第57話
少年はその日、憧れを得た。
◇聖王歴1339年風ノ月32ノ日
旧大戦期に建築され、前線基地として利用された城砦コートフォール。南西部にある城の地下には、当時はなかった懲罰・拘束を兼ねた地下牢獄が存在する。
後付けされたその場所は、北方が町として発展していく途上で必要とされた犯罪者などを収容する施設。故に元よりあった空間を利用してはいても、他の建造物より真新しく清潔だ。
天井は石作りで、扉やその周囲の壁は格子状。簡易的なベッドと外からは隠れる位置にあるトイレ。天井から吊るされているのは、周囲を照らす小さな魔道具が一つだけ。
そんな最低限度の設備しかない個室の中で、少年はゆっくりとその目を開く。その黒い瞳に知らぬ天井を映してから、静かに起き上がり首を振る。烏の濡れ羽を思わせる美しい長髪が、静かに揺れた。
「ここ、は」
「ヒビキ!」
起き上がった彼に向けて、異なる独房に閉じ込められている少女が声を上げる。恐らくは起きるまで、ずっと見守っていたのであろう。目の下に濃い隈を刻んだ彼女の名を、響希は確かに覚えていた。
「ミュシャ?」
「良かった、目が覚めたんだ」
ヒビキが閉じ込められた牢の対面にある独房に入れられて、その格子を両手で掴んでいる猫娘。嬉しそうにこちらを見詰めるミュシャの姿に驚いて、同時に視界に映ったもう一人も気に掛かる。ミュシャの独房の隣にある牢獄内では、膝を抱えた金髪の少女の姿もあった。
「どうして君が? それに、アンジュも」
「あいつら、ヒビキを拘束するって言うからさ。歯向かったら、私達も捕まっちゃったにゃん」
冗談めかした口調で、ミュシャは語る。当初は捕らえるまでもないと捨て置かれた少女らであったが、炎王の勅命によりヒビキが拘束されると知って抗議を始めた。
ろくな説明もせずに王命を遂行しようとするリアムに、目を覚ましたアンジュと共に二人揃って纏わりついて噛みついて、鬱陶しいからお前らも暫く入っていろと纏めて投獄された訳である。
「んで、私はこうして、ヒビキの看病と言うか、牢が違うし観察? みたいな。んでアンジュの方はまあ、メンタルネガってウジウジしてたわ。閉じ込められてから二日、考え事くらいしかすることなかったからね。落ち込んだって、今更でしょうに。ってかぶっちゃけ誰が悪いかって言ったら、何処ぞで黒幕やってる先生でしょ」
「……そう簡単に、割り切れねぇよ。仕組まれた結果だって、言ってもよ」
膝を抱える少女が言うように、今の現状は仕組まれた結果だ。海を荒らすと言う一手だけで、ヒビキらが北方に留まるように仕組んだ。
同じく海が荒れた結果、北と中央の戦力は開戦前に合流出来ずに各個撃破。我慢出来なくなったアンジュが動いて、釣られて動いたヒビキは負けた。
そうなるように仕組んだ女の意図はまだ読み切れず、これから先の展望なんて予測も付かない。だがどうあれ、ヒビキと炎王を敵対させた。その切っ掛け、引き鉄はアンジュであったから。
「ごめん。私、我慢出来なくて……二人に迷惑、掛けちゃった」
少女は少年に向かって、頭を下げる。感情のままに動いて、彼を苦しめてしまった事実を詫びた。
「アンジュ。気にしないで」
そんな言葉を受けて、少年は気にしてはいないと微笑みを浮かべて首を横に振る。その澄んだ瞳には、一欠けらの悪意すらもない。それは何処か、不自然な程に。
「今の僕は、後悔なんてしてないから」
「ヒビキ。けど、私……」
「ふんっ、いつまで泣き言を言い続ける気だ。馬鹿娘」
響希が慰みの言葉を掛けても、直ぐに顔を伏せてしまうアンジュ。そんな少女の様子に耐え兼ねたのか、彼女の二つ先にある牢獄から声が上がる。
記憶の中にはない声だ、と視線を向ける響希。アンジュの居る独房の隣の隣、間にシャルロットを挟んだ場所で牢の壁に背を預けている青髪の女性が居た。
「今のお前の泣き言は、自傷行為と何も変わらん。許しを与えられているなら特に、な」
「ドー姉」
「僅かにでも己を情けないと思うのならば、可哀そうだと自分に酔うより、顔を上げて建設的に時間を使え」
顔に刀傷を刻んだその女性の熱の籠らぬ口調は、言葉の鋭さも伴って厳しいものだ。とは言え、傍目に表情を伺える響希の位置から見てしまえば、冷たいと言う印象は感じない。
その表情が、誰かを案じている色をしていたからだ。響希と同じく、位置取りからその表情が見えていたのであろう。少年の隣にある牢から、記憶の中にある男性の声が上がった。
「きっついねぇ、ドーちゃん。もう少し優しく、さ」
「ふん。貴方がその調子だから、その馬鹿娘の馬鹿さに拍車が掛かるのですよ。才能もなく覚悟もないなら、ばっさりと切り捨ててやるのも慈悲でしょうに」
「……ほんっと、きっついねぇ。正論はおじさんも傷付けるんだよ?」
「姉さん。先生も、その、色々と大変だったから」
「貴様もだぞ、シャルロット。揃って何をしているか、戯けが」
「あ、えっと」
「大変だった、と言うのならな。先ず、貴様がしかりと支えんか。その為に、その立ち位置を志願したのだろう。軍部で為さねばならぬことを他の師団長に押し付けておきながら、雷将の傍らに居た後継がそれでは多くの騎士が嘆くと言うのだ。それが分からん貴様でもあるまい」
思いやりがあるとは言え、やはりその言葉は鋭い物だ。容赦ない正論を浴びせられてクリスが凹み、割って入って宥めようとしたシャルロットも撃沈する。
情けないにも程がある、と師と妹弟子達の姿に鼻を鳴らす女性。捕らえられて尚、強い圧を振り撒く女性の姿に苦笑しながら、矛先を変えるために響希も口を開いた。
「その、貴方は?」
「オードレ・アルマ・カイ・ダグラス。聖教会は十三使徒の一員で、其処で無様を晒している馬鹿娘どもの姉弟子だ。お初にお目に掛かる、とでも言うべきか? 悪竜王」
鋭い女の視線と言葉が、声を放ったヒビキに向く。其処には薄っすらとした敵意と警戒の色が、確かに存在していた。
「時間だけはあったからな。馬鹿な妹弟子達と、情けない我が師から話は聞いている。危険ではない、とな。……だが、貴様ら五大魔王の討伐は我ら聖教の宿願。神より授けられし、使命と言い換えても良い。故にな、聞いた言葉だけでは見過ごせん」
まるで抜き身の刀。あるいは氷室から出したばかりの氷のような、鋭く冷たい色を宿した女の態度。オードレ・アルマ・カイ・ダグラスが言うように、ヒビキと聖教は本来敵対する立ち位置だ。
魔の根絶を悲願の一つと掲げる教徒の代表。十三使徒と言う立ち位置故に、彼女は彼を見逃す訳にはいかない。本来ならば――
「見定め、必要ならばその首を狩る。と、言いたい所ではあるが。お互い牢の中では格好が付かんな」
それでも、師が、妹弟子達が言ったのだ。ならば彼らの言葉を否定したくはないと言う思いもあり、故にオードレにとっては其処が妥協点。
見定め、必要ならば斬る。それまでは、その生を許そう。そう語るオードレの主張は、しかし聖教徒としては異端の側であった。
「おい、糞女。見定める必要なんざねぇだろが」
声の主は、シャルロットの対面にある牢獄に居る男。獅子の鬣のように逆立った金髪の男性は、獲物を前にした肉食獣のように犬歯を剥き出しにして吠える。
「誰が何と言おうと、魔王なんて塵屑は掃除した方が世のためだ。今は真面でも、何時まで真面か分からねぇ。なら、生きてちゃいけねぇよ、そんな奴」
男の言い分は極端ではあるが、それでも一理はある事実。魔物とは、人を苦しめるためにある生き物。魔王とは、悪辣な神が人に課した試練だ。
仲良し小好しで手を繋ぎ合える相手ではないし、背を向ければ必ず刺してくる相手でもある。民を想うのならば、多くを救おうと言うならば、情を挟まず処理するべきだと。それは聖教徒ならば、当然の発言ではあったのだ。
「何だ、糞男。我が師と二人の妹分が、そしてこの私が、真に生きる価値がないか見誤る程に節穴だと言うか?」
「はっ、目はマシでも情に流されるのがテメェだろうが。テメェの妹分とやらに命乞いされりゃ、色目や欲目がその目に混ざる。信用なんざ出来る訳ねぇだろ」
『…………』
とは言え、カルヴィンの意図はそれだけではない。それを察せぬ程に、オードレと言う女は鈍感ではない。
同じ組織に属してこそいるが、顔を合わせれば殺し合いを始める程度には、この二人は仲が悪いのだから。
「品性のない獣風情が。此度の一件が終われば、先ず貴様から処理するべきかもしれんな」
「同感だ。前々から目障りだったんだよ。テメェみたいな女はなぁ、戦場になんて出んじゃねぇ」
「……落ち着け、お前達」
故に最後の一人、仲裁役を任された青年が嘆息混じりに声を上げる。その実力で両者から一目を置かれているアルビノの青年だけが、この場においては唯一、二人の争いを止められる者だった。
「言い合いする程に暇があるなら、祈りを捧げて少しでも信仰力を回復させておけ。必要な時に動けない戦士程、価値のない者はない」
「ちっ」
「ふんっ」
牢に囚われ、自由がない現状。不和を撒くより、回復に徹した方が良い。そう言われれば、各々が持つ矜持故に納得せざるを得ない。
舌打ちと鼻を鳴らし、互いに背を向ける両者。その姿を見てから、深く深くデュランは息を吐く。全く以って、口下手な自分にやらせることではないだろうにと。
「それに、俺達は聖教の剣だ。剣を振るう先を選ぶのは、剣自身ではなくその担い手であるべきだろう」
口にした言葉の通り、デュランは自身ら十三使徒を聖教の剣と捉えている。聖典に選ばれたのは、罪なき民を守り、世の大敵を彼らに代わって討つために。そうでなくば、一体どうして十三の数字を背負えようか。
だからそう、己達は決断権を持ってはいない。剣は剣であるべきなのだ。それ以外の要素は純度を下げる。その刃を鈍らにしてしまう要素など、戦士にとっては不要であろう。
「猊下が、或いは筆頭殿が命じれば、如何なる道理があろうと我が身に代えても敵を討つ。それが我らの役目であれば、逆も然りだ。判断するのは、俺達であるべきじゃない」
最後の言葉が向けられていたのは、牢獄の中に居るヒビキに対しての物であったのだろう。上が言うのならば、彼がどれ程に善良であれ、デュランは彼を討つだろう。
逆も然り、彼がどれ程に悪辣であれ、上が討たぬと決めたのならば、デュランは討たない心算であった。少なくとも、目の前で悪逆が為されぬ限りは。
「必要なのは、正しい情報だけだ。そこの子供が、悪竜王である。そして、その助命を嘆願する者も居る。……それだけで十分だ」
「違う」
「あ?」
「何?」
「……」
「違うよ。今の僕は、悪竜王じゃない」
だから、その言葉に聖教の三人が目を丸くする。悪竜王であることを否定した響希は、静かに胸に手を当てて告げた。
「感じないんだ、中に。竜の悪意も、剣の輝きも」
黒い髪に黒い瞳の少年は、静かに目を閉じ今を語る。東の武王に敗れた悪なる竜は、卵の殻の中で煮られて倒れた。
悪なる竜も、聖なる剣も、今の響希には感じられない。どちらの力も表出させることは最早出来ず、今の響希は紛れもなく唯の人間だった。
「……ううん。多分、まだ少しだけ、中に残ってはいるんだと思う。あの人の付けた火が、まだ微かに残っている。だけど、微弱なんだ。消え掛けた蝋燭の火みたいに、今にも消えてしまいそうな気配しかない。だから、多分、このままなら、僕は唯の響希になる」
それでも何となく、微かに感じる物もある。それは己の内なる世界で、今も燻り続けている残火。
炎王の炎が消えていないと言う事実だけが、逆説的に証明している。もう感じ取れない程に希薄だが、それでも悪竜の因子は残っているのだろうと。
だが、表に出て来るだけの力はもうない。力を失ったその因子は、この今も残火に焼かれ続けている。故に完全消滅まで、そう時間はないだろう。
「ヒビキ」
切ない声で、彼の名を口にしたのは果たして誰か。瞳で答えを知っていた少女か、或いは悪なる竜にこそ想いを寄せていた少女か。
少女らの内心を慮り、響希と一組の男女が目を伏せる。それが竜との縁の深さによるものならば、残る三者が平然と口にしたのも当然のことか。
「成程、良いことではないか」
「糞女と意見が合うのは癪だが、まあそうだわな。死んだ方が良い塵が、死ななくて良いガキに変わるなら、まあ良いことか」
青髪の女傑は心底から喜ぶように、獅子を思わせる男は一見興味が無さそうな口調で、揃って現状を肯定する。
彼らには彼らなりの矜持がある。奪わなくて良い命を、奪って悦に浸るような者ではないのだ。故に配慮から言葉を口にしなかった処刑人も、内心では現状を歓迎していた。
「……そう、なのかな?」
一つの命が今も終わろうとしている。その命が世界に生きる多くの人にとって有害だから、世を守らんとする者らは喜んでいる。そんな事実を前にして、龍宮響希は考える。目を開いて、問い掛ける。これで良いのか、と。
「何が引っ掛かってるのですか? よくは分かりませんが、貴方は望んで魔王と成った訳ではないのでしょう?」
「うん。望んだ訳じゃない。成りたくなんて、なかったよ」
シャルロット・ブラン=シュヴァリエは問い掛ける。少年の心に刺さった棘とは詰まり、望んで得た物を失うことにあるのかと。
そんな彼女の問い掛けに、響希は迷うことなく首を振る。嘗て悪なる竜が語ったように、龍宮響希は悪竜王になんて成りたくなかった。
類稀な霊感を持って生まれ、性質の悪い怪異に怯えながら育ち、自分では何も出来なかった弱い子供。
その生に満足などなかった。その育ちには、何時だって不満ばかりがあった。でも、龍宮響希はきっとそれで良かったのだ。
一人ではない。手を引いてくれる友達が居たから、弱いままでも、不満ばかり抱えているままでも、それで充分な筈だった。
「そう、だね。だとするなら、お互い喜ぶべきなんだろう。けど、すっきりしない表情だね。君は」
「上手く、言語化出来ないんだ。この気持ちは、何て言うべきなんだろう」
クリストフ・フュジ・イベールは問い掛ける。望んで得た訳でもない力を失った少年へ、君は何を棘と感じているのかと。
そんな彼の問い掛けに、響希は言葉を迷わせる。今はまだ、明確な言葉に出来ていない。だが、胸の内に渦巻いている。心がすっきりしないのだと。
その生まれが故に目を付けられ、その育ちの果てに壊された。悪なる竜を産み落とすための母体として、使い潰された後の残骸。
その在り様に、満足など抱ける筈がなかった。その末路に、恐怖しない訳がなかった。だと言うのに、失おうとしている今に想うのだ。
そう想えるのは、そう想ってしまえるのは、きっと――今にも泣き出しそうな、二人の少女が居たからだろう。
「ヒビキ。今の、君は」
「ミュシャ。君が守ろうとしてくれた僕は、今の僕じゃない。混ざってはいたけど、でも違うんだよ」
あの日、聖剣が生み出した泉の跡地で、少女に出会ったのは今の少年ではない。龍宮響希は卵の殻で、それを砕けない悪竜の雛が隙間から手を伸ばしていた。
だからその時の雛は、殻と剣の影響を受けていた。だが、あくまでも影響を受けていただけ。主体は雛の側にあったのだ。だからそう、ミュシャが守ろうとしたヒビキは響希じゃない。
「アンジュ。君とは、心の中で会ったよね。あの汚泥の中に居た悪竜を、受け入れてくれた君なら分かるだろう?」
「あの時会った、二人の片割れ。ヒビキじゃない、響希が貴方。……彼は、今も死に掛けているのね」
目を伏せるアンジュが、汚泥の中に手を伸ばしてまで抱き締めようとした相手は響希ではない。心の一番奥で分かり合えた彼女だからこそ、明確な程に違うと分かる。
今、此処に居るのは卵の殻だ。悪竜の雛も聖なる剣も消え掛けているから、後に残った彼だけが此処に居る。
「龍宮響希は、悪竜王の苗床と成って死んだ。それは紛れもない真実だ」
邪悪な神は、捉えた少年を贄とした。龍宮響希は気が遠くなる程の時間、少しずつ壊されながら苗床へと作り替えられていった。
雛が産まれれば、卵の殻は割れる。割れた殻など、単なるゴミだ。悪臭放つ生ごみ諸共、意にも介さず捨て去られるだけ。そうなることこそ、運命だった。
「けれどあの時、聖なる剣が奇跡を起こした。悪竜王は生まれ落ちることはなく、不完全な胎児のまま卵の中に封じられた。卵の殻は、食べ残しに過ぎない僕の残滓。それに、聖剣の中に残っていた彼の意志が混ざった物。僕らの影響を受け続けて、亀裂から零れた竜の意識はヒビキと言う自我を成していた」
けれど、龍宮響希はその最期まで抵抗を続けた。結果、悪なる竜が産まれる段に至ってもその殻には想いが微かに残っていた。
そして如何なる偶然か、今正に産まれ出でんとしていた悪竜は何かに導かれ、枯れる前の泉で聖なる剣を得てしまった。そして如何なる奇跡が故か、その剣には勇者と呼ばれた彼の想いが残っていた。
勇者の想いは、卵の殻が唯壊されることを良しとはしなかった。故に其処で竜の成長は止まり、未熟児のまま雛は生誕の時を迎えた。生まれた雛には、卵を中から割る程の力がなかった。
結果が三者が混ざり合った存在。けれど本質は、卵の中で腐っていくだけの未熟児。ヒビキ・タツミヤ=アジ・ダハーカとは、そんな不安定な者であったのだ。
「今は、違う。悪なる竜の意志は卵の中で燃やされて、聖なる剣に残った彼の意志もまた不要と炎に包まれた。後に残ったのは、響希と言う名の食べ残し」
不安定なモノは、決して長くは続かない。卵の殻を破れぬ悪竜は腐って滅び、竜が死すれば残った想いだけでは生命力が足りずに破綻する。
それが本来、悪竜王に訪れていたであろう未来。だが、それを覆したのが焔の王である。足りない筈の生命力を、竜を燃やす炎と共に少年に注いだ。故に今も、龍宮響希は生きている。けれど――
「足りないんだよ、色んな物が」
今の響希には、ある要素が足りていなかった。一つや二つではない。数多くの、感情と言う物が足りていない。
「竜に押し付けた、要らない感情。弱さ、醜さ、諦め、恐怖。ありとあらゆる負の感情が、今の僕には欠けている」
己の内側で肥大化し、己の血肉や精神を喰らっていく悪竜王。その成長に恐怖しながら、龍宮響希は要らないモノばかりを彼に押し付けた。
辛い思い出。嫌な気持ち。弱さ醜さ諦め恐怖。負の感情や負の記憶ばかりを悪竜王に押し付けて、キラキラと輝いていたモノは失うもんかと己の両手で抱え続けた。
結果が今だ。今の龍宮響希には、悪性と言うものが欠如している。こうして口を開いている今も、心の中は凪いでいる。言葉で言う程に不安や不快な情はなく、だからこそ彼には現状が間違っていると思えるのだ。
「心の中を、風が吹き抜けていくように。足りない部分が、痛む気さえしてくる。こんなもの、正しい生き物じゃないだろう?」
人とは憎むものであろう。人とは恨むものであろう。人とは妬むものであろう。人とは苛立つものであろう。
怒りを感じず、悲しみを感じず、喜びを胸に、正しくしか生きられない。そんなもの、どうして人と言えるのか。
「だから、僕は……」
「はっ、そんな感情は一時のもんに過ぎねぇよ」
だからと続けようとした言葉。それを妨げたのは、地上へ続く扉を開けて下りてきた人物だった。
「リアム」
「よう。気付いたか、がきんちょ」
顔に大きな火傷痕を残した狼の亜人。リアム・ファミーユは、響希の語りを聞いていたのだろう。一瞬何処か複雑そうな顔をしながらも、直ぐに獰猛な笑みを浮かべて歩みを進めた。
「陛下の予想通り、だな。そりゃ、投獄しとかねぇといけねぇわ」
「何よ、それ。何、一人で納得してんのよ。こっちは、分からないことだらけなんだけど?」
「は、このガキがしている勘違いについて、さ。こうなると、陛下には端から分かってたんだよ」
瞳で視てはいないから察することが出来ていないミュシャの問い掛けに、振り返りもせずにリアムは返した。
そうして硬質な音を立てながら進む男は、響希が入った牢の前で立ち止まる。握り拳を格子に当てて、リアムは軽く俯き覗き込む。見上げる少年と、その視線は交わった。
「教えてやるよ。魂ってのはなぁ、意外と頑丈に出来てんだ。多少は欠落してても、時間経過で勝手に治る」
神威法とは、心と魂に深く関わる技術である。故にその使い手である彼らは、当然その方面にも詳しくなる。
そう、専門家である彼らには分かっていたのだ。響希の内に起きている現状、その異常は問題視する程のことではないのだと。
「今も焼かれてる悪なる竜は、少しずつテメェの中に溶け込んでいく。その為に敢えて、陛下は即死させなかったんだよ。だからその内、お前の魂は人として生きるに十分な量になる」
龍宮響希は確かに、作り替えられ喰い荒らされた。卵の殻と化していた彼は、確かに残滓に過ぎぬのだろう。
だがしかし、残滓は何時までも残滓に留まる訳ではない。適切な要素で補えば、それを核にして魂は再構成される。
炎王が悪竜の因子を完全に焼いてしまわなかった理由がそれだ。悪なる竜と聖なる剣を卵の殻より弱らせて、響希に取り込ませる心算で居たのだ。
「後はまあ、時間の問題だ。龍宮響希って人間の残り香を核に、お前は再構成される。今はその途中なんだよ。……体を切って腸を交換した後、暫く落ち着かなかったりするもんだろ? それと同じだ。その内、馴染む」
リアムが例えで語った通り、今の響希は外科手術直後の患者である。取り換えた他人の臓器が上手く馴染んでいないから、痒みや痛みのような症状が心に生じているだけなのだ。故に――
「お前は唯の人間に成れる。陛下は龍宮響希ってガキは、唯の人間として生きて幸せになるべきだって定めたんだ。だから、ま。大変だろうが、暫くは我慢してな。その気持ち悪さも、長くは続かねぇさ」
手術の痕が何れは消えてなくなるように、龍宮響希の魂もまた時間経過でごく普通の形に変わっていく。
竜に喰われた悪性も、やがては心の内に生じてくるだろう。誰かを妬み、誰かを嫌い、誰かを憎む。そんな、ごく普通の人になるのだ。
何処にでも居るような、唯の人として生きて死ぬこと。それこそが、炎王と言う男が小さな子供に対して下した裁定だった。
「そう、かな?」
「そうさ」
「でも、僕は……龍宮響希はもう死んだんだよ? それが、産まれて来た命を犠牲に蘇るなんて、間違っている」
「だが、事実としてテメェは此処に居る。此処に、生きている」
その決定を前にして、正しくはないのではないかと考えてしまうのが今の響希だ。生物ならば当然持つ筈の、生き汚さと言う物も欠けている。理屈で捉えて、間違っていると思うのだ。死者は死んでいるべきだ、と。
「正しさしかねぇ、今だからそんな風に感じんだよ。醜さも戻れば、死にたくねぇと思えるようになるさ」
自意識として、死んでいる。そういう認識がある。例え己の仇であっても、生き返る為の犠牲にしてはならないと言う想いがある。
そんな言葉を聞いて、リアムは僅か苛立ちながらも笑って告げる。今は仕方がないことなのだと、彼にも分かってはいるのだから。
「でも、僕は……君は、良いの? 君と出会ったのは、僕も混ざっていたけど、僕ではないよ?」
「そうだな。だが、アイツは、お前そのものではねぇが、お前と全く無関係でもねぇんだろ? なら、良いさ。悪なる竜を陛下が焼き尽くさなかったのは、お前に取り込ませる為だ。お前がもう一人のヒビキの意志を継いで生き続けんなら、正しくなくともそれで良いだろ」
そうとも、仕方がないことだ。例えリアムが感情移入した少年と、今の彼が違う者なのだとしても。
それでも全く無関係な存在ではないのだから、残る物はある筈なのだから、それが王の決定なのだから。
「でも、それは、正しくはないよ。死人が生者を犠牲に蘇るだなんて、理屈として破綻してる。命に対する冒涜だ」
そう納得しようとしているのに、分からず屋な少年は正しい事しか口にしない。それしか出来ないのだとしても、無性に腹が立ったから。
「はぁ……、おい、少し面貸せ」
「え? ぐっ!?」
一つ嘆息した後で、リアムはその手を伸ばし響希の襟首を掴んだ。そうして持ち上げると、額を突き合わせるような距離で罵声を浴びせた。
「ふっざけんなよ、何を悟った気で居やがるっ! まだ満足に生きてもねぇ、がきんちょがっ! さっきからもう死んでるだの、生きてるのは正しくねぇだの! だったら、此処に居る今のテメェは何だっ!?」
「っ、リア、ム」
「生きてねぇのか、今のテメェはっ! んなことは言わせねぇぞ! 正しくねぇと、生きてちゃいけねぇのか!? そんなこと、俺が言わせる訳ねぇだろうがっ!!」
男の脳裏に浮かぶのは、嘗てに見た光景だ。その炎の庭で見た、失われてきた生命を。彼らの存在は正しくないと、亜人風情が英雄と称されるのは正しくないと。生きていてはいけないと、決め付けられた先にあった地獄こそ男の原点。
「死にたくなくても、生きれなかった奴がいる! 生きたくて生きたくて、それでも生きていちゃいけねぇと勝手に決め付けられた奴らが居る! なのにっ、生きられるテメェが、俺の前でそれを捨てんのかっ!」
憤怒の叫びに、返る言葉はない。向けられる闘気の混ざった怒気も相まって、片手で襟首を掴まれた少年は満足に呼吸も出来ていなかった。
僅か顔を青褪めさせて、苦しそうにしている響希。その姿に冷静さを取り戻したリアムは、舌打ちを一つ零すと握り締めていたその手を離した。
「ちっ」
「げほ、ごほっ」
どさりと床に尻餅を付いて、咳き込んでいる少年。怒気に当てられていた少女らが煩く騒ぎ始めるが、それら全てを無視してリアムはその背を向けた。
「暫く、頭冷やしてろ。テメェが醜く、生きたいって喚けるようになるまでな」
そう告げたのは、果たして少年に向けた言葉であったのか。問うまでもなく分かる結論に、自己嫌悪しながらリアムはゆっくりと歩を進めていく。その背中へ、呼吸を如何にか整えた響希は言葉を投げていた。
「……ねぇ、リアム」
「んだよ」
「分かるよ、君は僕の為に怒ってくれてるって」
「ちげぇよ。俺が気に食わねぇだけだ」
一方的に痛め付けられて、口を突く言葉がそれなのか。そんな歪な事実に苛立つリアムに対し、少女のような少年は紫陽花にも似た笑みを浮かべて言葉を続けた。
「実はね、理由は、それだけじゃないんだ」
「あ゛?」
「正しくないって、それだけじゃないんだよ」
知ったことか、と立ち去ってしまえば話は簡単だったのだろう。それでもリアムは、響希の言葉に足を止めた。心の何処かで、知るべきだと思ったから。
「王様は、さ。凄い人だよね」
「はっ。なに、んな当然のこと言ってんだ」
「そっか。当然、か」
唐突にではあったが、尊敬する人を褒められたから悪い気分はしないのか。尾が見えていれば、激しく左右に揺れていたであろう。そんな分かりやすい男の様子に、響希は微笑みながらに音を紡ぐ。
「心の中はモノクロで、誰かに想いを寄せることも許されなくて、あんなにも生きているだけで辛そうなのに。それでも、一つの意志を貫き続けて生きている」
「修羅と言う生き物に生まれた方だ。闘争を続けなければ、生存さえ困難な生き物。そんな身に生まれたのがあの人の不幸で、でもそれで膝を屈するような人じゃなかった。戦うしか出来ねぇなら、その戦いで未来を切り拓いて見せるってな。そんな人だから、俺らはあの方の背に理想を重ねたんだ」
何となく、今の響希にはリアムの気持ちが理解出来た。一度負けて、その生き方に魅せられたのは少年だけではないのだろう。
救いようのない生き物として生を受けて、それでもと意地で抗い続けている男。その背に理想を重ねているのは、男だけではないのである。
「強いね、あの人は」
「ああ」
「ヒビキは、さ。駄目だったよ。魔物の衝動に、耐えることが出来てなかった。逃げることしか、選べなかった」
「知ってるよ」
「うん。ヒビキよりもずっと辛い境遇で、ヒビキよりもずっと強く生きてる。本当に、凄い人だ」
「俺らの王だからな。当然の話だ」
戦闘生命として作り出された修羅。その集大成とでも言うべき修羅の王は、この世の誰よりも強い殺戮衝動を抱えた存在だ。
戦いたい殺したい壊したい。その欲求に耐え続ける生涯は地獄と言うのも生温い苦行に他ならず、されど彼は今もそれを続けている。命尽きるその日まで、それを続ける。
ヒビキは、それ程に強くはない魔王の衝動にすら耐え兼ねて、微睡みに逃げることを選んだと言うのに。
「友達。キョウちゃんって言うんだけどね。彼も凄い人だったんだ」
「そうかい」
「うん。いじめられっ子だった響希の手を引いてさ。どんな時でも守ってくれたし、彼が居てくれれば何だって出来るって、そんな風に思わせてくれる人だった」
「は、そりゃ凄い奴だな」
「そうなんだ。とっても凄い、友達だった」
勇者と呼ばれた友人が居た。誰よりも信じることが出来て、誰よりも飄々と何でも熟して、誰もに信頼されていた人気者だった。
その実、誰よりも努力家だったことを響希は確かに知っている。一番長く同じ時を過ごしたからこそ、彼が天才ではなかったことなど分かっていた。
友達を守る。そのために、必要だから努力した。辛いことも多かっただろうに、それをおくびにも出さずに成し遂げたのだ。
「響希は羨むだけだった」
龍宮響希は、結城恭介を羨んでいた。手を引いてくれる友達に守られて、その背中に付いて行くことしかしなかった。
「ヒビキは怖がるだけだった」
ヒビキは、何もかもを怖がっていた。化け物である己が大切な人を傷付けてしまうことを怖がって、産まれることも出来ずに腐って死ぬ末路を怖がって、自分と同じように逃げているだけの人が破滅した姿を怖がって、自分より強い王様に対し何も出来ないことを怖がった。だから、ずっとずっと逃げ続けるだけだったのだ。
「今の僕は、さ。多分、違う」
けれど、今は違う。違うのだと、思えている。
「弱さがないから、なのかな? 諦めることも、挫けることも、思い浮かばない。でも、これって強いって言えるのかな? 弱さが無ければ、それは強さなの?」
認めよう。今の結論は、歪な強さだ。弱さがないから、醜さが欠落しているから、そんな響希だから言えること。
これを強さとは認めない。他でもない、龍宮響希が認めない。弱くないだけの、恐れを知らない想い。それを此処に、彼は紡いだ。
「僕は、強くなりたい」
そうとも、今が歪だからこそ――目指したいと思うのだ。
「あの大切な友達のように、あの偉大な王様のように、僕は、僕も、あんな風に成りたい」
「ヒビキ、テメェは」
リアムが振り返り、その目を見開く。映る瞳には、覚えがあった。まるで古い鏡である。弱さを捨てたいと語った嘗ての己と同じ色を、目の前の少年の瞳は宿していたのだから。
「ここで、悪なる竜が消えるまで待ってたら、きっと僕は届かない」
「言うな」
炎の王には時間がない。既に遠く先を進んでいるあの背中に、追い付こうと望むのならば今直ぐ駆け出すことは最低条件。
だから、響希の言わんとしている言葉がリアムには分かった。分かって、聞きたくはないと願う。されど、少年の言葉は止まらない。
「ここで、弱くて醜い僕を捨てるようじゃ、きっと僕は強くなんてなれない」
「言うんじゃねぇ」
嘗て要らないと、押し付けた弱さや醜さ。それを取り零したまま進んでも、遠い背中には届かない。
強いと言うのは、弱くないと言う意味ではないから。弱さを捨てたままでは、目指すことさえ儘ならない。
だから、悪なる竜が必要だ。その力が無ければ、追い掛けることさえ出来はしないと思うから。
だから、悪なる竜が必要なのだ。押し付けた弱さを拾い直して、目指したいと今は願うことが出来るから。
「命を正しい形に、それだけじゃないんだ。僕は、強くなりたい。強くなりたいんだよ、リアム!」
「言うんじゃねぇよっ!」
リアムが苛立ちと共に大地を踏む。硬質な床が砕けて破片が散るが、向けられた圧を前に響希はその目を逸らさない。それだけしか今は出来ないから、それだけはしっかりと為すのだと。
「それを言えるのは今だけだっ!」
「うん。分かってる」
「絶対に、いつかテメェは後悔するぞっ!」
「うん。分かっては、いるんだ」
弱さを取り戻せば、きっと足は震えて踏み出せなくなるだろう。醜さを取り戻せば、何であの時この道を選んだのだと後悔する筈だ。
それでも、弱さも醜さも無いままではスタートラインにすら付けないから。後悔すると分かっていて、それでもと龍宮響希は口にするのだ。
「それでも、僕は目指したい。目指す前に、諦めたくはないんだ」
きっとこれは、間違っている選択だ。死者が生者を犠牲にして蘇るのが間違いなら、強くなるために世界の脅威を呼び戻そうとするのもまた間違った行為であろう。
ならば、人に戻った後で王の背中を追い掛けるべきなのか? だが、炎王の寿命は短い。今の響希が真面な状態に戻って、それから鍛え始めるのでは追い付けやしないのだ。
いいや、そもそも己の弱さを拾い直そうともしない男が、どうしてあれに届くと言う。だからそう、龍宮響希には必要なのだ。悪なる竜の、力と心が。
そう考えて、多くを巻き込む道を望む。間違っていると分かりながらも、それでも龍宮響希は正しく間違える。正しいと断言出来る道なんて、きっと何処にもないのだから。
「お願いがあるんだ。リアム」
「聞けねぇよ!」
「僕は、君の王に挑戦したい。そのために、行かなきゃいけない場所がある。そのために、やらなきゃならないことがある」
「聞けねぇって言ってんだろ!」
「だから、ここから出して欲しい」
「――っっっ!」
けれどそんな皮算用、こうして閉じ込められているままでは何も出来やしない。まだスタートラインにさえ立っていないのに、響希一人じゃその場所に立つことすら出来やしない。
だから、少年は目の前で歯噛みしている男に頭を下げて乞う。どうか此処から出して欲しいと。己をその場に立たせて欲しいと。その切なる願いを身に受けて、リアムは情と忠義に揺れていた。
「ああ、分かってんのかテメェ!? 俺はあの人の臣下だぞ! ああ、そうじゃねぇ! それだけじゃねぇ! それ以前の話だ! テメェの立場で、あの人を追おうって言うんだ! 真っ当な方法じゃ有り得ねぇ! だから、それで良いのか!?」
「うん。それで良い。ううん、それが良い。僕は、要らないって、捨てた物を拾い直す。今度は他でもない、僕自身の望みで、僕自身の意志で、悪なる竜に成る。それが、今の僕が決めたことだよ」
真っ直ぐに男を見上げる、少年の澄んだ瞳。綺麗に澄み切っているからこそ、どこか歪な色をした物。それを睨み返して、リアムは声を荒げて言葉を投げる。
「普通に生きられんだぞ! 唯、今の気持ち悪さを、少し我慢するだけで! 当たり前の人間に成って、真っ当に生きて死ねんだぞ!?」
「そうだね。ああ、きっと、何時かこの選択を後悔する日も来ると思う。何て馬鹿なことをしたんだって、頭を抱える日も来ると思う」
今の響希の状態は、言ってしまえば麻疹のような物。怯えたり恐れたり諦めたりと、そうした面が欠落しているからこそ純粋に憧れを目指せているだけ。
その歪な魂は、その正しくも間違った願いは、時が経てば自然と溶けて消える類の物。儚く脆く、命を賭けるには足りぬ筈の物である。だから、言って聞かせて我慢させればそれで良い。ただそれだけの、話であるのに。
「普通に生きれねぇやつの方が多いんだぞ! 当たり前の幸福を、取りこぼした奴がどんだけいると思ってるっ! それを、テメェはっ!」
「そうだね。うん、きっと僕の選択に、怒る人は一杯居ると思う。正しいけれど間違っているって、そんな道を進もうとしているんだと思う」
「それが分かって、何でだ!?」
リアムの脳裏に過ぎる、生きたかった筈の人々。失った家族が、旅路の中で見た光景が、少年の言葉が間違っていると確かに示す。ふざけるなと叫びたくなる。
だが、それでも否定出来ぬのは、きっと同じだからだ。あの日、炎の中で全てを失って、歪なままにそれでもと歩き始めた嘗ての己。その影が、眼前の少年と重なっている。
「目を伏せて、耳を塞いで、唯与えられるままに生きる。それはきっと、とても楽な生き方で――もう僕がしたくはない生き方だ」
弱かったから、失った。その弱さを受け入れることが出来なくて、強くなりたいと心の芯から強く願った。その願いには、どうしようもなく共感してしまうから。
「だから、そう。何時か後悔するんだとしても、それでも僕は、強く生きたいって願うんだ」
「――――っっっ!」
リアムは奥歯が割れる程、歯を噛み締めながらに一歩を退く。何も言えない。この少年を翻意させる言葉を、リアム・ファミーユは持ちえない。
だから、彼はそのまま背を向ける。振り返りもせずに罵声を浴びせて、まるで逃げ出すように歩き出す。そうだ、それで良いのだ、と己自身に言い聞かせながら。
「話にならねぇっ! 勝手に言ってろ! 俺が知ったことかよ!」
「お願い、リアム。僕を、此処から出して」
「出来るか! 出来る訳がねぇだろうっ! 俺は王の臣下だぞ! 出来ねぇんだよ! ……だから、テメェはそのまま、其処にいろ」
歩き出したその背に掛かる声に、リアムはそんな理屈を告げる。されど、彼自身分かっている。その言葉に、一体どれ程の意味があるのかと。
たかがか弱い少年一人、逃げ出した所で彼の王に然したる影響を与えることはないだろう。この世の誰にも、あの炎の王を超えることは出来ないのだと確信している。
だから、案じているのは少年の身だ。破滅すると分かっていて、真っ直ぐにしか進めぬ少年。そんなもの、どうして哀れまずに居られよう。
「リアム。君が僕の立場なら、君はそれで止まれるの?」
「――っっ!!」
けれどだからこそ、その言葉に足を止める。前に進み出せなくなる。同じだと、重ねてしまったから。己の弱さを許せなくて、心から焦がれる程に強い人の背中を見て、目指したいと願ってしまう。
どこまでも、同じだと思えたから。相手の心が、その在り様が、痛い程に分かってしまうのだ。
「目指すべき背があって、進むべき道はあって、選べるのは今だけで――――きっと後悔するから動くなって、言われて君は立ち止まれるの?」
「――――っっっ! くっそがっ!! んなもんはっっっ!!」
出来ない。出来ない。出来やしない。俯いた男は揺れている。今は忠義ではなく、情と情の間で揺れている。間違っていると分かっていても、自ら望んで選ぶ道。それさえ選べないと言う、それは正しいことなのか。
ああ、正しいことなのだろう。良いことの筈なのだ。大多数にとっては幸福で、きっと未来の少年にとっても幸福で、苦しいのは今この瞬間だけの筈だから。
そう分かってはいる筈なのに、リアムは一歩を踏み出せずに居る。このまま耳を塞いで立ち去れば良いのに、彼にはそれが出来ずに居た。
「ヒビキ」
その名を呼んだのは、一体誰か。少年の悲鳴にも似た願いを聞いて、少女達は項垂れる。彼女達の内心も、今のリアムと同様だ。
危険なことをして欲しくはない。怪物になんて、成り果てて欲しくはない。だが、だからと言って、今の彼の願いを踏み躙ることが出来るのか。
「……」
同じくその場に囚われていた者達も、言葉を挟めずにいる。才気に溢れる者らではあるが、彼らもまた生まれながらにして特別だった訳ではない。
無力だった時分はあり、強さを求めるその渇望を知ってはいる。発育不良で10歳程度の小さな子供にしか見えない響希の姿が、その叫びが、心に響いていたからだろう。魔王の復活など断じて防がねばならぬ十三使徒の面々さえも、何も言わずに見守ることしか出来ずに居た。
だから、その場の重い空気を換えたのは第三者。リアムが立ち去ろうとしていた先にある扉が開いて、怪しく微笑む女が一人ゆらりゆらりとやって来る。
「うふふ、貴方の負けね。リアム君」
「あ゛あ゛っ!? 朧っ、何の用だっ!!」
肉感的なその体を包む桜柄の白い着物は、胸元と肩が大きく開け丈も短く性的な物を感じさせる。そんな女は腰まで伸びた艶のある黒髪を揺らしながら、リアムの肩に左手を置いて耳元で囁いた。
「強く成りたい。その想いを、貴方に否定出来て? 他ならぬ、同じ願いを抱いた貴方が? あの時、貴方が先代の五席を下して六武入りを果たした時、今のあの子と同じような目をしていたのに?」
「……だが、俺は陛下の臣だ。陛下に仇為すと分かったガキを、この俺が、解放なんて出来るかよ」
「うふふ。苦しい言い訳。分かっているでしょうに、赤鸞に負けはない。なら、貴方のそれは雑な前戯にも劣るわよ?」
「――っ!」
まるで猫が鼠を甚振るような、嗜虐的な色を宿した瞳を向ける。そんな女の腕を右手で弾いて、しかしそれ以上には踏み込まずにリアムは拳を握ったまま黙り込む。
そんなリアムの態度に女は僅か笑みの質を変えた後、彼の横を機嫌良く通り過ぎる。石作りの牢獄内、そこに向かう道の途中で振り返らずに、敢えて聞こえる声量で女は言葉を口にした。
「ふふ、リアム君ったら、意外と我慢強いのね。なら、君に代わって、私がこの子を連れてくわ」
「朧、テメェ」
「あらあらまあまあ、怖い顔。私の邪魔するなら、もう少し虐めてあげても良いのだけど」
女の言葉に、拳を握り締めた男が振り返る。女の揶揄いへの苛立ちが籠ったリアムの視線に、同じく振り返って向き直った女は妖しい笑みを返す。
一瞬の緊張。彼我の実力差は明白。男が下で女が上だ。東国六武衆の席次とは、単純に実力の順番であるが故に。分かり切っているのだ。五席の男は、二席の女に勝てないと。
男が女に手出しを迷う理由の一つが実力差なら、もう一つが王への忠義。炎王は宣戦布告を行う少し前から、六武衆同士での私闘を禁止している。それを破ることへの、後ろめたさも確かにあった。
男が女に対し戦意を向ける理由の一つが揶揄いに対する苛立ちなら、もう一つは少年へと向ける情だ。深く関わる男の悉くを壊す蟷螂のような女に、多少なりとも気に入っている少年を預ける奴が何処にいるのか。
だが、そんな理由だからこそ、妖艶な女の言葉一つで崩される。
「でも、君にはこう言った方が効きそうね。……幼気な子供の真摯な願いを、捻じ伏せるのが貴方の矜持?」
「――っっっ!!」
嘲るような問い掛けに、リアムは言葉を紡げなくなる。彼の敵意が萎んでいくのを見て、女はくるりと身を翻すと少年の居る牢の前に立つ。そして、腕を柔らかに一振り。硬質な音が響くと同時に、格子状の鉄柵が残骸に変わる。そうして優雅に、女は少年の前に立った。
「初めまして、悪竜王であった男の子。私は朧。東国六武衆は第二席の朧。本名ではないのだけど、そっちは捨ててしまったから。朧とだけ呼んでくれると嬉しいわ」
「うん、初めまして。僕は、響希。龍宮響希です」
朧が名乗り、右手を伸ばす。その伸ばされた手を掴み返して、響希も彼女に名乗りを返した。
「強く成りたいのでしょ、響希君。我ら修羅は、力の信奉者。その在り様を、誰が否定しようと、私たちは肯定する。貴方は正しい、とね」
「ありがとう、朧」
「いえいえ、どういたしまして」
腕を引いて牢から出ると、互いに離して横に並ぶ。歩幅の差から半歩先を朧が歩き、少し急ぎ足で響希は付いていく。
「唯、そうね。協力してあげる代わりに、私のお願いを一つ聞いて貰おうかしら」
「お願い?」
「ふふっ。詳しい話は、力を取り戻してから、ね」
外に向かって、進む途中で当然のように向かい合うのは一人の男。拳を握り締めたまま、動けずに居た男。彼の前に、響希は立った。
「リアム」
「……俺は、何も見なかった」
「ありがとう」
「知るか、見てねぇって言ってんだろ。……礼なんて、言うんじゃねぇよ」
リアムが言葉にしたのは、彼に許せる唯一の妥協点。顔を俯かせたまま、道を開けるように彼は近くの壁に背を預ける。
これ以上は何も言うなと言うことだろう。そう分かって、それでも一礼を向けてから、響希は牢獄の外を目指して歩を進める。
『ヒビキっ!』
「ミュシャ、アンジュ」
その背に、少女達の声が届く。何を言えば良いのか。何と言えば良いのか。迷いに満ちた二人に向かって、振り向いた少年は一つだけ言葉を返す。
「行ってきます」
そうして、少年は外に出た。日の光の中、吹き抜ける風を感じる。冷たく澄んだその風に、瞳を一瞬閉じて開く。迷いは、なかった。
「さて、それで、何処に向かうのかしら?」
「うん。幾つか、候補はあるんだ。スーマランヴェルヌの底か、アマデーニュ山の山頂。後はカシェテーレ遺跡の奥なんかも、候補かな」
「あらあら、どれも結構距離があるわね」
「そうだね。本当は多分、どこでも良いんだろうけど。折角だから、さ。様式美に拘ってみようと思って」
悪竜王の力を取り戻す。そのためには、会わねばならない相手が居る。その存在は何処にでも居て、本来は何時だって会えるモノ。
先に挙げた候補は特に、彼の力が強く残っているであろうと言うだけの場所。だから態々向かう意味はなく、この場で目を閉じ呼び掛ければ反応はある筈ではある。
だが、あれで美観に拘りもある相手だ。そして自身も、向かう途中でもう一度、一つ一つと自問しながら確かめたい。きっとこれが、最期になるから。
龍宮響希は、悪竜王の一部ではある。だが、悪竜王は龍宮響希ではない。だから今の自分で居られる最後の時間を、しっかりと噛み締めて進みたい。それが大切なことだと思えたのだ。
「目指すは終焉の地、ソヴァーラ。嘗て聖剣の泉があった場所。僕の予想が正しければ、あの場所が一番良い。其処で、アイツに会える筈なんだ」
その言葉に、敢えて朧は疑問を口にしない。過程を楽しむかのように、彼女は少年の歩みに付いていくだけ。彼女は、見定めているのだから。
龍宮響希は歩き出す。図ったように誰もいない町を抜け、砦の向こうに広がる雪原に向かって。そして、その向こう側――枯れた泉に封じられているであろう、闇に輝く黄金と相見えるその為に。
故に少年は、その道を進む。納得して、最期の時を迎える為に。




