第3話
ポンコツ竜と守銭奴猫とチンピラ狼。
北方大陸は臨海都市より凡そ30キロ程北上した先、そこから大きく広がるはシャーテリエと呼ばれる大森林地帯。
総面積は250万平方キロメートルにも及び、北方大陸の三分の一を占める程には巨大な森林。殆どの時期を雪化粧で過ごすこの森には、嘗ては精霊の王が座していたと言われている。
そんな森の南端近くに一人、男が焚火で鍋を煮ていた。鉄の鍋で大雑把に、如何にも男の手抜き料理と言った具合で作る。そんな作業を面倒そうに、しかし手早く熟す男の見た目は特徴的だ。
短く刈り上げた黒髪に、彩るような白髪のメッシュ。目付きの鋭い顔立ちは整ってはいるが、右の頬を覆う程の火傷痕で崩れている。そんな男の頭には、犬科を思わせるような黒い耳が付いていた。彼は狼の亜人である。
(一人、いや、二人、か。近付いて来やがるな)
獣の耳を小さく揺らして、近付いて来る音と気配を逃さず捕える。唯でさえきつい目付きを更に鋭く、歪めて思うは気配の主らに対する予測と推測。
一人は女。足音から推測した歩幅と発する生命力の質から考えて、己と同じく亜人であろうか。余り重心が安定していないこと、生命力の総量を感じる限り敵対されても脅威ではないと判断する。敵避けの結界が反応しない事からも、敵意も皆無なのだろう。だが……
(結界への反応はねぇ。気で探っても、怪しくはねぇな。……だが、どうにも一人、読み難い奴が居やがる)
もう一人、音から察するに子どもであろうか。重心の安定してなさは、恐らく同行者の女以上。或いは以下と言うべきか、普通に歩くのさえ下手だと言えよう。歩行技術は一般人のそれ以下で、ならば体術もその程度と予想が出来る。
だがしかし、己の直感が警鐘を鳴らすのだ。気配の感知を行おうとしても、どうにも底が暴けない。その力の総量は膨大で、己のそれを比較にしても計測出来ない。この感覚を男は確かに知っていて、だからこそ警戒心は強くなる。
(読めない気配。この感覚は、あの人と同じ。山の麓から山頂を覗こうとしても見えねぇように、でかすぎて判断が出来なくなってる。……ちっ、このガキ、陛下とどっちが上だ?)
男が知る限りにおいて、人類種の頂点だと断言出来る人物。それと比べてすら、どちらが巨大か分からぬ膨大過ぎる力を内包した存在。気配の感知は、近付いて来る誰かをそう捉えた。
音が示すのは、一般人以下の子どもであること。気配が示すのは、己の知る最強に比する存在感。その差異が大き過ぎるからこそ、男は正確な判断を下せないと舌打ちする。その困惑を抱えたまま、近付くそれらに声を掛けた。
「んで、お前ら、誰だ?」
「あ、あはは、私たちは怪しい者じゃないにゃん」
「お鍋」
森の草木を掻き分けて、出て来たのはヒビキとミュシャ。食べ物の匂いに釣られている少女のような少年に、男は毒気を抜かれてきょとんとした。何だこいつは、と混乱し切っていたのである。
対するに少年の連れである少女もまた、男と同程度には混乱していた。そこには恐怖の色も混じっている。何故ならミュシャは、男の名を知っている。彼は世界規模で指名手配されている、凶悪犯罪者であるからだ。
(狂狼!? 金貨200枚の高額賞金首が、何でこんな所に居るの!?)
狂狼のリアム。中央大陸は聖教会より、枢機卿殺しの罪で追われている男。平民の平均年収が金貨3枚程度と言えば、200枚と言う金額がどれ程の物か伝わるだろうか。
更に言えば、この男が手配されたのは今より六年も前のこと。聖教会は中央大陸どころか世界全土を見回しても、一・二を争う程に巨大な組織。それに追われ続けて今も尚、平然としている程の実力者なのだ。
「は、俺を知ってるって面だな。手配書でも見たかよ、教会の回し者って感じじゃねぇしな」
「お鍋」
食欲に負けた少年に混乱していたリアムは、己の姿を見て怯えるミュシャの様子に冷静さを取り戻す。そうした反応には慣れていると、偽悪的に笑ってみせる。
「にゃ、にゃはは。お姉さん、敵対する気はないわよ。お金は好きだけど、これ以上敵を増やす余裕はないもの」
「ま、そっちが手出ししなけりゃ、こっちもやる気はねぇよ。雌猫一匹縊り殺すのは手間でもねぇが、そのガキはどうにも底が見えねぇ」
「お鍋」
諍いを避けたいのは、この場のどちらにも言えること。互いに優先するべき目的があって、同時に互いが敵対するには厄介だと断じる理由を有している。ならば此処での開戦は起こり得ない。
「空のような左目に、濁った血のような右目。その面見ただけでも、どんだけやべぇか分かるってもんだ。余裕があれば底を暴いてみるのも悪くはなかったが、片手間でどうこう出来る代物じゃない」
「……その心は? 学者志望のお姉さんとしては、高額賞金首さんの見立てが気になるにゃん」
「は、俺を批評する気かよ、雌猫風情が」
「お鍋」
「あー、いい加減うっせぇな。分けてやっから、暫く黙って食ってろ」
「!」
「あ、お姉さんにも頂戴にゃん」
「……作り過ぎてたから良いけどよ。割りと図太いな、テメェら」
とは言え、些か度が過ぎるだろうと半眼になるリアム。それでいて人数分の食器を鞄から取り出す辺り、彼も中々に人の好い性格をしているのだろう。
「もぐもぐ、うまうま」
「ん。これ、塩味効きすぎじゃない?」
「人に恵まれたもんにいちゃもん付ける、その度胸は認めてやらぁ。……塩漬け使うのが一番楽なんだよ」
賞金首、と一概に言ってもその内実は多様である。どうしようもない鬼畜外道もいれば、罪もないのに悪人のレッテルを貼られてしまう不幸な者も居るだろう。
即座の危険はなさそうだから、敢えて図太く接することで、リアムがどちら側か量ろうとする。そんなミュシャの視線に気付きながらも、敵意を抱けぬのは毒気を抜かれてしまったからか。
「もぐもぐ、うまうま」
「おいこら、ボロボロ零し過ぎだ。誰も取らねえから、ゆっくり食え」
言動は粗雑で、顔立ちはかなりの強面。二桁は人を殺していそうな空気を纏っているし、手配書が事実ならば六桁単位で命を奪った虐殺者だ。けれど、小さな子どもが顔の周りを汚していれば、布で拭う程度の面倒見の良さはある。
恐らくは、身内や庇護対象には甘いタイプ。無辜の善人とは口が裂けても言えないが、魔物と見紛うような下劣畜生とも程遠い。少なくともこの場において、そんな男は脅威とは言えない。
(町一つ、住人を皆殺しにした狂気の孤狼。手配書だと罪ない女子どもも殺すって話だけど、亜人弾圧が趣味の聖教が作った手配書だし、自分の見立てを信じて良いかもね)
そも、聖教が作った手配書と言う物自体に怪しい所がある。何せ亜人の差別と排除を主の意思と公言している連中だ。亜人の賞金首の何割が、実際に犯罪を犯した者であるのか。
人間の犯罪者に対する信用度はそこそこにあるが、亜人の犯罪者に対する信用度は冒険者ギルドが発行している手配書の方が大きい。そして狂狼は、冒険者ギルドでは指名手配されていない。詰まりはそういうことなのだろう。
(けど、何でだろう。血の臭い? 死の気配? 上手く言葉に出来ないけど、そういうのも感じる。もしかしたら本当に、町を滅ぼしている可能性もある、か)
実態は果たしてどちらか。知りたいと思ったから、その左目には月光が宿る。魂の奥底まで見通すような視線に、リアムは小さく舌打ちする。その光が如何なる性質を有するか、男は知識で知るが故。
「ちっ、その目は止めろ。軽々しく滲なんざ出すんじゃねぇ」
「にゃはは、探り過ぎたかにゃん。ごめんごめん。って、シンって何?」
「あ? 無自覚かよ、テメェ。いや、滲の性質を考えりゃ、天然物は無自覚なのが普通か? まあ、良い。自覚がねぇなら、猶更止めとけ。そいつはテメェの手に余る」
踏み込み過ぎだと言うリアムの指摘に、ミュシャは笑って誤魔化し箸を進める。同時に聞き慣れない言葉に問いを返すが、リアムは答える意思がないのか、聞くなと言って断ち切った。
僅か、沈黙が場を包む。何も気にしていないヒビキが黙々と箸を進め、空になった食器と寂しそうな顔を見て嘆息混じりのリアムがもう一杯と食器に装い、手が空いた所でミュシャが口を開いた。
「そう言えば聞いてなかったけど、話題を少し戻して良い?」
「……そのガキの目で、ヤバさを判断した理由か」
「そうそう。それって何でって、地味に気になってるの」
変えた話題は、己の興味関心がある分野。学者志望を自称するだけあって彼女は、知識の蒐集を好んでいる。対する男は暇潰しには丁度良いかと、口角を僅か歪めて言葉を返した。
「魔物の等級は、目の色で判断出来るって知ってっか?」
「……色の濃さで判断出来るって説があることくらいは。けど、あれって俗説にゃん。魔王や大魔女は金色だし、最近の研究じゃ信用性が低いって言うのが定説よ」
「はっ、魔王は魔物じゃねぇよ。大魔女も含めて、連中は例外。金色は神聖の象徴で、魔性を象徴する赤より優先されるらしいぜ」
「それって、何処情報? 信用出来る情報源なら、学会が結構揺らぎそうだけど」
「さてな。軽々しく出せる名でもねぇんだ。だから信じるか信じねぇかはテメェ次第で、どっちだろうと俺の判断は変わらねぇ。勝手にしな、学者志望」
「むむむ」
黄金は神聖を表すならば、赤き瞳は魔性の証明。その言葉に対しミュシャが唸るのは、定説から外れていると言う理由もあれば、魔王が神聖なモノとは思えぬと言うのも理由である。
遥か太古に現れて、世界を滅亡の淵へと追い込んだ第一魔王アカ・マナフ。彼の王はあらゆる存在を堕落させ、魔物と言うあらゆる生物に対する大敵を産み落としたと言う。
古き文明がその全てを費やして、星の奥底へと封じた悪性。引き換えに彼らが滅びた後も、様々な要因によって幾度も影が出現した滅びぬ災厄。それの一体何処に、神秘神聖があると言うのか。
「取り合えず、今は適当に納得しとけ。魔物はその目の色が濃い程、格が高ぇし力も強ぇ」
戸惑うミュシャに対し、リアムがそんな言葉を返すのは論ずるが無駄と知るが故。少女の反応は何処までも一般的な物であり、事実を知らねば男とて同意出来る物。
真実を明かす理由はなく、事実を隠す事情はある。彼に真実を告げたこの世で最も信に足る情報源の一つの名は、容易く口にして良いモノではない。故にこれしか返せぬのだ。
「んで、だ。そのガキんちょの右目の濃さだが、同じくらいの色を前に見たことがある。三大魔獣って言うんだがよ」
「嘘!? 三大魔獣って、あの!?」
色の濃淡で、力の差異は証明出来る。例外事項に目を瞑るならば、その理屈には一応ミュシャも納得出来た。故に続く言葉にミュシャは、その目を丸くし驚愕する。
三大魔獣。魔王アカ・マナフが生み出した、世を蝕む星の癌細胞。一度暴れ狂えば国の一つ二つは容易く潰され、或いは大陸一つが滅ぼされるとも伝わる存在である。
「応。俺が見たのは、スーマランヴェルヌの奥に居るデブ豚と、アマデーニュ山の糞鳥だな。どっちも乾いた血の色みてぇな目をしてやがった」
「ベヒーモスとジズ。目の色が確認出来る程の距離まで近付いて、よく無事だったわね」
大地の魔獣ベヒーモス。北方大陸は西部の海岸地帯にある、スーマランヴェルグ洞窟の地底に今も巣食う怪物。山よりも大きな巨体を持ち、その背には広大な砂漠が広がると言う。
口から吐く吐息にはありとあらゆる毒性が満ちており、光を歪め万物を圧し折る程の高重力を常に周囲に放つ。存在そのものが天変地異にも等しい、強大にも程がある魔物である。
大空の魔獣ジズ。中央大陸は東部、北と南を分かつ大山脈地帯。彼の山々の中でも最も標高の高きアマデーニュ山は山頂にて、羽搏き大空を支配している大魔獣。
空を覆い隠す程に巨大な翼を持つ鳥は、気紛れに嵐や大洪水を引き起こしては世を蝕む。彼の鳥が産み落とす卵は常に腐敗しており、悍ましき悪臭と共に無数の病毒を巻き散らすと言う。
大海の魔獣リヴァイアサン。万物を通さぬ強度と決して砕けぬ柔軟性を有した鱗で覆われ、その総身にあらゆる異能を反射する力場を纏った曲がりくねる巨大な海蛇。
ありとあらゆる手段を持ってしても傷付けられぬ怪物は、しかし既に討伐された唯一の大魔獣。900年は昔に当時の勇者が、その口より腸へと飛び込んで、内よりその身を滅ぼした。
その後に勇者は命を落とし、大魔獣の死骸は西方大陸は南部マーランロー海域に今も残る。白骨化した死骸は千年近く過ぎて尚褪せぬ程の瘴気と毒を放っており、その海域には微生物さえ発生しないと言われていた。
「正面からやり合わなければ、何とでもならぁよ。……まともにやり合うとなると、相当に厄介そうだったがな」
「負ける、とは言わないのね。大陸を滅ぼすと言われる程の魔物相手に」
「大陸が滅ぶ、ねぇ。あの程度なら、糞ったれな聖教の十三使徒が半分も居りゃどうとでもなりそうだが」
「十三使徒?」
「聖教の切り札だよ。昔一人ぶっ殺したが、こっちもかなりの被害を受けた。連中と空将が居る限り、中央はまぁ戦力的には盤石だろうな」
そんな大魔獣を脅威と認め、しかし負けはしないと笑うリアム。自信に満ちた男は確かに、揺るがぬ力を持つのだろう。嘗てリヴァイアサンを討った原初の勇者や、二十年と前に魔王を封じた絆の勇者達のように。
英雄級。今の世を繋いできた、伝説に謳われる人域の踏破者。命を賭せば、大魔獣すら撃退出来る。そんな人間の頂点と言うべき者達をリアムは確かに知っていて、自身もまたその領域に至っていると言う確信があったのだ。
そんなリアムをして、盤石と称する中央大陸。彼ですら手を焼く聖教の切り札達。大いなる主より聖典と言う祝福を賜った十三の使徒は、欠員ばかりの時代も多いが故に、相応の質を有している。
また中央の戦力は聖教の十三使徒だけではなく、在りし日には大魔女さえも退けた聖王国の三将軍も外せない。刀将は死に、雷将はこの北の地に。国に残るは空将のみだが、三将軍最強とも言われたその実力は英雄級の上澄みだ。
リアムが知る限りにおいて、空将に対して確実に勝てると断言出来るは人類最強である東の武王のみ。赤の貴種が動かぬならば、聖王国は確かに盤石だろう。五大陸最大国家は伊達ではないのだ。
「と、話がずれたな。取り合えず俺が言いたいのは、このガキは大魔獣に匹敵する程の高位の魔物だってことだ」
「ヒビキが」
「お肉、美味しい」
「ヒビキが?」
「言うんじゃねぇ、何だか自信がなくなってくるだろうが」
リアムの言葉を耳にして、ミュシャはヒビキを二度見する。無表情ながらもほっこりとした気配を滲ませている少年は、手元の鍋に夢中である。大魔獣と同じく英雄が死を覚悟せねばならぬ脅威と言われても、首を傾げてしまうのは当然だろう。
「ま、それだけじゃねぇっぽいんだがよ」
ぼんやりとしているヒビキを見詰めて、リアムは更にと指摘する。強大な魔物であると目される少年は、しかしその瞳に異なる要素を宿している。巨大な魔物であるならば、その光彩異色は異常であるのだ。
「左目の空色は、魔物には存在しない色だ。基本赤目で、魔王共は金色。或いは堕ちたばっかりで、元の眼球の色を保っているパターンもあるか。けど、空色はねぇ。そりゃ、星側の色だ」
「星側?」
「言い換えれば、精霊に属する側だな。四属性は其々、赤青黄緑。単属性が極まりゃ透き通った感じの色になる訳だが、全部混ざると何でか空みたいな色になるんだそうだ。有名な聖剣は、空色に輝いたそうだぜ」
星は四つの属性に分かれる。即ち火水風土。星の断片である精霊力もまた同じく四色に分かれており、火は赤色に水は青色に風は黄色に土は緑色に染まる。だがそれら全てを合わせた時、光は空の色へと染まる。
空の色は星の色。青き水の星をイメージした時に、脳裏に浮かぶ澄んだ色。星の断片であるが故に、その断片全てが揃えば星となる。星の色が空色ならば、混ざりし精霊の力の色もまた空の色。澄んだ薄い青こそが、魔性の赤の対である。
「なら、ヒビキは……」
「本来あり得ない星の力を有した、謎の人型大魔獣って訳だな」
「お野菜、美味しい」
「ヒビキが?」
「だから言うんじゃねぇっての」
星の証である澄んだ青と魔の証たる濁った赤。同時に宿す少年は、野菜を口一杯に頬張り幸せそうだ。リスを思わせる姿の子どもを二度見して、疑うように問い掛けるミュシャ。リアムは少しだけ、持論に自信が持てなくなった。
「精霊力と魔物の瘴気は相反する。同じ器に入れれば、対消滅してゼロになる。両立なんてあり得ない」
「それがテメェの大好きな、定説ってやつだな。だが現実として、併せ持つナニカが此処に居る。なら、底知れないそいつは常識外の存在だろうよ」
星の命である精霊力と、魔物が生み出す瘴気は反発し合う。精霊力は瘴気を浄化し、瘴気は精霊力を汚染する。同量を同じ器に入れれば、結果は対消滅にしかならない。どちらかが足りてなければ、多い方が減った状態で残るだけ。
故にこの光彩異色はあり得ぬのだと、ミュシャの中にある常識は告げる。リアムもまた、それがどれ程の異常であるか理解している。寧ろ彼こそが、真実を知るモノより授けられた知識が故に、あり得ない存在だと驚愕しているであろう。この少年は存在自体が、常識の外側にあるのだ。
「お鍋、固い」
「ヒビキが?」
「鍋ごと食うんじゃねぇ!?」
焚火で熱した鉄の鍋に手を出して、もしゃもしゃと食べだした常識外れ。違う意味で常識の外側な行為を前に、ミュシャは胡乱気な視線をリアムに向け、リアムはそれなりの値段がした調理器具の末路に項垂れる。
「くっそ、もうこの鍋使えねぇじゃねぇかよ」
「お腹いっぱい。ご馳走様」
「……あー、はいはい。そりゃ何よりだ」
鍋の残骸は、最早応急処置では助からぬ程。満足そうにお腹を擦る子どもに対し、リアムは苛立ちを覚えながらも毒を吐かずに飲み込んだ。常識を知らぬ子どもに対し、見放す程に悪辣でなければ、叱責する程に善良でもない。
子育てなんて柄じゃなければ、諦め許すが妥当であろうと。大きく息を吐いてから、男はヒビキの姿を見る。毛皮のマントを羽織った隙間から、肌色が覗いている子ども。構い倒す程に子煩悩ではないのだとしても、放置出来ない程度には人が好いのが彼である。
「さっきから気になってたんだがよ。お前、服はどうした」
「マント、貰った。服、持ってない」
「流石にお姉さんも、子供サイズの手持ちはないわ」
「……ちっ、ちょっと待ってろ」
一人旅をしていれば、自分の衣服の替えくらいはあるだろう。さりとて異性の、それも子どもの服など普通は持っていないのだ。故にヒビキは裸のまま、毛皮のマントだけを羽織っている。
そんな姿を哀れに思い、そして偶然解決できる手段を有している。そんな立場のリアムは数瞬程迷ったが、舌打ちすると彼らに背を向けテントの中へと。荷物を漁ってその中から、古びた衣服を取り出した。
「ほら、着とけ」
「?」
「俺がガキの頃に使ってた古着だ。質が良いもんじゃねぇけどな」
「良いの? 態々持ってたってことは、思い出の品とかじゃないのかしら」
「……捨てんのが面倒臭かっただけだ。それ着て、とっととどっか行け」
手渡して、テントの傍で横になる。寝転び背を向け拒絶の意思を示すリアムの態度はあからさまで、使い古された布地の衣服が大切な物なのだとはヒビキにも分かった。
だからこそ彼は頷いて、その布の服に手を通す。明るい緑色のシャツに、薄茶色の半ズボン。一人で着れずにミュシャに手伝って貰いながら身に付けた衣服は、素材の質こそ悪いが手が籠った物である。
多くの物が得られぬ環境で、作り手は思考錯誤したのだろう。裏地には微弱な魔力で起動する無数の魔術刻印が刻まれていて、復元や清潔や防護などの多様な加護を重ね掛けさせている。
それでいて魔術の力が着用者を傷付けぬように、魔力を自動で外部に少量ずつ排出する仕組みまで備わっている。これを作ったのは、余程の才人なのだろう。そう確信出来る程、想いの籠った物だったのだ。
「あ? まだ、何か用か」
「名前」
「単語じゃ分かんねぇよ。文章喋れ」
だからヒビキは、光の宿った瞳でリアムを見詰める。気怠そうに寝返りを打って、振り返った亜人の男を。確かな恩を受け取った、そんな彼に対して正面から向き合う為に。
「名前、まだ、聞いてない」
「あ? そこの雌猫に聞いとけ。どうせ手配書か何かで知ってんだろ」
「まぁ、知ってるけど」
「直接、聞きたい」
少年の記憶は薄れている。少年の心は摩耗している。少年の世界は壊れている。けれど、残っているものもある。ほんの僅かな残滓に過ぎずとも、吹けば消えてしまいそうな欠片であっても、大切はまだ此処にある。
「自己紹介、大事。僕、ヒビキ」
「……そうかい。気が向けば覚えておいてやるよ」
「僕、ヒビキ」
「…………」
「僕、ヒビキ」
「……ちっ、リアムだ」
「ん」
誰かが確かに言ったのだ。自己紹介は大事だと。もう思い出せない誰かの声が、掠れて消える前に異なる音が返って来る。
無表情ながらも嬉し気に微笑むヒビキの姿に、苛立ちながらも起き上がって胡坐を掻いたリアムは不承不承と名を返した。だから、ヒビキは更にと言葉を伝える。
「リアム、ありがとう」
「あ?」
「服、あったか。お鍋、美味しかった」
「そりゃどうも」
向き合ったなら、次は感謝を。幾ら辛くても、幾ら苦しくても、幾ら狂って壊れていても――ありがとうと言う時はきっと、向き合って言わないといけないから。
目を閉ざしてはいられない。眠ってばかりはいられない。逃げているだけではきっといけない。そう思えたから今だけは、無表情を微かに崩して告げる。伝える相手は、男だけではない。
「ミュシャ、ありがとう」
「にゃ? いきなりね」
「マント、あったか。非常食、美味し、かった? よく、分かんないけど、嬉しかった」
「……別に、大したことは、してないにゃん」
振り向いて、見上げた猫人は何処か居心地悪そうで。彼女が利己的な感情で恩を売っていたのだと、壊れたヒビキは気付けない。だから彼は気付かぬままに、無垢なる言葉を紡いでいた。
「恩返し、する」
「俺としちゃ、とっととどっか行ってくれればそれで良いわ。……さっさとこの大陸を出て、西方辺りにでも行っとけや」
「ん。分かった。ミュシャは?」
「わ、私は……」
無垢なる瞳に見詰められ、少女の心に罪悪感が満ちていく。小さな子どもを利用しているのだと言う現状に、何も思わぬ程にミュシャはまだ終わっていない。それは幸か不幸か、分かるのは唯退けぬと言う事実だけ。
(これは都合が良い展開。望んでいた通りに、物事が転がった。なのに、どうして、躊躇うの)
答えは出ている。少女の性根は善良で、彼女の行いは悪性だから。外道と言う程ではなくても、褒められた行為でないのは確かである。だから迷うし躊躇うが、しかし退けぬ事実は変わらない。ならばその自問自答は、自己憐憫でしかなかった。
(他に道はない。どの道、悩んだ所で、やらないといけないこと。……偽善ね。やりたくなかった、なんて逃げ口上と変わらない)
そんな事実に気付いて自嘲しながら、それでも退けぬ女は選ぶ。無垢で純粋な子どもを利用し尽くして、せめて己の願いだけは叶えるのだと。皆を救う。それだけは絶対に、為さねばならぬことだから。
「一緒に行って欲しい場所があるの」
「ん。良い、よ。どこ、行くの?」
「この森の奥。其処は危ない場所だから、お姉さんのことを守って欲しいの」
「ん。分かった。僕、ミュシャ、守る」
片膝を付いて視線を合わせて、少年と少女は語らう。少年の脳裏に浮かぶのは、在りし日に刻まれ掠れた思い出。誰かが言っていた。そう、誰かが言っていたのだ。
――なあ、響希。知ってるか、約束は大切なんだぜ。
一緒に居ると約束して、居なくなってしまった人。一体何時、どんなタイミングだったのだろうか。もう思い出せないけれど、それでも言葉だけは残っている。約束は大切なのだ。
だから此処で約束しよう。恩をくれたこの少女が望むように、彼女を守り続けることを。微睡に戻っても、逃避を続けるのだとしても、交わした約束だけは忘れず守り抜くように。
「約束」
「あ、う、うん。指切り、ね」
「ん」
小指を交わして、指を切る。途切れ途切れの音が過去を想起させるのは、壊れた少年だけではない。重なる面影は少女の内にも、少年と違いその思い出を彼女は確かに覚えている。
――お姉ちゃん、約束。
守れなかった、その約束。重なる影に罪悪感を刺激され、心は折れそうになってしまう。それでも涙を流す贅沢なんて許されないから、顔で笑って抱いた願いを貫き通すだけなのだ。
「指切りげんまん、嘘吐いたら針千本飲ーます」
「指、切った」
指を話して、笑顔で語る。少女の弱さは仮面の内へ、少年の心は微睡の中へ。立ち上がって手を差し伸べるミュシャの姿に、無表情に戻ったヒビキは眠たげな眼のまま、それでも確かにその手を握り返した。
「それじゃ、行こっか」
「ん。どこ?」
「お姉さんの故郷。里の近くにある、大きな遺跡よ」
「おお、遺跡、見たこと、ない」
握り締めた掌の熱だけが、嘘偽りのない確かな物。それ以外は嚙み合わぬまま、それでも少年少女は同じ道を行く。そんな姿を横目に見て、再び寝転んだ男は背を向けた。
「リアム、また、ね」
「一飯のお礼に、教会への報告とかはしないでおくにゃん」
振り返って、告げる二人の言葉に返る音はない。寝転がったまま亜人の男は、面倒そうに片手を振るだけ。そんな姿にミュシャは苦笑して、ヒビキは無表情のまま、視線を一度だけ交わすと前を見た。
さあ進もうと森の奥へと、手を繋いだまま進んで行く。果てに如何なる末路が待つのか、今はまだ誰も知らずに。互いの熱を感じながら、彼らは唯前へと進むだけなのだ。
【旧版との相違点②】
第一部第四章が初登場だったリアムの出番を前倒しに。
とある事情により、南方の亜人国家への出向く予定だったリアムが北方にやって来ました。




