3 波打ち際の記憶
昼食に入ったのは、海岸から車で十分ほど走ったところにある、小さな食堂だった。
道路沿いに建つ二階建ての店で、入口には手書きのメニューが並んでいた。店内には地元の家族連れや観光客が何組かいて、奥の窓からは港に停泊する漁船が見えた。
「何にします?」
新太郎がメニューを広げると、芽は向かい側から身を乗り出した。
「迷いますね。どれもおいしそう」
「刺身定食とか、地魚のフライとか」
「新太郎さんは?」
「俺は刺身かな」
「じゃあ、私はフライにします」
「別々に頼んで、少し交換します?」
「いいんですか?」
「もちろん」
芽は嬉しそうに頷いた。
料理が運ばれてくるまで、二人は窓の外を眺めていた。港では一隻の漁船が出港の準備をしているらしく、作業服姿の男たちが甲板を行き来していた。
「ああいう船って、朝早く出るんですよね」
「そうですね。漁の種類によって違うと思いますけど」
「新太郎さんも、釣りの日はすごく早起きですもんね」
「早い日は三時とか四時ですね」
「私には無理かも」
「でも、今日は早起きできたじゃないですか」
「今日は特別です」
芽はそう言って笑った。
「何が特別なんですか?」
「それ、聞きます?」
新太郎は少し困って、湯飲みに手を伸ばした。
芽は楽しそうに笑っていた。
やがて料理が運ばれてきた。
新太郎の刺身定食には、数種類の魚が盛りつけられていた。芽のフライ定食には、揚げたての魚が二切れ、千切りキャベツとともに載っている。
「おいしそう」
芽は箸を取り、フライを一口食べた。
「あ、おいしい」
「よかったですね」
「衣がさくさくしてます」
新太郎も刺身を口に運んだ。身が締まっていて、ほどよく脂が乗っている。
「こっちもおいしいですよ」
「本当ですか?」
「食べてみます?」
二人は小皿を使って料理を分け合った。
芽は刺身を一切れ食べ、少し目を丸くした。
「甘いですね」
「魚の種類によって、結構違うんですよ」
「新太郎さん、魚には詳しいんですね」
「食べるほうも好きなんで」
「釣った魚も自分で料理するんですよね」
「ええ。簡単なものなら」
「例えば、どんな料理を作るんですか?」
「塩焼きとか、煮付けとか。こないだはサバを釣ったので、しめ鯖にしました」
「しめ鯖って、自分で作れるんですか?」
「作れますよ。釣った魚の鮮度や扱いには気をつけないといけませんけど」
「すごいなあ。今度、食べてみたいです」
「じゃあ、うまく釣れたら」
「約束ですよ」
「はい」
芽は満足そうに頷いた。
食事を終えるころには、店内の客が少し増えていた。
新太郎が会計を済ませようとすると、芽が財布を取り出した。
「あ、今日は私が」
「いいですよ。今日は俺が誘ったんですから」
「でも、前もごちそうになりましたし」
「じゃあ、次にお願いします」
芽は一瞬、新太郎の顔を見て、それから笑った。
「また、その作戦ですね」
「何のことですか?」
「次に会う理由を作る作戦」
「ばれました?」
「とっくに」
二人は笑いながら店を出た。
午後の日差しは少し柔らかくなっていた。空には薄い雲が広がっていたが、雨が降りそうな様子はない。
「このあと、どうしましょうか」
新太郎が尋ねた。
「もう少し、海を見たいです」
「じゃあ、今度は砂浜のあるところに行きましょうか」
「はい」
車は畑の間を抜け、海沿いの道へ向かった。
芽は窓を少し開けた。潮を含んだ風が車内に入り、彼女の髪を揺らした。
「気持ちいい」
「寒くないですか?」
「大丈夫です」
芽は窓の外を見ながら、鼻歌のように小さく何かを口ずさんでいた。
新太郎には知らない曲だった。
「何の歌ですか?」
「え?」
「今、歌ってたでしょう」
「あ、聞こえてました?」
「少しだけ」
芽は照れくさそうに笑った。
「子どものころ、母がよく歌ってた歌なんです」
「へえ」
「題名は知らないんですけど、なんとなく覚えてて」
「どんな歌なんですか?」
「うーん。海の歌だったと思うんですけど」
芽は少し考え、また小さく口ずさんだ。
ゆったりした旋律だった。
新太郎は耳を傾けたが、やはり聞き覚えはなかった。
「知らないなあ」
「ですよね。私も、どこで覚えたのかよく分からないんです」
「お母さんに聞けば分かるんじゃないですか?」
「そうですね。今度聞いてみようかな」
芽は窓を閉め、シートに座り直した。
「変ですよね。何年も思い出さなかったのに、急に出てくるなんて」
「ありますよ、そういうこと」
「新太郎さんも?」
「あります。昔よく行ってた場所の匂いとか、急に思い出すことがあるんです」
「匂い?」
「例えば、夏の夕方の草の匂いとか。子どものころ、近所の川で遊んでたのを思い出したり」
「ああ、分かります」
芽は頷いた。
「匂いって、不思議ですよね」
「そうですね」
「写真を見ても思い出せないことが、匂いひとつで急に戻ってきたりする」
「研究でも、そういうことを調べるんですか?」
「ええ。記憶と感覚の関係は、昔からいろいろ研究されています」
「へえ」
「でも、今のは研究者としてじゃなくて、普通に不思議だなって思っただけです」
新太郎は笑った。
「そうですか」
「たまには、何でもないことを何でもないままにしておきたいんです」
芽は窓の外を見た。
その声には、特別な意味が込められているようには聞こえなかった。
新太郎も、それ以上は聞かなかった。
しばらくして、車は三浦海岸に着いた。
広い砂浜が緩やかな弧を描き、沖には何隻かの船が見えた。荒崎の岩場とは違い、こちらは波打ち際まで歩いていける。
駐車場に車を停め、二人は海岸へ向かった。
砂浜には、犬を散歩させる人や、波打ち際で遊ぶ親子連れがいた。少し離れたところでは、若者たちがビーチボールを投げ合っている。
「こっちは雰囲気が違いますね」
芽が言った。
「そうですね。さっきは岩場でしたから」
「どっちも好きです」
二人は靴に砂が入らないよう気をつけながら、波打ち際へ歩いた。
水際の砂は湿っていて、足跡がくっきり残った。
芽は波が寄せてくるたびに、少し後ろへ下がった。
「濡れますよ」
新太郎が言うと、芽は笑った。
「分かってます」
けれど、次の波が思ったより遠くまで届き、芽は慌てて飛び退いた。
「わっ」
新太郎は思わず手を伸ばし、彼女の腕を支えた。
「大丈夫ですか?」
「はい。びっくりした」
芽は笑っていた。
「海って、油断できませんね」
「そうですね」
新太郎は手を離した。
芽は少しだけ彼を見て、それから波のほうへ顔を向けた。
二人はしばらく、並んで歩いた。
足元に小さな貝殻が散らばっていた。芽はときどき立ち止まり、気に入ったものを拾い上げた。
「また集めてるんですか?」
「はい」
「子どものころと変わらないですね」
「そうみたいです」
芽は手のひらに載せた貝殻を見せた。
「これ、かわいくないですか?」
「小さいですね」
「小さいからいいんです」
新太郎は笑った。
「かめさんは、貝殻集めが好きなんですね」
「もう、その呼び方」
芽は笑いながら、新太郎の腕を軽く叩いた。
「自分で教えたんじゃないですか」
「そうですけど」
「じゃあ、俺も浦島太郎でいいですよ」
「それは、ちょっと長いですね」
「そうですか?」
「うん。新太郎さんのほうがいいです」
芽は何気なくそう言って、また歩き始めた。
新太郎は一瞬、返事が遅れた。
「……じゃあ、そうしてください」
「はい」
芽は振り返り、いたずらっぽく笑った。
しばらく歩くと、人の少ない場所に出た。
二人は砂浜に腰を下ろした。
目の前では、波が一定の間隔で寄せては返している。
芽は膝を抱え、海を見つめた。
「新太郎さん」
「はい?」
「子どものころ、どんな子でした?」
「俺ですか?」
「はい」
「うーん。普通の子だったと思いますけど」
「普通って?」
「外で遊んでばっかりで。勉強はあんまり好きじゃなくて」
「ふふっ。想像できます」
「どういう意味ですか」
「元気そうだなって」
「まあ、そうですね」
新太郎は少し考えた。
「でも、釣りを始めたころは、結構おとなしかったかもしれません」
「そうなんですか?」
「父親に連れていってもらってたんです。最初は何も分からなくて、ただ隣で見てるだけでした」
「お父さんも釣りが好きだったんですね」
「ええ。今でもたまに行ってるみたいです」
「いいですね」
「芽さんは?」
「私?」
「どんな子だったんですか?」
芽は少し考えた。
「……やっぱり、のんびりしてたかな」
「かめですもんね」
「もう」
二人は笑った。
「でも、ひとりで遊ぶのは好きでした」
「例えば?」
「本を読んだり、絵を描いたり。あと、何かを集めるのが好きで」
「貝殻とか?」
「そうです。石とか、木の実とか、きれいな瓶とか」
「瓶?」
「小さなガラス瓶です。色のついたものとか、形の変わったものとか」
「へえ」
「集めたものを並べて、眺めてるだけで楽しかったんです」
「今でも好きそうですね」
「そうですね。あんまり変わってないかもしれません」
芽は笑った。
「でも、子どものころって、不思議ですよね」
「何がですか?」
「毎日、すごく長かった気がするんです」
新太郎は頷いた。
「それは分かります」
「夏休みなんて、永遠に続くと思ってました」
「宿題をやってないと、最後の一週間だけ急に短くなるんですけどね」
芽は声を上げて笑った。
「新太郎さん、そういうタイプだったんですね」
「典型的な」
「私は、最初に終わらせるほうでした」
「意外ですね」
「どうしてですか?」
「のんびりしてるって言うから」
「のんびりしてるのと、宿題を後回しにするのは別です」
「なるほど」
「早く終わらせて、安心して遊びたかったんです」
「賢いなあ」
芽は少し得意そうに笑った。
沖を一隻の船が横切っていった。
白い航跡が、ゆっくりと海面に広がっていく。
「でも、大人になると、一週間があっという間ですよね」
芽が言った。
「そうですね。気づいたら金曜日になってる」
「そして、また月曜日」
「嫌なこと言わないでくださいよ」
芽は笑った。
「ごめんなさい」
新太郎も笑った。
しばらく沈黙が続いた。
波の音だけが聞こえていた。
芽は砂の上に指先で小さな線を描いた。
「同じ一日なのに、長く感じたり、短く感じたりするのって、面白いですよね」
「そうですね」
「今日なんて、まだ午後なのに、もうずいぶん長い時間一緒にいる気がします」
「退屈でした?」
新太郎が冗談めかして尋ねると、芽は首を振った。
「逆です」
「逆?」
「楽しいから、かな」
芽は少し照れたように笑った。
「いろんなことがあったから、長く感じるのかもしれません」
「なるほど」
新太郎は海を見た。
朝、駅前で芽を迎えたのが、ずいぶん前のことのように思えた。
けれど、まだ帰りたくはなかった。
「俺も、今日は長い一日だなって思ってました」
「そうですか?」
「はい。でも、いい意味で」
芽は嬉しそうに笑った。
しばらくして、彼女は砂の上に描いた線を手のひらで消した。
「新太郎さん」
「はい?」
「今日のこと、きっとずっと覚えてると思います」
新太郎は彼女を見た。
「そんなに?」
「はい」
芽は海を見ながら言った。
「海の色とか、風の匂いとか。あと、さっき食べたフライのおいしさとか」
「そこも覚えてるんだ」
「大事ですよ」
二人は笑った。
新太郎は少し考えてから言った。
「じゃあ、また来ましょう」
芽がこちらを向いた。
「また?」
「はい。今度は違う季節でもいいし、別の海でも」
芽はしばらく新太郎を見つめていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……はい。ぜひ」
風が少し強くなった。
芽の髪が顔にかかり、彼女は片手で押さえた。
新太郎は立ち上がり、ズボンについた砂を払った。
「そろそろ戻りましょうか」
「そうですね」
芽も立ち上がった。
新太郎が手を差し出すと、芽は少し驚いたように彼を見た。
それから、そっとその手を取った。
新太郎は彼女を引き上げた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
芽は手を離そうとして、少しだけ動きを止めた。
新太郎も、すぐには離さなかった。
ほんの数秒だった。
やがて芽が照れたように笑い、そっと手を引いた。
「行きましょうか」
「はい」
二人は駐車場へ向かって歩き始めた。
背後では、波が変わらず寄せては返していた。
新太郎は歩きながら、さっきの芽の言葉を思い出していた。
『今日のこと、きっとずっと覚えてると思います』
自分も、きっとそうだろう。
特別なことが起きたわけではない。
海を見て、食事をして、砂浜を歩いただけだ。
それでも、新太郎には今日という一日が、これまでの休日とは少し違うものに感じられた。
芽が隣を歩いている。
それだけで、見慣れたはずの海が、どこか新しく見えた。




