5 それぞれの時計
日曜日の朝、新太郎は九時過ぎに目を覚ました。
カーテンの隙間から、薄い日差しが差し込んでいる。昨日の朝はあんなによく晴れていたのに、今日は空一面に雲が広がっていた。
枕元のスマートフォンを手に取ると、芽からメッセージが届いていた。
『おはようございます。昨日はありがとうございました。写真、何度も見返しちゃいました』
送信時刻は午前八時十四分。
新太郎は思わず笑みを浮かべた。
昨夜、帰宅してからも二人は何通かメッセージを交わしていた。芽は無事に帰宅したことを知らせ、新太郎はレンタカーを返して家に着いたことを伝えた。互いに疲れていたので、長いやり取りにはならなかったが、最後に芽が送ってきた『おやすみなさい』という言葉が、妙に嬉しかった。
新太郎はベッドに横になったまま返信した。
『おはようございます。俺も見ました。いい写真ですよね』
少し考えてから、もう一通送った。
『今日は筋肉痛、大丈夫ですか?』
返事はすぐに届いた。
『今のところ大丈夫です。でも明日が怖いです』
『明日来るんですか?』
『その可能性はあります』
『まだ若いのに』
『新太郎さんだって、そんなに変わらないでしょう』
新太郎は声を出して笑った。
続けて芽からメッセージが届いた。
『昨日拾った貝殻、小さな瓶に入れました』
写真が添えられていた。
透明なガラス瓶の底に、いくつかの貝殻が重なっている。荒崎で拾った薄桃色の貝殻も、その中にあった。
『昔みたいですね』
新太郎が送ると、
『そうなんです。なんだか懐かしくなっちゃって』
と返ってきた。
『今度はもっと大きな瓶が必要になるかもしれませんね』
『じゃあ、また拾いに行かないと』
『ですね』
そこまでやり取りして、新太郎はようやくベッドから起き上がった。
顔を洗い、キッチンでコーヒーを淹れる。
テーブルに座り、昨日の写真をもう一度開いた。
夕暮れの海を背に、二人が並んでいる。
芽は少し首を傾けて笑っていた。自分のほうは、どこか緊張した顔をしている。
撮影してくれた店員に「もう少し寄ってください」と言われたとき、芽の肩が触れたことを思い出した。
写真の中では、二人はごく自然に並んでいるように見えた。
新太郎はしばらく眺めてから、スマートフォンを伏せた。
昨日一日で、芽のことをずいぶん知った気がする。
けれど、考えてみれば、まだ出会ってから二週間ほどしかたっていない。
彼女が何を食べるのが好きで、休日に何をして過ごしているのか。少しずつ分かってきたことはあるが、知らないことのほうがずっと多かった。
それでも、もっと知りたいと思った。
新太郎はコーヒーを飲み干し、洗濯機を回した。
昼過ぎ、亮介から電話がかかってきた。
『おう、生きてる?』
「何だよ、いきなり」
『昨日、海行ったんだろ?』
「行ったよ」
『どうだった?』
「楽しかった」
『それだけ?』
「それだけって?」
『何か進展は?』
「進展って何だよ」
亮介は電話の向こうで笑った。
『手くらいつないだ?』
新太郎は少し黙った。
「……ちょっとだけ」
『えっ』
亮介の声が急に大きくなった。
『マジで?』
「そんな大げさな話じゃないよ」
『いやいや、そこ大事だろ』
「砂浜で立ち上がるときに手を貸しただけ」
『何だ』
「何だって何だよ」
『いや、もっとこう、あるだろ』
「ないよ」
亮介は大げさにため息をついた。
『お前、相変わらずだな』
「ほっとけ」
『まあ、楽しかったならいいけどさ』
「うん」
『また会うんだろ?』
「そのつもり」
『じゃあ、いいじゃん』
亮介は少し声を落とした。
『今度、写真見せろよ』
「何でだよ」
『どんな人か気になるだろ』
「そのうちな」
『絶対だぞ』
電話を切ったあと、新太郎は苦笑した。
亮介には何でも話せるつもりでいたが、芽のことになると、どうも調子が狂う。
午後は買い物に出かけ、夕方には簡単な夕食を作った。
芽からは、ときどきメッセージが届いた。
今日は家でゆっくりしていること。昨日の写真を母親に見せたら、海がきれいだと言われたこと。貝殻を入れた瓶を窓際に置いたこと。
新太郎も、洗濯をしたことや亮介から電話があったことを話した。
特別な話題はなかった。
それでも、メッセージを交わしているだけで、日曜日が少し楽しく感じられた。
月曜日になると、いつもの仕事が始まった。
朝の通勤電車は相変わらず混んでいて、会社に着くころには少し疲れていた。
午前中は取引先への見積書を作り、午後には営業会議があった。
昼休み、三宅が新太郎の席にやってきた。
「先輩、週末どこか行ったんですか?」
「何で?」
「いや、なんか機嫌よさそうなんで」
「普通だよ」
「そうですか?」
三宅は疑わしそうに新太郎を見た。
「もしかして、例の人ですか?」
「例の人って何だよ」
「ほら、この前言ってた」
「別に」
「その反応、絶対そうじゃないですか」
新太郎はパソコンの画面に目を戻した。
「仕事しろよ」
「今、昼休みですけど」
「じゃあ飯食ってこい」
三宅は笑いながら去っていった。
新太郎はため息をつき、スマートフォンを確認した。
芽からメッセージが届いていた。
『おはようございます。やっぱり少し筋肉痛になりました』
送信時刻は午前十時過ぎだった。
『大丈夫ですか?』
『階段を下りるときにちょっとだけ』
『それは大変ですね』
『でも、楽しかった証拠です』
新太郎は笑った。
『次はもう少し歩かないところにしましょうか』
『いえ、次までに鍛えておきます』
続けて、
『今日は午後から会議が続くので、返信遅くなるかもしれません』
と届いた。
『了解です。無理しないでください』
新太郎はそう返し、スマートフォンをしまった。
その日の夜、芽から返信が来たのは十時半を過ぎてからだった。
『今、やっと終わりました。遅くなってごめんなさい』
『お疲れさまです。まだ会社ですか?』
『はい。これから帰ります』
『気をつけて帰ってください』
『ありがとうございます。新太郎さんも、明日お仕事ですよね。おやすみなさい』
『おやすみなさい』
短いやり取りだった。
新太郎は、こんな時間まで仕事をしているのかと思った。
研究という仕事は、成果が出るまでに時間がかかるのだろう。会議も多いと言っていた。
自分も忙しい時期には帰宅が遅くなることがある。仕事が立て込めば、誰だってそうなる。
火曜日も、水曜日も、芽からの連絡は少なかった。
朝に一通、夜に一通。
それまで昼休みや夕方にも届いていたメッセージが、少しずつ減っていった。
新太郎は気にならないと言えば嘘になるが、仕事が忙しいと聞いていたので、あまり考えないようにした。
水曜日の夜、帰宅してシャワーを浴びたあと、スマートフォンを確認すると、芽からメッセージが届いていた。
『今週、思ったより忙しくなってしまいました』
『大変そうですね』
『はい。ちょっと予定が変わってしまって』
『何かあったんですか?』
送信してから、新太郎は少し後悔した。
仕事の詳しいことを聞いても、答えにくいかもしれない。
けれど、すぐに返事が来た。
『大きなことではないんです。ただ、確認しなきゃいけないことが増えて』
『そうなんですね』
『しばらく、あまり会う時間が取れないかもしれません』
新太郎は画面を見つめた。
残念だった。
けれど、それをそのまま伝えるのは、少し違う気がした。
『分かりました。仕事が落ち着いたら、また会いましょう』
送信すると、少し間があった。
『ごめんなさい』
『謝ることじゃないですよ』
『ありがとうございます』
続けて、もう一通。
『海の写真、今も机に置いてるんです』
新太郎は少し驚いた。
『机に?』
『はい。印刷して、小さな写真立てに入れました』
『早いですね』
『ふふっ。気に入ったので』
新太郎は写真の中の二人を思い出した。
『俺も気に入ってます』
『よかった』
それから、芽は『もう少し仕事をしてから帰ります』と送ってきた。
新太郎は無理をしないようにと伝え、スマートフォンを置いた。
木曜日は、朝から雨だった。
新太郎は傘を差して駅へ向かった。
通勤電車の窓には雨粒が流れ、外の景色がぼんやりと滲んでいた。
会社では、急ぎの見積もりが入り、午前中はその対応に追われた。
午後には取引先から電話があり、納期の調整に時間を取られた。
気づけば夕方になっていた。
スマートフォンを確認すると、芽からの連絡はなかった。
新太郎は画面を閉じた。
忙しいのだろう。
そう思って、仕事に戻った。
金曜日も、連絡はなかった。
昼休み、新太郎は何度かスマートフォンを手に取った。
何か送ろうかと思ったが、結局やめた。
忙しいと分かっているのに、返事を求めるようなことはしたくなかった。
その日の夕方、三宅が新太郎に声をかけた。
「先輩、今日飲みに行きません?」
「今日はやめとく」
「予定あるんですか?」
「いや、別に」
「じゃあ、行きましょうよ」
「ちょっと疲れてる」
「珍しいですね」
「たまには早く帰りたいんだよ」
三宅は肩をすくめた。
「じゃあ、また今度」
「悪いな」
仕事を終えて会社を出ると、雨は上がっていた。
濡れた歩道に街灯の光が映っている。
新太郎は駅へ向かいながら、スマートフォンを取り出した。
芽との最後のやり取りは、水曜日の夜だった。
まだ二日しかたっていない。
それでも、毎日のように連絡を取っていたせいか、ずいぶん長く感じられた。
新太郎は少し考え、メッセージを送った。
『今週もお疲れさまでした。忙しそうですけど、体に気をつけてください』
それだけだった。
返事を急がせるつもりはなかった。
スマートフォンをポケットにしまい、駅の改札を通った。
帰宅して夕食を済ませ、テレビを見ながら過ごした。
十一時を過ぎても、芽からの返信はなかった。
新太郎はテレビを消し、寝る準備を始めた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には、芽の名前が表示されていた。
『新太郎さん、こんばんは』
新太郎はすぐに返信した。
『こんばんは。お疲れさまです』
『連絡できなくてごめんなさい』
『大丈夫ですよ。忙しいんでしょう?』
『はい。ちょっと、いろいろあって』
新太郎は画面を見つめた。
『体調は大丈夫ですか?』
『大丈夫です。心配しないでください』
少し間があった。
新太郎は返信を待った。
やがて、もう一通届いた。
『海の写真、今日も見てました』
新太郎は微笑んだ。
『俺も、たまに見てます』
『あの日、本当に楽しかったです』
『俺もです。また行きましょう』
しばらく返信がなかった。
新太郎はスマートフォンを置き、コップに水を注いだ。
戻ってくると、新しいメッセージが届いた。
『新太郎さん』
『はい』
すぐに、次のメッセージが表示された。
『今度、お話ししたいことがあります』
新太郎は画面を見つめた。
話したいこと。
何だろう。
仕事の相談だろうか。それとも、何か嬉しい報告でもあるのだろうか。
けれど、わざわざこんな言い方をするだろうか。
ふと、別の考えが浮かんだ。
もう会わないほうがいい、とか。
新太郎は少し眉を寄せた。
海へ行ったとき、何か気に障ることを言っただろうか。
思い返してみても、特に心当たりはなかった。
それに、芽はあの日の写真を何度も見ていると言っていた。
考えすぎか。
新太郎は小さく息を吐いた。
文字だけでは、相手がどんな気持ちで書いているのか分からない。
結局、会って聞くのが一番だろう。
『分かりました。いつでもいいですよ』
返信すると、少しして返事が来た。
『ありがとうございます。落ち着いたら、連絡しますね』
『待ってます』
『おやすみなさい』
『おやすみなさい』
新太郎はスマートフォンを置いた。
部屋は静かだった。
窓の外では、雨上がりの道路を車が走っている。
新太郎はベッドに横になった。
少し気にはなったが、今考えても仕方がない。
芽が落ち着いたら、また会える。
そのときに聞けばいい。
そう思うと、少し気持ちが軽くなった。
明日は土曜日だ。
久しぶりに、ゆっくり朝寝坊でもしよう。
新太郎は目を閉じた。
遠くで、車が水たまりを通り過ぎる音がした。
しばらくすると、その音も聞こえなくなった。




