第30話
柔らかな風が吹いて、大地に芽吹いた草花が揺れる。青空の下に広がるは、鏡の如く色を移す透き通った湖面。
底まで見えるのではないか、そう思える程に澄んだ水が窪地を満たす。とても大きな湖の、湖畔にて彼女は意識を取り戻す。
「私、一体……」
ぼんやりとした頭は、寝起きのように思考が霞んで上手く纏まらない。倒れていた状態から、ゆっくりと上体を起こして周囲を見回す。
優しい風の音、小さな虫の鳴き声、澄んだ湖の中には大小様々な魚が泳ぎ、暖かな地面で小動物が転がっている。美しき場を見下ろす陽光は、不快にならない暖かさを齎していた。
「ここ、ソヴァーラ? でも、今の時期にこんな景色」
その景色に、少女は思い当たる節があった。聖剣の泉ソヴァーラ。暖かな季節に見たその景色と、この場所はとても似通っていた。
他の大陸よりも寒い時期が長い、北方大陸。その北部にあるソヴァーラは、一年の殆どを雪化粧で彩っている。こんなにも暖かな景色など、年に数度あるかどうかだ。
少女、アンジュ・イベールでも余り見たことがない景色。それを前にして、彼女は察する。此処はソヴァーラに似ているが、それそのものではないのだろうと。
「よっ」
そんな風に困惑していたアンジュに向かって、聞き覚えのない声が掛けられる。慌てて立ち上がった少女は、咄嗟に身構えようとして気付く。
雷招剣がない。身に着けていた銀の鎧もない。仕立ての良い青色のドレスだけを身に纏っていた彼女は、武器も鎧も見失っていたのだ。
「なっ! なんで、剣も鎧もねぇんだっ!?」
「そりゃ当然、アンタ自身が気付いているからだよ。ここじゃ、必要ないってさ」
身構えることさえ一瞬忘れて、大切な物がないことに戸惑う。そんな隙だらけの少女に、現れた少年は僅か苦笑を漏らす。
アンジュが警戒し直しながらもそちらに目を移せば、其処には整った目鼻立ちをした茶髪の少年が。敵意がないと示すように、軽く両手を上げていた。
「安心しろ、持ち込んで来てねぇだけさ。夢から醒めれば、見付かるだろうよ」
「……アンタは?」
言われたからと、素直に警戒を解く訳もなく。僅か緩める程度に抑えて誰何する。問われた少年は両手を下ろすと、腰に右手を当て名を名乗る。
「結城恭介。警戒すんのも、まぁ妥当な話かもしれないけどな。あんま硬くなるなよ、俺はお前の敵じゃない」
「それを、信じろって?」
「その辺は好きにしろよ。どちらにせよ、大差はない。なら、いっそ信じた方が得だとは思うけどな。ほら、俺の気分的に?」
「……なんつーか、変わった奴だな。アンタ」
何処か道化た態度で語る恭介に、アンジュは目を白黒とさせる。見たことのない服装もそうだが、ほんの数言交わしただけでも分かる性質。
悪意や害意はないが、飄々としているその態度。まるで掴み所のない風のような男だと、アンジュは思い少し呆れる。警戒を解く程ではないが、するだけ無駄ではとも感じていた。
「言われちゃったね、キョウちゃん」
「ま、一線を画す的な意味で受け取るさ。どんな言葉も、受け取り方次第じゃ誉め言葉になるだろ」
「それ、無理あると思うな」
そんな茶髪の少年の対面、アンジュの背後から声が聞こえる。振り返ってその姿を見て、再びアンジュは驚愕した。そちらの方には、見覚えがあったからだ。
腰まで届く程に長い黒髪に、息を飲んでしまう程に美しい容姿。少女と見紛うその人物は、恭介と同じ衣装を身に纏う。そして、月のように穏やかな微笑みを浮かべていた。
「……そっちの、お前。ヒビキ、か?」
「うん、そうだね。そう呼んでも、間違いじゃないよ。初めまして、かな。アンジュ・イベール」
龍宮響希。男女問わず魅せられる容貌をした、手弱女のような幼い少年。彼の姿に驚きつつも問い掛けてみれば、返る言葉は肯定とも否定とも付かない曖昧なもの。
「含みがある言い方だな。実はヒビキじゃねぇとか、言うのかよ」
「ううん、どうだろう。僕は龍宮響希だけど、君の知っているヒビキとは少し違う。全く違っているのかと言えば、それも違ってるんだけどね」
「……訳分かんねぇな、その言い方」
「うん。分かり難く言ってる自覚はあるよ」
「何だよ、そりゃ」
「何だろうね、本当に」
くすりと悪意なく笑っているその姿に、アンジュは調子を狂わせる。一体何を言いたいのか、殆ど理解出来ないながらも僅かに悟る。
彼は自らが知る、ヒビキではない。知っていると言える程に深い関係ではないが、それでも確かに違うと感じる。この響希には、何かが欠けていると感じたのだ。
「ま、良いや。取り合えず、此処何処だよ」
「心の中、さ。ヒビキの心、その表層が此処だ」
とは言え、それを今に問う意味はないだろう。答えを返されたとて、自分が理解出来るとも思えない。故に納得せずとも割り切って、アンジュは疑問への解を求める。
問われて答えたのは恭介だ。何時の間にか出現していた岩を椅子代わりに、腰掛けている彼が告げる。
此処は心の中である。聖剣を介して繋がった精神が、少年の内側で邂逅しているのだと。
「んで、私は戻れんのか?」
「うん。もう暫くすれば、浄化も終わる。君は戻れる筈だよ、君を待つ人達の下へね」
だから此処には、既に生きていない者も居る。この場の多くは既に死人だ。それを知る恭介は、それでも岩に腰を掛け、風のように笑う。
それを知る響希は、それでも岩肌に背を預け、月のように微笑んでいる。どちらもまるで、他人事のように其処に居る。
「浄化? そうだ、私、魔剣を持たされて!?」
「そっから記憶ねぇのかよ。じゃあ、雑に説明するぜ」
美しい湖畔にて、空色の風が吹く。草花と共に虫が空を舞い、大地を小動物が歩き回る。暖かな日差しが周囲を満たす。なのにどうして、こんなにも生きていないと感じるのか。
それは或いは、美しいからなのかもしれない。見事な写実画が、写真と大差なくなるように。この心の内にある風景は、余りに完璧過ぎる。歪みなく、悪意なく、害意なく、悪いものが不足していた。
「魔剣に乗っ取られて、魔物になったお前さん。それをヒビキとクリスとミュシャの嬢ちゃんが身を削って、如何にか助け出そうとしたってのが現状さ」
「魔剣との繋がりは、クリスさんが断ち切った。体の傷や変質は、僕じゃない僕が治した。後は、君の魂を汚染している瘴気を浄化するだけだよ」
「それも時間の問題だな。ここで暫くじっとしてりゃ、直ぐに終わるぜ」
それはきっと、現状を語る彼らも同じく。交互に音を発する彼らに、負の要素は一切見えない。
爽やかな笑みを浮かべた風のような少年も、柔らかな笑みを浮かべた月のような少年も、程度の差はあれどちらも共に欠けている。
言ってしまえば、彼らはどうにも人間臭くないのである。
「……あー、そっか。世話になっちまったみてぇだな。ありがとうよ」
「お礼は、外の人達に言って欲しいな。クリスさんに、ミュシャちゃんに、僕じゃない僕。彼らが頑張った、結果だからね」
それを察したと言う訳ではないだろう。それでも座りの悪さを感じながら、アンジュは感謝の言葉を口にする。危機に陥ったと言う自覚があれば、助けられたと言う事実は素直に理解出来たから。
そんな少女の感謝を受けて、笑みの質が変わらない少年は首を横に振る。龍宮響希は理解している。今の己と言う存在を。怯懦や恐怖と言う情も欠落している彼は、故に冷静に認識し当然の物と受け止めた。だからこそ、そんな己が感謝されるのは筋違いだと指摘するのだ。
「でも、あれだ。俺らにも感謝してるんなら、折角だし頼み事を一つ聞いてくれないか?」
「頼み事?」
「この先、泉から離れると日が落ちるんだが……その先へ、行ってみて欲しいんだよ」
そんな殊勝な響希に対し、勇者とも呼ばれたことがある少年はある種破廉恥だ。貰える物なら貰っておこうと、筋違いと察していながらも要求を通す。
図太いとも言えるその態度はしかし、月のような少年に比べると多少は人間味があるようにも思えた。感謝の情もあるのは事実で、故にアンジュは余程で無ければ従おうと判断する。
「キョウちゃん。それは――」
「なぁ、ヒビキ。これは俺らにとっても好機だ」
「でも、危険かもしれない。あの子が、どんな反応するか分からないよ」
「けど、このままじゃ、どうしようもないだろ。俺は認識されねぇし、お前は近付くことさえ出来ない。俺らじゃ無理だ。他の誰かが行かなきゃ、この状況は変わらない」
「このままじっとしていれば、帰れる子を向かわせるべきじゃないと思うんだけど」
「多分、大丈夫さ。だって、あいつも――」
「そう、かもね。……でも選ぶのは、彼女の意思でするべきだと思う」
「ああ、そうだな。結局は、俺らみてぇな残骸じゃない。未来は今を生きてる人間が、自分の意思で選ぶべきだ。けど、だからこそ、アンジュ・イベールは行くべきなんだよ」
そんな彼女の判断を揺るがせるような言葉を、少年達が応酬する。何を言っているのかは分からなくとも、何かがあるのだとは確かに分かった。
安易に決めてしまったのなら、或いは後悔するような事かもしれない。アンジュは静かに唾を飲み、そんな彼女の様子を他所に少年達の話し合いは一段落した。
そうしてから、結城恭介は地平線の先を指で差す。空に浮かんだ太陽から、離れた場所に広がる暗闇。其処へ向かって欲しいと、彼は言うのだ。
「そういう訳で、だ。アンジュ・イベール。出来れば、向こうへ進んでみて欲しい。あいつと話をしてみて欲しい」
「無理に、とは言わないよ。あの子が君を、どう想っているか分からないから。進まなくても良い。進んだ途中で無理だと思ったら、そこで引き返したって構わない」
「強要は出来ない。所詮、俺らは残骸だ。あいつの言葉を借りるなら、腐っていくだけの卵の殻。残り滓でしかない奴が、出しゃばり過ぎんのは筋が違うだろ」
話し合いの最中も、そして今に至っても終ぞ表情が変わらなかった月のような少年。ほんの僅かに悲しみながら、それでも飄々とした態度を崩さない風のような少年。
彼らの在り様に違和感を覚え、彼らの言い様に腰が引けるのは事実だ。アンジュの立場にしてみれば、此処で協力するのはライン越えだと拒否してしまうのも妥当だろう。
「あー、何言ってんのか、分かんねぇ。暈し過ぎだろ、流石によ。……けど、まあ、良いさ。義父達だけじゃない、アンタ達にも恩があるのは確かだし、このまま浄化ってのを待つだけってのも座りが悪いし、返せる所で返すとするさ」
それでも、アンジュは分からないなりに進むと決めた。後どれ程に、浄化に時間が掛かるかも分からない。何処か欠落を感じる彼らと共に過ごすのも、その頼みを聞いて危険かもしれない場所に進むのも、どちらがよりリスクが高いかも判断出来ない。ならば、己の心が納得する道を選ぶべきだ。彼女は自分の意思で、そう決めたのだ。
「おう、行って来い。……あいつに、よろしくな」
「気を付けてね。君が傷付くと、きっと沢山の人が悲しくなる」
指が差された方向へと、歩みを進めたドレスの少女。彼女を追うことはなく、その背に少年達は言葉だけを投げ掛ける。ひらひらとアンジュは後ろ手に右手を振って、迷わずその歩を進めて行った。
「おいおい、何だよ。これ」
進めば進む程に、周囲の景色が少しずつ変わっていく。最初は空の色だった。日中の晴天を思わせる空は、逢魔が時の色を経て、今では丑三つ時の真っ暗闇に。
次には大地。清浄で美しい湖畔の草原は、気付けば汚泥に塗れた毒の沼地に。まるで沸騰しているように、ボコボコと地面が沸く。跳ねる泥は鼻が曲がる程の悪臭に満ちていて、蠢く命も害虫を始めとした汚い物ばかりとなっていた。
「死臭。腐臭。そんな生易しいもんじゃねぇ。とんでもねぇ、気配だぞ。何が危険はない、だ」
息を深く吸えば、それだけで嗚咽から嘔吐してしまいそうな酷い悪臭の中。一歩進んだ先が泥道なのか、底無し沼なのかも分からない場所を進む。
暗闇の中、蠢く命は倒れる瞬間を待っているような。膝を付けば一瞬で群がって来て、骨すら残さず喰われてしまいそうな。そんな悪意に満ちた場所を進んで行く。
食べたい。穢したい。犯したい。周囲から感じる気配は、貪欲なまでの生存衝動。そう、この場所は先の真逆である。
美しいけれど生きていない湖畔に対し、悍ましいが生きているのがこの沼だ。
「――っ」
穢れた黒き沼地の最奥で、アンジュはそれを見付け出す。最奥だと気付けた理由は、其処が最も濃いからだ。臭いが、意思が、生の鼓動が最も強い場所。
その沼の中央に、ぽつんと存在している色は白。色素の抜けた真っ白な髪は長く、沼の汚泥に濡れて尚も存在を主張している。その肌は黒い鱗に覆われて、辛うじて人型だと分かる程度の異形。膝を抱えて座り込んだその腕の隙間から、覗いている瞳の色は黄金だった。
不吉の気配がする。見ているだけで、殺されてしまうのではないか。そう震えが来る化け物が居る。されどその化け物は、俯いたまま動き出そうとはしなかった。
「……何も、しねぇのか?」
「何かして欲しいの?」
思わず問い掛けてみれば、当たり前のように言葉が返る。醜い異形に似付かわしくはない、澄んだ鈴の音のような声だった。
「死にたきゃ、勝手に死ねよ。僕は何もしない。何もする気はない。だって、意味はないんだ。僕は産まれることさえ出来ずに、このまま腐って終わるんだから」
うじうじと、鬱屈したまま膝を抱えて蹲る。その総身からは怖気を感じさせる気配を放っていると言うのに、その言葉には悪意がなかった。
だから自嘲するようにも聞こえる綺麗な声が、誰のものなのか気付けたのだろう。
「……お前、ヒビキか?」
「はっ、それ誰のことを言ってるのさ」
怪物が、顔を上げる。瞳と口と髪以外、真っ黒な鱗に覆われた怪物が嘲笑を浮かべる。嘲笑っている対象は、一体何処の誰なのか。
「僕は魔王だ。僕は悪竜王だ。世界を滅ぼす、アジ・ダハーカと呼ばれる怪物さ」
「……でも、怪物なのに、私を傷付けようとはしないんだな」
「意味がないからだよ。無意味なことをする趣味はない」
顔を上げて、それでも膝を抱えたまま、怪物は空を見上げて口にする。見詰める先には、光がない。何処までも暗く黒い夜だけが広がっていて、大地との境目なんて分からない程に光がなくて、腐った臭いを孕んだ冷たい風だけが吹き抜ける。
「無駄だ無情だ無意味だ無価値だ。産まれることさえ出来ない命に、卵の殻も割れず腐っていく雛鳥に、一体何の意義がある」
この腐臭は、彼が発している物である。汚い物だけ詰め込まれた怪物は、生まれることさえ出来ないままに、殻の内側で腐り続けている。
この死臭は、彼が発している物である。臭いがするのは、まだ生きているからだ。死んだばかりは臭っても、時が経てば風化し臭いも風に溶ける。死肉は悪臭を発するが、白骨は何も臭わぬものだろう。
そうとも、彼は生きている。されどこれから、無意味に死ぬのだ。その未来は決まっていて、覆せないと諦めている。或いは覆してはいけないとすら、心の何処かで想っていたから。
「何もないよ。それが事実だ」
彼は嘆くように自嘲する。真面に産まれて来ることさえ出来なかったその身を嘆いて、そのまま滅び去るのが定めと諦めている己を嗤う。
その姿が、吐き気を催す程に悍ましいのに、可哀想だとも思えたから。
「……泣いてるのか、お前」
白百合の乙女は歩を進める。跳ねた汚泥がこびり付き、死臭と腐臭と糞尿にも似た臭いが混じる。
それでも嘔吐を堪えながら、少女はその指先を伸ばした。黄金の瞳から流れる雫を、拭い去る為に触れようと。その、瞬間だ。
「何だ、これ? 流れ込んでくる、記憶と感情」
「心が、触れた。聖なる剣の力の一つか、忌々しい」
触れられることに抵抗はなく、ただこびり付いた汚泥だけが少女の指先を穢す。されど、そんなことを気にする余裕も残らぬ程の異常が。触れた指先を通じて起きる。
聖なる剣は、心を繋げる光である。此処はヒビキと言う少年の内面世界で、繋げられた両者は剥き出しの精神体。安易に触れれば、其処から混ざる。彼らは互いの記憶と感情を、この一瞬に全て見たのだ。
「蝶よ花よと愛でられて、幸せだったんだね。小さな頃は」
アンジュビュルジュ・レーヌ・ルゥセーブル・ロスは、愛されて産まれた。国で一番権力を握っていた貴族の一人娘として産まれ、当時の王や将軍達からもその生を祝福された。
誰が名を付けるかと親達は少し揉めて、結果として名付け親と選ばれたのは空将ヨアヒム。子に触れることさえ躊躇っていた彼が、その名を付けた理由は如何なる物か。
唯、そこに如何なる意味があれ、幸福に生きて欲しいと願われたのだけは揺るがぬ事実だ。
「暗闇の中で生まれた。誰にも祝福されることはなく、その身には呪いだけが与えられた」
アジ・ダハーカは暗闇の中で発生した。神に呪われた少年の体を苗床に、貪り喰らうだけの存在だった彼の内に自我が芽生えたのは果たして何時のことだったか。
物心が付いた瞬間から、彼に向けられていたのは拒絶と恐怖の感情ばかり。どうして生まれて来ようとするのかと、憎悪と恐怖に呪われ続けた怪物。その生を、喜ぶ者など居なかった。
疎まれた事実に、頓着することは本来ならばなかっただろう。されど聖なる剣は奇跡を起こして、それは彼にとっては悲劇でもあったと言うだけの話。
「ある日唐突に失った。父親が殺されて、祖父に謂れのない罪が着せられて、家族が皆殺されて、唯一人だけ逃がされた。多くの人が、望んだから」
勇者が魔王を封印した。大魔女の襲撃を、三将軍が打ち破った。国内は荒れていたけれど、それでも未来は光輝いて見えていた頃のこと。
ある日唐突に、父が反乱を起こそうとしていると噂が流れた。事実関係を確かめる為に王国軍が派遣され、嘘偽りなど正されると思っていたのに家が滅んだ。
意味が分からない。訳が分からない。余りに急転直下な状況に、思考が纏まる前に逃げてと望まれた。
国への弁解を行おうとした祖父によって、最期までロスとして殉じると語った母によって、一家を敬愛していた侍従らによって、アンジュだけが逃がされたのだ。
「生贄となった神籬の少年。龍宮響希の全てを奪って、彼を苗床に生まれ落ちる筈だった。それが悪竜王と言う名の怪物。そうなるべく作られた貴方」
神籬とは、神の贄となる為に生まれた生命。捧げものとなるだけの存在。特別な日に生まれ、特別な家に生まれ、特異な体を有していた。だから大衆は、彼を特別な存在と捉えた。
スキルと呼ばれる異能と原理は同じだ。集合的無意識がそうだと思い込んだ時、対象となる存在に特異な性質が与えられる。
見えないモノを視て、異常なモノに求められ、喰らった相手の力を大きく底上げする。そんな存在へと、総意が変えた者こそ龍宮響希。
だから、アジ・ダハーカの器としては最適だった。無から生まれたアカ・マナフや、先史文明時代に生じたプーシュ・ヤンスター。最初の魔女を苗床としたドゥルジ・ナス。大戦の英雄を材料としたサルヴァ・ルドラ。他の四柱の魔王達をも超える存在として、神の贄より生まれたアジ・ダハーカは君臨する筈だった。
「逃げる日々の中で、君は知ったんだ。己を逃がした家族や、使用人達の末路を。拷問の果てに瘦せ衰えた使用人たちや、凌辱の限りを尽くされ壊された母親。愛してくれた人々が、無残な形で晒された。公衆の場で、断頭台の刃が落ちるその瞬間。それを君は、確かに見ていた」
正しく生きようとした人は、しかし正しくは生きられなかった。町の広間で晒されて、傷付いた家族が首を刎ねられる瞬間を少女は見た。
父が守ろうとして、父を敬愛していた筈の領民達。彼らは顔に悪意を貼り付けて、刑場に向かって石を投げた。晒し首を前にして、やったやったと喜ぶのだ。
そうして少女は、町を追われた。供をしていた者らは、一人一人と追手に打ち取られた。途中で頼った人々は、同じく切り捨てられるか、或いは少女を裏切り売り飛ばそうとした。
涙さえ枯れ果てそうになる日々の中、故郷を追われた少女はそれでも生きた。生きて欲しいと、望まれたから。
「龍宮響希は、貴方を拒絶した。大切な物を抱えて、渡しはしないと抗い続けた。だから貴方に与えられたのは、彼が嫌っていた部分だけ。心の弱さ。諦め癖とか泣き虫な所とか、意気地がない所とか自信がない所。そんな嫌いな物ばかり押し付けられて、綺麗な物は貴方の手から遠ざけられた」
苗床とされた少年は、己の内から生じた己を喰らう怪物を恐怖した。様々な記憶すらも喰われる日々に涙して、これだけは渡さぬと綺麗な物を自分で抱えた。
大切な思い出を支えに、何度も何度もそんな日々ばかり思い出し。悪竜には自分の嫌いな部分ばかりを押し付けた。どうせ失うのならばこちらを喰えと、そういわんばかりに彼は耐え続けた。
自我も希薄だった悪竜は、言われるがままに穢ればかりを喰い続けた。どうせ最後は、全部腹に納まるのだと。ならば順序に、意味などないと言わんばかりに。
「君は全てから逃げるように、遠く遠くへ走り続けた。それで死んでも良いのだと、それでも死ぬのは怖いのだと、選ばず逃げ続けて救われた。家族を求めていたスラムの少女に拾われて、父の仇であった筈の人に救われて、また暖かな場所を取り戻した」
生きてと望まれた少女は、気付けば一人になっていた。蝶よ花よと愛でられていた頃には、考えもしなかった日々を過ごす。ゴミを漁って残飯に食い付き、同じ貧民に襲われては逃げ惑う。
路地裏で鼠のように震えて、眠りに就けばもう目覚めないのではないかと言う日々。そんな生活の中で、ある日同じ孤児に出会った。今も姉と慕う少女に拾われて、彼女に守られながら過ごした一年にも満たぬ時。
その果てに、父の親友だった男に二人揃って拾われた。アンジュは彼の養子となって、姉のような少女は力を求めて男の弟子となった。
余りにもあっけなく崩れた幸福だった日々は、そうやって余りにもあっけなく少女の下へ戻って来た。
「遠ざけたって、いつかは全てが糧となる筈だった。所詮は順序が変わるだけ。全部奪える筈だったのに、聖なる剣が奇跡を起こした。奪い尽くせなかった綺麗な物は、そのまま殻と残ってしまった。食べ尽くして、食べ終わったら忘れてしまう。その程度の筈だった嫌な部分は、貴方の内に残って貴方自身を染めてしまった」
悪竜が全てを喰い尽くす前に、龍宮響希は聖なる剣を見付け出した。其処に残った結城恭介の残滓が、喰われようとしている少年を救おうとして奇跡を起こした。
結果として、アジ・ダハーカは残った響希を食べれなくなった。先に取り込んだ筈の感情もまた、途中で消化出来なくなった。本来は唯の糧となる筈だった感情が、悪竜の心を染め上げた。
龍宮響希が、嫌だと思った部分。気弱さだとか、泣き虫な所とか、そうしたものだけが今のアジ・ダハーカを作り上げた。悪い部分しかなくて、そんな自分を嫌う感性だって影響された。
だから、彼は己を嫌う。こんなのは嫌だと叫ぶのだ。
「こんなの、僕じゃない! こんなに弱くて、こんなにみっともなくて、こんなに醜い奴なんて、僕じゃないっ!!」
どうしてこんな風に産まれたのか。どうしてこんな様なのに、真面に産まれることも出来ないのか。
アジ・ダハーカは自分が嫌いだ。龍宮響希も嫌いだし、他の全ても全部嫌いだ。そんな風に何もかも、嫌うしか出来ない己が醜いとも思う。
だから泣きたい程に情けなくて、なのに何も出来ないままに死ぬしかない。何だこれはと、諦めるしかない事実を前に彼は叫ぶ。
「情けないって、どうしても思ってしまうの。怒りも憎悪も確かにあるのに、それでもこの暖かさに溺れてしまいそうになる。もう止まっても良いんじゃないかって、思う度にあの断頭台の光景を思い出す」
どうしてこんなことになったのか。アンジュ・イベールには答えが出せない。彼女は今までの人生で、流されていただけだったから。
選んだ訳ではない。選んだ訳ではないのに奪われて、気付けば取り戻していた幸福。
もう溺れてしまえば良いと思っても、その度に家族の最期が脳裏を過ぎる。ならば憎悪のままに復讐を望むのかと言えば、それで全てを捧げられるような決意も出来ない。
己が動けば、己を助けてくれた人達が不幸になる。そう思ってしまったら、アンジュには何も選べなかった。
「だから、壊してやろうと思った。卵も、剣も、全部、全部! 全部、壊れてしまえば良いっ!!」
「選べない。復讐の為に全てを燃やし尽くすことも、全て忘れて幸せに生きようとするのも、どちらも選べないでいる。私は中途半端な女だね」
「目が覚めて、暴れることが出来るようになって、なのにミュシャは言ったんだ! もう少し寝てて、って。寝てたら僕は、腐って死ぬだけなのにっ!! 卵の殻が壊れる時に、産まれることも出来なかった僕は巻き添えになって消えるんだよっっ!!」
「じくじくと痛む。選べないままで過ごす内に、傷口は癒えずに腐っていくんだ。そんな気がしている。どうしようもない奴になるんだって、そんな気がいつもしていたの」
そんな彼も彼女も、自分では何も出来ない状態だった。何も選べず、何も出来ないまま、腐って死んでいくのだろうと。両者は、そんな諦観に苛まれていたのだ。
それが分かる。それが伝わる。千の言葉を交わすより、万の時間を共に過ごすより、この一瞬の触れ合いは濃厚だから。心を繋げた二人の想いは、一度同じ結論へと至る。
「もう嫌だ。何だよ、これ。誰がこうしてくれって、頼んだよ」
「うん。もう、嫌よ。こんなの、辛いだけだって。心の底から、そう思う」
盛大に喚き散らしてから、抱えた膝に顔を埋めるアジ・ダハーカ。悪竜王と言う呼び名が不釣り合いにも思える程、今の彼は小さく儚い。そうとも彼は、弱さしか得られなかった幼子だ。
そんな彼の傍ら、触れられる程の距離でアンジュは腰を下ろす。汚泥が青いドレスに染み込み、不快な感覚が体を犯す。それさえ差して気にせぬまま、アンジュ・イベールはこう語るのだ。
「けど、そうね。そう思うのは、私だけじゃないのよね」
死ぬのは怖い。けれど、生きているのもまた辛い。決められないのは嫌だ。けれど決めるのだって怖いのだ。
だから何処にも行けなくて、だから何にも成れなくて、だから意味も意義もない。そんな中途半端を抱いているのは、自分だけではないのだと。
アンジュは確かに知ったから、もう一度、寄り添うように体を傾け、怪物の頬へ手を触れた。
「祝福されなかった貴方。私は貴方を知りました」
そうしてゆっくりと、その手に力を籠める。無理をさせないように気を付けながら、優しく彼の動きを導いた。
「産まれることさえ出来ない貴方。私は貴方を知りました」
怪物の顔が、その掌に導かれて傍らを視る。顔を上げた彼は金色の瞳で、しっとりと見詰める少女の青い瞳を見た。
「これは、哀れみなのかもしれない」
彼の姿を始めて見た時、少女の内に宿った色は哀れみだ。可哀想だと、見下す情が其処に生じた。それが今もあるのだと、言われてしまえば否とは言えない。
「これは、同情でしかないのかもしれない」
互いの心が触れ合って、互いの記憶が交わった。混ざり合った感情と言う熱に浮かされて、冷静な思考が出来ていないと指摘されれば確かにそうだと返すだろう。
「これは、傷の舐め合いでしかないのしれない」
今も触れる指先から、見詰める怪物の心が伝わる。ならばそう、語る少女の想いも彼に伝わっているだろう。信じられないと瞳を揺らしたまま、それでも見詰め返して来る彼へ。
「それでも私は、貴方を知ったわ」
哀れみか、同情か、傷の舐め合いか。そんな定義に、見極める意味もない。胸を焦がすように、小さな火種が芽生えている。
乙女チックな思考であるが、彼女は彼を特別だと捉えている。救われ、触れ合い、至った今と言う状況に価値はあるのだと想いたい。
嗚呼、端的に言ってしまえば、こう言うべきだ。少女は怪物に、恋している。この胸を焼くような感情は、そうとしか言い表せない物なのだ。
「……だから、何? 僕も君を知ったけど、知った所で何も変わらないだろ」
「うん。そうね。何も変わらない。私達を取り巻く現実は、何一つだって変わってはくれない」
「なら、意味がない。何も変えられない相互理解に、一体何の意味がある」
愛ではない。静かに尽くすような情ではなく、勝手に燃え上がるような暴力的な物。それを向けられて、怪物はあり得ないと戸惑う。一体どうして、こんな汚物を想うと言うのか。
理解が出来ない物は怖い。意味が分からないから遠ざける。悪意ではない、真っ直ぐな強い感情。アジ・ダハーカにだけ向けられた、初めての感情。それから逃げるように、怪物は言葉を紡ぐ。
何を想おうと、現実は何も変わらない。ならば其処に、意味などないではないかと。
「ねぇ、ヒビキ。意味って、必要なのかな?」
「は?」
けれど少女は、その言い分を否定する。触れる頬から手を離すことはなく、見詰め合う瞳を揺るがせることもなく、彼女は此処に告げるのだ。
「私も貴方も、生きてるでしょ。意味がないとか、価値がないとか、悩んだって、生きてるでしょ」
「…………」
「それだけは、変わらない。何を想ったって、今ある事実は変わらない。現実は何一つ、変わってなんかくれないの」
告げたのは、怪物の言葉の否定ではなく肯定。意味はない。何も変わらない。その言い分を確かに認めて同意して、けれどだからどうしたと少女は言葉を続けるのだ。
「遺族の仇を討つべきなのか、家族の願いを叶えるべきか、悩んで迷って中途半端な無様を晒してばっかり。直ぐにかっとなっては利用され、自分の情けなさや無力さを悔しく思って、それでも生きてる。生きて、いるんだよ」
「……何が、言いたいの?」
目が離せない。何が言いたいのか分からないし、その在り様が理解出来なくて恐怖すら抱いているのに。それでも怪物は、目を離せない。そんな強さは、彼にはないから。
「私は今、生きている。生きて、此処に居る。それは、貴方もそうでしょう?」
彼らは共に中途半端だ。自分の生きる道さえ選べずに、何も出来ない日々の中で腐っていく。それが死に直結しているか否か、選ばないのか選べないのか、違いなんてそれだけだ。
「産まれてないって貴方は言うけど、でも貴方は今此処に居る。なら、貴方も確かに生きている。生きて、此処に居るの」
中途半端で、そんな自分が嫌いで、それでも彼らは生きている。産まれてないと語った所で、今此処に確かに居るのだ。ならば生きているのだと、断言出来る筈だろう。
「生きているのなら、嫌でも歩いていくことになる。迷ったまま、歩いていくの」
時は待たない。生まれ落ちた命は必ず、終わりに向かって歩き続ける。或いは流れに押し負けているだけだとしても、それでも進むのだ。
「生きているのなら、嫌でも進まないといけない。悩んだまま、進んでいくの」
泣いて、喚いて、膝を抱えて立ち止まって居たのだとしても、時は無情に進んでしまう。生命が辿るその道を、歩かなくても進んでしまう。
「中途半端でも、生きていく。生きて、此処に居るから。その最期まで、生きて行く」
だから、そう。答えが出せないままに進む。悩み続けたまま生きる。その果てに、悟りに至れぬまま、無様に腐って死ぬのだとしても。
それでも未来は続いていく。其処に意味もなく、其処に意義もなく、けれど其処に生きる人にとっては、或いは価値が生まれる余地はあるのだろう。
「私は、きっとそう生きる。だから、その、上手くは言えないんだけど」
だからアンジュは、迷ったままで良いのだと認めて欲しい。
だからアンジュは、選べなくて良いのだと受け入れて欲しい。
だからアンジュは、それでも幸福になりたいのだ。
そんな言葉にすれば身勝手で、情けないにも程があるその物言い。けれど偽りのない本心で、だからアンジュは彼にもそう言葉を掛けたい。貴方もそれで良いのだと、彼女はそう言いたかった。
「私は貴方とも、そう生きたい。貴方と共に、生きていたいの」
中途半端のまま、腐り果てるように生きていく。傍から見れば、無様で醜いと評されるであろう生き様だ。馬鹿にされて、見下されて、意味などないと言われる人生だろう。
けれど其処に、寄り添う誰かが居たのなら。その生き方を、許してくれる人が居るなら。傍から見れば、意味も意義も価値もない生だとしても。
きっと幸福だったのだと、最期の瞬間には笑えるだろう。
支離滅裂で、上手く纏まっていないアンジュの言葉。されど二人は今、心を剥き出しとしているから。触れ合う手の熱を介して、その意図する所は確かに怪物にも伝わっていた。
「……軽くない? 初対面よりマシ程度の関係でしょ。僕たち」
「そうかな。だって、今、私は貴方を感じているよ。こうして触れた、手を介して。私は貴方と一つになってる。貴方だって、そうでしょ」
「…………」
「これが聖なる剣の力。心を繋ぐと言う、本当の意味。貴方の過去や、貴方の想いが私に繋がる。私の過去や、私の想いも貴方にきっと届いている」
少女の告白を、馬鹿にするように嗤う悪竜。その怪物の物言いだけは斜に構えたものだが、触れ合う熱から伝わる情は隠せない。
アンジュは擽ったそうに笑いながら、伝わっているよと彼に伝える。鱗に覆われた怪物は、色さえ読み取れない顔を背ける。その態度こそ、分かり易いものだった。
「なら、さ。きっとこの一瞬は、数万回のデートにも勝る。お互いを最も、知れた一瞬なんだと思うな」
「脳みそメルヘンかよ。乙女趣味も大概にしておけば良いのに」
「でも、分かり合えていることを、否定はしないね」
「…………」
怪物が背けた顔を、アンジュは両手で挟んで動かす。目を逸らすのは許さないと、見詰められた彼の瞳に宿った色はもう恐怖じゃない。
分からないし、理解出来ない。意味不明だとは今も思っているけれど、その暖かな熱は確かに伝わっているから。恥ずかしいとか、擽ったいとか、そんな感情ばかりが瞳に宿る。
単純に、彼は慣れていないのだ。呪われて生まれて来た彼は、望まれることがなかったから。憎まれ拒絶され続けた彼は、受け入れられることがなかったから。どう反応すれば良いのかさえ、分からず戸惑い続けている。
「分かり合ったからって、何だって言うのさ。君が卵の殻を砕く、手伝いでもしてくれるの?」
だから拒絶するように、彼はどうしようもない事実を告げる。
「だとすれば、君は大悪党だ。世界は滅ぶね、だって僕は魔王だもの」
アジ・ダハーカは怪物だ。悪なる神が、世界を試す為に用意した敵の一つ。その役割に抗う強さはなく、世界へ向ける情も薄い。そんな怪物が自由になれば、世界は応とも滅ぶだろう。彼は滅ぼす為に動き出す。となれば、それに加担する者など稀代の大悪党である。
「そうじゃないなら、さっさと帰れよ。腐って死ぬだけの雛鳥なんて、見てても楽しくないだろう」
恋を語り共に生きたいと願うなら、全てを滅ぼす覚悟を決めろ。そうでないなら、さっさとこの地を立ち去れば良い。
既に少女の魂は浄化されている。もう何時だって、望めば現実に戻れるだろう。だからこんな怪物など、忘れてしまえと嗤って言う。
それはきっと、想いが伝わっているから。初めて、暖かな物を得たから。同じものを返そうと、望んだ彼の精一杯だ。
「言ったでしょ、私は中途半端なんだ。選べるなら、こんな無様は晒してないよ」
「……それ、胸張って言うこと? 胸、ないけど」
「あるわよ! 触ってみるっ!!」
けれど少女は選べない。此処で選べるような女なら、そもそもこんな無様を晒してなんかいない。だから胸を張って言うアンジュに対し、悪竜は半眼となって詰る。触れ合うような距離感で、彼らはじゃれ合うような言葉を交わした。
「……そういうの、嫌いだ」
「うん。伝わってる。元々、二次性徴もしてなかったんだよね。発達障害で、男性としての機能が育たなかった」
「それは響希の方。性的なことを、汚いと思ってるのはアイツ。魔物は、人を犯して苦しめるのも趣味の一つだ」
「でも、貴方も影響を受けている。だって魔物なのに、そういうのは嫌いなんでしょう?」
「…………」
下世話な話は嫌いだと、口にすれば揚げ足を取られる。むすりと頬を膨らませて、悪竜がそっぽを向けばアンジュは再び手を動かした。
息が掛かるような距離で、触れ合いながらに見詰め合う。真っ直ぐな青い瞳を熱で浮かせたまま、金髪の少女は悪しき怪物へ告げるのだ。
「中途半端のまま、生きよう」
本気の熱が、触れ合う掌から伝わり合う。千の言葉よりも、万の時間よりも、遥かに濃くて重い意思が通じ合う。
「無価値でも良い。無意味でも良い。他の誰もが許さなくても、私はそれで良いと許したい。それで良いと、君にも許して欲しい」
「……傷の舐め合い」
「そうね。けど、それが何か悪いのかしら」
「健全ではないよね。普通は悪いって、言われるようなことだよ」
「かもね。けど、それでも別に良いじゃない」
意味が分からない。それでも、分からないなりに理解したいとは思う。
理解が出来ない。それでも、受け止めたいとは思えている。
だから、怪物も――ヒビキも確かに視線を返す。そう、彼がヒビキだ。表に出ている時は、意識は曖昧になっていて、二つの残滓が混ざっているけれど。誰がヒビキかと言えば、彼こそが今のヒビキであるから。
「産まれれば、僕は世界を壊す」
「うん」
「このままだと、何も出来ずに腐って死ぬ」
「うん」
「中途半端は、いつまでもは続かない。どこかできっと、選ばないといけない日は来る」
「だけど、その時まではそのままでも良い。そのままで良いんだって、貴方だけは許したい。貴方だけには、許して欲しい」
熱の籠った瞳を見返す。恋とか愛とか、理解出来ない物を抱えた女。彼女の瞳を見詰め返して、ヒビキは笑って罵倒した。
「……尻軽。脳内花畑。乙女趣味の夢想家女」
浮かべていたのは、嘲笑の色ではない。それは空色の風にも似ていて、そして柔らかな月にも似ている。そんな爽やかな笑顔であった。
「ま、そんな女の方が、腐って死ぬだけの成り損なった蜥蜴には相応しいのかもしれないね」
「ヒビキっ!」
「……くっつかないでよ、うっとうしいな」
触れた掌を離して、全身を使って抱き締める。ゆっくりと沼地に倒れ込み、悪臭に塗れることさえ気にせずに。触れ合う微熱が、今の二人にとっては全てであったから。
「好きにすれば良いよ。僕も、好きにするからさ」
「うん。好きにする。だから、これは、その意志表明」
息が掛かる程の距離から、少女は一歩を前に踏み出す。唇が触れ合って、数瞬で離れた。頬を赤く染めたまま、白百合の乙女は最後に告げる。
「私は貴方が、大好きです」
それは一時の熱情に過ぎないのかもしれないが、それでも今は――確かに刻まれた、強い想いであったから。
彼女がそれを告げると同時に、世界はゆっくりと解けていく。目覚めの時が来たのだと、気付いてそのまま流される。
辛いばかりの現実も、何れは訪れる恐ろしい未来も、今は、今だけは、恐れる理由がなかったから。互いに笑顔で、その夢は終わりを迎えたのだった。
◇
そうして、彼女は現実へと戻る。異形と化していた黒い鎧は既になく、人形のように美しい容姿を取り戻したアンジュ・イベール。
同じくその目の前に居るのは、精神世界で出会った彼とは異なる姿の少年。鱗はなく、白い髪に光彩異色の瞳をしたヒビキ・タツミヤ=アジ・ダハーカ。
「…………あー」
「あー?」
「くっそ、恥っず!? 何言ってんだよ、私っ!?」
「???」
「忘れろよ! いや、それはそれで何か悲しいっていうか寂しいって言うか! あー、もうっ!?」
「??? アンジュが、壊れ、た」
剥き出しの精神は、全てが伝わる状態だった。だから恥じらいなどもなかったが、こうして振り返ってしまえば正気に戻る。
肉の器に守られて、男勝りな口調を演じる。そんなアンジュ・イベールと言う名の少女は、何処までも素直になれない女であったから。
「はぁ、無事に終わった感じ、かな。はは、いやぁ、おじさん完全敗北。気分が良い、負けっぷりだよ。これは」
月明りが照らす花畑。その中心で向き合って、恥ずかしそうにしている少女と首を傾げている少年。
見守る男は安堵の余りに腰を抜かして、心の底から溢れる心地良い敗北感に身を委ねる。これで良かった、と。
「何か、物凄い敵を生み出した気がする。お姉ちゃんは、認めないわよ!」
30秒と言う短い時間では、途中までしか視えていなかった猫人の少女。彼女は現状に危機感を抱き、距離の近い彼らの下へと走り出す。
アンジュが抱いたのが恋と言うべき感情ならば、ミュシャが抱いているのは家族愛にも似た情だ。方向性が異なるからには、共存出来なくもないがそれはそれ。まだ弟に恋愛は早いのだと、姉を自称する少女は大地を駆けた。
「無事ですか、先生っ!?」
「そっちも無事、だったようだね。シャルちゃん」
そんな場所へ、遅れてやって来たのは騎士装束の女性。傷だらけだが命に別状はないシャルロットの姿に、クリスは更に安堵の色を深めて返した。
「あ、ええ、はい。正直、不覚を取りましたが、あと一歩の所で夢幻のアダムが退いたので何とか」
「そっか、となるとこの絵図面も、あの吸血鬼の思惑通りかもしれないな」
「……それは、不味いのでは」
「うん。そうだね。何が不味いのか、分からないのがかなり不味い」
彼女から聞いた言葉を受けて、僅かクリスは思考する。現状は恐らく、吸血鬼ディアナ・プロセルピナの掌の上だ。
未来が視えると言われ、不死身に近い肉体を持つ、悠久の時を生きた四番目の大魔獣。搦め手や暗躍において、右に出る者は居ないだろう。
その思惑が、如何なる結果に結び付くのか。不安はあるし、想像も付かない。だが、其処まで考えて、クリスは思考を切り替えた。
「でも、さ。この景色を、悪いものだと思いたくはないんだ」
何故ならば、目の前の優しい時間は、決して悪いものには思えなかったのだから。
「このアマ! ヒビキから離れろ~っ!」
「うぉっ!? ミュシャ!? いきなり何しやがるっ!?」
「近いんじゃぁっ! お姉ちゃん、不純異性交遊は許しませんよ!」
「ふ、不純異性って、そんな、私は、まだ」
「まだ!? まだとか言いやがったっ!? あざといかよ、貴様ぁぁぁぁぁっ!!」
花畑を転がりながら、キャットファイトを始めた少女達。何をしているのかも分かっていないヒビキは、無表情のまま小首を傾げ続けている。
恐らくはこの先、日常になるであろう光景。そんな中でふと少年は、何故だか何かを言いたくなる。それはきっと、寝惚けていても、確かに刻まれた想いであろう。
「ん。ミュシャ、アンジュ」
「がるるるぅ。……ん、ヒビキ?」
「犬かよ、猫だろ。……って、何だよ?」
犬のように吠える猫人と、半眼になっている白百合。二人は声を掛けられたことに気付いて、彼に向かって顔を向ける。そうして、一瞬、驚きで目を大きくした。
「一人じゃない、って、良いね」
常の無表情ではない。爽やかな空色の風のように、優しい月の光のように、美しい少年は笑っていた。
だから、ミュシャとアンジュの二人も笑顔を返した。月夜の下で風に舞う、水晶花のように輝かしい笑顔を。
悪竜王なヒビキ君は意志が弱いので、その場で必死に頼まれたら流されちゃうタイプ。
ついでに精神的にも未熟なので、自分で選んだことでも後悔するし、誰かの所為にもしてしまう。
それでも自分が悪いということは分かっていて、認められないだけだと言う自覚もある。
だからどうしようもない奴ではないのだが、情けない奴なのは本人にも否定出来ないと言う話。
因みにヒビキが聖剣を入手したのは第1話の後から第2話の前、崩れた岩場から外に出たヒビキはキョウの残留思念に導かれる形でソヴァーラへ行き、そこで成り果てる前に聖剣を手に入れていた。




