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新浦島太郎  作者: ISM
第3章 海の向こう側
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11/27

4 明日へ続く夕暮れ



 駐車場に戻るころには、午後四時を少し過ぎていた。

 空には薄い雲が広がり、朝よりも日差しが柔らかくなっていた。海から吹いてくる風には、少しだけ冷たさが混じっている。

「ずいぶん歩きましたね」

 新太郎が言うと、芽は足元を見ながら笑った。

「そうですね。明日、筋肉痛になるかもしれません」

「そんなに?」

「普段、研究室と家の一往復ぐらいですから」

「じゃあ、今日はいい運動になりましたね」

「はい。でも、まだ帰りたくない気もします」

 芽はそう言って、海のほうを振り返った。

 新太郎も立ち止まった。

「もう少し、どこか寄っていきます?」

「いいんですか?」

「もちろん。まだ時間もありますし」

「じゃあ……どこかでお茶でも」

「いいですね」

 二人は車に乗り込んだ。

 新太郎はスマートフォンで近くの店を探した。海沿いに何軒かカフェがあったが、夕方には閉まる店も多い。

「少し北に戻ったところに、よさそうな店があります」

「どんなところですか?」

「海が見えるみたいです」

「今日、海ばっかりですね」

「飽きました?」

「全然」

 芽は笑った。

「むしろ、今日は海しか見たくないくらい」

 新太郎はナビに目的地を設定した。

 車は海岸沿いの道を北へ走り始めた。

 窓の外には、住宅街と畑が交互に現れた。道の向こうに海が見えるたび、芽はそちらへ顔を向けた。

「さっきの砂浜、よかったですね」

「三浦海岸ですか?」

「はい。あんなに長い砂浜を歩いたの、久しぶりです」

「子どものころは、よく海に行ったんですか?」

「家族で何度か。でも、いつも夏だったから、人が多くて」

「海水浴ですね」

「そうです。浮き輪を持って、砂のお城を作って」

「楽しそうですね」

「楽しかったですよ。でも、今日みたいに何もしないで海を眺めるのも、いいですね」

「大人の楽しみ方ですかね」

「そうかもしれません」

 芽は少し考えてから言った。

「でも、子どものころも、海を見てる時間が好きだった気がします」

「泳ぐより?」

「うーん。泳ぐのも好きでしたけど、波が来るのを待ってるのが好きだったんです」

「波が来るのを?」

「はい。足元まで来るかな、来ないかなって」

 新太郎は、さっき砂浜で波から逃げていた芽の姿を思い出した。

「それ、今も変わってないですね」

「そうですね」

 芽は笑った。

「二十年以上たっても、あんまり成長してないのかも」

「そんなことないですよ」

「どうして分かるんですか?」

「少なくとも、今は研究者になってるじゃないですか」

「それはそうですけど」

 芽は少し照れたように笑った。

 やがて、車は海沿いの小さなカフェに着いた。

 道路から少し奥まった場所に建つ木造の店で、入口には鉢植えの花が並んでいた。

 店内はそれほど広くなかったが、窓際の席から海が見えた。

 二人はそこに腰を下ろした。

「いいところですね」

 芽が言った。

「よかった。写真だけで選んだので、ちょっと心配だったんです」

「大当たりです」

 芽はメニューを開いた。

「何にしようかな」

「またケーキ食べます?」

「食べたいですけど、さっきお昼を食べたばかりだから」

「結構歩いたし、大丈夫じゃないですか」

「それ、新太郎さんが食べたいだけでしょう?」

「ばれました?」

 芽は笑った。

 結局、新太郎はチーズケーキとコーヒー、芽は紅茶と小さなレモンケーキを注文した。

「またチーズケーキですね」

 芽が言った。

「好きなんですよ」

「知ってます」

「そうでしたっけ?」

「最初に一緒にお茶したときも、食べてたじゃないですか」

「ああ、そうでしたね」

「私も同じのを頼んだの、覚えてます?」

「もちろん」

「よかった」

 芽は満足そうに頷いた。

 窓の外では、海が夕方の光を受けて鈍く輝いていた。

 午前中に見た鮮やかな青とは違い、少し灰色がかった落ち着いた色になっている。

「海って、一日のうちでもずいぶん表情が変わるんですね」

 芽が言った。

「天気や光の加減で変わりますね」

「毎日見てても、飽きなさそう」

「住んでみたら、案外慣れるかもしれませんよ」

「そうかな」

「たぶん。でも、たまに来るからいいっていうのもありますし」

 芽は窓の外を見ながら頷いた。

「そうですね。毎日が今日みたいだったら、仕事に行かなくなっちゃうかも」

「それは困りますね」

「困ります」

 二人は笑った。

 注文したケーキが運ばれてきた。

 芽はレモンケーキを一口食べ、目を細めた。

「おいしい」

「よかったですね」

「新太郎さんも食べます?」

「じゃあ、少し」

 芽は自分の皿を差し出した。

 新太郎もチーズケーキを少し分けた。

「こっちもおいしい」

「でしょう?」

「新太郎さん、本当にチーズケーキが好きなんですね」

「そんなに食べてます?」

「私と会うときは、いつも食べてる気がします」

「まだ二回目ですけどね」

「ふふっ、そうでした」

 芽は紅茶を飲みながら笑った。

 しばらくすると、店内に流れていた音楽が変わった。

 ゆっくりしたピアノの曲だった。

 芽はカップを置き、耳を傾けた。

「この曲、知ってます?」

 新太郎が尋ねた。

「いえ。でも、いい曲ですね」

「そうですね」

「今日の帰り道にぴったり」

「まだ帰りたくないって言ってたのに」

「だからですよ」

 芽は笑った。

「帰り道って、ちょっと寂しいでしょう?」

「そうですね」

「楽しい日ほど、終わってほしくないなって」

 新太郎は窓の外を見た。

 海の向こうでは、雲の切れ間から夕日が差していた。

「また来ればいいですよ」

「……そうですね」

 芽は微笑んだ。

「新太郎さんは、いつもそう言ってくれますね」

「何がですか?」

「また来ればいい、とか。また会えばいい、とか」

「だって、そうでしょう?」

「そうですね」

 芽はカップを両手で包んだ。

「そういう考え方、好きです」

 新太郎は少し照れた。

「ありがとうございます」

「私、つい先のことを考えすぎちゃうので」

「仕事のこと?」

「仕事も、ですけど」

 芽は少し考えた。

「予定が決まってないと、落ち着かないんです。何をいつまでにやるとか、次に何が起こるとか」

「研究って、そういうものなんですか?」

「そういうところもありますね。でも、私の性格かもしれません」

「のんびりした『かめ』なのに?」

 芽は笑った。

「そうなんです。変でしょう?」

「いや、面白いですね」

「子どものころは、何も考えずに寄り道してばっかりだったのに」

「今も貝殻拾って寄り道してましたよ」

「そうでした」

 芽は声を上げて笑った。

「じゃあ、あんまり変わってないのかな」

「そうかもしれません」

 新太郎はコーヒーを飲んだ。

 少し冷めていたが、香りはまだ残っていた。

 そのとき、テーブルの上に置いてあった芽のスマートフォンが震えた。

 芽は画面を見た。

 さっきまでの笑顔が、ほんの少しだけ消えた。

「……すみません」

「仕事ですか?」

「はい。ちょっとだけ」

 芽はスマートフォンを手に取り、画面を操作した。

 新太郎は窓の外へ目を向けた。

 店の前を、犬を連れた男性が歩いていく。

 海には、小さな漁船が一隻浮かんでいた。

 しばらくして、芽がスマートフォンを伏せた。

「ごめんなさい」

「大丈夫ですか?」

「はい。ちょっと確認だけだったので」

「土曜日なのに大変ですね」

「そうですね。でも、慣れちゃいました」

 芽は苦笑した。

「研究って、そんなに忙しいんですか?」

「時期によります。今はちょうど、いろいろ重なっていて」

「そうなんですね」

「でも、今日は本当に来てよかったです」

 芽は新太郎を見た。

「こういう時間、最近なかったから」

「それならよかった」

「ありがとうございます」

「いや、俺も楽しかったですから」

 芽は少し嬉しそうに笑った。

 店を出るころには、空が夕焼けに染まり始めていた。

 駐車場からは、海の向こうに沈みかけた太陽が見えた。

「きれいですね」

 芽が言った。

「そうですね」

 二人はしばらく、車のそばに立って夕日を眺めた。

 海面には細長い光の道が伸びていた。

 芽はバッグからスマートフォンを取り出し、写真を撮った。

「新太郎さんも、一緒に撮りません?」

「俺も?」

「はい。せっかくだから」

 ちょうどそのとき、店の入口の照明を点けに、店員が外へ出てきた。

 芽はその女性に声をかけ、写真をお願いした。

「もちろん、いいですよ」

 二人は海を背に並んだ。

 芽が新太郎の隣に立ち、少しだけ距離を詰めた。

「もう少し寄ってください」

 店員がスマートフォンを構えながら言った。

 新太郎が一歩近づくと、芽の肩が軽く触れた。

「はい、撮りますね」

 シャッター音が鳴った。

 芽は礼を言ってスマートフォンを受け取り、画面を確認した。

「いい写真」

 新太郎も覗き込んだ。

 夕日を背にした二人が、少し照れくさそうに笑っていた。

「送りますね」

「ありがとうございます」

 芽はその場で写真を送ってくれた。

 新太郎のスマートフォンに通知が届いた。

 二人が並んで写っている。

 それだけの写真だった。

 けれど、新太郎はしばらく画面を見つめていた。

「気に入りました?」

 芽が聞いた。

「はい」

「よかった」

 芽は嬉しそうに笑った。

 車に乗り込み、帰路についた。

 高速道路に入るころには、すっかり日が暮れていた。

 街の灯りが増え、車の流れも少し混み始めていた。

 芽は助手席で、窓の外を眺めていた。

「疲れました?」

 新太郎が尋ねた。

「少し。でも、いい疲れです」

「寝ててもいいですよ」

「もったいないから、起きてます」

「何がもったいないんですか?」

「新太郎さんと話せる時間が」

 新太郎は一瞬、言葉に詰まった。

「……そうですか」

「はい」

 芽は笑った。

「でも、ちょっと眠くなってきました」

「無理しないでください」

「じゃあ、少しだけ」

 芽はシートに深く座り、目を閉じた。

 車内には、ラジオから流れる小さな音楽と、タイヤが道路を走る音だけが残った。

 新太郎は前を見ながら、速度を少し落とした。

 しばらくすると、助手席から静かな寝息が聞こえてきた。

 信号待ちで横を見ると、芽は窓のほうに顔を向け、眠っていた。

 昼間、海辺で貝殻を拾っていたときの無邪気な表情とは違い、今は少し疲れて見えた。

 新太郎は、彼女が普段どんな毎日を送っているのか、まだほとんど知らないことに気づいた。

 仕事が忙しいこと。

 脳や記憶の研究をしていること。

 休みの日も連絡が来ること。

 知っているのは、そのくらいだった。

 それでも、今日一日一緒に過ごして、彼女のことを少し分かった気がしていた。

 貝殻を見つけると立ち止まること。

 おいしいものを食べると、嬉しそうに目を細めること。

 冗談を言うとき、少し首を傾けること。

 そして、意外とよく笑うこと。

 新太郎は前方に目を戻した。

 車は夜の高速道路を走り続けた。

 都内に入る少し前、芽が目を覚ました。

「あ……寝ちゃいました」

「おはようございます」

 新太郎が言うと、芽は恥ずかしそうに笑った。

「すみません。どのくらい寝てました?」

「三十分くらいですかね」

「そんなに?」

「疲れてたんですよ」

「せっかくの帰り道だったのに」

「いいですよ。俺も運転に集中できましたし」

 芽は窓の外を見た。

 高層ビルの灯りが、遠くに見え始めていた。

「もう東京なんですね」

「もうすぐです」

「早いなあ」

 芽は小さく呟いた。

 それから、新太郎のほうを向いた。

「今日は、本当にありがとうございました」

「こちらこそ」

「また、一緒にどこか行きたいです」

「もちろん」

 新太郎は笑った。

「次は、どこにしましょうか」

 芽は少し考えた。

「……今度は、新太郎さんの行きたいところ」

「俺の?」

「はい。今日は私の希望だったから」

「そうですね」

「釣りでもいいですよ」

「本当に?」

「はい。教えてくれるって言ったでしょう?」

「じゃあ、今度はちゃんと準備して行きましょうか」

「楽しみにしてます」

 芽は嬉しそうに笑った。

 車は都心の道路へ入り、待ち合わせをした駅へ向かった。

 ロータリーに着いたのは、午後八時を少し過ぎたころだった。

 新太郎は車を停め、芽のほうを向いた。

「今日はお疲れさまでした」

「新太郎さんこそ。ずっと運転してくれて、ありがとうございました」

「楽しかったですよ」

「私もです」

 芽はシートベルトを外した。

 けれど、すぐにはドアを開けなかった。

「……あの」

「はい?」

「今日の写真、あとでまた見てもいいですか?」

 新太郎は少し驚いた。

「もちろん。芽さんのスマートフォンに入ってるじゃないですか」

「そうなんですけど」

 芽は笑った。

「何だか、今日が終わっちゃうのが寂しくて」

 新太郎は少し考えた。

「じゃあ、終わりじゃなくて、続きにしましょう」

「続き?」

「また会えばいいんですから」

 芽はしばらく新太郎を見つめていた。

 そして、ゆっくりと笑った。

「……そうですね」

 彼女はドアを開け、車を降りた。

 新太郎も降りて、歩道まで見送った。

「気をつけて帰ってください」

「はい。新太郎さんも」

 芽は少し歩いてから、振り返った。

「新太郎さん」

「はい?」

「今日は、本当に楽しかったです」

「俺もです」

 芽は笑顔で手を振った。

 新太郎も手を振り返した。

 彼女の姿が駅の入口に消えるまで、しばらくその場に立っていた。

 車に戻ると、助手席にはもう誰もいなかった。

 さっきまで聞こえていた芽の声が、まだ車内に残っているような気がした。

 新太郎はスマートフォンを取り出し、夕方に撮った写真を開いた。

 二人が並んで笑っている。

 その後ろには、夕暮れの海が広がっていた。

 新太郎は写真を閉じ、エンジンをかけた。

 レンタカーを返しに向かう道は、少しだけ静かに感じられた。



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