第56話
波の流れが静けさを取り戻す。ゆっくりと静かに、それはまるで何かの終わりを少女に予感させていた。
(目を、使うまでもなく分かる。海はもう、荒れていない)
推測ではあるが、確信に近い自信もある。邪教の盟主が罠を仕掛けてまで船を止めた目的は、既に達成されてしまっているのだと。
身内の危機を眼前にして、アンジュ・イベールと言う少女は黙っていられる気質ではない。そして彼女が動いたならば、危険に身を晒す少女を守る為にヒビキも動く。
そして、敗北するのだ。修羅の頂点。東の武王。人と言う種の極点に、ヒビキと言う産まれることさえ真面に出来ていない邪竜の胎児は必ず敗れる。
その結果が恐らくは、こうして凪いでいる海なのだろう。
(さっきまであった、息も出来ない程の圧力。町一つを包む威圧感が、もう納まって小さくなった。それはきっと、必要がなくなったから。……ヒビキが倒されたことの証明だ)
ミュシャ・ルシャは歯噛みし、船の縁を強く握りながら思う。飛び出す二人を咄嗟に止めることが出来ず、追い掛けようとして直ぐに感じた威圧感によって思考さえ出来なくなっていた己自身を。
威圧感が納まって、正常に戻った意識と呼吸が落ち着いて――さて、それでどれ程に周回遅れが発生したのか。
彼ら彼女らが飛び出してから、一体どれ程の時間が過ぎたか。感覚すらも既に曖昧だった。
(私は、どうするべきなのか。今、この場で駆け出して、それで、それで良いの?)
緑の瞳を潤ませる。生じた迷いは、己が実力不足のためであろうか。ああ、きっとそれもある。ミュシャが答えを視れる時間は短いのだから。
効果時間は日に30秒。効果範囲は自身の視界と脳内のみ。視覚が拾った情報の真贋を暴き本質を見抜く能力と、その情報を元に組み上げた自身の策が上手く行くかの正否を判定する能力。それが、天空王の瞳が有する全てだ。
故に天空王の瞳が映す真実は、この今に使った所で意味を為さぬ物だ。視界に映る情報が足りぬ以上、駆け出して助け出せるかと言う問いに答えは出ないのだ。
ならば先ずは現場に行って、相手を視界に収めてから切り札として。だが、それで望んだ答えなどないと言う答えが出てしまったなら――そして、その可能性は決して低くはないのである。
(私に、出来ること。私が、すべきこと。私が、したいこと。私は――)
そして恐らく、理由はそれだけではない。恐怖があったのだ。ミュシャの心には、確かな恐れが。
(分かってる。私がしたいと思う行動は、あの日と同じく間違ったことだって)
脳裏に浮かぶのはあの日、師に騙されて遺跡の奥へとヒビキを連れて行ってしまった行為。
人類を滅ぼしかねない愚行と同等の悪行こそが、炎王の排除であると分かっていた。
(正義と悪があるとして、正しいのは向こうの方だ。魔を滅ぼして、世界を救おうとしている王様。なるべく犠牲を少なくしようと動いている相手に対し、大義もなく流されるままに敵対したのが私達)
正義は己達にはない。己達は善に位置する者ではない。邪教の者らが暗躍し潰そうとしていることからも分かるように、正しいのは炎王の側である。
確かに、彼の王は寿命が残り少ないのだろう。邪神や彼の者が世界に仕込んだ粛清装置を滅ぼすまでは持たないのだろう。だが、それでも一時の平穏を世に齎すのだ。
そう、寿命故に届かぬとディアナは言った。彼の死後に、世界は粛清装置によって滅びるとも。ならば逆説、彼が生きている間は魔王も粛清装置も邪神ですらも、その太平を崩せぬのだ。
短くとも、儚くとも、確かに世界を救う王。これまでの繰り返した世界を、救い続けてきた偉大な王。それを阻む行為の何処に正義がある。王の道を妨害し、その寿命を無駄に削る行為の何処に正当性を見出せば良い。
それでも犠牲にされる側になってしまった家族を助けたいと飛び出したアンジュは、正義ではなくとも善側の存在とは言えるだろう。家族を想うその情を、断じて悪とは言えぬだろう。
だが、アンジュを助ける為と言う名目で飛び出したヒビキや、こうして迷い続けているミュシャはどうだ。彼は、彼女は、何をしてきた。これまでの行いに、その言動に、正当性が何処にあるのか。
(先生に騙されたとは言え、私とヒビキはクロエ様を傷付け、魔王の封印を揺るがせた。それを為すために命を賭けた、沢山の人の想いを踏み躙った。崩れた封印は元には戻らず、今も尚世界中の人を窮地に陥れている。それなのに、その責任を果たす訳でもなく、こうして罪を重ねている。私達こそ、悪者だ)
出来ることなど殆どなくて、抗うこと自体が罪とさえ言える状況で、少女は足を止めてしまっている。
正当性はない。善行ではなく、悪行でしかない。そうと分かって、それでも尚と。口に出来るような勢いもなく、ならば一体どうすれば良いのか。
(だからと言って、殺されても納得出来る訳じゃない。ヒビキを喪いたい訳がない。でも、それだけ。それだけで、また私は世界を窮地に陥れるの?)
それでも、と譲れないのはそんなこと。ヒビキが人を害する側の存在である以上、人の王は彼を見逃さない。
戦いが始まり、終わってしまった以上、もうヒビキはいつ処分されてもおかしくはない状況だった。
(だけど許せないと、言って立ち向かった所で私に出来ることはない。そしてその行為もまた、許されるようなことではない)
これで状況がもっと切羽詰まっていれば、遮二無二考えずに飛び出すことも出来たであろうに。
加減を止めた炎王の闘気を遠方で感じて、それだけで呼吸も思考も出来なくなっていた。そんな少女がこうして思考出来ていると言う事実が示す。もう、決着は付いているのだ、と。
(もう、間に合わない可能性が高い。それでも行くの? それだけの、理由がある? 悪を為しても、選ぶ理由が……)
だから、だろうか。己の中にある冷酷な部分が問い掛けて来ている。行っても無駄なら、諦めてしまえと。彼との、彼らとの絆は、命を賭す程に、重くも濃くもないだろう、と。
守れなかった妹と重ねた。為すべきことが分からなくなったから、そんな相手と一緒に行動しているだけ。
結局それが、今のミュシャ・ルシャの本質だ。だから、彼女は迷ってしまっているのだろう。だから、彼女は他の二人と違って飛び出せなかったのだ。
(船は、出航する。今はまだ、船長も迷っているとは思う。乗船予定だった領主の娘を置いて出航することに。……けど、この船に乗っているのは私達だけじゃない。そう遠くはない内に、決断を下す筈だ)
もう、余り時間はない。戦火を逃れようとする避難船は、多くの命を背負っている。
専用に手配された船とは言え、逃げ損ねた人達が居て、船に空きがあればこの状況だ。乗せないと言う訳にもいかない。
故にミュシャ達の許諾を受け、乗り込んでいる避難民は少なくない数が居た。
多くの命を乗せた船に、この港に留まり続けると言う選択肢はない。
避難民や船員の命が掛かっているのだ。限界までは待つだろうが、それ以上となれば出航する。既に、海は凪いでいるのだから。
そんな船に一人残され、動き出すことも出来ずに居る。何と浅ましいのだろうかと自嘲して、それでも生き延びて償いに身を費やすのが筋ではないかと理性は語って、それでもそれでもそれでも――
「おーい、待ってくれ!」
「まだ出てないなら、私達も乗せてくれないかい!?」
「……乗船券、買うための資金稼ぎで船乗れなくなり掛けるとか。僕ら何やってんだろうね。その運賃も、二人の酒代で消えたし」
何処かで見たような三色頭が、船の桟橋で大きな声を上げている。
既に乗員オーバーだと怒鳴る船長相手に喧々囂々と、言い合いを始めたのは彼らにも後がないからだろう。
彼らは生きたいのだ。生命の危機を前にして、生き延びる為に足掻いている。
はっきり言えば、彼らは愚か者だ。当日まで乗船券を用意していないのも愚かなら、前日遅くまで酒盛りをしていて起きたのがつい先程と言う考えなし。
この地は危機にあると分かっていながら、そんなことを平然とする自業自得。
その上で他の避難民を抱え込んでいるせいで、船側にも余裕がないと言うのにこの無理難題。
駄々を捏ねている子どもと何ら変わらない、或いはそれ以下の人種であろう。
でも、それでも生きたいと願うから、彼らは必死に足掻いているのだ。
(生きたい、か。それは分かるけど、筋道が立たないと相手側も頷けないわよね。もっとやり方を考えれば良いのに、あんな必死で……)
極限の状況下で生きたいと願うのは、誰もが同様の話。
そんな状況では救いの席も限られるから、その席から落ちないように事前の準備をしておくのが賢い生き方だ。
(いや、逆か。必死だから、考えてる余裕がない。余裕がないから、それだけを純粋に思える、か)
されど、こんな風にも思う。賢いだけの生き方に、果たして何の意味があるのかと。
計画性皆無なパーティを見て、そんな風にも思えたのだ。
だから――ミュシャは帆船の縁に手を掛けると、その向こう側へと身を投げた。
「大地よ、応えて」
北方でも最上級の豪華客船。その高さは、五階建ての建物よりも大きい。桟橋も通らずに縁から落ちれば、人など容易く壊れてしまう高さである。
当然、人より頑丈な亜人の身でも唯では済まない。その衝撃を緩和する為の能力を、ミュシャ・ルシャは有してはいない。だからこれは、一つの試しであった。
硬質な素材で出来た船着き場の大地に落ちるミュシャ。彼女の足が地に触れた瞬間に、その大地が柔らかく撓んだ。衝撃を逃がすように、受け止めるように形が変わる。
「……ありがとう、クロエ様」
誰に届かせるでもなく、小さな声で感謝の言葉を口にする。あの人は罪を許さず罰を下す存在ではあるが、それでも愛することを否定する人ではなかったから。
無傷のまま立ち上がったミュシャは、桟橋で口論を続ける三人組の下へと駆け寄ると内の一人に懐から取り出した物を押し付ける。それは、先の依頼の報酬として受け取っていた乗船券。
「あげる!」
「え、あ、お、おう」
「船長さんも、乗員これで三人減るから! その人達を乗せて、出発しちゃって欲しいにゃん!」
少し冗談を混じりの口調でウィンクを一つ。言葉が届いたことを確認すると、ミュシャは返事も聞かずに身を翻す。
背後で彼らが何事かを言ってはいるが、耳にも入れずに走り出す。為すべきも出来ることも分からずとも、したいことは明白だったから。
――外功想行・以って我は心威を示す――
(惰性の関係。代替行為の対象物。だとしても、喪ったら辛いし苦しい。なら、今は複雑なことなんて考えないで良い。唯、心の示すままに進もう)
心の底から生きたいと願うが故に、考えなしに行動していた名も知らぬ冒険者達。その姿に、ミュシャは一つの真理を見た。
例え傍目から見て、それがどれ程に愚かに見えようと、それがどれ程に悪行と言えようと、心の底から願う想いに嘘偽りなどはないのだと。
――Haroeris.Horus-Behdeti.Ra-Harakhte――
善であるとか悪であるとか、そんな思考は一度捨てる。考えなしの愚かさで、何がしたいかだけを考える。答えは問うまでもない。ならば、自ら望んで悪を為そう。
――月の象徴たる瞳。書庫の守護者が癒せしは、空と太陽を統べる者――
時には愚かとなるのも大切だ。そうと気付かせてくれたことへの、乗船券は礼のような物。それに、どうせ己達はもう使わない物でもある。ならば、必要な物は必要な人へ。
それに、これからとても大きな悪行を為すのだ。ならば少しくらい、善行を積んでいた方がバランスが取れると言う物だろう。
(それが、どんなに許されない大罪だとしても)
分かっている。ヒビキと言う少年は、存在そのものが許されぬモノだ。多くの命を傷付け苦しめる魔王と言う存在。不完全とは言え、その一角なのである。
既に許されぬ悪行を為してはいるし、今後も悪意なく為す可能性は十分ある。そうでなくとも何らかの要因で聖剣の力が失われれば、悪竜王は己が衝動に圧し負け周囲に暴虐を振り撒くだろう。滅ぶべきだと言われてしまえば、ああそうだとしか返せない。
――大いなる天空の太陽よ。その瞳たるバステトの子が、偉大なる御身に乞う――
そんな相手に、死んだ家族の影を重ねた。そんな相手と、行き場もないから一緒に居る。そうだ。それだけでしかない。理由なんて、それだけでしかないけれど。
それでも心は、守りたいのだと望んでいる。共に居たいのだと願っている。
時間の長短など関係なく、絆の軽重ですら問題にもならない。そうともだから、今は愚かにもしたいことだけ考えて動いているのだ。
――答えを教えて。例え至れぬような星の彼方にあったとしても、手を伸ばし続けたいと願うから――
(私は、そうしたいと思えたから――)
そうして、ミュシャはその場に辿り着く。腕を組み、目を伏せている焔の王。その対面に立っているのは、既にヒビキではなかった。
助けに行った筈の少年は、王への恐怖で心が折れた。そんな彼がまだ無事だったのは、彼を守るように立つ少女が既に居たからだ。
怯え震えるヒビキを守るために立っていたのは、彼に守られていた筈の少女。震え慄きながらも拾った剣を構えているアンジュの心はきっと、ミュシャと似たような色をしているのであろう。
「ふふっ」
思わず、小さく笑えてしまった。場違いだと言うのは分かって、愚かしいのだと言うのは分かって、それでも悪くはないとは思えたのだ。
視線が交わる。それも一瞬、直ぐに同じ方向を見た二人の少女は肩を並べて立ち塞がる。黙して語らぬ王の前に、勝ち目などないと分かっていながら立つのである。
「ヒビキ! 君は逃げて!」
「ここは、私とミュシャで引き受ける!」
ぴたりと息が合い、死地だと言うのに不思議と笑えた。そう、死地だ。勝ち目なんて、万が一にも億が一にも存在していない。
ミュシャは弱い。亜人としての平均値はあるだろうが、それでも戦士としては三流以下だ。その生まれ故に精霊術こそ秀でてはいるが、目の前に居るのは赤の貴種。あらゆる精霊術を自然体で封じてくる存在だ。
アンジュは弱くはないが、決して強くもない。俗に一流と称される実力ならば備えているが、英雄と称される域には届いていない。人の極点たる王から見れば、傍らの猫人と大差ない存在でしかないだろう。
どちらも共に、王がその気になれば威圧感だけで呼吸すら出来なくなる程に儚い存在だ。炎王が殺意を向ければ、それだけで心停止からの死に至る。
それだけの差があると、この場の誰もが分かっている。分かっていながら、二人はそうして立っているのだ。
「僕、は……っ」
ヒビキはそんな二人よりも遥かに強い。だと言うのに、こうして守られている。その事実を前に、情けないと感じる余裕さえもない。
怖い。怖い。怖いのだと。きっとこの場の誰よりも、少年の心は弱く未熟な物だから。彼を背にする少女らの心に、迷いなんて一筋もなかった。
――心威・解放――
「万物見通せ――天空王の瞳」
ミュシャの瞳が、その色を変えて輝く。求めた答えは、己の生ではない。勝利の方程式でもない。唯、背後で震える小さな子どもが、生きていられる道筋を――
「え?」
求めて、故に、ミュシャ・ルシャの思考はその解答を前に硬直した。
「僕は……」
そんな小さな変化に、気付けたのは一人だけ。その一人には問い質す心算もないが故、硬直したミュシャはその場に残される。
ゆっくりと、王がその双眸を開いた。彼が見ているのは、硬直した少女でも剣を構えた少女でもなく、怯え震える一人の少年だけだ。
「僕は……」
その瞳が言っている。炎王が向ける気配が、言葉より雄弁に告げている。
力を持ちながらも、守られるだけなのかと。己よりも弱い者に庇われて、震えているだけなのかと。
その心の底まで暴き晒すような強い瞳に、ヒビキは気付けば涙を零し俯いていた。
「僕は……」
いつも意識は微睡んでいた。何かを壊さないでいるためには、そうして心を逃がすしか術がなかったから。
それでも、そんな彼にも分かっていた。幼い弟妹を優しく慰めるように、傍に寄り添ってくれた少女が居ることを。
「僕は……」
いつも心の底では憎んでいた。穢したい殺したい壊したいと、望んでいたのは他の誰でもない自分自身。
それでも、それで良いのだと寄り添ってくれた少女が居た。親愛ではない慕情を受けて、心地良いと感じていたのだ。
「僕はっっっ!」
だから、守りたい。だから、助けたい。だから、見捨てたくはない。なのに――怖い人が立ち塞がる。
勝てる訳がない。戦える訳がない。挑もうとすら、もう思えない。だって、その王様は、余りに強く気高く恐ろしいから。
「わあああああああああああああっっっ!!」
だからヒビキは、何もかもを捨てて逃げ出していた。
「……逃げる、か。それがお前の芯、か」
その背に向けられるのは落胆。失望の籠った嘆息を耳にしながらも、ヒビキの足は止まらない。止まっては、くれない。
(無理だ。無理だ。あんなの、勝てない!)
だって、恐ろしいのだ。こんなにも怖いと感じたのは、生まれて初めての経験なのだ。どうして、あれに勝てると言う。
(けど、勝てないのは、アイツだけ! だから、今は逃げて、後で、二人をっ!)
だからそうだ。先ずは逃げよう。あの怖い男はまだ誰も殺してはいないから、二人もきっと大丈夫。
他の五人は、あの怖い王様とは違う。あれよりずっと弱いから、戦えばきっと勝てる。王様さえ居なければ、二人を助けることは出来るから。
そう己に言い訳して、脇目も振らずに逃げ出す姿。その弱さに気付いて尚、変わらずアンジュは剣を構える。そんな少年少女らの相反する姿を一瞥して、炎王は深く静かに息を吐いた。
「守ると告げて、その様か。言葉を軽くするなよ、愚か者。断じて為せぬのならば、強き言葉など口にはするな」
静かに、諭すように、炎王は口にし懐に手を入れる。彼が取り出したのは、薄く透き通った赤い布。ヒビキも見覚えがあるそれを、王はその場で宙へと放る。
「捕えろ――原初神話・竈に秘された聖なる羽衣」
赤い羽衣は空へと溶けて、変わりに現れたるは燃え盛る浄化の炎。四方全域に展開された炎の結界が、ヒビキの逃げ場を奪っていた。
「な――っ! 行かせるかっ!」
そして一歩、逃げるヒビキに向かって歩を進める炎王。その歩みを理解して、即座にアンジュが斬り掛かる。
雷の力は纏うことも叶わず、それでも全力で行う斬撃。その剣閃を、炎王は再び指の二本で受け止める。
右手の中指と人差し指。その二本だけで、白刃取り。先と同じ、あっさりとした無力化だ。
「く――っ」
「娘。お前は寝ていろ」
全体重を掛けた大上段の一撃を受け止められて、流れるように剣を奪われ、それでもと更に踏み込むアンジュ。そんな少女に視線を向けて、炎王は僅かな敵意を混ぜた闘気を飛ばした。
それだけで、終わる。一瞥だけで意識を飛ばされたアンジュはその場に崩れ落ち、掴んだ大剣を炎王は倒れた少女の側へと放る。
そして、再び一歩。彼は前へと、歩を踏み出した。
「来るなっ!」
「情けないとは、思わんか?」
ゆっくりと近付いてくる王を前に、逃げ場なんて何処にもない。燃え盛る炎を背にしながら、ヒビキは全力で権能を行使した。
悪竜王の権能、幾千之魔導。過去現在未来で成立する全ての魔術。それを取捨選択することもなく、片っ端から詠唱して発動していく。
炎が、氷が、風が、雷が、毒が、呪詛が、数え切れない程の多種多様な力が炎王へと降り注ぐ。
だがしかし、当然のように通用しない。その全てが貴種である彼が無自覚に発生させている精霊力によって浄化され、炎王の体に届いた頃には彼の肉体を傷付ける程の力を残してはいなかったのだ。
「来るなっ!」
「恥ずかしいとは、感じぬか?」
魔術は何も通用しない。それが分かって、と言う訳ではないのだろう。唯、迫り続ける脅威を腕で遠ざけようとするようにヒビキの肉体が変質する。
その両手は長く伸び、その掌は何時しか竜の顎門へと。全身は漆黒の鱗に覆われて、その両眼は神聖を宿した黄金へと変わり、人型ではない怪物へと。
三つの首を持つ竜が、巨体と化したその身を振るう。だが、竜の口から吐く炎も、竜の鋭い牙や爪も、炎王を傷付けることが叶わない。
どころか、炎王の歩み一つ止められない。無防備に思える体に当てても、その体幹を揺らすことさえ出来なかったのだ。
「来るなよっ!!」
「お前には、力があると言うのに。お前より弱い者に、守られているだけなのか?」
何も通じない。何も通らない。何をしても止まってくれない。既に山よりも大きな体を有するに至った悪竜王は、己より遥かに小さな人に怯えている。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。なのにどうして、止まってくれない。なのにどうして、近付いてくる。なのにどうして、そんな言葉を口にするのだ。
「こんな力、望んでなんかなかった!」
弱い子どもが追い詰められて、生の感情と共に吐露するのはそんな言葉だ。
「こんな産まれ方、誰がしたいと思うかよ!」
望んでなんていなかった。求めてなんていなかった。力なんて要らない。怪物になんて成りたくなかった。
唯、記憶の中にある誰かのように。唯、己の材料となった誰かのように。優しい時間の中で静かに、当たり前のように生きていたかった。
なのに生まれが、それを許してくれない。怪物として、生まれてしまった。それなのに、それなのに、それなのに……
「なのに! こんな時にっ! こんな時こそ、必要なのに! 何の、何の役にも、立たなくて! ……何で、僕は、僕は、こんな化け物なんだろう」
前を見る。王の赤い瞳に映るのは、悍ましい怪物と成った自分の姿。それを目にして、目にし続けることが出来なくて、項垂れるように怪物は顔を伏せていた。
「……哀れだな」
「僕だって、こんな風に成りたくはなかった」
いつしか、距離は詰められていた。逃げても抗っても無駄な現実を前に、怪物は項垂れたまま諦めたように動かない。
唯々、悲しかった。唯々、空しくあった。化け物ならせめて、強く在れれば良かったのに。化け物ならばせめて、誰かを守ることが出来れば良かったのに。
「何で、そんなに、強いんだよ」
羨むように、焦がれるように、眼前に立つ王に言う。
炎王がこれ程に強くなければ、少女達を守ることは出来ていた。
炎王がこれ程に強くなければ、いつか化け物である事実を肯定出来たかもしれない。
炎王がこれ程に強くなければ、こんなにも無様を晒さずに居られた筈なのだ。
「力を有すること。それ自体に、義務はない」
少年の小さな、しかし切なる叫びを受けて王は僅かに目を伏せる。一瞬の沈黙の後、刮目して語るは世の道理。
「だが、力を有する者は須らく、多くの者らに義務を求められる。望もうが、望まざるが、否応なしにな」
嘗て雷将が口にしたように、力を持つ者に義務はない。だがそれは、本来はの話ではある。真に義務はなくとも、世を生きる限り、義務があると望まれてしまう。
力を持つ意味。力を持つ義務。強き者は容易く世を変えてしまえるから、故にそう望まれるのだ。
そして望まれたように生きなければ、押し付けられた義務を果たさねば、世の敵として処理される。故に多くの者は、力には義務があると語るのだろう。
「お前は力を有して生まれた。人の世の、敵とあるべく産まれてしまった」
己が生まれた時より有していた力。それに対する意味を、他が求める義務を、炎王は己の意思でこうだと決めた。
逃げるのではなく、拒むのではなく、背負うのだ。己の心に揺るがぬ芯を一つ定めて、ならばその道が揺るぐことはないのだから。
「だと言うのに、お前の内には芯がない。求めに対する、意志がない。抗えず、流され、蹲って泣き喚く。故に、唯々、哀れだ」
王の手が、黒い鱗に触れる。壊さぬような優しい手付きで、されど慣れを感じぬ武骨さで、触れた先に火が灯る。直後、ヒビキの巨体が火に包まれた。
「己の臣が告げたように、お前は単なる童であるのだな」
燃える炎に、痛みはない。燃え盛る業火が消えた後、気付けば居たのは座り込んでいる小さな子どもが、泣いている子どもが一人だけ。人型へと戻ったヒビキを見下ろしながら、炎王は静かに口を開いた。
――外功想実・以って我は心の底の真を示す――
王の口から紡がれた音は、この周回における歴代の東国六武衆の誰もが至れなかった領域にある力。炎王だけが至っている力。神威法の第四階梯。即ち、真威解放。
――前鴻後麟頷燕喙鶏頸蛇尾魚額鸛顋鴛竜文背亀羽翼五采――
性質は外の功。彼が望んだのは世界の変革。儘ならぬ世を作り替え、太平を齎す為の覇道を歩むと決めた。
この真威は、その覚悟が形を成した物。故に外功想実。世の全て、想像も現実もあらゆる一切を己の意思で作り替えると言う力。
――五鸞鵷鶵朱雀雲作。雲雀叶律郎火離五霊。仁智禽丹山隠者長離朋明丘居士――
闘気を高め、己の心に抱いた芯と混ぜ合わせ、人間の領域を超えんとするのが神威法の第一階梯たる心威解放。
己の心の芯、その別側面を抽出し表出する心威の性質や法則を変じさせるのが神威法の第二階梯たる心威変性。
同じ芯より生じた二種類の異なる心威、それを全く同時に発動し制御するのが神威法の第三階梯たる心威併用。
ならば、その先とは。神威法の第四階梯とは即ち、同時に発現した二種類の心威を混ぜ合わせ異なる一つへと昇華させる技術である。
――鳳兮、鳳兮、何徳之衰。往者不可諫、來者猶可追。已而已而、今之從政者殆而――
加算ではなく乗算。故にその力は既に、第三階梯までの力とは属する域を否としている。文字通り、格が違うのだ。桁が違う、とも言えるだろう。
断言しよう。これより発現する真威の力は、五大魔王の総力すらも超えている。全ての魔王が、この世の邪悪が、手を結び挑んだ所で一方的に壊滅させられる。それ程のものなのだ。
――不聞、鳳皇鳴。政に仁は無く、国に義は無く、王に礼は無く、民に智は無く、人に信無し――
紡がれる言の葉。語られる呪文は、内心の吐露。心を表し力と変える技術であるが故に、神威法の使い手は己の心を隠せはしない。
炎王はこの世に失望を抱いている。その身は諦観に満ちていて、彼にとって生とは苦行でしかなく、それでも――それだけでは決してない。
――世に五常無くば、美しき翼は羽搏かぬ。ならば、我こそ慶賀を告げる鳥となろう――
美しい鳥が羽搏くように、王を中心に炎が燃え上がる。それは彼が宿した決意の炎。失望も、諦観も、あらゆる苦痛を焼き払いて清めるは覚悟の意思だ。
――真威・解放――
「天威瑞兆・鳳凰天翔」
全ての鳥の王。慶賀を告げる羽搏きが、世界全てを塗り替える。星の全てが、今を生きる人の全てが、単一個人の意思に負けて変わってしまう。
その熱を伴う羽搏きにヒビキは思わず目を閉じて、開いた直後に広がる景色は既に異界。炎王が生み出した、炎王の心を映す、炎王のためにある世界。
「モノクロの、世界。これが……」
「そうだ。これが己の世界。己の瞳に映る世界だ」
新たな世界に、色はなかった。変化は唯、それだけ。港も、街並みも、広がる砦も、北方の町はそのまま。唯、色だけが欠落している。
いや、時折だが色付く。一瞬、亀裂が走るように色が広がる。しかし鮮やかに染まるのは一瞬だけで、すぐさま色を失いモノクロに変わる。それが意味する事実は詰まり。
「漂白、してる。自分の意思で、世界を、モノクロに変えている」
炎王は、己の意思で世界を無価値と見ているのだ。だが時折色付く景色が示すように、心の底ではそれを受け入れ切れていない。故に、この世界はこうなのだ。
「心威は心を映す。心の真ともなれば、余計に偽りなど効かん。修羅の性を抱える己には、相応だと言えるだろうよ」
「なん、で?」
「知れたこと。修羅にとって、執着とは罪なのだ。愛した者を、壊さずには居られぬからな」
古き人々は、悪意なく戦える戦闘生命を求めた。結果生まれた修羅と言う種は、愛するが故に他を害する怪物と成った。
誰かを大切に思えば、それを傷付けずには居られない。誰かに好意を抱けば、それを壊さずにはいられない。それが東の修羅と言う、救いようのない種族。
王は愛を知る。王は情を持つ。王は臣下を、民を、大切に思えてしまう。故に彼は、その度に己の心を殺して生きてきた。故に彼にとって、生きると言うのは苦行であるのだ。
「違う。何で……」
その事実を知らされて、しかし否とヒビキは首を振る。聞きたいのはそうではない。知りたいのはそうではない。問い質したいのはそうではなかった。
「何で、進むの?」
そう。知りたいのは、何故なのか。王は飢えている。王は飽いている。王は苦しみ続けている。
なのにどうして、王は今も進み続けているのであるか。どうして彼は、前に進めるのだろう。それがどうしても、小さな子どもには理解が出来なかったのだ。
「……そう、だな」
少年の問い掛けに、一瞬虚を突かれた王は僅か沈黙した後に瞑目する。思い返すのは、一人の女。王が愛し、守れなかった女の願い。故に、王の道には迷いはないのだ。
「断じて為すと、唯決めた。故に断じて、進むのだ」
「そんな、こと?」
「ああ、そうだ。そんなことだよ。そんな程度で良い。単純で良いのだ。進むための理由。心の刻む芯とは、な」
目を開き、ふっと微笑む。瞬間、世界全てが色付いて、直ぐにモノクロへと戻る。しかし、抱いた熱は消えない。その熱意は鮮やかな炎と変わって、高く熱く燃え上がる。
「炎、が……」
「進むべき道は定めた。ならば色無き世界であっても、燃え滾る意志を以って突き進むのみ」
燃え上がる業火は世界を包む。いいや、満たすと言うべきか。隙間なく埋め、広がり続ける想いの炎。それこそが炎王が抱いた願いの全て。彼が世に示す、彼の意思の形である。
「所詮は修羅よ。争うことしか出来ぬ。戦う道しか選べぬ。それしか喰えぬと言うのなら、飢えて死ねば良かろうに。己はそれを選ばなかった。ならば、迷いは不要であるっ!」
「お前……いや、貴方は……」
「故に己はっ! 武を以って、世界に和を齎す! 天下布武、これぞ我が掲げる意志であるっ!!」
その強さに敬服を。その強さに感服を。恐怖に震えていただけの子どもは、きっとその時憧れたのだ。その余りにも逸脱した、人の極みと言うべき形に。
不完全な形に生まれて、望まぬことしか出来ないままに、それでもそれで良いと全てを背負い前へと進む。
それはきっと何よりも、それはきっと誰よりも、強いと断ずる姿であるから。
「焼き払え――大・炎・浄っっ!!」
「うっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
世界全てが火に満ちる。何もかもを祓い清める聖なる炎が、悪竜王の全てを焼いた。
痛みすらも感じることの出来ない苛烈な意思に飲み込まれて、ヒビキの意識は悲鳴と共に白く染まる。
そうして、その果てに――気付けば彼は、元の世界に戻っていた。
「あ、あれ、僕、は……」
「ヒビキっ!」
膝を付いて、思わずと言葉が口を突く。倒れそうになるその体を、駆け寄った猫人の少女が抱き締め支える。
少年の身に、痛みはない。苦痛はない。そして、その内に感じる力もなかった。そう、今までは常に感じていた悪なる竜の胎動がなかったのだ。
「悪竜の因子が、貴様を侵食することは最早ない。聖なる剣も、唯の童には無用であろう」
全てが焼かれた。故に、ヒビキに残る力は何もない。黒髪黒目の少年は、その小さな見た目通りに。もう、唯の子どもでしかない。
「悪なる竜の、贄と捧げられた哀れな童よ。唯人として、好きに生きてから好きに死ね。それが己の裁定だ」
それだけを言うと、炎王は背を向けた。いつか、悪竜となることもできずに卵のまま腐って死ぬ筈だった少年。彼の運命を容易く焼き払った王は、一瞥すらも向けずに立ち去って行く。
その背をヒビキは、遠のく意識の中で見送る。遠い。唯、遠い。力なく伸ばした手は届く訳がなく、目指すことさえ出来ぬままに少年は意識を失った。
これが、その戦いの顛末。悪なる竜はこうして、人の極致を前に、完膚なきまでに敗北したのであった。




