2 夏の縁側
土曜日の朝、新太郎は母親からの電話で目を覚ました。
「もしもし」
『あら、まだ寝てたの?』
「うん。今日は休みだから」
『そう。じゃあ、起こしちゃったわね』
「いいよ。どうしたの?」
母親は、押し入れを片づけていたら新太郎の昔の荷物が出てきたのだと言った。
『小学校のときの絵とか、作文とか。もう捨ててもいいかと思ったんだけど、一応聞いておこうと思って』
「そんなの、まだ取ってあったの?」
『あなたが持っていかないからでしょう』
新太郎は笑った。
「じゃあ、あとで見に行くよ」
『お昼は?』
「まだ決めてない」
『だったら、何か作っておくわ』
電話を切ってから時計を見ると、十時を少し過ぎていた。
新太郎はベッドを出て、カーテンを開けた。
空はよく晴れていた。窓から差し込む日差しは穏やかだったが、開け放つと、風にはもう冬の気配が混じっていた。
スマートフォンを手に取ると、昨夜、芽から届いたメッセージが残っていた。
『今日も遅くなってしまいました。おやすみなさい』
送信されたのは午前一時近くだった。
その上には、二日前に新太郎が送った写真があった。帰り道で見かけた、茜に染まる雲の写真だった。
『きれいですね。私も見たかったです』
芽の返事は、昨夜のメッセージと一緒に届いていた。
新太郎は窓の外を見た。あの雲はもうどこにもなかった。
『おはよう。今日は実家に行ってきます。芽さんも休めるときに休んでね』
送信してから、洗面所へ向かった。
実家に着いたのは昼を少し回った頃だった。
玄関を開けると、台所から煮物の匂いが漂ってきた。
「ただいま」
「おかえり。手、洗ってきなさい」
母親の声がした。
「もう子供じゃないんだけど」
「子供じゃなくても洗うでしょう」
「それもそうか」
新太郎は靴を脱いだ。
食卓には焼き魚と煮物、味噌汁が並んでいた。
「ずいぶんちゃんとした昼ご飯だね」
「あなたが来るっていうから、少し多めに作っただけよ」
母親はそう言って、ご飯をよそった。
食事をしながら、仕事のことや最近の天気のことを話した。母親は近所のスーパーが改装することを気にしていたが、新太郎にはその店がどこにあるのか、すぐには思い浮かばなかった。
「前に一緒に行ったじゃない」
「いつ?」
「去年のお正月よ」
「そうだっけ」
「あなた、本当に覚えてないのね」
母親は呆れたように笑った。
新太郎も笑った。
食事が終わると、母親は二階の押し入れから出したという段ボール箱を持ってきた。
「これ。持って帰るものがあったら持っていって」
箱の中には、色の褪せた画用紙やノート、古い筆箱などが入っていた。
小学校の図工で作ったらしい粘土細工もあったが、何を作ったのか自分でも分からなかった。
「これは何?」
母親が覗き込んだ。
「さあ。たぶん恐竜じゃないかな」
「犬じゃないの?」
「犬にしては首が長すぎるよ」
二人でしばらく眺めたが、結局わからなかった。
箱の底には、薄いアルバムが一冊入っていた。
「これも俺の?」
「たぶん、おじいちゃんのところの写真ね」
新太郎はアルバムを開いた。
古い写真が、透明なフィルムの下に何枚も並んでいた。
庭でスイカを食べている写真。川原で石を拾っている写真。見覚えのない親戚の子供たちと並んでいる写真。
どれも夏のものらしかった。
ページをめくると、縁側に座っている祖父の写真があった。
祖父は白い半袖のシャツを着て、膝の上に団扇を置いていた。足元には、まだ小さかった新太郎が座っている。
「ああ、懐かしいな」
思わず声が出た。
「おじいちゃんの家、よく行ったよね」
「夏休みになると、毎年のように行ってたわね」
新太郎は写真を眺めた。
祖父の家は、今はもうない。祖父が亡くなった後、しばらく空き家になっていたが、数年前に取り壊された。
それでも新太郎は、家の間取りをある程度覚えていた。
玄関を入ると土間があり、その奥に畳の部屋が続いていた。台所は少し暗く、廊下の板は歩くと音がした。
縁側からは小さな庭が見えた。
庭の隅には柿の木があって、その下に古い植木鉢がいくつも並んでいた。
夏になると、そこに座って祖父と話をした。
いや、何かを話していたのは祖父の方で、新太郎はほとんど聞いているだけだったのかもしれない。
話の内容は、もう覚えていなかった。
けれど、蝉の声や、縁側の板に触れた足の裏の感触は、今でも思い出せる気がした。
「風鈴もあったよね」
新太郎が言うと、母親は顔を上げた。
「風鈴?」
「うん。縁側のところに」
「そうだったかしら」
「ほら、ガラスの。風が吹くと、チリンって鳴るやつ」
母親は少し考えた。
「あの家にはなかったと思うけど」
「え、そう?」
「おじいちゃん、風鈴の音があんまり好きじゃなかったのよ。夜になるとうるさいって」
「そうなの?」
「だから、吊るしてなかったと思うわ」
新太郎はもう一度写真を見た。
祖父の頭の上には軒が写っていたが、風鈴らしいものは見当たらなかった。
「でも、あった気がするんだよな」
「別の家と間違えてるんじゃない?」
「そうかもしれない」
母親はアルバムを覗き込んだ。
「それにしても、あなた、この頃は本当に真っ黒だったわね」
「外で遊んでばっかりだったからね」
「おじいちゃんが畑に連れていくと、帰ってこなかったもの」
母親は懐かしそうに笑った。
新太郎も笑ったが、目はまだ写真に向いていた。
風鈴の音は、確かに覚えているような気がした。
縁側に座っていると、どこかで涼しげな音がする。祖父が団扇を動かし、その風がときどき自分の方にも届く。
そんな夏の午後が、頭の中にはっきりと浮かんでいた。
けれど、写真の中に風鈴はない。
母親の言う通り、別の場所の記憶が混ざっているのかもしれなかった。
「この写真、もらっていっていい?」
「いいわよ。アルバムごと持っていけば?」
「いや、この一枚だけでいい」
母親は引き出しから古い封筒を持ってきた。
新太郎は写真をアルバムから外し、封筒に入れた。
段ボール箱の中身は、結局ほとんど処分してもらうことにした。
ただ、恐竜なのか犬なのか分からない粘土細工だけは、何となく捨てる気になれず、持ち帰ることにした。
夕方、実家を出た。
駅までの道を歩いていると、冷たい風が吹き、街路樹の葉が乾いた音を立てた。
新太郎はふと、祖父の家の縁側を思い出した。
あの家に本当に風鈴があったのかどうか、今となっては確かめようがない。
けれど、風鈴の音を聞いて祖父を思い出すことだけは、昔から変わらなかった。
それなら、それでいいような気もした。
新太郎は再び歩き始めた。
家に戻ると、机の上に写真を置いた。
祖父はカメラの方を見ていたが、幼い新太郎は庭の方を向いていた。
何を見ていたのだろう。
写真を眺めても、思い出せなかった。
スマートフォンが震えた。
芽からだった。
『お疲れさまです。ご実家はいかがでしたか?』
新太郎はソファに座って返事を打った。
『懐かしいものがいろいろ出てきたよ。子供の頃の写真とか』
『いいですね。どんな写真ですか?』
『おじいちゃんと縁側に座ってる写真。小さい頃、よく遊びに行ってたんだ』
『素敵ですね』
『でも、ちょっと不思議なことがあって』
『不思議なこと?』
新太郎は風鈴の話を書いた。
自分では確かに覚えているつもりなのに、母親はそんなものはなかったと言う。
芽からの返事は、少し時間を置いて届いた。
『そういうこと、ありますよね』
『芽さんにもある?』
『あります。小さい頃のことを姉と話すと、全然違うことを覚えていたりします』
『へえ、お姉さんがいるんだ』
『はい。三つ上です』
『知らなかった』
『そういえば、話していませんでしたね』
新太郎は、芽にも自分の知らない家族との時間があるのだと、当たり前のことを思った。
『それで、風鈴は本当にあったんでしょうか』
芽が尋ねた。
『わからない。写真には写ってないし、母親はなかったって言うし』
『でも、音は覚えているんですね』
『うん。たぶん』
『たぶん?』
『話してるうちに、だんだん自信がなくなってきた』
芽から笑っている顔の絵文字が送られてきた。
『記憶って、案外そんなものかもしれませんね』
『前に芽さんが言ってた話を思い出したよ』
『三浦に行ったときのことですか?』
『そう。同じ出来事でも、覚えてることが違うって』
『覚えていることが違うだけじゃなくて、思い出すたびに少しずつ変わることもあるんですよ』
『じゃあ、俺の風鈴も、後からできたのかな』
『その可能性はあります。でも、今のお話だけでは何とも言えません』
『そうだよね』
『ただ、風鈴が本当になかったとしても、おじいさまと過ごした時間までなくなるわけではないですよね』
新太郎はその文章をしばらく眺めた。
それから机の上の写真に目を向けた。
『うん。そう思う』
返事を送った。
『なんか面白いね。記憶って』
『私は面白いと思います』
『仕事でそういうことも調べるの?』
『関係する部分はあります。詳しい内容はまだお話しできないんですけど』
『そうだったね。ごめん』
『謝らないでください。興味を持ってもらえるのは嬉しいです』
新太郎は少し考えてから、もう一つ質問した。
『そういう研究って、どうやって調べるの?』
『いろいろな方法があります。例えば、言葉や写真を覚えてもらって、時間を置いてからどのくらい思い出せるか調べたり』
『学校のテストみたいだね』
『似ているところもありますね。でも、正解の数だけを調べるわけではないんです』
『ほかには?』
『脳の活動を測定することもありますし、同じものを見たときに、人によってどう感じ方が違うかを調べることもあります』
『へえ』
『一般の方に協力していただく研究もあるんですよ』
『研究者じゃなくても?』
『はい。むしろ、専門知識のない方に参加していただくことが大切な場合もあります』
新太郎は、以前、テレビで見た脳の画像を思い出した。
画面に映った脳の一部が、赤や黄色に色づいていた。
ああいうことを芽も仕事で見ているのだろうか。
『俺みたいな普通の人でも、そういうのに参加できるの?』
『研究ごとに条件は違いますけど、参加できるものもありますよ』
『そうなんだ』
少しして、芽から続けてメッセージが届いた。
『新太郎さんは、そういう研究に参加してみたいと思います?』
新太郎は机の上の写真を見た。
祖父は相変わらず団扇を膝に置き、こちらを見ていた。
風鈴があったのかどうかは、やはり分からなかった。
『面白そうだね。機会があれば、一度くらい』
『そうですか』
『でも、記憶力にはあんまり自信ないな』
『試験ではないので、大丈夫ですよ』
『それなら安心だ』
芽からまた笑っている顔の絵文字が届いた。
その後、話題は別のことに移った。
芽は翌日も仕事があるらしかったが、来週には少し時間が取れそうだと言った。
『また連絡しますね』
『うん。楽しみにしてる』
『私もです』
新太郎はスマートフォンを置いた。
部屋の中は静かだった。
窓の外では、時折、車の通り過ぎる音がした。
新太郎は机の上の写真を手に取り、もう一度眺めた。
祖父と並んで座っていたあの夏の日、自分たちは何を話していたのだろう。
どんなに考えても、思い出せなかった。
けれど、祖父の隣にいることが好きだったのは覚えている。
写真の中の幼い自分は、庭の何かを見つめていた。
新太郎はその視線の先を、しばらく眺めていた。
やがて写真を封筒に戻し、机の引き出しにしまった。
窓を少し開けると、冷たい風が入ってきた。
新太郎はしばらくそのまま、夜の空気に触れていた。




