第36話
◇宙歴22511年9月3日
「……あれ、私」
コポコポと静かに鳴るサイフォンの音。香ばしい匂いに、クロエは意識を取り戻す。
「生きて、る?」
目に映ったのは、見知らぬ部屋の天井。左右を見る前に思ったのは、まだ生きていると言う事実への疑問。拘束もされていないようだと、両手を見詰める。
「気が付いたようだね」
「っ!?」
一体どうして、そう問う前に声が掛かって跳ね起きる。警戒し切った猫のように毛を逆立てて、寝転んでいたソファの裏側へ転がり落ちるように滑り込んだ。
そうしてフーフーと威嚇を始めるクロエの姿に、困ったような表情を浮かべる痩せぎすの男。気を失う前に見た謎の研究者を前にして、クロエは警戒しつつもそれを一段引き下げた。
「ああ、すまない。少し脅かし過ぎてしまったようだ。……疲れているのかな、最近少し、色々と失敗ばかりでね」
「……貴方は?」
「うん、ああ。一方的に知っているのは、良くないね。だが、うん。名を名乗るのも、重荷になるか。そうだね、所長とだけ呼んでくれ。ここで一番偉い人だよ」
所長と、そう名乗った白衣の男。淹れたばかりの珈琲を手に、君も飲むかいと彼は問い掛ける。陶器のカップを渡されて、中に入った黒い液体をクロエは見る。
これは何だと視線を向ければ、味わうように椅子に座ってカップを傾ける所長の姿が。それを真似るようにクロエもカップに口を付け、余りの苦さと暑さに涙目となって吐き出した。
「君は、096-Eだったね。どうして、あんな所に?」
「…………」
「ああ、うん。怒っている訳じゃないんだ。唯、出入りを禁止している場所には、危ない物も多いから。理由次第じゃ、叱らないといけないし。理由次第だけど、解決してあげた方が早い可能性もある。その場合は、うん。僕が助力しよう」
「…………」
美味しいのに、と残念そうな表情を浮かべてから問いを投げ掛けて来る所長。彼の言葉に対し、クロエはどう答えたものかと思考する。
警戒の色は既にない。その上で隠す意味はあるかと思考して、出した答えは否定の二文字。明かした所で問題はなく、このまま一人で探し回った所で解決するとは思えない。故にクロエは、懐を開くことにした。
「ミレーヌが居なくなったから、探していたの」
「ミレーヌ。……ああ、君たちの担当だった。そうか、彼女は愛されていたんだね」
「優しい人だもの」
「そうか。そうか。そうか」
居なくなった担当者を探して、身の危険を覚悟して立ち入り禁止区画に入り込む。それ程に想われていた女が居た。そう知った所長は、嬉しそうに頷いた。
何度も何度も、噛み締めるような姿に嘘は一つもなかったから。クロエは思う、きっとこの人も良い人なんだろうと。信じて良い人なのだと、彼女は思った。
「それで、ミレーヌは?」
「……彼女は、うん。えっと、その、異動になったんだ」
「……本当?」
「…………そういうことに、しておいてくれないかな」
「…………」
「………………なんて、無理だよねぇ」
そして、同時に不器用な人だとも感じた。適当な言葉で飾り立て、幼子を煙に巻くことなど容易いだろうに。それでも彼は、嘘偽りを其処に含めはしなかったのだ。
「正直、話すべきではないんだけど」
「教えて。都合が悪いことなら、その後で処分してくれても良い」
「……強い目だ。その年で、そんな目をする。ははっ、僕らの罪だな。これも」
後悔するように、悔恨するように、口を閉ざした理由はきっと少女の為だ。これは知らない方が良いことなのだと、彼は暗に示していた。
けれど同時に、知って欲しいと願っているようにも感じられた。だから、だろう。強く引かない少女の瞳を見て彼は、深い嘆息を漏らした後に全てを語り始めた。
その救いようのない、真実を。
「一つ、条件だ。誰にも言わないこと。守れるね?」
「……それだけで良いの?」
「まあ、どうせ僕も、明日には言ったことを忘れるし。構わないさ」
「忘れ、る?」
「うん。この後、洗浄予定でね。……だから、そうだな。覚えておいて欲しいと、未練が出来てしまったのかもしれないね。ははっ、ほんっと罪に罪を重ねてる。地獄行きだねぇ、僕は」
力なく、空っぽな笑みを浮かべて語る。疲れ果てた表情をした白衣の男は、既に限界を迎えつつあると自認していた。だから、これは遺言に等しい言葉である。其処に、嘘偽りなど欠片もない。
「先ず最初に結論だけ。ミレーヌ君は、死んだよ。自殺した」
「……は?」
故に語られた真実は、クロエの心を深く抉った。
「ま、そういう反応になるよね。けどまぁ、事実は変わらない。彼女はもう居ないんだ」
「なんで? どうして!?」
「耐えられなくなったのさ。生きていることに、ね」
そう告げて、珈琲を口に含む所長。その苦味を噛み締める彼の前で、彼の言葉を理解したクロエが激情のままに叫びを上げた。
「何で、何でよ! 私達は、生きることさえ出来なかったのにっ!!」
どうして居なくなったのか。何で置いていったのか。居なくなってしまった悲しみと、その理由に対する怒りが心の中で荒れ狂う。何を言いたいのかも定まらぬまま、支離滅裂にクロエは吠えた。
「……ほんっと、言い訳のしようもない。ごめんね」
「謝罪の言葉が聞きたい訳じゃない! どうして、教えてよ! 私達が欲しいものをっ! 簡単に捨ててしまえる、その理由をっっ!!」
生きていられる筈だろうに。実験動物である自分達とは違い、自由な明日がある筈なのに。どうして、それを自ら捨ててしまえるのか。
分からない。理解出来ない。したくもない。そんな激情のままに荒れる少女へ、所長は静かに言葉を告げる。どうしようもなくなった、世界の今を彼女に告げた。
「……人類は、滅亡の危機に瀕している」
「なに、を?」
「前提となることさ。これを説明しないと、僕らは言い訳すら口に出来ない」
男はゆっくりと対面のソファから立ち上がると、部屋の奥にある机の引き出しを開ける。中には黒光りする拳銃と、小さなリモコンが一つ。
内の一つを取り出して、親指を動かし操作する。室内に一つだけある窓のカーテンが閉まり、対面の壁付近から機械の駆動音が響く。天井からゆっくりと姿を見せたのは、小型のプロジェクターだった。
「始まりは宙歴5950年、移民船ユートピアがやまねこ座超銀河団にて消息を絶った頃のことだ」
無地のカーテンを画面代わりに、映し出されたのは当時の光景。消息を絶った艦艇が最後に通信を行っていた、宇宙施設に残っていた記録データ。
現在の状況を報告していたかと思えば、急に怒声や悲鳴が聞こえ始め、やがて無音になっていく。誰も彼もが居なくなったのだと、察した後に聞こえる宣言。
若い男と思われる、声が己の名を名乗る。拝火教に伝わる悪魔の名乗りを上げたその男は、更に続けて告げたのだ。これは魔王の試練である、と。
「遠い遠い宇宙の彼方に、アカ・マナフと名乗る存在が現れた。物理的な肉体を持たない精神生命体。あらゆる干渉が通じない怪物が、あらゆる全てを無視して精神を持つ存在を変貌させてしまう怪物が、僕ら人類を襲ったんだ。人も色々と対策を立てたんだけどねぇ、結局結果は負け続け。大宇宙にまで発展していた文明は崩壊し、今では地球に逃げて来た少数の人間を残すのみって状況だ」
最初はそれを一笑に伏していた。人類の誰もが真面に取り合わず、果ての秘境で次々と人々が消息を絶っていたことにも気付けなかった。
宙暦16950年。プロキシマケンタウリ・コロニーの壊滅。人類が魔王の脅威を理解したのは、発生から一万年と言う時を無駄に浪費してしまった後のこと。
最早、時間が致命的に足りなかった。一星系を壊滅させる戦略兵器を使っても、既存の物では傷付けることさえ出来ない怪物。そんな存在が、刻一刻と迫っている。
それからの5561年は、敗北を続けるだけの時間であった。人類は追い詰められ敗走を続けて、既に魔王の姿は月にある。地球に逃げ込んだ人類も、以って20年と言われる時代だ。
明確な対抗策が生み出せなければ、人類はこのまま絶滅する。最初の一万年を無駄にしたことが、余りにも重く圧し掛かる。そんな状況で、それでも彼らは諦めずに足掻いている。
「僕ら第二研究所の目的は、そのアカ・マナフと戦える存在――精霊を作り上げること。でも君も知っての通り、失敗してばかり。まだ何の成果も出せてはいない」
人の悪思である魔王に対する為、星の力を求めた現政府。惑星を再生させる方法論は幾つか見付かっているが、最も重要となる星から力を引き出す手段の確立が成功していない。
人よりも動物の因子が多く、自然に近い存在である亜人。悪思に対する抵抗力の低さは、星との同化率の高さとも見做せる。故に特別な亜人ならば、理論上は精霊へと至れる筈なのだと。彼らは藁に縋るように、そんな夢物語に全てを賭けた。
「アカ・マナフは人の負の想念。それらが収束し、形を成した存在だ。だから、僕らが失意を抱いたり、絶望したり、嘆いたりすれば、アカ・マナフは強くなってしまう」
けれどそんな机上の空論に、誰もが全てを賭けられる訳じゃない。失敗続きの現状では、最初は信じていた人々さえも駄目なのではと諦め始めてしまっている。
その感情は、しかし許されるものではない。諦めや絶望は、アカ・マナフを強くしてしまう。人が悪思に負ければ負ける程、敗戦の感情が強まれば強まる程、世界は闇に閉ざされる。
「地球圏を守る為に、今も軍人さん達は戦っている。銃後の僕らが、その足を引くことなんて許されない。だから、この研究所には決まりがあるんだよ」
プロジェクターで映される映像が変わる。怒号や悲鳴が鳴り響いているのは代わりがないが、その映像は遥か昔のことではなくこの今に起きている出来事。
最前線での防衛記録。今尚最前線で戦いながら、人類全体を守り続けている戦士達の姿。所長はそれを忘れぬ為に、軍部との取引で映像データを受け取り保管していた。
「ストレス値を定期的に測定し、一定値を超過した者には薬物接種を義務付けている。負の感情を抱かない為に」
そうでもしなければ、この現実に耐えられない。諦めて、絶望し、人類は滅びに向かってしまう。そして、それだけでは心の強さは保てない。だから、彼らは禁忌に手を染めた。
「そして薬物でも誤魔化せない程に、肉体・精神面に負荷が掛かっていると判断された場合、洗浄処置を受けることになっている。……洗浄処置が何か、具体的に言えばね。自身のクローンに、研究に必要な記憶のみを転写した後に自身を処分することさ」
「……なんで、そんな。貴方達は、私達のような実験動物じゃない。人間なんでしょ!?」
「同じだよ。僕らも、君達も、共に魔王を前に追い詰められている命であることに変わりはない」
薬物を使い、負の感情を強制的に抱けない状態にして研究を続ける。それでも心や体が持たなくなれば、今の体と記憶を捨てて新しい自分を作り使う。
実験動物であるクロエ達を消費するように、研究員らは自分達自身のことも消費していた。そんな地獄を重ねなければ、何も残せず滅ぶしかないと悟っていたから。
「君達を消耗品として扱うんだ。ならば、僕らは僕ら自身も、消耗品として扱わねばならない。そうでなければ、筋が通らないだろう?」
「…………おかしい。おかしいよ、皆」
「そうだね。もうとっくに、誰も彼も、気が狂ってしまったんだろうねぇ」
クロエは思う。疲れたように笑う所長の笑顔は、壊れた機械のようにも見えると。そうするしか出来ないから。そうする以外をしてはならないから。彼らは悩みも苦しみもないのだと嘯いて、壊れながらも研究を進めているのである。
「一つだけ、僕らには君達とは違う権利がある。……死を選ぶ自由だ」
引き出しにリモコンを仕舞い、代わりに黒光りする銃器を取り出す。一世代前のハンドガンに込められた弾丸の数は一つだけ。これは自決用の物であった。
「洗浄を受けると言う義務を放棄して、自殺を選ぶことが僕らには許されている。……人が一人でも死ねば、魔王はその分だけ弱くなるからね」
「ミレーヌは、だから……」
「忘れたく、なかったんだってさ。洗浄すれば、君達を育てる為に使った技術は残るけど、君達を育てたことは忘れてしまうからね」
真実を知り、クロエは目頭が熱くなるのを感じていた。あれ程に悲しくて、これ程に泣きたくて、それでも瞳が揺らぐだけ。彼女の目尻から、涙が零れることはなかった。
「見たまえ、096-E。これが、僕らの戦いだ」
画面に映る光景は、先とは変わらぬ戦場風景。大気圏外にあるコロニー内に備え付けられたカメラの一つが、現在進行形で送っている映像。
「既に侵略された月と地球の間にある、人類の最終防衛線。今も其処で戦う軍人達は、諦めずに足掻いているんだ」
情勢は、映像越しでも分かる程に悪い。無限に増え続ける魔物の群れ。実体を持つ彼らならば銃器だけでも戦えるが、倒しても倒しても魔王が居る限りは徒労でしかない。
それでも魔物を倒さずに、接近を許せば汚染される。瘴気に犯され堕落の果てに、同胞を襲う魔物と成り下がる。事実敵陣には、昨日まで同じ釜の飯を食べていた仲間の姿もあったのだから。
「だから、僕らも罪を繰り返す。昨日殺した実験体の分だけ、今日の技術を少しでも進めて、明日に続く道を拓く。……洗浄なんて行為で逃げる僕が、偉そうに言えることでもないかもしれないけどね」
彼らは絶望を否定する。己達が死に物狂いで戦うことで、守り抜けた人々が明日に希望を齎してくれると信じている。
そう信じなければ、諦めてしまえば、これまでの抵抗が無為となるから。そんな理由があったとしても、それでも明日を夢見ていた。
「忘れないで欲しい、096-E。君は失敗作じゃない。君たちは、未来に繋がる希望なんだ」
所長は銃を引き出しに戻すと、クロエの下に近付き膝を付く。目線の高さを合わせた彼は、縋るように、祈るように、想いを紡いだ。
「僕らは、次の僕らに。そして君に、君達に夢を託す。いつか、明日が当たり前に来る日を願って」
両手で少女の肩を掴んで、どうかこの事実を忘れないで欲しいと。口にして、首を垂れて、そうして暫く――次に顔を上げた時には、最初と同じような笑顔が張り付いていた。
「……じゃ、さようなら。鍵は開けておくから、余り遅くならない内に帰るんだよ」
手を離して、立ち上がった男は身を翻す。何処に行くのか、死にに行くのだろう。洗浄と言う名の、自己の消滅。
その姿はまるで、処刑場に向かう死刑囚のようにも見えたから――クロエは何も、何も言えずに見送るのだった。
◇宙歴22512年1月1日
年明けを迎えて、研究所は静けさを増していた。この施設は明確な成果を、前年度の決算までに出せなかった。故に出資は断ち切られ、閉鎖が決定されていた。
幾つもの資材が運び出され、研究員達は慌ただしく引き継ぎの準備を行っている。精霊製造計画は大きな転換点を求められていて、人類の希望はまだ見えない程に遠かった。
(実験動物も、研究者達も、同じ消耗品とされているこの場所で――気付けば、生きている実験体は私一人)
同胞であったType-E型も、新たに作られたType-F型も、皆がもう存在していない。この第二研究所で生きているのは、クロエと言う愛称を与えられた少女一人だけ。
それは偶然ではない。あの所長が手を回したのだろう。クロエに与えられる実験や外科手術の頻度は、他の個体に比べると明確に少なかったのだから。彼女だけが残るのは、必然の結果である。
「096-E、時間です」
(これが、最後の実験。私にとって、最期の時間)
そして、その必然も今日までのこと。次の施設に引き取られることなく、クロエは廃棄が決定している。だから、これが最期の実験。飼育員に促されて向かう先で、クロエの命は終わるのだ。
(この日が来るまで、ずっと考えていた)
処刑台への道のりを、飼育員に手を引かれながら、ゆっくりと歩いて進んで行く。途中で脳裏に浮かべたのは、救いのない真実を知ってからずっと考え続けていたこと。
(ずっとずっと、考えていたのは、私の胸に宿った想い)
自問自答。己の心に問い掛ける。己の感情と言う答えは、自分の中にしか存在しないから。明日のない閉塞的な世界の中で、祈り続けていた人々。彼らを見て、何を想ったのか。クロエはそれを思案する。
(真実を知った時、思ったのは、哀しいと言うこと)
先ず最初に感じたのは悲嘆。涙を流せぬ欠陥品の少女はその現実を知り、唯哀れんだ。悲しいと、抱いた情はそれである。
(可哀想なのは、誰? 私達? それともあの人達?)
だが、それは何に対する哀れみだろうか。悲しいと、そう見下す情は一体何に向けられたものか。
(知らないままに、使い潰される。それは確かに哀れなことだけど、ある意味救いでもある。どうしようもないと知らず、羨みながら逝けるから)
それは己達、実験動物に対するものか? そうと問われれば、首を悩ませた後に肯定するしかないだろう。確かにクロエ達は、可哀想な生き物だ。
だが、真実を知った今では、完全に肯定するのも間違いだと思えてしまう。何も知らず、何も恐れず、分からぬままに死んだ098-E。彼女の生涯が哀れなものだったとは、決め付けたくはなかったから。
(知っていながら、使い潰される。それは確かに哀れなことだけど、それでも憐れむべきことじゃない。自分の意志で、使い潰されることを選んだのなら、それはきっと強さでもあるから)
ならば研究者達に対するものか? そうと問われれば、暫し口を噤んだ後に肯定するしかないだろう。確かにこの施設の研究員は、加害者であると同時に被害者でもある。
死に逃げる以外の自由がなくて、嘆いたり諦めたりすることも許されなくて、地獄の中で地獄を作り続ける悲しい人々。だが、それでも、彼らは前を見ている。それしか見えないのだとしても、それでも前を見続けていた。
ならばそれを、哀れだと見下す資格はクロエにはない。抗い続けるその在り方は、強さであるとも言えるのだから。
(そう、強さだ。それは道の途中で転んで、立ち上がることも出来ないまま、泥塗れになりながら、それでも這って進んで行くような強さ)
罪を重ねるその姿は、決して綺麗なものではないだろう。情けなくて、見っともなくて、見苦しい。汚泥に塗れたその姿は、反吐が出るとか気持ちが悪いとか、そういう言葉で否定されて然るべきもの。
悪行を続けて、地獄に多くを巻き込んで、それで願うのが当たり前の明日だ。誰かから奪い続けながら、己だけはと浅ましく願うのか。そう言われれば、否定は出来ない行いだろう。だからきっと、誰もが最期は報われない。
それでも――
(それを、哀れむ必要はない。悲しくても、哀れに思えても、憐れむことはすべきじゃない。だって彼らは、自ら選んで進み続けているのだから)
それは哀れむようなことではない。きっとそれは、強さと言うべきものだから。ならばそれを、憐れみたくはないのだとクロエは思う。そう、想っている。
ならば――己は一体、何をしたいのだろうか。
(なら、私は――)
答えを出す、その前に。一際大きな地震が起きて、第二研究所全域に警報が鳴り響いた。
「なっ!? 緊急警報っ!?」
「この反応! 魔物が此処にっ!? 前線ではないんだぞ!?」
赤く点滅する警告灯。近くの研究員達が怒声や悲鳴を上げて、共に歩いていた飼育員も戸惑い立ち止まる。そんな中で、それでもクロエは思考を続けた。
何を願うのか、何を望むのか、何がしたいのか。答えを出す為に、彼女は顔を上げる。混乱の中にあって、それでも彼らは動いている。明日に向かって、進んでいた。
「実験は中止だ! シェルターに向かって走れ!」
「逃げ込んでどうする!? 第二研究所は既に閉鎖が決まっている! 物資の搬出も、もう終えたんだぞ。籠城しても数日と持たないっ!」
「だが、それでも動かぬ訳にはいかないだろう! 黙って魔物にでもなるかっ!?」
未来は見えない。明日は暗い闇に閉ざされたまま、何処に進めば辿り着けるかも分からない。そんな中で罪を重ねて、何時か罰を受けると分かっていて、でもその日までは抗い続ける。それこそが、クロエの学んだ人の姿だ。
「貴方達は、この状況でも、諦めてはいないんだね」
「096-E。一体、何を?」
戸惑う飼育員の手を払う。答えは得た。何がしたいのか、何を為すべきか。その全ては胸の内にあり、ならば進む足は迷わない。
「どんなに泥に塗れても、どんなに手を汚しても、どんなに辛く苦しくても、それでも前に進もうとしている」
更に大きな地震が起きて、建物の一部が倒壊する。その向こう側から、顔を出すのは悍ましい姿の怪物達。万魔の軍勢を前にして、クロエは静かに立ち塞がった。
「誰も彼もが、そうではない。ミレーヌのように、大切な思い出を天秤に掛けて、歩き続けることが出来なくなってしまう人も居る。それでも人間は、前に行こうと頑張っている。頑張れる、生き物なんだ」
作られた生命は、その五年と言う短い生涯の中で学んだ。人の生き様、その足掻く姿を。彼らの本質は善ではない。人は奪う生き物だ。生きる為に、悪を為す生き物である。だが、だからこそ、クロエは想うのだ。
「なら、私もそんな風に生きたい」
悲しいと思えたのは、想うべきなのは、クロエ自身だ。失った同胞達と異なり無知では居られず、それでも研究員達のように自分の意思で進み続けることを選んだ訳ではない。
だから、哀れに想うべきは自分自身。これまでの、この今の瞬間までの、クロエと言う実験動物。それを哀れに想い、そうあるべきじゃないと感じるのならば――生きるべきなのだ。泥臭く、汚物の中を這うように、罪の多くを背負ったとしても。
「愛してくれた人が居た」
ミレーヌと言う人に会えた。クーヤと言う同胞と共に過ごせた。優しい時間が、最初にあった。それを忘れることはない。例えどれ程の時が経とうと、クロエは決して忘れぬだろう。
「希望と信じていた人が居た」
真実を教えてくれた人が居た。その縋るような、祈るような遺言をクロエは決して忘れない。本意ではなかった悪を為し、それでも救われたいと願った人々を、クロエは決して忘れぬだろう。
「今も戦い続けている人が居る」
前線で戦い続けている兵士達。研究のデータをどうにか守ろうと、何処かで抗っている第二研究所の研究員達。これより稼働を開始する予定の、第三・第四研究所の関係者達。誰もがこの絶望的な世界の中で、諦めずに歩いている。それをクロエは、決して忘れないと胸に誓う。
「なら、私もそんな風に生きたいの」
これは原点だ。やがて星の化身に至る少女が、始まりの日に抱いた想い。その答えを胸に、長き時を歩き出す。これはその第一歩。
「見付けたよ、私の答え」
悪意の群れが少女に迫る。齢5つの幼子は、背後に研究員を庇ったまま、揺るぐことなく前を見る。恐れることはない。慄く理由はない。既に答えは、その内に得ているのだから。
「憐れむべきじゃない。その強さは、悲しいものじゃない。なら、私は――愛するべきなんだっ!」
クロエの言葉と共に、その全身が淡い光を発する。瞳の色が、髪の色が、輝かしい翡翠の色へと。淡い光は徐々に色を濃く変えて、星が応えるように優しく揺れた。
「なっ!? これはっ!」
「この波長。まさか、覚醒っ!? ここにきて、何で!?」
「考察は後だ! 今は機材を! 死んでもこの記録を残せっっ!!」
背後で逃げ惑っていた研究員達が、記録装置を起動し始める。命の危機を忘れた訳ではない。命を賭してでも、為すべきことが変わったから。
そんな在り方を、愛しく想う。寄り添って、生きたいと願う。優しい母が、出来の悪い子を愛するように。そんな気持ちが、何処かから流れ込んで溢れて来る。その度に光は強くなり、そして臨界点を越えた。
「ああ、そうだ。精霊とは、星の意志と一つとなる者。星には最初から、心があった。だから――同じ想いを抱けば、私と星は一つと成れる!」
クロエがその右腕を横に振るう。それだけで大地が隆起して、空から降り注ぐ魔物達を串刺しにした。光輝く土の槍に貫かれ、魔物の体が解けるように崩れていく。
瘴気より生じた魔物は消滅し、変異した魔物は異形と化した躯を晒す。
浄化現象。世界で初めて起きたその神秘を前に、研究者達は誰もが歓喜の声を上げていた。
「土も、風も、水も、火も、この星が始まった瞬間から、今に至るまで、その全てを見届けて来た。人が生きて、人が溢れ、そして巣立った時の全てを」
崩れ落ちた瓦礫の向こう、魔の軍勢はまだまだ数え切れない程に。この物量こそが魔王が有する最大の脅威であり、ならばこの闇の最奥にクロエが討つべき敵は居る。
大地から天を見上げて、その存在を睨み付けるクロエ。対する黄金も、彼女の生誕に気付いたのだろう。空の向こうの宇宙が揺れる。闇の王は愉し気に、その時を待っていた。
「人は確かに土を汚した。星をどうしようもない程に傷付けて、宇宙の果てへと去ってしまった」
まだ届かない。まだ敵わない。一瞥だけで理解した、どうしようもない彼我の差異。それを生んでしまったのは、この星を汚してしまった人間達だ。
星の大部分は砂漠化して、大地に実りは期待出来ない。戦火の度に毒を巻かれた大気は歪み、施設の外部に装備も無しに出入りするのは自殺行為。廃棄物を垂れ流しにされ続けた河川や海は最早汚水と変わらず、狂った三大に引き摺られるように火の力も壊れてしまった。
この星はもう、人が生きていられる場所じゃない。それでも――――
「それでも、星は人を愛している。どうしようもなく駄目な子でも、優しい母が抱き締めて大好きだよと告げるように。大地は今も、人を愛してくれているから――大地の声を聴ける私は、土のように人を愛そう」
それでも、これだけの力が残っている。汚染された大気を浄化して、この研究施設に取り残された人々を守りながら、数え切れない程の魔物と戦えるだけの力はまだあるから。
さあ、進もう。諦めずに、泥の中を這うように、唯一つの答えを胸に、先頭に立って進み続けよう。全てに絶望して諦めてしまうのは、歩けなくなったその後ですれば良いのだから。
開いた大穴の向こうへと跳び出して、空を埋め尽くす魔の軍勢を迎え撃つ。荒れ果ててしまった大地の鼓動を感じながら、クロエはこの今に為すべきことを決めている。
先ずはそう、此処に居る人々を守り抜く。迫る軍勢の悉くを滅ぼした後の撤退戦だ。艱難辛苦と評するのも生温い、死線を幾度も超える羽目になるだろう。だが、それがどうした。進むべき道があるのなら、立ち止まる理由はない。
「さぁ、来るが良い。魔の軍勢。私を、誰だと思っている!」
膨大な光の奔流。溢れる翡翠の輝きと共に、幼い少女は濁った大気の中を舞う。人の作った毒により、終わってしまった星の空で。それでも人を愛した星の化身は、人を救う為に万を超える軍勢と戦い続けた。
「私はクロエ! 共に生きた者らを背負い、星の大地の声を聴く、そんな唯の人間だっっっ!!」
啖呵を切った、己自身を鼓舞するように。そんな少女の戦いは、後に伝説となる。史上初の精霊術師。そう呼ばれることになる少女は、初陣にて36名の研究員を守り抜いての撤退に成功するのだ。
その撤退戦の中で、クロエが浄化した魔物の数は20万を超える。戦って倒し切れなかった敵の数も加えれば、その三倍にも届く。それ程の偉業を為した少女の姿に人は確かな希望を抱き、そして明日を夢に見た。
彼女に夢を見た人々は、その夢に明日を託したのだ。それこそが、最終計画・神代回帰。宙歴22503年より人類救済計画の一つとして進んでいたこの計画はこの日を境に、机上の空論に等しい戯言から人類最後の希望へと変わるのであった。
【今日のまなふ様】
(しゃっ! 人類が持ち直してくれた!)
最も純粋な魔王であるまなふ様。試練とは乗り越えられる物でなければならない、と言う思想から超高難易度だが皆が必死に成れば達成出来る試練を実施。
しかし人類が悪手を打ち続け、温情も通じずもうムリポと諦めムードに突入。そんな状況で、クロエが覚醒。
これにはまなふ様も思わず、スタンディングオベーションである。




