第59話
誰にも祝福されなかったからこそ、自分だけはその生誕を寿ごう。
◇聖王歴1339年風ノ月36ノ日
長く歩き続けた先で、少年はその場所に辿り着く。一見して激しい戦いが起きたのだと察せられる程に、大きく刻まれた大地の傷跡。
嘗ては其処に満たされていた聖なる力を宿した水は残らず消えて、今では五メートルを超える断崖が唯々広がるのみである。
「あらあら、殺風景な場所。観光名所とは聞いていたけど、唯の窪地じゃない」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
その崖の際から覗き込み、残念だと嘯く朧。言葉とは裏腹に楽し気に笑いながら、女はその傍らへと視線を流す。
辿り着いたと理解した瞬間、膝から落ちるように態勢を崩した少年へ。彼女は敢えて、少し厳しい言葉を投げた。
「立ちなさい、響希君。胸を張って、顔を上げなさい。それくらいは、出来なきゃ駄目よ」
「――っ。大、丈夫」
前に進むと決めたのならば、王に挑むと決めたのならば、強くなると決めたのならば――果たして此処は終着点か、否であろう。
ここは過程だ。それとも或いは、始まりか。どちらにせよ、一先ずの目的地でしかない。そんな場所で足を止めているようで、一体何が出来ると言うのか。
言われて響希は、歯を食い縛って言葉を返す。ふらふらとふらつきながらも、立ち上がれたのは数分後。
喉を付く饐えた臭いに、飲み干すことでどうにか耐えて。重たい足を引き摺るような形だけれど、それでも彼は立ってみせた。
「それで、此処の何処に?」
「本、当は、何処でも、良かった。けど、此処が、一番だと、思ったから」
さて、此処から何処に進むのか、と朧が響希に問いかける。その問い掛けに、言葉を口にする度に痛む肺に苦しみながらも響希は返す。
何処でも良かった。本当は、この終焉の地ソヴァーラにさえ来る必要はなかったのだと。ならば何故に来たのかと言えば、それが一番美観に合うと思えたからだ。
だから、響希は足を大きく開いてその場に立つ。痛む肺の中へと冷たい空気を吸い込んで、空に向かって吠えるように言葉を叫んだ。
「僕は、来たぞっ!」
そう、此処まで来た。その強行軍の目的は二つ。一つが炎王と言う共通の脅威から僅かでも距離を取ることならば、残る一つは己自身を追い込むために。
魔王とは神が人に強いた試練である。試練とは、踏破されてこその物。程度の大小はあれ、それは五大魔王全てに共通する嗜好。魔王は抗う者が好きなのだ。
中でも原初の魔王である彼は、五大で最も純粋な物。他の魔王と異なり、人間性と言う異物がない。故に――
「君も出て来いっ! アカ・マナフっっ!!」
世界は黄金に染まる。肉体強度を考慮すれば、理論上は可能かと言うレベルの雪原踏破。それを為した同胞へ、彼が答えぬ訳がないのだから。
「……これは、異界? 黄金の、玉座」
黄金に輝いているのに暗い。この場の第一印象は、そんな矛盾したものとなる。至る所を金で彩った装飾華美な玉座の間、だと言うのに全体に濃いスクリーントーンが掛かったように暗いのだ。
そして此処にあるのは玉座の間だけ。城の一室ならば当然ある筈の扉がない。どころか壁や天井すら、よく見ればないのだ。虚空に浮かんだ華美な装飾と景観の暗さが故に気付き難いが、薄暗さの向こう側には無明の闇だけが広がっていた。
「やあ、おはよう」
黄金の玉座。そう呼ぶには不釣り合いな石の玉座に、いつの間にか腰を掛けて頬杖を付いている男が居る。暗い闇の中で一際強く輝く男は黄金。髪も瞳も、煌びやかな黄金の色をしていた。
黄金の色をした玉座、ではない。黄金が座す玉座であるから、黄金の玉座。そう一目見ただけで他者に知らしめる黒衣の男は、愛でるような瞳で両者を見下ろす。掛けた言葉は日常にあるようなものだと言うのに、この美丈夫が口にするとどうしようもなく不吉に思えた。
「この瘴気の異様な密度。いえ、人型をした瘴気そのもの、と言うべきね。貴方が、魔王アカ・マナフ?」
「然り。私がアカ・マナフだ。初めまして、かな。修羅の娘よ」
座したまま、言葉を返すは原初の魔王。アカ・マナフは楽し気に、朧もまた楽し気に、響希だけは表情を強張らせ、くすんだ赤色の絨毯の上で向かい合う。
「成程、これは赤鸞でなければ無理ね。私では、消し切れない」
「ほう、一目で私の性質を見抜くか。流石は修羅。やはり君達は素晴らしい」
視線を合わせて、内を満たす氣を探ったのだろう。魔王アカ・マナフの本質を察した朧は、これは自分の手には負えないなと肩を竦める。
性能が、ではない。単純な攻撃防御速度を競うなら、十度戦って二・三は勝てる。修羅覚醒を考慮に入れれば、その二・三を初回で引く自信は十分にあった。
だが、性質が手に負えない。アカ・マナフは悪思だ。その本質は、実態を持たない悪性情報。人の精神の集合体だ。大本である人間が一人でも生きている限り、この魔王を完全消滅させることは叶わない。少なくとも、炎王と言う全てが規格外の存在でもなければ為せないのだ。
人型をしているだけの瘴気。その性質故に生命が存在する限り滅ぼせないが、そうであるが故に全生命の合計値の半分までしかその力を振るえない。
人が文明を発展させればさせる程に強大になる脅威ではあるが、上限は常に人が乗り越えられる位置にしかない。最も試練と言う在り様を体現しているのが、この魔王なのである。
「ふむ。今気付いたのだが。私はどうやら、人間と言うモノが好きらしい。君達自身も、君達が生み出す物も、全てが全て素晴らしい。これもある種の、自己愛と言えるのだろうか」
常の彼ならば、もう少しは機械的だ。何せ五大魔王で唯一、人を器としていない魔王である。その情動は未発達で、その思考は昆虫にも似た物。単なるシステムであるのが彼だ。
だが勇気を示した元同胞に、要はあてられてしまったのだろう。いつになく口が軽くなっている。常ならば余り思わぬ思考が浮かぶ。その事実を楽し気に受け入れながら、アカ・マナフは愛し子らを見下ろす。
呼吸を整えた響希は、魔王へ向かって一歩前に出る。三段程度の小階段を挟んで、両者は視線を此処に合わせた。
「僕の来た理由、分かってる?」
「無論だとも。私は悪思だ。故、程度の差はあれ、誰もが私を有している。ならば当然、私は全てを見聞きしている」
元は感情のないシステムが、この悠久の中で全ての人間を見て来たが故に変化した。その変化が抗う者を好むと言う試練の性質に引き摺られたのは、ある種当然の結果であろう。
そんな魔王は、愛情と憐憫が等価に籠った瞳で少年を見下ろす。彼の目から見ても、響希が選び取ろうとしている道は自殺行為にも等しいものであったから。愚行と、そう言う他ない行為であったから。
「しかし、君も愚かだな。愛しい我が同胞よ」
「うん。知ってる。けど、君にとっては好都合な話だろう」
「さて、どうかな。だが、その愚かさは好ましいがね。何時だって、この私を倒すのは、君達のそんな愚かさだ」
忠告は一度だけ。結果がどちらに転ぼうと、原初の魔王は受動的に受け入れる。まあ、それも良かろうと。興味がない、と言う訳ではない。否定と言う感情がないから、全てを肯定しているだけだ。
だが、だからこそ響希にとっても都合が良い。悪辣な吸血鬼や思い付きで動く嘘吐き魔女とは異なって、この魔王ならば口にしたことは必ず守るし余計なことは一切しないと言う確信があった。
「それで、必要なのは目覚めさせることだけかね? もう少し、助力もしてやれるが」
「ううん。起こすだけで良い。それ以上は要らない」
「そうか、ならば今はそうしよう」
響希の狙いは単純だ。アカ・マナフの力を使って、悪竜王を復活させる。今も彼を焼いている炎は、余計な物を焼かないように加減されている。
ならばアカ・マナフが手を貸して、アジ・ダハーカに力が戻れば消し去ることは可能なものだ。そんな響希の目論見通り、魔王が軽く手を振れば、それだけで彼の内にあった熱は消えていた。
故に、これで最期。火が消え、悪竜が力を取り戻した以上――龍宮響希の時間は終わりだ。
「では、さようならだ。龍宮響希。君の末路が、良き終わりと成らんことを」
「違うよ、アカ・マナフ。龍宮響希は、とっくの昔に終わっている」
楽し気に告げる魔王の声に、背中を向けて響希は語る。そう、人としての彼はとうの昔に終わっていたと。
「ふむ。ならば君は、此処で何も残さず消え去ると?」
「いいや、それも違う」
振り向いた先に居た朧が、真剣な表情で問うて来る。そんな彼女の問い掛けに、響希は首を横に振って答えた。
「此処から、産まれるんだ。ヒビキ・タツミヤ=アジ・ダハーカとしてっ、今、此処から始めるんだよっ!」
そう。終わりはとうに過ぎている。ならばこれは終わりじゃなくて――そうとも、これが始まりなのだ。
そして、内なる竜が目を覚ます。闇を糧に目を覚ました彼の存在が、今表層にある響希と言う名の卵の殻を喰らい始める。
己が喰われる。消えてなくなると言う感覚は、どうしようもなく生理的な嫌悪感を沸き立たせるものではある。それでも響希は恐れることなく、瞳を閉じて己の内へと沈んでいった。
◇
そして、少年の意識が反転する。直後、開いた瞳に映る世界は白銀の輝きに染まっていた。
「泥沼、じゃない?」
白銀の光の中に、唯一人立つ響希。竜の目覚めと共に落ちたのは、己の内面世界である筈だった。
ならば当然、あの悪竜が座すのは悪意に満ちた泥の沼。そうだと思っていたのに、だがしかし違っている。
其処は白を基調とした建物の中、黄金の玉座と対比するように銀色の装飾が周囲を彩る。美しいと、そう自然と感じるこの異界こそが――
「ああ、そうか。これが本来、アジ・ダハーカに与えられる異界か」
竜は闇の力を受けて、真に産まれ直そうとしている。ならば当然、これまでは機能を停止していた魔王としての力も目覚め始めているのだ。
無数に並ぶ木の長椅子、正面にある壇上には教壇が一つ。天井には水色のステンドグラスが、その向こうから差す光を染めている。
そして最奥の壁には、銀色をした大きな十字架。悪竜王に与えられたこの異界に名を付けるなら、白の礼拝所とでも呼ぶのが最も相応しいと言えるだろうか。
【お前、馬鹿だよ】
そんな礼拝所の中に、唯一存在している黒。黒い鱗に覆われた、黒い尾と黒い爪を持つ人型の爬虫類。
二足歩行の蜥蜴と言えば多少は可愛げもありそうに思えるが、三つの口がその異常さを明確なまでに示している。
頭部に一つ。両の肩に二つ。大きな口を持つ鱗の怪物。それが一体、誰の悪趣味か。どこぞの聖者のように手に杭を打たれて、銀色の十字架に吊るされていた。
「久し振り、かな? でも、向き合うのは初めてだから、初めましてかも? 君が、アジ・ダハーカだね」
【第一声がそれとか、頭イカレてんの? ってか、そうじゃなきゃ、こんなことしないか】
「それ、痛くない? 下りるの、手伝おうか?」
【ほんっと、頭おかしいだろ、お前。普通、他になんかあるだろ。十字架に吊るされる姿見たらさ、恐怖を叫ぶとか、冒涜だって怒るとか。ああ、もういいや。お前と話してると、こっちも頭がおかしくなりそうだ】
中途半端に人型であるが故に、醜く悍ましい怪物。それを前に少年は、恐れることも怯えることもなく、親しい友に呼び掛けるような声音で語り近付いていく。
この異界の主と言う立ち位置にありながらも、自由がないのは彼の現状を示したメタファーか。少し高い位置に吊るされている悪竜王に、響希は手を伸ばすが身長が故に届かない。
数度試した後に諦めたかのように息を吐くと、近くの大きな教壇を両手で引き摺り動かし出した。
「よいっしょ、っと」
【何、してんだよ】
「あはは、えっとね。そうしたいって、思ったから」
小さな体で数分程を掛けて、移動させた教壇の上によじ登る。吊るされた怪物と触れ合える程の距離で、目線を合わせて響希は言った。
「目線を合わせて、触れ合いながら、お互いの言葉を交わして――それを以って、僕たちの終わりと始まりにする。僕は、そうしたいと思ったんだよ」
どの道どうなろうと、此処に来た時点で結末は決まっている。それでも今は、悪竜王の力が不完全であるためか、語り合えるだけの時間が残っていた。
だから、最期を前に向き合おうと思ったのだ。ずっと逃げていた彼に、向き合いたいと思えた。そう、義務感ではなくて、そうしたいと思えたからそうしている。
【馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。意味分かんない。あんなに死にたくないって、僕に成りたくないって、言ってた癖に】
「そうだね。死ぬのが怖かった。変わるのが恐ろしかった。だから、君を拒絶した」
こうして近付いているからか、少しずつ流れ込んで来ている感情。これは、恐怖であろうか。そんな当然の感情を今更に抱いて、響希は小さく笑う。
「そうして、要らない物ばかりを押し付けて。後に残ったのは、こんな不完全な伽藍洞。弱さを捨てたその先で、今に成って君に成ろうとしている」
【それが、意味が分からないって言うんだよ。何で、今更】
「聞いてただろ? 君も僕の中に居たんだから」
【分からないよ。分かる訳がない。意味が分からないよ】
元が同じものだから、現在進行形で喰われている途中だから、空っぽの空洞部分に対面の存在が抱いた感情が反響している。
そうとも、今も響希の心は歪で壊れているままだ。だから彼は恐怖の情を自主的には抱けなくて、ならばそれを抱いているのは眼前に居る怪物と言うことになる。
【だってもう、お前は強いじゃないか】
悪竜王には、今の龍宮響希が理解出来ない。分からないから、恐怖している。どうして押し付けた負の結実を前に、顔を背けないで居られるのか。どうして自己の消滅を前にして、そんなにも真っ直ぐに進めるのか。
己と同じだった筈のモノなのに、己と同じだった筈のモノだから、その強さが理解出来なくて恐ろしいのだ。
「違うよ。弱さがないだけだ。それは強さじゃない」
そんなヒビキの思考を察して、響希は苦笑と共に否定する。龍宮響希は、決して強くなどないのだと。
「痛みを知るから、優しく成れる」
今の響希の心には、優しさと言う感情が欠落している。だってどんな刺激も、今は痛いと思えないから。
それでどうして、他者の痛みに共感出来るか。痛みを与えないように、と。どうして他者を真に気遣うことが出来るのか。
「怖さを知るから、勇気が出せる」
今の響希の心には、恐怖と言う感情が欠落している。己の死を目前とした現状でも、心の底から恐ろしいとは思えない。
恐怖がなければ、全ての行動は蛮勇だ。リスク一つ想定出来ず、唯々自然体で行うだけの行為。それをどうして、勇気と言う名で語れよう。
「弱さを知るから、強く成れるんだ」
強くなるには、まずは弱さを自覚せねばならない。弱いからこそ、強くなれる。だとするならば、弱さのない今の響希は決して強くはなれないのだ。
「だから僕は、今の僕を君に捧げよう。今度こそ、産まれて来るんだ。アジ・ダハーカ」
故に響希は手を伸ばす。呆然と響希の持論を聞いているだけの怪物。その胸元に右手を当てて、慈愛の笑みと共に告げる。
「君の命を僕が望もう。君の生誕を僕が祝おう。君は生きていて良い。君は誰かに望まれて、今度こそちゃんと産まれて来るんだよ。アジ・ダハーカ」
生誕を寿がれることがなかった。当たり前の命として、産めなくて御免なさいと言う謝罪。呪われた命として生まれ落ちた事実へ、産まなければ良かったと言う憎悪。内から貪り喰らいながら産まれようとした怪物に、産まれて来るなと否定し向けた恐怖。
龍宮響希にとって、生誕とはそういう負の性質を宿した物であった。けれどだからこそ、許し認める。生まれ落ちると言う意味は、きっとそういうものではないと信じたいから。だからこそ、彼は此処に告げるのだ。
貴方は望まれて、産まれて来るのだと。その生誕を、此処に祝いたいのだと。
「だからお願いだ、僕の全てを継ぐ君よ。どうかお願い、強く生きて。僕の想いを引き連れて、一緒にあの王様を乗り越よう」
そう、したい。だから此処に、願いを託す。だから此処に、祈りを継がせる。そうすればきっと、認められると思えたから。
【そんなこと、出来る訳がない】
生誕の祝福を聞かされて、しかしヒビキは首を振る。彼の中には強さがない。今の彼は、醜いものや悍ましいものでしかない。
【アイツは強い。勝てる訳がない】
だから、怖いのだ。あの恐ろしい王を見た。人の可能性を極めた果てにある存在を前にして、立ち向かえる程にヒビキは強くなんてない。その背を目指して、乗り越えようだなんて思えやしない。
【今のお前は強いから、そう言えるんだ! 僕は弱いから、弱い部分が多いからっ! 混ざった所で、また逃げ出すに決まってる!】
「そうかもしれない、ね。僕たちは弱かったから、ずっと逃げ続けてた。だから、さ。龍宮響希の心の中にある、正と負は等号じゃない。きっと悪いものの方が、ずっと多いんだって思う」
響希の言を受け入れて、取り込み産まれ直した所でヒビキは進めるとは思えなかった。だって核になるのは己だ。
多少強いと認めた綺麗な部分を食べて手に入れたとして、その心の過半数以上を占める部分が弱く醜いままなのは変わらないのだ。それでどうして、あんなにも強く恐ろしい人に挑めるのか。
「でも、ならさ。立ち上がれたのなら、僕の勝ちだね」
だって言うのに、響希は笑う。龍宮響希と言う人間の心は、その殆どが弱く醜いものであると認めた上で彼は笑う。
「そうさ。他の誰でもない。他の何でもない。この今、此処に居る僕の、それが勝利だ」
小さくても、儚くても、綺麗な物はあったから。この己はそれを強さとは認めないが、目の前で吊るされている己はそれを強さだと言う。
そう信じることが出来るのならば、龍宮響希の中には初めからあったのだ。その輝きがこの先で、己の弱さに負けずに居られたなら――きっとそれこそが証明となる。その時こそが、響希の勝利だ。
「勝負だ、悪竜王。きっとこの先の僕たちは、立ち上がって前に進む。それを今から、証明しよう。きっと勝つ。そうさ。僕だって、君だって、同じ龍宮響希なんだから!」
言って、笑って、黒髪の少年は光の泡と成って消えていく。自由を縛る殻の消失。それに伴って、悪竜の手に打ち付けられていた杭も消えた。
どんと音を立てて、ヒビキは地面に落ちて倒れ込む。大の字になって、透き通ったステンドグラスを見上げている。何故だか、どうしようもなく泣きたくなった。
【……アイツ。勝手なことを言って、勝手に消えやがった】
取り込んだ。食い尽くした。だから、消滅したのだ。故に今、響希の抱え込んで来た想い出の全てもヒビキの内にある。
だが、それだけだった。胸を焼くような熱も、脳を焦がすような輝きも、己の内には芽生えていない。飲み干した筈の強さは、抱え込んでいた弱さの山に埋もれている。それだけで、終わってしまった。
【ほんっと、馬鹿な奴だ! あんな奴が混じったくらいで、こんな僕が変われる訳がない! 無駄に消えただけだ! 無駄な物を押し付けただけだ! それだけだ! それだけだ! それだけなんだ!!】
それ程にちっぽけな物だったと言うことが証明されて、だからヒビキは泣きたくなった。分かり切っていたことなのに、こうなるしかないと知っていたのに、それでも泣きたくなったのだ。
【なのに、なのに、どうして――こんなに今、悔しいんだよっっ!!】
その事実が、どうしようもなく悔しい。当然のことなのに、分かり切った結末なのに、悔しいと今に思っている。
思っているのに、勝てない相手に挑めない弱さが情けなくて、だから金色の瞳から溢れる涙が止まらないのだろう。
泣きながら、何故と叫ぶ。何故泣いているのか分からないのだと、目を背けたままに叫び続ける。そんな中、とんと音を立てて、一人の少年が現れた。
「分かってんだろ、その理由」
【お前】
「本当は、勝って欲しかったんだろ? 響希の強さが、ヒビキの弱さに、さ」
同年代に比べて、背丈の高い茶髪の少年。彼はヒビキが今、目を逸らしている事実を突き付ける。そうとも、悔しさの理由はそれだ。
ヒビキは否定しながらも、心の底では望んでいたのだ。己の弱さを覆す、強さが自身にあることを。けれど結局なかったから、それが悔しく悲しかったのだと。
【結城っ、恭介っ!】
「よっ、久しぶり。元気そう、とは言えねぇな」
己を封じ続けていた聖なる剣。其処に宿っていた魂の残滓を前にして、上体を起こしたヒビキは犬歯を剥き出しに威嚇する。
そんな怪物の威圧を風のように流しながら、恭介はその傍らへと腰を下ろす。立てた片膝に片腕を乗せて、ヒビキへは視線も向けずに告げた。
「響希は選んだ。正直、受け入れ難いけどな。それでも、アイツは選んだんだ。強く成りたいってよ」
視線を向けないまま、逝ってしまった友を想う。この結末は恭介の望んでいなかった展開で、それでも受け止めるしかない結末。
ならばせめて、この先には納得が出来るように。そう進める為に、恭介は此処に居る。そんな彼は瞳を閉じて暫し黙祷を捧げると、目を開きヒビキに向かって顔を向けた。
「なら、次はお前が選ぶ番だ。そうだろ、お前も龍宮響希なんだから」
【ふざけるなっ! なんで、そんなことを僕がっ!】
そして、告げる。お前も選べ、と。言われたヒビキは、深く思考もせずに反発した。今の彼にとって、恭介の存在は極めて複雑な感情を抱く相手であるために。
こいつの所為で上手く産まれることが出来なかった。こいつの所為で、自分は中途半端なままに苦しんだ。こいつが守れなかった所為で、こんなにも醜い怪物に成ってしまったのだと。
「……じゃ、また逃げるか?」
【お前】
「要は、そういうことだろ。逃げるか進むか、止まってんのも結局逃げなら、選べるのはどっちかだけだぜ」
膨大な量の敵意と悪意。そしてそれに比するくらい、大きなものは救いを求めるような色。そんな濁った溝のような黒色の感情で、冷たく告げる恭介を睨み付けているヒビキ。
弱っちく、情けない。ここまで来ても変われていない怪物に、恭介は容赦なく事実を突き付ける。
「逃げた奴がどうなったか、お前も実例込みで知ってんだろ?」
【夢幻のアダム。それに、アリス・キテラ】
「だな。程度の差はあれ、逃げればああいう奴になる」
夢幻のアダム。邪教の大幹部である彼は、道を選ぶべき場面で選べず逃げた男だ。そして今も諦観に浸ったまま、道を選ばないで流されることを続けている。
自決することも叶わぬまま、選べないからと良い様に使われ続けて、今も他者に痛みを与え続けている害悪。他者がその内実を知ったとて、向けられるのは憐憫や嫌悪の情だけだろう。
アリス・キテラ。響希と同じく、邪神に目を付けられ魔王の苗床とされた女。響希と異なり聖剣に守られることなく、恐怖の果てに幼児退行を起こした女は喰われて死んだ。
結果その躯から生じた魔王は、幼児の自我を宿した災厄と成った。己と向き合うことがないから、誰も真面なことを教えてくれないから、何百年と経とうと成長しない赤子のまま。狂った大魔女は今も悲劇を撒き散らしている。
ヒビキは、そんな彼らと同じようなモノになる可能性を有している。聖なる剣が無ければ、ミュシャやアンジュと出会わなければ、ヒビキは大魔女と似たような怪物に成っていただろう。
ならば出会えた今ならば違うのかと言えば、それもまた否。此処で膝を抱えたまま動かなければ、何れは魔物の有する衝動にも逆らえなくなる。自我持つ存在は、とても容易く堕ちるのだ。
結果生まれるのは、逃避から全てを忘れて狂った大魔女の二番煎じか、強い奴からは逃げ回り弱い者虐めをして悦に浸るような情けない奴のどちらかだろう。
「お前、それで良いのか? 俺は嫌だね」
【それは、だけど、僕は――僕に出来る訳がないっ!】
そんな醜悪な形は嫌だと、だから己は前に進み続けたのだと語る恭介。そんな彼に向き合って、前のめりにヒビキは返す。
あんな風になるのは嫌だ。其処は確かに、ヒビキも同じように思えてはいる。だが、だからと言って、進める強さが彼にある訳ではない。
【龍宮響希の嫌いな自分が、此処に居る僕の核なんだぞ!? そんな醜い化け物が、あんな強くて凄い奴に勝てる訳がないじゃないかっ!!】
「かもしれないな。けどなっ! それでも、お前はアイツを取り込んだ! なら、今のお前の中にあるのは、弱さだけじゃねぇだろうっ!!」
だからと否定した彼に対し、恭介がその肩を掴んで強く語る。前傾となりながらも座り込んだままのヒビキに対し、立ち上がった彼は強い言葉で続けるのだ。
「立ち上がれよ! 強くなれよ! もう俺は、お前を守ってやれねぇんだよっ!!」
それは紛れもない本音であった。心の底からの叫びであった。守りたかった。守り続けたかった。此処に居る今のヒビキも響希の一面で、だから恭介にとっては彼も守りたいモノだったのだ。
【……無理だよ】
両の肩を掴まれて、強い言葉を向けられて、ヒビキは思わず顔を逸らしてしまう。彼はいつものように、逃げていた。
【僕は、弱いんだ。悪い物の方が多いんだよ、分かるだろ? キョウちゃんはさ、ずっと一緒に居たんだから】
ヒビキは弱い。元より龍宮響希と言う少年は強さより弱さの方が多く、そんな響希の負の面を核に作り直されたヒビキが強い筈もない。
【今更、龍宮響希の全部を取り込んだからって、その中身は変わらない。ウジウジしてばっかりで、メソメソしてばっかりで、強さより弱さの方がずっと多い。そんな、情けない奴なんだ】
認めよう。認めざるを得ないのだ。もう目を逸らせない。ヒビキは弱い。ウジウジしていて格好悪くて、メソメソしていてみっともなくて、そんな情けない奴なのだと。
【そんな僕が、そんな僕に、強くなんてなれる訳がないんだよっ!】
だから、縋るように彼は叫ぶ。目を逸らしたい事実から、もう目を逸らせないから彼は叫ぶ。それは言葉にすればダサくて、情けなくて、聞くに堪えない泣き言だろう。
【そうさ! 僕だって、成りたいさ!】
本当は、強く成りたかった。今はそう、認めることが出来ている。だが、怖いのだ。情けないとは分かっているが、歩き出すのが怖いのだ。
【こんな醜い奴に、成りたくて成った訳じゃない! こんな弱い奴のままで、居たくて居る訳じゃない!】
殻に籠って、蹲ったままで居る。それが良いことではないと分かっていて、しかし外に出るのは怖いのだ。前に進むのが怖いのだ。変わりたいのに、怖くて怖くて変われないのだ。
【強くなりたい。強くなりたいよ。……でも、怖いんだよ。そんな気持ちより、ずっとずっと、僕は怖くて、そんな弱くて情けない奴なんだよ】
それが、ヒビキと言う力があるだけの怪物。黒い鱗の鎧に覆われたアジ・ダハーカと言う怪物は、その実鎧の中で恐怖に震えているだけの幼子なのだ。
それを認めて、認めたからこそ進めない。そんな弱さに屈して、俯いたままで居るヒビキ。彼の両肩を掴んだままの少年は、深く息を吐くと彼へと告げた。
「なら、さ。もう一つあれば、お前は進めるか?」
【え?】
「ずっと一緒に居たんだから、分かるだろう。お前の目から見て、俺は弱かったか?」
【う、ううん。でも】
「けども、でもも、だっても要らねぇっ! 強く成りたいってのは、お前も確かに願えたんだろっ! なら後は、覚悟を決めて進むだけだ!!」
【だけど、だけどさ。キョウちゃん。僕は】
「その覚悟が足りねぇなら! 一人じゃ不安だって言うんなら!! ……残った俺の全部、お前にくれてやるからよ」
【何を、する気?】
「言ったろ、くれてやるってさ。だから、お前は立って歩け。前を向いて、進むんだ。な、出来るだろ。響希」
言って、恭介の体が光の泡に変わっていく。其処でヒビキも理解した。食べさせている。捕食させている。ヒビキが響希を取り込んだように、同じ繋がりを介して恭介は自身をヒビキに与えているのだと。
「残った燃え滓みたいな今の俺でも、きっと立ち上がれる切っ掛けには成れる。信じてるぜ。他の誰でもないお前が、俺のことを一番信じてくれたように。俺だって、お前のことを一番信じてるんだからさ」
【あ、や――だっ】
己の誕生を阻害した。己のことを守り続けていた。そんな存在が、消えてしまう。その間際に、何を伝えたかったのか。
止めようと伸ばした手は空を切り、そしてそのまま地面に落ちる。四つん這いになったまま、白銀の礼拝堂に一人。ヒビキだけが残された。
【……勝手なこと、ばっかり。皆、好き勝手言って、僕を一人だけ、残すんだ】
龍宮響希も、結城恭介も、もう消えた。彼らは悪竜王の糧と成って消滅し、身勝手に想いだけを残して逝った。
ヒビキは弱いまま、醜いままだ。今も心の内に在るのは恐怖ばかりで、黒い鱗の鎧の中身は怯懦に震えていて――でも今は、それだけじゃなかった。
【ふざけ、やがって】
燻る熱が、奥にある。心の闇に隠れてしまいそうに儚いけれど、夜空に浮かぶ小さな星のように輝くものが確かにある。だからヒビキは、俯くことを止めた。
【ふざけやがってっ! ふざけやがってっ! ふざけやがってっっっ!!】
叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。感情のままに、唯叫ぶ。どうして置いてった。どうして託した。どうして立てと言うのだ。どうして挑めと言うのか。
叫ぶ度に、その黒い鱗が罅割れる。己を守る鎧に走った亀裂が広がり、瘡蓋が剥がれるように崩れて落ちる。後に晒されるのは、玉のような白い肌。
「ああ、気に入らない! 本当に、どいつもこいつもふざけた奴ばっかりだ! だから良いさ! 認めてやる! お前たちの勝ちだよ、くそったれっ!!」
己を守る鎧はもう要らない。俯いたままでは居たくなくて、蹲ったままで居ることはもう出来なくて、立ち上がった彼の姿は龍宮響希と瓜二つ。しかし確かに異なっている。
誰もが振り向き見惚れる程の美貌は変わらず、しかし腰まで届く髪は烏の濡れ羽ではなく日に輝く銀糸。そんな彼は黄金に染まった己が双眸で、真っ直ぐに進むべき先を見る。
「強く成れ? ああ、強く成ってやるよ! どいつもこいつも叩きのめして、悪竜王こそが最強だって、龍宮響希は強いんだって、結城恭介は間違ってないんだって、世界の誰もが認める程に示してやるっ!」
十字架を背に、立ち上がった彼は決意を定めた。強く成ろうと。どうせならば誰よりも、世界で一番に強くなってやろうと。
そうとも、彼は望まれたのだ。生誕を祝福された。それが今は己の一部からであろうと、いいや己の一部だからこそ、産まれた意味を全うしたい。素直にそう、思えている。
「勝つぞ、勝つぞ、勝つぞ、僕がっ! 僕は、悪竜王っ! ヒビキ・タツミヤ=アジ・ダハーカなんだからっっ!!」
託され、受け継ぎ、挑むと決めた。そんな少年は声を上げて宣言した後、礼拝堂の身廊を一人進む。正面にある両開きの扉を両手で開けて、光輝く世界へと一歩を踏み出し前へと進んだ。
◇
そして、彼はその地に戻る。枯れた泉の跡、断崖だけが残る終焉の地ソヴァーラ。原初の魔王の姿はその場には無く、待っていたのは着物を身に纏っている女性だけ。朧は少年の姿に気付くと、体を向けて笑みを深めた。
「あらあら、ほんの少しの間に、随分と良い目をするようになったのね」
「朧、だっけ? ありがとう。手伝ってくれたことには、本当に感謝してるよ」
響希の記憶は全て、欠片一つ残さず受け継いでいる。だから竜の再誕に彼女が助力していたことは分かっているし、口にした言葉も真実だ。
だが、それでもヒビキは拳を握る。腰を落として今直ぐにでも動き出せる姿勢を取るのは、朧が発する気配が故に。得体の知れない悪寒と心の震え。だから分かる。向けられているその意思は、きっと闘志と呼ぶ物だろうと。
「だから、尻尾を巻いて逃げ出すなら、今ならまだ見逃すけど?」
「うふふ。悪い冗談。馳走を前に待てが出来る程、修羅は賢くはないのよ」
感謝は事実。故に一度は見逃すと、上から告げる悪竜王。対して楽し気に返しながらも、より闘志を高めている朧。
余りに濃密な気の圧力に、最早刃物で刺されるような感覚を覚えながらもヒビキは退かない。ならば、その決裂は当然のこと。
「特に私は我慢弱い。欲しい者を前にして、はしたないとは分かっていても、思わず手を出してしまうのよ」
「欲しい者?」
「ええ、私は欲しいの。愛しても壊れない者が。だって、愛したら壊してしまうから」
退かぬと決めた少年へ、女はお前を壊すと告げる。情を向ける者、執着する者、それをこそ壊したくなってしまうのが修羅の性故に。
願わくばどうか、壊そうとしても壊れないで欲しい。そんな頭がおかしいとしか言えぬ言葉を吐きながら、朧はその指先から白い糸を伸ばす。
「君はどうかしら? 私が愛しても、壊れないでいてくれる?」
「知るか、試してみたらどうだよ」
「うふふ。素敵なお誘い。そうね、試してみるとしましょう」
決裂は深刻化。対決は最早避けられない。今にも襲い掛からんとする朧に対し、素人然としながらも力強く構えるヒビキ。
片や笑顔で、片や険しい表情で、見詰め合う両者がぶつかり合おうとする。その直前に、息を吐いてから朧が一つの音を紡いだ。
「では改めて、私は朧。東国六武衆は第二席、嘗ての名も家も捨てた、今は唯の朧」
「僕はヒビキだ。今日この日に、嘗ての全てを喰らって産まれた。五大魔王が一角、悪竜王、ヒビキ・タツミヤ=アジ・ダハーカだ」
一騎打ちにおける武人の流儀。武と闘争を尊ぶ修羅であるからこそ、認めた相手との一騎打ちを前に名乗りを挙げた。
そういう拘りであると察して、ヒビキも同じく名乗りを返す。合理的ではないけれど、己を敵と認めた相手に、そうしたいと思えたのだ。
「上から二番目なら、王様相手の前哨戦には丁度良い。簡単には壊れてくれるなよ」
「あらあら、うふふ。本当に素敵なお誘いね、可愛い貴方。さあ、共に踊り果てましょう」
ヒビキの握った拳が、黒い鱗と鋭い爪に覆われる。朧の振るった腕の指先から、白く薄い糸が伸びる。そして、同時に大地を蹴った両者は此処にぶつかり合った。
アジ・ダハーカ誕生。強くなりたいと願えた彼は、故にもう目を逸らさないと決めました。




