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新浦島太郎  作者: ISM
第3章 海の向こう側
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12/27

5 それぞれの時計



 日曜日の朝、新太郎は九時過ぎに目を覚ました。

 カーテンの隙間から、薄い日差しが差し込んでいる。昨日の朝はあんなによく晴れていたのに、今日は空一面に雲が広がっていた。

 枕元のスマートフォンを手に取ると、芽からメッセージが届いていた。

『おはようございます。昨日はありがとうございました。写真、何度も見返しちゃいました』

 送信時刻は午前八時十四分。

 新太郎は思わず笑みを浮かべた。

 昨夜、帰宅してからも二人は何通かメッセージを交わしていた。芽は無事に帰宅したことを知らせ、新太郎はレンタカーを返して家に着いたことを伝えた。互いに疲れていたので、長いやり取りにはならなかったが、最後に芽が送ってきた『おやすみなさい』という言葉が、妙に嬉しかった。

 新太郎はベッドに横になったまま返信した。

『おはようございます。俺も見ました。いい写真ですよね』

 少し考えてから、もう一通送った。

『今日は筋肉痛、大丈夫ですか?』

 返事はすぐに届いた。

『今のところ大丈夫です。でも明日が怖いです』

『明日来るんですか?』

『その可能性はあります』

『まだ若いのに』

『新太郎さんだって、そんなに変わらないでしょう』

 新太郎は声を出して笑った。

 続けて芽からメッセージが届いた。

『昨日拾った貝殻、小さな瓶に入れました』

 写真が添えられていた。

 透明なガラス瓶の底に、いくつかの貝殻が重なっている。荒崎で拾った薄桃色の貝殻も、その中にあった。

『昔みたいですね』

 新太郎が送ると、

『そうなんです。なんだか懐かしくなっちゃって』

 と返ってきた。

『今度はもっと大きな瓶が必要になるかもしれませんね』

『じゃあ、また拾いに行かないと』

『ですね』

 そこまでやり取りして、新太郎はようやくベッドから起き上がった。

 顔を洗い、キッチンでコーヒーを淹れる。

 テーブルに座り、昨日の写真をもう一度開いた。

 夕暮れの海を背に、二人が並んでいる。

 芽は少し首を傾けて笑っていた。自分のほうは、どこか緊張した顔をしている。

 撮影してくれた店員に「もう少し寄ってください」と言われたとき、芽の肩が触れたことを思い出した。

 写真の中では、二人はごく自然に並んでいるように見えた。

 新太郎はしばらく眺めてから、スマートフォンを伏せた。

 昨日一日で、芽のことをずいぶん知った気がする。

 けれど、考えてみれば、まだ出会ってから二週間ほどしかたっていない。

 彼女が何を食べるのが好きで、休日に何をして過ごしているのか。少しずつ分かってきたことはあるが、知らないことのほうがずっと多かった。

 それでも、もっと知りたいと思った。

 新太郎はコーヒーを飲み干し、洗濯機を回した。

 昼過ぎ、亮介から電話がかかってきた。

『おう、生きてる?』

「何だよ、いきなり」

『昨日、海行ったんだろ?』

「行ったよ」

『どうだった?』

「楽しかった」

『それだけ?』

「それだけって?」

『何か進展は?』

「進展って何だよ」

 亮介は電話の向こうで笑った。

『手くらいつないだ?』

 新太郎は少し黙った。

「……ちょっとだけ」

『えっ』

 亮介の声が急に大きくなった。

『マジで?』

「そんな大げさな話じゃないよ」

『いやいや、そこ大事だろ』

「砂浜で立ち上がるときに手を貸しただけ」

『何だ』

「何だって何だよ」

『いや、もっとこう、あるだろ』

「ないよ」

 亮介は大げさにため息をついた。

『お前、相変わらずだな』

「ほっとけ」

『まあ、楽しかったならいいけどさ』

「うん」

『また会うんだろ?』

「そのつもり」

『じゃあ、いいじゃん』

 亮介は少し声を落とした。

『今度、写真見せろよ』

「何でだよ」

『どんな人か気になるだろ』

「そのうちな」

『絶対だぞ』

 電話を切ったあと、新太郎は苦笑した。

 亮介には何でも話せるつもりでいたが、芽のことになると、どうも調子が狂う。

 午後は買い物に出かけ、夕方には簡単な夕食を作った。

 芽からは、ときどきメッセージが届いた。

 今日は家でゆっくりしていること。昨日の写真を母親に見せたら、海がきれいだと言われたこと。貝殻を入れた瓶を窓際に置いたこと。

 新太郎も、洗濯をしたことや亮介から電話があったことを話した。

 特別な話題はなかった。

 それでも、メッセージを交わしているだけで、日曜日が少し楽しく感じられた。

 月曜日になると、いつもの仕事が始まった。

 朝の通勤電車は相変わらず混んでいて、会社に着くころには少し疲れていた。

 午前中は取引先への見積書を作り、午後には営業会議があった。

 昼休み、三宅が新太郎の席にやってきた。

「先輩、週末どこか行ったんですか?」

「何で?」

「いや、なんか機嫌よさそうなんで」

「普通だよ」

「そうですか?」

 三宅は疑わしそうに新太郎を見た。

「もしかして、例の人ですか?」

「例の人って何だよ」

「ほら、この前言ってた」

「別に」

「その反応、絶対そうじゃないですか」

 新太郎はパソコンの画面に目を戻した。

「仕事しろよ」

「今、昼休みですけど」

「じゃあ飯食ってこい」

 三宅は笑いながら去っていった。

 新太郎はため息をつき、スマートフォンを確認した。

 芽からメッセージが届いていた。

『おはようございます。やっぱり少し筋肉痛になりました』

 送信時刻は午前十時過ぎだった。

『大丈夫ですか?』

『階段を下りるときにちょっとだけ』

『それは大変ですね』

『でも、楽しかった証拠です』

 新太郎は笑った。

『次はもう少し歩かないところにしましょうか』

『いえ、次までに鍛えておきます』

 続けて、

『今日は午後から会議が続くので、返信遅くなるかもしれません』

 と届いた。

『了解です。無理しないでください』

 新太郎はそう返し、スマートフォンをしまった。

 その日の夜、芽から返信が来たのは十時半を過ぎてからだった。

『今、やっと終わりました。遅くなってごめんなさい』

『お疲れさまです。まだ会社ですか?』

『はい。これから帰ります』

『気をつけて帰ってください』

『ありがとうございます。新太郎さんも、明日お仕事ですよね。おやすみなさい』

『おやすみなさい』

 短いやり取りだった。

 新太郎は、こんな時間まで仕事をしているのかと思った。

 研究という仕事は、成果が出るまでに時間がかかるのだろう。会議も多いと言っていた。

 自分も忙しい時期には帰宅が遅くなることがある。仕事が立て込めば、誰だってそうなる。

 火曜日も、水曜日も、芽からの連絡は少なかった。

 朝に一通、夜に一通。

 それまで昼休みや夕方にも届いていたメッセージが、少しずつ減っていった。

 新太郎は気にならないと言えば嘘になるが、仕事が忙しいと聞いていたので、あまり考えないようにした。

 水曜日の夜、帰宅してシャワーを浴びたあと、スマートフォンを確認すると、芽からメッセージが届いていた。

『今週、思ったより忙しくなってしまいました』

『大変そうですね』

『はい。ちょっと予定が変わってしまって』

『何かあったんですか?』

 送信してから、新太郎は少し後悔した。

 仕事の詳しいことを聞いても、答えにくいかもしれない。

 けれど、すぐに返事が来た。

『大きなことではないんです。ただ、確認しなきゃいけないことが増えて』

『そうなんですね』

『しばらく、あまり会う時間が取れないかもしれません』

 新太郎は画面を見つめた。

 残念だった。

 けれど、それをそのまま伝えるのは、少し違う気がした。

『分かりました。仕事が落ち着いたら、また会いましょう』

 送信すると、少し間があった。

『ごめんなさい』

『謝ることじゃないですよ』

『ありがとうございます』

 続けて、もう一通。

『海の写真、今も机に置いてるんです』

 新太郎は少し驚いた。

『机に?』

『はい。印刷して、小さな写真立てに入れました』

『早いですね』

『ふふっ。気に入ったので』

 新太郎は写真の中の二人を思い出した。

『俺も気に入ってます』

『よかった』

 それから、芽は『もう少し仕事をしてから帰ります』と送ってきた。

 新太郎は無理をしないようにと伝え、スマートフォンを置いた。

 木曜日は、朝から雨だった。

 新太郎は傘を差して駅へ向かった。

 通勤電車の窓には雨粒が流れ、外の景色がぼんやりと滲んでいた。

 会社では、急ぎの見積もりが入り、午前中はその対応に追われた。

 午後には取引先から電話があり、納期の調整に時間を取られた。

 気づけば夕方になっていた。

 スマートフォンを確認すると、芽からの連絡はなかった。

 新太郎は画面を閉じた。

 忙しいのだろう。

 そう思って、仕事に戻った。

 金曜日も、連絡はなかった。

 昼休み、新太郎は何度かスマートフォンを手に取った。

 何か送ろうかと思ったが、結局やめた。

 忙しいと分かっているのに、返事を求めるようなことはしたくなかった。

 その日の夕方、三宅が新太郎に声をかけた。

「先輩、今日飲みに行きません?」

「今日はやめとく」

「予定あるんですか?」

「いや、別に」

「じゃあ、行きましょうよ」

「ちょっと疲れてる」

「珍しいですね」

「たまには早く帰りたいんだよ」

 三宅は肩をすくめた。

「じゃあ、また今度」

「悪いな」

 仕事を終えて会社を出ると、雨は上がっていた。

 濡れた歩道に街灯の光が映っている。

 新太郎は駅へ向かいながら、スマートフォンを取り出した。

 芽との最後のやり取りは、水曜日の夜だった。

 まだ二日しかたっていない。

 それでも、毎日のように連絡を取っていたせいか、ずいぶん長く感じられた。

 新太郎は少し考え、メッセージを送った。

『今週もお疲れさまでした。忙しそうですけど、体に気をつけてください』

 それだけだった。

 返事を急がせるつもりはなかった。

 スマートフォンをポケットにしまい、駅の改札を通った。

 帰宅して夕食を済ませ、テレビを見ながら過ごした。

 十一時を過ぎても、芽からの返信はなかった。

 新太郎はテレビを消し、寝る準備を始めた。

 そのとき、スマートフォンが震えた。

 画面には、芽の名前が表示されていた。

『新太郎さん、こんばんは』

 新太郎はすぐに返信した。

『こんばんは。お疲れさまです』

『連絡できなくてごめんなさい』

『大丈夫ですよ。忙しいんでしょう?』

『はい。ちょっと、いろいろあって』

 新太郎は画面を見つめた。

『体調は大丈夫ですか?』

『大丈夫です。心配しないでください』

 少し間があった。

 新太郎は返信を待った。

 やがて、もう一通届いた。

『海の写真、今日も見てました』

 新太郎は微笑んだ。

『俺も、たまに見てます』

『あの日、本当に楽しかったです』

『俺もです。また行きましょう』

 しばらく返信がなかった。

 新太郎はスマートフォンを置き、コップに水を注いだ。

 戻ってくると、新しいメッセージが届いた。

『新太郎さん』

『はい』

 すぐに、次のメッセージが表示された。

『今度、お話ししたいことがあります』

 新太郎は画面を見つめた。

 話したいこと。

 何だろう。

 仕事の相談だろうか。それとも、何か嬉しい報告でもあるのだろうか。

 けれど、わざわざこんな言い方をするだろうか。

 ふと、別の考えが浮かんだ。

 もう会わないほうがいい、とか。

 新太郎は少し眉を寄せた。

 海へ行ったとき、何か気に障ることを言っただろうか。

 思い返してみても、特に心当たりはなかった。

 それに、芽はあの日の写真を何度も見ていると言っていた。

 考えすぎか。

 新太郎は小さく息を吐いた。

 文字だけでは、相手がどんな気持ちで書いているのか分からない。

 結局、会って聞くのが一番だろう。

『分かりました。いつでもいいですよ』

 返信すると、少しして返事が来た。

『ありがとうございます。落ち着いたら、連絡しますね』

『待ってます』

『おやすみなさい』

『おやすみなさい』

 新太郎はスマートフォンを置いた。

 部屋は静かだった。

 窓の外では、雨上がりの道路を車が走っている。

 新太郎はベッドに横になった。

 少し気にはなったが、今考えても仕方がない。

 芽が落ち着いたら、また会える。

 そのときに聞けばいい。

 そう思うと、少し気持ちが軽くなった。

 明日は土曜日だ。

 久しぶりに、ゆっくり朝寝坊でもしよう。

 新太郎は目を閉じた。

 遠くで、車が水たまりを通り過ぎる音がした。

 しばらくすると、その音も聞こえなくなった。



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