1 思い出のかたち
芽から次の連絡があったのは、翌週の火曜日だった。
『お待たせしました。明日の夜なら、少し時間が取れそうです』
新太郎が仕事を終え、帰り支度をしているときだった。
『大丈夫だよ。何時ごろ?』
『七時くらいには行けると思います。もし遅くなりそうだったら連絡しますね』
『了解。どこで会おうか?』
『よかったら、私がお店を探してもいいですか?』
『もちろん』
『ありがとうございます。あとで場所を送りますね』
新太郎はスマートフォンをポケットにしまった。
芽が何を話そうとしているのか、まだ分からなかった。ただ、わざわざ時間を作ってくれたのだから、彼女にとって大切な話なのだろう。
その日の夜、芽から店の場所が送られてきた。駅から少し歩いたところにある、小さなイタリア料理店だった。
新太郎は地図を確認し、翌日の予定に店の名前を書き加えた。
水曜日の夕方、芽から連絡が入った。
『予定どおり帰れそうです。七時で大丈夫ですか?』
『大丈夫。お疲れさま』
『新太郎さんも、お疲れさまです』
指定された店は、通りに面した窓から暖色の照明と木製のテーブルが見える、落ち着いた雰囲気の店だった。
新太郎が店に着いたとき、芽はまだ来ていなかった。
店員に案内されて奥の席に座り、メニューを眺めていると、入口のベルが鳴った。
「すみません、遅くなりました」
芽が小走りで近づいてきた。薄いグレーのジャケットに紺色のパンツ。肩にかけたバッグは、いつもより少し大きかった。
「まだ七時になったばかりだよ」
「駅から思ったより遠くて」
「走ってきた?」
「ちょっとだけ」
「そんなに急がなくてもよかったのに」
芽は笑いながら椅子に腰を下ろした。
「私が七時って言ったので」
その言い方がいかにも芽らしくて、新太郎も笑った。
二人はパスタとサラダ、それに飲み物を注文した。芽はアイスティー、新太郎はジンジャーエールにした。
「ここ、前から来てみたかったんです」
「よく見つけたね」
「会社の人に教えてもらいました。料理がおいしいって」
「じゃあ期待できるね」
芽は頷いたが、テーブルに置いたスマートフォンを一度だけ確認した。
「まだ仕事?」
「いえ。今日はもう大丈夫です」
そう言って、スマートフォンを裏返した。
料理が運ばれてくるまで、二人はいつものように他愛のない話をした。
新太郎の仕事で起きたちょっとした失敗や、芽が駅で見かけた妙な広告の話。芽はその広告の文句を思い出そうとして、途中で笑い出してしまった。
新太郎もつられて笑った。
こうしていると、改まって話したいことがあると言われていたのを忘れそうになる。
食事が半分ほど進んだころ、芽がフォークを置いた。
「あの、新太郎さん」
「うん?」
「この前、話したいことがあるって言ったでしょう」
「ああ、そうだったね」
「実は、仕事のことなんです」
新太郎は頷いた。
「何かあった?」
「何かあったというか……これから少し、忙しくなりそうで」
「今も十分忙しそうだけど」
「そうなんですけど、今までとはちょっと違うんです」
芽は言葉を探すように、グラスの中の氷を見つめた。
「新しい仕事を任されることになって。まだ準備段階なんですけど、始まったら勤務時間もかなり不規則になると思います」
「夜勤とか?」
「夜勤という形ではないんですけど、研究の進み具合によっては、夜遅くまで残ることもあります。場合によっては、何日か帰れないこともあるかもしれません」
「会社に泊まるってこと?」
「そうですね。宿泊できる設備があるので」
「へえ。そんな設備まであるんだ」
「研究施設なので、いろいろあるんです」
芽はそこで少し笑った。
「もちろん、いつもそうなるわけじゃないですけど」
「大変だね」
「慣れてはいるんです。でも……」
芽は言葉を切った。
「でも?」
「これから、今までみたいに会えなくなることがあるかもしれないので、先にお話ししておこうと思って」
新太郎は少し考えた。
「それで、わざわざ時間を作ってくれたんだ」
「はい」
「ありがとう」
芽は意外そうな顔をした。
「ありがとう、って?」
「だって、ちゃんと話してくれたんだから」
「でも、会えなくなるかもしれないって話ですよ」
「そうだけど、仕事なんだから仕方ないよ。それより、何日も帰れないっていうのは、身体が大丈夫なのかなって思う」
「休みは取れますよ。ずっと働き続けるわけじゃないです」
「それならいいけど」
「心配してくれるんですね」
「そりゃ、するよ」
芽はグラスを両手で包むように持った。
「新太郎さんは、あまり気にならないですか? 会う約束をしていても、急にキャンセルになるとか」
「残念には思うだろうけどね」
「そうですよね」
「でも、芽さんが会いたくなくなったわけじゃないんでしょう?」
「もちろんです」
芽はすぐに答えた。
その勢いに新太郎は少し驚き、それから笑った。
「だったら、別の日に会えばいいじゃない」
芽はしばらく新太郎を見つめていた。
「……そうですね」
「それに、俺だっていつも暇なわけじゃないし」
「それは知ってます」
「そう?」
「新太郎さん、仕事が忙しいとき、返信がすごく短くなるから」
「えっ、そうなの?」
「はい。『了解』とか『そうだね』とか」
「気をつけます」
「別に、気をつけなくていいですよ」
芽は楽しそうに笑った。
「忙しいんだなって、わかるので」
新太郎は、自分が思っている以上に、芽が普段のやり取りをよく覚えていることに気づいた。
食後のコーヒーが運ばれてくるころには、店内の客も少し減っていた。
「ところで、芽さんの研究って、具体的にはどんなことをしてるの?」
新太郎が尋ねると、芽はカップを持ち上げかけた手を止めた。
「具体的に、ですか?」
「うん。製薬会社で研究してるっていうのは知ってるけど、実際に何をしてるのか、あまり聞いたことがないなと思って」
「そうですね。あんまり話してませんでしたね」
「話せないことも多い?」
「あります。守秘義務があるので」
「そっか。じゃあ、無理に聞かない方がいいね」
「いえ、全部が秘密というわけじゃないんです」
芽は少し考えてから続けた。
「私が関わっているのは、脳の働きに関係する研究です」
「脳?」
「はい。人間が何かを感じたり、覚えたり、判断したりする仕組みですね。そういうものに関係しています」
「ずいぶん難しそうだ」
「難しいですよ」
芽は笑った。
「私にも、まだ分からないことがたくさんあります」
「研究者でも?」
「研究者だから、かもしれません。調べれば調べるほど、分からないことが増えるんです」
「へえ」
「例えば、記憶って不思議だと思いませんか?」
「記憶?」
「同じ出来事を経験しても、人によって覚えていることが全然違ったりするでしょう」
「まあ、そうだね」
「この前、三浦半島に行ったときのこと、覚えてます?」
「もちろん」
「何が一番印象に残ってますか?」
新太郎は少し考えた。
「荒崎でベンチに座ってたときかな」
「ベンチ?」
「うん。遠くに釣りをしてる人がいたでしょう。あれを眺めながら、二人でぼんやりしてたとき」
「ああ、覚えてます」
「別に何かしたわけじゃないんだけどね。ああいう時間って、いいなと思って」
「そうですね」
「海を見て、釣り人を見て、たまに話して。また黙って」
新太郎は少し笑った。
「何もしないでいるのに、退屈しなかったんだよね」
芽は新太郎を見つめた。
「私も、あの時間は好きでした」
「芽さんは? 一番覚えてるのは」
「私は……三浦海岸かな」
「砂浜を歩いたとき?」
「はい」
芽は少し考えてから続けた。
「新太郎さん、波が来るたびに足元を見てましたよね」
「そうだった?」
「そうですよ。靴が濡れるのを気にしてるのかなって」
「たぶん、そうだったんだろうね」
「でも、私は波より、新太郎さんの方を見てたんです」
「え?」
芽は少し照れくさそうに笑った。
「新太郎さん、すごく楽しそうだったから」
「そうかな」
「はい」
新太郎はあの日の砂浜を思い出した。波の音と、海から吹いてくる風。隣を歩いていた芽の姿。
「確かに、楽しかったよ」
「私もです」
芽はそう言って、カップに目を落とした。
「不思議だね」と新太郎が言った。
「何がですか?」
「同じ一日だったのに、覚えてることが違うんだね」
「そうですね」
「でも、芽さんが覚えてることを聞くと、俺も思い出すことがある」
「例えば?」
「さっきの砂浜の話。そういえば、波が来るたびに足元を見てた気がする」
「でしょう?」
「うん。でも、芽さんが言わなかったら、たぶん思い出さなかった」
芽は頷いた。
「記憶って、そういうものなんですよね」
「どういうこと?」
「自分では忘れていたつもりでも、何かのきっかけで思い出したりする。逆に、覚えているつもりのことが、実際とは少し違っていたり」
「なるほど」
「記憶って、録画みたいにそのまま残っているわけじゃないんです」
新太郎は頷いた。
「じゃあ、今日のことも、何年かしたら違うふうに覚えてるのかな」
「そうかもしれませんね」
「芽さんは何を覚えてるんだろう」
「まだ今日が終わってませんよ」
「確かに」
二人は笑った。
芽はカップを置いて、新太郎を見た。
「でも、今日のことは、ちゃんと覚えていたいです」
「仕事の話?」
「それもありますけど」
「ほかには?」
芽は少し考えるようにしてから、微笑んだ。
「それは、私個人の秘密です」
「守秘義務じゃなくて?」
「はい。そっちは関係ありません」
新太郎は笑った。
「じゃあ、聞かないでおこう」
「そうしてください」
芽も笑ったが、少しだけ頬が赤くなっていた。
店を出ると、夜の空気は思ったより冷たかった。
駅へ向かう道を、二人は並んで歩いた。
「今日はありがとうございました」
芽が言った。
「こちらこそ。おいしかったね」
「はい。また来たいです」
「今度は別のパスタにしようかな」
「もう次に食べるものを考えてるんですか?」
「今日のもおいしかったから」
「ふふ」
信号待ちで足を止めたとき、芽が言った。
「あの、新太郎さん」
「うん?」
「今日、仕事の話ができてよかったです」
「俺も、少しだけ芽さんの仕事がわかった気がする」
「ほんの少しですけどね」
「また教えてよ。話せる範囲でいいから」
「はい」
芽は嬉しそうに頷いた。
「でも、難しい話ばかりになっちゃうかもしれません」
「分からなかったら聞くよ」
「何度も説明することになるかもしれませんよ」
「それは芽先生に頑張ってもらわないと」
「先生じゃありません」
芽は笑いながら、新太郎の腕を軽く叩いた。
信号が青に変わった。
二人は横断歩道を渡り、駅の改札前で立ち止まった。
「次はいつ会えそう?」
新太郎が尋ねた。
「まだ、ちょっと分からないんです。来週の予定も決まってなくて」
「そっか。じゃあ、落ち着いたら連絡して」
「はい。なるべく早く」
「無理しなくていいよ」
芽は頷いたが、すぐには改札へ向かわなかった。
「新太郎さん」
「うん」
「私、忙しくなっても、ちゃんと連絡しますから」
「うん」
「返事が遅くなることはあると思いますけど」
「わかった」
芽は少し迷うようにしてから、続けた。
「会いたくないわけじゃないですからね」
新太郎は思わず笑った。
「それ、さっきも聞いたよ」
「あ……そうでしたね」
「大丈夫。わかってる」
芽は照れくさそうに笑った。
「じゃあ、また」
「うん。気をつけて」
芽は改札を通り、振り返って小さく手を振った。
新太郎も手を振り返した。
人の流れの中に芽の姿が消えてから、新太郎は自分の乗る電車のホームへ向かった。
帰りの電車で、窓に映る自分の顔をぼんやり眺めながら、新太郎は芽の話を思い返していた。
何日も帰れないことがある仕事。
守秘義務があって、詳しくは話せない研究。
自分とはずいぶん違う生活を送っているのだと思った。
それでも、芽が遠い存在になったようには感じなかった。
むしろ、今まで知らなかった彼女の一面を、少しだけ知ることができた気がした。
スマートフォンが震えた。
『今日はありがとうございました。仕事の話ばかりですみませんでした』
新太郎はすぐに返信した。
『面白かったよ。また聞かせて』
少しして、芽から返事が来た。
『はい。今度はもう少し詳しくお話しできると思います』
新太郎はその文章を読み、スマートフォンをポケットにしまった。
電車は川に架かる橋を渡っていた。窓の外には、街の明かりを映した黒い水面が広がっていた。
そういえば、芽はどうして、あの砂浜での自分の様子をあんなによく覚えていたのだろう。
新太郎はふと思った。
しかし、その答えを急いで知りたいとは思わなかった。
いつか、また聞く機会もあるだろう。
そう思いながら、流れていく街の明かりを眺めていた。




