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Re, DS  作者: SIOYAKI
第四章 死して後已む
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第64話

決戦、六武衆①


 悪竜王が加減をせず、本気で大地を殴れば星が割れる。比喩ではなく物理的に二つに割れて、地球文明は諸共に崩壊するであろう。不完全な状態で、彼の拳はそれ程の破壊力を有していた。


 完全な誕生を迎えた今、その出力は嘗ての二倍か三倍か。その気になれば惑星サイズの質量を拳一つで塵屑にまで磨り潰すことさえ、今の彼には容易いだろう。それ程の威力は、果たして過剰か。


「うぅぅぅぅああああああああああああああっっっ!!」


 否。猿叫にも似た咆哮と共に動き出すヒビキは、己の本気ですら眼前の男に対しては不足が過ぎると断じている。確信だ。炎王と言う人の極致は、自身の拳など無傷で容易く凌ぐであろう。


 故に加減は不要。魔王の縛りは機能しない。そしてそれだけでも足りていない。瘴気で強化した拳を振るうだけでは、この男には届かない。ならば更に強化を重なる。生涯初の全力全開。底の底まで振り絞るのだ。


『燃え滾る情熱。吹き荒ぶ衝動。今此処に開戦を告げよ、戦いの時は来た。展開(enchant)――――狂過(Reckless)凶靭(burn up)


 生やした尾で大地を叩き、王に向かって跳び掛かる。その最中、滞空する一瞬に両の肩に生えた詠唱補助機関が魔術を行使する。選んだ魔術は、人にとっては欠陥品とされるもの。


 体内で魔力の爆発と圧縮を繰り返し、その全てを肉体強化に回すと言う第四小節魔術。僅かでも制御に失敗すれば瘴気汚染による堕落を引き起こし、成功すれば増幅し過ぎた身体能力で自身の体が崩壊すると言う特攻魔術。使えば必ず死ぬとさえ言われる、最低最悪の欠陥術式。されどこの場においては、最良最適の魔術である。


 制御に成功しても、自壊する程に悪竜王の肉体は脆くない。失敗すればそれはそれで、手軽に扱える瘴気が増える。故に最良。

 そんな魔術を接敵するまでの一秒以下の時間で十は重ねて、ヒビキは炎王へと拳を振るう。その威力は最早、惑星どころか一星系すらも滅ぼし兼ねない程のエネルギーを有していたであろう。


「ふむ、成程。拳に込める、意志は見付けたか」


 しかし、その威力が他者の目に見える変化を起こすことはない。先の焼き直しのように、王は片手でそれを受け止める。その瞬間の衝撃で空の雲が全て消し飛んで、地面が大きく揺れて小さくはない亀裂が走った。


 だが、それだけだ。地球サイズの質量なんて一瞬で消し飛ぶだけのエネルギーをぶつけられ、その大半を己の体だけで受け止め切ったであろう男は無傷。

 悠然と見上げるその瞳を見て、ヒビキの内に広がるのは焦燥と納得。馬鹿な、という思いはあった。だが、それでこそと言う思いも確かにあったのだ。


「だが、心と体だけでは足りん。それでは所詮は、単なる暴よ」


「分かって、いたさ。貴方に、殴り合いじゃ届かないってことはっ!」


 星を砕く程の力を平然と受け止めた男に対し、拳をぶつけた少年もまた平然と言葉を返す。こうなるとは分かっていた。接近戦では二席にも勝てないのだ。ならばその上の相手に、殴り合いで勝てよう筈もない。


 故にこの一撃は、元より勝利を狙ったものではない。牽制や駆け引きでもなくて、目的はたったの一つ。


「これは僕の、宣戦布告! あの時とは違うぞって、示すための一撃! だからっ!」


 唯、意地を示すため。その物言いに小さく笑った王の目を見て、ヒビキも太々しく笑う。何処か悪童を思わせるような笑みは、彼の内に溶けた嘗ての英雄の名残であろうか。


「こっからは、こっちの得意分野で行かせてもらうっ! 発動(Exit)――――空間(Teleport)跳躍(ation)!」


 意地は示した。ならばもう、手段は選ばない。そうと言わんばかりに魔術を用いて距離を取ったヒビキは、空中に浮かび無数の魔法陣を展開する。それは先に、六武の二席を圧倒した手段だ。


「二席を圧倒した雷の豪雨! 貴方も多少は、手を焼くだろうさっ!」


「……なるほど、朧は負けたか」


 雷が空より降り注ぐ。豪雨や嵐を思わせるその光景を前にして、しかし炎王が呟いたのはそんなこと。静かに何かに思いを馳せるように瞑目すると、雷が落ちる前に目を開いて口にする。窮地にあるとは思えぬ自然さで、彼が紡いだのは感謝の色が籠った言葉であった。


「苦労を掛けたな。その功を労い、付き合ってやっても良いのだが……いや、それはお前の為にもならんか」


 王の強さが壊してしまった古い馴染み。彼女を止めてくれたことへの感謝を口にして、しかしだからこそ王は決定を揺るがさない。

 その掌に赤が生まれる。燃え盛る炎を思わせる色は光のままに広がって、周囲一帯を満たしていく。そしてその光に触れた瞬間、降り注いでいた豪雨が消えた。


「え?」


 何が起きたと、目を丸くしながらヒビキが落下する。雷が消えた。空から落ちる。魔術が使えない。

 一体どういうことだ。意味が分からない、と。混乱する少年に、返る言葉は静かなもの。


「何を驚く。瘴気と精霊は相反するもの。負数と正数の生命力。同量をぶつければ、詰まりは差し引きゼロ。対消滅を起こすのだ。ならばこうして、己が精霊力を周囲に撒けば、お前が魔術を使えなくなるのも道理であろう」


「は? 嘘、でしょ!? 何言ってんだよ! 精霊そのものである精霊王だって、自分の領地で、不完全な僕の魔術を消せなかった!! 星の生命力である精霊力じゃ例え星を使い潰すだけ絞り出しても、魔王の権能を抑える程の量には絶対届かない筈だろう!!」


 星の中心とも言える聖地で戦った土の精霊王は、アジ・ダハーカの権能を前に為す術がなく敗れる他になかった。


 確かにあの時のクロエは、魔王アカ・マナフの封印維持に力の多くを割いてはいた。それでも、あの領域では悪竜王も弱体化していた。真に産まれてもいなかった。あの時とは、今のヒビキは格が違うのだ。


 ならばどうして、精霊の力ごときで今のヒビキの権能を封じられよう。出来る筈がないのだ。本来は。


「闘気術。瘴気も精霊力も闘気も全て、その本質は命が生み出す力である。故に闘気は、正にも負にも容易く染まり位置を変える。負数の量が多過ぎて、正数が足りぬと言うのなら、己の生命力を継ぎ足し差を埋めてやれば良い。それだけのことよ」


 地に転がりながら動揺を叫ぶヒビキに対し、炎王はその理を告げる。確かに星の力のみでは、悪竜王の権能を封じ切ることなどは出来ぬだろう。


 だが、炎王と言う男は星より強い。そして闘気には、瘴気や精霊力に染まりやすいと言う性質がある。故に彼は膨大な闘気を練り上げて、自身が使役出来る精霊の力を強化した。


 結果が即ちこれである。ヒビキ・タツミヤ=アジ・ダハーカの権能は、此処に完全に封じられた。この武の極みと言うべき男を前に、接近戦しか行えなくなったのだ。


「お前は確かに己に挑み、己はそれを良しとした。だがしかし、今のお前は己と戦う域には居らん。故、暫しの手慰みだ。手解きをしてやろう。だが生憎と、拳の届く距離の外は専門外でな。魔術(ソレ)は教えられん故、ここで封じさせて貰う」


「く――っ!」


「体の内で完結するものは封じん。肉体強化や思考の強化。そうしたものは、好きに使うが良い。そうでもなくば、今のお前では足掻くことさえ出来んだろう」


 蔑んでいるのではなく、単なる事実を確認するかのように告げる炎王。その言葉に舐めるなと叫びたくなる反発を抱きながらも、起き上がったヒビキは認める。王の言葉は、その悉くが事実であると。


 ヒビキの近接格闘能力は、六武衆の二席より低い。となれば強化と回復以外の魔術が使えぬ以上、炎王に勝てる道理はない。どころか、彼の言う通り、戦う資格を有する域にすらないだろう。


 それでも――


「舐めてくれるよ! 強いからってさぁっ!」


 事実だからこそ、認めて堪るかと叫ぶのだ。諦めて堪るかと吠えるのだ。今は内に何もない伽藍洞な強がりでも、それを事実と変える為。

 それでもと叫んだ少年は構えを取る。その不格好な姿を見て、王は一つ笑ってから直ぐに表情を消して動き出した。


「さて、先ずは基本だ。少し痛むぞ」


「ぐ――え――っ!?」


 王の姿が消えた。そう思った直後には、ヒビキの腹に王の拳が突き刺さっていた。出血はない。皮も肉も傷一つ付いてはいない。しかし、唯痛い。


(い、息が、出来な……、なん、で? ぼく、は……呼吸、なんて、要らない、筈なのに)


 そして、呼吸が出来なかった。蹲った少年は陸に打ち上げられた魚のように、口の端から涎を垂らしながらパクパクと唇の開閉を繰り返す。


 打撃による激痛と、呼吸が出来ないと言う苦しみ。本来、人間ではない悪竜王は呼吸が出来ずとも活動出来る。深海だろうが宇宙空間だろうが平然と生きていられる筈なのに、呼吸が出来ないと言うだけで死に掛かっている。その事実が、異常であった。


「己が止めたのは、呼吸に必要な肉体の部位だけではない。息を吸って、吐くと言う認識。それがなくば、人は窒息して死ぬと言う概念。それをお前の持つ魂魄に刻んだ。息をせねば死ぬ。お前の心に、そう思わせたのだ。故に今、呼吸が出来ぬお前は苦しんでいる」


 炎王の言葉が正しければ、この苦痛は所詮は錯覚に過ぎぬのだろう。だが思い込みと言う現象は決して馬鹿に出来るものではなく、事実として今にヒビキは呼吸が出来ぬ苦しみで起き上がることさえ出来ずに居る。


「ぐ、あ、な、んで……」


「何故、か。言ったであろう。先ずは基本だと。呼吸は全ての基本である。それは魔物であったとしても、生命活動をしている個体であれば変わりはしない」


 何故にそのような苦痛を与えたのか、上手く回らぬ舌で問う少年に王は返す。呼吸はあらゆる武の基本である。そうとも、武の教授だ。

 炎王と言う極まった修羅と彼の間合いで戦う上で、最低限ヒビキが身に付けねばならぬもの。それこそが、武の術理であったのだ。


「先の一撃、横隔膜に打ち込んだ。正しい形で呼吸をせねば、息を吸えなくなるようにな」


「正、しい、呼、吸?」


「然り。先ずは背筋を正し、臍の下、丹田を意識しろ。そしてゆっくりと口から息を吐き、中身全てを吐き切った後に、ゆっくりと鼻で息を吸え」


 告げられた言葉に、苦悶の中にあるヒビキは歯噛みしながらも従う。どうにか背筋を正してから、炎王の語る通りに息を吸って息を吐く。

 それまでの窒息状態が一瞬で改善したかと思えば、不思議と体が温かくなっていく。そして、そんな中でヒビキは気付く。肺の辺りに、小さな火を思わせる熱があるのだと。


「これは? 何か、温かいのが体の中に」


「認識したな。それは己が先に打ち込んだ、力の残滓だ」


 その熱は魂を誤認させるために、炎王が打ち込んだ生命力である。ヒビキの体内で渦巻く瘴気さえも跳ね除けているその力を感じて、少年は胸の辺りを片手で抑える。何とも言えない、不思議な気分であった。


「次だ。己の内にある、同じ感覚を探し出せ。お前の器は、瘴気と言う黒に染め上げられた物。故に正常な呼吸により生命力の高まった今、はっきりと分かる筈だ。他の誰かの悪意ではない。お前自身の命の光が」


 言われて、ヒビキは瞳を閉じる。そして、その感覚と同じものを探す。見付け出すのは、簡単だった。何せ、ヒビキの体内には瘴気が満ちている。故にそうでない部分を探り出せば、それだけで見付け出せた。


 だが同時に、酷く儚いとも感じる。それも当然。闘気は瘴気や精霊力に染まりやすい。ヒビキの体内には瘴気が満ちているのだから、ヒビキの生命力の大半はその瘴気に喰われてしまっている。


 染められていない純粋な生命力など、一割以下にも満たぬであろう。それも元々、発達障害を抱えていた子供の生命力の一割以下だ。炎王どころか健常者のそれと比べても、吹けば飛ぶ程度の量しかない。


「見付けたな。ならば、其処に闘志を混ぜろ。戦うと言う意志を強く持ち、その生命力を燃やすように己の内で回すのだ」


 正しい呼吸の次に学ぶは、闘気を練り上げる方法。本来、難しいとされる技術であるが今は例外。ヒビキだけは例外なのだ。


 闘気の練り上げに際し、最も困難なのは生命力の感知。しかしそれも体内に渦巻く膨大な量の瘴気が故に、今のヒビキには簡単に行える。

 次に問題となるのが、生命力に意思を混ぜて燃やすと言う行い自体の困難さ。されどそれもまた、内包する闘気の量が少ないが為に難度が下がった。


「ふー、はー。……これが、闘気」


 そう。生命力の感知能力と闘気の精製能力。この二点において、少年の逆境は起爆剤と成り得る。故にヒビキはその面においては、当代最高の才と見比べても見劣りしない程に巧みと言えた。


 天賦ではない。環境が磨き上げた才覚。それによってヒビキは、僅か数度の呼吸で闘気を練り上げると言う感覚を掴んだ。長すれば直ぐにも己に追い付くであろうその能力に、炎王は巌のような言葉で告げる。


「そうだ。覚えておけ、それが戦場における正しい呼吸。そして、体内で闘気を練り上げる感覚だ。戦場においては、それを常に乱さず行うことこそ理想となる。故、お前も為せるようになると良い」


 呼吸こそが戦場においては、基本となる重要なもの。呼気のタイミングで敵の動きを察すると言う技術もあるが故に、東の武人は常にそれを乱さないことを理想とする。

 そう語る王の言葉を胸に刻みながら、息を吸って吐くと言う簡単な行為をヒビキは繰り返す。その度に体の奥では燃えるように、僅かな生命力が闘気と成って増大していった。


 それでも、生成出来た闘気の量は、酷く少なく頼りない。元が少ないのだ。それも当然。悪竜王が有する膨大な瘴気に比すれば、雀の涙と呼ぶにも頼りない量だ。

 ヒビキの見た目通り以下、か弱い子どもの生命力で作れる程度の闘気量にさえ足りていない。そんな程度のものが魔王の力に加わったとて、百万の力が百万と一に成った程度の誤差だろう。


 だと言うのに――不思議と、心が熱くなって、笑みが零れた。


(呼吸一つ、変わっただけ。気の強化が、出来るようになっただけ。なのに、こんなにも世界が変わった気がしてる)


 立ち上がった少年は、己の手を見下ろしながらに思う。不思議な感覚だ。この程度の闘気では魔術による強化どころか、瘴気による強化の足元にも及ばない程度の効力しかない。


 今までの自分に小さな毛が一本生えた程度の誤差な筈なのに、何故だか世界が変わった気がした。それはきっと、これまでが不毛であったから。押し付けられた物ではなくて、初めて手にした己の物であるからだろう。


「ふっ。試したい、と言う顔だな。良い、試してみろ」


 だから、うずうずと体を動かしたくなる。そんな少年の顔を見て、一瞬笑った王は片手で手招きをする。

 やってみろ、と言うその態度に否と返す心算はない。瘴気と魔術の強化の上に、今に覚えた闘気の強化を加えてヒビキは駆けた。


 そして、全力全開で拳を振るう。手加減などはなく、唯我武者羅に。その一撃は、しかし当然受け止められた。


「――っ! 瘴気と魔術と闘気の三重強化! それでも、まだ貴方には届かないっ!」


「当然だ。そう易々と覆るような差ではない。己に挑まんとする意気込みは買うが、先ずは一つ一つと積み重ねることが肝要だと学ぶが良い」


「挑んで来いって言ったのは、貴方じゃないかっ!」


「そうでもあったな。ならば、前言は翻さん。気が済むまで、やってみろ」


「言われなくてもそうするっ!」


 届かないと分かっていて言ったのかとヒビキが反発すれば、少し楽し気に炎王は返す。そして再び少年の殴打。それを受け止め、威力を殺し切ってから王は受け流す。


 それで終わりかと言わんばかりの視線を炎王が向けて、なにくそと反発したヒビキは更に拳を振るう。ラッシュラッシュラッシュ。一撃も通らない拳の乱打を続けるヒビキはしかし、それでも楽しそうにも見えた。


 それはきっと、ちっぽけな闘気を得たからだろう。傍目には何一つ変わらないように見えたとしても、ヒビキが初めて自分で得た力だ。神に与えられた悪竜王の力ではなくて、人に呪われた神籬の力でもなくて、ヒビキが初めて得た物だから。ちっぽけでも、大きかった。小さな一歩は、大きいのだ。


 そして、相手がこの王だからと言うのもあるのだろう。目指したいと望んだ相手。乗り越えたいと願った相手。恐らくはこの世界で唯一人、ヒビキの全力を受け止めることが出来る人。

 加減をしないなど初めてだった。躊躇が要らないなど他になかった。それでも届かない程に強いだなんて、この人以外に居やしない。だからこそ、追い掛けるだけの価値があるのだと。焦がれる瞳で、少年は眼前の大人を見た。


「呼吸は安定したな。なら、そろそろ次に進むとしよう」


「――っ! このっ!」


 ヒビキのラッシュを受け止めていただけの炎王が、受け止めるのを止めて大きく動いた。その速力は、亜光速を超える速さ。だがそれだけならば、ヒビキの視力で追えた筈のもの。

 しかし、ヒビキは一瞬で炎王の姿を見失った。何故ならば唯単に速いのではなくて、朧の時と同じように、其処には動きの巧みさもあったのだから。


「見の目に頼り過ぎだ。観の目も使え」


「何さ、それっ!? 知らないよ!!」


「目に見えるものだけを見るなと言うことだ。気の流れ。僅かな音。行動の予測。それら全てを包括し、実ではなく真を視ろ」


 意識の隙間から隙間へと、認識から外れる動きで少年の背を取る。そして、軽い掌底。されど炎王からしてみれば軽くとも、ヒビキにしてみれば痛みを伴う重い打撃。


 血の混じらぬ反吐のみを吐いて、よろけた少年は舌打ちして振り返る。顔を向けた先に居た王は、しかし直ぐに視界の外へと。圧倒的な速さと巧さが混ざったその動きは、目だけ追えるものではない。


「くそっ。ならっ、朧を見付けた時の感覚でっ!」


 ならばとヒビキは、生命探知のための器官を機能させる。動きの巧さに対するために、目の代わりとなる器官を増やすと言う化け物ならではの対抗策は――しかし、王には通じない。


「愚か者がっ! 人でなきことに、安易に頼るな! それは、人としての貴様の歩みを妨げるものと知れ!」


「な――っ! がは――っ!?」


 ヒビキが機能を増やした途端に、炎王は速度を上げたのだ。光よりも早く動いて分裂したかのように錯覚させる王の挙動は、周囲一帯を感知し続ける目を以ってしても捉えられない。いいや、見え過ぎてしまうからこそ、逆に分からなくなってしまう。


 故に炎王が繰り出す打撃の全てを、防ぎ切れずにヒビキはその身に受け続ける。大きな傷はない。大きな痛みもない。だが鈍い痛みと影さえ踏めぬ屈辱は、決して軽いものではなかった。


「お前は魔王であると同時に、人でもあるのだろう。ならばどちらも振り絞らねば、この己には届かない。しかし今の貴様が有する人の力は、見るに堪えん程に脆弱だ。故に、学べと言っている!」


「ぐ、くそっ! 言いたい放題、言ってくれちゃってさぁっ!」


 一体どれ程に殴られたであろうか。一瞬ふらつく足で如何にか踏ん張って、歯を噛み締めたヒビキは見えない目を閉じる。

 生命探知の機能を閉じれば、感じるのは炎王が速度を落としたであろう感覚。敢えて合わせているのだと感じて、噛み締める力が強くなる。


 それでも、ヒビキは己の未熟を認めた。そして、増設した瞳だけではなく、物理的な二つの瞳も此処に閉じる。

 目で見るなと言われた。ならば目で見ず、それ以外を感じてみようと。闘気を燃やすことで繊細さを増した四つの感覚は、確かに何かを捕らえていた。


「後ろっ!」


「そうだ。それで良い。それが個ではなく、全を視る感覚よ」


 肌で感じる大気の流れ。耳で感じる微かな音。それを頼りに背後に向かって拳を振るえば、我が意を得たりと野太い笑みで拳を受け止める男の姿が。


 目を開いたヒビキも笑う。しかしどちらの笑みも一瞬で、次の瞬間には真顔に戻った炎王が拳を弾いて再び姿を消した。

 されど敢えて、分かりやすく動いているのだろう。目を開いたままでも、もう何処に居るのか、何処へ行くのか、分かっていた。


「そっちかっ!」


「ふむ。観の目は十分。魔物としての機能が故か、思ったより慣れるのは早かったな」


 五感全てを用いて、相手の位置を判断する。相手の動きを予想して、次は何処へ現れるのかを察知する。


 魔王故に優れた身体能力と、回転速度ならば優秀な頭脳。そして閉ざしたとは言え、生命探知の機能を持つが故にの慣れ。

 それら全てが合わさって、ヒビキは全を視る感覚をあっさりと見に付けた。まだ未熟な面は確かにあるが、それでも合格点には至っていた。


「なら、次だ」


 故に王は、次の段階へと進める。見えているだけでは届かない。追えているだけでは意味がない。その領域へと。


「このっ! くそっ! 見えてるのに、追えてるのに、当たらないっ!」


「戯け。目が良くなっただけでは、な。動きの無駄が多過ぎる。それでは、当たる方が難しい」


 動きの速度や巧さはそのまま、炎王は其処に防御と回避を加えた。唯それだけで、ヒビキの拳は全く届かなくなってしまう。


 それも当然、ヒビキの動きは微睡んでいた頃と大差がないのだ。駄々っ子パンチやテレフォンパンチ。そんな見え見えの大振りでは、動きの予測が簡単過ぎる。防ぐのも躱すのも反撃するのも、全てが容易いものなのだから。


「体幹を容易く崩すな。敢えて崩すと言う手もあるが、お前の技量ではまだ早い」


「く、っぅ!」


 防ぎ、躱し、そして王は一撃を加える。攻撃とはこう行うのだと、口で伝えながら体にも分からせるように。

 優れた動作で掌底を、流れるような形で蹴撃を。美しいとさえ感じる演武を前に、ヒビキは何一つとして対処が出来ない。


「右の手を振るう時、左の足で踏み込む時、お前はそれしか考えていない。それは間違いだ。五体は繋がっている。手足も胴も全て、お前と言う一個の器だ」


 ヒビキの動きは、未だに野生の暴である。確かにそれでも、圧倒的な身体能力があれば大抵の相手は問題がないのだろう。

 されど此処に在るは、ヒビキを超える身体能力と武術の極みと言うべき技巧を併せ持つ修羅の王。彼がその気になったのならば、獣の暴など何一つとして通らなくなる。


「頸力を意識しろ。唯漫然と手足を動かすのではなく、全てを一個と捉えた上で一部の無駄もなく動かせ。お前が挑まんとする域とはな。それが出来て当然の域であるのだ」


 単なる暴では、真なる武を砕けはしない。故にヒビキがこの男に勝とうと言うのならば、武の極意を身に付けねばならぬのだ。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


「息が乱れているな。呼吸は全ての基本だ。簡単に乱すな。それでは動きの予兆を読まれる」


「好き勝手、言ってくれる、よっ!」


 されど極意とは、そう容易く得られるような物ではない。体質故に闘気の練り方も観の目もあっさりと見に付けた少年は、しかし才能の無さが故に此処で停滞する。


 どう動けば良いか見本を見せられたからと言って、その通りに直ぐ動けるようになる訳ではない。凡夫には弛まぬ鍛錬が必要不可欠であり、しかしヒビキの内にはそんな積み重ねなどないのだから。


「ふん。当然だ。己は修羅の王だからな。身勝手なのは、重々承知よ」


「が――は――っ!」


 王の守りは崩せない。されど臆して退くことだけはせぬのだと、前のめりに進む少年。しかし、その結果は明白だ。

 膝を付いて、口から汚物を吐き出している。呼吸を続けることも苦しくなって、立ち上がることも辛くなって、それでも少年は口元を拭って前を見た。


「はぁ、はぁ、はぁ……。まだ、僕はやれるっ!」


 挑んでも、勝てるだなんて思えない。教えられても、その動きが身に付くだなんて思えない。そんなことは、始める前から分かっていたのだ。ならばどうして、今更に心折れることなどあるものか。


「良い啖呵だ。ならば見せてやろう。我が武の粋を」


 空っぽの実力で、それでも意地を吠えたヒビキ。その在り様を良しとして、王は此処に初めて構えを取った。

 攻め手と受け手が此処に変わる。そうと認識したが故に、ヒビキも稚拙ながらその構えを真似る。来る、そう思った時点で既に遅かった。


「東青」


 炎王の左手が、風を伴い振るわれる。神速であり疾風でもある手刀は、少年の右肩から左脇へと逆袈裟の傷を刻み付ける。


 そして、それだけでは止まらない。まるで回る独楽のように振るった勢いのままに、王はヒビキに背を向ける。されどそれは、隙にはならぬ瞬きにも等しい時のこと。


「西白」


 続く一撃は右肘。流れる水の如き動きで放たれた肘打ちは、凍て付く氷を纏ってヒビキの顔へと叩き込まれる。

 錐もみ回転しながら倒れる少年は、その中で理解した。目にした氷は幻覚などではなく、炎王が闘気を以って作り出したものであると。


 闘気の変質。属性の付与。東の一撃が風を纏うそれならば、西の一撃は氷を纏うそれである。そして二撃で、この拳武は止まらない。


「南赤」


 倒れるヒビキに向かって、右足を屈めた王は回転の勢いを一切弱めずに蹴りを放つ。放たれた後ろ回し蹴りには、燃え盛る業火の如き闘気の力が伴っていた。


 その一撃を胴に受け、ヒビキの体は大きく吹き飛ばされていく。しかし、それでもまだ終わらない。放った蹴りの直後に右足を引いて、軸足で回転を続けた王は屈めた右足で強く大地を蹴り付けた。


「北紫」


 跳躍。加速。空中で体勢を整えた炎王は、吹き飛ばされたヒビキよりも早く飛翔する。そして体が交差する瞬間に、その小さな体に雷を纏う飛び蹴りを放った。


 空中で更に一撃を受けた少年は苦悶を叫ぶ余裕もないままに、吹き飛ばされて公園中央の時計台に突き刺さる。北の牙が轟音と共に崩れ落ち、着地した炎王は流れるような動作で右手を腰溜めに握り締めた。


 頸力、と言う点では其処で途切れている筈である。だがしかし、その握り締めた拳には練り上げた闘気の全てが一切のロスなく収束していた。

 東の風。西の水。南の火。北の雷。四属が混ざり合った闘気は、そのどれでもありどれでもない。純粋無垢な白き輝きは、あらゆる守りを許さぬ至高の闘気だ。


 大地を深く踏み締めて、王は一歩を踏み出す。その一歩の踏み込みで、物理法則を歪めて少年の眼前へ。如何にか起き上がろうとしていたヒビキは、羽搏く鳥を幻視した。


「央座玉雀・鳳凰拳武」


「――――っ!!」


 左手と風の闘気を用いる東青。右手と氷の闘気を用いる西白。右足と火の闘気を用いる南赤。左足と雷の闘気を用いる北紫。

 それら変幻自在の四連撃の後に、用いた闘気全てを混ぜた玉雀の一撃を放つ。それこそが、炎王が至った武の極み。鳳凰拳武。


「さて、今ので死んだ――と言うことはあるまいな」


「く、は……ぐ、う……」


 崩れた瓦礫の前に立ち、問いを投げ掛ける炎王。それに対し、ヒビキは真面に答えも返せず呻くばかり。されど、何とか生きてはいた。


(加減、された。あの人が、本気だったら、今ので僕は死んでいた)


 しかし、確かに理解する。今の五連撃。そのどれか一つでも、王が本気であったのならばヒビキの命は終わっていたと。

 炎王は魂を直接攻撃することが出来るのだ。悪竜王の再生能力を阻害して、拳一つで殺し切ることさえ彼には容易いことであろう。


 そうなっていないのは、彼が加減をしているからだ。見せてやろうと語った通り、見せる為に使ったからこそ、ヒビキは生きていられるのである。


(舐められているんだ。侮られている。加減されてた。分かっているさ、僕の方が下だって。だけど――)


 侮りも、加減も、妥当な話ではある。ヒビキと炎王の間には、そうされても仕方がないだけの差が確かにある。だが、それでも、思うのだ。


「頭に、来るよ。本当に、さぁ」


「ふん。許せ、性分だ」


 腹が立つ。頭に来る。そう、まだ挑戦しようと言う意志は絶えていない。だから、口元を右手の甲で拭った少年は、瓦礫を蹴飛ばしながら立ち上がる。


 目に物を見せてやる。度肝を抜いてやる。先の勝利を諦めた訳ではないが、今だけはそれ以外を考えない。出来る筈だ。自分ならば、そう確信して右手を強く握った。


(確か、こうだ。この人の動き。その全てを学ぶことは出来ないけど、今見た気の練りだけは僕にも出来る)


 この今に魅せられた炎王の絶招。鳳凰拳武の大半は、ヒビキには真似が出来ない代物だ。一切の淀みなく行われる四連撃と最後の一撃。その体の動かし方は、精密過ぎて意味が分からない。その変幻自在さは、要領の悪いヒビキに真似が出来るような物ではない。


 だが、最後の玉雀。それだけは練り上げる気が特殊なだけで、型自体は単純な正拳突き。故に闘気の練りには才覚のあるヒビキなら、これが一番習得し易い。


「ほう」


 感嘆の息を漏らした王の前で、ヒビキは目を閉じ呼吸を整えた。そして先ずは体内で、生命力を四つに分ける。内の一つは火を思わせる意思でを炎の闘気へと塗り替えた。


 残る三つも同じだ。氷を思わせる冷徹さ、疾風を思わせる鋭さ、雷を思わせる苛烈さ。それらの意思で四属性の闘気を練り上げ、そしてそれを体内で回しながら混ぜ合わせる。


「くっ、ぐぅっ」


 色を与えた闘気は、内で強く反発する。それは精霊力と瘴気の対消滅とは異なるが、故にそれと真逆に出力を唯只管に上げていく。

 ヒビキが魔王でなかったのなら、肉体が内から破裂していただろう。密閉された瓶の中で爆竹を破裂させるような感覚に、それでも耐えた少年は白き闘気を作り上げる。


 全身に満ちた、身の丈を超える力。それを何とか制御して、握った右の拳に収束させる。肩幅に足を開き、腰を下ろしながら、腰だめに右手を引く。

 真似るのは、炎王が見せたその構え。放つのは、炎王が示したその奥義。或いはと敢えて見せた炎王は、それで良いと受けて立つ姿勢でその時を待つ。


「行くよっ! 央座・玉雀っっ!!」


 動かぬ王に向けて、ヒビキが正拳突きを放つ。轟と言う音と共に、腰を落として片手で受け止めた炎王の体が一歩退く。白き鳥を思わせる翼が、少年の背に羽搏くように現れ消えた。


「闘気の練りは、悪くはない。だが、動きの型が未熟だな。力の多くを、己の動きで無駄にしている。精進するのだな」


「くっ、言ってくれる。分かってるよ、そんなこと!」


「しかし、そうだな。己の奥義を盗んで見せたのは、お前が初めてだ。己の臣である六武にも、白の闘気を練れる者はいない。故、その点だけは認めてやろう。良くやったな、小僧」


「――っ!」


 奥義を模倣され、打ち返されても炎王は揺るがない。その不遜とも傲慢とも取れる在り様のまま、上から目線で告げて来る。

 そんな男に対し、当然少年の内には反発がある。舐めるなと、ふざけるなと、そういう想いは確かにある。だが、それ以上の歓喜もあった。


「まだだよ。まだ、僕はこんなもんじゃないっ! だから、此処で貴方を超えてやる!」


「ふっ、その意気や良し! そのまま折れずに、足掻いてみせろっ!!」


 だから緩みそうになる頬を隠すように、そして己自身を鼓舞するように、強い言葉を告げてヒビキは睨み付ける。今もまだ見上げる位置に居る王は、微かな笑みと共に言葉を返した。


 ヒビキの挑戦は、まだ戦いと言う形にさえ成ってはいない。それ程の差を見せ付けられて、それでも少年は足掻き続ける。目指そうと言う意志は、乗り越えたいと言う渇望は、まだ途絶えてはいないのだから。






 強くなりたかった。武の極みと語られる境地へ、到達したいと願った。それは果たして、何時からか。それは果たして、何故なのか。何か切っ掛けがあったのかもしれないし、譲れぬ決意があったのかもしれない。


 されど三百年。長き時を生きた今では、もう思い出せぬ程に古い記憶。思い出せぬ程に色褪せた、実在すらも怪しい立脚点。ならばそのようなもの、あってもなくても変わらぬだろう。


 そう。理由は要らぬ。決意も知らぬ。今も我は此処に生きている。ならばこそ、進むのだ。見果てぬ道を、唯只管に。果てに何もなかったのだとしても、何一つとして問題はない。


 元より理由など知らぬのだから、そうとも成果とて求めてなどはいないのだ。


「武の頂きは見果てぬ程に、遠く険しい。そして非情な程に理不尽だ。才覚と言うものが、これ程明確に出る道も他にないでしょう」


 代わる代わるに迫る二つの雷光。その突撃を半歩の動きで躱しながら、武鋼は内の一つに対してのみ刀を逆に握って振り返す。刃で首を落とすのではなくて、不出来な部分を峰で打つ。それは明らかな教導である。


 奇しくも同じ時に異なる場所で、起きている二つの戦場の光景は似通っていた。強者の側が弱者の側を教え導くように、戦いの中で暗に指摘し正しい形へ導いていく。ヒビキと炎王がそうであったように、この場では武鋼がアンジュを鍛えていた。


「私の三百年。その殆どが停滞ばかりであったように。迦楼羅殿や緊那羅――朧月のお嬢さんのような才児がそうであるように。無心に剣を振り、貪欲に戦を求め、全てを費やして尚、いいや全てを費やすからこそ、凡夫と天才の間には途方もない壁が生まれてしまう」


 武鋼と言う老人は、修羅の中では凡夫の類だ。他ならぬ彼自身が認めている。単に時間を重ねたから、この席次に居るだけなのだと。


 六武に名を連ねるような綺羅星たちが、彼と同じだけの時間を掛けて己を磨き上げていれば、今の武鋼など足元にも及ばぬ存在となっていただろう。そうと理解しているのだ。


(クリス君は、あちら側だ。体を壊し、腕を鈍らせ、全てが衰えて尚、その才覚は残っている。英雄と、そう称されるべき者として生まれ落ちた天賦の者だ。対してこの少女は、私と同類でしょうね。無能とは言わない。落第ではない。相応の才はある。だが、綺羅星のような才人と比すれば、余りに無様で凡庸な才)


 そんな彼だからこそ、必死で食らい付いて来る少女の真価を計れてしまう。アンジュ・イベールと言う名の少女は、決して天才の類ではない。


 常人よりかは才に恵まれているだろう。それでも産まれながらに英雄に至れるような、規格外な才を有してはいない。常識の範囲内での才覚は、修羅と言う戦闘に特化した存在から見れば平均値。凡庸の二文字で語れてしまえる程度のものだ。


「だからこそ、貴方が花開くには特別な切っ掛けが必要だ。私が三百年と言う時間を掛けて、天才たちとの差を埋めたように。膨大な時間か、それに比する密度。それが無ければ、恐らくは此処が限界点」


 刀を翻し、刃の側を首へと振るう。それをクリスは紙一重で躱してみせるが、同じことをアンジュに行えば少女の首は地面に落ちていたであろう。

 それが分かって、武鋼は静かに嘆息する。理由は一つ。最初は確かに楽しめた。だがもう飽きていたのだ。少女の成長限界が、近付いていたのだから。


(剣筋は良くなった。呼吸も、足運びも、気の練りも、最初よりはマシになった。だが、劇的な変化ではない。当然でしょう。戦闘の中で爆発的に成長するなど、才人の特権と言うべきもの。予想を上回る程の成長を、凡夫に求める程に非道な行為もそうはない)


 剣を振るう。峰と刃。その違いはあれど、速さは同じ鋭い一撃。どちらも少しずつ洗練されてはいるが、辛うじて躱し切るクリスに対し、全ての剣を避け切れずに当たってしまうアンジュ。悲しい程に、両者の差は明白だ。


 一つに才能の差。天才と凡夫の違い。二つに心理状況。娘との共闘で心が上向いている父に対し、娘の方は追い縋るのに必死過ぎて心と体と技の全てがずれている。故にこそ、これだけの差が生じていた。


 だから、武鋼は此処で切り替える。これ以上は無理だろうと。これ以上は無駄であろうと。嘆息してから刀を持つ手を軽く回して柄を握り直すと、その刃を少女の首に向けて振り抜いた。


「凌げれば良し。凌げぬならば、ここで命を終わらせなさい」


「――っ!?」


 殺意はなかった。唯、死んでも良いかとは思っていた。アンジュの斬撃を躱して、返しとばかりに武鋼が放った鋭い斬撃。


 少女のか細い首を狙ったその刃に、アンジュは全く反応が出来ない。やられると言う確信。目前に迫った死を前に、震えと寒さを感じる他には何も出来ぬまま――迫る刃を異なる刃が弾いてみせた。


「させるかっ!!」


「ほう」


 雷と共に疾走して、咄嗟に割り込んで来た男。雷の将は凡夫ではない。修羅の世を生き目の肥えた老人の視点で見ても、天才と呼ぶに相応しい才覚を持った英傑である。


 肉体は病み衰えて、技量は確かに鈍り腐った。更に言えば愛用していた武具もなく、それでもその精神は最盛期を超えている。老人との手合わせの中で錆の多くも落とした今、心技で体の不足を補える程には至っていたのだ。


 五感は狂ったまま、拒食と睡眠不足で体力は底辺なまま、それでも気力は十二分。譲れぬ者が傍らにあるのだ。それでどうして、泣き言なんて言っていられる。


 命を奪ってしまった友の忘れ形見。己の愛する娘。彼女を守るためならば、クリスは限界など容易く踏破する。無理な挙動で血反吐を吐いて、文字通りに命を削りながら、それでも彼は間に合わせる。少女の首を刎ねようとした刃を、先には追い縋ることさえ出来なかった刃を、その手にした剣で弾いてみせたのだ。


「お、親父っ」


「はぁ、はぁ、はぁ――っ! 大、丈夫っ!」


 口腔に残った血液を飲み干して、クリスは更に一歩を踏み込む。火花を散らす金属に、このままでは歪むなと断じた武鋼は後退した。


 闘気で鋼を強化するのも対処としては有りだが、それでは敢えて安物の刀を使う意味がない。質の良い武具を使わぬのは、己を更に高みへと至らせるための制限。故に余程追い詰められぬ限り、武鋼は安易な手段など選ばない。


「はっはっは。何だ、やれば出来るではないですか、クリス君」


 刀身に異常が出る前に、軽い跳躍で後退した老人はかんらと笑う。不出来な弟子が漸くに見せた姿を前に、心の底から満足そうに頷き口にした。


「成程成程、君は君を追い詰めるより、娘を追い詰めた時の方が動きが良くなると。ええ、ではそのように」


 さあ、娘の方を殺しに行こうと。


「――っ!」


 驚愕に目を見開くクリスが何か反応を示すより前に、武鋼は一歩前へ踏み込む。縮地を用いたその歩は物理的な距離を歪めて、一瞬後にはクリスの背に庇われていたアンジュの眼前にまで。


 好々爺染みた笑みを浮かべたまま、白髪の老人は刃を振るう。確実に殺すと言う殺意を込めて、アンジュの首に向かってその剣を。

 されど当然、今のクリスがそれを許す筈もない。咄嗟にアンジュの首筋を掴んで後ろに引きながら、身を挺するように割って入った。


「く――っ」


「ふむ。やはり、良い」


 娘に変わって刃の前に身を出して、ならば当然首を刈られて終わるのは道理。だがその道理を、クリスは自身の無理で押し退ける。

 雷翔導体。生体電流を操作して、強引に肉体を動かす。無理な動きに幾つかの筋繊維が断裂するが、痛みなど知ったことかと刃を振るって死を遠ざけた。


 再びの甲高い音。金属同士がぶつかり合って、火花が周囲に散る。心底から楽し気に笑う老人に対し、口の端から血を流す男は既に限界など超えている。

 それでも、その目は死んでいない。ならば、まだ先があるのだろう。老人は楽し気に一歩退くと、踏み込みと同時に握った刃を幾度も振るった。


「軽口を利く余裕もなくなってきましたね。正しく命を削る表情。それで良い。それが良い。それでこそ、君は私の糧となる」


 真向、袈裟、一文字、逆袈裟、左逆袈裟、左一文字、左袈裟、突き。瞬きの間にも振るわれる連撃は、その全てが極上。剣士であれば思わず目を惹かれ、感嘆するであろう理想形。無拍子で打ち込まれるその神技に、クリスは必死に追い縋る。


 呼吸をする暇もない程に焦りながら、迫る刃を手にした剣で受け止め流す。されど全てには間に合わず、咄嗟の回避もし切れない。故に当然、その身には浅くない傷が刻まれていった。


「ぐ、はぁ、はぁ……おぉぉぉぉぉぉぉっ!!」


 それでも、まだ生きている。己を鼓舞するように吠え、背に庇う娘から脅威を遠ざけるためにクリスは踏み込む。

 雷翔天衣。雷を鎧と纏い、敢えて制御し切らず周囲に力場を撒き散らす。その状態で突進し、逆袈裟からの雷翔一閃。


 無駄のない攻撃。点や線での戦い方では、武鋼と言う極まった武芸者には届かない。故に狙うは面制圧。無駄の多い極大火力。巨大な雷光の刃が、光線となって城壁に大きな傷を刻んだ。


「小技が通らぬからと、大技に頼るのはよしなさい。派手な技と言うものは、無駄が多い。無駄では届かぬから、無駄な努力と言うのだと教えたでしょうに」


「く――っ」


 されど、届かない。雷の刃が焼き尽くす前に大きく後退した武鋼は、再び縮地を用いてクリスの背面へと回っていた。


 そしてそのまま、再びの連撃。目にも止まらぬ剣撃の嵐に飲み込まれて、男の体に刻まれる傷ばかりが増えていく。このままでは勝てない。それは誰の目にも明らかであった。


――一つだけ、一度しか使えない策を教えておくわ。


 ああ、だから今こそだ。最初から、ミュシャ・ルシャはこの状況を読んでいた。クリスとアンジュの二人だけでは、武鋼を倒せはしないだろうと。

 故に少女が授けた一度限りの対策。それを使うならば、今こそなのだ。そう察していたアンジュは弓を引くように、剣を握った腕を大きく引いた。


 右手で大剣の柄頭を握って、左手をその刀身に当て、全身に雷を纏う。その少女の動きに武鋼は気付いていながらも、既に興味を失くしているが故に反応しない。だからこそ、この一手は起死回生の物と成り得るのだ。


「受け取れ、親父ぃぃぃぃぃぃっ!!」


 言葉と共に、アンジュが放った弾丸。飛翔するそれは、嘗て雷の騎士が用いたと言う伝説の武器。雷招剣は此処に今、雷将の下へと向かって空を舞う。


 空中で後ろ手に懐かしき愛剣を受け止めたクリスは、ブランクなど感じさせない慣れた所作で力を込める。先に見せた雷の衣など比ではない雷光が、彼の体を包み溢れた。


「雷翔一迅・極っ!!」


 そして、全霊の踏み込み。一瞬にして加速したクリスは、その直後には光の速度さえ超えていた。


 踏み込みの度に加速すると言う技の性質上、本来は加速時間が必要な筈の雷翔一迅。だが結果として光よりも早くなるが故に、時間の逆行が其処には起きる。


 同時に無数のクリスがその場に居ると言う現象。加速を始めた時には既に加速が終わっていると言う矛盾。それらが共に両立した結果、一瞬で最高速に至ったクリスの剣は、武鋼の認識より早く彼の体を切り裂いていた。


「これでっ!」


 ミュシャがアンジュに与えた策。それは雷将が本来の力を発揮出来るように、途中でアンジュの手にした雷招剣を彼に渡すと言うもの。


 最初から彼に渡して、と言うのでは駄目だった。それでは武鋼も最初から本気で来るが故、当然のように対処されてしまう。

 タイミングは一度、武鋼がアンジュから興味を失くした直後。その時、その瞬間に剣をクリスに託せたならば、一瞬の隙を突けるのだと。


 そしてその策は、綺麗な程に嵌ってみせた。この戦いの中で初めての、されど大きな技の直撃。これを受ければさしもの武鋼も、決して無事では済まぬだろうと。


「ふ、ふふ、はははははははははっ!」


 そんな少女の想定を、修羅は容易く塗り替えた。


「素晴らしい。見誤っていましたよ、クリス君。本当に、やれば出来るじゃないですか」


 袈裟に切り裂かれた老人が、倒れ込む途中で強引に起き上がる。明らかに物理法則に反した動きは、闘気を用いた干渉であろう。


 深い傷を胸に刻まれながら、獰猛な笑みを浮かべる老人は筋肉の収縮で出血を止める。それは修羅覚醒、ではない。漸く本気を出そうと言う、剣鬼の意志によるものである。


「分かってましたよ! 貴方が、この程度では倒れないとはっ!」


 されど対する雷将は娘とは異なり、この程度の傷では倒せないと悟っていた。故に当然、老人が仰向けに倒れそうになっていた時点で、追撃のために動き出している。


 超光速での接近。そして雷を纏った斬撃を振るう。光線を刀身に収束させた雷翔光波刃ならば、修羅であろうと血肉を消し飛ばせるであろうと。


「そう。その調子ですよ、クリス君!」


 当然、それを武鋼も察知する。故に周囲に闘気を撒いて、世界の法則を書き換える。光よりも早く動いても、それでも尚届かぬように。


 老人の意志を伝える力場が、クリスの動きを鈍化させる。近付けば近付く程に停滞するクリスの剣は、武鋼が闘気で強化した刃によって受け止められた。


「だから、分かっていると言ったでしょうっ!」


 雷の刃が防がれる。だがそれさえも、雷将にとっては想定内。闘気による物理干渉を以ってしても、刃を受け止められるのが限界だとは読んでいた。故にその刀身に籠った力を、性質を変えた上で切り結んだ相手の刃に注ぎ込む。


 そして後退。再び前進。神速と語るのも言葉が足りぬ、光速での踏み込みと斬撃。それに再び同じように対応しようとした武鋼は、刃の異様な重さに僅か目を丸くした。


「これは、引き寄せられる?」


「磁力付与。技量の差を埋める、所詮は小技ですよ」


 武鋼の振るった刃が、武鋼の望んだ軌跡を描かない。意に反した動きをするのは、その刃に強い磁力が付与されたから。

 剣を振るう度に、クリスが手にする剣に引かれて動きがぶれる。武鋼の技量が芸術的だからこそ、その僅かなずれは大きな差異へと変わっていた。


「ふむ。ああ、成程」


「――っ! 流石ですね。たった三手で慣れますかっ!」


 されど、老人の技量はやはり別格だ。磁力の影響による剣筋のずれ。それさえも想定の内に組み込んで、剣の鋭さを一瞬で取り戻してしまう。


 甲高い金属音が幾度も響き、火花を散らしながらにクリスと武鋼が向かい合う。片や苦悶の表情で、片や満面の笑みで、両者の表情は即ち彼我の差を暗示してもいた。


「くそ、これでも、駄目なのかよ」


 その一瞬の攻防。英雄たちの戦場を遠目に見ていたアンジュは、歯噛みし呟く。剣を父に返すと言う屈辱的な策を以ってしても、まだ六武の先将には届かぬと言うのかと。


 そして同時に、胸に抱いたのは焦燥だ。既にクリスは限界を大きく超えている。往年の武器を取り戻したとは言え、その身体状況は何も変わっていない。

 なら、拮抗出来るのは今だけだ。時間が経てば自然と、クリスの力は衰えていく。武鋼に追い縋れなくなってしまう。


「やっぱり、私か。私が、やるしかないんだ」


 そう。最初から分かっていたことだ。クリスに剣を返したとしても、意表を突けるのは一瞬だけ。最初から勝機は、アンジュが武鋼の予想を覆せるか否かと言う所にしか存在していない。


 その点で言うならば、現状は正しく好機ではある。既にアンジュは見限られており、武鋼は一切の注意を向けてはいない。だから何か一つ、此処でアンジュが限界を超えればそれで勝てる。


「だけど、どうすれば良い? どうすれば? くそっ!」


 されど、その何かが難しい。ほんの少しだと言うのに、そのほんの少しにどうすれば辿り着けるのかが分からない。いいや、否。


「……本当は、分かってる。何が足りないのか、なんて」


 本当は、アンジュも分かっていた。牢に居る間に、ミュシャと話して結論は出ていた。父から聞いて、対策は練っていた。

 勝機があるとすれば一つだけ。アンジュが此処で得られるものは一つだけ。ミュシャが、父が、そして敵が扱う神威法。それを得ること、唯一つ。


「土台は出来てる。神威法が使えてるミュシャよりもしっかりとした土台が、私の中には既にある」


 十二年。成人もしていない娘が鍛錬に費やした時間と思えば、決して短いとは言えないものだ。如何に才に恵まれぬ凡夫であっても、それだけの時に積み重ねてきたものはある。


 碌に鍛錬を積んでいない猫人の少女でも、想い一つで発現させることが出来たのだ。ならば才能の差を考えても、積み重ねた努力がある分だけ、アンジュの方が心威を習得する難易度は低い筈なのだ。


「理屈は分かってる。どうすれば良いかは親父に聞いた。己の心の中にある芯。それを以って、不安定な闘気を安定させる。己の意志で世界に干渉し、望んだ結果に至るのが神威法だって」


 純粋なる生命力。何ものにも染まりやすいその力を、己の闘志を以って安定・増幅させたエネルギーこそが闘気。

 神威法の理屈は単純にその発展だ。闘気のままでは精霊力や魔力に左右されてしまうから、より強い意志でより強く増幅すると言うもの。


 理論上、闘気を練ることが出来る時点で扱うことは不可能ではなくなる。やることは同じなのだから、違う点はたったの一つ。


「だから、足りていないのは心の芯。不足しているのは私の覚悟。己はこうだと決めることが出来れば、それだけで私は使えるんだって。そんなのは、分かっているのにっ!」


 軸となるのが戦う意志だけではなく、決して揺るがぬ己の芯も加わるだけ。だからそう、心の芯を自覚出来れば、アンジュは其処に到達出来る。理屈で言えば、だ。


「くそっ、落ち着け。焦るな。私は何だ。考えろ。私って、何だ」


 さて、此処で問おう。己は誰か。己は何か。断じて揺らがぬ人間が、果たしてどれ程に居るのだろうか。


 神威法にて必要になる心の芯とは、即ちこういうものである。狂念にも似た妄想、狂気にも似た信念、誰にも譲れぬ絶対の何か。それを持たぬ者では、決して其処には届かないのだ。


「親父は剣であろうとした。ミュシャは目だ。自分にとっての望みと、自分にとっての自信がある部位。それが結び付いて、形となった。だから私が何なのか、決める必要が先ずあって――なのにどうして、形に出来ないのよっ!」


 雷将クリスの破山剣は、守るべき者のために道を拓くと言う彼の意志が形を成した心威である。唯一振りの刃であること。其処には確かに、絶対の自信が宿っていた。


 ミュシャ・ルシャの月の瞳は、到達したい未来へ向かうための真実を暴く心威だ。膨大な情報を短時間だけ視ると言う能力は、己の目や頭脳に相応以上の自負が無ければ扱えないようなものだろう。


 ならば果たして、それに準ずるものがアンジュ・イベールの内にはあるのか。何もかもが中途半端なこの小娘の内側に、誰かに誇れるようなものなど存在していると言うのだろうか。


「これが私だって言えるものが、私の中にはない。心に芯がないんだ。それでどうして、いいや駄目だ。そんな考え方じゃ、駄目だって」


 いいや、ない。思わずそんな答えが口を出て、しかし首を振ってそんな弱気を振り払う。駄目な考えばかりするようでは、当たり前のように駄目になる。だから己を叱責し、それでも答えは見えて来ない。


 故に縋るように、彼女は父の背中を見る。今も血反吐を吐きながら、文字通り寿命を縮めながら、嗤う修羅へと立ち向かう姿を。その恐るべき修羅を視界に入れて――ふと、一つの疑問が脳裏に浮かんだ。


「あれ? 親父は剣なら、あの爺さんは、一体何だ?」


 六武の先将。未だ心威を使用していない彼の老人は、果たして己は何だと定義しているのだろうかと。

 思い出したのは、彼の老人が先に漏らした言葉の数々。どれも身に染みる程に痛い言葉であったから、不思議と覚えていた発言。


「三百年生きた凡人。天才との間を埋める為に、それが多分あの人の心威」


 恐らくは若き頃、埋めようのない才能の差に絶望したのだろう。才の差を埋めるために少女の姉弟子が鍛錬の密度を上げたように、彼の老人は考えたのだ。他の誰よりも長く鍛錬を続ければ、その差を埋めることが出来るだろうと。


 三百年の鍛錬。人間には不可能な長期間の鍛錬を可能にしているのは、間違いなく神威法による恩恵。主目的であったのか副次作用であったのか、アンジュには分からないが其処は問題ではない。要は詰まり、こういうこと。


「でもそれって、そこに己はあるの? 違う。それは理想とか願望とか嫉妬とかでしかなくて……ああ、そうか。芯って、そんなので良いんだ」


 心の芯と大仰に言っていたから、少女は見誤っていたのだ。己は何かと考えていたから、胸を張って答えられるものであるべきだと考えていた。それこそが間違いだったのだと気付いたが故に、アンジュは答えに至っていた。


――内功実行・以って我は心威を示す――


 そうだ。簡単なもので良い。単純なことでも良い。誰に胸を張ることも出来ない、情けない想いでも問題はないのだ。それが己であると、確信出来るものならば。


「ならば私の望みは、決まってる。強い私に成りたい。優れた私に成りたい。間違えない私に成りたい。理想を此処に体現したい」


 自分は見えない。優柔不断で決断出来ない白百合の少女は、まだ私はこうだと胸を張って誰かに言うことなんて出来やしない。

 それでも一つ、言えることはある。それはこうなりたいと言う自分。こうありたいと言う自分。そんな理想は、確かに心の中にある。


 ならばそう、アンジュ・イベールとはそういう者だ。誰でもないままに、それでも理想を追い求める。彼女はそんな芯を持つ者なのだ。


――高貴な生まれの尼僧が曰く、彼こそ喜び、彼こそ慰め、彼こそ希望――


 心の内より溢れて来る、知らない言葉を諳んじる。総意が与えた新たな枠。その器を己に重ねながら、少女は片膝を付いて拾い上げた。彼女の父が戦いの中で放り捨てた、折れ掛けた一本の剣をその手に。


 鞘から抜き放つ。元より支給品の安物だからか、それとも激しい戦闘の結果か、その刀身は罅に塗れて今にも折れてしまいそうな程。何だか他人のような気のしないその剣を、慣れない手付きでアンジュは正眼に構える。ふぅと一つ、息を吐いた。


――ファルの石で作られた席に序されし彼は、呪いに打ち勝ち天へと召される――


 雷招剣を受け継いだのは、父に弟子入りして直ぐのこと。だから大剣以外の武具など殆ど使ったことはなくて、上手く振り抜ける自信すらもない。

 付け焼き刃にもならない未熟な動き。そんな調子で刃を振るえば、あっさり刀身は砕けるだろう。だから今のアンジュはまだ、敵とすら見られてはいない。


 それでも――それでも、と叫ぼう。


「夢見る理想に、今の自分なんて関係ない。己が誰か、胸を張って口にすることは出来なくても、己がどうなりたいか、そう思い描くことなら出来るんだから!」


 そうともまだ何もない小娘でも、どうなりたいかと思い描く自由はきっとあるのだから。それでもと叫んで、足掻くのだ。


――その短くも栄華に満ちた生涯を、追うことも出来ぬ私は夢想する――


 そう成りたいと思い描いて、されどそうは成れぬと諦め膝を折る。そうなるために必要な犠牲を考えて、怖じ気付いて立ち止まる。

 己の性質を言葉にすれば、それは当然そんな情けない事実の羅列となる。無様で恥ずかしく、泣きたくなるような有様だが、それでもこれが少女の芯だ。


――身に余る大望と知りながら、動けぬ私は願うのだ。美しき理想を、この手に掴んでみたいのだと――


 だからそう。夢見るだけは終わりにしよう。此処で一歩、前に踏み出す。他者から見れば小さな一歩であったとしても、己にとってはきっと尊い一歩である筈だから。


――心威・解放――


「白き盾に理想を描け――無垢なる聖者(ル・クレルジェ)!」


 そして、アンジュは走り出す。雷と共に踏み込んだ一歩の直後、彼女は老人の間合いの内に。それは縮地と呼ばれる技法。闘気による物理干渉で、互いの距離をゼロにしたのだ。


 本来、アンジュの技量では出来ない技法であった。そして更にその先は、それ以上に在り得ぬ光景。刀の振り方も知らない娘が放った斬撃は、老人のそれを上回る程に速く美しい剣閃だったのだ。


「ああ、素晴らしい」


 正に理想の体現。武の極致と言える一撃を目の前にして、武鋼ですらその太刀筋に見惚れた。老人は感動に震えたまま動きを止め、故に当然のようにその刃に断ち切られる。


 切り裂かれ、血が舞い散り、老人の体は仰向けに倒れていき――しかし途中で踏み止まる。

 もっと、もっとだと。顔に浮かぶは腹を空かせた餓鬼の色。悪鬼羅刹の表情で、踏み止まった老人が起き上がる。


「だから、もっとだぁっ!」


 修羅覚醒。爆発的に闘気を増して狂笑する武鋼に対し、アンジュの動きは真逆であった。

 理想を形にすると言う心威。目覚めたばかりの力を使ったことで闘気が底を尽いた少女は、朦朧とする意識の中で悔しそうに歯噛みしながら崩れ落ちる。


「く、そ、足りねぇ、のか」


 地面に俯せに転がって、起き上がれないアンジュ・イベール。その反応に虚を突かれたのか、目を見開いて硬直した武鋼。


 故にその場で唯一人動けたのは、誰よりも娘のことを知り、最後まで彼女を信じていた男だけ。


「いいや、十分だっ! 雷翔、光波刃っっ!!」


 巨大な雷光を刃に束ね、光の剣を動かぬ武鋼に向かって振るう。正気に戻った老人は当然気付くが、しかしもう躱せない。だから彼は微笑んで、まあ良いかと笑って認めた。


「ふふっ、ああ、口惜しい。もう少し、楽しみたかったのですがねぇ」


 雷が、その身を切り裂く。体の半分を消し炭にされた武鋼は、そのまま地面へと崩れ落ちる。最早動けぬ。最早生きれぬ。それ程の重傷を受けた身で、彼は口にしたのは唯の一つ。


「認めましょう。貴方達の勝利です」


 そして、風が吹く。まるで泡が水に溶けてしまうように、吹いた風が去った後には老人の死骸さえも残ってはいなかった。






【アンジュの心威、無垢なる聖者について】

その効果は闘気を消費して、自身の理想とする動きを自身に行わせると言うもの。

作中で縮地や理想的な斬撃が行えたように、本来の自分には出来ないことでも可能になります。


但し、自身の実力からかけ離れた理想を再現しようとすればする程、消費する闘気の量は大きくなる。

今回のように出来ないことを二重で行おうとした場合、発動直後に闘気が底を尽いて身動きすら難しい程に消耗します。


自身の技量が長じれば不要になる心威かと言えばそうでもなくて、理想と現実の差が埋まれば埋まる程に闘気の消費量が減るのでコスパ最高技になると言う利点もあります。


最終的には“あらゆる状況下で、殆ど闘気を消費せず、自身の全力を常に発揮出来る”と言う心威になるでしょう。ゲーム風に言えば、発動すると以降の全攻撃がクリティカルになる低コスト技、みたいなのが完成形です。

とは言え、そうなるのは完成した後の話ですし、作中でそこまでアンジュが成長出来るかも怪しいので、今の必殺技みたいな扱いのままになりそうですけどね。

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― 新着の感想 ―
闘気を万能リソース化して、消費レートは技量で決めるか。 もし代わりに仲間の闘気も使えできれば、悪用できそうね。
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