第33話
く~ろ~ま~く~。
其処は大きな部屋だった。30畳は優に超えるであろう室内は、四方を白い壁に覆われている。されど白い部屋、と一言に表現するのは相応しくはないだろう。
床には複雑怪奇な文様が刻まれており、避けて通ろうとすれば足の踏み場もない程だ。天井は透明なガラスに覆われていて、その向こう側には水晶のような鉱石が五つ。
赤青黄緑。仄かに輝くその結晶は、精霊石と呼ばれるもの。それも、特別大きな物だ。一般に流通する精霊石は、大きくても拳大程度。だが、このガラスの向こう側にある五つの内の四色は、一つ一つが十メートルを超えている。
「何だ、こりゃ? あれ、精霊石、だよな。なのに、何で……」
「精霊力、感じないわね。ガラス越しだって言っても、普通あのサイズなら嫌でも感じる筈なのに」
それを見付けて、少女達は困惑する。異常なのは、精霊石の大きさだけではない。隔てているのは透明なガラス板が一枚だけ、だと言うのに巨大な精霊石からは精霊力を一切感じないのだ。
石自体が既に死んでいるのかと、そんな訳がないのは一目瞭然。精霊石は内に宿った力が減少すれば、物理的に質量を減らして小さくなっていく。完全に内に宿った力を失えば、跡形もなく消失すると言う特殊な物質なのだ。
故に巨大な精霊石が原型を留めている以上は、精霊力は内に宿っている筈なのである。だと言うのにガラスを挟んで、その程度の距離でさえ精霊石から受ける影響がない。
ならば精霊石に似た別の物ではないか、と言う発想も浮かぶが恐らくはそれもないだろう。ミュシャは土の眷属であり、アンジュは風と火を混ぜて雷を操る。共に精霊力と縁は深く、精霊石に触れる機会も多かった。故にガラス一枚挟んだ程度で、見間違うことはないと断言出来た。
「ガラスが特殊、なのか? それとも」
「あの中央の無色透明な石。あれが何かしてるか、よね」
戸惑いながらも推察を続ける二人の視線が、一点へと集中する。四属性の石の中央、其処に在るのは無色透明な水晶体。
四色全てから伸びる線が十字を描いた時、その中間点となる場所に浮遊しているその鉱石。粗削りなそれは、精霊石ではないのだろう。
だが、ならば何かと言われれば、ミュシャにもアンジュにも分からない。彼女たちも、見たことがないのだ。それは明らかな異常である。
これが唯の村娘が知らぬと言うなら、誰もが納得出来る話。だが彼女らは片や考古学を専攻する学者志望で、片や一流と称されるB級冒険者。その双方ともが見たことも聞いたこともないものなど、世界全土を探しても両手足の指で数えられる程度にしかないだろう。
故に二人の娘は警戒し、一人の少年はぼんやりとしたまま、彼らは施設の中央へと進んで行く。目的地は、反対側にある扉。その先にある保管庫の中身か、或いは頭上にある巨大な水晶の内一つ。回収すれば、彼らの役割は終わりとなろう。
ガラス板の向こう側に行く術は、辿って来た道の途中にはなかった。となればそれも、行く先にある扉の向こう。精霊石が消耗品である以上、交換用の出入口は存在している筈なのだ。その入口か、保管庫の扉を目指して、少年少女らは歩を進める。その途中、丁度半ばに差し掛かった時のことであった。
「な――っ!?」
「え、これっ! 動いている!? 都合良く、こんなタイミングでっ!?」
重い機械の駆動音が響いた直後、頭上の精霊石がより強く輝き出す。四色の光はラインを辿って、中央の水晶へと吸い込まれる。その透明だった水晶は、透き通った空のような色へと染まり始めた。
同時、足元に刻まれていた印が輝き始める。明らかに何かが起きると言う異常。咄嗟に逃れようとしたミュシャとアンジュは、しかし体が上手く動かないことに気が付いた。見えない何かに拘束されているのだと、思考が結論を出すより前に次の変化が起きてしまう。
「? 眩し、い、だけ?」
唯一拘束を解けたであろう少年は、しかし反射が間に合わない。それは事此処に至って尚、彼の本能が危険を感じてはいなかった為。頭上と床面の双方から発せられる光は目を開いていることさえ難しい程に明るくて、しかしそれでも一切の痛みを伴わない。精霊力を、全く感じないのだ。まるで意図して、断絶されているかのように。
「くっ、これ、このままじゃ、先ずは目を――っ!」
「あら、相変わらずね。頼れる札があると、直ぐに頼ってしまう所。悪い所よ、貴女の癖の中ではね」
光が強くなり、誰も彼もが前後左右すらも把握出来なくなった時。咄嗟に心威を発動しようとしたミュシャは、聞こえた誰かの声に躊躇する。
「……先、生っ」
「この声っ! ディアナ・プロセルピナかっ!!」
白く染まる視界の中、聞こえた声に何と返せば良いのかと戸惑うミュシャ。咄嗟に構えた剣に雷を宿して、されど何処を狙えば良いのか分からず動けぬアンジュ。
そんな二人の姿が、そして声の主が、光の中へと消えていく。強く強く強く、最後に一際強く光が輝いた。
そして、白く染まっていた視界は元へと戻り――残っていたのは、ヒビキ一人だけだった。
「え? ミュ、シャ。アン、ジュ……」
寝ぼけていた眼を然りと開いて、周囲を見回し呟くヒビキ。その姿はまるで、親に置いて行かれた迷子のように。執着する対象を探し出す。
そう、彼は執着している。あの土の聖域で、怯える己を抱いてくれた猫人の少女に。あの水晶の花畑で、己と生きたいと願ってくれた白百合の少女に。
それはミュシャの想いと違って、親愛の情ではないのだろう。それはアンジュの想いと違って、恋愛の情でもないのだろう。不確かなその情を敢えて言葉にするのなら、幼い子供がお気に入りの玩具に執着する感情に似ているか。醜悪で不健全で、それでも純粋な独占欲。
「どこ、いった、の……」
そんな思いを抱えて、少年は虚空に手を伸ばす。何処に居るのと、置いてかないでと、手を伸ばせば届くと信じるかのように。目の前で起きた出来事を理解出来ていないが故に、そうと信じることしか出来なかったから。
「La-La-La-」
鈴のような、音色が聞こえた。虚空に伸ばした手の先、届かない程度に遠い先、赤い染みが空に浮かぶ。
「アリス・キテラは偽りだらけ♪」
その染みは、まるでトマトスープの入った鍋を白いテーブルクロスの上で逆様にしたように。零れた赤い液体が、布に染み込みその向こう側へと溢れていくように。
空に広がる赤い赤いその染みは、向こう側で誰かがスープを零したのだろう。そうとすら思えてしまう程にぽつぽつと、零れた端から広がり繋がり池となる。鈴の音は、その向こうから聞こえていた。
「ドゥルジ・ナスは嘘吐き魔女よ♪」
其は大魔女。其は第三魔王。虚構を操り虚無を抱えて虚言しか語れぬ壊れた幼子。赤い髪に赤い口紅、金の瞳をした女の子。
人形のように整った容姿に、焦点の合っていない瞳。ケラケラケタケタ嗤いながら現れたのは、或いはヒビキのあり得たかもしれない可能性。
「教えてあげるわ、その嘘本当♪」
「…………」
アリス・キテラ=ドゥルジ・ナス。神籬と呼ばれた少年を苗床に、アジ・ダハーカが産まれようとしていたのと同様に。別の誰かを苗床として産まれた魔王。
アイルランドの最初の魔女。その残骸から産まれた魔王は、正しくヒビキのあり得た未来だ。再誕の痛みに耐えられず、赤子と成った果てのモノ。その関係は鏡合わせか、或いはコインの表裏であるか。似て非なるが故に、根本的に相容れない。
「……ミュシャ、アンジュ」
「おはようお休みこんにちは♪ さよならばいばいまた今度♪ ご機嫌如何とご機嫌伺い♪ 伺う窺う覗うの♪ 何処もかしこもあそこもこちらも♪ どんなに見ても見付からない♪ 一人ぼっちね、友達沢山♪ 棺を数えてさようなら♪ ないないないない何もない♪」
「煩い、黙って」
「…………」
ぎゅっと少年は拳を握る。じっと睨み付けた瞳に、返るは何を考えているかも分からぬニコニコ笑顔。口を噤んで黙り込んだ幼女を見上げて、ヒビキは僅か思考する。
その思考は単純だ。目の前から、執着している二人が消えた。その直後、アリス・キテラが現れた。ならばその二つを等号で結び付け、彼女が犯人だろうと決め付ける。
「お前、何の、心算」
「…………」
「二人を、何処へやった」
「…………」
「喋らない、の? 潰す、よ」
「…………シャベッテイイノ?」
「言え」
黙ってと言うから黙っていたのに、と僅か落ち込む赤い魔女。そんな姿に苛立ちを増しながら、ヒビキはジト目で睨み付ける。
「お喋りするのね、嬉しいわ♪ アリスはとっても無口なの♪ キテラは一杯喋れるわ♪ 嘘嘘嘘嘘どっちが嘘♪ どっちも嘘で嘘ばっかり♪」
「煩い、黙れ」
「…………」
アジ・ダハーカは幼子だ。その内面は小さな子供と同じく、そんな子供が目の前でお気に入りの玩具を奪われたのならばどうなるか。
泣いて喚いて駄々を捏ねるか? ああ、確かにそういうこともあるだろう。逃げ出して誰かに告げ口するか? ああ、そんな可能性もなくはない。
だが、アジ・ダハーカは単なる幼子ではない。その内面には他者への悪意が渦巻いていて、そのか細い腕には膨大な力が宿っている。
となれば何をするかは明白だ。奪われた事実に怒りを抱いて、その感情の赴くままに癇癪を起こす。暴れるのだ。星さえ砕けてしまう、その力を以って。
「分かった分かった理解した。お前の言葉に意味はない。お前の虚言に付き合う趣味もない。お前の生命に価値もない。だから――とっとと死ねよ、糞女っ!」
拳を握ってそれを振り抜く。溢れ出す激情を本来抑えられたであろう聖剣の封印は、悪竜の暴走と魔剣の浄化、連続して起きた異常事態で消耗したまま。
故に荒れ狂う竜の咆哮を、抑え付ける術はなく。拳が纏った黒い瘴気が、虚空に浮かんだアリス・キテラに向かって迫る。殺意の籠ったその拳は、しかしそのまま素通りした。
「あらららららら」
虚構を操る大魔女が、己の姿を嘘にして掻き消える。捉えるべき対象を失った黒きオーラは、そのまま研究所の天井に向かって突き進んで周囲を砕く。
唯一撃に耐えられず、轟音と共に壁や天井が崩れ落ちる。崩落し夜空の星が見えるようになった遺跡の中で、ヒビキは視線を動かしアリスを探す。居た、そう気付いた直後には大地を蹴って迫っていた。
「あらあらあらあらあらららら♪」
「叩いて、叩いて、叩いて、潰す。跡形もなく踏み潰して、僕の邪魔をしたことを心底から後悔させてやる。だからとっとと死ねさっさと死ね早く死ね。お前にかかずらう一分一秒、この瞬間さえ惜しいのだから! 無様に砕けて滅びろよっ!!」
ふわりふわりと宙に浮かんで、のらりくらりと姿を消しては現し消える。舞い落ちる木の葉のように、両手を広げて虚空を彷徨うアリス・キテラ。
赤い魔女が風に舞う木の葉なら、迫るヒビキは嵐の中の暴風か。大地を抉り遺跡を砕き、周囲一帯に破壊を振り撒きながら逃げる幼女を追い掛ける。
「チャンバラごっこね、知ってるわ♪ 一緒に一緒に遊びましょ♪ 二人で一緒に遊びましょ♪ 皆で一緒に遊びましょ♪」
「ちぃっ、逃げるなっ、白痴がっ!」
苛立ち紛れに大地を叩いて、大地震が北方大陸全土を襲う。何時の間にか黄金色に染まった瞳で、ヒビキは笑い続けるアリスを睨む。
睨まれた魔女は込められた悪意を認識することもなく、自分が楽しく遊んでいるのだから相手もきっと楽しいのだろうと悪意なく笑い続けている。
そうとも大魔女に悪意はない。そうしなさいと教わったから、彼女は教わった通りにしているだけ。アリス・キテラは純粋で、だからこそ厄介なのだ。
「The Queen of Hearts, She made some tarts, All on a summer's day♪」
逃げ回るアリスは、途中でくるりと一回転して手を叩く。叩いた両手の間から、零れ落ちたのは四枚のトランプ。
「The Knave of Hearts, He stole the tarts, And took them clean away♪」
スペードハートダイヤクラブ。二色四種のマークを刻んだ、四枚のカードの数字は1。四つのエースが地面に落ちると、唐突に手足が生えて起き上がった。
まるでコミカルなアニメーションのような動作で、起き上がったカードは両手で自身の頂点を掴む。ぎゅっとそのまま引き抜くと、頭部と思わしき部位が新たに生えた。
「The King of Hearts, Called for the tarts, And beat the Knave full sore♪」
手足と頭の生えたカードが、何処からともなく取り出した槍で武装する。四体のトランプ兵は各々特徴的な構えを取ると、ヒビキに向かって突撃した。
その動きは、見た目以上に早く鋭い。名のある騎士でも油断をすれば、遅れを取るであろう能力値。雑兵と一言に、侮れるような質をしてはいない。
「それがっ、どうしたっっ!」
されど魔王に挑むには、全く以って不足が過ぎる。ヒビキが手を軽く開いたまま、その鋭い爪を振るえば四枚のカードは一瞬で切り刻まれた。
一対一ではC級冒険者も危うい実力を有するトランプ兵も、魔王の一撃には耐えられない。そのまま黒い爪でバラバラに引き裂かれ、虚空に消えた直後にまた現れた。
「The Knave of Hearts, Brought back the tarts, And vowed he'd steal no more♪」
先との違いは二つ。絵柄と共に書かれた数字が2に変わり、その数もまた2枚ずつに増えている。総数8体となったトランプ兵はまたヒビキに襲い掛かり、そして瞬きも必要としない一瞬の間で引き裂かれる。そしてまた増えるのだ。
「ごちゃごちゃとぉ、数ばかりぃっ! 邪魔だぁぁぁぁぁぁっ!」
「あらららららら、あらららら♪ きゃははははははは、きゃはははは♪」
4体が8体に、8体が12体に、12体が16体に。数字が2、3、4、5と増える度に兵数もその分増えていく。鎧袖一触に蹴散らされるトランプ兵は、刻まれた数字が13を超えれば一周する。52枚のトランプ兵を倒した瞬間、それらの数字が1に戻るのだ。兵数自体は変わらぬままに。
そしてまた繰り返す。52体の1を倒せば、次に出て来るのは104体の2である。壊せば壊す程に際限なく、無限に増え続ける兵士たち。これぞアリス・キテラが好む手法の一つ、不思議の国のトランプ兵団。
「逃げて、ばかりでぇっ!」
「だってとっても楽しいの♪ だけどとっても虚しいの♪ とってもとっても愉しくて♪ とってもとっても辛いから♪ だから皆にお裾分け♪ 一杯一杯お裾分け♪ 貴方も私も彼も彼女も、皆で皆でお裾分け♪」
無数の兵を呼び出して、アリス・キテラは遠ざかる。空に浮かんでくるりくるりと回りながら、時折地をスキップで駆けるように身を躍らせる。
そんな魔女を追い掛けるヒビキの行く道を、無限に増え続けるトランプ兵が妨げる。地に落ちた果実に群がる蟻のように、襲い来る兵士の数はこの数秒で千を超えていた。
「何処へ、行く気だぁぁぁっっ!!」
力を込めて、拳を振るう。その腕の動きに追随して、巨大な黒色のオーラが飛翔する。コンクリートの壁は秒と持たず、溶けるように消し飛んだ。
されど魔女には届かない。視界を埋め尽くす程の雑兵に囲まれた中では、魔女の姿だけを正確に捉えることが出来ない。狙って打っても虚構にされて躱されるのだから、狙えなければ当たらないのも道理である。
「ちぃっ! 目触りなぁっ!」
舌打ちと共に吐き捨てて、更に増えた兵士を腕の一振りで消し飛ばす。そうして視界を開けた先、捉えた敵の姿は西の空へと。
鬼さんこちらと手を叩きながら、くるくる回る幼子は先へ先へその先へ。苛立ちを隠さぬ形相のヒビキは、深く深く息を吐く。そうして、パクリとその両肩に亀裂が走った。
「検索、幾千之魔導」
唯、追い掛けるだけでは届かない。そうとなれば為すべきは、この状況を打破する方法を探ること。悪竜王の権能を以ってして、過去現在未来に刻まれる魔術の全てが記されたデータベースを検索する。
脳裏に浮かぶ無数の選択肢。複雑な検索は慣れを要する。ましてや使用者に最適化されていないのならば尚更、ベストの選択肢を見付け出すには時間が掛かる。時間を掛けてしまえば、周囲に発する瘴気だけで消し飛んでいるトランプ兵は増え続け、大魔女は何処かへ姿を消すことだろう。
故に、検索するのは最適解でなくて良い。ベストではなくベターで十分。大量の不死兵を相手にして、問答無用で全てを根こそぎ消し飛ばせる方法を。その条件で見つけ出した魔術の内、一番最初に目に付いたものを彼は行使した。
「発動――――地表の暗黒天体!!」
両の肩に開いた口が、高速で九小節の呪文を詠唱。検索を開始してから僅か3秒、その後には術式が発動している。前方に向かって伸ばした右腕、その指先が示す先に発生したのは黒き点穴。
それは古びた掃除機の騒音を、数百数千倍に引き上げたような吸引音を生じさせながら広がっていく。爪一つ分の小さな穴が、数秒もせぬ内に拳大へと。それでも拡大は止まらずに、見る見る内に山にも迫る大きさに。
「あらららららら♪」
地表に現れたブラックホール。これは消費効率さえ良ければ、或いは禁呪に至れたかもしれぬ大魔術。その吸引力は並大抵の力で抗えるようなものではなく、トランプの兵隊達は次から次へと飲まれて消えていく。
倒されてはいない。大宇宙の何処かに生じた向こう側へ飛ばされているだけなのだから、増える為の条件は満たせない。故に次から次へと数を減らしていくトランプ兵の波に飲まれて、同じく吸い込まれながらも、しかし愉し気にアリス・キテラはコロコロ笑う。
他者から見れば絶望せざるを得ない状況でも、本人の主観では流れるプールで遊んでいるようなものである。いざとなれば嘘に変えてしまえば良いのだから、危機感などは欠片も生じない。
「ち――っ!」
対するヒビキは、苛立ち紛れに舌打ちする。選択を誤ったと感じた理由は、アリス・キテラの反応ではない。あくまでトランプ兵を処理する為の魔術であり、アリス・キテラに通用しないなど端から分かっていたことだ。
ならば魔力の消費かと問えば、それも否と返せる程度。確かに現時点でも一般的な魔術師を数百人、絞り粕に変えてもまるで足りない程に魔力を消費してはいる。されど悪竜王の保有する力の総量から見れば、そんな消費ははした金にも満たない程度。保有魔力のごり押しで、一晩程度ならこのまま続けることも可能だろう。
問題点は唯の一つ、影響範囲が広過ぎた。吸い込んでいるのは、トランプ兵や魔女だけではない。大地は抉れ木々は引き抜かれ、遺跡は砕け西方に見える要塞都市すら壊れ始めている。
暴風が何もかもを砕いて飲み干していく様は、大災害が直撃した町の跡地がまだマシに見えてしまう程に。このまま魔術を使い続ければ、大魔女より先に町の人々が犠牲となってしまう。
それをいけないと、そう思う程度の理性は残っていた。故に彼は其処で、魔術の展開を止める。トランプ兵は消せたのだから、一先ずそれで良しとした。
「あらら、あらら♪ 吸い込み吸い込む止めちゃうの♪ きゅーきゅー吸い込む楽しいよ♪ 皆で一緒は愉しいよ♪ だって一人は悲しいの♪ 涙でお池が出来ちゃうわ♪」
「続けたら、町を巻き込むだろっ!」
「あらら、あらら♪ 巻き込みましょうよ、盛大に♪ 巻き添えしましょ、静粛に♪ 一人はとっても哀しいけれど♪ 皆で死ねば、怖くない♪」
「死にたきゃ一人で死んでろ、阿呆っ!」
「あらららららら♪」
くすくす笑ってアリスは舞う。ふわりふわりと木の葉のように、直線的ではないその軌道。魔女が目指しているであろう先を見て、ヒビキは苦虫を嚙み潰したような表情で舌打ちした。
「ちっ、アイツっ! 町の方にっ!」
アリス・キテラは北方唯一の都市である、コートフォールを目指していた。ヒビキがその地を傷付けたくはないと思っていることを見破って、人質のように抑えてしまおうと――そんな意図は、魔女にはない。
「ママが言ったの、皆で遊ぼ♪ ママが言ったの、一人は駄目よ♪ だからアリスは従うの♪ だってキテラは良い子だもん♪」
言われたからしているだけ、其処に悪意や害意は欠片もない。されど魔女の内には欠片もなくとも、吸血鬼の内には悪意が溢れており、故にこの一手は実に悪辣だ。
アジ・ダハーカは、唯でさえ力を持て余している。全力を出せば星が砕けてしまう程の力を、周囲を必要以上に傷付けないように振るうと言う行為はそれだけでも困難だった。
更には聖剣と苗床の残骸に影響されて、五大魔王全てが課せられた制約による縛りも加わり、この地表では彼は本領の殆どを発揮出来ないのだ。過剰火力。星を軽々砕ける程の力など、言ってしまえばその殆どが余分である。
本来は過剰過ぎる火力を全力で振るえる場所として、五大魔王は皆自身の為の異界を有する。アカ・マナフの「金の玉座」や、アリス・キテラの「赤の回廊」などがそれだ。
ヒビキの場合も、「白の礼拝所」と言う異界がある。されどまだ卵の殻を壊せていない彼では、異界を展開することが叶わない。故に実力の大部分を発揮出来ず、アリス・キテラを仕留めるには届かない。
「だからだからねだからそう♪ アリスはお歌を歌うのよ♪」
本気を出せない。それは同じ縛りを有する大魔女も変わらないが、その事実がより重いのは悪竜王の方であろう。単純な出力自体はアジ・ダハーカの方が上であるが、万能性と言う点ではドゥルジ・ナスが勝る。
どちらも最大出力を出せないのならば、平均して出せる出力自体はどちらも上限値は同値で固定となり、優位性が残るのはアリス・キテラの側だけとなる訳だ。
臨海都市コートフォールの上空で、ケラケラと歌い始める大魔女。それを大地から見上げるヒビキは拳を握り、如何に周囲の被害を抑えながらに戦えば良いかと思考する。
獣の如く、他の被害など知らぬと暴れられれば違ったのであろうが。それでも彼は、執着を知った。己の行いで嫌われるかも知れぬと言う恐怖から、その拳は僅かに鈍り動きは精細さを失うだろう。
総じて、現状は窮地と言える。見上げて睨み付ける少年は、それでも戦うことを選択する。
対して、見下ろし笑っている幼子には戦っていると言う意識すらない。彼女にあるのは、親しい姉弟や友人同士で遊んでいると言う感覚だけ。
或いはその差異が、明暗を分けるであろうか。此処に、二柱の魔王は相対する。
ヒビキ「アリスがミーちゃんとアーちゃん盗った!」
アリス「盗ってないよ? それより一緒に遊ぼうよ!」
コートフォール「ちょっと、もっと離れた場所でやって貰えませんか?」
そんなちびっ子魔王ども。




