第48話 ごめんなさいの声、聞こえましたか?
柏木優(28)は、毎朝同じ時間に同じ歩道を通って会社へ向かう、どこにでもいるようなサラリーマンだった。
その日も、前夜の雨で濡れた歩道を、少しだけ急ぎ足で歩いていた。すると、足元で——
「ぷちっ」
明らかに何かを踏んだ感触がした。
見下ろすと、そこには蟻。小さな黒い体が、足の下で微かに痙攣している。
(やば……今の……)
顔が青ざめる。
そして柏木は誰も見ていないか、周りを見渡す。
ほっとした、その瞬間、後ろから小さな声が飛んできた。
「おじさん……今、蟻さん踏みましたよね?」
振り向くと、小学校低学年ほどの女の子がこちらをじっと見ていた。
ランドセルを背負ったその子は、スマホを取り出して写メを撮る
「おじさん、“蟻傷害未遂”で警察呼びますよ?」
「ちょ、ま、待って、待ってくれ、殺してない!ほら、まだ生きてるから…ねっ…足が……動いてる!」
柏木が必死に弁解する間にも、少女はスマホの画面をタップする。
「警察に言えばすぐだよ?今なら“示談”扱いで済むかもしれないけど。
ちゃんと謝ったら、考えてあげてもいいよ」
柏木の顔から血の気が引いた。
その場にはいつの間にか数人の通行人が立ち止まり、スマホをこちらに向けていた。
「マジかよ……」「うわ、終わったな」
そんな声が耳に届く。
(謝れ。とにかく謝れ!)
柏木は膝をついた。
雨でぬれた歩道に手をつき、震える声で言う。
「す、すみませんでした……!踏むつもりはなかったんです、本当に、本当に……!」
「声が小さいよ?」
少女が冷たく言う。
(わかったよ…このっ、クソガキが…)
柏木は小さな蟻に向かって、地面に額を付け大声で叫ぶ。
「ごめんなさい!!あなたの命を、軽く見ていました!!ほんとうに申し訳ありませんでした!!」
蟻が、わずかに脚を動かした。
少女はスマホを見て、小さく微笑み、うなずいた。
「ちゃんと謝ったから、許してくれたね…警察に言うの見逃してあげる」
◆ 会社
数日後、出社した柏木はロビーの顔認証ゲートの前で足を止めた。
いつも通り通れるはずだった——が、今日は違った。
ゲートのモニターに一瞬、赤い警告が走った。
「注意:蟻社会共生法・接触通報件数 1 件」
「分類:傷害未遂(経過観察対象)」
「社内評価システムに通知済み」
(……やばい。通報されてる)
周囲の数名が、わずかに視線を向けた。ゲートは数秒後に青に変わり、柏木は何事もなかったかのように中へ入る。だが、背中に冷や汗が滲んでいた。
エレベーターに乗り込んだとき、顔見知りの後輩がぽつりと言った。
「先輩、先日……あれ、もしかして土下座してた動画って……」
「……あぁ。たぶん、俺だ」
「マジっすか……めっちゃバズってましたよ。“模範市民、蟻に謝る”ってタグで。再生十万超えてたっす」
柏木は無言で下を向いた。
自席に戻ってしばらくしてると、社内チャットが通知を鳴らした。
人事部からだった。
件名:「お時間のお願い(コンプライアンス面談)」 「柏木様 本日昼休み、2階相談室にて短時間のお話をお願いできればと思います」
(……まずいな…)
昼休み、コンプライアンス相談室。
小さな会議室に入ると、人事課長と広報の担当者が待っていた。
「柏木くん、まぁ、座って」
課長は穏やかな声で言ったが、空気は重かった。
「先日の件、うちにも正式に通報が上がってきたよ。“未遂”扱いとはいえ、警戒対象だ。
社内の評価にも、当然ながら影響は出る」
広報の女性がフォローするように続けた。
「今回は“悪質性は低い”とのことだったので、重い処分ではなく、社内的には“厳重注意”扱いにします。
ただし……今期の昇進推薦については、一旦“棚上げ”になったわ。ごめんなさいね」
柏木はうつむいたまま、小さく頷いた。
「あと、啓発プログラムだけは受けてもらう。“都市生物との共生マナー”ね。今後の社内記録のために必要になるから」
課長が書類を差し出す。
昼休みの終わり、柏木はロビーのベンチに腰掛け、スマホを開いた。
SNSのトレンドに「#模範市民 #蟻に土下座」が並んでいる。
動画が再生される。
地面に額をつけ、声を震わせて謝る自分。
テロップが被さる。
「小さな命を守る、大きな社会。
——あなたの“ごめんなさい”が、未来を変える」
提供:蟻社会共生省
柏木は、苦笑いすらできずに、指は自然とコメント欄へと滑っていた。
そこには、無数の“正義”が並んでいた。
「謝って済む問題じゃない。命を踏み潰しかけたんだぞ?」
「“まだ生きてるからセーフ”って思考がもう終わってんな。それ人間にも言えるのか?」
「あの蟻が一匹じゃなかったらどうすんの?コロニー壊滅だったかもしれんぞ?」
「蟻の命を“虫”ってだけで軽く扱うから、こういう奴が出てくるんだよ」
「何が“模範市民”だよ。加害者のくせに持ち上げられるの、おかしくない?」
「蟻さん、よくぞ耐えてくれた……柏木は一生反省し続けろ」
「ちゃんと償ってほしい。蟻社会共生法ができても、意識が変わってない証拠」
「正直、殺してなくても“未必の故意”だと思うんだよね」
「あれで“かわいそう”なのが柏木って言ってる奴、まじで感覚バグってる」
「自分の靴の下の命も守れないような奴が、よく働いてるな。社会から消えてくれ」
人間としての謝罪は済ませたつもりだった。
だが画面の中では、彼が“殺し損ねた加害者”として、非難と嘲笑の的になっていた。
柏木は、乾いた喉に唾を飲み込みながら、スマホを伏せた。
まるで彼自身が、巨大な巣の中で一匹だけ“異物”として孤立しているような気がした。




