終.そして
日が翳り、暗く冷えた部屋の中で、エルネスティは座り込んでいた。
──フローブルクの、彼の家の、彼の部屋で。
オルトは、あれで随分と抜け目がなかった、と思う。きっと、だから、今にしれっと戻ってきて、「なんだ、心配してたのか」なんて、私をにやにや笑いながら見て……。
だから、きっと……。
「……約束通り迎えに来たんだけど、エルネスティ、君、いったい何があったのさ」
期待していた者とは違う者に声を掛けられて、エルネスティはゆるゆると顔を上げた。「ユールさん……」と呟く彼女の顔を見て、ユールが顔を顰める。
「……いや、ごめん、なんとなく想像はついたよ。それにしても酷い顔だね。まさかここにずっと座りっぱなしだったの?」
「そういうわけじゃ、ないわ」
ユールはエルネスティを見下ろして、自分をぼんやりと見返すだけの彼女にもう一度顔を顰めると、いきなり担ぎ上げた。
「何を、するの」
「ちょっとしっかりしてもらおうと思って」
ユールはそのまま風呂場でエルネスティを降ろすと、頭から水を掛ける。
「このまま連れ帰ってもいいけど、そうすると間違いなくエディトが心配するし、他人から要らない詮索を死ぬほど受けることになるよ。君はそれで大丈夫?」
エルネスティは黙って俯いたままだ。
「……せめて見た目だけでも取り繕ってもらうよ」
ユールはそれから淡々と湯を沸かし、エルネスティにもう一度浴びせた。
「じっとしてて。僕はこういうの慣れてるから」
手っ取り早く石鹸を泡立て、「失礼」と服も脱がしてしまう。
「ああ、洗うだけで妙なことはしないから安心して。エディトに殺されたくないしね」
ごしごしと、まるで犬猫を洗うように手早く垢を擦り落とし洗い流すとぐるぐると布で包み、「服がきれいになるまで、しばらくそのままでいて」と、またエルネスティをこの家の居間へと運んで長椅子に置いた。
それから勝手にこの家にあった魔道具を漁り……。
「じゃあ、始めようか。君の持っているその指輪なら魔力痕もあるし、媒介になるからね」
「……何を始めるの?」
「君がまた立ち上がるための儀式かな」
立ち上がる? とぼんやりと顔を上げるエルネスティの腕を取り、その指から指輪を抜き取る。オルトが最後にはめた指輪を。
「エルネスティ、見ているといい。君の共同研究者が無事なら、遠見の魔法がここに映してくれるはずだ」
「けど、結界が」
ユールは、ふ、と嗤う。
「僕を見縊らないでほしいな。たいていの結界は僕を阻む壁にすらならないよ」
そう言ってユールは水を満たした水盤の前に立つと、エルネスティから外した指輪を水に浸し、魔法の詠唱を始めた。遠く離れた者を映すはずの、遠見の魔法を。
「エルネスティ、おいで。覗いてごらん」
そう言われてゆるゆると立ち上がり、水鏡を覗き込む。
「……何も、映らないのね」
「うん。つまり、そういうことだよ」
「間違いでは、ないのね」
「そうだね」
へたへたとまた座り込むエルネスティを、ユールは見やる。少しやり過ぎただろうかと少しだけ心配しつつ、じっとようすを観察する。
「馬鹿……」
そのまま膝を抱え、顔を伏せたエルネスティは、微かな声で呟いた。
そんなこと、望んでなかったのに。
どれだけ私のこと馬鹿にすれば気が済むの。
「ほんと、馬鹿……」
最後の最後で、彼が何をしようとしてるかわからなかったなんて、私も大馬鹿だ。
「ふたりとも、馬鹿もいいとこだわ」
エルネスティは、はあ、と大きな溜息を吐く。これから私はどうすればいい?
「ねえ、ユールさん……あなた、エディトの魔法の師匠なのよね」
「そうだよ」
突然話を振られて、ユールは訝しげに目を細めた。
「私も、魔法の訓練をしてほしいの」
ユールは目を細めたままじっとエルネスティを見つめる。
「理由は?」
「それは聞かないで欲しい。でも、私、どうしても訓練をしなきゃいけない」
「……君の素養は、僕向きじゃないんだよね」
「それじゃ、訓練してもらえないの?」
慌てて顔を上げると、ユールは「落ち着いてよ」と笑った。
「そうじゃなくて、僕向きじゃないから他を紹介するってことさ。
……厳しい訓練で定評あるし癖のあるやつだけど、面倒見はいいはずだから。あとひとつ。余計なことは他言しないという約束もしてくれる?」
「……余計なこと? 訓練を受けられるならなんでもいいわ。厳しいくらい、いくらでも耐えるもの」
「頼もしいね」
ユールはくすりと笑う。
「話を通さなきゃいけないけど……めんどくさいな。たぶん、今はすごく暇なはずだから、直接行ってみるかい?」
「ここだよ」
その後すぐにエルネスティが連れて行かれたのは、王都の一角、貴族街にある邸宅のひとつだった。使用人の気配もなく、大きい割にがらんとして人の気配がない。
ユールは気にせず門をくぐると、正面の扉までをがちゃりと開け放った。
「おーい、いるかい?」
ユールの声に、顔を顰めた長身の男が奥から出てきた。すぐにエルネスティにも気づいて、いっそう眉間の皺を深くする。
「突然何の用だ。……そいつは?」
「彼女はエルネスティ。王都の魔法使いの親友だよ。どう、この子弟子にしてみない? 君、エルちゃんいなくなってからずっと暇してるだろ?」
訝しげに睨むように見られて、ユールはにやりと笑う。
「いいじゃないか。僕、エルちゃんの件でずいぶん君に便宜を図ったし、ヴェロニカ様のとこだって黙って追い出されてやったよね。君がダメだというから、僕の主義を曲げてまで付き合ってやったんだ、このくらい聞いてくれても罰は当たらないと思うんだけど」
彼はしばらくじっと考え……ひとつ溜息を吐いてから、「……仕方あるまいな」と頷いた。
エルネスティは驚いた表情のまま、そのやりとりをじっと見ていた。
「尖った耳……妖精? でも色が……?」
「さすが魔法使いだね。気づいた?」
おもしろそうに笑むユールに目を瞠り、「何が……って、まさか」角は無いけれど、その色はそのまま「……魔族の色? どういうことなの?」と、目を見開いたまま、ふたりを見比べる。
「そういうことだよ。だから他言無用って言ったろう? ……彼は、たぶん僕らの中でもいちばん魔法に詳しいよ。君の要求に十分以上に応えられるはずだけど。君は魔法の訓練をしたいんだろう? それも、全部の系統の」
エルネスティはごくりと唾を飲み込んだ。
僕ら? ではユールさんも? 確かに彼の髪も黒いけれど……つまり、エディトから預かった守りの指輪は?
まさか、王都のこんな場所に魔族がいるなんて思いもしなかった、けれど……。
エルネスティはもう一度唾を飲み込み、口の端を持ち上げ、笑顔を作った。
「望むところだわ。魔族は数ある種族の中で最も魔法に長けているというもの。その魔族の教えが受けられるなんて、僥倖よ」
その角の無い魔族もくっと口の端を上げて笑う。
「その意気はなかなか見所があるな。わたしのことはカルシャと呼ぶがいい」
「私はエルネスティよ。師団の第2に所属してるわ。
……ところで、あなた、カルシャは角だけ隠しているのはなぜ? なぜ色は変えないのかしら?」
「ああ、これは別に隠しているわけではない、預けてあるだけだ」
「預けて?」
角だけ預けるとはどういうことなの、と眉根を寄せるエルネスティに、彼はにやりと笑う。
「うむ。お前も師団の魔法使いならば見たことくらいはあるだろう。騎士団に預けてあるのが、わたしの角だ」
「え? つまり、あなた……」
魔王カルシャは目を丸くするエルネスティにくつくつと笑った。




