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新浦島太郎  作者: ISM
第4章 海の底へ
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16/26

4 小さな約束



 十一月も終わりに近づき、朝晩の冷え込みが少しずつ厳しくなってきた。

 新太郎は仕事帰りの電車の中で、芽から届いたメッセージを読んでいた。

『今度の土曜日、よかったら夕飯をご一緒しませんか?』

『いいね。どこか行きたいお店がある?』

 しばらくして、返事が届いた。

『実は、うちで何か作ろうかと思っているんです』

 新太郎は画面を見つめた。

『芽さんの家?』

『はい。もしよかったら』

『もちろん。楽しみだな』

『あまり期待しないでくださいね』

『じゃあ、ほどほどに期待しておく』

 笑っている顔の絵文字が返ってきた。

 新太郎はスマートフォンをポケットにしまった。

 窓の外では、住宅街の明かりが流れていた。

 芽とは、あの日以来、以前より気軽にメッセージを交わすようになっていた。仕事の帰りに見かけたものや、その日の昼食の話。芽からも、帰り道で猫を見かけたとか、久しぶりに早く帰れたとか、そんな短い知らせが届くようになった。

 相変わらず返事が翌日になることもあったが、新太郎はそれを特に気にしなくなっていた。

 次に会う日が決まっているだけで、いつもの一週間が少し違って感じられた。


土曜日の午後、新太郎は駅前のスーパーの入口で芽と待ち合わせた。

 芽は白いセーターに濃い色のパンツを合わせ、肩から小さな鞄を下げていた。

「こんにちは」

「こんにちは。今日はお招きいただきありがとうございます」

 新太郎が少し改まって言うと、芽は笑った。

「どうしたんですか、急に」

「いや、人の家にお邪魔するから、一応」

「そんなにかしこまらなくていいですよ」

「そう?」

「はい。今日は一緒に作ってもらうつもりですから」

「了解。何を作る?」

「まだ決めてないんです」

「そうなんだ」

「一緒に考えようと思って」

 二人は買い物かごを一つ持って、店内に入った。

 野菜売り場には白菜や大根が並び、入口近くには鍋料理の材料がまとめて置かれていた。

「寒くなってきたし、鍋でもいいね」

 新太郎が言った。

「鍋もいいですね。でも、せっかくだから、もう少し料理らしいものにしませんか?」

「鍋も料理だと思うけど」

「それはそうですけど」

 芽は笑った。

「何が得意なの?」

「得意というほどではないですけど、煮込み料理はよく作ります」

「じゃあ、それにしよう」

「本当にいいんですか?」

「うん。俺も手伝うよ」

「では、鶏肉のトマト煮にしましょうか」

「いいね」

「それと、サラダと、何か簡単なスープを」

「結構ちゃんと作るんだね」

「二人ですから」

 芽はそう言って、トマトの缶詰を手に取った。

 新太郎は鶏肉を選び、芽は玉ねぎときのこをかごに入れた。

「にんにくは?」

「あります。家に」

「オリーブオイルは?」

「それもあります」

「じゃあ、あとはパンかな」

「そうですね」

 二人は売り場を回りながら、あれこれ相談した。

 新太郎が大きな袋のじゃがいもを手に取ると、芽は首を傾げた。

「そんなに使います?」

「余ったら、また何か作ればいいじゃない」

「……そうですね」

 芽は少し笑って、じゃがいもをかごに入れた。

 レジを済ませ、買い物袋を分けて持った。

 外に出ると、暖房で温まっていた頬が、すっと冷えた。

「重くない?」

 新太郎が尋ねた。

「大丈夫です」

「そっちも持とうか」

「いえ、これくらいは」

 芽は袋を持ち直した。

「でも、ありがとうございます」

 二人は並んで歩き始めた。


 芽の住むマンションは、駅から十分ほど歩いた住宅街にあった。

 大通りから一本入った静かな場所で、建物の前には小さな植え込みがあった。

「ここです」

「へえ、いいところだね」

「静かなのが気に入っているんです」

 芽はエントランスの扉を開けた。

 エレベーターで三階に上がり、廊下の奥の部屋の前で立ち止まった。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 玄関には小さな花の絵が飾られていた。

 芽は靴を脱ぎながら言った。

「そんなに広くないですけど」

「一人暮らしなら十分じゃない?」

「そう言っていただけると」

 部屋は明るい色の木製家具でまとめられていた。

 窓際には小さな丸いテーブルと椅子が二脚あり、その向こうに低い本棚が置かれていた。

 棚には専門書らしい厚い本と、文庫本や旅行記が並んでいた。背表紙の色も大きさもばらばらで、何度も読まれたらしい本もあった。

 窓辺には小さな観葉植物が置かれ、葉が午後の光を受けていた。

「なんだか、芽さんらしい部屋だね」

「そうですか?」

「うん。落ち着く感じがする」

「よかった」

 芽は買い物袋をキッチンに運んだ。

「荷物、そこに置いてください」

 新太郎は鞄を椅子のそばに置いた。

 本棚の端には写真立てがあった。

 海辺で二人の女性が並んで笑っている写真だった。

「これ、お姉さん?」

 新太郎が尋ねた。

「はい。よくわかりましたね」

「なんとなく似てるから」

「姉の方がしっかりしてるって、よく言われます」

「そうなの?」

「本人はそう思っていないみたいですけど」

 芽は写真立てを手に取った。

「去年、一緒に旅行したときの写真です」

「仲よさそうだね」

「子供の頃はよく喧嘩しましたよ」

「三つ違いだっけ」

「はい。小さい頃は何をするにも姉の真似をしていました」

 芽は写真を元の場所に戻した。

「今でも、ときどき相談に乗ってもらうんです」

「いいお姉さんなんだね」

「そうですね」

 芽は少し照れくさそうに笑った。

 新太郎はもう一度部屋を見回した。

 研究所で会ったときの芽とも、外で一緒に歩いている芽とも、少し違う姿がここにはあった。

 いつも使っているカップや、読みかけの本や、窓辺の植物。

 自分の知らない時間を、芽はここで過ごしているのだと思った。


「じゃあ、始めましょうか」

 芽はエプロンを取り出した。

 淡い青色の布地に、小さな白い花の模様がついていた。

「エプロン、もう一枚ありますよ」

「俺の分も?」

「はい。来客用というわけではないんですけど」

 渡されたのは、無地の紺色のエプロンだった。

 新太郎が身につけると、芽は少し離れて眺めた。

「似合いますね」

「そう?」

「はい。料理が上手そうに見えます」

「見えるだけかもしれないよ」

「では、確かめてみましょう」

 芽は笑って、まな板を出した。

 新太郎は玉ねぎを切ることになった。

「どれくらいの大きさ?」

「適当でいいですよ」

「適当?」

「はい。食べやすいくらいに」

「芽さんって、もっと細かく決める人かと思ってた」

「どうしてですか?」

「研究の仕事してるから」

 芽は鶏肉を切りながら笑った。

「料理まで実験みたいにしたくないんです」

「なるほど」

「それに、多少違ってもおいしくなりますから」

「いい考え方だね」

「失敗することもありますけど」

「あるんだ」

「もちろんです」

 新太郎は玉ねぎを切り始めた。

 芽はフライパンにオリーブオイルを注ぎ、にんにくを入れた。

 しばらくすると、香ばしい匂いが広がった。

「いい匂い」

「もう少ししたら、玉ねぎを入れますね」

「了解」

 新太郎は切った玉ねぎを渡した。

「きれいに切れてますね」

「褒められた」

「ふふ」

 二人は交代でフライパンをかき混ぜた。

 鶏肉を焼き、きのこを加え、トマトを入れる。

 芽は木べらでゆっくり混ぜながら、塩を少し振った。

「味見してみます?」

「うん」

 芽は小さなスプーンにソースを取り、冷ましてから新太郎に渡した。

「どうですか?」

「おいしい」

「本当ですか?」

「うん。でも、もうちょっと塩があってもいいかも」

「そうですね」

 芽も味見をした。

「少し足しましょう」

 鍋の中で、赤いソースが静かに煮立っていた。

 新太郎はサラダ用の野菜を洗い、芽はスープの準備をした。

 キッチンは二人で立つには少し狭かった。

 冷蔵庫を開けようとすると、新太郎が一歩横に避けた。

「あ、ごめん」

「いえ、こちらこそ」

 芽は笑った。

「一人だと広いんですけどね」

「二人だと、ちょっと忙しいね」

「そうですね」

 それでも、二人とも楽しそうだった。


 料理ができあがる頃には、窓の外が暗くなり始めていた。

「お皿、並べておくね」

 新太郎が言った。

「ありがとうございます。テーブルの上の本、そちらに移していただけますか?」

「うん」

 丸いテーブルの端に、雑誌と文庫本が数冊重なっていた。

 新太郎がそれを持ち上げると、間から一枚の紙が滑り落ちた。

「あ」

 床に落ちた紙を拾い上げた。

 白い紙には、小さな文字がいくつも並んでいた。

 上の方に「記憶に関する研究へのご協力のお願い」と書かれていた。

「これ、芽さんのところの研究?」

 新太郎が尋ねると、芽はキッチンから顔を出した。

「ああ、それですか」

「一般の人も参加できるんだね」

「はい。そういう研究もあります」

「前に話してたやつだ」

 芽は少し驚いたように新太郎を見た。

「覚えてたんですね」

「うん。ちょっと面白そうだなと思って」

「興味があるんですか?」

「まあ、少しね」

 新太郎は紙をもう一度見た。

 細かい文字が並び、下の方には詳しい案内を見るためのURLが記されていた。今ここで読むには、少し長そうだった。

「これ、ここに置いておけばいい?」

「はい。ありがとうございます」

 新太郎は紙を雑誌の間に戻し、本を棚の端に移した。

「お皿、どれ使う?」

「そこの白いお皿をお願いします」

「これ?」

「はい。それです」

 新太郎は皿を二枚取り出した。

 キッチンから、トマトソースの匂いが漂ってきた。


 テーブルには、鶏肉のトマト煮とサラダ、野菜のスープ、それに買ってきたパンが並んだ。

「すごいね。ちゃんとした夕飯になった」

 新太郎が言った。

「二人で作ったんですから」

「俺は玉ねぎ切ったくらいだけど」

「そんなことないですよ。サラダも作ってくれましたし」

「じゃあ、半分くらいは俺の手柄かな」

「半分ですか?」

「三分の一?」

「ふふ。それくらいでしょうか」

 二人は笑った。

「いただきます」

 新太郎は鶏肉をひと口食べた。

 柔らかく煮えた肉に、トマトの酸味がよく合っていた。

「おいしい」

「よかった」

「芽さん、料理上手だね」

「そんなことないですよ。今日はうまくできた方です」

「じゃあ、また作ってもらおうかな」

「今度は新太郎さんの得意料理も食べてみたいです」

「得意料理かあ」

「お魚料理ですか?」

「いや、炒飯かな」

「炒飯ですか。お魚は入っていないんですね」

「魚入りの炒飯を期待してた?」

「少しだけ」

 芽はいたずらっぽく笑った。

「じゃあ、今度は魚介炒飯にしようかな」

「楽しみです」

 新太郎はパンをちぎり、皿に残ったソースをつけて食べた。

 芽はその様子を見ていた。

「どうしたの?」

「いえ。おいしそうに食べてくださるなと思って」

「おいしいからね」

「そうですか」

 芽は嬉しそうに目を細めた。

 窓の外では、向かいの建物に明かりが灯り始めていた。

 部屋の中は暖かく、スープからはまだ湯気が立っていた。

 食事をしながら、二人は取り留めのない話をした。

 新太郎の仕事のこと。芽の姉のこと。子供の頃に好きだった食べ物のこと。

 芽は小さい頃、しいたけが苦手だったと言った。

「今は?」

「食べられますよ」

「本当に?」

「本当です」

「じゃあ、今度たくさん入れよう」

「それはちょっと」

 二人はまた笑った。


 食事が終わると、二人で食器を片づけた。

 新太郎が洗い、芽が布巾で拭いた。

「こういうの、いいですね」

 芽が言った。

「何が?」

「誰かと一緒にご飯を作って、片づけるのって」

「普段は一人だもんね」

「はい」

 芽は皿を棚に戻した。

「仕事から帰ると、簡単なものだけで済ませることも多いので」

「忙しいと、そうなるよね」

「でも、今日はちゃんと作れてよかったです」

「俺も楽しかったよ」

 芽は手を止めて、新太郎を見た。

「本当ですか?」

「うん。またやろうよ」

 芽は少しの間、新太郎を見つめていた。

「……はい」

 それから、嬉しそうに笑った。


 片づけが終わると、芽は紅茶を淹れた。

 二人は窓際のテーブルに向かい合って座った。

 外はすっかり暗くなっていた。

 遠くで電車の走る音が聞こえた。

「静かなところだね」

 新太郎が言った。

「ええ。夜は特に」

「一人だと、寂しくない?」

「ときどきは。でも、慣れました」

「そうなんだ」

「新太郎さんは?」

「俺も一人暮らし長いからね。あんまり気にしたことないかな」

「そうですか」

 芽はカップを両手で包んだ。

「でも、今日は少し違いますね」

「ん?」

「部屋に誰かがいるのって、いいものですね」

 新太郎は芽を見た。

 芽はカップの中を見つめていた。

「うん。俺もそう思う」

 芽は顔を上げて微笑んだ。

 二人はしばらく紅茶を飲んだ。

 窓ガラスには、部屋の明かりが映っていた。

 テーブルを挟んで座る二人の姿も、薄く映っていた。

 新太郎は何となく、その光景を眺めていた。

 芽が気づいて、同じように窓を見た。

「何か見えます?」

「いや、俺たちが映ってるなと思って」

「本当ですね」

 芽は少し笑った。

「写真みたい」

「そうだね」

 窓の向こうでは、夜の街が静かに広がっていた。


 時計を見ると、九時を少し過ぎていた。

「そろそろ帰ろうかな」

 新太郎が言うと、芽は頷いた。

「もうそんな時間ですね」

「今日はありがとう。ごちそうさま」

「こちらこそ。手伝っていただいて助かりました」

 新太郎は鞄を持ち、玄関へ向かった。

 芽も後ろからついてきた。

 靴を履いて振り返ると、芽が立っていた。

「今日は、本当に楽しかったです」

「俺も」

「また、来てくださいね」

「うん。今度は炒飯作るよ」

「楽しみにしています」

 芽は笑った。

 新太郎も笑った。

 少しの間、二人はそのまま向かい合っていた。

 芽が一歩近づいた。

 新太郎はそっと手を伸ばした。

 芽の手が、その手に重なった。

 外でつないだときとは違って、芽の手は温かかった。

「じゃあ、また」

「はい。気をつけて帰ってください」

 新太郎は手を離し、扉を開けた。

 廊下には冷たい空気が流れていた。

 振り返ると、芽はまだ玄関に立っていた。

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 扉が静かに閉まった。


 駅へ向かう道を、新太郎はゆっくり歩いた。

 住宅街の窓には、ところどころ明かりが灯っていた。

 どの家にも、それぞれの夕食があり、それぞれの夜があるのだろう。

 新太郎は、芽の部屋の小さなテーブルを思い出した。

 向かい合って食べた夕飯。窓に映った二人の姿。洗った皿を並べながら交わした言葉。

 特別なことは何もなかった。

 それなのに、今日はずいぶん楽しかった。

 冷たい風が吹き、新太郎はコートの襟を少し立てた。

 駅の明かりが見えてきた。

 新太郎は歩きながら、次はどんな炒飯を作ろうかと考えていた。 



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