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Re, DS  作者: SIOYAKI
第一章 後悔先に立たず
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第2話

可哀想は可愛い。

◇聖王歴1339年風ノ月2ノ日


 深夜より振り始めた雷雨は穏やかに、されど冷えた大気で雪へと変わる。深々と降り頻る雪はゆっくりと、降り積もって草原を白に閉ざしていく。


 遠く巨大な森が見える草原の、緑と白が混じった道。薄い皮靴で撓れた草を踏み付け駆けるは、白い民族衣装を着た少女。軽く跳ねた明るい栗毛を肩口辺りまで伸ばし、毛皮のマントを羽織っている。


 齢は十代後半か、成人を前にしてはいるが幼いと感じる程に未成熟な体をしていない。そんな若い女の体には、一見して分かる程度の異常が頭部と臀部に。耳と尾だ。人の物とは全く異なる耳が頭部にあり、マントの裾からは毛に覆われた尾が見えていた。


 よく見れば、その新緑の瞳も人の物とは異なっている。瞳孔が縦に開いたその眼球は、耳と尾と同じく猫科のそれ。年若い人間の少女に、猫の特徴を足せばこうなるだろう。そんな姿をした少女が駆けていた。


 見た目と同じく、脚力も優れているのだろう。常人よりも優れた足腰で駆ける少女は、余裕のない表情で背後を軽く見て舌打ちする。すぐさま前に視線を戻して足に力を込めるも、一晩走り続けた疲労が故にか、然程の速度が出てくれない。


(ほんっと、しつこい。いい加減に、見失ってくれれば良いのに)


 彼女は追われていた。その背を追い立てるは、黒き毛皮の四足獣。イヌ科に属するであろうその獣は、しかし単なる獣ではない。魔物と呼ばれる、人類種の天敵だ。


 ギルドにて付けられた名称はブルナジェズ。全長2メートルを超える巨大な狼。影や暗闇の中に潜り泳ぐことが出来ると言う、単純ながらも厄介な能力を有する獣である。


(森を離れても、追ってくる。やっぱり、アイツの使い魔。裏切りがばれた、って言うには温いし心当たりもない。処分ついでに、遊ばれてるってやつでしょうね)


 草原に転がる岩などを擦り抜けて、追い掛けて来るブルナジェス。障害物を無視出来るその能力は、遮蔽物の多い森の中では最悪の部類。逆説、草原においての脅威度は然程高くない。


 ならば狩場を抜ければ追い掛けては来ないかと言えば、それは否。いいや、これが野生のブルナジェスならば逃げ切れていたであろう。しかし追い掛けて来ると言うのなら、それは野生ではない証となる。


 そんな獣の、数が三十。逃走の中で目測しただけ故、正確な数とは限らない。最低でも三十匹だ。群れを作る習性を持つ魔物にしても数が異常で、誰かの意思が裏にあるのだとしても少女を追うには過剰戦力。


 少女は戦士や冒険者と言った戦う者ではない。猫の耳を生やしてはいても、その肉体性能は純粋な人間種に毛が生えた程度。トップアスリートに比する身体能力があったとしても、赤子を丸呑みに出来る狼と戦うには不足が過ぎよう。


 それ程の戦力を差し向けられた理由の一つは、その存在にとってはこれ程の戦力ですら余剰であるから。失っても、然程惜しくはないものでしかない。今も逃げる、この亜人の少女と同じく。


(不要だって、今更処分するのなら、捨て置いてくれれば良いのに……苗床として再利用ってとこかしらね。ついでに嬲って、一石二鳥か三鳥か。貧乏性が過ぎるんじゃないの、賢者様)


 そうとも、少女は切り捨てられた。もう要らないと、処分される立場にある者。それに気付けたからこうして逃げ伸びているのであり、気付くのが遅れたからこそ必死になって足掻いている。


 追い付かれれば、それで終わりだ。魔物はまるでその存在全てが、人を冒涜するためだけに作られたような性質を有している。その一つが生殖機能であり、凡そ全ての魔物は老若男女問わず人間を苗床に繁殖出来る。


 こうして今、少女が逃走出来ていることもまた魔物の生態が故。あらゆる魔物は、人の負の感情を好んで食らう。雑食でありそれしか食べられないと言う訳でもないのに、獲物を甚振り苦しめ嬲り喰らうことを好むのだ。


 黒幕に命じられたから追い掛けて、必死になって逃げる女を適度に嬲り追い立てる。端的に言って遊んでいるのだ。そんな行為が、黒幕の視点では一石数鳥の行動なのだろう。不要品の処分と黒狼の息抜きが出来て、更に手駒が増えるのだから。少女としては、堪った話ではないのだが。


「死んで、堪るか」


 全身の疲労。肺と脚部の痛み。激しい運動で酸素が足りず、喉元を焼く程にこみ上げて来る嘔吐を堪えることも難しい。そんな詰みに等しい状況で、それでもと女は歯噛みし呟く。


 死んで堪るか、と口にした思いが全て。詰みに等しいとは言えど、まだ詰んだ訳ではないと思考する。最期の一瞬まで諦めて堪るかと言う意思に応じるように、その左目が月のように輝いた。


(助かる可能性はある。町に逃げるか、泉に逃げるか。選べる答えは一つだけ)


 頭に浮かぶ生存への道。緑に戻った瞳で見詰める先は、街道からは大きく外れているルート。どちらに逃げるかと言う意思は、大森林を抜ける前には決めていた。


(コートフォールは遠い。私の足じゃ、辿り着くまで持たない。見張り小屋まで着ければ、ううん、駄目。使い魔相手なら兎も角、アイツが出張れば小屋の兵士やその辺の冒険者じゃ相手にならない)


 北方大陸唯一の都市、臨海都市コートフォール。人類の最前線とも称される彼の都市は、二十年前に終結した人魔大戦の最中に築かれた場所である。


 魔王の下へと勇者を辿り着かせるために、用意された橋頭保。六十年と続いた長き劣勢の中で人類が、確保出来た最北の地こそが彼の臨海都市なのだ。


 以北は全土が、未開の地として扱われている。魔王が蘇る六十年より以前には、そこに住まう者らが居たのだとしても。未開の地で何が起きようと、以南の者らにその情報は酷く伝わり難いのだ。


 だからシャーテリエの里は滅んだし、その事実は三年が経過した今になっても人類圏では知られていない。ならば当然、彼の里の唯一人の生き残りが此処で命を散らそうと気付いて貰える道理はない。


(この北方でアイツと戦えるのは、コートフォールの雷将かA級冒険者の罠師(マエストロ)くらい。見張り小屋に着けたとしても、生き残れるかは半々以下だ。なら、選ぶべきは泉一択)


 生きて辿り着けるのは、精々が森の最南端にある見張り小屋まで。コートフォールは其処から早馬でも半日は掛かる位置にあり、彼の大賢者と戦える者はこの北方ではコートフォールにしかいない。


 勇者と旅をし、魔王を倒したという実績は伊達ではない。同じ旅路を共にしたと言う雷将や、冒険者ギルドの顔役であり世界に四人しかいないA級冒険者。そんな世界でも最上級の実力者でなければ、一瞬で縊り殺されよう。


 故に見張り小屋まで辿り着けても、高確率で死体が増えるだけなのだ。監視の目は今もあり、彼の賢者は空間さえも容易く操る。危険な相手に情報が渡るより前にと、その末路は火を見るよりも明らかだ。だから、選択肢は一つだけ。


(聖剣の泉ソヴァーラ。勇者と魔王が戦って、果てに生まれたクレーター。穢れを封じる為に勇者は剣を突き刺して、後に聖水が生じて泉になったと言われる場所。あの地に、魔物は近付けない。それは不死者になったアイツも例外じゃない)


 賢者は既に死んでいる。彼は死後に躯となって、しかし棺で眠ることを拒んだ。そこに如何なる故があるのか、少女は知らない。しかし彼女は知っている。動く屍の強大さならば。


 彼が動けば、少女は死ぬだろう。遊びか合理か、何らかの理由によって生かされている。その条件が覆ればあっさりと、何を思おうが何を抱こうか何を願おうが、決して助かることはない。


「死んで堪るか。私は、生きる。生きて、皆を助けるんだ!」


 それでも、死にたくはないと少女は走った。思いを音に吐き捨てて、体に募る疲労を誤魔化し、心に嵩む怠惰を跳ね除け、決死の意思で前だけを見て駆け続ける。


 単純な速力において、少女は黒狼の群れに劣っている。故に当然追い付かれて、その度に鋭い爪や牙で、四肢を体を浅く切り裂かれる。致命傷には届かぬ程度に、獣たちは遊んでいる。


 転べば最期、倒れれば最期、さあどうなると。転んで堪るか、倒れて堪るか、死んで堪るか。その意思だけを貫き通して、確かに彼女は辿り着いてみせるのだった。


「え?」


 その、聖なる水が枯れ果てて、巨大な大穴へと変わった断崖絶壁に。


「なんで、泉が、枯れて……」


 声が震える。足が止まる。体が重くなって、座り込んでしまいたくなる。目の前には嘗て、泉があったであろう跡地だけがある。聖なる水は枯れており、望んだ魔物除けとしての役は果たせない。


 既に囲まれている。三十を超える黒狼の群れはゆっくりと広がって、断崖以外の道を塞ぐ。退路はない。迂回路もない。前進出来る道もない。デッドエンド、既にこの先は袋小路。ならば女の命も終わるだろう。


(ああ、もう、駄目だ)


 諦めが、心を満たした。絶望で、気が狂ってしまいそう。嗤っていると思える獣たちの姿に、涙が溢れそうになって――けれど、声が聞こえた気がしたのだ。


――お姉ちゃん。


「諦めちゃ、駄目だよね。だって私は、お姉ちゃんだもん」


 懐かしい音が、折れることを許さない。だって、もう聞こえないその音に、少女は何も返せていない。道がないことなど、立ち止まる理由足り得なかった。


 獣が駆ける。大地を蹴り上げ、弾けるように疾走する。その爪が、その牙が、迫り来る一瞬前に少女は跳んだ。断崖の果てを目指して跳躍する。当然果てには届かず、落下した。


「ぐっ、つぅ」


 跳び出して、飛び降りて、転がりながら落ちていく。崖に体を押し付けて、僅かでも速度が緩むように。五メートルはあるだろう、崖を転がり落ちていく。


 落ちて落ちて落ちたその底で、それでも足掻くことが叶うように。歯を食い縛って、痛みに耐えて、少女の左目が輝いた。可能性はまだあると、その月の光は導いている。


(聖水だ。聖剣から生まれた水が、一滴でも残っていれば)


 落下が止まる。それに気付いたのは、落ちてからどれだけの時間が経った後だろうか。一瞬か、そうでないのか、意識が飛んでしまっていた。


 体が痛い。全身が泥だらけの傷だらけ、それでも確かに生きている。骨が幾つか折れたのか、軋む体はそれでも確かに鼓動を続けていた。だから少女は、這いずりながら、音を紡いだ。


「土よ、土よ。我に祝福を。その慈悲を持って、この傷をどうか、癒し給え」


 詠唱六節、薄緑色の輝きが明滅し、少女の傷を癒していく。精霊術と称される、それは星に助力を乞い願う神秘の技。強大な存在の加護を受け、少女の体に僅か力が戻る。


 とは言え、これは初級の精霊術。少女に使える唯一の回復手段だが、塞げるのは簡単な傷口だけ。折れた骨や傷んだ内臓は治らないし、失った体力だって戻らない。これ以上の消耗を防げるだけのこと。


 それでも治療の有無が、生死を分かつかもしれない。ほんの少しでも体力を温存出来なければ、黒狼に抗うことも出来ないだろう。彼の怪物にしてみれば、少女が死を覚悟した断崖とは言え然したる障害ではなくて――ならばどうして、まだ己には息があるのか。


「……追って、来ない?」


 地を這う少女は漸くに、その異常に気が付いた。追い掛けられれば、逃げ切れない程の速度差があった。更に己は、一瞬とは言え、意識を飛ばしていたのだ。追い付かれていない方があり得ない。


「聖水に、怯えてる? 違う、なら、何が……」


 左目が輝く。聖水は一滴すら見付からない。泉は完全に枯れている。少女は限界が程近い。追われていれば、追い付かれていた。なのに今も生きているなら、其処には必ず理由がある。その真実を、その左目は、確かに見付けた。


「あれ、誰か、居る」


 泥に塗れた猫人は、底で眠る彼を見る。どうにか整えようとしていた呼吸が、ふっと止まる。驚愕や困惑ではなく、唯々純粋な感嘆で。


「綺麗」


 思わず呟いた、その感慨が全て。眠る誰かは、息を呑む程に美しかった。そんな少女の反応に応えるように、眠る誰かはゆっくりとその目を開く。


 光彩異色だ。開いたその双眸、その左目は空や海を思わせる程に澄んだ色をしていて、その右目はこびり付いて乾いた血のように赤銅色に暗く輝く。


 腰まで届く程に長い髪は銀糸のように艶やかで、十やそこらに見える幼い顔立ちはしかし一つの芸術として完成している。人間離れした、人形染みたというのも合わない、美の極点が一つ。


 誰もが目を奪われよう。誰もが息を吐くのも忘れるだろう。そんな完成された美人はゆっくりと、裸体のまま立ち上がる。自然と風に揺れる股間を見て、少女は顔を真っ赤にした。


 裸の美人は、誰もが美少女と断言する容姿をしている。だが上下する胸と揺れる股間を見れば、その間違いに気付くであろう。見た目不相応な物を持つ、彼は確かに男であった。


「君は、一体?」


「…………」


 直視しないように目を逸らしながら、猫人は美しい少年に問い掛ける。彼は言葉を理解しているのかいないのか、寝ぼけた眼のまま少女の姿を見て、呟くような声量で小さく音を紡いだ。


発動(Exit)


「え?」


 直後、少女の体が黒い光に包まれる。一瞬後には、その光も消え去って、彼女の体に刻まれた消耗さえも消えていた。


(今の、魔術? でも、回復魔術なんて、そんなの大規模な儀式なしには汚染が酷過ぎて使いものにならない筈。それに、この違和感。意識と体に感じる隔絶。まるで体だけが、少し若返ったような……もしかして、この子、時間を巻き戻した? ううん、あり得ない。詠唱を完全に省略してるのに、時空間に干渉するなんて、そんなこと、人間に、いいえ、賢者や魔物にだって出来る訳がない)


 少年が用いたのは、紛れもなく魔術の力。魔物が生み出す瘴気に生命力を注ぎ、魔力と言う制御可能な力に変えて行使する神秘の技。その性質上、魔術は人体にとって有害だ。故に回復に魔術を用いる際には、汚染への対処が必要となる。


 気軽に使える物ではない筈なのだ。ならば彼が何をしたのかと問えば、汚染対策の簡略化などでは済まない高次の事象。月の瞳が導く答えは時間の回帰。少女が傷付くより前の時間まで、少女の体を巻き戻したのだと。そんな導かれた答えを少女の常識が否定する。時間の回帰など、人の身には過ぎた奇跡であるから。


 そんな少女の懊悩に、気付いているのかいないのか。寝ぼけ眼で空を見上げて、ふらふらと頼りない足取りで、裸の子どもは崖の方へと向かっていく。


「あ、待って、そっちは危ない! って、わわっ!?」


 崖の上には、まだ黒狼の群れが居るのだ。思わずと危ないと手を伸ばして、彼の歩みを止めようとその手首を掴む。しかし既に遅かったのか、跳び立つ瞬間は止められなかった。


 とんと軽く大地を蹴って、小石を跨ぐような気楽さで、五メートルを超える崖を乗り越える。腕を掴んだ少女の体は勢い良く宙に浮かんで、息を呑んだ時には既に地面に着地していた。


 大地に尻餅をついて、しかし体に痛みさえ走らぬ事実に、目を白黒とさせる猫人。ぼんやりと空を眺める少年の傍らで、彼女は遠ざかる獣の姿に気が付いた。


「え、嘘。アイツの使い魔たちが、逃げていく」


 少女を甚振り、追い詰めていた獣の群れ。それが背後を振り返ることもせず、一目散に逃げている。先の少女の姿を焼き直したような獣の行動に、信じられないと彼女は傍らの少年を見上げた。


(この子を、恐れてる? 使い魔じゃない。それを操るアイツが、魔王と戦った大賢者が、こんな綺麗な子を恐れている)


 寝ぼけ眼で、空を見上げている子ども。この少年は、余りにも得体が知れない。見たことがない程に美しい容姿も、時を巻き戻す程の大魔術を呼吸のように発動する姿も、跳躍一つで崖を超えてしまう身体能力も、何もかもが常識を逸脱している。


「本当に、君は、一体、なんなの」


「?」


 いっそ恐怖すら宿る声音で問い掛けられた少年は、その寝ぼけた眼を少女に合わせる。綺麗な緑の瞳を見詰めて、口を開いたのは数秒程が経ってから。


「僕、ヒビキ」


 口にしたのは、己が名前。まるで今に至るまで忘れていたことを、どうにか思い出せたと言わんばかりの間を開けてから。そうして少しだけ、彼の目の焦点が合う。ヒビキと名乗った少年は、少女の瞳を見詰めて言った。


「お腹、空いた」


「え」


「お腹、空いた」


「え、あ、ちょ、ちょっと待って」


「?」


 口にしたのは、生理的な欲求。空腹なのだと、告げる少年に少女は戸惑う。戸惑いながらも、頭の算盤が高速で動く。毛皮のマントに手を入れて、腰に付けた魔道具のポーチを漁りながら、考えるのは今後のこと。


(何が何だか、訳が分からない。……けど、この子はきっと、とびっきりのジョーカーだ)


 謎の少年ヒビキ。名前以外分からぬ彼は、彼の賢者が恐れる程に人間離れした怪物である。人型なのは美しい見た目だけで、その皮の下はどれ程に悍ましいのかさえ分からない。


 しかし、会話が出来る存在だ。片言であり、今も意識がしっかりとしているのかも分からぬ寝ぼけた眼。だが意思疎通が行えるのならば、損得で動いてくれるのならば、きっと彼は利用出来る。


(上手く使えば、全部、全部をひっくり返せるかもしれない。そうでなくとも、私にはもう手がない。だから)


 まずは恩を売ろう。可能な限り媚を売り、彼を味方に付けるとしよう。即座にそう結論付けて、猫人は輝く笑顔を浮かべる。そうして魔道具のポーチから取り出したのは、冒険者向けの固形食。


「はい、携帯食ですがどうぞ」


「? パサパサ、ボソボソ、ちょっと甘い?」


「……包み紙ごと食べるのは、お姉さんちょっとどうかと思うにゃん」


 西で作られた、バランスの取れた栄養食。個包装されたその食料を、少年は包み紙さえ剥かずに咀嚼する。食べ方が分からないのかと内心呆れながら、それをおくびにも出さずに、少女はマントを脱いで両手に持った。


「あとこれ、素っ裸だと目に毒にゃん」


「マント。あったか、ぬくぬく」


 そしてそのまま、少年に被せる。抵抗の素振りも見せないヒビキは、その温かさが気に入ったのか、ふわりと柔らかく微笑む。口の端が少し歪む程度の笑みであったが、少年の美貌で為せばそれも一つの芸術だ。


 思わず少女は見惚れてしまい、その動きを硬直させる。美貌に呑まれて動きを止めた猫人を見て、今更に気付いたと言わんばかりに、無表情に戻って少しだけ目を開いたヒビキは彼女に向って問い掛けた。


「……君、誰?」


「い――んんっ。……ふっふーん、誰と聞かれたならば答えましょう。私はミュシャ。猫人の亜人、ミュシャ・ルシャよ。よろしくね」


「ん。僕、ヒビキ」


 今更、と一瞬口に仕掛けた言葉を飲む。どうにか笑みを崩さぬまま、己が名を告げる猫人。ミュシャの言葉に、顔の表情筋を変えずに名乗り返すヒビキ。少女がよろしくと伸ばした手を、少年は優しく握り返した。


(よっし、上手くいった。この方向性で、この子を上手く操って、アイツにぶつける? それとも当初の予定通り、大いなる力を狙うべきかしら? どっちにしても、これで首の皮が繋がった)


 手を握りながら、また寝ぼけ眼に戻ってしまう少年。ヒビキを見詰めるミュシャは、今後のことを頭に浮かべる。一時は絶望するしかないと思われたが、これで未来に続く選択肢は出来た。


 未だ彼女の立場が安定しないのは事実であり、敵は己よりも遥かに強大なままである。故に選択は重要だろう。間違える訳にはいかないと、緑の瞳を悩ませる。余裕が出来て、そこにもう必死さはなかった。


「お腹、空いた」


「うーん、お姉さん。もう手持ちないわ。町まで我慢してくれると嬉しいけど」


「あっちから、良い匂い」


「あ、ちょっと」


 ぼんやりとしたまま、再び空腹を訴えるヒビキ。彼は寝ぼけ眼のまま、ふらふらと歩き出す。その足取りはゆったりとしていて、繋いだままの手を引けば行く道をある程度制御出来るかもしれない。しかしミュシャは、そうしようと思わなかった。


(ほんっとに唯の子どもみたい。本能で生きてるというか、何と言うか)


 獣の因子を持つ少女ですら、感じ取れない匂いを追って歩く少年。ヒビキの行く手を歪めてしまえば、不興を買ってしまうかもしれない。子どものようにしか見えぬから、その反応も単純な形が予想される。


 嘗て、妹が楽しみにしていた菓子を食べてしまった時、とても怒られてしまったように。結果が同じ子どもの癇癪であったとしても、この怪物が為せば猫人では抗うことさえ出来ぬだろう。嫌われぬように、憎まれぬように、想われなければならぬから。


(もう少し懐いてくれるまでは、こっちで合わせた方が良さそうね。その分素直だろうから、あの子のように、懐いてくれさえすれば……)


「……ごめんね」


「?」


 ふと、子どもの顔が重なった。小さな妹の面影が、眠たげな少年の顔に重なる。だからどうしてだろうか、無性に泣きたくなって、どうしても謝りたくなった。そんな弱さを零してしまった少女を、ヒビキは不思議そうに見上げている。


「ううん、何でもないわ」


(生きてやる。何をしてでも、誰を利用してでも、死んで、堪るか)


 なんでもないと嘯いて、心の中でミュシャは誓う。死んで堪るか、生きて望みを果たすのだと。ふらふらと歩くヒビキに手を引かれ、猫人の少女は未来(カコ)を思う。取り戻すべき過去(アシタ)の輝きを――






【旧版との相違点①】

大陸の位置を変更。旧版では南方だったスタート地点が、北方に変わってます。

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