4 明日へ続く夕暮れ
駐車場に戻るころには、午後四時を少し過ぎていた。
空には薄い雲が広がり、朝よりも日差しが柔らかくなっていた。海から吹いてくる風には、少しだけ冷たさが混じっている。
「ずいぶん歩きましたね」
新太郎が言うと、芽は足元を見ながら笑った。
「そうですね。明日、筋肉痛になるかもしれません」
「そんなに?」
「普段、研究室と家の一往復ぐらいですから」
「じゃあ、今日はいい運動になりましたね」
「はい。でも、まだ帰りたくない気もします」
芽はそう言って、海のほうを振り返った。
新太郎も立ち止まった。
「もう少し、どこか寄っていきます?」
「いいんですか?」
「もちろん。まだ時間もありますし」
「じゃあ……どこかでお茶でも」
「いいですね」
二人は車に乗り込んだ。
新太郎はスマートフォンで近くの店を探した。海沿いに何軒かカフェがあったが、夕方には閉まる店も多い。
「少し北に戻ったところに、よさそうな店があります」
「どんなところですか?」
「海が見えるみたいです」
「今日、海ばっかりですね」
「飽きました?」
「全然」
芽は笑った。
「むしろ、今日は海しか見たくないくらい」
新太郎はナビに目的地を設定した。
車は海岸沿いの道を北へ走り始めた。
窓の外には、住宅街と畑が交互に現れた。道の向こうに海が見えるたび、芽はそちらへ顔を向けた。
「さっきの砂浜、よかったですね」
「三浦海岸ですか?」
「はい。あんなに長い砂浜を歩いたの、久しぶりです」
「子どものころは、よく海に行ったんですか?」
「家族で何度か。でも、いつも夏だったから、人が多くて」
「海水浴ですね」
「そうです。浮き輪を持って、砂のお城を作って」
「楽しそうですね」
「楽しかったですよ。でも、今日みたいに何もしないで海を眺めるのも、いいですね」
「大人の楽しみ方ですかね」
「そうかもしれません」
芽は少し考えてから言った。
「でも、子どものころも、海を見てる時間が好きだった気がします」
「泳ぐより?」
「うーん。泳ぐのも好きでしたけど、波が来るのを待ってるのが好きだったんです」
「波が来るのを?」
「はい。足元まで来るかな、来ないかなって」
新太郎は、さっき砂浜で波から逃げていた芽の姿を思い出した。
「それ、今も変わってないですね」
「そうですね」
芽は笑った。
「二十年以上たっても、あんまり成長してないのかも」
「そんなことないですよ」
「どうして分かるんですか?」
「少なくとも、今は研究者になってるじゃないですか」
「それはそうですけど」
芽は少し照れたように笑った。
やがて、車は海沿いの小さなカフェに着いた。
道路から少し奥まった場所に建つ木造の店で、入口には鉢植えの花が並んでいた。
店内はそれほど広くなかったが、窓際の席から海が見えた。
二人はそこに腰を下ろした。
「いいところですね」
芽が言った。
「よかった。写真だけで選んだので、ちょっと心配だったんです」
「大当たりです」
芽はメニューを開いた。
「何にしようかな」
「またケーキ食べます?」
「食べたいですけど、さっきお昼を食べたばかりだから」
「結構歩いたし、大丈夫じゃないですか」
「それ、新太郎さんが食べたいだけでしょう?」
「ばれました?」
芽は笑った。
結局、新太郎はチーズケーキとコーヒー、芽は紅茶と小さなレモンケーキを注文した。
「またチーズケーキですね」
芽が言った。
「好きなんですよ」
「知ってます」
「そうでしたっけ?」
「最初に一緒にお茶したときも、食べてたじゃないですか」
「ああ、そうでしたね」
「私も同じのを頼んだの、覚えてます?」
「もちろん」
「よかった」
芽は満足そうに頷いた。
窓の外では、海が夕方の光を受けて鈍く輝いていた。
午前中に見た鮮やかな青とは違い、少し灰色がかった落ち着いた色になっている。
「海って、一日のうちでもずいぶん表情が変わるんですね」
芽が言った。
「天気や光の加減で変わりますね」
「毎日見てても、飽きなさそう」
「住んでみたら、案外慣れるかもしれませんよ」
「そうかな」
「たぶん。でも、たまに来るからいいっていうのもありますし」
芽は窓の外を見ながら頷いた。
「そうですね。毎日が今日みたいだったら、仕事に行かなくなっちゃうかも」
「それは困りますね」
「困ります」
二人は笑った。
注文したケーキが運ばれてきた。
芽はレモンケーキを一口食べ、目を細めた。
「おいしい」
「よかったですね」
「新太郎さんも食べます?」
「じゃあ、少し」
芽は自分の皿を差し出した。
新太郎もチーズケーキを少し分けた。
「こっちもおいしい」
「でしょう?」
「新太郎さん、本当にチーズケーキが好きなんですね」
「そんなに食べてます?」
「私と会うときは、いつも食べてる気がします」
「まだ二回目ですけどね」
「ふふっ、そうでした」
芽は紅茶を飲みながら笑った。
しばらくすると、店内に流れていた音楽が変わった。
ゆっくりしたピアノの曲だった。
芽はカップを置き、耳を傾けた。
「この曲、知ってます?」
新太郎が尋ねた。
「いえ。でも、いい曲ですね」
「そうですね」
「今日の帰り道にぴったり」
「まだ帰りたくないって言ってたのに」
「だからですよ」
芽は笑った。
「帰り道って、ちょっと寂しいでしょう?」
「そうですね」
「楽しい日ほど、終わってほしくないなって」
新太郎は窓の外を見た。
海の向こうでは、雲の切れ間から夕日が差していた。
「また来ればいいですよ」
「……そうですね」
芽は微笑んだ。
「新太郎さんは、いつもそう言ってくれますね」
「何がですか?」
「また来ればいい、とか。また会えばいい、とか」
「だって、そうでしょう?」
「そうですね」
芽はカップを両手で包んだ。
「そういう考え方、好きです」
新太郎は少し照れた。
「ありがとうございます」
「私、つい先のことを考えすぎちゃうので」
「仕事のこと?」
「仕事も、ですけど」
芽は少し考えた。
「予定が決まってないと、落ち着かないんです。何をいつまでにやるとか、次に何が起こるとか」
「研究って、そういうものなんですか?」
「そういうところもありますね。でも、私の性格かもしれません」
「のんびりした『かめ』なのに?」
芽は笑った。
「そうなんです。変でしょう?」
「いや、面白いですね」
「子どものころは、何も考えずに寄り道してばっかりだったのに」
「今も貝殻拾って寄り道してましたよ」
「そうでした」
芽は声を上げて笑った。
「じゃあ、あんまり変わってないのかな」
「そうかもしれません」
新太郎はコーヒーを飲んだ。
少し冷めていたが、香りはまだ残っていた。
そのとき、テーブルの上に置いてあった芽のスマートフォンが震えた。
芽は画面を見た。
さっきまでの笑顔が、ほんの少しだけ消えた。
「……すみません」
「仕事ですか?」
「はい。ちょっとだけ」
芽はスマートフォンを手に取り、画面を操作した。
新太郎は窓の外へ目を向けた。
店の前を、犬を連れた男性が歩いていく。
海には、小さな漁船が一隻浮かんでいた。
しばらくして、芽がスマートフォンを伏せた。
「ごめんなさい」
「大丈夫ですか?」
「はい。ちょっと確認だけだったので」
「土曜日なのに大変ですね」
「そうですね。でも、慣れちゃいました」
芽は苦笑した。
「研究って、そんなに忙しいんですか?」
「時期によります。今はちょうど、いろいろ重なっていて」
「そうなんですね」
「でも、今日は本当に来てよかったです」
芽は新太郎を見た。
「こういう時間、最近なかったから」
「それならよかった」
「ありがとうございます」
「いや、俺も楽しかったですから」
芽は少し嬉しそうに笑った。
店を出るころには、空が夕焼けに染まり始めていた。
駐車場からは、海の向こうに沈みかけた太陽が見えた。
「きれいですね」
芽が言った。
「そうですね」
二人はしばらく、車のそばに立って夕日を眺めた。
海面には細長い光の道が伸びていた。
芽はバッグからスマートフォンを取り出し、写真を撮った。
「新太郎さんも、一緒に撮りません?」
「俺も?」
「はい。せっかくだから」
ちょうどそのとき、店の入口の照明を点けに、店員が外へ出てきた。
芽はその女性に声をかけ、写真をお願いした。
「もちろん、いいですよ」
二人は海を背に並んだ。
芽が新太郎の隣に立ち、少しだけ距離を詰めた。
「もう少し寄ってください」
店員がスマートフォンを構えながら言った。
新太郎が一歩近づくと、芽の肩が軽く触れた。
「はい、撮りますね」
シャッター音が鳴った。
芽は礼を言ってスマートフォンを受け取り、画面を確認した。
「いい写真」
新太郎も覗き込んだ。
夕日を背にした二人が、少し照れくさそうに笑っていた。
「送りますね」
「ありがとうございます」
芽はその場で写真を送ってくれた。
新太郎のスマートフォンに通知が届いた。
二人が並んで写っている。
それだけの写真だった。
けれど、新太郎はしばらく画面を見つめていた。
「気に入りました?」
芽が聞いた。
「はい」
「よかった」
芽は嬉しそうに笑った。
車に乗り込み、帰路についた。
高速道路に入るころには、すっかり日が暮れていた。
街の灯りが増え、車の流れも少し混み始めていた。
芽は助手席で、窓の外を眺めていた。
「疲れました?」
新太郎が尋ねた。
「少し。でも、いい疲れです」
「寝ててもいいですよ」
「もったいないから、起きてます」
「何がもったいないんですか?」
「新太郎さんと話せる時間が」
新太郎は一瞬、言葉に詰まった。
「……そうですか」
「はい」
芽は笑った。
「でも、ちょっと眠くなってきました」
「無理しないでください」
「じゃあ、少しだけ」
芽はシートに深く座り、目を閉じた。
車内には、ラジオから流れる小さな音楽と、タイヤが道路を走る音だけが残った。
新太郎は前を見ながら、速度を少し落とした。
しばらくすると、助手席から静かな寝息が聞こえてきた。
信号待ちで横を見ると、芽は窓のほうに顔を向け、眠っていた。
昼間、海辺で貝殻を拾っていたときの無邪気な表情とは違い、今は少し疲れて見えた。
新太郎は、彼女が普段どんな毎日を送っているのか、まだほとんど知らないことに気づいた。
仕事が忙しいこと。
脳や記憶の研究をしていること。
休みの日も連絡が来ること。
知っているのは、そのくらいだった。
それでも、今日一日一緒に過ごして、彼女のことを少し分かった気がしていた。
貝殻を見つけると立ち止まること。
おいしいものを食べると、嬉しそうに目を細めること。
冗談を言うとき、少し首を傾けること。
そして、意外とよく笑うこと。
新太郎は前方に目を戻した。
車は夜の高速道路を走り続けた。
都内に入る少し前、芽が目を覚ました。
「あ……寝ちゃいました」
「おはようございます」
新太郎が言うと、芽は恥ずかしそうに笑った。
「すみません。どのくらい寝てました?」
「三十分くらいですかね」
「そんなに?」
「疲れてたんですよ」
「せっかくの帰り道だったのに」
「いいですよ。俺も運転に集中できましたし」
芽は窓の外を見た。
高層ビルの灯りが、遠くに見え始めていた。
「もう東京なんですね」
「もうすぐです」
「早いなあ」
芽は小さく呟いた。
それから、新太郎のほうを向いた。
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
「また、一緒にどこか行きたいです」
「もちろん」
新太郎は笑った。
「次は、どこにしましょうか」
芽は少し考えた。
「……今度は、新太郎さんの行きたいところ」
「俺の?」
「はい。今日は私の希望だったから」
「そうですね」
「釣りでもいいですよ」
「本当に?」
「はい。教えてくれるって言ったでしょう?」
「じゃあ、今度はちゃんと準備して行きましょうか」
「楽しみにしてます」
芽は嬉しそうに笑った。
車は都心の道路へ入り、待ち合わせをした駅へ向かった。
ロータリーに着いたのは、午後八時を少し過ぎたころだった。
新太郎は車を停め、芽のほうを向いた。
「今日はお疲れさまでした」
「新太郎さんこそ。ずっと運転してくれて、ありがとうございました」
「楽しかったですよ」
「私もです」
芽はシートベルトを外した。
けれど、すぐにはドアを開けなかった。
「……あの」
「はい?」
「今日の写真、あとでまた見てもいいですか?」
新太郎は少し驚いた。
「もちろん。芽さんのスマートフォンに入ってるじゃないですか」
「そうなんですけど」
芽は笑った。
「何だか、今日が終わっちゃうのが寂しくて」
新太郎は少し考えた。
「じゃあ、終わりじゃなくて、続きにしましょう」
「続き?」
「また会えばいいんですから」
芽はしばらく新太郎を見つめていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……そうですね」
彼女はドアを開け、車を降りた。
新太郎も降りて、歩道まで見送った。
「気をつけて帰ってください」
「はい。新太郎さんも」
芽は少し歩いてから、振り返った。
「新太郎さん」
「はい?」
「今日は、本当に楽しかったです」
「俺もです」
芽は笑顔で手を振った。
新太郎も手を振り返した。
彼女の姿が駅の入口に消えるまで、しばらくその場に立っていた。
車に戻ると、助手席にはもう誰もいなかった。
さっきまで聞こえていた芽の声が、まだ車内に残っているような気がした。
新太郎はスマートフォンを取り出し、夕方に撮った写真を開いた。
二人が並んで笑っている。
その後ろには、夕暮れの海が広がっていた。
新太郎は写真を閉じ、エンジンをかけた。
レンタカーを返しに向かう道は、少しだけ静かに感じられた。




