5 冬の寄り道
十二月に入ると、街の景色が少しずつ変わり始めた。
駅前の広場には大きなクリスマスツリーが飾られ、夕方になると色とりどりの明かりが灯った。通りを歩く人々も、厚手のコートやマフラーを身につけるようになっていた。
新太郎は仕事を終え、駅前のスーパーに立ち寄った。
鮮魚売り場には、夕方の値引きシールが貼られた魚が並んでいた。
新太郎はしばらく眺めてから、むきえびと小さなパックの帆立をかごに入れた。
今夜は炒飯を作るつもりだった。
先週、芽の部屋で夕食を作ったとき、今度は自分が炒飯を作ると約束した。芽は魚介の入った炒飯を期待しているようだったので、一度試してみようと思ったのだ。
家に帰ると、コートを脱ぎ、買ってきたものをキッチンに並べた。
冷蔵庫から卵と長ねぎを取り出し、炊飯器に残っていたご飯を器に移した。
フライパンを熱し、えびと帆立を軽く炒める。
魚介の香りが立ち上ると、新太郎は少し嬉しくなった。
いったん具を取り出し、卵とご飯を炒めてから、刻んだ長ねぎと魚介を戻した。
塩と胡椒を振り、最後に醤油を少しだけ鍋肌に落とした。
香ばしい匂いが広がった。
「まあ、こんなもんかな」
新太郎は皿に盛りつけ、テーブルに運んだ。
ひと口食べてみる。
悪くなかった。
えびにはほどよく火が通り、帆立の甘みも残っていた。ただ、少しご飯が柔らかくなりすぎた気がした。
新太郎はスマートフォンを取り出し、皿の写真を撮った。
『試作品第一号』
そう書いて、芽に送った。
すぐに返事が来るとは思っていなかったが、数分後、画面が明るくなった。
『もしかして、魚介炒飯ですか?』
『正解』
『おいしそうです!』
『まだ改良の余地あり』
『楽しみにしています』
『次はもっと上手に作るよ』
『今のままでも十分おいしそうですよ』
新太郎は写真をもう一度見た。
自分で作った炒飯は、写真にすると少し地味に見えた。
『写真より実物の方がいいと思う』
『では、実物を楽しみにしています』
新太郎は笑って、スマートフォンをテーブルに置いた。
炒飯はまだ温かかった。
それから数日、二人は短いメッセージを交わした。
芽の仕事は相変わらず忙しいようだったが、以前よりも日常の細かなことを話してくれるようになった。
ある日は、職場の近くに新しいパン屋ができたと知らせてきた。
別の日には、朝、家を出るときに手袋を忘れてしまい、駅までの道で指先が冷たくなったと書いてきた。
新太郎も、仕事の帰りに見た夕焼けや、昼休みに入った店のことを送った。
特別な用事があるわけではなかった。
それでも、何かを見つけたとき、芽に話してみようと思うことが増えていた。
金曜日の夜、芽から一枚の写真が届いた。
小さな白い皿に、少し形の崩れたオムレツが載っていた。
『今日は早く帰れたので、夕飯を作りました』
『おいしそう』
『形は失敗しました』
『味がよければ問題なし』
『新太郎さんなら、そう言ってくれると思いました』
『もちろん』
しばらくして、もう一通届いた。
『この前は、来てくださってありがとうございました』
新太郎は少し意外に思った。
『こちらこそ。楽しかったよ』
『また一緒に作りましょうね』
『うん。次は俺の番だね』
『楽しみにしています』
新太郎は返事を送り、しばらく画面を眺めていた。
部屋の中は静かだった。
窓の外では、風が街路樹の枝を揺らしていた。
新太郎はふと、芽の部屋の窓辺を思い出した。
小さな観葉植物と、二脚の椅子。テーブルの上に並んだ料理。
そして、食器を並べようとしたとき、雑誌の間から落ちた一枚の紙。
記憶に関する研究への協力を求める案内だった。
あのときは料理の途中だったので、詳しく読むことはなかった。
新太郎はスマートフォンを手に取った。
検索欄に、ドラゴンパレス製薬の名前と「記憶 研究協力者」という言葉を入力した。
いくつかの検索結果が表示された。
会社の公式サイトのほか、研究活動を紹介するページや、一般向けの講演会の案内などが並んでいた。
その中に、「記憶と感情に関する研究 参加協力者募集」という項目があった。
新太郎はそれを開いた。
ページの上部には、落ち着いた青色の文字で研究の概要が書かれていた。
研究の目的は、人が過去の出来事を思い出すとき、記憶に伴う感情がどのように変化するのかを調べることだった。
人は同じ出来事を思い出しても、そのときの気分や、時間の経過によって、感じ方が変わることがある。
研究では、そうした変化と記憶の仕組みとの関係を、心理学的な検査や生理的な反応の測定などを通して調べると説明されていた。
新太郎はゆっくりと文章を読んだ。
専門的な言葉もあったが、大まかな内容は理解できた。
参加者には、いくつかの質問に答えてもらうほか、指定された言葉や画像を記憶し、時間をおいて思い出す課題などが予定されていた。
検査の際には、心拍などの生理的な反応を記録する場合もあるらしい。
研究への参加は本人の自由意思によるもので、参加を希望する場合は事前に詳しい説明を受け、内容を理解したうえで同意する必要があると書かれていた。
また、研究の途中でも、本人の意思で参加を取りやめることができるという。
新太郎はページを下へ送った。
対象者は健康な成人で、一定の条件を満たす人。参加には複数回の来所が必要となる場合があり、所定の協力費が支払われると記されていた。
詳しい日程や検査内容については、事前説明の際に案内するということだった。
新太郎は椅子の背にもたれた。
記憶について調べる研究があることは、芽から何度か聞いていた。
しかし、こうして一般の人が参加できる形で募集されているのを見ると、少し身近に感じられた。
自分が普段何気なく思い出していることも、誰かにとっては研究の対象になるのだ。
新太郎は目を閉じてみた。
先週、芽の部屋で食べた夕飯を思い出す。
トマトソースの匂い。白い皿。芽がエプロンをつけて笑っていたこと。
どの場面も、まだはっきりと思い浮かべることができた。
けれど、一年後にはどうだろう。
何を話したかは忘れても、あの部屋で楽しく過ごしたことは覚えているかもしれない。
逆に、今は何でもないと思っている出来事が、後になって鮮明に思い出されることもあるのだろう。
新太郎は目を開けた。
画面には、研究の概要が表示されたままだった。
思っていたより、面白そうだった。
翌日の午後、新太郎は近所の商店街に出かけた。
空はよく晴れていたが、風は冷たかった。
八百屋の店先にはみかんが積まれ、花屋には赤いポインセチアが並んでいた。
新太郎は夕飯の材料を買い、帰り道に小さな喫茶店へ立ち寄った。
温かいコーヒーを注文し、窓際の席に座った。
スマートフォンには、午前中に芽から届いたメッセージがあった。
『今日は少しゆっくりできそうです』
『よかったね。ちゃんと休んでね』
『ありがとうございます。新太郎さんは何をしていますか?』
『買い物の帰り。今はコーヒー飲んでる』
『いいですね』
新太郎はカップを持ち上げた。
窓の外を、買い物袋を持った人たちが行き交っていた。
少し迷ってから、芽に新しいメッセージを送った。
『そういえば、この前芽さんの部屋で見た研究の募集、ネットで見つけたよ』
しばらくして、返事が届いた。
『調べてくださったんですね』
『うん。読んでみたら結構面白そうだった』
『そう思っていただけたなら嬉しいです』
『ああいう研究って、芽さんも関わってるの?』
返事が届くまで、少し時間があった。
『はい。記憶と感情の関係については、私も研究しています。ただ、募集されている研究は複数の担当者で進めているので、私がすべてを把握しているわけではありません』
『そうなんだ』
『研究内容によって担当が分かれているんです』
新太郎は頷くように画面を見た。
大きな会社の研究なのだから、一人ですべてを担当しているわけではないのだろう。
『一般の人も参加できるんだね』
『はい。健康な方に協力していただく研究もあります』
『ちょっと興味があるんだけど』
送信してから、新太郎はコーヒーをひと口飲んだ。
しばらくして、芽から返事が届いた。
『研究への参加を考えているんですか?』
『まだそこまでは決めてないけど、一度話を聞いてみてもいいかなって』
『そうなんですね』
続けて、もう一通届いた。
『もし参加を検討するなら、担当の方から正式な説明を受けてくださいね。時間もかかりますし、内容をよく確認してから決めた方がいいと思います』
『うん。そのつもり』
『私の方から詳しいことをお話しできない部分もあるので』
『わかってるよ。仕事のことだもんね』
芽から、少し間をおいて返事が来た。
『ありがとうございます』
新太郎は微笑んだ。
『でも、芽さんが普段どんなことを考えて仕事してるのか、少しわかった気がする』
『本当ですか?』
『ほんの少しだけど』
『それでも嬉しいです』
新太郎はカップに残ったコーヒーを飲んだ。
芽の仕事については、まだ知らないことの方が多かった。
それでも、以前より少しだけ近くなった気がした。
『そういえば、魚介炒飯の改良は進んでいますか?』
突然話題が変わったので、新太郎は笑った。
『まだ第一号のまま』
『では、次回作を楽しみにしています』
『頑張ります』
『ふふ。無理しないでくださいね』
新太郎はスマートフォンを置き、窓の外を眺めた。
冬の日差しが、向かいの建物の壁を明るく照らしていた。
その夜、新太郎はもう一度、研究協力者募集のページを開いた。
昼間に芽と話したことで、少し気持ちが変わっていた。
単に面白そうだと思うだけでなく、実際にどんなことをするのか知りたくなっていた。
ページの下には、参加希望者向けの問い合わせ先と、事前説明についての案内があった。
新太郎はそこまで読んでから、画面を上に戻した。
記憶と感情。
その二つがどのようにつながっているのか、考えたこともなかった。
楽しかった出来事は、思い出すときにも楽しい。
悲しかった出来事は、時間が経っても胸が痛むことがある。
けれど、同じ出来事でも、何年か経つと違った気持ちで思い出すことがある。
それは記憶が変わったのだろうか。それとも、自分の方が変わったのだろうか。
新太郎はしばらく考えていた。
机の引き出しには、祖父と一緒に写った古い写真がしまってあった。
あの写真を見つけたとき、確かに思い出したことがあった。
けれど、母の話を聞くと、自分の記憶とは少し違っていた。
どちらが正しいのか、今となっては分からない。
それでも、あの夏の縁側で過ごした時間は、新太郎にとって大切なものだった。
新太郎は画面に目を戻した。
研究の説明には、記憶がどのように形成され、思い出されるのかを理解することが、心の働きを知る手がかりになると書かれていた。
自分が研究に参加したところで、何か大きな発見につながるとは思わなかった。
ただ、少し面白そうだった。
そして、芽が毎日向き合っているものを、もう少し知ってみたいという気持ちもあった。
新太郎は募集ページをブックマークした。
申し込みの画面を開くことはしなかった。
まだ急ぐ必要はない。
もう少し考えてからでもいいだろう。
パソコンを閉じると、部屋の中が静かになった。
窓の外では、冷たい風が吹いていた。
スマートフォンが短く震えた。
芽からだった。
『おやすみなさい。明日もよい一日になりますように』
新太郎は笑みを浮かべた。
『おやすみ。またね』
返事を送ってから、部屋の明かりを消した。
布団に入ると、昼間に飲んだコーヒーの香りをふと思い出した。
それから、芽の部屋で一緒に作った夕飯のことを考えた。
次に会うときは、何を話そう。
そんなことを思っているうちに、新太郎は眠りについた。




