4 小さな約束
十一月も終わりに近づき、朝晩の冷え込みが少しずつ厳しくなってきた。
新太郎は仕事帰りの電車の中で、芽から届いたメッセージを読んでいた。
『今度の土曜日、よかったら夕飯をご一緒しませんか?』
『いいね。どこか行きたいお店がある?』
しばらくして、返事が届いた。
『実は、うちで何か作ろうかと思っているんです』
新太郎は画面を見つめた。
『芽さんの家?』
『はい。もしよかったら』
『もちろん。楽しみだな』
『あまり期待しないでくださいね』
『じゃあ、ほどほどに期待しておく』
笑っている顔の絵文字が返ってきた。
新太郎はスマートフォンをポケットにしまった。
窓の外では、住宅街の明かりが流れていた。
芽とは、あの日以来、以前より気軽にメッセージを交わすようになっていた。仕事の帰りに見かけたものや、その日の昼食の話。芽からも、帰り道で猫を見かけたとか、久しぶりに早く帰れたとか、そんな短い知らせが届くようになった。
相変わらず返事が翌日になることもあったが、新太郎はそれを特に気にしなくなっていた。
次に会う日が決まっているだけで、いつもの一週間が少し違って感じられた。
土曜日の午後、新太郎は駅前のスーパーの入口で芽と待ち合わせた。
芽は白いセーターに濃い色のパンツを合わせ、肩から小さな鞄を下げていた。
「こんにちは」
「こんにちは。今日はお招きいただきありがとうございます」
新太郎が少し改まって言うと、芽は笑った。
「どうしたんですか、急に」
「いや、人の家にお邪魔するから、一応」
「そんなにかしこまらなくていいですよ」
「そう?」
「はい。今日は一緒に作ってもらうつもりですから」
「了解。何を作る?」
「まだ決めてないんです」
「そうなんだ」
「一緒に考えようと思って」
二人は買い物かごを一つ持って、店内に入った。
野菜売り場には白菜や大根が並び、入口近くには鍋料理の材料がまとめて置かれていた。
「寒くなってきたし、鍋でもいいね」
新太郎が言った。
「鍋もいいですね。でも、せっかくだから、もう少し料理らしいものにしませんか?」
「鍋も料理だと思うけど」
「それはそうですけど」
芽は笑った。
「何が得意なの?」
「得意というほどではないですけど、煮込み料理はよく作ります」
「じゃあ、それにしよう」
「本当にいいんですか?」
「うん。俺も手伝うよ」
「では、鶏肉のトマト煮にしましょうか」
「いいね」
「それと、サラダと、何か簡単なスープを」
「結構ちゃんと作るんだね」
「二人ですから」
芽はそう言って、トマトの缶詰を手に取った。
新太郎は鶏肉を選び、芽は玉ねぎときのこをかごに入れた。
「にんにくは?」
「あります。家に」
「オリーブオイルは?」
「それもあります」
「じゃあ、あとはパンかな」
「そうですね」
二人は売り場を回りながら、あれこれ相談した。
新太郎が大きな袋のじゃがいもを手に取ると、芽は首を傾げた。
「そんなに使います?」
「余ったら、また何か作ればいいじゃない」
「……そうですね」
芽は少し笑って、じゃがいもをかごに入れた。
レジを済ませ、買い物袋を分けて持った。
外に出ると、暖房で温まっていた頬が、すっと冷えた。
「重くない?」
新太郎が尋ねた。
「大丈夫です」
「そっちも持とうか」
「いえ、これくらいは」
芽は袋を持ち直した。
「でも、ありがとうございます」
二人は並んで歩き始めた。
芽の住むマンションは、駅から十分ほど歩いた住宅街にあった。
大通りから一本入った静かな場所で、建物の前には小さな植え込みがあった。
「ここです」
「へえ、いいところだね」
「静かなのが気に入っているんです」
芽はエントランスの扉を開けた。
エレベーターで三階に上がり、廊下の奥の部屋の前で立ち止まった。
「どうぞ」
「お邪魔します」
玄関には小さな花の絵が飾られていた。
芽は靴を脱ぎながら言った。
「そんなに広くないですけど」
「一人暮らしなら十分じゃない?」
「そう言っていただけると」
部屋は明るい色の木製家具でまとめられていた。
窓際には小さな丸いテーブルと椅子が二脚あり、その向こうに低い本棚が置かれていた。
棚には専門書らしい厚い本と、文庫本や旅行記が並んでいた。背表紙の色も大きさもばらばらで、何度も読まれたらしい本もあった。
窓辺には小さな観葉植物が置かれ、葉が午後の光を受けていた。
「なんだか、芽さんらしい部屋だね」
「そうですか?」
「うん。落ち着く感じがする」
「よかった」
芽は買い物袋をキッチンに運んだ。
「荷物、そこに置いてください」
新太郎は鞄を椅子のそばに置いた。
本棚の端には写真立てがあった。
海辺で二人の女性が並んで笑っている写真だった。
「これ、お姉さん?」
新太郎が尋ねた。
「はい。よくわかりましたね」
「なんとなく似てるから」
「姉の方がしっかりしてるって、よく言われます」
「そうなの?」
「本人はそう思っていないみたいですけど」
芽は写真立てを手に取った。
「去年、一緒に旅行したときの写真です」
「仲よさそうだね」
「子供の頃はよく喧嘩しましたよ」
「三つ違いだっけ」
「はい。小さい頃は何をするにも姉の真似をしていました」
芽は写真を元の場所に戻した。
「今でも、ときどき相談に乗ってもらうんです」
「いいお姉さんなんだね」
「そうですね」
芽は少し照れくさそうに笑った。
新太郎はもう一度部屋を見回した。
研究所で会ったときの芽とも、外で一緒に歩いている芽とも、少し違う姿がここにはあった。
いつも使っているカップや、読みかけの本や、窓辺の植物。
自分の知らない時間を、芽はここで過ごしているのだと思った。
「じゃあ、始めましょうか」
芽はエプロンを取り出した。
淡い青色の布地に、小さな白い花の模様がついていた。
「エプロン、もう一枚ありますよ」
「俺の分も?」
「はい。来客用というわけではないんですけど」
渡されたのは、無地の紺色のエプロンだった。
新太郎が身につけると、芽は少し離れて眺めた。
「似合いますね」
「そう?」
「はい。料理が上手そうに見えます」
「見えるだけかもしれないよ」
「では、確かめてみましょう」
芽は笑って、まな板を出した。
新太郎は玉ねぎを切ることになった。
「どれくらいの大きさ?」
「適当でいいですよ」
「適当?」
「はい。食べやすいくらいに」
「芽さんって、もっと細かく決める人かと思ってた」
「どうしてですか?」
「研究の仕事してるから」
芽は鶏肉を切りながら笑った。
「料理まで実験みたいにしたくないんです」
「なるほど」
「それに、多少違ってもおいしくなりますから」
「いい考え方だね」
「失敗することもありますけど」
「あるんだ」
「もちろんです」
新太郎は玉ねぎを切り始めた。
芽はフライパンにオリーブオイルを注ぎ、にんにくを入れた。
しばらくすると、香ばしい匂いが広がった。
「いい匂い」
「もう少ししたら、玉ねぎを入れますね」
「了解」
新太郎は切った玉ねぎを渡した。
「きれいに切れてますね」
「褒められた」
「ふふ」
二人は交代でフライパンをかき混ぜた。
鶏肉を焼き、きのこを加え、トマトを入れる。
芽は木べらでゆっくり混ぜながら、塩を少し振った。
「味見してみます?」
「うん」
芽は小さなスプーンにソースを取り、冷ましてから新太郎に渡した。
「どうですか?」
「おいしい」
「本当ですか?」
「うん。でも、もうちょっと塩があってもいいかも」
「そうですね」
芽も味見をした。
「少し足しましょう」
鍋の中で、赤いソースが静かに煮立っていた。
新太郎はサラダ用の野菜を洗い、芽はスープの準備をした。
キッチンは二人で立つには少し狭かった。
冷蔵庫を開けようとすると、新太郎が一歩横に避けた。
「あ、ごめん」
「いえ、こちらこそ」
芽は笑った。
「一人だと広いんですけどね」
「二人だと、ちょっと忙しいね」
「そうですね」
それでも、二人とも楽しそうだった。
料理ができあがる頃には、窓の外が暗くなり始めていた。
「お皿、並べておくね」
新太郎が言った。
「ありがとうございます。テーブルの上の本、そちらに移していただけますか?」
「うん」
丸いテーブルの端に、雑誌と文庫本が数冊重なっていた。
新太郎がそれを持ち上げると、間から一枚の紙が滑り落ちた。
「あ」
床に落ちた紙を拾い上げた。
白い紙には、小さな文字がいくつも並んでいた。
上の方に「記憶に関する研究へのご協力のお願い」と書かれていた。
「これ、芽さんのところの研究?」
新太郎が尋ねると、芽はキッチンから顔を出した。
「ああ、それですか」
「一般の人も参加できるんだね」
「はい。そういう研究もあります」
「前に話してたやつだ」
芽は少し驚いたように新太郎を見た。
「覚えてたんですね」
「うん。ちょっと面白そうだなと思って」
「興味があるんですか?」
「まあ、少しね」
新太郎は紙をもう一度見た。
細かい文字が並び、下の方には詳しい案内を見るためのURLが記されていた。今ここで読むには、少し長そうだった。
「これ、ここに置いておけばいい?」
「はい。ありがとうございます」
新太郎は紙を雑誌の間に戻し、本を棚の端に移した。
「お皿、どれ使う?」
「そこの白いお皿をお願いします」
「これ?」
「はい。それです」
新太郎は皿を二枚取り出した。
キッチンから、トマトソースの匂いが漂ってきた。
テーブルには、鶏肉のトマト煮とサラダ、野菜のスープ、それに買ってきたパンが並んだ。
「すごいね。ちゃんとした夕飯になった」
新太郎が言った。
「二人で作ったんですから」
「俺は玉ねぎ切ったくらいだけど」
「そんなことないですよ。サラダも作ってくれましたし」
「じゃあ、半分くらいは俺の手柄かな」
「半分ですか?」
「三分の一?」
「ふふ。それくらいでしょうか」
二人は笑った。
「いただきます」
新太郎は鶏肉をひと口食べた。
柔らかく煮えた肉に、トマトの酸味がよく合っていた。
「おいしい」
「よかった」
「芽さん、料理上手だね」
「そんなことないですよ。今日はうまくできた方です」
「じゃあ、また作ってもらおうかな」
「今度は新太郎さんの得意料理も食べてみたいです」
「得意料理かあ」
「お魚料理ですか?」
「いや、炒飯かな」
「炒飯ですか。お魚は入っていないんですね」
「魚入りの炒飯を期待してた?」
「少しだけ」
芽はいたずらっぽく笑った。
「じゃあ、今度は魚介炒飯にしようかな」
「楽しみです」
新太郎はパンをちぎり、皿に残ったソースをつけて食べた。
芽はその様子を見ていた。
「どうしたの?」
「いえ。おいしそうに食べてくださるなと思って」
「おいしいからね」
「そうですか」
芽は嬉しそうに目を細めた。
窓の外では、向かいの建物に明かりが灯り始めていた。
部屋の中は暖かく、スープからはまだ湯気が立っていた。
食事をしながら、二人は取り留めのない話をした。
新太郎の仕事のこと。芽の姉のこと。子供の頃に好きだった食べ物のこと。
芽は小さい頃、しいたけが苦手だったと言った。
「今は?」
「食べられますよ」
「本当に?」
「本当です」
「じゃあ、今度たくさん入れよう」
「それはちょっと」
二人はまた笑った。
食事が終わると、二人で食器を片づけた。
新太郎が洗い、芽が布巾で拭いた。
「こういうの、いいですね」
芽が言った。
「何が?」
「誰かと一緒にご飯を作って、片づけるのって」
「普段は一人だもんね」
「はい」
芽は皿を棚に戻した。
「仕事から帰ると、簡単なものだけで済ませることも多いので」
「忙しいと、そうなるよね」
「でも、今日はちゃんと作れてよかったです」
「俺も楽しかったよ」
芽は手を止めて、新太郎を見た。
「本当ですか?」
「うん。またやろうよ」
芽は少しの間、新太郎を見つめていた。
「……はい」
それから、嬉しそうに笑った。
片づけが終わると、芽は紅茶を淹れた。
二人は窓際のテーブルに向かい合って座った。
外はすっかり暗くなっていた。
遠くで電車の走る音が聞こえた。
「静かなところだね」
新太郎が言った。
「ええ。夜は特に」
「一人だと、寂しくない?」
「ときどきは。でも、慣れました」
「そうなんだ」
「新太郎さんは?」
「俺も一人暮らし長いからね。あんまり気にしたことないかな」
「そうですか」
芽はカップを両手で包んだ。
「でも、今日は少し違いますね」
「ん?」
「部屋に誰かがいるのって、いいものですね」
新太郎は芽を見た。
芽はカップの中を見つめていた。
「うん。俺もそう思う」
芽は顔を上げて微笑んだ。
二人はしばらく紅茶を飲んだ。
窓ガラスには、部屋の明かりが映っていた。
テーブルを挟んで座る二人の姿も、薄く映っていた。
新太郎は何となく、その光景を眺めていた。
芽が気づいて、同じように窓を見た。
「何か見えます?」
「いや、俺たちが映ってるなと思って」
「本当ですね」
芽は少し笑った。
「写真みたい」
「そうだね」
窓の向こうでは、夜の街が静かに広がっていた。
時計を見ると、九時を少し過ぎていた。
「そろそろ帰ろうかな」
新太郎が言うと、芽は頷いた。
「もうそんな時間ですね」
「今日はありがとう。ごちそうさま」
「こちらこそ。手伝っていただいて助かりました」
新太郎は鞄を持ち、玄関へ向かった。
芽も後ろからついてきた。
靴を履いて振り返ると、芽が立っていた。
「今日は、本当に楽しかったです」
「俺も」
「また、来てくださいね」
「うん。今度は炒飯作るよ」
「楽しみにしています」
芽は笑った。
新太郎も笑った。
少しの間、二人はそのまま向かい合っていた。
芽が一歩近づいた。
新太郎はそっと手を伸ばした。
芽の手が、その手に重なった。
外でつないだときとは違って、芽の手は温かかった。
「じゃあ、また」
「はい。気をつけて帰ってください」
新太郎は手を離し、扉を開けた。
廊下には冷たい空気が流れていた。
振り返ると、芽はまだ玄関に立っていた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
扉が静かに閉まった。
駅へ向かう道を、新太郎はゆっくり歩いた。
住宅街の窓には、ところどころ明かりが灯っていた。
どの家にも、それぞれの夕食があり、それぞれの夜があるのだろう。
新太郎は、芽の部屋の小さなテーブルを思い出した。
向かい合って食べた夕飯。窓に映った二人の姿。洗った皿を並べながら交わした言葉。
特別なことは何もなかった。
それなのに、今日はずいぶん楽しかった。
冷たい風が吹き、新太郎はコートの襟を少し立てた。
駅の明かりが見えてきた。
新太郎は歩きながら、次はどんな炒飯を作ろうかと考えていた。




