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Re, DS  作者: SIOYAKI
第四章 死して後已む
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第61話

朧の事情

◇聖王歴1325年水ノ月20ノ日


 朧と言う女には、とても好きな光景がある。美しいと心の底から、素直に想える景色があった。


「あらあら、また町で人死に。理由は肩が当たった相手と意気投合したから、つい、と。まあまあ、いつも通りのこと。世は平穏、事もなしね」


 末法染みた独り言を呟きながら、騒ぎが起きている街中を足取り軽く進む旗袍(チャイナドレス)を纏った少女。

 長い黒髪で端正な顔立ちをした彼女は、御年12となった領主の末娘。己が父の納める領地で、今も楽し気に騒いでいる領民たちを背に彼女は進む。


 その足取りに迷いはない。領民を失ったことへの感傷も、それの出来事を切っ掛けに現在進行形で派手な殺し合いが起きている領地も、彼女の歩を緩めるには値しない。


 興味がないのだ。他領が侵攻してきたと言うのなら兎も角、自領内での殺し合いなど事件とも言えぬ日常的なこと。どうせ放置しておけば、いつも通り全滅前には止まるだろう。


 だから放っておけばまた増えているだろうし、仮に領民が全滅したとしてもああそうかとすら思わない。それは少女が産まれながらに負った性、と言う訳でもなかった。


 東の良家の教育が、そうした児童を育てるように成っている。生来、闘争本能を宿して産まれる修羅は、情が深くなればなる程に抱く殺意を深くする。家族を家族と思えば、殺さずには居られぬのだ。


 故に長い年月を経た貴族の類は、己が子が何にも興味を持てぬように育て上げる。籠の中で鳥のように育て、時折適当な獲物を与えて闘争本能を程々に満足させる。

 ある程度の分別が育つまではそうして過ごさせ、以降は家に都合が良い趣味趣向を持つよう誘導する。一地方の領主の家系に生まれた彼女、朧もまたそうして育った女であった。


「う~ん。相変わらず、遠いわねぇ。引っ越しとか、出来ないかしら? 朱亜様は、あの地から動けないんだっけ? なら、こっちかぁ。父様と母様と兄様と姉様と領民たちが邪魔だなぁ、全員殺そうかなぁ。でもあの人たちなんてどうでも良いし、美雨(メイユイ)は泣かせたくないし、やめとくかぁ」


 のほほんとした表情で呟きながら、朧は町から少し離れた場所にある山の奥へと進んでいく。ゆっくりと歩いているような動作で、しかし目まぐるしく周囲の景色が変わるのは気の運用によるものだ。


 東に産まれた修羅の中でも、朧は上澄みと言って良い才覚の持ち主であった。父母兄姉の中に彼女と比肩する才覚は居らず、その気になれば幼い彼女はこの地を血で染めてしまえただろう。それでもそうとしない理由の一つは、これから会う二人の片方に由来していた。


 常人ならば丸一日以上は掛かる距離を、一時間もせずに移動し終えてその場に着く。聖帝山と呼ばれるその地は、古くから祝融と称される神が統べる地とされていた。

 不可侵の聖地と言われれば、興味をそそられるのが童の性質。他の全てに無関心であったが故に、朧は6つの時分に家を出てこの地に忍び込んだ。そうして、彼らに出会ったのだ。


 72の峰がある聖帝山。その中央に座す赤峰へと続く道の麓に隠された小さな人里。其処に住まうのは、蜥蜴の鱗と尾を持つ亜人の蜥蜴人(リザードマン)


 人に似て非なる彼らは、修羅とは違った。他者から奪うのではなく、己が手で育てる。それ自体は修羅も行うことではあるが、修羅の場合は奪いに来た者を返り討ちにするのが主眼だ。守る戦いをしたいから守ると言う、目的と手段が逆転しているのが修羅の性質。だからこそ、奪う相手が周囲に居ないのに、作物を育てている彼らの姿は印象深く心に残ったのだ。


 だから、つい試してみたくなって当時の朧は襲撃を仕掛けた。結果は惨敗。逃げ惑う亜人たちを守る為に出て来た赤帝守護と呼ばれた一人の修羅が、朧を一方的に叩きのめした。


 そうして命の危機に陥った少女を、救ったのは隠れ里に住まう一人の亜人であった。赤の巫女と称される少し年上の女の子。己を打ちのめした少年の傍らに居た少女が、朧の助命を訴え彼女の傷を癒したのだ。


 傷が癒えるまでの間、多くを語り合った。この隠れ里は、火の精霊王に連なる者らが生きる地だと聞いた。赤峰の頂上に座す祝融とは、火の精霊王である朱亜のことだとも知った。


 亜人たちは、朱亜に仕えることを是としている。先代勇者と出会うまでは人に失望していた朱亜と同じく、彼らは人と言う種に期待を抱いてなどいない。修羅も含めて、どうしようもない生き物だと断じていて。だから興味がないのだ。外の事象の一切に。


 赤帝守護の系譜は、守る闘争を好んだ一人の修羅から始まった血筋だ。闘争に真摯で実直な在り様から、人間よりはマシだと朱亜に取り立てられた彼らはやはり外部に興味を持たない。

 修羅がその業に飲まれて死する東の常識に対して、鼻で嗤う程度の感慨しか抱いていない。弱い奴は大変だなと、そう告げたのは当代の赤帝守護だった同年代の少年である。


 赤の巫女だけは、外の世界を悲しんでいた。修羅の境遇に嘆いてくれた。どうして、愛し合えているのに、分かり合えないのだろうかと。どうして、誰もが平和に生きることが出来ないのだろうと。

 そう語る少女に同胞たる亜人たちは首を傾げて、赤帝守護はそんなものだとしか返さない。だから彼女は、寂しかったのだろう。外から来た朧に、率先して関わり続けた。


 修羅と亜人。種族は違えど、友には成れる。共には在れる。赤帝守護がそうだから、朧とだってきっとそうだ。そんな風に笑顔で語る少女に対し、朧は強い好感を抱いた。

 そしてその度に、少女の手は友の首へと伸びた。大切だと思えば思う程、好きだと思えば思う程、衝動的に殺したくなる。死骸を晒して欲しいと願う。だから襲い掛かって、その度に赤帝守護に倒された。


 朧は少女が好きだった。殺そうとしても、死なないでくれるから。朧は少年が好きだった。少女を殺そうとする己をいつも止めてくれる、己では壊せない人だから。だからあの日から6年が過ぎた今も、彼らの下に通い続けている。


美雨(メイユイ)! 赤鸞(チールァン)!」


 名を呼んで、彼らが振り向く前に首に向かって糸を放つ。最早呼吸同然の無意識に、殺意なく振るわれる凶器はしかし当然届かない。

 糸が少女の首を切断しようとする直前に、少年が掴んで引き摺り寄せる。仕立ての良い花柄の旗袍を泥塗れにしながら地面を引き摺られた朧は、しかし楽し気に立ち上がる。


朧月(ロンユエ)!」


「何だ、また来たのか貴様。随分とまあ、領主の娘とやらは暇なのだな」


「赤鸞! 折角、朧月が来てくれたのに、そういうこと言わないの!」


 朧の顔を見て、同じく目を輝かせる美雨。そんな彼女の傍らに立つ赤鸞は糸を放しながら皮肉を呟くが、朧が反応する前に動いた美雨の言葉に表情を歪める。

 分かった分かったとウンザリとした表情で返す赤毛の少年は、美雨に対してだけは頭が上がらないのだ。それは赤帝守護と言う、特別な家系に産まれたが故でもあったのだろう。


 赤帝守護の家系に産まれた修羅は、生誕の際に火の精霊王より修羅の本能を封じられる。巫女の血筋を核としたその封印は、彼女らが傍で生存している限り解けない。

 当代の赤鸞は、特に強固な封印を受けて育った。産まれた瞬間、これは忌み子だと朱亜に恐怖され、そして同時に期待されたと言う。この子は全人類を滅ぼせる、と。故に彼の場合は衝動だけでなく、その力の殆ども封印されていた。


 美雨が傍に居る限り、赤鸞は本来の実力の0.1パーセントすら発揮出来ない。九割九分九厘以上の力を封じられているのだ。

 それで居て修羅の上澄みである朧を一方的に叩きのめすのだから、彼が時折に語る己が最強であると言う自負に異論なんて付けられなかった。


「相変わらずね、赤鸞は。これでも私、ちょっとは成長しているのに」


「は、小さな羽虫が必死に飛ぼうと、(オレ)からすれば牛歩にも満たん。貴様の成長など、止まっているのと変わらんよ」


「赤鸞。言い方っ!」


「まあ、事実だから気にしてないわ。これで実力の大半を封印されていると言うのだから、本気の貴方がどれ程の存在なのか。一修羅としては少し気になるわね」


 歯に衣着せぬ物言いをする赤鸞に、美雨は如何にも怒っていますと口を挟む。そんな少女の言葉を受けて、面倒そうに顔を背けた少年。いつも通りのやり取りをする二人にくすくすと笑いながら、朧はそんな問いを投げ掛けた。


「そ、それは……」


 その問い掛けに、気まずそうな表情を浮かべて黙る美雨。誰から見ても最強と言える男の足枷となっている事実に、思う所があるのだろう。だが、その事実を少年は取るに足らぬと鼻で笑う。


「ふん、阿呆共が。己が最強だと言う事実は、足枷一つで変わるような物ではない。それに、これは己の女だ。背負ってやれんで、何が男か」


「なるほど」


「せ、赤鸞。その言い方は、恥ずかしいよ」


 少女の懊悩を、赤鸞は一顧だにもせず切って捨てる。悩むまでもない。迷う必要なんてない。己が最強であると言う認識を、彼は当然の事実として受け入れている。その事実は、封印の一つ二つで揺らぐような物ではないとも。


 絶対の自信。人によっては傲慢とも慢心とも取れる言葉を彼が口にしたのは、単純明快な事実であるからと言う理由が半分。もう半分は、少女の曇り顔を見たくないからだろう。そう当たりを付けた朧は、揶揄い混じりの口調で美雨に対し話題を振った。


「因みに俺様全開な赤鸞はこう言ってるけど、美雨的には赤鸞のことはどう思っているのかしら?」


「え、ちょっと、朧月!?」


「ほら、ガールズトークと言う奴よ。偶には、女の子同士、こういう話もしたいじゃない。あ、赤鸞は離れて。聞き耳立ててはダメよ」


 修羅は戦闘生物だ。三大欲求と同じ領域で、闘争や殺戮を必要とする生き物である。だが、それでもそれ以外の面は見た目通りに普通の人間と大差ない。


 詰まりは何が言いたいかと言えば、年相応の娘として朧は恋や愛に興味があったのだ。身近のそういう関係に、色付き始めた年頃の娘は黙って見ては居られない。コイバナとやらをしたくなった訳である。


「……ふん、下らん。何かあれば呼べ、近くには居る」


(と、言いつつも返答までにある一瞬の間。更には声が聞こえる場所には居ると言う発言。実は結構気になってるでしょ、赤鸞)


「何か不快なことを考えているな、貴様」


「いえいえ、そんな」


「ちっ」


 年相応に恋模様に興味を出しているのが朧なら、相手の内心が気になりつつも素直に成れない少年の反応も年相応か。

 殺意を我慢出来なくなった朧が襲い掛かってもギリギリ止めに入れる位置まで離れて、赤鸞は少女達に背中を向けるとそのまま地面に胡坐をかいて座り込んだ。


「で、実際のところは?」


「え、と。あの……私もね、赤鸞のことは、好きだよ」


 そうして赤鸞が離れたことを確認してから、耳打ちするような声音で朧が問い掛ける。身を乗り出した彼女に対し、似たような声音で美雨も返した。


「ずっと一緒に居たし、これからも、ずっと一緒に居るから、多分そういう関係になるんだと思う。ううん、成りたいんだって想えてる」


「まあ!」


 執着の強さは、殺意の強さ。そんな修羅が大半を占める東においては、それこそ絵物語の中でもなければ見聞きも出来ない少女の感情。

 まだ淡い想いと言う範疇にあるのかもしれないが、それでもしっかりと育まれている絆に朧は嬉しくなる。そうした絵巻物も、彼女にとっては好物だから。


「……でも、その割には余り嬉しそうじゃないと言うか。何か不安でもあるの?」


 だからこそ、その僅かな表情の機微に朧は気付いた。好きだと告げて、恋人や夫婦のような関係になりたいと語る美雨。そんな彼女の表情に、一点の曇りが紛れていたことに。


「凄いね、朧月は。気付かれるとは、思ってなかった」


「友達だもの。そのくらいは気付くわ。だから、隠し事なんてしないで、素直に話しなさい」


 朧は美雨のことが好きだ。人としても好感を抱くし、友人としても一緒に居て楽しい。心の底から、彼女のことを好んでいる。

 朧は赤鸞のことが好きだ。修羅としては敬意を抱くし、友人としても認めている。朧はこの三人で居る時間を、何より大切に想っているのだ。


 だから当然、僅かな歪みにも気付く。そして気付いたからには、その曇りを見過せない。この関係が壊れることは、彼女が何より望まぬことだから。


「私、ね。不安、なんだ」


 朧に促されて、美雨はその心中を語り出す。それは彼女が幼少期より抱いている、一つの孤独に由来する不安であった。


「ほら、初めて会った時に、少し話したじゃない」


「皆と話しが合わない、だったかしら」


「うん、そう。私が悲しいと思うことを、赤鸞は悲しいとは思わない。私が苦しいと思うことを、赤鸞は苦しいと思えない。私が嬉しいと感じることも、赤鸞は嬉しいと思えているかが分からない」


 美雨は一族でも変わり者とされている。人が傷付けば悲しいし、人が争い合うのを見ていると苦しいし、誰かが幸せそうに笑っていると嬉しくなる。そんな当たり前の感動が、しかしこの里に生きる人々の中には欠落している。


 嘗て、火の精霊王は人類の殲滅を企てたことがある。その企ては実行に移される前に、勇者キョウの手によって止められた。だがそれでも、その名残は今もこの里に残っている。里に生きる亜人たちは、当時の精霊王の思想を強く受け、排他的な文化を築き上げて来た。


 火の血族は、他人が傷付いても何も思わない。同じ里に生きる同胞を除いて、同じ生き物だとは思っていないのだ。だから外部の者が苦しんでいても何も思わないし、里の住人ではない者の不幸に涙する美雨のことが理解出来ない。


 美雨が分かり合えないのは、里の亜人たちだけではない。彼らよりも赤鸞との間にある溝の方が、遥かに深く広いものである。何せ衝動を封じられてはいても、赤帝守護はあくまで修羅だ。彼やその親族は当然のように戦いを好むし、誰かを傷付ける行為を楽しむ。そういう風に産まれてしまった者である。


 そんな性質を持たない亜人の中でも、一番のお人好しである美雨と言う名の少女。火の巫女であり赤の貴種でもある彼女と修羅の王との間には、どうあろうと理解し合えない壁が存在していたのだ。


「ずっと一緒に居たけど、こうなんだよ。好きなのに、分かり合えないの。だから、それが不安。分からないから、不安なの。いつか彼の心が、私の傍から離れてしまうんじゃないかって」


「美雨」


 時折、近くに居るのに、遠く感じるのだ。愛情を抱いているからこそ、想いを分かって貰えない事実が辛い。そして、それ以上に恐ろしい。いつか彼が己を捨てて、何処か遠くに行ってしまうのではないか。内心を理解することも出来ぬのに、どうしてそれを空想に過ぎぬと否定出来ようか。


 好きだと口にされる度、俺の女だと好意を向けられる度、本当にそうなのかと疑ってしまう。今はそうでも、何時かそうではなくなるのではと疑ってしまう。そんな疑心暗鬼に陥る自分が、美雨は何より嫌いであった。


「でも、美雨は赤鸞が好きでしょ?」


 そんな風に吐露した彼女に、朧は少し考えてから笑って伝える。疑う余地もない事実だと告げた言葉に、顔を真っ赤にした美雨は少し間を置いてから肯定した。


「うん、そうだね」


「そして、赤鸞も美雨が好き」


「そう、かな?」


「そうよ。だって彼、相当に分かりやすいもの」


 続く問い掛けに首を傾げる美雨に対し、くすくす笑って朧が告げる。直後、少女の額に丸い石が直撃していた。


「あら痛い」


「ちょっと赤鸞! 聞いてたの!? っていうか、石投げちゃダメでしょ!」


 頭部が原型を留めていることから、赤鸞も本気ではなかったのだろう。それでも赤い痣が出来た額を、朧は片手で抑えてくすくすと笑う。

 対して怒りの声を上げるのが、友人を傷付けられた美雨である。聞き耳を立てられていた事実に赤面しながら、背を向けたままの赤鸞に苦言を呈した。


 分かった分かったと言わんばかりに、気だるげに片手を振って返す赤鸞。振り向きもしないその姿に、頬を膨らませてから罵詈雑言混じりの叱責を始める美雨。そんな二人の姿に見詰める朧は、笑みを深めて楽し気に語る。


「うふふ、ほら、こんなにも愛されている。そんな貴方たちが、私は好きよ」


「朧月」


「貴方たちを見ていると。愛することも、愛されることも、とっても素敵なことだと思える。羨ましいとも思えるくらい、貴方たちは特別だもの」


 美雨は特別な存在だ。火の精霊王の直系である亜人の中でも、特に強い血を受け継いで産まれた巫女の血族。

 更には歴代の巫女とは異なり、赤鸞の持つ強大過ぎる力を封じるために、精霊王がその権限を貸し与えた存在。東で初めて産まれた、赤の貴種でもあるのだ。


 赤鸞は特別な存在だ。修羅の頂点として産まれた存在で、そうでありながら赤帝守護の血筋が故に、修羅の特性に飲まれていない。

 闘争を好むが闘争に酔うことはなく、愛した者を殺してしまうと言う修羅の業からは完全に解き放たれている特別な存在なのだ。


「貴方たちの愛は綺麗よ。だから、私が断言してあげる。大丈夫、貴方は彼を愛せているし、彼も貴方を愛しているわ」


 そんな特別な存在だからこそ、彼らはこうして愛し合えている。朧はそう思うし、その事実に憧れても居る。

 だって、綺麗なのだ。絵巻物の中にしかないと思っていた、少なくともこの東では他に見た事のない純愛関係。特別な二人が織り成すそれを、朧は何よりも尊い物だと信じている。


「分かり合えないことを、不安に思う必要なんてない。だって分かり合えないままでも、こんなにも貴方たちは互いを想えている。分かり合っているのに奪い合う者たちばかりな東の大地で、その在り方は奇跡にも等しいものだと思うの」


 奇跡にも等しい、その関係。尊い愛と言う物を、朧は守りたいと想っている。其処に友誼の情も加われば、抱く想いは強く重いものとなろう。故に朧は、胸に抱いて誓うのだ。その想いは決して壊れないし、決して壊させはしないのだと。


「だからきっと、貴方たちが離れることはない。それだけは、絶対よ」


「朧月」


 微笑みながらそう告げる朧に、美雨も安堵したような笑みを返す。その理屈、その全てに納得が出来たと言う訳ではないが、それでも十分に感じ入るものがあったのだから。


「無論だ。偶には貴様も、芯をついた言葉を言うではないか」


「ち、赤鸞! あ、貴方ね」


 いつの間に其処に居たのか、その場の誰も気付かぬ内に美雨の傍らに立っている赤毛の少年。

 そんな彼に対し顔を赤面させつつも、美雨が叱責の言葉を飛ばすのはその物言いだけが理由じゃない。


「少し黙れ、美雨。不安にさせたのは詫びるが、無意味な迷いをこれ以上晒し続けるのは止めろ」


「む、無意味って」


「無意味だ。そして無価値だ。お前は己の女であり、己はお前の男であろう。ならば己の腕に抱かれていろ。他には何も要らんだろう」


 それが分かっていたからこそ、少年はその屈強な腕で少女の肩を強引に抱く。相手の気持ちを知ってからこう動くのは、彼の狡さか未熟さか。


「あわわわわ」


「うふふ。お熱いことで」


「ふん。当然だ」


 これは俺のだ、と身勝手ながらも真っ直ぐな感情を向ける赤鸞。そんな思いを愛する男から向けられて、混乱し切っている美雨。

 幼馴染と言う程に長い付き合いをしている二人のそんな姿に、朧は目を細めて笑みを深める。本当に、彼女はこの光景が好きだった。


「朧月。受け取れ」


「あら、これは?」


 そんなやり取りをして暫く、ふと今気付いたと言わんばかりの素振りで口を開いた赤鸞が、朧に対して小さな革袋を投げた。

 危なげなく受け止めた朧は、その軽さに首を傾げる。さてこれは一体何であろうかと、問いを掛けられた赤鸞は顔も向けず答えを返す。


「霊峰の山頂で取れる薬草だ。礼も兼ねてはいるが、今日は貴様の誕生日でもあっただろう」


「あらあら、まあまあ」


「目を回している美雨と共に選び、探した物だ。品に対する感謝なら、こいつが真面になった時にでも伝えてやれ」


「赤鸞には?」


「言ったろう。礼も兼ねて、と。これ以上は、こちらが受け取り過ぎになる」


 聖帝山にある72の峰には、それぞれの頂上に異なる秘薬と材料となる植物が生息している。真価を発揮させる為には適切な処理が必要だが、軽い傷を癒す程度ならば素の薬効でも十分過ぎる程の物だ。


 各々の山頂でしか取れず、採取にも保存にも特殊な知識が必要となる希少素材だ。町で売り捌けば小袋一つ分でも一財産となるであろうそれを集めるのは、相応に大変であっただろうに。

 一切そんな素振りも見せず、朧から聞けばきっと「お前は弱いのだから備えておけ」なんて憎まれ口で返すのだろう。彼は、そんな少年であったから。


「うふふ。相変わらず、素直なのかそうではないのか。美雨は幸せ者ね」


「違うな。己が幸せ者なのだ」


 ふと思わず、朧が口に出した言葉に対し赤鸞は真顔で返す。それを耳にして、肩を抱かれたままの友人はまた目を回していて、だから朧はくすくすと笑って意地悪に返した。


「ふ~ん。天に恵まれているのは自分で、女を幸せにするのは天ではない。そんな意味合いかしら」


「……察したなら、口には出すな。それは貴様の悪癖だぞ」


 赤鸞も朧同様、思春期の少年だ。本気で口にした言葉ではあっても、何だかんだで恥ずかしくはあったのだろう。

 捻たように返して目を背ける彼に、そのまま抱かれたままで居る彼女に、その光景に目を奪われたまま朧は楽しげに笑う。


(ああ――本当に、綺麗)


 愛する男と、愛される女。その光景は、何と美しいのだろう。この愛情は、何と素晴らしいのだろう。

 東の地にある愛は、その殆どが歪で醜悪なものだから。だからきっとこんなにも、この二人が尊く思えたのだろう。


(いつか、私も――)


 そんな光景を見ていて、少しだけ朧にも欲が出た。こんな風になりたいと、こんな風に誰かを愛し愛されたいと。


 だが、それ以上に思う。自分の叶わぬだろう夢よりも、此処に在る今が長く続きますようにと。彼らの愛が何時までも永久に続けば良いと願っている。


 朧と言う女には、とても好きな光景があったのだ。本当に、美しいと心の底から、素直に想える景色があった。それだけは、何時までも変わらない。そんな風に、想っていた。


 なのに――どうしてそうなったのだろう。美しいものはいつだって、思っているよりも簡単に壊れてしまう。






◇聖王歴1327年火ノ月47ノ日


 強い雨音が屋内にまで響く中、衣擦れの音が静かに紛れる。肌着も着ずに花柄の旗袍を身に纏う、露出の激しい衣服を着るようになったのは確か二人目の影響だったか。


 14歳と言う年の割には、発育豊かな裸体を数瞬前まで晒していた朧。彼女は暗い部屋の中で、一夜を共にした男を見やる。無残であった。首を切られ、手足を千切られ、体の中身も殆どない。


「はぁ」


 物憂げに息を吐く。別に、物を言わなくなった男が朧に対して何かをしたと言う訳ではない。そう長い付き合いではないが、昨日今日に出会ったと言う訳ではない相手。


 町を歩いていて、ナンパをされたのが出会いの切っ掛け。顔の造形が嫌いではなかったから付き合ってみて、それでも安売りはしないと数度の逢引きで振り回して、彼ならまあ良いかと受け入れたのが昨夜のこと。


 湯を浴びて、衣服を脱いで、布団の中で触れ合って――最後の一線を超える直前に、最期の一線の方を超えてしまった。

 ああ、これから抱かれるのだと。己の好意を自覚した瞬間に、朧の指は糸を繰って男の体を壊していたのだ。


 返り血に塗れて、壊れたままの死骸を抱き締め、現実から逃避するように目を閉じた。そうして眠りに付いて、起きたのが今。冷静になった頭で、彼女は深く嘆息した。


「また、やってしまったわね」


 抱かれても良いと思った男を殺してしまうのは、これが初めてのことではない。もう四度目になるのだから、流石に嫌でも慣れてしまった。


 最初の頃は、殺した後に動揺して泣き喚いて、隠れ里に居る二人の幼馴染に泣き付いた程にショックであった。だが今は、辛くはあるが、取り繕うことは出来ている程度。その摩耗が、少し寂しい。


「御免なさい。愛しい貴方。愛しかった貴方。多分私は、すぐに忘れてしまうから」


 それはきっと、誰にとっても不幸なこと。女の愛は重いのだ。だから彼女は、殺した誰かを直ぐに忘れる。覚えていたら、耐えられないから。

 そう、それは不幸なことである。幼馴染の恋模様を知るが故に恋愛に対するハードルが高く、だからこそそれを超えて来れるような男を強く想ってしまう。


 そして更に最悪なのは、朧は修羅の中でも上澄みに位置する実力の持ち主と言う事実であろう。凡百の修羅なら息するように殺せてしまう程には強かったから、朧に愛されれば大半の男は生き残れない。

 例外は恐らく赤鸞くらいなものであり、その赤鸞は美雨のものであるから手を出すなんて論外で、ならば恋愛をしようと思わねば良いのに我慢がどうしても続かない。


 綺麗だと憧れて、自分もそうなりたいと夢に見た。そんな乙女チックな内情を抱える少女の容姿は秀でているから、簡単に釣られる男が多く居る。求められれば、今度こそと期待してしまう。


 それが、愛した男を四度も死なせたと言う悪循環の理由であった。


「さようなら。すぐに忘れてしまう貴方。……赤鸞や美雨のような特別ではない、こんな私が高望みをした。そのつけを貴方に払わせたのは、本当に申し訳なく思っているわ」


 いつしか、朧はそう結論付けた。本気で愛した相手を殺してしまうのは、修羅が有する性故に克服することなど叶わない。

 赤鸞にそれが出来るのは、赤鸞と美雨が共に特別な存在だからだ。巫女が修羅の気性を抑えて、だから彼と彼女は愛し合える。


 そうと分かっていながらも、ならばと妥協が出来ないのが朧である。殺意を抱かぬ程度に執着して、程々に相手を愛して、それで逢瀬を重ねたとてそれが何だと。

 恐らくは東の住人の大半がそうしているであろう男女の薄い愛情で、妥協が出来ないことこそ朧の罪なのだろう。そうと分かって、なのに高望みを続けるのだから性質が悪いのだ。


「……何でか、二人に逢いたいわね」


 いつも誰かを殺す度、誰かに縋りたいと願ってしまう。だが縋る程に執着すれば、その相手にも殺意を抱いてしまうから。

 朧が愛せるのは、朧では殺せない相手だけ。彼女が知る限りにおいて、そんな相手は二人しか居ない。だからこうして、愛を失う度に隠れ里を目指すのだった。


「相変わらず、遠い道」


 死体は父の部下に処理を任せて、町を出た朧は雨の中を進む。足取りは重い。早く会いたいと願うのに、軽いペースでは進めぬから、余計なことばかり考えてしまう。


 こうして罪の意識に浸るのが、命を奪った罰だとでも言うのか。だが己が罪深いと言うことは分かっていても、どうしても他責思考をしてしまう。どうして己は、修羅に産まれたのだろうと。どうして修羅は、こんなどうしようもない生き物なのだろうと。


「……煙の、臭い?」


 ある程度の距離にまで近付いた時、鼻孔を掠めたのは何かが燃えるような嫌な臭い。山の木々が燃えているのか、周囲を見やれば少し離れた場所に鮮やかな光が。


 その場所は、隠れ里がある場所。火事が起きているのだと察した朧は、肉体を闘気で強化すると慌てて走り出す。幼馴染二人が危機にあるとは思っていない。

 赤鸞が居る限り、誰にも美雨は傷付けられぬと信じてはいる。だが、それでも急がぬ理由はなかった。だから、朧は全力で駆けた。


「嘘」


 そして、その場に辿り着いた時、少女は我が目を失った。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


「はっはっは、我ら六武が総掛かりで倒せぬとは。これはこれは、笑うしかありませんな」


 赤鸞が荒い息を吐いている。全身が血に塗れていて、それでも強く敵を睨む。その少年は、背に意識のない美雨を庇っていた。

 隠れ里の家屋が幾つも倒壊して、火に巻かれて燃えている。亜人の住人たちは逃げ出したのか、それとも。ともあれ、姿一つ見えない状況だ。


「しかも、足手纏いを庇ってそれだ。もしもその娘が居なければ、我らの方が負けていた。これ程の逸材を知らずに居た。何とも口惜しく、そして嬉しい話です。君のことを教えてくれた、周良君には感謝をしてもし切れませんなぁ」


 隠れ里を襲った下手人。その数は六人。六武と言うその称号と、先陣を行く着流し姿の老人には見覚え聞き覚えがあった。

 朧は父が領主であるから、彼のことを知っていたのだ。戦があれば気紛れに現れ、敵対した陣営を悉く滅ぼす東国最強集団六武衆。その棟梁こそが、彼の武鋼。


 見知った相手は、筋肉質な老人一人ではない。六人全員を六武衆だと断じた理由は、もう一人その場に見知った相手が居たからだ。


「そんなものか、赤鸞! いいや、そんなものではないだろう!」


 名を周良。六武衆が五席を名乗り、数ヶ月程前に隠れ里を襲った男だ。祝融の正体を暴くと勇んでやって来た彼は、この地で赤鸞に惨敗して美雨の慈悲で生き長らえた。そして、逃げるように立ち去った筈だった。


(アイツ。前に、赤鸞に負けた奴。仲間を連れて、お礼参りってこと。なんて情けない!)


 無様に逃げ延びた男が、仲間たちと此処に居る。詰まりはそういうことであろう。一人では勝てなかったから、数を集めて復讐に来た。

 同じ修羅として、軽蔑の情を抱く行動ではある。だがそれでも笑えないのは、そんな雑魚同然の行動を取る周良一人でも今の朧より強いと言う事実である。


 六対一の戦場だからと、下手に介入すれば逆に危機を呼ぶだろう。故に息を潜めて身を隠しながら、朧は状況を把握を探り好機を待つ。


(それにしても、赤鸞の動きが、いつもより鈍い? 美雨を庇っているから、だけじゃないわね。これ)


「俺を倒したお前は、こんな程度で倒せて良い男じゃないっ! 毒を盛られて動けぬ恋人を庇いながらっ! 力の大半を封じられたまま、その上で俺の真偽による呪詛を受けっ! 俺たち六武衆の全員を敵に回してっ! それでもお前は勝つんだろう! それがお前だ! そうだろう! なぁ、なぁ、なぁっ!!」


 一体何があったのかと、思考を纏めるよりも前に周良がその事実を晒す。よく見れば、その男は以前に出会った時よりも老けていた。

 更に言えば、一分一秒ごとに白髪や皺が増えている。何らかの外法を使っているのは明らかで、それが更に不利な赤鸞を追い詰めているのだろう。


「愚問だな。この程度で、己の首は獲れん!」


「ああ、ああ、ああっ! そうだ! お前はそうだ! そうでないと! そんなお前を倒すために、そんなお前を超えるために、俺は全てを捨てたんだぁっ! 勝っても負けても、俺は死ぬ! だから、なぁ! 簡単に終わらせてくれるなぁっ! 死闘の果てに、お前に勝たせてくれよなぁぁぁっ! 赤鸞ぁぁぁぁんっ!!」


 ああ、成る程と。その語りを聞いて、朧は理解した。負けたから意趣返しに来たと、その判断は間違いだった。

 周良と言う男にどんな過去があるかは知らないが、赤鸞と言う最強の存在が男の琴線に触れたのだろう。そう、言ってしまえば、目を焦がされて脳を焼かれたのだ。


(負の感情じゃない。憧れによる執着。その殺意は、全力の好意でしかない。……理解出来なくはないけど、面倒な男ね。アイツ)


 愛情の深い修羅は、好意を抱いた相手に殺意を抱く。詰まりはあの周良と言う男は、今の朧と同じなのだ。

 赤鸞に、或いは美雨にも、好意を抱いたから、己の用意出来る全身全霊を費やして殺しに来たと。唯それだけが理由なのである。


(六対一でも、赤鸞なら簡単には負けない。文字通り命を賭けてる周良って奴は、時間経過で死ぬ。その呪詛が解ければ、残り五人が相手でも勝つのは赤鸞だ)


 朧の目から見ても、赤鸞と言う少年は最強だ。それは東国に名高き六武衆を比較にしても尚、大きく上回っていると言って良い。

 そんな彼が防戦一方となっているのは、六対一と言う数の差、毒で動けぬ美雨と言う枷、周良と言う男の命懸けの呪詛、その全てが合わさったが故の結果であろう。


 故にどれか一つでも欠ければ、そこから拮抗し逆転する。このまま時間さえ稼げれば、先ず真っ先に呪詛を掛けた男の命が尽きる。一秒単位で老化と衰弱を続けているのだ。あと十分も持てば良い方だろう。だが――


(でも、美雨は持たない。毒を盛られてるって話が本当なら、赤鸞が勝つ前に美雨が死ぬ)


 恐らくは呪詛が消えて五対一、其処で漸く拮抗だ。一対一なら問題なく勝てる相手であっても、二対一、三対一と増えればさしも赤鸞でも手間を取る。

 敗北の可能性はない。皆無と言って良い。だが勝利には時間が掛かる。となれば次に命を落とすのは、既に意識がない程に衰弱している火の巫女となろう。


 かくて封印と言う枷から解き放たれた赤鸞は、真なる力を発揮し敵対者らを蹂躙する。そんな未来が目に見えて、しかし許容は出来ぬから、朧は静かに拳を握った。


(なら、どうする。私に、何が出来る。決まってる、赤鸞への助力。アイツら六人の内、誰か一人を仕留めること!)


 決断は一瞬。六対一で時間が掛かると言うのなら、早急に五対一にしてしまえば良い。相手が減れば、決着は早まる。何なら早期に朧の側が一人を落とせば、次の一人と各個撃破を狙っていける。


 為すべきことは定まった。次に決めるべきなのは、誰を狙うかと言うところ。……何となく、漠然と思う。この選択は重要な岐路であると。そう漠然とは思いながらも、今は一分一秒が重い。故に女は、並ぶ顔の中から即座に討つべき一人を決めた。


(誰が良い? 誰にすべき? ……周良は駄目。アイツが一番赤鸞の負担になってるけど、私が仕掛けたって見向きもしない。なら、私が相手にするべきは――アイツだ!)


「おや?」


 懐から糸を取り出し、朧はその指先に巻き付け振るう。伸びた糸は一人の老人の下へと向かって、その振るわんとしていた刀の鍔に纏わり付いた。

 気付いて、老人はしかし動かない。唯、静かに笑みを深めると己を引き摺ろうとする力に逆らうことなく跳躍する。折角の招待、乗らねば修羅ではないだろうと。


「なるほど、貴方が。見覚えがありますね。確か、領主の娘さんでしたか」


「……あらまあ、顔を合わせたのは一度だけなのに。随分と記憶力が良いのね」


「はっはっは。これでも実は見た目以上に年なので、最近は痴呆の心配もあるくらい記憶力には自信がないのですが。貴方のような才能の原石は、一目見れば忘れぬのですよ」


 隠れ里の周囲にある森の中へと、着地した武鋼は軽く刃を揺らすだけで糸を断ち切る。闘気で強化された糸があっさりと切れた事実に、朧は内心で僅か動揺しつつも表に出さずに返してみせた。


 目の前に立つ年老いた偉丈夫は、今の所作を見るだけでも朧より格上。頭一つ、では済まないだろう。赤鸞よりは弱いとは言え、それでも数百年に渡り修羅の頂点にあった男だ。年若い朧が、勝てるような相手ではない。


 それが分かって、それでも退くと言う道はない。故に再び取り出した糸に闘気を流して、鋼線の強度へと変えたそれを振るう。斬と木々を断ち切りながら迫る糸を、しかし老人は指先を小さく動かすだけで対処する。刀の峰で糸に触れると、そのまま刀を軽く回して糸の流れを受け流したのだ。


「ふむ。私の知る、東の流派にはない動き。独学ですかな。しかし、全く見事な操糸術です。思わず見惚れてしまいましたよ」


「簡単に防ぐ相手に褒められても、嬉しくなれる訳がないわ。お爺さん、女の扱いは苦手?」


「はっはっは。痛い所を突かれましたなぁ。産まれ出でて三百年。その殆どを闘争に費やして来たので、女人の扱いなんて覚える機会がなかったのです」


 互いに軽口を交わしながら、攻め手と受け手は変わらず一方的に。雨霰を思わせる速度で矢継ぎ早に、両手の糸を繰る朧。その糸の一切を最小の動きで流しながら、迫る武鋼は揺らがない。


「女は欲の捌け口でしかない、と? 最低ね」


「いえいえ、捌け口でしかないのは男も、です。性欲と闘争欲、向けるものは聊か異なりますがねぇ」


「うふふ、何を言っているのかしら。似たようなものでしょ、それ」


「あっはっは。成る程確かに、我ら修羅にとってはどちらも大差ありませんな」


 退いて、退いて、退きながらに糸を繰る。流して、流して、受け流してから一歩を進む。要される動作が大きいのは朧の方で、故に当然結果は自明の理。


 十数回の交差の後に接敵。冷や汗を流しながら両手の糸で咄嗟に繭のような盾を作り上げる朧に対し、その完成を待ってから動いた武鋼は空いた左の拳を振るう。

 震脚、震撃。鎧通しと呼ばれる技法で放たれた拳が、眉を返して衝撃を伝播させる。臓腑を抉り取られるような痛みに、朧は苦悶し吐血した。


「げ、ふっ」


「まだ、未熟。とは言え、見惚れる程に光るものを感じているのは事実です。その若さで、大したものだ。今日は未来ある若人を多く見れて、実に実に良い日ですな」


 繭を破られ、腹を抑えて片膝をつく朧。その姿を見下ろしながら、にこやかに老人は語る。長く東国最強を務めた男にとって、今日は正に人生でも有数の良い日であった。


 赤鸞と言う修羅の極みを見れたことも含めれば、人生で最良の日と言っても過言ではないだろう。修羅はここまで到達出来る。その感動は、嘗ての勇者達に出し抜かれた時を遥かに上回るものだった。


「はぁ、はぁ。まぁ、随分と、ご機嫌の様子。なら、ご機嫌ついでに、暫し指導を願えます? 私の動き、光るものがあるのよね?」


「ふむ。まあ、良いでしょう。彼の頂点を間近に見れぬのは惜しいが、あれはまだ枷がある。底が見れる訳ではない。となれば、こちらの方が私の趣味に合う」


 認めよう。朧はまだ弱い。産まれながらに中途半端に強者であったから、周囲の者らに学ぶことなくこの域にまで到達出来ていた。

 動きの全ては独学で、そんな自身を超えるのはより特別な赤鸞だけ。六武衆が相手であっても何とでもなると、そう慢心していたのである。


 だが現実は、まだ足りない。恐らくは末席である第六席ですら、今の朧より頭一つは上だろう。となれば第一席を相手に、朧が勝る道理はない。常道で考えるのならば。


 しかし武鋼と言う男は、常識では考えられない者だ。否、修羅の常識で言えば逆に一番平凡なのが彼であろうか。才ある者が教えを請えば、答えぬと言う選択肢はないのだから。


「東国六武衆、第一席。先人より付けられた号は摩睺羅伽。名を武鋼と申します。貴方も名乗りなさい、お嬢さん」


趙朧月(ジャオロンユエ)。生憎、貴方と違って、御大層な称号なんて一つもない女よ」


 互いに名乗り、ぶつかり合う。糸を繰る朧の動きは変わらず、変わったのは武鋼の動き。大きく他者から見て取れるように刀を振るう、その所作は呼吸一つに至るまでの全てが教導だ。


 こうすればより良くなる。そうすればより良くなる。戦闘しながら分析して指導する。言葉にすれば簡単だが、誰にも出来るような物ではない。そんな動きを始めた老人に、少女は何とか喰らい付く。


「はっはっは。いやぁ、やはり良い。戦いの中で成長する若者と、武を競う程の楽しみは他にありませんなぁ」


「はぁぁぁぁっ!」


「一手一手、積み重ねる度に強く成る。あと五十、いや四十もあれば十分か。恐らくはそれだけの組み合いで、君の動きは洗練されて私の首を狙える域には届く。ああ、何て素晴らしい逸材か」


 正しい呼吸の仕方。より効率的な闘気の練り方。戦いにおける視線の意味や、体幹維持の重要性。ミリ単位で動きの無駄を修正されながら、朧は自らの成長を痛い程に感じていた。


 修羅と言う戦闘生命が持つ性質。朧自らの才能。指導者としては、数百年に一人どころか人類史全てを含めても最高位に位置する武鋼と言う存在。それら全てが嚙み合って、今と言う事実がある。


 朧の繰る糸を、武鋼は既に完全には流せなくなっている。雨の中で雫に数的濡れる程度だが、それでも手傷としては十二分。全身を浅く切り刻まれて血に濡れながら、しかし老人は狂ったように笑っていた。


「さすれば私も、また高みへと。強く成った君を超え、私も更に強く成れる! ああ、素晴らしいかな。我ら修羅を生み出したことこそ、古き者らの為した最たる功でしょう!」


「理解出来ないわね。修羅なんて、そんなに素敵なものじゃないのに!」


 男の心中から発せられた笑い声に、肩で荒い息をしながら少女は返した。生まれついての才覚。修羅と言う性質の上では上位に位置する少女の嘆きに、老人は心底から理解出来ぬと眉を顰める。


「おや、見解の相違ですね。貴方は今、楽しくないと?」


「楽しいわよ。だからこそ、私は私が許せない」


 修羅はより良い闘争を好む存在だ。趣味趣向に個体差はあれど、純度の高い戦闘を好まぬ個は居ない。若き才に魅了される武鋼だけが、楽しんでいる訳ではない。朧も確かに、この一瞬に強い歓喜を感じていたのだ。


「親友が苦しんでるの! その恋人が頑張ってるのよ! なのにどうして、私は今を楽しんでるの!? ふざけるんじゃないわよ、こんなのろくでなし以下じゃないっ!」


 だがだからこそ、少女は己が許せない。親友である美雨は、今も意識が戻らずに苦しんでいる。その少女を守る為に戦う赤鸞は、恐らく今も頑張っている。なのにどうして、己が快楽に酔っているのだ。そんなの、許されて良い話ではない。


「楽しいから楽しむ。そこに意義を求めるのは無意味ですよ。どうせ何もないのですからね」


「そんな理屈で、割り切れる訳がないっ!」


「なるほど、哀れな。貴方にとって世は、実に生き辛い場所でしょうなぁ。ならば、その理性の枷を解いてやるのも先達の役目ですか」


「余計な、お世話よっ!!」


 けれど、修羅とはそういう生き物なのだ。息を止めれば苦しいように、物を食わねば腹が空くように、眠らなければ心が壊れるように、闘争を否定した修羅は狂い死ぬ。


 少女にはそんな、破綻した修羅の資質が垣間見えた。才ある者の中には稀に居るのだ。情の深い修羅こそ、より高い才を持つが故に。ならば、それを正すのは先達の役目だと武鋼は断じる。


 剣閃をより鋭く。動きの無駄を減らして最小限に。意識一つで、武鋼の動きは大きく変わった。無駄が一切ない動作の全てが無拍子で行われる武の頂点。技術と言う一点においては、未だ東国最強に位置する老人の全力。

 それを発揮した意図は、戦闘の質を上げるため。今ならば本気を出しても、少女は簡単には死なぬと思えたからこそ武鋼は全力で闘争の楽しさを教え込むのだ。


(糸が、尽きた。けど――)


 防戦一方。糸を振るう度に断ち切られて、気付けば懐に隠していた物は残っていない。徒手空拳、無手の状況に追い込まれて朧は歯噛みする。


 されど、退けない。大切なのだ。大好きなのだ。そんな時間を、こんな男達に壊されることなんて許せない。だから勝ち目なんてなくても、前に踏み出し拳を振るう。その瞬間、右の腕に痛みが走った。


「負けられないのっ! こんな奴にっ!!」


「まさかっ!?」


 そして、破裂する。前に突き出した朧の右腕の肘から先が、中から弾けて吹き飛んだ。驚愕に目を見開く武鋼の前で、綺麗に断たれた断面から伸びるのは滝のように大量の糸。


 無意識のまま、体内でそれを作り出した朧。その腕から音を超える速度で伸びた糸が、周囲の森を抉りながら武鋼の体を押し潰す。

 想定外の一撃に、咄嗟の回避も間に合わない。武鋼の左半身は、全て残らず糸の濁流に潰されたのだった。


「この土壇場で、滲威に目覚めるか。……はっはっは。お見事です」


 体の半分を失って、それでも好々爺染みた笑みのまま、武鋼はその場に崩れ落ちる。老人の前に立つ隻腕の少女は、己の傷口を抑えながら呆然とその姿を見た。


「か、勝っ、た……」


 実感は湧かない。それでも、己は勝ったのだ。そう思うと、込み上げて来るものと逆に抜け落ちていくものがあって、少女は立ってられず地に膝をついた。


 それでも、これで、美雨は守れた、赤鸞の力には成れたのだ。そう思うと、涙が出る程に嬉しくて。だから、朧は――その直後に起きた異常に、最早放心することしか出来なかった。


「ええ、君の勝ちです」


「っ!?」


 武鋼が居る。傷一つない姿の老人が、体を半分失って倒れる老人の直ぐ傍に。同じ顔、同じ姿、同じ声。全く同じ老人が、其処には二人存在していたのだ。


「なのでこのまま、負けていてあげても良かったのですが。君はまだ伸びる。せめてその滲威を完成させてあげねばならない。そう考えるとね、死んだままでは居られなかったのですよ」


「貴方、何? 死んだ、筈でしょ」


「はい。死にました。なので次の私が来た。それだけの話です」


 それは、今の朧が知らぬ技によって起きた異常。神威法。正しく人を超え、神の領域へと到達せんと築き上げられた六武衆に伝わる秘奥の力。

 心威「死相を映す阿遅鉏高日子根」の能力は、己と全く同じ存在を作り出すこと。武鋼はこの能力を使って、常に複数の自分を残機として用意している。


 死んだら直ぐに成り代われるように、作った自分を闘気を使って眠らせておく。コールドスリープの要領で、今の自分が死んだら即座に目覚めるように設定した。

 結果、死ぬ度に少しだけ若返ると言う副次効果も得た。故に三百年に渡って、武鋼は生き続けて来たのである。今の己が老いて鈍ったならば、若い頃に作って保存していた自分が殺して入れ替わると言う形で。


「さあ、続けましょう。朧月さん。大丈夫、貴方はまだまだ強く成れる」


「――っ! あああああああああああああああああっっっ!!」


 武鋼と言う老人は、殺しても殺しても次の者が出て来て成り代わる。故にそもそも戦うことが間違いなのだ。彼に勝とうと望むのならば、彼を心の底から諦めさせなければならない。


 これは負けで良いと老人が納得すれば、或いはこの相手にはこれ以上期待出来ないと老人が諦めれば、そうして漸くに戦いは終わる。だがしかし、皮肉なことに朧は才覚に溢れ過ぎていた。


「素晴らしい。また私が殺された。次の私を此処に呼び出しても、今の貴方の相手にはならんでしょうなぁ。才能の差、ですかねぇ。それとも意思の差、か。はっはっは、これだから修羅と言うのは、世界と言うのは、奥が深い」


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 七日七晩、腕を失ってから続いた戦闘の時間だ。武鋼が追い詰める度に朧は覚醒とも言える程の成長を見せ、それ故に武鋼も目を輝かせて退かなくなる。


 既に力関係は逆転していた。武鋼の側が勝っているのは戦闘経験だけで、それ以外の全てで朧が半歩先へと進んでいる。それでも、追い詰められているのは朧の側であった。


「となれば私の勝機は、物量による持久戦のみ。それをすれば、まあ勝てるでしょう。君ももう限界が近い」


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 限界が近い。人間は三日も水を飲まねば、命の危険に瀕するとされる。だと言うのに七日七晩だ。飲まず食わず眠らずで、生理現象の一切を気力で捻じ伏せながら戦い続けた。


 それは人より頑丈な戦闘生物である修羅であっても、既に限界に等しいだけの長い時間だ。対する武鋼は死ぬ度に、そうした疲労の蓄積もリセットしてくる。持久戦となれば、勝機なんてなかったのだ。


 既に百を超える程に、殺し続けた相手である武鋼。百七十二人目の彼が腰から下を切り裂かれて倒れているのに対して、百七十三人目の奇襲を警戒しなければならない朧は立っているのもやっとと言う有り様だ。


「しかし、それは同時に私の敗北でもある。若き才に届かぬと諦め、番外戦術で打ち勝つと言うのはね。なので、此度は君の勝ちです」


「……逃げる、気?」


「はい。これ以上やっても、私の残機が削れて、君の命が尽きるだけ。……それにどうやら、向こうの動きももう無さそうですからねぇ」


 そんな中で、しかし次の武鋼が来ない。警戒を崩せぬ朧に対し、半身を失いながらも余裕のある武鋼は語る。朧にとっては、救いのないその事実を。


「赤鸞が、勝った? 一体、いつ」


「六日と3刻程前、ですな。どうやら枷が壊れる前に、私の部下達は敗れたようですが。……はて、枷が死ねば遮二無二こちらに来ると踏んでいたのですがねぇ。死体を抱えて、何をしているんでしょう。彼?」


「――っ。美雨っ!!」


 赤鸞は、五対一で勝った。美雨が命を落とす前に彼は勝利した。だが、彼は守れたが救えなかったのだ。六武衆の五人を倒した後に、愛する女を失ったのだから。


 それを為したのは朧の知らない情報だ。周良が放った真偽の呪詛は、身体能力を大きく低下させる。だがその真価は其処にはなく、最も凶悪な効果は呪詛の対象を不幸にすること。


 死して尚効果が継続したそれによって、赤鸞は不幸にも美雨を救う術を失った。里の医師は不幸にも死んでいたし、薬の保管庫は不幸にも燃え落ちていたし、山の峰にある薬草は不幸にも枯れていた。


 だから、彼は守れたけれど救えなかったのだ。赤鸞は最強の修羅。戦いの場で敗北はなくとも、それしか出来ぬ男であったが故に。


「こちらに向かって来る気はなさそうなので、もう仕方ありませんな。負け犬の親玉は、素直に逃げることにします。暫くは、山にでも篭もって腕を磨くとしましょうかねぇ」


 そしてこれは、もう一つの救いのない真実。もしもあの時、朧が武鋼を倒そうとしなければ――他の六武衆を狙っていれば、戦いの中で成長出来る朧ならば勝てていたであろうと言うこと。


 武鋼の無限復活ですら、赤鸞ならば残機も含めて一方的に殺害出来る。今より早く決着は付いて、そして美雨も救えただろう。朧の腰にはあの日に貰った薬草で作った、大抵の毒や病を癒せる秘薬が入った袋があったのだから。


「では、またいずれ。傷を癒したら、殺し合いをしましょう。お嬢さん」


「最低の誘い。……次は必ず、全員殺し尽くしてやる」


「はっはっは。期待してますよ」


 言って笑い続ける武鋼の頭に向かって、糸の津波を落として肉片一つ残さず消し去る。念入りに存在の痕跡を消した後、朧は赤鸞を探して駆け出した。


 先の戦場には居ない。既に鎮火を終えた隠れ里の広場には、六武衆と呼ばれた者らの肉片が転がるのみ。赤鸞が全員殺したのだと、分かるのはそれだけだ。

 故に次に探したのは、隠れ里にある唯一の医院。燃え残ったその建物に人は居らず、赤鸞の痕跡は殆どない。あるのは男の足跡だけ、それを追ってみれば着いたのは村の保管庫。


 だがやはり、保管庫も残ってはいなかった。燃え滓となった木々や燃え残った柱などが残るだけで、食料などは僅かに残っていても薬の類は見付からない。

 足跡はまだ続いていて、次に向かったのは赤鸞の家。他の家屋より大きな屋敷も半壊していて、やはり薬の類だけが壊滅していた。それを確認してから、赤鸞は山に向かったのだろう。人伝に聞いた目撃情報を頼りに、朧はその足跡を追った。


 72の峰を探し回って、それでも見付からずに追い掛け続けて、其処から更に三日が経った後に漸く見付ける。死体を背負って、歩き続けていた男の姿を。


「赤鸞」


「朧月か。今、医者を探している」


 声を掛ける。そんな朧に、顔も向けずに赤鸞は返す。歩き続けている彼は、既に三つを超える町を回った後だった。


 しかし何処に行っても、医者も薬も見付からない。不幸にも、隣町に向かっているだとか、治療に必要な薬の在庫を切らしているだとか、そんな理由で救う手段が見付からなかった。


「赤鸞」


「ああ、医者じゃなくても良い。せめて薬と、雨風を防げる場があれば」


 死体を背負って、歩き続ける男の異常さは東国でも稀な物。闘争に関わらぬ場では、意外と真っ当な常識を踏まえた修羅も少なくはない。

 故に今も現実逃避を続ける赤鸞に、指摘する者は居なかったのだろう。或いは、そうした者にさえもその不幸が故に出会えなかったのかもしれない。


「赤鸞」


「毒は消せたが、美雨の体力がもう持たん。早く、休ませてやらねば――」


「赤鸞。もう、腐敗が始まってるわ」


 だから、朧が指摘する。悲しい顔で、首をゆっくりと左右に振りながら。そして、その言葉を聞いて、赤鸞は漸くに進み続けていた歩を止めた。


「……ああ、そうか」


 朧も初めて見る、きょとんとした表情。一瞬だけ硬直した赤鸞は、直ぐに正気に戻る。一瞬だけで済んだのは、本当は既に気付いていたからなのだろう。


 空を見上げて、静かに息を吐く。そうして自覚した瞬間に、彼の力が膨れ上がる。その存在の密度が上がる。今もその身を縛っていた黒い呪詛が、秒も持たずに燃え尽きる。


 息が出来ない。怒りを向けられている訳でもないのに、圧迫感が強過ぎて思考さえ満足に出来なくなる。そんな中で朧は、察していた。赤鸞の封印が解けたのだと。

 火の精霊王をして、世界全てを滅ぼせると断言させた程の力。究極の修羅が、この日この今に目覚めたのだ。


「己は、失ったのか……」


 その対価に、男が愛した少女の命を奪って。世界最強は此処に目覚めた。その力を振るう意味など既になく、その胸中には風が吹き抜けるような穴だけを残して。


「赤鸞」


 だから朧は、この哀れな男に最期まで付き合おうと思った。地獄の果てまで付いて行こうと決めたのは、この日この時の後悔が理由。


 大好きだった。大切だった。失いたくはなかった。そんな時間を失った彼と共に、同じ道を歩いて進もう。彼が世界を呪うのならば、世界全てを滅ぼすのだと。


 そう思った。こんな悲しい世界なんて、いっそ滅んでしまえば良い。一番辛い訳ではない、朧でさえもそう思った。だから赤鸞も、きっと。


 そう想っていた朧にとって、その後の彼の行動は、予想外の物であった。


「朱亞様より名を賜った。これより己は、火の王を超えた者――炎王を名乗る」


 隠れ里に美雨の躯を埋めに戻り、火の精霊王と暫し対話をしていた赤鸞。彼は髪と瞳の色を輝く透き通った赤色に変えて、赤の貴種に成って戻ると朧に向かってそう告げた。


 曰く、殴り合って勝って来たと。その権限を貰って来たと。そう語る男に付き合うために、朧もまた名を変えた。姓と名を一文字ずつ捨てただけだが、何も為せない己には朧と言う文字が合っているから。


「六武衆の名を奪う。あれは使える」


 その後直ぐに、六武衆の唯一の生き残りである武鋼に襲撃を仕掛けた。報復戦かと気炎を上げて望めば、しかし炎王は武鋼を殺さなかった。

 殺せなかった、のではない。一瞬で数万回は武鋼を殺して、その残機を残り一つとした上で敢えて生き残らせたのだ。お前の力は必要だから、この自分に従えと。


 怒りも憎悪もあるだろうに、彼はその全てを目的の為に飲み干した。だから朧も激情に堪えつつ、彼の決定に従った。しかし、同時に可笑しいと違和を感じていた。炎王の在り方が、理解出来ないものに見えていたのだ。


「なあ、朧。己は決めたぞ、この力の使い道を」


 そんな朧の胸中を察したのか、炎王は彼女に語った。火の精霊王と語らって、彼が決めた歩く道。愛する人を失くした果てに、手にした地上最強の力。それを如何に使うのか、を。


「美雨が見ていた、景色を知りたい。アイツの願いを叶えた先で、全ての争いを終わらせた先で――其処でなら、己にも分かると思うのだ」


 彼はまだ、愛していた。彼はまだ、愛せていた。だから、理解してやりたいと。それが理由。そんなことが、戦う理由。

 修羅であるから、戦うことしか選べない。それでも、その果てに、争いのない世界が作れたならば。きっと分かる筈だから。


(ああ、そうか。赤鸞が、美雨が、特別だと思ってた)


 美雨を失ってから、武鋼のように蘇生出来る例外を除いて、炎王は可能な限り人を殺さなかった。東を統一する戦乱の過程においても、出た被害はその規模を思えば不自然に少ないもの。


 そうした方が簡単だろうに、そうしたいと言う衝動だってあるだろうに、それでも簡単に奪ってしまえば愛した女の想いを知ることが出来なくなるから。男は一人、歯を噛み締めて耐え続けた。


(違うんだ。封印なんてなくても、赤鸞は強いから、壊さないで愛していられる)


 その姿を見て、朧は思い違いをしていたことを漸く悟る。封印があるから、炎王は美雨を愛せたのだと思っていた。封印がないから、朧は誰かを愛せないのだと思っていた。


 違うのだ。封印なんてなくとも、炎王は美雨を今も愛している。強く強く想いながら、己の意志で衝動を抑え続けている。狂いそうな程に腹が空いているだろうに、男は強いから耐えているのだ。


 ならば耐えられなかった朧は、特別ではないと言う言い訳すら出来なくなった女は、きっとこの時に致命的なまでに壊れてしまったのだろう。


(あはは、ははは、何だ。朧月と言う女は弱いから、誰も愛せなかっただけじゃない)


 己の浅ましさを知った。己の醜さを知った。こんな女じゃ、あの綺麗な物を得られなくて当然だ。そう理解してしまったから、もう泣き嗤うことしか出来やしない。


 そんな己の変化を感じ取ったのか、炎王が悔やむような表情をした。大切な友人である彼にそんな顔をさせる己が更に許せなくなり、だがだとしてもどうすれば良いのかも分からなくなって、朧は泣き嗤いしか出来なかったのだ。


 その日以来、ずっと朧は逃げている。こんなどうしようもない己でも、愛せる者が何処かにあるかもしれないから。壊して壊して壊し続けようと、壊れたままに今も女は誰かを壊し続けていた。






【美雨生存ルートについて】

今回の朧に出来た正解は、本人も言っている通り武鋼以外を狙うこと。


逆に最悪解は赤鸞と早期に合流すること。朧は修羅の本能を抑えられないので、赤鸞が手一杯な状況だと朧が美雨を殺してしまいます。


六武衆撃破後の赤鸞が朧と合流しようとしなかったのも、朧と武鋼の戦闘が継続している中、双方から美雨を狙われた場合に守り切れないと赤鸞が判断したからです。


薬だけを赤鸞に渡そうとするのも下策。不幸の呪詛で高確率で受け取れません。

なので唯一の美雨生存ルートは、六武衆全員撃破後に合流して、赤鸞が見張る中で朧が治療する他にはなかった訳です。


まあ、ここで仮に生き延びても、邪神が美雨絶対殺すマンなので、封印状態の赤鸞では対抗出来ず、いつか絶対に死ぬんですけどね。



【火の精霊王の四方山話】

勇者キョウの時代に、人類殲滅を企んでいた火の精霊王。その策謀の内実は、修羅王である炎王を人里に放り込んでから巫女の封印を解除して大暴れさせると言う脳筋極まる方法でした。

でも実際にそれをやられると、対処出来る人間は居ないので詰むと言う事実。


尚、勇者の説得で思い止まった火の精霊王ですが人間嫌いは健在。六武衆が里を襲って眷属を滅ぼしたことも相俟って、やっぱ人間滅ぼすべきじゃねと成っていました。


けれど炎王が美雨の想いを知る為に世界を救うと語り、一騎打ちで火の精霊王を倒してみせたことで改心。目も脳もこんがり炎王に焼かれた精霊王は、現在では全財産を推しに貢ぐ立派なドルオタになりました。


多分今日も火の精霊王シュアは全力で生きている炎王の姿を遠くからサイリウム振って応援しながら、僅かでも貢げるチャンスを伺い続けていることでしょう。



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― 新着の感想 ―
火のヤツ、お前ぇぇ… 水と別の意味でのダメ人間だぞ。 でも炎王覚醒も邪神さん仕業か。 もう出来たのでしょうがない、試練に流用しようかの感じかな?
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