第49話 弊社では蟻の駆除は取り扱っておりません
山崎正志(42)は、都内の害虫駆除会社「サニーテック」で働くベテラン技術員だった。
シロアリ、ゴキブリ、ハチ、ダニ——退治してきた虫の種類は数知れない。だが、今はもう、“退治”という言葉すら、慎重に選ばなければならない時代だ。
「山崎さん、午後の現場、杉並区の一戸建てです。ウッドデッキの下、蟻だそうです」
事務の若い女性職員がそう言ったとき、彼は思わず顔をしかめた。
「……蟻っ!?」
「ええ。ただ、クロオオアリらしいので、通報処理でお願いします」
確認するまでもない。会社のマニュアルには、こう書かれている。
【都市型共生法施行に伴い、2025年以降、蟻類の直接駆除は禁止となりました。
駆除依頼があった場合、現場確認後、共生保全局への通報を行ってください】
つまり、殺すな、触るな、報告だけしろ。
依頼主の家は、整った新興住宅地にあった。若い夫婦と小さな子ども。ウッドデッキの下には、確かに大量の蟻が行き交っている。
「このへん、毎日子供が遊ぶんです。なんか……最近、数が増えてる気がして」
夫が言う。
「今ホームセンターでも薬剤売ってなくて…駆除っていうか、薬でも撒いてもらえたら」
山崎は無言で地面を覗き込む。目の前にあるのは、ただの土の隙間ではない。
幾筋もの蟻の列が、規則正しく動き回り、中央には巣穴と思しき開口部。数百匹、いや、数千か。
「申し訳ありませんが……当社では蟻の駆除は取り扱っておりません」
山崎はそう告げ、丁寧に一礼した。
「は? え、でも、ここ虫駆除の会社ですよね? ほら、書いてあるじゃないですか、“家庭の害虫、なんでもお任せ”って」
「ええ。ただ……蟻類は2026年以降“保護生物”に分類されております。都市型共生法、第四条の規定により、住環境との接触が確認された場合、まず通報義務が発生します」
夫婦は呆気に取られたような顔をしていた。
妻が小声で「じゃあ、どうすればいいんですか……このまま子供が噛まれたりしたら」とつぶやいた。
「対応は“蟻生態保全管理センター”が行います。こちらが窓口です」
山崎は、準備していた名刺サイズの紙を差し出す。
そこには、QRコードと共に、こう書かれていた。
「この土地は、蟻の生活圏かもしれません。
あなたの暮らしを、もう一度見つめ直しましょう。」
帰社後、山崎は「蟻類接触報告書」を作成し、政府のシステムに送信した。
コロニーの種類、規模、人間との接触リスク。全部、標準化された報告フォーマットに沿って記入する。
送信ボタンを押した瞬間、モニターに表示された。
「報告完了:本件は“占有申請対象”として審議されます」
それから三日後。
件の住宅が「共生生物占有指定区域」に登録されたという通知が届いた。
“人間の生活による干渉が確認されたため、居住制限措置を実施”とのこと。
依頼主の家は引っ越しを余儀なくされた。
SNSにはすでに現地の写真が上がっていた。家の前には黄色いテープとバリケード。
「また出た。“蟻土地”指定。人間どんだけ邪魔なんだよ」 「ガキが遊んで蟻の巣壊したらどうすんだよ。殺蟻未遂だぞ」 「ちゃんと共生考えない親が悪いよね」 「蟻様の家の上に家建てといて何言ってんの?」
ニュースでも取り上げられ、コメンテーターが言う。
「人間の方が新参者ですからね。共生というのは、まず“敬意”から始まるべきなんですよ」
山崎は、自宅のソファでそのニュースを見ながら、無言でコーヒーを啜った。
虫に殺虫剤をかけていた頃の感覚は、もう遠い昔の話だ。
かつての「害虫」は、いまや“市民”として扱われる。
権利があり、法律に守られ、踏めば「未遂」、殺せば「重罪」。
それでも、まだ依頼は後を絶たない。
人間は、やっぱり虫を恐れる。
だが今は、それを口に出すことすらタブーなのだ。
スマホに新しい現場指示が届いた。
「明日 9:00〜 蟻類通報対応(港区タワマン内)」
「備考:依頼者 情緒不安定につき慎重対応を」
山崎は、工具箱から殺虫剤をそっと抜き取って棚に戻した。
もう、あれは使えない。二度と。
代わりに、通報書式が入った端末を丁寧にケースへ入れ、制服を整える。
まるで自分が、蟻の監視員にでもなったかのように思いながら。




