕生は喜ばれた)
子龍と言う男は、とある武家で生を受けた。25年前の話だ。産声を上げた小さな命を、その家の誰もが喜んだ。これでお家は安泰だと語る彼らは、しかし何処か歪んでいたのだ。
(その長子が、産まれたその日、その場所で、臍の緒切るために用意されとった刃物つこうて、実の母親を殺すような悪鬼でも)
子龍は産声を上げた直後に、真面に動かぬ手足を無理矢理引き摺り実母を殺した。産婆の目が離れた瞬間を狙って、彼女が容易していた臍の緒を切るための鋏。それを手に、己を嬉しそうに抱き上げる女の喉を掻き切った。
別に恨みがあった訳ではない。其処に憎悪があった訳もない。物心付く前の赤子であるのだ。其処に悪意なんてない。唯、愛があった。
母は子を愛し、それを分からぬながらも感じ取った子は愛するが故に衝動に負けた。殺したくなったから、殺そうとして殺してしまった。言ってしまえば、それだけだった。
(情に厚い修羅は強い。そないな理由で、おとんも、その部下も、皆おかんを殺した僕を褒めた。別に、そのことに何か思うたことはない。物心付く前どころか、産まれた直後のことなんて覚えとらんもん)
そうした子は、東では稀だが偶に産まれる。多くは忌み子とされ、鬼子と言われ、育つ前に間引かれる。だが、子龍の生家はそれを福音だと考えた。
情に厚い修羅は強い。赤子でありながら、母を殺すとなれば格別だ。這って進むことすら容易ではないだろうに、それでも親を殺してみせる。それ程の修羅ならば、必ずや強くなる。
そう断じた彼の父は、そしてその臣下らは、子龍のことを褒め称えた。我が子に相応しい。我らが主の後継に相応しい。そんな死を喜ぶ世界こそ、幼い子龍の全てであった。
(唯、殺せば喜ぶんは分かった。好きな人に殺意を向けるんを、我慢する必要はないんやって思った。僕は、家の皆が好きやった。だから、おとんも、部下も、皆殺した)
だから、子龍がそう成ったのも当然のこと。己を愛した父を愛して、己を愛した臣下を愛して、だから愛する衝動のままに彼らを殺した。それが正しいことだと思っていた。
僅か四歳の子どもが、一族郎党を皆殺しにする。それが出来る程に卓越した才能を有していたのは、父の見る目が確かであった証左と言えるか。救いようがない程に、子龍と言う男は天才だった。
(四歳の頃や。全部殺して、家に居ても何もないから、町で見知った人ら殺して、そん後、何もすることのうなったから、山ん中で暮らしてた)
何もかもを殺して、誰も彼もを殺して、一人に成った子龍は人気のない屋敷を出た。それから領地で、五歳の子どもは同じことを繰り返す。
領民を一人一人、誰も彼もが大好きだから、愛を伝えて殺し回る。念入りに、狂的に、殺して殺してその後で――やることがなくなったから、糧を求めて山に籠った。
不思議であった。殺している間はあんなにも胸が躍ったのに、殺し終わった後は唯寂しさだけが募った。
その意味が分からず、空虚なままに少年は過ごす。そんな時間は、一年程度で終わる短いものだった。
(山で実りを探して、偶に迷い込む人を殺して、そんな風に過ごし取った頃――世界が、人の心が一つになった)
そんな日々を過ごしていたある日、彼の意識は誰かの意識と繋がった。魔王と戦う勇者が、世界全土に助けを求めたのだ。その聖剣が、全ての人の心を繋げたのである。
(勇者の心が流れて来て、皆の心と繋がって、僕がどんだけおかしいのかを理解した。何や、えらく寒うなったんや)
そうして子龍は他者を知った。修羅ではない生き物の普通を知って、どれ程に修羅がおかしいのかを理解した。
どれ程に己が悍ましいのか。どれ程に己が罪深いのか。もう取返しなんて付かないのに、その時になって分かってしまった。
(気持ちが悪い。悍ましい。僕らみたいんは、居たらあかん。なのに自分で、死ぬことも選べなくて、ああ、ほんま何やっとるんやろうなぁって)
愛していた。大切だった。失いたくなんてなかった。殺したかったけど、居なくなって欲しくはなかったのだ。そんなこと、もっと早くに気付ければ良かったのに。
誰も教えてなんてくれなくて、もうどうしようもなくなった後に分かって、心が壊れそうになった。けれど壊れるものすらない伽藍洞だったから、唯寂しいとしか思えなかった。
早く死んだ方が良い。そう自分で自分に思うけど、此処で自分が死んだとて修羅と言う悍ましいものが一つ減るだけ。そう思えば、何の意味も感じなくて、だから死ぬことも選べない。
もっと世界に対する情があったのなら、より素晴らしいものを守るためだと修羅を殺して回っただろう。
だが子龍の内には大切な者なんて何一つ残ってなかったから、そんな大義すらも彼の内には産まれなかった。
だから、無駄に生きた。だから、惰性で過ごした。山から出ることもなく、山の中で何かの命を奪いながら、無意味に無価値に無駄に過ごした。
そうして、何年が経過した頃のことだろうか。
(ああ、そうだ。そないな時に、あの人にあったんや)
子龍は、その人に出会った。誰よりも悍ましい修羅でありながら、それでもと己が業に抗い戦う姿。その背に、男は産まれて初めて夢を見たのだ。
だから――
「まだやっっっ!!」
「な――っ!?」
修羅は叫ぶ。まだ終われない。まだ止まれない。己は、この夢の続きを見ていたい。夢の果てを、見たいのだ。だから、こんな所で終わって溜まるかと子龍は吠えた。
「僕はまだ、見ておらん! 僕らみたいな、生きてちゃあかん生き物がっ! それでも、世界を変えるその時をっっ!!」
「馬鹿な、何故動けるっ!? その体でっ! その様でっ! 何故動くことが出来ているっ!!」
「僕には、夢があるっ! そやから、あの人の果てを見届けるまで、死んだくらいで止まれるものかぁっっっ!!」
オードレの切り札は、相手が死ぬまで尽きぬ火力だ。故に逆説、相手が死んだ後には止まる。死体を切り刻む趣味はないのだから、死んだ後に攻撃を加える可能性はないのだ。
そう。故に子龍はもう死んでいる。心の臓は止まっている。脳の機能も壊れている。皮膚なんて残っていないし、肉も骨も臓器も潰れた。辛うじて人の形を保っているだけの残骸だ。
だが、それでもその魂は生きている。その心は砕けておらず、故に執着が死した肉を動かしている。
正に悪鬼羅刹の風貌。修羅と言う呼び名に相応しい悍ましさで、立ち上がった子龍は剣を振るう。
「おああああああああああああああああああああああっっっ!!」
「くっ、心臓も、血流も、全部止まっているだろうにっ! 人の形をしているのなら、せめて人らしく死ねと言う!!」
最早、真面な言語を語る機能も残ってはいないのだろう。猿叫を思わせる咆哮と共に、襲い来る子龍の動きにはもう精細さと言うものがない。
思考を行う脳はないのだ。駆け引きなんてもう出来ない。体を動かす筋が殆ど残っていないのだ。当然その動きは鈍重だ。そして剣技は最早形を為さず、不格好にも程があるもの。
意地と執念だけで駆動する修羅は、先程までに比べれば遥かに弱い。増えているのは闘気だけで、それを生かせる要素がないのだ。故に弱体化し切っているが、しかしそれでも軽視出来ぬ理由がオードレにもあった。
(不味いっ! 第二顕彰を使った以上、私の剣はもう当たらない! 可能性を使い果たしたのだ! 絶対に当たる位置で振ろうと、絶対に外れる因果が確定しているっ!!)
聖典の第二顕彰。彼女のそれは、必殺でなければならない。何せ、あらゆる可能性を一度に集わせると言う効果だ。結果がどうあれ、可能性を使い果たす。
オードレの攻撃は可能性を使い果たした今、子龍に対して聖典はもう機能を発揮しない。のみならず、聖典を使用しない武器攻撃も今後は絶対に当たらないのである。
攻撃は一切行えない。となれば残るは精霊術による妨害や拘束と言った対処になる訳だが、其処に修羅覚醒の意味が生きてくる。
膨大な量の闘気を無意味に撒き散らしている子龍が居るせいで、精霊を集めようとしても散らされてしまう。真面に術も使えないのだ。
(くっ! 取られるっっ!!)
ならば結果は、純粋な技量の差が決める。衰え弱り切った天才の技は、疲弊した凡夫のそれを超える。詰まりはそういうことである。
目の前に迫る大太刀の上段斬り。それが頭部を砕く一瞬前に、オードレは察するが体が動かない。子龍に真面な意識がない今、加減を期待することも出来ないだろう。
取られた、と理解する。このまま頭蓋が砕かれると分かる。それで居て、もう対処の術はオードレにはなくて――故に、覆したのは誰もの意識になかった女。
「雷翔一陣・八歩」
雷光が迸る。己の限界すら超えた女の刺突が、子龍の胴を背後から貫いていた。
「心威は、解けていましたか。最悪は防がれると懸念していましたが、どうやら何とかなったようですね」
額から血を流し、己が出血で顔の半分を染めながらもシャルロットが告げる。その雷を纏った刃に籠った威力は、臓器一つを潰す程度では収まらない。
巨大な穴が、子龍の体に刻まれている。皮も肉も骨も臓腑も全てを消し飛ばす程の威力で、大穴を開けられた男の体は辛うじて繋がっている状態。立っているのですら、おかしいと言える有様だった。
「貴方の敗因は、敵が姉さんだけだと判断したこと。倒れた私を、放置したことです」
左胸を中心に、大きな穴の開いた男の死骸。それを見据えた後にシャルロットは、剣を鞘に納めて静かに告げる。
これにて勝利。最早、その事実は揺るぐことはないのだと。
「まだだっ、シャルっ!」
「まぁぁぁぁだぁぁぁぁやぁぁぁぁぁぁっ!!」
「な――っ!?」
オードレの警告と子龍の叫びは、全く同時に響いていた。瓦礫の中で大穴を開けた残骸が、しかし止まらず振り返って刃を振り上げる。
あり得ないと瞠目。信じられないと言う恐怖。どうすれば死ぬのかと言う動揺に、限界を超えた代償も伴って硬直した体は動かない。振り降ろされた刃は当然、動けぬ女を磨り潰すであろう。
「く――っ! させるかぁっっっ!!」
それが当然ならば、オードレが妨害に動くのもまた当然。手にした役立たずの剣を投げた後、女はその身を挺して男の動きを止めた。
体に突き刺さる巨大な刀身が致命傷に届く前に、如何にか氷の鎧を展開して耐える。嫌な音がして刀と骨に罅が入るが、気にせずオードレは子龍の体に抱き着き拘束した。
「姉さんっ!?」
「構うなっ! 使えっっっ!!」
「――っ! はいっ!!」
振り返りもせずに、叫ぶオードレ。その言葉に、何をと問う必要はない。シャルロットの目の前には、女の投げた氷桜刃の姿がある。
刺さった大地を鞘に見立てて、柄を握った女が放つは居合抜き。胴を狙えば姉弟子たる女も巻き込むが故に、狙うは恐るべき修羅の首。
「今度こそ、終わりですっ! 雷氷、光波刃!!」
僅かに胴と首を繋げていた肉片が、その一撃で断ち切られる。その衝撃で冗談のように首が舞い、そのまま地に落ち転がっていく。
残る肉体もオードレの拘束が緩めば、自然と重力に従って倒れていく。音を立てて大地に沈む残骸を前に、オードレもシャルロットも、これで終わりと安堵した。
故に――余りにもその光景は、想定外であったのだ。
「ま゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛だぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛や゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っっっっっ!!」
「馬鹿なっっ!?」
「そんな、首だけなのにっっっ!?」
肺はないのに、喉も殆ど残っていないのに、如何にして音を紡いでいるのか。そんな場違いな疑問さえ浮かんでしまう程に、目の前の光景は現実離れしていた。
皮も髪も残っていない頭部が、首から上しかないのに駆動する。闘気をジェット噴射のように利用して、飛翔する首は剥き出しの歯を用いて地に転がった大太刀を咥える。そして、敵対者らの首を狙うのだ。
死して尚、襲い来る様は宛ら飛頭蛮。首を切り落としても駄目だと言うのなら、どうすれば死ぬと言うのか。どうすれば止まると言うのか。
迫る刃を前に動揺から、硬直してしまった女達。故に当然、彼女たちは反応すら出来ない。刃を咥えて迫る子龍の一撃は、当然のように振り抜かれた。
(ああ、これは、もう……)
「姉さんっっっ!!」
諦観が湧く。悲鳴が零れる。迫る刃を認識した時点では既に遅く、故にオードレは目を伏せる。
氷の鎧を展開する、力ももう残ってはいない。そんな女は冷たい刃の衝撃を己の首に感じて、これで終わりかと悔やみながらその命を終えようと。
「……私は、生きて、いるのか?」
しかし、終わりの時は訪れなかった。目を開き直して、何故と首に触れる。皮膚は赤く染まっている。だが、それでも、その傷は浅かった。
「奴は?」
「……もう、動きません。流石に、死んだのでしょう」
疑問を零せば、近付いていたシャルロットが答えを返す。その視線を辿って見詰めた先には、刀身の折れた柄だけを咥えたままに地に転がる傷だらけの首。
周囲に散らばる砕けた鋼が示している。オードレの命を奪わんとしたその刀身は、しかしその直前で砕けたのだろうと。故にオードレの命は、紙一重で救われたのだ。
「姉さんの首に刃が当たった瞬間、剣の方が耐えられずに砕けていました。それを認識した直後、諦めたかのように闘気が消えたので」
「文字通り、武具の差で救われた、か。首だけになった男の方が、鋼よりも壊れんとはな。ホラーも過ぎて、コメディのようではないか。化け物め」
子龍の大太刀は、心威による作り替えで強度を犠牲にしていた。更には先の交差により、既に罅割れて限界に程近かった。
それでも、彼が万全ならば結果は違っていたであろう。闘気で武器を強化出来ていれば、転がる首はもう一つ増えていた筈だ。
そう理解して、揃って背筋を振るわせる。化け物め、と言う言葉には万感の思いが籠っていた。修羅の誰も彼もがこうならば、勝ちの目などないではないかと。
「姉さん。六武衆の全員が、この男のような怪物なら――私たちは勝てるんでしょうか」
「……ふん。此度の勝敗を語れば、我らの敗北と言わざるを得ん。だが、それでも生きているのは私たちの方だ。ならば、それが答えだろうよ。無駄なことを問うな、シャルロット」
「はい。そう、ですね」
しかし奇跡や偶然の産物とは言え、生きているのは女達の側である。修羅がどれ程の怪物であったとしても、生き延びることは出来るのだと。
オードレが語った言葉は、妹弟子に言い聞かせると言う体ではあったがそれ以上に、自分を鼓舞するための言葉でもあったのだろう。体を震わせる恐怖を、女はそうして飲み干した。
(体は、暫し動かんな。他の者らが、どうなったのかは読めんが、そう簡単に負けはしまい)
どうあれ、この場は二人の勝利である。それを認めて、そして己達に与えられた役割を考慮して、厄介だなと息を吐く。
残る戦場は三ヶ所。あの猫人が増援要因と語った以上、他の戦場では今の自分達以上に皆が消耗しているのだろう。そう考えると、気分が鬱屈してしまうのは避けられない。
「暫し身を休めるぞ、シャルロット」
「はい。それで、回復次第、他の助力ですね」
「ふん。分かっているのならば良い」
それでも強い言葉で嘯きながら、オードレは一先ず身を休める。次なる戦いの場で足手纏いとならぬために、妹弟子と隣り合って壁を背に、ゆっくりと瞳を閉ざすのであった。
子龍君、退場。首だけになっても粘りましたが、先に鋼の刃が限界を迎えました。その事実を前に動揺したことが、決着の理由。
執着だけで死後も動き続けていたので、その心が届かないと一瞬でも認めてしまった時点で唯の死体に戻ってしまう。
故に刃が折れた時、これは無理だと思ってしまい、彼は届かなくなりました。子龍が剣に拘らず、歯で攻撃を仕掛けていたら、ドー姉も此処で喉を食い破られて死んでいたことでしょう。
修羅であることを嫌い、王の臣下であることを誇る彼にとって、己が生来持つ部位を最後の頼りにすると言うのは難易度が高いと言うか、無意識に避けてしまう行為ではあるんですけどね。
それでも意識があれば、剣が壊れそうなことに気付いて、己の肉体に頼ったでしょう。
そういう意味では、意識が殆ど残っていなかったから負けたとも言えます。




