3 冬の入り口
十一月も半ばを過ぎようとしていた。
芽とは相変わらず、短いメッセージを交わす日々が続いていた。夜遅くに届くこともあれば、二日ほど返事のないこともあった。
街路樹が少しずつ色づいていく間に、二人が最後に会ってから半月ほどが過ぎていた。
日曜日の午後、新太郎は駅の改札を出たところで芽を見つけた。
芽は柱のそばに立ち、通りを行き交う人たちを眺めていた。薄いベージュのコートに、紺色のマフラーを巻いている。
新太郎が近づくと、芽はこちらに気づいて微笑んだ。
「こんにちは」
「こんにちは。待った?」
「いいえ。私も今来たところです」
「寒くない?」
「少し。でも、今日はいいお天気ですね」
空は高く晴れていた。駅前の街路樹はところどころ黄色く色づき、歩道には乾いた落ち葉が散っていた。
「今日はどこへ行くんですか?」
「とりあえず、商店街の方を歩いてみようかと思って」
「いいですね」
「特に何かあるわけじゃないんだけど」
「何もなくても、いいじゃないですか」
芽はそう言って笑った。
新太郎も笑った。
二人は並んで歩き始めた。
駅から少し離れると、昔ながらの商店街があった。
八百屋の店先には柿や蜜柑が並び、魚屋からは威勢のいい声が聞こえてきた。惣菜屋の前では、揚げたてのコロッケを買う人が列を作っていた。
「いい匂いですね」
芽が言った。
「コロッケ?」
「はい。お昼、まだなんです」
「俺も。買って食べようか」
「いいんですか?」
「もちろん」
二人は店先でコロッケを二つ買った。
紙袋に入ったコロッケは熱く、持ち替えるたびに指先が温かくなった。
少し先の小さな広場にベンチがあったので、そこに腰を下ろした。
「いただきます」
芽は紙袋からコロッケを取り出し、小さくかじった。
「あつっ」
「大丈夫?」
「はい。思ったより熱くて」
芽は笑いながら、少し息を吹きかけた。
新太郎もひと口食べた。
衣はさくさくしていて、中のじゃがいもはほくほくしていた。
「おいしいね」
「おいしいです。こういうの、久しぶりに食べました」
「コロッケ?」
「買い食いです」
「学生の頃はよくやった?」
「ええ。帰り道に友達と寄り道して。母には、夕飯が食べられなくなるって怒られましたけど」
「俺も似たようなもんだな」
「新太郎さんは、何を買ってたんですか?」
「肉まんとか、たこ焼きとか」
「ふふ。今とあまり変わらなそうですね」
「そうかもしれない」
広場の端では、小さな子供が落ち葉を集めていた。
両手いっぱいに抱えた葉を空に放り投げると、黄色い葉がひらひらと舞い落ちた。
芽はその様子を見ていた。
「楽しそう」
「やってみる?」
「まさか」
そう言いながらも、芽は少し笑っていた。
新太郎は残りのコロッケを食べた。
遠くで自転車のベルが鳴った。
休日の商店街には、急ぐ人があまりいなかった。
昼食は、商店街の外れにある小さな蕎麦屋で取った。
新太郎は温かい天ぷら蕎麦を、芽はきつね蕎麦を注文した。
「最近、ちゃんと休めてる?」
新太郎が尋ねた。
「少しずつですけど。先週よりは落ち着きました」
「よかった」
「ご心配をおかけしました」
「いや、心配っていうほどじゃないけど」
「でも、気にかけてくださってるのはわかります」
芽は湯気の立つ丼を両手で包むように持った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
新太郎は照れくさくなって、蕎麦をすすった。
芽も箸を取った。
しばらく二人は食事をした。
窓の外を、買い物袋を下げた人たちが通り過ぎていった。
「そういえば」
芽が顔を上げた。
「先日の写真、まだ持っていますか?」
「おじいちゃんの?」
「はい」
「持ってるよ。家に置いてあるけど」
「見てみたかったです」
「写真を撮っておけばよかったね」
「今度でいいですよ」
「うん。今度見せるよ」
芽は嬉しそうに頷いた。
食事を終えてから、二人は商店街の裏手にある公園へ向かった。
大きな公園ではなかったが、中央に池があり、その周りを散歩道が囲んでいた。
池には鴨が数羽浮かんでいた。
水面には、周囲の木々が淡く映っていた。
「鴨って、寒くないのかな」
新太郎が言った。
「どうなんでしょうね」
「水、冷たそうだけど」
「羽毛があるから、私たちよりは平気なのかもしれません」
「なるほど」
二人は池の周りをゆっくり歩いた。
時折、木の枝から葉が落ちてきた。
芽は一枚の葉を拾い上げた。
鮮やかな黄色の銀杏の葉だった。
「きれいですね」
「持って帰る?」
「どうしましょう」
芽は葉を指先でくるりと回した。
「押し葉にしたら、色が残るでしょうか」
「残るんじゃない?」
「じゃあ、持って帰ろうかな」
芽は葉を手帳の間に挟んだ。
「そういうの、昔よくやったな」
「私もです。押し花とか」
「ちゃんと残ってる?」
「どうでしょう。実家にあるかもしれません」
芽は手帳を鞄にしまった。
「今度、探してみようかな」
「見つかったら見せてよ」
「はい」
新太郎は何気なく言ったが、芽は少し嬉しそうに笑った。
池の向こう側では、年配の夫婦が並んで歩いていた。
夫の方が何かを話すと、妻が笑いながら肩を軽く叩いた。
二人はそのまま、ゆっくりと歩いていった。
公園を出る頃には、日が少し傾き始めていた。
「お茶でも飲もうか」
新太郎が言うと、芽は頷いた。
通りを一本入ったところに、古い喫茶店があった。
木製の扉を開けると、小さなベルが鳴った。
店内には低く音楽が流れていて、窓際の席に午後の光が差し込んでいた。
二人は奥のテーブルに座った。
新太郎はコーヒーを、芽は紅茶を注文した。
「こういうお店、好きです」
芽が言った。
「落ち着くね」
「はい。時間がゆっくり流れているみたいで」
窓の外では、通りを歩く人たちの影が長く伸びていた。
芽はカップを両手で持ち、紅茶をひと口飲んだ。
「そういえば、新太郎さんのおじいさまって、どんな方だったんですか?」
「うーん。優しい人だったよ」
「よく遊んでもらったんですか?」
「遊んでもらったっていうより、一緒にいたって感じかな」
「一緒に?」
「うん。畑に行ったり、縁側でぼんやりしたり。何か特別なことをした記憶はあんまりないんだけど」
芽は静かに聞いていた。
「でも、好きだったんだよね。あの家に行くのが」
「そうなんですね」
「今考えると、何がそんなに楽しかったのかわからないけど」
「きっと、居心地がよかったんでしょうね」
「そうかもしれない」
新太郎はコーヒーを飲んだ。
「この前、母親と話してたら、風鈴があったかなかったかで意見が分かれてさ」
「メッセージでお話ししてくださったことですね」
「そう。あれから考えてみたんだけど、やっぱりあった気がするんだよな」
「ふふ」
「でも、だんだん本当にあったのか自信がなくなってきた」
「私も、子供の頃のことを姉と話すと、そんなことがあります」
「お姉さんとは仲いいの?」
「はい。最近はなかなか会えませんけど」
「そうなんだ」
「今度、久しぶりに連絡してみようかな」
芽はそう言って、窓の外を見た。
少し間があった。
「新太郎さん」
「ん?」
「今度、写真を見せてくださいね」
「もちろん」
「小さい頃の新太郎さん、どんな子だったんでしょう」
「今とあんまり変わらないと思うけど」
「そうですか?」
「たぶん」
「楽しみです」
芽は微笑んだ。
新太郎も笑った。
窓から差し込む光が、テーブルの端を照らしていた。
カップの中の紅茶は、琥珀色に透き通っていた。
二人はしばらく、何も話さずに座っていた。
新太郎は、その沈黙が心地よかった。
芽も、急いで何かを話そうとはしなかった。
店を出ると、街路樹の葉が足元を転がっていった。
新太郎はコートのポケットに手を入れた。
「寒くなってきたね」
「そうですね」
芽はマフラーを少し直した。
二人は駅へ向かって歩き始めた。
歩道には、夕方の長い影が伸びていた。
信号待ちで立ち止まると、芽が小さく息を吐いた。
「今日は楽しかったです」
「俺も」
「久しぶりに、こんなふうにゆっくりできました」
「よかった」
信号が青に変わった。
二人は横断歩道を渡った。
渡り終えたところで、芽の手が新太郎の手に軽く触れた。
新太郎は少しだけ芽の方を見た。
芽は前を向いたままだった。
もう一度、指先が触れた。
新太郎はそっと手を伸ばした。
芽の手は冷たかった。
けれど、握ると、すぐにその冷たさが気にならなくなった。
芽は何も言わなかった。
新太郎も何も言わなかった。
二人はそのまま、駅までの道を歩いた。
改札の前で立ち止まった。
「今日はありがとう」
新太郎が言った。
「こちらこそ。ありがとうございました」
「また、どこか行こう」
「はい」
芽は微笑んだ。
「今度は、もう少し早く予定が分かるといいんですけど」
「大丈夫。決まったら教えて」
「そうします」
少し間があった。
芽は新太郎の手をそっと離した。
「じゃあ、また」
「うん。またね」
芽は改札を通り、何度か振り返りながらホームへ向かっていった。
新太郎はその姿が見えなくなるまで立っていた。
帰りの電車は、休日の夕方らしく、ほどよく混んでいた。
新太郎は窓際に立ち、流れていく街の明かりを眺めていた。
手のひらには、まだ芽の手の温かさが残っているような気がした。
窓ガラスに、自分の顔が薄く映っていた。
少し笑っているように見えた。
新太郎は視線を外し、暗くなり始めた空を見た。
遠くの建物の向こうに、夕暮れの色がわずかに残っていた。




