第50話 山に棲むひと
杉谷という集落は、地図ではすでに灰色で塗られていた。
「定住人口ゼロ」、最後の商店が閉じたのは十年前、郵便局はもっと前だ。
その廃村同然の土地に、国の“共生生物観察事業”の名のもと、一人の男が派遣された。
加瀬拓真、二十九歳。共生保全局の若手調査員である。
だが今回の調査依頼は、あまりに異例だった。
——「山中に未報告の蟻のコロニーがある」
——「現地の老人が蟻と話している」
そんな投書のような密告文が、局の通報フォームに送られてきたのだ。
差出人の氏名欄は空白で、差し込み式の記述も多かったが、「位置情報だけは異常に正確」と、上司は言った。
「行ってこい。現地対応、あとは任せるぞ!」 それだけだった。
加瀬が山道に足を踏み入れたのは、午後四時を回っていた。
舗装はとっくに途切れ、スマートフォンの電波も二本だったが、やがてゼロに。
ザリ……ザリ……と足元で何かが音を立てるたび、彼は無意識に足を止めた。
虫は嫌いじゃないが、近年の共生法改正で、踏むことすら神経質にならざるを得ない。
空気が澄んでいる。鳥も鳴かない。音のない山。
やがて、杉の木立の中にぽつりと一軒の家が現れた。
「ここか…」
——そこは古民家。だが手入れはされている。
畑もある。小さいけれど野菜が植えられ、土は掘り返されたばかりだった。
「んっ……人が、いる?」
加瀬は声をかける。
玄関脇の木製の呼び鈴を鳴らすと、少しして、戸が開いた。
「……ああ、役人か。来たんだな」
現れたのは、六十代半ばの男だった。
黒い作務衣のような服に、薄汚れた帽子。眼は細く、だがどこかよく光っていた。
「蟻の件で——」
「ああ…知ってるよ。お前が来るってことも、奴らが教えてくれた」
「奴ら…?……誰が?」
男はゆっくりと畑のほうを顎でしゃくる。
そこには、地面にうねるように続く無数の蟻がいた。
その中心——丸く抉れた巣穴のそばに、小さな石が何個か積まれている。
男は、そこに静かにしゃがみこみ、ぼそりと呟いた。
「こいつら、話すんだよ。言葉じゃねぇが、独特な特異な言語で…」
加瀬は、言葉を失った。
目の前の男は、狂人か、それとも——
「人間なんかと話すより、よっぽど誠実だ」
男はそう言って、笑った。
——そして加瀬は、知ることになる。
この土地が、なぜ「踏み込むべきではなかった」のか。
人間が忘れてきたものの、最後の断片が、そこに残っていた。
加瀬は、足を止めたまま、男の姿を見つめていた。
石の積まれた蟻塚のそばで、男はまるで祈るように腰を落とし、手を膝に添えている。
「……冗談、ですか?」
「冗談だったら、どれだけ楽かねぇ」
男は笑わずに言った。
蟻たちは、その足元でまるで波のように蠢いていた。
「昔な、まだこの集落にも人が何人か残ってたころ……最初にこいつらと話したのはその婆さんだった。耳が遠くなって、世間とも離れていって……そんなとき、庭にいた蟻と“通じた”って言いだしたんだ」
「通じた?」
「そう。“通じた”。最初から、向こうに意志があって、それがこっちに届いた。……婆さんは、それを“ぬくもり”って言ってたよ」
加瀬は、背筋を少し震わせた。
ただの民間伝承。よくある山村の迷信、狂気。そう処理するには、あまりにも場が澄みすぎている。
「で……その婆さんは?」
「もう、とうに死んだよ。骨になっても、きっとこの辺におるよ。蟻たちが、全部知ってる」
「もしかしたら、その白いの、骨かもな…」
そして、男はゆっくりと巣穴の横の小石に触れた。
まるで墓石のような形に積まれている。いや、実際に墓なのかもしれなかった。
「アンタも聞いてみろよ。……じっとして、耳すませりゃ、分かるかもしれん」
加瀬は、半ば呆れ、半ば不安を抱えたまま男の隣にしゃがみこんだ。
土の匂い。風の通り。ざわ……ざわ……と、地中からわずかに響く音。
蟻たちは、列を崩すことなく、ただ静かに動いている。
——そのときだった。
「タ・ク・マ」
耳元で、誰かが呼んだ気がした。
「えっ……!」
加瀬は反射的に身を引いた。心臓が跳ねる。
「いま、何か……」
「言っただろ。“言葉じゃねぇ”。でも、届くんだよ、あいつらの想いは」
男は立ち上がり、山のほうを振り返る。
「……ついてきな。話すより、見せた方が早い」
加瀬は、迷いながらも立ち上がった。
男の背について山道を登る。木々の隙間から、夕陽が斜めに差し込んでいた。
地面には蟻の列がずっと続いている。まるで、山の奥へ導くように。
どこかでカラスが鳴いた。
風が吹いた。
加瀬の背中に、汗が一筋、流れた。
——この先に、“知られてはいけない何か”がある。
そんな予感が、どうしても拭えなかった。
加瀬は結局、何も言葉を聞くことはできなかった。
耳をすませても、蟻たちはただ這い回るだけで、どこかの音に紛れたような「呼び声」は、再び現れることはなかった。
「すみません……やっぱり、僕にはわかりません」
加瀬が立ち上がると、男は肩をすくめた。
「まあ、そういうもんさ。初めて来て、すぐ分かったら俺も困る」
「すみません、いろいろと。でも、確かに……静かで、不思議な場所ですね」
「だろ? だから俺はここに残ってる」
加瀬は一礼し、帰路についた。
「……貴重なお話、ありがとうございました」
「礼には及ばねぇよ。あんたも、気ぃつけて帰りゃあな」
——調査報告書には、こう書かれた。
《当該地域にて異常な蟻のコロニーや知性の兆候は確認されず。通報者と思しき男性は高齢であり、真実は不明。村全体に文化的残滓が残されているが、継続調査の必要は低いと判断》
加瀬はそのまま部署異動となり、都市部の開発申請関連の部署に移った。
数カ月後、その男は警察に捕まったと聞く…
「行方不明者の捜索時の情報提供により逮捕」と報道されていたが、遺体がすべて見つかったわけではない。
まさか、あの巣穴の横の小石って…
加瀬はその報せをニュースで見て背すじが凍った。
ふと、あの巣穴の前で男がつぶやいた言葉を思い出した。
《——通じるんだよ。言葉じゃねぇが、向こうには向こうの“理”がある》




