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新浦島太郎  作者: ISM
第4章 海の底へ
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13/28

1 思い出のかたち



 芽から次の連絡があったのは、翌週の火曜日だった。

『お待たせしました。明日の夜なら、少し時間が取れそうです』

 新太郎が仕事を終え、帰り支度をしているときだった。

『大丈夫だよ。何時ごろ?』

『七時くらいには行けると思います。もし遅くなりそうだったら連絡しますね』

『了解。どこで会おうか?』

『よかったら、私がお店を探してもいいですか?』

『もちろん』

『ありがとうございます。あとで場所を送りますね』

 新太郎はスマートフォンをポケットにしまった。

 芽が何を話そうとしているのか、まだ分からなかった。ただ、わざわざ時間を作ってくれたのだから、彼女にとって大切な話なのだろう。

 その日の夜、芽から店の場所が送られてきた。駅から少し歩いたところにある、小さなイタリア料理店だった。

 新太郎は地図を確認し、翌日の予定に店の名前を書き加えた。


 水曜日の夕方、芽から連絡が入った。

『予定どおり帰れそうです。七時で大丈夫ですか?』

『大丈夫。お疲れさま』

『新太郎さんも、お疲れさまです』

 指定された店は、通りに面した窓から暖色の照明と木製のテーブルが見える、落ち着いた雰囲気の店だった。

 新太郎が店に着いたとき、芽はまだ来ていなかった。

 店員に案内されて奥の席に座り、メニューを眺めていると、入口のベルが鳴った。

「すみません、遅くなりました」

 芽が小走りで近づいてきた。薄いグレーのジャケットに紺色のパンツ。肩にかけたバッグは、いつもより少し大きかった。

「まだ七時になったばかりだよ」

「駅から思ったより遠くて」

「走ってきた?」

「ちょっとだけ」

「そんなに急がなくてもよかったのに」

 芽は笑いながら椅子に腰を下ろした。

「私が七時って言ったので」

 その言い方がいかにも芽らしくて、新太郎も笑った。

 二人はパスタとサラダ、それに飲み物を注文した。芽はアイスティー、新太郎はジンジャーエールにした。

「ここ、前から来てみたかったんです」

「よく見つけたね」

「会社の人に教えてもらいました。料理がおいしいって」

「じゃあ期待できるね」

 芽は頷いたが、テーブルに置いたスマートフォンを一度だけ確認した。

「まだ仕事?」

「いえ。今日はもう大丈夫です」

 そう言って、スマートフォンを裏返した。


 料理が運ばれてくるまで、二人はいつものように他愛のない話をした。

 新太郎の仕事で起きたちょっとした失敗や、芽が駅で見かけた妙な広告の話。芽はその広告の文句を思い出そうとして、途中で笑い出してしまった。

 新太郎もつられて笑った。

 こうしていると、改まって話したいことがあると言われていたのを忘れそうになる。

 食事が半分ほど進んだころ、芽がフォークを置いた。

「あの、新太郎さん」

「うん?」

「この前、話したいことがあるって言ったでしょう」

「ああ、そうだったね」

「実は、仕事のことなんです」

 新太郎は頷いた。

「何かあった?」

「何かあったというか……これから少し、忙しくなりそうで」

「今も十分忙しそうだけど」

「そうなんですけど、今までとはちょっと違うんです」

 芽は言葉を探すように、グラスの中の氷を見つめた。

「新しい仕事を任されることになって。まだ準備段階なんですけど、始まったら勤務時間もかなり不規則になると思います」

「夜勤とか?」

「夜勤という形ではないんですけど、研究の進み具合によっては、夜遅くまで残ることもあります。場合によっては、何日か帰れないこともあるかもしれません」

「会社に泊まるってこと?」

「そうですね。宿泊できる設備があるので」

「へえ。そんな設備まであるんだ」

「研究施設なので、いろいろあるんです」

 芽はそこで少し笑った。

「もちろん、いつもそうなるわけじゃないですけど」

「大変だね」

「慣れてはいるんです。でも……」

 芽は言葉を切った。

「でも?」

「これから、今までみたいに会えなくなることがあるかもしれないので、先にお話ししておこうと思って」

 新太郎は少し考えた。

「それで、わざわざ時間を作ってくれたんだ」

「はい」

「ありがとう」

 芽は意外そうな顔をした。

「ありがとう、って?」

「だって、ちゃんと話してくれたんだから」

「でも、会えなくなるかもしれないって話ですよ」

「そうだけど、仕事なんだから仕方ないよ。それより、何日も帰れないっていうのは、身体が大丈夫なのかなって思う」

「休みは取れますよ。ずっと働き続けるわけじゃないです」

「それならいいけど」

「心配してくれるんですね」

「そりゃ、するよ」

 芽はグラスを両手で包むように持った。

「新太郎さんは、あまり気にならないですか? 会う約束をしていても、急にキャンセルになるとか」

「残念には思うだろうけどね」

「そうですよね」

「でも、芽さんが会いたくなくなったわけじゃないんでしょう?」

「もちろんです」

 芽はすぐに答えた。

 その勢いに新太郎は少し驚き、それから笑った。

「だったら、別の日に会えばいいじゃない」

 芽はしばらく新太郎を見つめていた。

「……そうですね」

「それに、俺だっていつも暇なわけじゃないし」

「それは知ってます」

「そう?」

「新太郎さん、仕事が忙しいとき、返信がすごく短くなるから」

「えっ、そうなの?」

「はい。『了解』とか『そうだね』とか」

「気をつけます」

「別に、気をつけなくていいですよ」

 芽は楽しそうに笑った。

「忙しいんだなって、わかるので」

 新太郎は、自分が思っている以上に、芽が普段のやり取りをよく覚えていることに気づいた。


 食後のコーヒーが運ばれてくるころには、店内の客も少し減っていた。

「ところで、芽さんの研究って、具体的にはどんなことをしてるの?」

 新太郎が尋ねると、芽はカップを持ち上げかけた手を止めた。

「具体的に、ですか?」

「うん。製薬会社で研究してるっていうのは知ってるけど、実際に何をしてるのか、あまり聞いたことがないなと思って」

「そうですね。あんまり話してませんでしたね」

「話せないことも多い?」

「あります。守秘義務があるので」

「そっか。じゃあ、無理に聞かない方がいいね」

「いえ、全部が秘密というわけじゃないんです」

 芽は少し考えてから続けた。

「私が関わっているのは、脳の働きに関係する研究です」

「脳?」

「はい。人間が何かを感じたり、覚えたり、判断したりする仕組みですね。そういうものに関係しています」

「ずいぶん難しそうだ」

「難しいですよ」

 芽は笑った。

「私にも、まだ分からないことがたくさんあります」

「研究者でも?」

「研究者だから、かもしれません。調べれば調べるほど、分からないことが増えるんです」

「へえ」

「例えば、記憶って不思議だと思いませんか?」

「記憶?」

「同じ出来事を経験しても、人によって覚えていることが全然違ったりするでしょう」

「まあ、そうだね」

「この前、三浦半島に行ったときのこと、覚えてます?」

「もちろん」

「何が一番印象に残ってますか?」

 新太郎は少し考えた。

「荒崎でベンチに座ってたときかな」

「ベンチ?」

「うん。遠くに釣りをしてる人がいたでしょう。あれを眺めながら、二人でぼんやりしてたとき」

「ああ、覚えてます」

「別に何かしたわけじゃないんだけどね。ああいう時間って、いいなと思って」

「そうですね」

「海を見て、釣り人を見て、たまに話して。また黙って」

 新太郎は少し笑った。

「何もしないでいるのに、退屈しなかったんだよね」

 芽は新太郎を見つめた。

「私も、あの時間は好きでした」

「芽さんは? 一番覚えてるのは」

「私は……三浦海岸かな」

「砂浜を歩いたとき?」

「はい」

 芽は少し考えてから続けた。

「新太郎さん、波が来るたびに足元を見てましたよね」

「そうだった?」

「そうですよ。靴が濡れるのを気にしてるのかなって」

「たぶん、そうだったんだろうね」

「でも、私は波より、新太郎さんの方を見てたんです」

「え?」

 芽は少し照れくさそうに笑った。

「新太郎さん、すごく楽しそうだったから」

「そうかな」

「はい」

 新太郎はあの日の砂浜を思い出した。波の音と、海から吹いてくる風。隣を歩いていた芽の姿。

「確かに、楽しかったよ」

「私もです」

 芽はそう言って、カップに目を落とした。

「不思議だね」と新太郎が言った。

「何がですか?」

「同じ一日だったのに、覚えてることが違うんだね」

「そうですね」

「でも、芽さんが覚えてることを聞くと、俺も思い出すことがある」

「例えば?」

「さっきの砂浜の話。そういえば、波が来るたびに足元を見てた気がする」

「でしょう?」

「うん。でも、芽さんが言わなかったら、たぶん思い出さなかった」

 芽は頷いた。

「記憶って、そういうものなんですよね」

「どういうこと?」

「自分では忘れていたつもりでも、何かのきっかけで思い出したりする。逆に、覚えているつもりのことが、実際とは少し違っていたり」

「なるほど」

「記憶って、録画みたいにそのまま残っているわけじゃないんです」

 新太郎は頷いた。

「じゃあ、今日のことも、何年かしたら違うふうに覚えてるのかな」

「そうかもしれませんね」

「芽さんは何を覚えてるんだろう」

「まだ今日が終わってませんよ」

「確かに」

 二人は笑った。

 芽はカップを置いて、新太郎を見た。

「でも、今日のことは、ちゃんと覚えていたいです」

「仕事の話?」

「それもありますけど」

「ほかには?」

 芽は少し考えるようにしてから、微笑んだ。

「それは、私個人の秘密です」

「守秘義務じゃなくて?」

「はい。そっちは関係ありません」

 新太郎は笑った。

「じゃあ、聞かないでおこう」

「そうしてください」

 芽も笑ったが、少しだけ頬が赤くなっていた。


 店を出ると、夜の空気は思ったより冷たかった。

 駅へ向かう道を、二人は並んで歩いた。

「今日はありがとうございました」

 芽が言った。

「こちらこそ。おいしかったね」

「はい。また来たいです」

「今度は別のパスタにしようかな」

「もう次に食べるものを考えてるんですか?」

「今日のもおいしかったから」

「ふふ」

 信号待ちで足を止めたとき、芽が言った。

「あの、新太郎さん」

「うん?」

「今日、仕事の話ができてよかったです」

「俺も、少しだけ芽さんの仕事がわかった気がする」

「ほんの少しですけどね」

「また教えてよ。話せる範囲でいいから」

「はい」

 芽は嬉しそうに頷いた。

「でも、難しい話ばかりになっちゃうかもしれません」

「分からなかったら聞くよ」

「何度も説明することになるかもしれませんよ」

「それは芽先生に頑張ってもらわないと」

「先生じゃありません」

 芽は笑いながら、新太郎の腕を軽く叩いた。

 信号が青に変わった。

 二人は横断歩道を渡り、駅の改札前で立ち止まった。

「次はいつ会えそう?」

 新太郎が尋ねた。

「まだ、ちょっと分からないんです。来週の予定も決まってなくて」

「そっか。じゃあ、落ち着いたら連絡して」

「はい。なるべく早く」

「無理しなくていいよ」

 芽は頷いたが、すぐには改札へ向かわなかった。

「新太郎さん」

「うん」

「私、忙しくなっても、ちゃんと連絡しますから」

「うん」

「返事が遅くなることはあると思いますけど」

「わかった」

 芽は少し迷うようにしてから、続けた。

「会いたくないわけじゃないですからね」

 新太郎は思わず笑った。

「それ、さっきも聞いたよ」

「あ……そうでしたね」

「大丈夫。わかってる」

 芽は照れくさそうに笑った。

「じゃあ、また」

「うん。気をつけて」

 芽は改札を通り、振り返って小さく手を振った。

 新太郎も手を振り返した。

 人の流れの中に芽の姿が消えてから、新太郎は自分の乗る電車のホームへ向かった。


 帰りの電車で、窓に映る自分の顔をぼんやり眺めながら、新太郎は芽の話を思い返していた。

 何日も帰れないことがある仕事。

 守秘義務があって、詳しくは話せない研究。

 自分とはずいぶん違う生活を送っているのだと思った。

 それでも、芽が遠い存在になったようには感じなかった。

 むしろ、今まで知らなかった彼女の一面を、少しだけ知ることができた気がした。

 スマートフォンが震えた。

『今日はありがとうございました。仕事の話ばかりですみませんでした』

 新太郎はすぐに返信した。

『面白かったよ。また聞かせて』

 少しして、芽から返事が来た。

『はい。今度はもう少し詳しくお話しできると思います』

 新太郎はその文章を読み、スマートフォンをポケットにしまった。

 電車は川に架かる橋を渡っていた。窓の外には、街の明かりを映した黒い水面が広がっていた。

 そういえば、芽はどうして、あの砂浜での自分の様子をあんなによく覚えていたのだろう。

 新太郎はふと思った。

 しかし、その答えを急いで知りたいとは思わなかった。

 いつか、また聞く機会もあるだろう。

 そう思いながら、流れていく街の明かりを眺めていた。



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