↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新浦島太郎  作者: ISM
第3章 海の向こう側
PR
9/26

2 二人で見る海



 土曜日の朝、新太郎はいつもより少し早く目を覚ました。

 カーテンを開けると、空はよく晴れていた。昨日までの天気予報では午後から雲が広がると言っていたが、今のところその気配はなかった。

 スマートフォンを手に取り、もう一度天気予報を確認する。

 三浦半島の降水確率は低く、風もそれほど強くない。

 まずまずの天気だった。

 新太郎はキッチンでコーヒーを淹れ、トーストを焼いた。

 今日は釣りではない。

 そのため、いつものように夜明け前に起きる必要もなければ、重い道具を持って出掛ける必要もなかった。

 代わりに、何を着ていくかで少し迷った。

 クローゼットからシャツを二枚取り出し、鏡の前で交互に合わせてみる。

 結局、紺色のシャツにベージュのチノパンを選んだ。

 釣りに行くときなら、服装に迷うことなどほとんどない。

 新太郎は鏡を見ながら苦笑した。

 午前九時半、駅前のロータリーにレンタカーを停めた。

 今日は芽と三浦半島へ行くことになっている。

 最初は電車で行くことも考えたが、海岸をいくつか回るなら車のほうが便利だった。芽に相談すると、彼女も賛成してくれた。

 待ち合わせは十時。

 新太郎は車のエンジンを切り、スマートフォンを確認した。

『おはようございます。もう着いてます』

 送信すると、すぐに返事が来た。

『私も、もうすぐです』

 新太郎は車を降り、ロータリーの歩道に立った。

 しばらくすると、駅の出口から芽が現れた。

 淡い水色のシャツに白いパンツ。足元は歩きやすそうなスニーカーで、肩には小さなショルダーバッグを掛けていた。

 新太郎に気づくと、芽は笑顔で手を振った。

「おはようございます」

「おはようございます」

「今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ。いい天気になってよかったですね」

「はい。昨日からずっと天気予報を見てました」

「俺もです」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 新太郎が助手席のドアを開けると、芽は少し驚いたように目を丸くした。

「ありがとうございます」

「どうぞ」

「なんだか、お姫様になったみたい」

「そんな大げさな」

 芽は笑いながら乗り込んだ。

 新太郎も運転席に座り、シートベルトを締めた。

「車、酔ったりしません?」

「大丈夫です」

「途中で休みたくなったら言ってください」

「はい。ありがとうございます」

 ナビに目的地を設定し、車を発進させた。

 都内の道路は思ったほど混んでいなかった。

 しばらくは住宅街やビルの間を走り、高速道路に入る。

 芽は窓の外を眺めながら、時折楽しそうに声を上げた。

「こうやって遠出するの、久しぶりです」

「そうなんですか?」

「はい。最近は休みの日も家にいることが多くて」

「仕事が忙しいから?」

「それもありますね」

 芽は少し笑った。

「でも、今日は仕事のこと、忘れようと思ってます」

「それがいいですよ」

「新太郎さんも、今日は釣りのこと忘れてくださいね」

「えっ、釣りはだめですか?」

「ふふっ。冗談です」

「実は、ちょっとだけ道具を積んでるんですけど」

「本当ですか?」

「はい。もしやりたくなったら、少しだけできるように」

「わあ、楽しみ」

 芽は嬉しそうに笑った。

「でも、私、全然分からないですよ」

「大丈夫です。簡単なのを教えますから」

「じゃあ、先生ですね」

「そんな大したものじゃないですけど」

 車内に、穏やかな笑い声が広がった。

 横浜を過ぎ、車窓の景色が少しずつ変わり始めた。

 高い建物が減り、緑の多い丘陵地が見えてくる。

 芽は窓の外を眺めながら言った。

「不思議ですね」

「何がですか?」

「東京からそんなに離れてないのに、景色が全然違う」

「そうですね」

「何だか、旅行に来たみたい」

「一応、日帰り旅行ですよ」

「そうか。そうですね」

 芽は楽しそうに笑った。

 横浜横須賀道路を南へ進み、衣笠インターチェンジから三浦縦貫道路へ入った。

 やがて畑が広がる道に出ると、遠くに青い海が見え始めた。

「あっ、海!」

 芽が窓の外を指さした。

「見えました?」

「はい!」

 彼女は子どものように身を乗り出しかけ、すぐに姿勢を戻した。

「すごい。きれい」

 新太郎は前を見ながら笑った。

「まだ、これからですよ」

「え?」

「もっと近くまで行きますから」

 芽は嬉しそうに頷いた。

 最初に向かったのは、三浦半島の南西側にある荒崎海岸だった。

 岩場が多く、相模湾に面した景色が広がる場所だ。天気がよければ、遠くに富士山が見えることもある。

 駐車場に車を停め、二人は海岸へ向かった。

 潮の匂いがした。

 波の音が、風に乗って聞こえてくる。

 遊歩道を少し歩くと、目の前に海が広がった。

「わあ……」

 芽が立ち止まった。

 青い海の向こうには、淡く霞んだ水平線が伸びていた。

 岩場に波が寄せ、白いしぶきを上げている。

 遠くには小さな船が浮かんでいた。

「どうですか?」

 新太郎が尋ねた。

 芽はすぐには答えなかった。

 ただ、海を見つめていた。

 やがて、ゆっくりと口を開いた。

「……来てよかった」

 その声は、いつもより少し小さかった。

「まだ着いたばかりですよ」

「そうですけど」

 芽は笑った。

「でも、もう十分なくらい」

 新太郎は彼女の横に立った。

 風が吹き、芽の髪が頬にかかった。

 彼女はそれを耳に掛けながら、もう一度海を見た。

「やっぱり、海っていいですね」

「そうですね」

「ずっと見ていられそう」

 新太郎は、先週届いたメッセージを思い出した。

『ずっと見ていられるような海、かな』

 芽が望んでいたのは、こういう景色だったのかもしれない。

 二人は海沿いの道をゆっくり歩いた。

 足元には、ごつごつした岩が続いている。新太郎は歩きやすい場所を選びながら進んだ。

「滑りやすいところもあるので、気をつけてください」

「はい」

 芽は慎重に足を運んだ。

 しばらくすると、岩のくぼみに小さな潮だまりが見えた。

「あ、何かいます」

 芽がしゃがみ込んだ。

 水の中には、小さなヤドカリがいた。

 貝殻を背負い、岩の陰をゆっくり移動している。

「ヤドカリですね」

「かわいい」

 芽はじっと見つめた。

「これ、何をしてるんでしょう」

「たぶん、餌を探してるんじゃないですかね」

「そうなんだ」

 芽はしばらく観察していた。

 新太郎は少し先で立ち止まり、彼女を待った。

「すみません。つい夢中になっちゃって」

「いいですよ。急いでないですから」

 芽は立ち上がり、笑った。

「私、昔からこうなんです」

「こうって?」

「何か気になるものを見つけると、すぐ立ち止まっちゃうんです。歩くのも遅いし」

「そうなんですか?」

「はい。小学校のころなんて、よく友達に置いていかれました」

「へえ」

「それで、あだ名が『かめ』だったんです」

「かめ?」

「香椎の『か』と、芽の『め』を取って、かめ。のんびりしてたから、ちょうどいいって」

 新太郎は思わず笑った。

「なるほど。よくできてますね」

「でしょう? でも、当時はあんまり嬉しくなかったんですよ」

「どうして?」

「だって、いつものろまって言われてるみたいで」

「まあ、そうかもしれませんね」

「でも、今はちょっと気に入ってます」

 芽は笑った。

「かめって、長生きするでしょう?」

「確かに」

「それに、急がないところもいいかなって」

「芽さんらしいですね」

「そうですか?」

「はい」

 芽は少し照れたように笑った。

 そして、何かを思い出したように顔を上げた。

「あ、そういえば」

「はい?」

「新太郎さん、浦島太郎って呼ばれてたんですよね?」

「ええ。よく覚えてますね」

「もちろん。面白い名前だなって思ったから」

 芽は新太郎を見て、笑い始めた。

「私がかめで、新太郎さんが浦島太郎」

「そうなりますね」

「しかも、最初に会ったとき、私を助けてくれたでしょう?」

「ああ、確かに」

「ふふっ。私たち、運命かもしれないですよ」

 新太郎は少し照れた。

「じゃあ、俺はそのうち竜宮城に招待されるんですか?」

「どうでしょうね」

 芽は少し考えるふりをした。

「招待状が届くかもしれませんよ」

「本当ですか?」

「ふふっ。いつか、きっと」

 新太郎は笑った。

「じゃあ、楽しみにしてます」

 芽は足元の小さな貝殻を拾い上げた。

 薄い桃色の、二枚貝の片方だった。

「きれいですね」

 新太郎が言った。

「でしょう?」

 芽は手のひらに載せ、光に透かすように眺めた。

「子どものころも、こうやってよく拾ってたんです」

「この前、写真を見せてくれましたよね」

「覚えててくれたんですね」

「もちろん」

 芽は嬉しそうに笑った。

 しばらくして、二人は近くのベンチに腰を下ろした。

 海からの風が心地よかった。

 遠くでは、釣り人が岩場に立って竿を出している。

 芽はその様子を眺めながら言った。

「新太郎さんも、ああいうところで釣りするんですか?」

「たまに。でも、あそこは足場が悪そうですね」

「怖くないんですか?」

「場所によります。無理はしないようにしてます」

「そうなんですね」

「釣りって、魚を釣るだけじゃないんですよ」

「え?」

「海を見てるだけでも楽しいんです」

 芽は少し考えた。

「……何だか、分かる気がします」

「そうですか?」

「はい。今日、ここに来て思いました」

 彼女は海を見た。

「こうしてると、時間がゆっくり流れてるみたい」

 新太郎も海へ目を向けた。

 波が岩に当たり、白く砕けている。

 同じような波が、何度も繰り返し寄せてくる。

「確かに、そうですね」

「でも、実際には同じ時間が流れてるんですよね」

「まあ、そうでしょうね」

 芽は微笑んだ。

「研究してると、ついそういうことを考えちゃうんです」

「職業病ですね」

「そうかもしれません」

 二人は笑った。

 そのとき、芽のスマートフォンが小さく震えた。

 彼女はバッグから取り出し、画面を確認した。

 ほんの一瞬、眉が動いた。

 新太郎は気づいたが、何も言わなかった。

 芽は画面を消し、バッグに戻した。

「すみません」

「仕事ですか?」

「はい。でも、今日は大丈夫です」

「そうですか」

「今日は、お休みですから」

 芽はそう言って、海を見た。

 その横顔には、さっきまでの笑顔が戻っていた。

 新太郎はそれ以上、何も聞かなかった。

 しばらくして、芽が立ち上がった。

「新太郎さん」

「はい?」

「お腹、空きませんか?」

 新太郎は腕時計を見た。

 もう正午を過ぎていた。

「そうですね。そろそろお昼にしましょうか」

「はい」

「この近くに、魚がおいしい店があるらしいんです」

「お魚?」

「はい。せっかく海まで来たので」

「いいですね」

 芽は嬉しそうに笑った。

 二人は駐車場へ向かって歩き始めた。

 途中、芽が何度か振り返って海を見た。

「どうしました?」

 新太郎が聞いた。

「いえ、何でもないです」

 芽は笑った。

「また来たいなって思って」

「いつでも来られますよ」

「そうですね」

 彼女はもう一度、海を見た。

 そして、小さく頷いた。

「……そうですね」

 新太郎はその言葉の意味を、特に考えなかった。

 ただ、彼女が今日を楽しんでくれていることが嬉しかった。

 空には薄い雲が広がり始めていた。

 それでも、海はまだ青かった。

 新太郎は芽の歩く速さに合わせながら、ゆっくりと駐車場へ向かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。