表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/279

第48話 ごめんなさいの声、聞こえましたか?

柏木優(28)は、毎朝同じ時間に同じ歩道を通って会社へ向かう、どこにでもいるようなサラリーマンだった。

その日も、前夜の雨で濡れた歩道を、少しだけ急ぎ足で歩いていた。すると、足元で——


「ぷちっ」


明らかに何かを踏んだ感触がした。

見下ろすと、そこには蟻。小さな黒い体が、足の下で微かに痙攣している。


(やば……今の……)


顔が青ざめる。

そして柏木は誰も見ていないか、周りを見渡す。

ほっとした、その瞬間、後ろから小さな声が飛んできた。


「おじさん……今、蟻さん踏みましたよね?」


振り向くと、小学校低学年ほどの女の子がこちらをじっと見ていた。

ランドセルを背負ったその子は、スマホを取り出して写メを撮る


「おじさん、“蟻傷害未遂”で警察呼びますよ?」


「ちょ、ま、待って、待ってくれ、殺してない!ほら、まだ生きてるから…ねっ…足が……動いてる!」


柏木が必死に弁解する間にも、少女はスマホの画面をタップする。


「警察に言えばすぐだよ?今なら“示談”扱いで済むかもしれないけど。

ちゃんと謝ったら、考えてあげてもいいよ」



柏木の顔から血の気が引いた。


その場にはいつの間にか数人の通行人が立ち止まり、スマホをこちらに向けていた。

「マジかよ……」「うわ、終わったな」

そんな声が耳に届く。


(謝れ。とにかく謝れ!)


柏木は膝をついた。

雨でぬれた歩道に手をつき、震える声で言う。


「す、すみませんでした……!踏むつもりはなかったんです、本当に、本当に……!」


「声が小さいよ?」


少女が冷たく言う。

(わかったよ…このっ、クソガキが…)


柏木は小さな蟻に向かって、地面に額を付け大声で叫ぶ。


「ごめんなさい!!あなたの命を、軽く見ていました!!ほんとうに申し訳ありませんでした!!」




蟻が、わずかに脚を動かした。

少女はスマホを見て、小さく微笑み、うなずいた。


「ちゃんと謝ったから、許してくれたね…警察に言うの見逃してあげる」




◆ 会社

数日後、出社した柏木はロビーの顔認証ゲートの前で足を止めた。


いつも通り通れるはずだった——が、今日は違った。

ゲートのモニターに一瞬、赤い警告が走った。


「注意:蟻社会共生法・接触通報件数 1 件」

「分類:傷害未遂(経過観察対象)」

「社内評価システムに通知済み」



(……やばい。通報されてる)

周囲の数名が、わずかに視線を向けた。ゲートは数秒後に青に変わり、柏木は何事もなかったかのように中へ入る。だが、背中に冷や汗が滲んでいた。


エレベーターに乗り込んだとき、顔見知りの後輩がぽつりと言った。


「先輩、先日……あれ、もしかして土下座してた動画って……」


「……あぁ。たぶん、俺だ」


「マジっすか……めっちゃバズってましたよ。“模範市民、蟻に謝る”ってタグで。再生十万超えてたっす」


柏木は無言で下を向いた。



自席に戻ってしばらくしてると、社内チャットが通知を鳴らした。

人事部からだった。


件名:「お時間のお願い(コンプライアンス面談)」 「柏木様 本日昼休み、2階相談室にて短時間のお話をお願いできればと思います」



(……まずいな…)


昼休み、コンプライアンス相談室。

小さな会議室に入ると、人事課長と広報の担当者が待っていた。


「柏木くん、まぁ、座って」


課長は穏やかな声で言ったが、空気は重かった。


「先日の件、うちにも正式に通報が上がってきたよ。“未遂”扱いとはいえ、警戒対象だ。

社内の評価にも、当然ながら影響は出る」


広報の女性がフォローするように続けた。


「今回は“悪質性は低い”とのことだったので、重い処分ではなく、社内的には“厳重注意”扱いにします。

ただし……今期の昇進推薦については、一旦“棚上げ”になったわ。ごめんなさいね」


柏木はうつむいたまま、小さく頷いた。


「あと、啓発プログラムだけは受けてもらう。“都市生物との共生マナー”ね。今後の社内記録のために必要になるから」


課長が書類を差し出す。


昼休みの終わり、柏木はロビーのベンチに腰掛け、スマホを開いた。

SNSのトレンドに「#模範市民 #蟻に土下座」が並んでいる。


動画が再生される。

地面に額をつけ、声を震わせて謝る自分。


テロップが被さる。


「小さな命を守る、大きな社会。

——あなたの“ごめんなさい”が、未来を変える」

提供:蟻社会共生省




柏木は、苦笑いすらできずに、指は自然とコメント欄へと滑っていた。


そこには、無数の“正義”が並んでいた。


「謝って済む問題じゃない。命を踏み潰しかけたんだぞ?」

「“まだ生きてるからセーフ”って思考がもう終わってんな。それ人間にも言えるのか?」

「あの蟻が一匹じゃなかったらどうすんの?コロニー壊滅だったかもしれんぞ?」

「蟻の命を“虫”ってだけで軽く扱うから、こういう奴が出てくるんだよ」

「何が“模範市民”だよ。加害者のくせに持ち上げられるの、おかしくない?」

「蟻さん、よくぞ耐えてくれた……柏木は一生反省し続けろ」

「ちゃんと償ってほしい。蟻社会共生法ができても、意識が変わってない証拠」

「正直、殺してなくても“未必の故意”だと思うんだよね」

「あれで“かわいそう”なのが柏木って言ってる奴、まじで感覚バグってる」

「自分の靴の下の命も守れないような奴が、よく働いてるな。社会から消えてくれ」



人間としての謝罪は済ませたつもりだった。

だが画面の中では、彼が“殺し損ねた加害者”として、非難と嘲笑の的になっていた。


柏木は、乾いた喉に唾を飲み込みながら、スマホを伏せた。

まるで彼自身が、巨大な巣の中で一匹だけ“異物”として孤立しているような気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ