第62話
ヒビキVS朧②
◇聖王歴1339年風ノ月36ノ日
蜘蛛の巣に覆われた大地の底で、朧は地面を蹴って前へ跳ぶ。一瞬の忘我から我に返ったヒビキが動くには、しかし半歩速度が足りない。
間合いに入る頃には、対応は間に合う筈だった。しかしまだ彼我の間には相応の距離があると言うのに、朧は右の拳を突き出す。瞬間、その手が伸びたのだ。
「腕を糸に変えたっ!? 違う、元から糸だったのかっ!?」
理由は正しくヒビキの驚愕の通り、朧の右肘から前腕部を繋ぐ部位を構成していた肉が細い糸に変わったのだ。
質量は変わらぬまま、その厚みが変わったのだ。となればその分だけ、部位の長さが伸びるも道理。凡そ三歩分の間合いを、伸びた腕が埋めてしまう。
拳が迫り打撃を受けると思った瞬間、ヒビキの眼前で伸びた右手の指先が一つ一つと更に伸びる。
五本の指を糸に変えたのだと、其処まで己を捨てられるのかと、少年の驚愕が納まる前に彼の体が糸の檻に納まり囚われる。
ヒビキが知る由もないが、元より朧の右手は義手の形をした糸の集合体である。故にそれを解けば、彼女の腕は長い糸へと変わるのだ。
とは言えその程度の糸で、悪竜王を捕らえ続けることなど出来ない。一秒でも時間があれば、ヒビキは容易くこれを砕くだろう。
そうと分かるが故に当然、朧も彼を捕らえたままにはしない。纏わり付かせた直後に引いて、抵抗する少年の体重移動を利用し投げる。
蜘蛛の巣に向かって投げ飛ばされた少年に対し、再び迫る糸は背後から。下手人は、糸を指の形に戻している朧ではない。
「朧が、もう一人!? なんでっ!?」
「ふふふ。複数人の相手は不慣れ?」
巣に絡め取られながら、己の血肉を抉った糸を掴む。そうして背後を振り返れば、其処に居たのは朧と同じ見た目の女がもう一人。
いいや、明確な違いが一つある。色がないのだ。前方で妖しく笑う女と違って、新たに現れた朧は全身が漂白されたように真っ白だった。爛々と輝く、二つの眼球だけを除いて。
「糸の塊かっ! あれもっ!」
「ご名答。でも、単なる糸の塊じゃなくてよ」
巣を破って糸を解いて、地面に落下した少年の周囲を踊るように複数の女が回る。壁や天蓋にある蜘蛛の巣に己の手足から伸ばした糸を引っ掛けて、縦横無尽に移動する姿はまるで映画のワイヤーアクション。
揺れるように動いたと思えば白い女が増えていて、今ここに増やしたのか、それとも重なるように動いて隠していたのか、ヒビキにはそれさえ分からない。
「臓腑や手足を糸で代替出来るなら、脳や心臓だって作り出せる。だってどちらも、筋繊維の集まりだもの」
「血液がないだろ、それ。動かないよ、常識で考えろ」
「純粋なる闘気は、物理法則すらも覆す。なら、血のない肉を動かすのはもっと簡単だと思わない?」
腕も足も胸も腹も、脳も心臓も血も肉も、全てが糸で出来た糸傀儡。人体と同じ機能を有した糸の塊が動いているのは、果たして如何なる道理であるか。
真を語れば、本体である朧から伸びている無色透明な糸。それが傀儡の脳に指示を出して動かしているのだが、今のヒビキにそれを見抜くだけの余裕はなかった。
「七人妖魔。七人居ないと、名前負けでしょ? そういう訳で、ここから先は七対一。精魂が枯れ果てるまで、全て絞り取ってあげるわ」
白い朧が六人。色のある朧と合わせて七人。七人妖魔の異名に合わせたその数は、今の朧が余裕を以って扱える限界値。
これ以上に増やせば粗が出る。ならば逆説、ここまでならば操作は完璧。まるで生きているかのように動く傀儡は、本体と性能面では一切の差異がないのだ。
(っ! 唯でさえ、一対一でも目で追えない時があるのにっ!)
蜘蛛の巣を移動に利用して、縦横無尽に動き回る朧の動きにヒビキは対応し切れない。前方に居たと思っていたのに、いつの間にか背後に回られている。
一対一でもその状態だったのだから、それが七倍となれば当然のように戦況は一方的な形となる。少年の外皮を貫き血肉を抉る程の糸が、その割合を少しずつだが確実に増やしてきていた。
「七人掛かりとか、ふざけるなよっ!」
「あらあら、女を複数侍らせるのは男の夢でしょ? もう少し、甲斐性くらいはみせないと」
「僕の両手は、もう埋まってる! お前みたいな地雷女、一人だって受け取り拒否だよ!」
「残念。振られてしまったわ」
気付けば、全身血塗れ。細い糸による小さな傷痕は直ぐに塞がるが、塵も積もれば何とやら。蓄積されていく苦痛は、無視出来ない程に膨れ上がる。
苛立ち紛れに空を殴って、大気の壁を打つことで衝撃波を発生させる。それで迫る糸を一時的に吹き飛ばすことは出来るが、根本的な解決には成り得ない。
「でも、そういう相手を無理矢理に靡かせるのも、偶になら、悪くないわね」
「――っ!」
大振りをすれば、敵を見失ってしまうのだ。そして囁き声が聞こえる程に近付いて来た朧が背後から、塵では済まぬ一撃を当てて来る。
膨大な糸の奔流。滝の流れを思わせる程の白が、殴り抜いた直後のヒビキの腕を飲み干し奪う。右肩から先を切断されて、舌打ちしながらヒビキは大地を蹴った。
(また、目で追えなかった。一瞬、逸らしただけなのに、見付けられなくなる。動きが目で追えない程に、速いと言う訳じゃない。速度差による錯視とか、周辺視に滑り込んでるとか、そういう動き方の問題だ。一瞬出来た隙を利用して、見えているのに認識出来ない。そういう歩法を被せて来ている。純粋な技量差の話だ。これはっ!)
右腕を再生させながら、距離を取るヒビキは思考する。一瞬でも視界から外せば、姿を追えなくなる妖魔が七人。
超高速でそれをなしていたのなら、その気になれば光の軌跡さえも止まったような速度で観測出来るヒビキには通用しない。
そうではないと言うのだから、その真は即ち純粋な技術だ。音速超えの戦闘領域で、人の技術の粋を過不足なく適応させて来る。それが女の強さの粋であり、この戦闘でヒビキが苦しめられている故の一つだ。
逃げたら追えない。隠れられたら気付けない。気付けないなら、相手の攻撃も防げない。そんな悪循環に追い遣られ、次から次へと己の血肉を削られていく。
如何に魔王が強大であっても、その体力は無限と言う訳ではない。このペースで削られ続ければ、一昼夜は持たずに底を尽きるであろう。
(なら、どうする! 見付けられない相手に対する、一番の対策は周囲を諸共に消し飛ばす面攻撃だけど……今の僕じゃ、力加減が分からない。少しずつ試していく? そんな暇を、朧が与えてくれるのか!?)
周囲に居ることが分かっているなら、周囲の空間ごとに吹き飛ばすのは最適解の一つ。とは言え、今のヒビキは産まれたばかりで己の体の扱いにも不安が残る。以前までの微睡んでいた頃と比べても、出力が桁一つは違うのだ。
周囲の地形を変える程度の想定で放った拳が、大陸全土を真っ二つにして海に沈めてしまいかねない。いいや、その程度ならまだマシだ。下手をすれば拳一つで、星の中心核まで衝撃を届かせて、地球を砕いてしまいかねないのが悪竜王なのである。
だからと言っておっかなびっくり、この程度なら大丈夫かなと試していくような余裕もない。恐らくそんな真似をすれば、その瞬間には四方八方から襲い来る滝のような糸で全身の血肉を挽肉にされてしまうだろう。
(なら、どうする! 知れたこと、見付ければ良い! 見付けられないなんて甘えを捨てて、見付けられるようになる! 僕の性能なら、その気になれば出来るようにはなる筈なんだ。限界を決めるな。前提を定義するな。出来ると信じて、出来るようになれ! 見付け出して、やられる前にやるんだ! あいつの本体を捕捉して、見失う前に全力の一撃を叩き込む! こっちの被害を考えなければ、やってやれないことはないっ!)
今も朧に影さえ掴ませない女。縦横無尽に動く七つの妖魔から、唯一の人間を見付け出すのは非常に困難なことだろう。
だがそれでも、ヒビキに出来ないことではない。そう己に言い聞かせながら、ヒビキは目を閉じる。視力に頼って追えないのなら、それは不要と此処に断じて。
(目ではない、別の感覚でよく視るんだ。五感での捕捉が難しいなら、第六感でも第七感でも何でも良い。意識を拡張するんだ。そういう機能を増やせ。僕は人じゃない。なら、出来る筈だ。見えない物を、見えないままに、認識して捉えることがっ!)
全身を浅く切り刻まれながら、それでも気にせず視界を閉じたままに異なる視界を築いて開く。闘気や生命力と言ったものを視る目。それを此処に作り上げる。
そして、今に作り上げたばかりの瞳を使う。それは瞳であって瞳ではないが故に、視野角なども存在しない。自身の周囲360度全てを、半径50メートル程度の距離まで精査する。
その気になれば、恐らく星の裏側まで見れるだろうが。ヒビキと言う自我では恐らく把握し切れぬし、今の状況ならこの程度の距離で十二分。
そうして扱ってみて、気付いた事実に舌を巻く。朧の分身も生命活動を行っているのか、生命力の量が変わらない。どう考えても合理的ではない、狂気の産物に思えた。それでも――
(視えた! 捉えた! 七人全員っ! 違いは、ない!? 糸の分身にも生命活動させてるとか、ほんっとどうかしてるよ! この視覚だけじゃ、判別が出来ないじゃないかっ! けど――)
「ならば、常の視覚も其処に合わせる。見付けたぞ、朧っ!」
朧の分身には、分かりやすく色がない。故に生命を視る目で位置が掴めたならば、物を見る目でそれぞれの真偽を確認すれば良いのだ。
そしてその判別は簡単だ。生命を視る目がある限り、見抜いた相手が姿を隠せる道理もない。故に大地を蹴ったヒビキの拳を、捉えられた女は躱せない。
「此処で、潰れろっ!!」
「――っ!?」
糸を利用して空中を移動していた色の付いた女に向かって、ヒビキが右の拳を叩き込む。地面に対して振るえば大地を砕く一撃は、女の体を肉片一つ残さずに消し飛ばす。そしてそれだけでは止まらずに、崖を抉って周囲の形状を大きく作り変えていた。
(これで――)
一瞬、その破壊力に肝を冷やしながらも、これで終わりだとヒビキは安堵する。そう、本体が倒された以上、これで戦いは終わりなのだと。
「残念、外れ」
「なっ!?」
いいや、まだ終わらない。何故ならば、本体は倒されていないのだから。
「色がないのは分身だって、私は一度でも説明したかしら?」
全身に糸が絡み付いている。地上や空中、様々な場所に居る五人の朧が糸に戻ってその全てで少年の体に巻き付いて来ていた。
そしてもう一人、背後から抱き締めるように寄り添って、耳元で囁いて来る朧が居る。その女の顔は爛々と輝く瞳以外、明らかな異彩を放っていた。
(くそっ、僕は馬鹿かっ! 考えれば、分かったことだろうにっ!)
「分かりやすい粗を残せば、貴方のように容易く嵌る。こうした搦め手への対策は、しっかり覚えないと駄目よ」
(人体機能を模した糸を作れる女だぞ! どうして、眼球以外は色のない分身しか作れないと考えた!? 自分で自分の内臓を全部捨てるような女だぞ! どうして、自分の生皮を自分で剥して、皮膚の代わりに全身を糸で覆わないと考えた!?)
背後に居る朧。その顔の左半分に、皮膚がない。右半分は真っ白で、残る半分は血と肉と骨が剥き出しになっていたのだ。
修羅の体質で、治りはするのだろう。薄っすらとだが、顎の辺りに残っている生皮が広がっているのも見える。だがだとしても、普通はこんな真似は出来ない。
まして美しい女だ。恋に恋する女であれば、己の美貌に執着の一つもあるだろうと。だからこそ、ヒビキは此処で罠に嵌った訳である。
「六人分。これだけの糸があれば――」
「くそっ!? 体、がっ!?」
「ほんの一瞬、貴方の体の一部を操る程度は出来るのよ」
大量の糸が、ヒビキの体の主導権を奪い取る。脳が出した命令を無視して、動いたヒビキの左腕が自身の腹へと振り下ろされる。
地形を軽々と変える程の一撃は、この悪竜王自身にも有効だ。ヒビキの体の凡そ七割。下から胸の辺りまでの殆どが、この一撃で吹き飛んでいた。
「おっ、ごっ……」
「口から糸を入れるのも考えたのだけど、保管場所が場所でしょう? 少しはしたないとは思うから」
直撃の直前で、背を叩いて距離を取っていた朧。それでも無傷ではない女は、口元から血を流しながらも笑う。
自由落下を終えた女の下へと、落ちて来た腹から下を無くした少年。彼をもう一度抱き締めるように、受け止めると女は告げた。
「口からも、下の穴からも、どちらからも入れるわね?」
「このっ、気狂い、がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!?」
抱き留めて、口付けをして、抱き留めた腕と合わせた唇の両方から糸を流し込む。そして行う、内臓破壊。
内部からの蹂躙は今の消耗し切ったヒビキに耐えられるような物ではなくて、故に少年は内側から破裂した。
「内側からの破壊。外皮を貫くのが難しい相手に対し、鉄板とも言える攻略法よ。定石が使い古されるのは、確かな効果が其処にあるから。貴方に対しても、それは十分に効いた筈」
まるで赤色の水を大量に入れた風船を、限界まで膨らませてから破裂させたように。周囲全てが赤黒く染まる。
血と肉の断片と変わったヒビキ。その返り血に塗れた朧は、それを拭うこともなく、恍惚に浸るように己の体を抱えて深い息を吐くのであった。
「でも、貴方はまだ、終わりではない。そうでしょう、まだ残っているもの。瘴気が強くて分かり難いけど、貴方自身の生命力を確かに私は感じるわ」
そう女が告げたと同時に、吹き飛んだ血肉から異形が生じた。それは蠅。それは百足。それは油虫。ありとあらゆる害虫が血肉から生じて、一点へと収束していく。
大地を這いずり、空を舞い、一点に集う黒。それはやがて人型へと変わって、材料となった悍ましさなど感じさせない美を織り成す。蘇った悪竜王は、産まれたままの姿で荒い息を吐いていた。
「あ、ぐっ……はぁ、はぁ、はぁ……」
「あらあら、流石の魔王様も肉片からの復活は消耗が激しいみたいね。感じる生命力は、今までの半分くらいかしら。……うふふ、その様子じゃ、次はもう持たないわね」
異形からの復活。だがそれは、ヒビキにとっても負担が大きい行いだ。消費する体力や瘴気の量が多いのは勿論、精神的にも消耗が大きい。
何せ響希は気の遠くなる程の時間、自分の血肉が害虫に変わると言う拷問に等しい体験に苦しめられていた。その記憶を引き継いだのだ。
響希本人よりはマシでも、ヒビキにとっても若干のトラウマとして残っている。己が虫に変わると言うのは、気分が良いことでは決してないのだ。
「それに、復活に時間が掛かり過ぎよ。あれだけ隙だらけだと、糸を幾らでも仕込めてしまうわ」
「が――っ!?」
復活を果たして、さあ立ち上がろうと言う所で右足が内から弾けて膝を付いてしまう。そうとも、此処は既に朧の巣。仕込むための糸は無数にあるのだから、ああも悍ましく人目を引くようなやり方で復活すればこうもなろう。
ヒビキの体内には、ヒビキをもう一度殺せてしまえる程の糸が既に仕込まれていた。
「死に難い修羅に対する最適解は即死させることだけど、それが無理なら殺し続けると言うのも手の一つ。だから慣れたものなのよ、こういうやり方はね」
腕が弾ける。足が弾ける。腹が弾ける。頭が弾ける。その度に即座に再生復元させながら、どうにかヒビキは逃れようと足掻く。
無様に傷付くその姿を見下ろす朧は、顔の半分程にまで戻っていた新たな皮膚を僅かに歪める。浮かぶ色は、落胆だ。こんなものかと、失望の色を宿していた。
「見た目も性格も、好みではあったのよ。多分殺せないと思えたから、本気で愛せるのかもとも想えていた。……けど貴方、このまま殺せてしまいそう。本当に残念よ」
最初はその在り様を好んでいた程度であった。この地まで旅路を共にして、好意は殺意が混じる程度にまで膨れ上がっていた。
今は殺せる。その内きっと殺せなくなる。そう信じて我慢して、漸く殺せないことを確認出来ると思ったのに――蓋を開ければこれである。
「それじゃ、これでお終い。最期に遺言くらいは、聞いてあげるけど? どうかしら」
胸に宿っていた熱量が、心を燃やしていた想いが、急速に冷めていく。そんな己を認識しながら、朧は自嘲し腕を振るう。
これで終わりだと、首に繋いだ細い糸。最期に何か、言い残すことはあるかと冷たい瞳で女は告げた。
「……ああ、そうだね。僕の負けだよ。悔しいなぁ。二番目くらい、相手の土俵で、勝ちたかった」
「は?」
「展開――――呪い侵す酸雨毒霧!!」
上体を起こすのがやっとな程に消耗したヒビキの言葉に、朧の困惑が解けぬ内から状況が変わる。がぱりと少年の両肩に開いた口が、その呪言を音にしたのだ。
「な――っ!? 糸が、腐ってっ!?」
「認めてやるよ。殴り合いじゃ、今の僕よりお前が強い!」
そう、最初に言った通りである。これは前哨戦。王と戦う前に、産まれ直したばかりの少年が、己の身体の調子を確かめる為の準備運動。だからそう、その気になればヒビキはいつでも終わらせられた。
そうとも魔王の権能。それを一切使っていなかったのだ。そしてその権能を此処に、ヒビキはこうして使うと決めた。
『穏やかなる水の流れ。爽やかなる風の歌。山から下りて海へと帰る。海から昇りて山へと落ちる』
「――っ!」
「だから、もう殴り合いなんてしないっ!」
蜘蛛の巣が腐って落ちる。ヒビキの体に触れた糸が、ヒビキの体内に仕込まれた糸が、そのまま腐って消えていく。
朧が咄嗟に食い止めようと右手を放つが、それもヒビキの体に触れた途端に腐って落ちる。殺し切れなかった衝撃で、少年の軽い体が後方へと飛ばされた程度だ。
『其は瞭然たる平穏。其は凡庸なる道理。故に否定し、入れ替えろ』
「くっ! なんて、厄介なっ!」
「悪竜王の権能で、一方的に潰してやるっ!!」
地に転がった少年は、まだ自力で立つことも儘ならない。だと言うのに、追い詰められているのは隻腕を晒した朧の側だ。
その事実を前に口では罵倒を漏らしながらも、浮かぶ表情は満面の笑み。頬を赤く上気させている女の瞳は、先とは真逆の色に満ちていた。
『明日に続く昨日を此処に。我が意に従い、世界よ変われ』
「大、魔術っ!? 不味――っ! 闘気で、守りをっ!!」
「もう遅いっ! 発動――――身勝手な時空改竄《operation》!」
咄嗟に糸を繭状にして、身の守りに専心する朧。既に有効打を全て失いながらも、足掻く女に向かって放たれる大魔術。
周囲を包む淡い緑色の光。それは儚そうな見た目に相反する程に、強烈な強制力を以って朧の身を襲う。繭は一瞬で溶かされて、その身を光が飲んでいく。
「く、あぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
「おああああああああああっっ!」
互いに叫び、その直後――世界が変わった。
「こ、ここ、は……」
一瞬、視界を失って、元に戻った世界に朧は瞠目する。警戒したまま周囲を見れば、透き通った青い空の下、近くには枯れた泉の跡である断崖絶壁。
その崖の下に居た筈なのに、今はこうして地上に居る。強制転移をさせられたのか、と怪しんでみるも即座に棄却。答えは朧の視界の先で、立ち上がった少年の姿にあった。
「想定外だよ。君くらいの強者が全力で抵抗すると、十分くらい巻き戻すのが限界なんてさ」
「巻き、戻し。ああ、成る程。貴方の姿。それに、この場所。この戦いが、始まる前に戻ったのね」
「けど想定内だ。地形の不利はなくなって、僕の傷は全回復。対して君は、傷はそのままで、記憶の方は曖昧だろう? 当然だ。巻き戻しを知覚しても、抵抗し切れなけば記憶の改竄は防げない。中途半端に残った知識が、逆に君の足を引く」
吹き飛んだ筈の衣服が戻っている。消耗した筈の魔力や体力も戻っている。ヒビキは完全回復していて、対する朧は消耗し切ったままだ。
理不尽な時間回帰。纏めて戻すのならばまだしも、自分の望んだ事象だけを巻き戻す。ヒビキにそんなことが可能な時点で、朧は勝機を失っている。
悪竜王を殺せる者は、彼の有する無限に等しい手札を些事と踏み潰せるような圧倒的な強者のみ。六武の王ならば話は別だが、何とか殺せるかもと言う力しか持たない朧では決して殺し切れぬのだ。
「うふふ、あはは、ははははははははははははははははっっ!!」
それでも、だからと言って、諦められないのが修羅だ。例え果てが死以外にないと分かっていても、笑って火に飛び込むのが彼らの生態。
そして朧と言う女にとっても、これは恐怖ではなく歓喜を以って受け入れるべき事実。殺しても死なない人と会いたかった。だから、彼女の願いは今に叶ったのだ。朧では、ヒビキを殺せないのだから。
「言ったろ。君の距離には、もう付き合わない。発動――――|空間跳躍《Teleportation》」
抱き締めて、腸をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。その心算で大地を蹴って迫る朧に対し、ヒビキは詠唱を破棄して魔術を行使する。
使ったのは空間転移。間合いに入られたらこの状況でも、また挽肉に変えられる恐れはあったから。遥か遠く、太陽を背にした雲の上へとヒビキは転移した。
「さあ、蹂躙だ」
そして、顔にある口と肩にある口。三つの口で詠唱する。展開したのは、億を超える数の雷撃魔術。
一発一発は威力が軽く、朧を殺し切るには足りぬだろう。されど光の速度で降り注ぐが故に、朧であっても躱し切れない。それを数億単位の数で発動して、見上げた空の全てを雷光で埋め尽くした。
「空から振り注ぐ雷の豪雨に、飲まれて血肉も残さず消えろぉぉぉぉぉぉっっ!!」
雷が落ちる轟音。その轟はやむことなく、周囲を飲み干し染めていく。落ちて来る予兆に気付いた時点で朧は退避を始めているが、如何に彼女が素早く動けるとは言え光の速度には及ばない。
ソヴァーラの地から、シャーテリエの森まで逃げ込めただけでも大したものだ。雷に追われながら最も近い森に逃げ込み、その木々を盾としながら退避を続けるが其処で追い付かれる。木を燃やし、大地を抉る雷に、気付けば足を射抜かれていた。
(ああ、これは死ぬ。一つ二つ防いでも無駄。十や二十を躱しても無意味。百や二百に耐えても無価値。私の手は、届かない)
片足を失って、そのまま崩れ落ちそうになる体を糸で支える。伸ばした糸を引きながら、どうにか移動を続ける朧。
それでも二本の足で進む速度に比すれば遅く、光の速度に比すれば尚遅い。故に終わりはもう目と鼻の先、此処は女の死地である。
「ああ、ああ、私は死ぬの? 私は死ぬの! いいえ、まだよ! だって、漸く見付けたの! 壊しても死なない人! 壊れても死なない人! 私が愛して良い人がっ! なら、どうしてこんな所で死ねると言うのっ!?」
「気狂いが――っ。……何だ、あれ? 朧の生命力が、増幅しているっ!?」
幾重もの雷に打たれながら、それでも熱の籠った瞳で見上げ語る朧の姿。その最期まで笑い続ける姿に侮蔑の声を漏らしたヒビキは、その直後に表情を変えた。
何か、不味いことが起きている。生命感知の瞳に映るその熱量に、目を見開いてヒビキは愕然とする。もう死ぬしかない筈の女の力が、内包している闘気が、爆発的に膨らんでいた。
「修羅は、旧文明が生み出した戦闘生命体! 私達は絶対の死を前にした時、その死を乗り越えようと本能が生命力を増幅させる! そして増えた闘気は、目の前にある死を乗り越えられる肉体へと己自身を作り替える! 進化するのよ、物理的に! この心が、闘争の中に、ある限りっっ!!」
「な――っ!? なら、その進化とやらをする前に――っ!!」
朦朧とした意識で、修羅の真価を語る朧。その呟きを優れた聴覚で拾ったヒビキは、即座に雷を収束させて一点へと打ち込み続ける。
されど既に力を増幅させた朧の肉体は、遠距離攻撃では真面な傷が付かない程に。この状況に耐えられるように変貌を遂げた女を倒し切るには、魔術では限界があったのだ。
(雷光じゃ、殺し切れないっ! 危険だけど、接敵して息の音を止めるっ! そうしないと、これ以上放置すると、多分やばいことになるっ!!)
安全地帯に居たままでは、逆に危険になると察する。故にヒビキは雷の雨の中、空を蹴って彗星の如く地に向かう。
「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!」
周囲の雷光にも劣らぬ速さで敵の間合いに入ったヒビキは、相手からの反撃を許さぬ速度のままに右手を握り締めて振るった。
「が――ふ――っ」
「貫いた。これで――」
「ああ、これで、届く」
「――っ!?」
ヒビキの拳は、女の心臓を貫いていた。だと言うのに、喀血しながら女は笑う。これで漸く、その手が届くと。
―内外想行・以って我は心の底の真を示す――
「詠、唱? それは、あの王様と同じっ!?」
「ええ、有史以来、赤鸞だけが至っていた第四階梯。これだけの死を目前にして、漸く私も此処に至れた」
血肉を貫かれたままに、女は笑みを浮かべて手を伸ばす。困惑と驚愕に硬直する少年の頬を、閨で触れるように優しく撫でて。
詠唱は続く。朧が至ったその力。まず間違いなく、手段を選ばなくなった悪竜王にも届くであろう。そこに思考が至って、ヒビキの顔は青褪めた。
――大雷火雷黒雷居拆雷居若雷土雷鳴雷伏雷并八雷神成居――
「あと一歩、いいえあと半歩、その辺りまでは来ていたの。だけど、あと少しが届かなかった。だから貴方には、本当に感謝しているわ」
「く――そっ! 抜け、ないっ! 離れろっ!!」
心臓を貫いた腕が刺さったまま抜けない。このままでは不味いと察した少年は女の身体を空いた腕で突き飛ばすが、しかしそれでも女は離れない。
故に舌打ちを一つ。直後に己の右手を自裁する。肘から先を切り捨てて、再生させながら距離を取る。
何が来ても対応出来るように、と言う訳ではない。混乱から落ち着くために、兎に角離れたかっただけだ。
――伊邪那美命言、愛我那勢命、為如此者、汝国之人草、一日絞殺千頭――
「あら、残念。もう少し、いいえ、死ぬまで抱き締めていたかったのに」
「冗っ談っ! 付き合えるかよ、君にも、その詠唱にもっ!」
誰かを愛したい。誰かに愛されたい。されど己に、その資格はない。故に女の願いは歪んでいて、表層に現れた望みは無理心中。
その死の最期まで、愛する貴方を抱いていたいのだ。死ななければならない生き物だと、自己を断じているが故の発露。
そんな自罰に付き合ってられるかと、ヒビキは悪態吐いて思考を切り替える。距離を取って漸くに冷静に成れた彼は、先ずその詠唱の完成を食い止めるべきだと判断した。
――爾伊邪那岐命詔、愛我那迩妹命、汝為然者、吾一日立千五百産屋――
「声を奪う! 音を出せなければ、詠唱なんて出来ないだろうっ! 展開っ!!」
周囲一帯から、魔術を用いて音を奪う。静寂の中では詠唱なんて続けられない筈だと、それはなまじ自身に魔術の知識があるが故の発想。
魔術師は音を奪われると、詠唱を続けられなくなる。故にと行った対策は、しかし神威使いには通じない。
――是以一日必千人死、一日必千五百人生也。故、死が生に勝ることはなし――
「詠唱が、止まらないっ! 声が出せなくても、関係ないっていうのかっ!?」
神威の詠唱とは、音で発しているのではない。魂が、その心が、世界に対して発しているもの。故に周囲の音を奪った所で、その詠唱が止まることはない。
「なら――その意識を奪うっ! 発動っっ!!」
だとしても第二の矢はある。悪竜王の権能は、無限の手札を成立させるもの。人に想像出来ることならば、ヒビキは何でも実現出来る。
無論、意識を奪うような魔術は無条件で成功するようなものではない。相手の抵抗を超えねば、効果を発揮しないのだ。だが、それでも今ならば通る。
朧が瀕死の重傷を負っている事実は変わらない。今の彼女の魔術に対する抵抗力は、かなり低下している筈なのだ。
更には真威の発動のために闘気を消費し、更には雷と消音の魔術が抵抗力を僅かにだが削った。故に今なら通るのだ。
「――消却する自我!!」
左手に生じた力を、直接朧の頭部へぶつける。振り抜いた腕の先から吹き抜ける衝撃が、朧の体には傷一つ付けずにその意識だけを断ち切った。そう、これで――
「よし、これで――」
――莫視我。死した女の懇願に、事度を渡すが世の道理と言うならば、千引の岩など砕いてしまおう――
「は? どう、して……?」
これでは終わらない。朧の意識は、確かにない。二度三度とヒビキが確認するが、既に朧が気絶しているのは確実だった。
なのに、詠唱が止まらない。意識がないのに、修羅の身体は動いているのだ。詠唱なんて出来る筈もないのに、心を満たす感情が故に駆動する。
それは正しく、執念だった。
――真威・解放――
「意識は、ない。なのに、止まらないのっ!?」
「陰陽混濁・道敷大神」
「う、うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!?」
そして、侵食が始まる。まるで白い紙に墨汁を垂らしたかのように、気絶した朧を中心に広がっていく死臭に満ちた異界。
先ず真っ先に影響を受けたのは、女を気絶させるために伸ばしていた少年の左手。指先がその黒に触れた瞬間、秒と掛からずに犯され壊れる。
「なんだよ、これっ!? くそっっ!!」
一瞬で肘の先、上腕部までを侵食した黒。それに全身が飲まれる前に、ヒビキは左の肩から先を右手の手刀で切り捨てる。
このままでは不味い、とそんな気がしたのだ。そうして腕を切り捨てて、大きく後退したヒビキは直ぐに己の判断が間違いではなかったと知る。
「千切った左手、生えて来ない。何で、治らない? いや、変だ。治ってないのに、治ってる気がする。これは、僕の魂が誤認させられている? いいや、違う! 僕だけじゃない! 世界の全部が、そう誤認させられている! これは認識の曖昧化!? いいや、そうじゃない! それも違う! 曖昧にしてるのは、認識だけじゃない! これは――法則自体の曖昧化だっ!!」
じわりじわりと世界を侵食する黒。その本質は法則の曖昧化。外功想実の真威は、使用者にとって都合の良い異界の創造だった。
対して内外想行の真威とは、該当する事象・概念を世界規模で曖昧化させる力である。いずれ世界の全てを飲み干す黒の領域では、使用者が望んだ物事が成立しなくなる。
「切り落とした腕は、もう死んでいる。なのに、生きてもいるんだ。何だよ、あれ。本当に、気持ち悪い」
ヒビキが切り落とした腕。黒に飲まれたそれが示す。死臭を放ち動かなくなったその腕は、それでも今も生きているのだ。故にヒビキは、腕を復元させることが出来ていない。
陰陽混濁・道敷大神。朧が至った真威の効果は、対象から生と死と言う概念を奪うと言う物。その黒に飲まれた物は全て、生きながらに死に、死にながらに生きることになるのだ。
「侵食する異界。あの暗い世界に飲まれると、生と死が奪われる。生きながらに死に、死にながらに生きる。そんな矛盾を、強制される。その果ては、矛盾からの自壊か。なら、あの異界に飲まれたら終わりだ。僕は何も出来ないまま、生も死も奪われ終わるっっ!」
気付けば、朧の姿も変わっている。骨で出来た巨大な蜘蛛。五メートルは優にあるだろうその異形の頭部から、裸体を晒す女の上半身が生えている。
今も意識のない女は笑みを張り付けたまま、故にその巨体もまた動き出すことはなく、唯々死臭に満ちた異界を侵食させて周囲の全てを奪っていくだけだ。
(幸い、朧の意識はまだない。あの真威が広がり続けているのは、本能的なものだろう。だから、本来の侵食速度より遥かに遅い筈なんだ)
草木が枯れるでもなく、それでも明確に生きていないと分かる腐臭を放つようになる。空も大地も須らく、全てが抵抗の余地なく終わってしまう。
そんな異界の侵食は、しかしそれでも本来の速度に比すれば大きく劣る。触れた直後に数秒で全身を飲まれそうになったヒビキの時のように、本来はそれが適正速度な筈だ。
(腕の再生は、あの真威を止めない限りは出来ない。けど切り落とさずに居たら、多分全身に広がっていた。そう考えれば、掠っただけでも自裁は必須。切り捨てられない部分にあの暗い影が侵食してきたら、その時点で僕の負けは決定する。……あの時の侵食の速さ。あれは今の朧が、僕に対する執着だけで真威を維持してるからだろう。僕に対してだけ、本来の速度を維持できた、と考えるべきだ。逆説、気絶してなきゃ、常時あの速さって訳だから、考えたくもない話だけどさ)
本来のあれはシャーテリエの森全土程度なら、十秒以内に飲み干してしまえる物。それが今は、その一角どころか数メートルの距離を侵食し切るのに数分以上の時間が掛かっている訳である。
故に意識を奪ったのは大金星。己の打った手を内心で自賛しながら、ヒビキは退避しつつ対抗手段を思案する。
(さて、どうする? どうすれば良い? 対処法は? 分からないなら、検索しろ! 竜の権能を使え! 誰かが作った魔術があれば、僕はいつでもそれを知れる。過去現代未来含めて、あらゆる時代に生み出される人の叡智が僕の武器。手数の多さが、悪竜王の強みだろう!)
幾千之魔導。悪竜王の権能は、ありとあらゆる時代に生み出される魔術を知り行使することが可能と言う物。
ネットの検索機能のように、それに比すれば些か以上に不便ではあるが、彼は人の叡智を調べてそれを利用出来る。
集合知。その内にはきっと、今の状況も解決出来る物だってある筈だと。しかしはたして、調べることすら難しい。
検索エンジンを使って調べるとして、該当する単語から表示される検索結果が多過ぎるのだ。細かな条件指定が出来るような便利機能などはなく、膨大な量の情報からどれが相応しいのかをヒビキ自身が判断しなければならない。故に時間が掛かってしまうし、調べた結果で正しいのかも分からない。それでも――
「対処法は、これがベター、か? 他にもあるかもだけど、探している時間がもうない。けど、この方法だって問題がある。詠唱を複数回重ねないと、恐らく抵抗されて上手く通じない。今の朧なら、複雑な効果には耐えてしまえるっ!」
先ず一つ、至った答えを思考する。これで良いのか。これ以上のはないのか。否。膨大な知識の海には、きっともっと有効な選択肢は存在している。
そもそも、この方法とて先ず成功しない。意識を奪う魔術以上に、これは簡単に抵抗出来てしまう物。単純な効果よりも複雑な効果の方が、魔術の強制力は低いのだ。
故にそれを補う為には、詠唱を重ねて魔術自体の効果を増幅する必要がある。だがしかし、その時間がなかった。現実に目を向けて、ヒビキは歯噛みする。場所が悪い。雷から朧が逃げた先、此処はシャーテリエの森である。
「最大の問題は、その詠唱をしている余裕がないことだ。朧の逃げた方向が不味い。それに、検索にも時間を掛け過ぎた。このままだと、カシェテーレ遺跡が丸ごと異界に飲まれる。それは詰まり――土の精霊王がどうなるか分からないってことだっ!」
シャーテリエの森深くにある、カシェテーレ遺跡。その奥で今も、原初の魔王の封印の要をしている土の精霊王。
既に魔王の封印は殆ど解けているとは言え、あの精霊王が生きたまま死ぬと言う事態になればどうなるか。分からない。分からないからこそ、ヒビキはそれが恐ろしい。
(クロエが生死不明になったら、ミュシャやアンジュにどんな影響があるか分からない。そうなる前に止めなくちゃいけなくて――ああ、でも多分、あの人なら全部解決出来るんだろうね)
多分、ヒビキが倒れてもあの王様が解決するのだろう。きっと、ヒビキでなくてはいけない理由なんてない。
ふと、そんな想いが浮かんで、ヒビキは笑った。ヒビキは所詮、世界の敵だ。世界を救う為になんて、大仰な言葉は似合わない。
「だけど、さ。僕が、したいんだよ。二人のことは、あの人に任せるんじゃなくて! 僕のこの手で、そうしたいんだっ!」
ああ、結局はそんな理由。どこまでも身勝手な都合で、誰にも彼にも迷惑が掛かると分かっていて、それでもヒビキは前に進む。そう決めたから、そうしたいから、そうするのだ。
「一か八か、上手く行くかは賭けだけど、やれるだけ、やってみるさっ! 開け――白の礼拝所!!」
そして、三度世界が書き換わる。黒き死臭に侵食されていた森の景色は、白く荘厳な教会へと変わっていた。
(よし、上手くいった! あれは空間を侵食する異能! だから別空間でこっちが上書きしてやれば、侵食自体をリセット出来る!)
五大魔王の各々に与えられた、己の領域。即ち、金の玉座、青の庭園、赤の回廊、黒の広間、そして白の礼拝所。
ステンドグラスから差し込む光に照らされたこの場所こそが、ヒビキが全力を出しても問題がない彼のための異空間。
その異界展開の法則は、現行世界の土地を上書きする形で発現する。故に如何なる強者も抵抗出来ず、強制的にこの世界へと巻き込める。
その性質が故に、侵食もまた継続されるやもと言う懸念はあった。だがしかしヒビキの想定通り、結果はこうして侵食リセット。朧の真威は、此処が先までとは違う世界だと認識したのだ。
『『『凍て付いた水の流れ。澱み穢れた風の歌。山を崩して海を穢す。海から溢れて山を染める』』』
(なら後は、この異界が飲み込まれる直前まで、詠唱を重ね続けて魔術の強制力を増幅させる)
両手を広げ、詠唱を開始する。三つの口で高速に、同じ言葉を何度も何度も重ねていく。その度に強く、強く、強く、強くなる魔力は最早ヒビキ自身でも制御し切れぬ程に。
『『『其は瞭然たる異常。其は特異なる不条理。故に肯定し、遂行しろ』』』
(十重に二十重に、高速詠唱で重ね続けろ。制御は考えなくて良い。彼女に意識がない今なら、狙わなくても当たる! だから、必要なのは絶対に飛ばすだけの出力と、それを相殺出来る以上の力の総量!)
それで構わない。制御なんて、端から考えてはいないのだ。必ず通す。その意思だけを貫いて、求める結果は勝利のみ。迷いなき瞳でヒビキは睨む。今も白き世界を死臭で染めようとしている異形の女を。
『『『昨日の先に今日など要らず、汝の果てに未来はない。全てを奪われ、連環の底へと堕ち続けろ』』』
(っ、礼拝所は、もう持たない。解除、しないと――っ!)
限界ギリギリ。礼拝所全体が飲まれる前に、世界を元の形へと戻す。再びリセットされた侵食世界を睨み見て、しかし勝利を確信したヒビキは笑った。
それは嘗ての響希が浮かべることはない表情で、それは嘗ての勇者が浮かべた悪童のような笑みに少し似ていて、しかし確かに異なるヒビキだけの色。
「でも、十分だ。もう、君にこれは防げない! 展開――――」
――其は、許されざる罪である――
「――哀れな魂、輪廻を巡れ。其は出口なき無限回廊!!」
森の一角。周囲一帯ごと、朧を異界へ追放する。先に夢幻のアダムに対して用いた時よりも、更に遠くへ遥か別の次元へと。
どれ程に朧が侵食しようと、決して届かぬ異界への封印。直後に更に広がり続ける穴を、それ以上の力で強引に閉じる。過程で森の半分を消失させながら、どうにかヒビキはふらつきながらも成し遂げる。
「無価値に終われ。次元の隔たれた外なら、君が幾ら侵食しようとこの世界までは届かない。……これで、僕の勝ちだ」
荒い息を整えながら、ヒビキは告げる。死臭に侵食されていた一帯は更地に変わっており、朧が其処に居たと言う痕跡すらも残ってはいなかった。
「腕は、治り始めたね。けど、まだまだ遅い。……流石に、疲れたから、か」
世界を隔てたからか、或いはその途中で執念が途切れたか、真威の影響から解放されたヒビキの肉体は再生を始める。
だが、彼が言う通り速度が遅い。力の消耗は激しかった。時間を回帰させるだけの魔力も残ってはおらず、暫し急速は必要だった。肉体的にも、精神的にも。
「少し、休もう。王様に挑むためにも、先ずは万全にならないと」
ゆっくりとその場に倒れ込む。青く晴れた空を見上げて、ヒビキは小さく息を吐く。白い息が空へと溶けて、それを見送る気分は少しだけ重かった。
「けど、危なかった、な。朧に意識が残っていたら、多分あの真威は、もっと……」
あの時、修羅覚醒の最中で意識を奪えていなければ、己は此処にこうしては居られなかっただろう。
朧の真威の侵食速度が万全の物であったのならば、そうでなくとも彼女に意識が残っていて主体的に動いていたなら、負けていたのはヒビキの側だ。今なら素直に、それを認めることが出来ていた。
「はは、あれで、二番目か。ほんっと、遠いなぁ」
だからこそ、思う。ほんの少しボタンを掛け違えれば、敗れていたであろう相手。そんな朧ですら、敵の中では二番手だと言うその事実。
間違いなく、一番目は彼女より強い。果たして勝てるのだろうか。果たして戦いの形にすら成るのだろうか。そんな不安が、ないと言えば嘘である。
「だけど、だからこそ、だ」
それでも、思う。修羅の王。炎王は紛れもなく、世界で一番強い男だ。嘗て憧れた親友よりも、今まで見知った強者よりも、そして或いは――全能なる神よりも戦においては上だろう。
「頑張れ、ヒビキ。決めたんだろう、強くなるって。誓ったんだろう、もう逃げないって。なら、泣き言は全部後。全部終わった、その後で、笑いながら言うべきだから」
だからこそ、挑む価値があるのだ。だからこそ、追い掛けるだけの価値があるのだ。そう嘯いて、己自身に言い聞かせる。ともすれば折れそうになる心を鼓舞して、必ず勝つのだと此処に誓う。
「頑張るよ、僕は。君に、君達に、胸を張れる自分で在りたいから」
他の誰でもない、自分自身にそう誓って――今は目を閉じ、眠りに落ちる。次の戦いに必ず勝利するのだと決めて、悪竜王は傷を癒すのであった。
異世界「なんでもかんでも俺に押し付けるなよ」
【真威について】
真威は内功と外功、想行と実行の組み合わせで四種類に分類出来る。其々の効果は以下の通り。
・外功想実 周囲の空間を作り替える。
・内外想行 特定概念を曖昧化させる。
・内外実行 特定ルールを自他に強要する。
・内功想実 自分自身を改変し超絶強化する。
因みに相反する真威同士がぶつかり合った場合、基本的には相性によって一方が優先される。
例を幾つか挙げると「世界を作る外功想実の真威は内外想行が曖昧にした世界を再構成出来るので強く、ルールを後から自他だけに追加する内外実行を防げず素通りさせてしまうので弱い」「自己を強化し確固たる物に変える内外想実の真威は内外実行の干渉を完全に防げるので強く、世界そのものを曖昧化させる内外想行に対しては何も出来ないので弱い」など。
内外実行>外功想実>内外想行>内功想実>内外実行 と言うのが基本的な相性関係。但し真威自体の効果によって、相性関係がひっくり返ることはある。また、発動者同士に実力差があり過ぎれば、相性有利でも勝てない場合もある。




