第1話
焔の先にて、君は再び生まれ落ちる。
遍く全てを、其の火に焼べる薪として。
では、物語を始めよう。
Replay, Dragon story
◇??歴????年??ノ月??ノ日
それは暗い場所。それは深い場所。それは悪臭に満ちて、それは悪意に満ちて、穢れ切った汚泥の中。
全てが腐敗し澱んでいる、しかし満ちているのは死ではない。これは、これより産まれ出でる為の生命のスープ。
日の光は届かない。一筋の光さえ差し込まない空間では、触れた物の形さえも杳として知れない。壁も、床も、天井も、果たして如何なる形状なのか。
手に返る感触は、岩肌のそれだろうか。だがしかし、触れた瞬間には冷たく硬く思えたと言うのに、触れ続けていれば何故だか生暖かく柔らかにも思えてくる。
そんな矛盾した感覚に襲われているのは、実際に時の移ろいと共に物が変じているのか。或いは内に閉じ込められた少年の、その身に異常が起きているからなのか。
――卵の殻は未だ破れず、ならば今は揺籃の時。神籬よ。産まれ出でる者よ。覚悟せよ――
此処は卵の内側。中身が腐臭に満ちた卵。ならば腐っているのかと言えば、是であり否。
腐臭の因は死であるが、これらは死を糧に産まれ出でる為のもの。故に死であり生である。死がある先に生が成る。
「あ、あぁ……」
そんな汚泥の只中に、唯一人生きた者が居た。乱れてはいるが元は艶やかであったのだろう長い黒髪に、窶れてはいるが今も整っている顔立ち。衣服の一枚も着ていない姿は、二次性徴を迎える前と思われる男児のそれ。
一見すれば少女と見紛う幼い少年。窶れて尚、伝わる美。多くの男を魅了したと伝承に語られるかぐや姫が実在していれば、幼少期にはこのような顔だったのだろう。そう思える程に、幼くも整った面貌。そんな子どもが、腐敗の中に一人居た。
「僕、は……」
一体どれ程に長い時間、一人この場所に居たと言うのか。言葉を口にするだけで、喉が酷く痛む。そんな少年は、何をするでもなく其処に居る。何故なら何も出来ぬから。
気が付いた時には此処に居て、暗闇の中では出口を探すことも出来なくて、床や壁や天井を崩すような力なんてなくて、だから何も出来ずに此処に居た。何をすれば良いのかすら分からずに、恐怖に蹲るだけである。
「どう、して……」
彼は神籬。神籬とは神の器。神が世に現れ出でる為に、存在している依り代のこと。そう、詰まりは生贄だ。
神を宿せば人は人では在れなくなるが故に、神の器になるとは人としての死であるが故に。彼は神に捧げられるべき贄にして、神を世に産み落とすための苗床なのだ。
――これより生まれる。その為に、汝は一度死なねばならない――
「あああああああああああっっっ!!」
神の生誕。それが常識の内に留まる事象である筈がない。非常識の極みにも思える異常。異質にも程がある事象が、蹲った少年の身を襲う。
ぐしゃりと、音を立てて少年の体が内側から破裂した。否、生えて来たのだ。その右肩、肩甲骨に当たる部位から血肉と皮膚を食い破り、表に現れたのは巨大な蛇だ。
黒い鱗に覆われた、大きな口を持つ一匹の蛇。それが少年の肩から直接生えていて、その奇怪な光景に呆然とする暇さえ彼には存在しない。
何故ならば、その蛇の口が大きく開いて、少年の頭部に食らい付いてきたからだ。
「痛い、痛い痛い痛い痛いっっ!!」
鋭い牙が皮膚を引き裂き、頭蓋を砕く。そのまま貪るように脳漿を啜り、内の臓腑を喰らっていく。痛みも度を過ぎれば、感じなくなる筈だ。これ程の傷、即死したとておかしくない。だと言うのに、どうしてか一向に麻痺してくれない。どうしてか命は終わらない。苦痛はいつまでも続くかのように、少年を苦悶させ続ける。
ぐちゃり、ぐちゃりと捕食する音が暗い洞に響く。中身のない、頭蓋の中を反響する。蛇の捕食とは、丸呑みではなかったのか。そんな疑問が場違いとなる苦しみの中で、少年は藻掻き続ける。そうして数分、体感ではそれ以上の時の果てに彼は絶命した――筈だった。
痙攣したまま、倒れる少年の体。砕けた頭蓋から飛び散った血潮が、沸騰する湯のように沸き立ち出す。ぐちゃりぐちゃりと音を立て、その血肉から現れたのは悍ましいモノ。
百足。蠍。蜂。蜘蛛。蠅。油虫。蚤。壁蝨。ありとあらゆる毒を持つ虫。多くの人が嫌悪する生き物たち。それらが飛び散った血肉から生まれてきて、そして一点へと向かっていく。まるで火に誘われた羽虫のように、死した少年の骸へと。
集ったそれが、肉に変わった。ぐちゃりぐちゃりと音を立てながら、臓腑を、骨を、筋肉を、神経を、皮膚を、それら全てを害虫たちが形作る。悍ましい姿のモノらによって、美しい姿の人が作られていく。その光景は、嘔吐を誘うような悪夢であった。
「あ、あぁ、僕、は……う、げぇ」
死んだ筈なのに、生き返った少年には意識があった。蛇に喰われる瞬間も、害虫になった瞬間も、そしてこの今も意識がある。だから耐えきれず、彼は嘔吐した。吐き捨てたのは、白い胃液。他の中身は、とうの昔になくなっていた。
その指先を彼は見下ろす。白魚のように美しい指先を見詰めているその瞳は、先程まで害虫であったもの。ならばこの指先も? そう考えてしまえば、悍ましさで吐き気が止まらない。気が狂ってしまいそうだった。
「あ、ぐっ」
しかし、恐怖に震えている時間はない。再びの痛み。生じたのは左の肩。肉が内から弾けて、出て来たモノは先と同じく。蛇が鎌首をもたげて、その色のない瞳で少年を見ていた。少年は涙を零しながら力なく首を振るが、結果は何も変わらない。
「あ、あぁ……」
シャー・ナーメに曰く、両肩に大蛇生やした王ザッハーク。彼の王は一日に二人の人間を殺害し、その脳味噌を蛇に喰わせたと言う。
その伝承の通りに大蛇は、人の脳を求めている。切っても切っても生えて来るその口が求める脳は、しかしこの今には一つの場所にしか存在しない。
故に――
「助けて、キョウちゃん」
親しい誰かの名を呼びながら、少年は再び蛇に頭部を喰い千切られた。
本当は、分かっていたのに。助けなんて、来る訳ないと。だって親友は、もうとっくの昔に、死んでしまったのだから。
◇西暦2010年2月10日
都内は某所にある学校。歴史があるとは言えないが、然程新しいと言う訳でもない。そんな何処にでもある学び舎の、屋上の扉が勢い良く開かれる。
扉のノブには盗み出した鍵束と立ち入り禁止の掛札が、吹き込んできた風に吹かれて空しく揺れる。
そんな中を堂々と胸を張って進むのは、学生服に身を包んだ茶髪の少年。目鼻立ちの整った容貌は、どこか日本人離れしているもの。欧米の血を引くミックスであると言う事実を聞けば、誰もが納得するだろう美男子だ。
「きょ、キョウちゃん。や、やっぱり、やめようよぉ」
そんな少年の後ろから、小さな声を漏らすもう一人。おどおどとした態度で怯えながら、ゆっくりと付いて来るのは腰まで届く程に長い黒髪をした人物。
艶やかな髪に白くきめ細やかな肌。小柄な体形ながらも既に、陶然とする程の美しさを有している。大和撫子と呼ぶに相応しい美人であるが、その身に包む学生服を見れば誰もが目を剥くだろう。内気な美少女にしか見えない彼は、その実列記とした男である。
「なーにビビってんだよ、響希」
「だ、だってぇ。ここ、立ち入り禁止、って。なのに、こんなの」
「そりゃ立ち入り禁止だからさ。来年は受験とかで忙しくなるんだろうし、今の内にこういうのはやっとかねーと損じゃん」
「何なのさ、それ」
にやりとした笑みを浮かべる悪ガキに、少女のような少年は情けなく呟く。響希は幼馴染であるが故に知っていた。この破天荒な親友が、やると決めたら止まらない人物であるのだと。
嫌ならば着いて来なければ良いだけの話なのだが、しかし響希には他に友人もいない。とある事情と、それに起因する気質。そんな響希がクラスの中心人物である悪童に付いて回るのは、彼なりの処世術と言うより依存に近い。置いて行かれる方が嫌なのだ。
「ほら、町が一望出来る。風も気持ちが良いし、中々良いスポットだろ。響希」
黒髪の少年の名を、龍宮響希。父親は居らず、母親との関係は冷え切っており、同居している母方の叔母が親代わりをしている子ども。
叔母の趣味で女装ばかりさせられているのが悩みであるが、大恩を感じても居るので文句の一つも口に出来ずにいる。そんな内向的で依存気質な美少年が彼である。
「本当にもう、キョウちゃんは」
茶髪の悪童の名を、結城恭介。アメリカ人の女性を母に、ロシア人と日本人のハーフである男性を父に持つ混血児。
軍人である母が中東に向かい、医師である父も国境なき医師団に参加した結果、父方の祖父母に預けられて日本で暮らしていると言う稀有な境遇の少年だ。
「……本当に、凄いよね」
悪ガキを絵に描いたような表情で、平然と景色を眺めている少年。その堂々とした背中を見やる響希は、自身とはまるで違う姿に嘆息する。
四分の一しか日本人の要素がない恭介は、その血が故か14歳と言う若さにも関わらず既に170センチを超えた高身長だ。容貌も爽やか系の美男子で、性格にも嫌味がないから多くの人に慕われている人気者。
成績優秀スポーツ万能。凡そ想像出来る範囲において、持たざるものはないのではないか。そう思えてしまえる程に完璧超人で、悪童であることも愛嬌の一つになっている。そんな特別にも過ぎる人。
「僕とは、大違いだ」
対して響希は、生まれつき複数の障害を有していた所為で体が小さい。明日の誕生日を迎えれば恭介と同じ14歳になると言うのに、その身長は未だに135センチと小学生と同程度でしかない。
成長ホルモン分泌不全性低身長症と類宦官症。未熟児として産まれた彼は、産まれた時からそうだった。二次性徴すら迎えていない小さな体は、大人になることが出来ないと医者に言われている。そして、彼が有する異常はそれだけでもない。
昔から、響希には霊感があった。見えないモノが見える。視えてはいけないモノが視えてしまう。
そして、視えたモノは引き寄せられるかのように、響希の周囲で霊障を引き起こす。響希には悪影響を及ぼさず、その周囲だけを傷付け続けた。
「何時だって君は、ヒーローだった」
そんな彼を救ったのが、結城恭介と言う友人だった。知人や友人は愚か、母親からも否定された少年。そんな彼へと手を伸ばし、友達になろうと笑って言った。
本当は拒絶するべきと分かっていて、それでも縋る相手が居なかった当時の響希は手を握り返してしまった。そんな少年の甘えが齎す筈だった悲劇。それを悉く覆してみせたのが彼だった。
だから龍宮響希にとって、結城恭介は憧れなのだ。何でも出来て、誰より凄くて、一番信頼している自慢の友人。ずっとその背を見詰めている。大好きなヒーローなのである。
「別に、そんな大したことじゃねぇって」
そんなヒーローはいつだって、心の底からそう語る。傍から見たら特別な事でも、彼にとってはそうではない。結城恭介は何処までも、己の心に従って、真っ直ぐ全力で進んでいるだけなのだから。
「やりたいこともやらずにいたらさ、きっと俺は後悔する。だから、全力で進んでいるだけさ」
響希は知っている。ずっとその背を見て来たから、結城恭介の事を誰より知っていると断言出来る。彼は特別だ。だが、断じて天才と呼ばれる人種ではない。人より優秀ではあるが、精々が秀才と呼ばれる程度。
初めて体育の授業で走った時、順位はクラスで三番だった。だからと彼は近隣高校の部活動に紛れ込んで、正しい走り方と鍛え方を学んだ今では国体候補の高校生にも勝てる程。
日本に来たばかりの頃は、日常会話の一部が怪しいレベル。学校のテストは、問題文さえ分からないと言う始末。なのに今では毎回満点。全国模試の過去問だって、過去十年分の全てで満点回答を叩き出せる。
彼は努力の人である。そしてそれを、おくびにも出さない。まるで白鳥が湖面の下を見せぬように、当たり前だと笑ってみせる。それがどんなに凄いことなのか、ずっと身近で見ていた響希だからこそ分かっている。
後悔しないためだけに、全力で努力する。だが青春の全てを捧げるのではなく、同時に今を全力で楽しんでいる。天才児であり問題児であるという周囲の評価は、全く以って見当違い。彼は全身全霊で、生きているだけなのだと。
「……本当に、凄いや。キョウちゃんは」
そんな姿を、凄いと思う。そんな背中に、憧れる。そんな事実を知っているのが自分だけだと嬉しくなって、そんな彼の傍に何時まで居られるのだろうかと不安にもなる。彼が居なくなった後なんて、想像も出来ないししたくもない。そんな風に思ってしまうのが、龍宮響希という駄目な奴。
「ほら、見ろよ。響希」
「あ、夕日」
そんな響希に、恭介は笑顔を向ける。金網フェンスの向こう側に佇む霊峰。その奥へと沈む夕日を指差しながら。結城恭介はいつだって、楽しそうに笑っている。
「綺麗だろ。こんな綺麗に見れる場所、今時中々見付からないぜ」
響希が真面に生きていられるのも、間違いなく恭介のお蔭である。人死にすら出す程の霊障を、悉く退けて解決して来たのが彼だから。解決出来るように、様々な知識や技術を学んで磨いて来た彼だから。結城恭介は、龍宮響希のヒーローなのだ。
「やってみて、良かったろ?」
「うん」
フェンスへと近付いて、夕焼けを見上げる。美しい光景を眺めていると、多くの事が瑣事に思える。母との関係、叔母の趣味、成長出来ないと言われた己の体。
未来はきっと、暗いのだろうと思っていた。結城恭介に依存せねば、生きることさえ儘ならない不俱の子ども。そんな龍宮響希の未来はけれど、きっと――――
「こら、お前たち! ここは立ち入り禁止だぞ!」
「やっべ!」
「え、ええっ!?」
見回りをしていたのであろう、教師が屋上の異常に気付いて声を荒げる。咄嗟に反応した恭介は、困惑している響希を横抱きに抱えてフェンスの上へと。
まるで軽業師か猿の木登りか。片手が塞がっていると言うのにするすると、金網を乗り越え屋上の縁前に。突然の行動に響希と教師が混乱する中、恭介はにやりと楽し気に笑っていた。
「キョウちゃん、こ、こっち、危なっ」
「備えあれば憂いなしってね! 舌噛むなよ、響希!」
恭介が口にした直後、響希が感じたのは浮遊感。飛び降りたのだと、認識するよりも前に体が大きく振られる。一体どこに隠していたのか、恭介が片手に握っているのは避難用の簡易ロープ。
自在フックを縁に固定して、即座に飛び降り壁を足場にするりするりと降りていく。一歩間違えば大怪我をするだろう行動に、茫然としていた教師が動き出せたのは彼らが地上に到着した後だった。
「お、おまっ!?」
「悪いね、先生! 三階の避難用具入れからパクったやつだからさ、片しといてくださいなっと!」
大声で仕事を押し付けて、校庭を走り出す悪童。抱き抱えられたままの響希は、激しい鼓動を打つ心臓をどうにか鎮めると恭介を見上げて口にする。
「キョウちゃん。これ、明日酷い事になりそう」
「大丈夫。明日は建国記念日だから、明後日まで引き延ばせるぜ」
家に連絡を入れられても、響希の家には不真面目な叔母しか居ない。恭介の家も耳の遠くなった祖父母だけとなれば、この場を無事に抜け出せれば、今日一日は大丈夫だろう。恐らくは明日も、騙せるかもしれない。だが、誤魔化せるのはそれが限界。
明後日の全校集会で叱られる羽目になるか、はたまた主犯と特定されて呼び出しの後に罰則を受けるか。どうあれ波乱に満ちた、退屈だけはしない中学生活はまだまだ続きそうである。
「まったく、もう」
「はは、悪い悪い。でも楽しかったろ?」
「……ん」
だと言うのに悪びれもせず、優秀な問題児は楽し気に笑う。だから釣られて微笑む響希は、その小さな手で彼の衣服をぎゅっと掴む。
自分一人ならば、明日を不安に思っただろう。しかしこの破天荒な少年が居れば、きっと何とかなると信じられた。恭介ならば、何だって出来ると信じていたから。
「なら、しょうがねぇよ。青春楽しむための、必要経費ってやつだよ」
「本当、しょうがないなぁ」
何もかもが足りていない不俱の少年、龍宮響希。誰かを不幸にすることしか出来なかった子供は、心の底から信じるヒーローに救われ依存していた。これはそんな、ヒーローに振り回される彼の日常。宝石のように輝かしい、大切な記憶。
――卵を孵化させるには、相応しい熱が必要だ。其れが悪しき竜の卵であれば、熱は人肌などでは不足に過ぎる。ならば地獄の責苦こそ、生まれるための絶対条件――
そんな日々が、いつまでも続くと思っていた。だから、輝かしい宝石が燃え落ちた日。その光景を信じられなかった。信じたくはなかった。認められなかったのだ。どうしてと、目を瞑って耳を塞いで、それでも現実は変わらない。
「キョウ、ちゃん。ねぇ、キョウちゃん。嫌だよ、ねぇっ!」
町が燃えていた。国の中心部たる大都市が、赤く赤く染まっていた。建築物は軒並み倒れて瓦礫と化し、あちらこちらで悲鳴が聞こえる。炎と血の赤に染まった世界で、響いていた悲鳴は刻一刻と減っていく。
似たような光景は、過去にも見たことがあった。中でも最たるものは、響希を狙った霊障が起こした新幹線の脱線事故。二人目の父が死んだあの日の光景が響希の脳裏を過ぎって、けれど恐怖と困惑はあの時以上だ。
規模が違う。被害の桁が違っている。そして何より、結城恭介が動いていない。あの日からずっと、必死に響希を守ろうとしてくれた勇者は、彼を庇って傷付いた。その体はもう、半分しかなかったのだ。
「逃げ、ろ。お前、だけでも」
「キョウちゃん!」
軽くなった恭介が、血を吐きながらも口にする。そんな言葉を受けてしかし、響希は嫌だ嫌だと泣きながら首を振るだけ。抱き着いたまま動こうともしないその姿に、仕方がないなと恭介は小さく苦笑した。そうして、もう一度、言葉を告げる。その前に――
「愚劣だな、神籬よ。そして貴様は無様だな、勇者キョウ。貴様らの行動は、此度も誤差の域を出なかった」
唐突に声が掛けられる。それは恭介の身体を二つに引き裂いた、見えない何かが飛んできた方角。涙に濡れた瞳のまま、顔を上げて見上げれば、それは其処に居た。
「え?」
思わず漏れ出た音は疑問符。本当にと目を疑ったのは、居たと言う事実を上手く認識することが出来なかったから。声が聞こえる。姿も見える。なのにどうしてか、そこに居ると自信を持って口には出来ない。
いいや違う。そこに居るのだと、理解したくないのだ。本能が、感情が、こんな存在が居て良い筈がないと拒否してしまう。だから其処に居るのに居ないと思える。声を聞くという行動だけで、どうしようもない程に悪寒を感じた。
「お前、が、元凶、か……その、呼び方。お前、あっちの、世界の……」
血を吐きながら、身動きさえ出来ない恭介が口にする。何を言っているのか、響希には分からない。唯、分かるのは、この恐ろしい何かが元凶だと言うこと。そして現状が、もうどうしようもないと言うことだけ。
「然り、刻限が来た故、神籬を回収しに来た」
元凶が言葉を発する。理解させようと言う音を紡いだからか、認識出来ないと言う感覚が薄れる。靄が晴れ、しかし悪寒は増した。見ているだけで、吐瀉物をまき散らしてしまいたくなる程に。それは余りに外れていると、生存本能が喚いている。
逃げろ逃げろと頭の中で警鐘が鳴り響く中、軽くなった恭介の身体を縋るように抱き締めてそれを見る。暗い影にしか見えなかったナニカは、気付けば人の形へと。
白い仮面に、金糸で豪奢に飾った薄紫のウールクロス、右肩には短い純白のマントを。褐色の肌をしたその人物は、壮年期と思われるだろう高身長の男性だった。
「ひも、ろぎ?」
「其は神の贄。捧げられるべき者。男でもなく、女でもない。性と言う穢れを持たぬ、完全なる器。そう、お前のことだ」
困惑と共に漏れた恭介の言葉に返るは、ほんの僅かな敬意と多少の侮蔑とそれ以上の無関心が混ざった冷たい声。しかし白い仮面の目元部分、左目の位置にだけ開いた穴から覗く金の瞳は違っていた。
「ひっ」
敬意も侮蔑も無関心も其処にはなく、爛々と輝くその黄金に宿った色は執着心。それは飢えた虎の前に、極上の生肉を曝け出した時のようで。ギロリと見詰められた一瞬で響希は、心の臓が止まると思える程の恐怖を抱いていた。
「させる、か」
「出来ぬよ、何もな。腹から下を失くした小僧に、一体何が出来ると言う」
血反吐混じりの言葉を吐く恭介に、呆れたように仮面の男は首を振る。それは現状を見て立てた推測と言う訳ではなく、まるで最初から結末を知っているかのような口調であって。
少年の手が、響希の胸を押した。半分しかない体に、一体どうしてこれだけの力が残っていたのか。響希の体は大きく突き飛ばされて、宙に舞う恭介と視線が合う。逃げろよ、と言葉にするでもなく瞳で告げて――空色の風が吹いた。
「成る程、彼女も筋金入りではあるか」
一体何が起きたのか。突き飛ばされた響希には分からない。突然、涼しく清涼な風が吹いたかと思えば、男の仮面には小さな傷痕が残り、その足元では恭介が倒れて動かぬ状態。呆然としたまま動けぬ響希の前で、仮面の男は一歩二歩とゆっくり歩んで。
「だが、お前はもう要らんぞ」
一瞥し、呟く。そうして、歩くように足を振り下ろす。その先には、倒れた少年の頭部。ぐしゃりと音を立てて、それが潰れた。
「あ、あぁ……」
悲鳴は、なかった。死した少年の断末魔はなく、それを見ていただけの少年もまた何も言葉に出せずに居る。理解が出来ぬから、理解がしたくなかったから、唯々その名を呼ぶことも出来ずに呆然と――
「ふむ」
気付けば、目の前に仮面があった。金色の瞳が見詰めている。声も出せず、息も出来ず、硬直している響希の瞳を。
その指先が、頬に触れる。冷たい指先が顔の輪郭をなぞっていき、何事かを確かめているかのように、男は小さく嘆息した。
「これは此度も、期待は出来んか」
「――――っ」
何を言っているのか分からない。何に失望されたのか分からない。現実の理不尽さ、仮面の男への恐怖、親友への情。様々な感情で、既に響希は限界だったのだ。だから――
「あ、ああ、うああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!」
気付けば、絶叫が口から溢れていた。何も分からない。何も考えられない。唯々、感じる想いが強過ぎて、叫んでいないと体が割れてしまいそうだったのだ。
「ふん。やはり蒙昧だな。窮地を前に抵抗はおろか、逃避さえも出来ぬ不俱め。仇敵を前に奮起はおろか、現実の理解さえも出来ぬ塵め。……まあ、良い。時間ならば、幾らでもある」
呆れたように、或いは嘆くように、言葉を告げた男は右手を伸ばす。その手で叫び続ける響希の顔を鷲掴むと、煩い声を黙らせるように力を入れた。めきりぼきりと骨が軋み折れる音がして、少年の体から力が抜ける。それで良いのだと、男はそのまま片手で少年の体を持ち上げた。
「では、終焉を始めよう」
仮面の男が口にした直後、彼の背後で爆発するように無数の光が立ち昇る。青白いその輝きを、響希は確かに知っていた。それは彼の瞳が映す、常人には見えない存在。霊魂と称されるモノに酷似していた。
そんな魂が、数え切れない程に。燃え上がる炎と雲に覆われた空の間、海を思わせる程に集まり広がり溢れていく。これ一つが人の命だと言うのなら、果たしてこれら全てで一体どれ程の命が尽きたと言えるのか。そこに解は返されない。
「神籬よ。これより貴様は一度死に、我が第五の子として生まれ変わる。悪しき竜。邪悪なる王。三つの首を持ち、千の魔術を操るモノ。それこそが、これより産まれる貴様の真だ」
それら命を如何とするか。使い潰して薪とするのだ。そうと言わんばかりに輝きを操る仮面の男は、その命を磨り潰して燃やし尽くして、絞り出した力を使って空に陣を描く。
何が書かれているかも分からぬ言語で綴られた魔法陣。天上に出現したそれと、全く同質の物が大地を覆う。視界の果てまで覆い尽くした巨大な陣の、中心部は響希の足元。そこから響希の体へと、膨大な力が注がれ始めた。
「その死を祝し、呪詛を贈ろう。その生誕を呪い、助言を紡ごう」
力を注がれる度に、異質な感覚が響希を襲う。命を喰らっているという感覚。嫌悪や吐き気や不快感は理性が生み出すものであり、本能が生む満足感は拭い去れない。故に溢れるその感覚に、吐き気が増す増す強くなる。
響希は立っていることすらも儘ならず、地面に転がり苦痛に悶える。耐え切れなくなって口から溢れ出したのは、胃液と痰と血反吐が混ざった歪な色。声を発することも叶わず、息を吸うことも儘ならず、開いた瞳孔の先に映るは無感動に見下す仮面の男。
「恨み、憎み、呪え。心に憎悪で芯を作れ。心の芯から神の真へ。その果てへと至ってみせろ。……それこそが、我が身へ挑む絶対条件だ」
何かが変わっていく気がした。何もかもが変わってしまう気がした。右目から血の涙を流しながら、響希の意識は遠のいていく。人としての彼は終わってしまう。
ぼこりと、沸かした湯が泡立つように、響希の体が泡立った。膨れて弾けて赤を漏らして、その血が流れた後には黒い鱗が。人である部位を失って、人でない部位が増えていく。
「善悪の彼岸を前に、お前を待つ。我が名をその身その心その魂に刻み込み、産まれ直して来るが良い。我は王。我はマリク。我は――アングラ・マイユである」
そうして、彼は変わる。業火の中、多くの命と世界が終わりを迎えて、一つの竜の卵が産まれた。これは唯、それだけの話。
――卵の殻は封印だ。日に二度の贄を求めし蛇王は、千年の支配の後に封じられ、終焉の日に暗黒竜として蘇る。故に人が竜へと変じるには、千年の呪詛に等しき地獄が必要なのだ――
◇聖王歴????年??ノ月??ノ日
繰り返し、思い出しては忘れる記憶。消え失せる想い出は、きっと何かに喰われているから。内から生えた二匹の蛇が、そしてまだ体内で揺蕩っているもう一匹が。
龍宮響希の全てを喰らう。龍宮響希の全てを奪う。そうして彼を苗床に、その死骸から生まれて来る。それが何故だか分かってしまって、響希は恐怖の中で大切なモノだけを抱き締めた。
喰われるならばせめて、要らないものから与えよう。大切な友人との想い出は、最後の最後まで守り切ろう。そんな意地があった訳ではないが、それだけは無くしたくないと言う恐怖から、結果として同じことをした。
けれど所詮は時間の問題。或いは順序の違いと言うべきか。響希の全ては喰われて奪われる。この卵の内側に閉じ込められた時点で、その結末は決して変わらないのだ。
「A、あ、ァ、亜、あ゛…………」
いつしか、彼は言葉を忘れていた。口から漏れるのは、人の声とは思えない悍ましい音。鈴のような音色は、もう何処にもない。
親友が綺麗だと言ってくれた声が枯れてしまった。好きだと言ってくれた歌だって、もう歌えなくなっただろう。それを悲しいと、今の彼には思えない。
「ア、ゥ……ァァ……」
その姿もまた、人の形を辛うじてしか残していなかった。息を飲む程に美しかった肌は黒い鱗に覆われて、臀部からは巨大な尾が生えている。
人型の爬虫類を思わせる姿。黄金に輝く瞳に映る、長い髪の色は白。恐怖と苦痛に色素が抜けて、叔母が褒めてくれた美しさは其処に残っていない。
「Aaaaa、ああぁぁぁぁぁ……」
何もかもを失って、それを悲しくも思えなくなって、そんな彼はそれでもまだ僅かに残った綺麗な想い出に浸っている。
誰も居ない暗闇の中で、何処にも出口のない洞窟の中で、そうしなければ、何も分からなくなってしまいそうだったから。
ぐぅ、とお腹が鳴った。瞬間、彼は怯えたように頭を抱えて蹲る。顔を覆う鱗が無ければ、真っ青な表情をしていた事であろう。
ぐちゃりと両の肩が異音を立てて、膨れ上がって形を変える。長い首を持つその肉塊は、蛇と呼ばれる生き物。それらが愉しそうに、少年の頭部を見詰めている。
そして――捕食がまた始まった。
「ア、ガァ、ギィッッ! ギャッ!?」
右の蛇が頭部に喰らい付く、その頭蓋を牙で圧し折って、中身を音を立てて啜るのだ。じゅるりじゅるりと、己が己の肉体の一部に喰われていく。
そんな異常な光景の後に、待ち受けるのは更なる異常だ。飛び散った血肉から、蠅や百足や油虫と言った害虫達が大量に溢れ出して来る。
そうして生まれ落ちた悪虫達は、砕けた少年の頭蓋に入り込んでいく。脳の残骸に取り付いて、元の血肉へと戻っていく。汚い虫が、己の体に変わっていく。
「あ、アハ……」
変わる度に、何かが擦り切れていく。また何かを失くした。だが、もう何を失ったのかも分からない。
気が狂いそうになる。そんな時間が、まだ終わらない。腹を満たしたのは右の蛇だけ。まだ左の蛇が食事を終えていないのだから。
ずっとずっとその繰り返し。この暗闇の中に囚われた直後から、空腹を感じた瞬間蛇に喰われて、痛みと苦しみにもがきながらも虫で治って、気が遠くなる程に繰り返し続けてもう笑う事しか出来やしない。
「ぼ、ク……は……」
喰われて治って喰われて治って、果てには何時ものように気を失う。そうして漸く、空腹でまた目が覚める時までは、優しい夢に浸っていられる。
それが此処に来てからの少年にとっての日常で、きっとこの日もそうなるだろうと思っていて、けれどそうはならなかった。
その日は、再誕の刻だった。
近くで、落雷の落ちる音がした。ボロボロと、まるで卵の殻を剥くように、岩の壁が崩れて落ちた。
吹き込む雨と嵐の中、外の景色が怪物の赤い瞳に映る。ぼんやりとした意識のまま、興味を惹かれて手を伸ばす。
「キョウ、ちゃん…………」
音にしたのは、大好きな友達の名前。きっと助けてくれると信じて、目の前で死んでしまった人の名前。
沢山の記憶を忘れてしまった。沢山の記憶が薄れてしまった。壊れて歪んで摩耗して、それでも確かに、今も覚えている僅かな音。
「お、ナか、スいた…………」
縋るようにその名を呼んで、しかし直後に口にしたのは空腹の訴えと言う本能的な物。腹が減るのも当然、彼はこの洞窟に囚われてから己の血肉しか口にしていない。
けれどおかしな事実とは、前後の文脈に脈絡さえもない事だろう。大好きな人の名を呼んで、直後に空腹を零すなど、まるで食欲をその名に絡めてしまっているかのようで。
それに気付いて、少年の口元は歪んだ。ケラケラゲラゲラと、何が楽しいのかさえ彼自身にも分からない。
「あひ、あは、ハは……」
狂ってしまいそうだと思った。けれど本当は、もうとっくの昔に狂っていたのかもしれない。
気が遠くなる程の時間を孤独に過ごして、自傷と自食を繰り返す。そんな事が出来るような構造を、している人間など居やしないのだから。
「アハハハハはハハハハははハハハハハハハハハハはハハハハははハハハハハハッッ!!」
笑いながら、洞窟の底から空を見る。崩れて出来た岩穴の先、その先にはきっと何かがある。この飢えを満たしてくれるモノなら嬉しいなと、割れた卵の中から外を目指した。世に災厄を齎す最後の大悪が、この日卵の中から生まれたのだ。
――さあ、生れ落ちよ。お前こそが、第五の魔王。ヒビキ・タツミヤ=アジ・ダハーカ――
産声が響く。歓喜するような、嘆き悲しむような、自嘲し嫌悪するような、笑い声が豪雨の中に響いて消えた。
2月11日は主人公の誕生日です。




