2 二人で見る海
土曜日の朝、新太郎はいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンを開けると、空はよく晴れていた。昨日までの天気予報では午後から雲が広がると言っていたが、今のところその気配はなかった。
スマートフォンを手に取り、もう一度天気予報を確認する。
三浦半島の降水確率は低く、風もそれほど強くない。
まずまずの天気だった。
新太郎はキッチンでコーヒーを淹れ、トーストを焼いた。
今日は釣りではない。
そのため、いつものように夜明け前に起きる必要もなければ、重い道具を持って出掛ける必要もなかった。
代わりに、何を着ていくかで少し迷った。
クローゼットからシャツを二枚取り出し、鏡の前で交互に合わせてみる。
結局、紺色のシャツにベージュのチノパンを選んだ。
釣りに行くときなら、服装に迷うことなどほとんどない。
新太郎は鏡を見ながら苦笑した。
午前九時半、駅前のロータリーにレンタカーを停めた。
今日は芽と三浦半島へ行くことになっている。
最初は電車で行くことも考えたが、海岸をいくつか回るなら車のほうが便利だった。芽に相談すると、彼女も賛成してくれた。
待ち合わせは十時。
新太郎は車のエンジンを切り、スマートフォンを確認した。
『おはようございます。もう着いてます』
送信すると、すぐに返事が来た。
『私も、もうすぐです』
新太郎は車を降り、ロータリーの歩道に立った。
しばらくすると、駅の出口から芽が現れた。
淡い水色のシャツに白いパンツ。足元は歩きやすそうなスニーカーで、肩には小さなショルダーバッグを掛けていた。
新太郎に気づくと、芽は笑顔で手を振った。
「おはようございます」
「おはようございます」
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。いい天気になってよかったですね」
「はい。昨日からずっと天気予報を見てました」
「俺もです」
二人は顔を見合わせて笑った。
新太郎が助手席のドアを開けると、芽は少し驚いたように目を丸くした。
「ありがとうございます」
「どうぞ」
「なんだか、お姫様になったみたい」
「そんな大げさな」
芽は笑いながら乗り込んだ。
新太郎も運転席に座り、シートベルトを締めた。
「車、酔ったりしません?」
「大丈夫です」
「途中で休みたくなったら言ってください」
「はい。ありがとうございます」
ナビに目的地を設定し、車を発進させた。
都内の道路は思ったほど混んでいなかった。
しばらくは住宅街やビルの間を走り、高速道路に入る。
芽は窓の外を眺めながら、時折楽しそうに声を上げた。
「こうやって遠出するの、久しぶりです」
「そうなんですか?」
「はい。最近は休みの日も家にいることが多くて」
「仕事が忙しいから?」
「それもありますね」
芽は少し笑った。
「でも、今日は仕事のこと、忘れようと思ってます」
「それがいいですよ」
「新太郎さんも、今日は釣りのこと忘れてくださいね」
「えっ、釣りはだめですか?」
「ふふっ。冗談です」
「実は、ちょっとだけ道具を積んでるんですけど」
「本当ですか?」
「はい。もしやりたくなったら、少しだけできるように」
「わあ、楽しみ」
芽は嬉しそうに笑った。
「でも、私、全然分からないですよ」
「大丈夫です。簡単なのを教えますから」
「じゃあ、先生ですね」
「そんな大したものじゃないですけど」
車内に、穏やかな笑い声が広がった。
横浜を過ぎ、車窓の景色が少しずつ変わり始めた。
高い建物が減り、緑の多い丘陵地が見えてくる。
芽は窓の外を眺めながら言った。
「不思議ですね」
「何がですか?」
「東京からそんなに離れてないのに、景色が全然違う」
「そうですね」
「何だか、旅行に来たみたい」
「一応、日帰り旅行ですよ」
「そうか。そうですね」
芽は楽しそうに笑った。
横浜横須賀道路を南へ進み、衣笠インターチェンジから三浦縦貫道路へ入った。
やがて畑が広がる道に出ると、遠くに青い海が見え始めた。
「あっ、海!」
芽が窓の外を指さした。
「見えました?」
「はい!」
彼女は子どものように身を乗り出しかけ、すぐに姿勢を戻した。
「すごい。きれい」
新太郎は前を見ながら笑った。
「まだ、これからですよ」
「え?」
「もっと近くまで行きますから」
芽は嬉しそうに頷いた。
最初に向かったのは、三浦半島の南西側にある荒崎海岸だった。
岩場が多く、相模湾に面した景色が広がる場所だ。天気がよければ、遠くに富士山が見えることもある。
駐車場に車を停め、二人は海岸へ向かった。
潮の匂いがした。
波の音が、風に乗って聞こえてくる。
遊歩道を少し歩くと、目の前に海が広がった。
「わあ……」
芽が立ち止まった。
青い海の向こうには、淡く霞んだ水平線が伸びていた。
岩場に波が寄せ、白いしぶきを上げている。
遠くには小さな船が浮かんでいた。
「どうですか?」
新太郎が尋ねた。
芽はすぐには答えなかった。
ただ、海を見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……来てよかった」
その声は、いつもより少し小さかった。
「まだ着いたばかりですよ」
「そうですけど」
芽は笑った。
「でも、もう十分なくらい」
新太郎は彼女の横に立った。
風が吹き、芽の髪が頬にかかった。
彼女はそれを耳に掛けながら、もう一度海を見た。
「やっぱり、海っていいですね」
「そうですね」
「ずっと見ていられそう」
新太郎は、先週届いたメッセージを思い出した。
『ずっと見ていられるような海、かな』
芽が望んでいたのは、こういう景色だったのかもしれない。
二人は海沿いの道をゆっくり歩いた。
足元には、ごつごつした岩が続いている。新太郎は歩きやすい場所を選びながら進んだ。
「滑りやすいところもあるので、気をつけてください」
「はい」
芽は慎重に足を運んだ。
しばらくすると、岩のくぼみに小さな潮だまりが見えた。
「あ、何かいます」
芽がしゃがみ込んだ。
水の中には、小さなヤドカリがいた。
貝殻を背負い、岩の陰をゆっくり移動している。
「ヤドカリですね」
「かわいい」
芽はじっと見つめた。
「これ、何をしてるんでしょう」
「たぶん、餌を探してるんじゃないですかね」
「そうなんだ」
芽はしばらく観察していた。
新太郎は少し先で立ち止まり、彼女を待った。
「すみません。つい夢中になっちゃって」
「いいですよ。急いでないですから」
芽は立ち上がり、笑った。
「私、昔からこうなんです」
「こうって?」
「何か気になるものを見つけると、すぐ立ち止まっちゃうんです。歩くのも遅いし」
「そうなんですか?」
「はい。小学校のころなんて、よく友達に置いていかれました」
「へえ」
「それで、あだ名が『かめ』だったんです」
「かめ?」
「香椎の『か』と、芽の『め』を取って、かめ。のんびりしてたから、ちょうどいいって」
新太郎は思わず笑った。
「なるほど。よくできてますね」
「でしょう? でも、当時はあんまり嬉しくなかったんですよ」
「どうして?」
「だって、いつものろまって言われてるみたいで」
「まあ、そうかもしれませんね」
「でも、今はちょっと気に入ってます」
芽は笑った。
「かめって、長生きするでしょう?」
「確かに」
「それに、急がないところもいいかなって」
「芽さんらしいですね」
「そうですか?」
「はい」
芽は少し照れたように笑った。
そして、何かを思い出したように顔を上げた。
「あ、そういえば」
「はい?」
「新太郎さん、浦島太郎って呼ばれてたんですよね?」
「ええ。よく覚えてますね」
「もちろん。面白い名前だなって思ったから」
芽は新太郎を見て、笑い始めた。
「私がかめで、新太郎さんが浦島太郎」
「そうなりますね」
「しかも、最初に会ったとき、私を助けてくれたでしょう?」
「ああ、確かに」
「ふふっ。私たち、運命かもしれないですよ」
新太郎は少し照れた。
「じゃあ、俺はそのうち竜宮城に招待されるんですか?」
「どうでしょうね」
芽は少し考えるふりをした。
「招待状が届くかもしれませんよ」
「本当ですか?」
「ふふっ。いつか、きっと」
新太郎は笑った。
「じゃあ、楽しみにしてます」
芽は足元の小さな貝殻を拾い上げた。
薄い桃色の、二枚貝の片方だった。
「きれいですね」
新太郎が言った。
「でしょう?」
芽は手のひらに載せ、光に透かすように眺めた。
「子どものころも、こうやってよく拾ってたんです」
「この前、写真を見せてくれましたよね」
「覚えててくれたんですね」
「もちろん」
芽は嬉しそうに笑った。
しばらくして、二人は近くのベンチに腰を下ろした。
海からの風が心地よかった。
遠くでは、釣り人が岩場に立って竿を出している。
芽はその様子を眺めながら言った。
「新太郎さんも、ああいうところで釣りするんですか?」
「たまに。でも、あそこは足場が悪そうですね」
「怖くないんですか?」
「場所によります。無理はしないようにしてます」
「そうなんですね」
「釣りって、魚を釣るだけじゃないんですよ」
「え?」
「海を見てるだけでも楽しいんです」
芽は少し考えた。
「……何だか、分かる気がします」
「そうですか?」
「はい。今日、ここに来て思いました」
彼女は海を見た。
「こうしてると、時間がゆっくり流れてるみたい」
新太郎も海へ目を向けた。
波が岩に当たり、白く砕けている。
同じような波が、何度も繰り返し寄せてくる。
「確かに、そうですね」
「でも、実際には同じ時間が流れてるんですよね」
「まあ、そうでしょうね」
芽は微笑んだ。
「研究してると、ついそういうことを考えちゃうんです」
「職業病ですね」
「そうかもしれません」
二人は笑った。
そのとき、芽のスマートフォンが小さく震えた。
彼女はバッグから取り出し、画面を確認した。
ほんの一瞬、眉が動いた。
新太郎は気づいたが、何も言わなかった。
芽は画面を消し、バッグに戻した。
「すみません」
「仕事ですか?」
「はい。でも、今日は大丈夫です」
「そうですか」
「今日は、お休みですから」
芽はそう言って、海を見た。
その横顔には、さっきまでの笑顔が戻っていた。
新太郎はそれ以上、何も聞かなかった。
しばらくして、芽が立ち上がった。
「新太郎さん」
「はい?」
「お腹、空きませんか?」
新太郎は腕時計を見た。
もう正午を過ぎていた。
「そうですね。そろそろお昼にしましょうか」
「はい」
「この近くに、魚がおいしい店があるらしいんです」
「お魚?」
「はい。せっかく海まで来たので」
「いいですね」
芽は嬉しそうに笑った。
二人は駐車場へ向かって歩き始めた。
途中、芽が何度か振り返って海を見た。
「どうしました?」
新太郎が聞いた。
「いえ、何でもないです」
芽は笑った。
「また来たいなって思って」
「いつでも来られますよ」
「そうですね」
彼女はもう一度、海を見た。
そして、小さく頷いた。
「……そうですね」
新太郎はその言葉の意味を、特に考えなかった。
ただ、彼女が今日を楽しんでくれていることが嬉しかった。
空には薄い雲が広がり始めていた。
それでも、海はまだ青かった。
新太郎は芽の歩く速さに合わせながら、ゆっくりと駐車場へ向かった。




