1 小さな好奇心
翌日の午後、新太郎は自宅のソファに腰を下ろし、ノートパソコンを開いていた。
窓の外には、雲ひとつない冬の空が広がっている。暖房の効いた部屋にいると忘れてしまうが、ベランダに出れば、きっと冷たい風が吹いているだろう。
昨日、芽と立ち寄った喫茶店のことを思い出した。
商店街の片隅にある小さな店。窓際の席で向かい合い、温かい飲み物を飲みながら、取り留めのない話をした。ああいう時間が、最近はとても心地よく感じられる。
芽と知り合ってから、週末の過ごし方が少し変わった。
以前は、休日に特別な予定がなくても、それを退屈だとは思わなかった。今でも一人の時間は嫌いではない。ただ、面白いものを見つけたとき、誰かに話したいと思うことが増えた。
その相手が、たいてい芽だった。
新太郎はブラウザを開き、ブックマークから一つのページを選んだ。
『記憶と認知に関する研究 参加協力者募集』
数日前に見つけた、ドラゴンパレス製薬の研究参加者募集のページだった。
昨日も芽と、この研究について少し話した。彼女自身が担当している研究ではないらしいが、記憶というものについて話すときの芽は、いつも少し楽しそうだった。
新太郎は改めて募集要項を読み始めた。
研究の目的は、人間が過去の出来事を思い出す際の脳の働きと、記憶に伴う感情や時間感覚の関係を調べること。参加者にはいくつかの課題に取り組んでもらい、その間の反応を記録するという。
説明の中に、ひとつ気になる文章があった。
『人間の記憶は、過去の出来事をそのまま保存したものではなく、想起のたびに再構成されると考えられています』
新太郎はその一文をもう一度読んだ。
思い出すたびに、記憶が作り直される。
それなら、何度も思い出している記憶ほど、最初の出来事から遠ざかっていることもあるのだろうか。
子供の頃の夏休みを思い浮かべてみる。
家族で海へ行ったことがある。砂浜は白く、空はどこまでも青かった。波打ち際で遊んでいると、父親が沖の方から手を振っていた。
そんな光景が頭に浮かぶ。
けれど、本当に父親は海に入っていたのだろうか。砂浜から手を振っていたのではなかったか。そもそも、あの日の空は晴れていたのだろうか。
思い出そうとするほど、かえって曖昧になっていく。
新太郎は少し笑った。
記憶というものは、案外頼りない。
ページを下へスクロールすると、参加条件や研究の手順が記されていた。
事前説明と適性確認を受けたうえで参加が決定されること。研究への協力は任意であり、途中で辞退することもできること。参加者には所定の謝礼が支払われること。
研究内容の詳細は、事前説明の際に伝えられるらしい。
新太郎はしばらく画面を眺めていた。
自分の記憶を調べるというのは、どんな感じなのだろう。
何か特別な装置を使うのだろうか。それとも、質問に答えたり、映像を見たりするだけなのだろうか。
普段なら、こういう募集を見つけても、面白そうだと思うだけで終わっていただろう。
けれど、今回は少し違った。
芽と出会ってから、記憶や脳についての話を聞く機会が増えた。それまで縁のなかった世界が、いつの間にか身近なものになっていた。
もっとも、彼女の仕事を知りたいからというだけではない。
自分自身の頭の中で、毎日当たり前のように起きていることを、少し違った角度から覗いてみたい。
その好奇心の方が大きかった。
新太郎は画面の下にある「参加を希望する」というボタンをクリックした。
応募フォームが開いた。
氏名、生年月日、連絡先、職業。続いて、現在の健康状態や服薬の有無、過去の大きな病気についての質問が並んでいる。
ひとつずつ入力していく。
最後に、研究参加に関する注意事項が表示された。
応募は研究への参加を確約するものではなく、説明と適性確認を経て正式に決定されること。収集された情報は研究目的に限って使用され、個人を特定できない形で管理されること。
新太郎は確認欄にチェックを入れた。
『応募内容を送信しますか?』
少しだけ指を止めた。
迷っているというほどではなかった。ただ、送信してしまえば、今まで画面の向こうにあった研究が、自分の予定の中に入り込んでくる。
そんな小さな実感があった。
クリックすると、受付完了の画面に切り替わった。
『ご応募ありがとうございました。内容を確認のうえ、担当者よりご連絡いたします』
新太郎はパソコンを閉じた。
あっけないものだな、と思った。
何か大きな決断をしたような気はしなかった。新しい習い事の体験教室に申し込んだときと、さほど変わらない。
立ち上がって台所へ向かい、湯を沸かした。
コーヒーを淹れながら、ふと芽に報告しておこうと思った。
スマートフォンを取り出し、短いメッセージを送る。
『そういえば、この前話してた記憶研究、応募してみたよ』
しばらくして、返信が届いた。
『えっ、本当に応募したんですね』
『うん。ちょっと面白そうだったから』
『そうですか。参加できるといいですね』
『まだ決まったわけじゃないけどね』
『でも、説明はちゃんと聞いてくださいね。分からないことがあったら、遠慮せず質問してください』
『了解。なんだか先生みたいだね』
『一応、研究者ですから』
新太郎は思わず笑った。
『そうだった。失礼しました』
すぐに、笑顔の絵文字が返ってきた。
新太郎はスマートフォンを置き、マグカップを手に窓際へ戻った。
午後の日差しが部屋の床に細長く伸びていた。
今年も、あと半月ほどで終わる。
そう考えると、少し不思議だった。
ついこの間まで暑かったような気がするのに、もう冬になっている。
時間というものも、記憶と同じくらい曖昧なのかもしれない。
週が明けると、街は一段と年末らしくなった。
駅前の広場には大きなクリスマスツリーが飾られ、夕方になると色とりどりの電飾が灯った。商業施設の入口では、赤と緑の飾りが揺れ、どこからともなく聞き覚えのあるクリスマスソングが流れていた。
新太郎は仕事帰り、駅前の人混みを歩きながら、ふと足を緩めた。
そういえば、クリスマスはどうするのだろう。
芽とは、まだ何も約束していなかった。
付き合っている、という言葉を二人の間ではっきり使ったことはない。それでも、休日に会い、食事をし、何気ない出来事を報告し合うことが、すっかり自然になっていた。
クリスマスに誘っても、おかしくはないはずだ。
ただ、いざそう考えると、どんなふうに誘えばいいのか分からなくなった。
特別な店を予約するべきだろうか。それとも、いつものように食事に誘えばいいのだろうか。
新太郎は駅前のレストランのショーウィンドウを眺めた。店先にはクリスマス限定コースの案内が置かれている。
値段を見て、思わず小さく息をついた。
少し大げさな気がする。
芽は、こういう店を喜ぶだろうか。
考えてみれば、彼女の好みについて知っていることは、まだそれほど多くない。
何度も一緒に食事をしているのに、不思議なものだ。
そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
取り出すと、芽からのメッセージだった。
『今日は寒かったですね。帰り道、風が強くてびっくりしました』
新太郎は思わず笑みを浮かべた。
『こっちも寒いよ。駅前のイルミネーションがきれいだった』
少し迷ってから、もう一通送った。
『そういえば、クリスマスって何か予定ある?』
送信した途端、急に落ち着かなくなった。
別に、特別なことを言ったわけではない。
そう自分に言い聞かせながら、スマートフォンをポケットに戻した。
ところが、数歩歩いたところで、また取り出してしまった。
まだ既読はついていない。
新太郎は苦笑し、今度こそポケットにしまった。
改札を抜け、ホームへ向かう階段を上がっていると、返信が届いた。
『今のところ、特に予定はありませんよ』
続けて、もう一通。
『新太郎さんは?』
『僕も特にないんだ。よかったら、一緒にご飯でもどうかなと思って』
今度の返信は早かった。
『いいですね。ぜひ』
たったそれだけの言葉だったが、新太郎はしばらく画面を見つめていた。
電車がホームに滑り込んできた。
周囲の人たちが一斉に動き始め、新太郎も流れに乗って車内へ入った。
窓に映る自分の顔が、少し緩んでいることに気づいた。
席に座ってから、もう一度メッセージを開いた。
『お店はまた相談しよう』
『はい。楽しみにしています』
新太郎はスマートフォンをしまい、窓の外へ目を向けた。
街の灯りが、流れるように後ろへ遠ざかっていった。
数日後、ドラゴンパレス製薬からメールが届いた。
『研究参加に関する事前説明のご案内』
応募内容を確認した結果、事前説明と適性確認に進んでもらいたいというものだった。
メールには、研究の概要を記した資料と、説明会の日程を選ぶためのリンクが添えられていた。
新太郎は仕事の予定を確認し、週末の午前中を選んだ。
画面には、参加予定の施設名と所在地が表示された。
ドラゴンパレス製薬の研究施設。
以前、芽の社員証を返しに訪れた本社とは別の場所だった。
地図を開いてみると、駅から少し歩いたところにある、比較的新しい建物らしい。
建物の写真には、ガラス張りの正面玄関と、植え込みに囲まれた広い歩道が写っていた。
新太郎は確認メールを保存し、スマートフォンのカレンダーに予定を登録した。
『記憶研究・事前説明』
そのすぐ下には、芽と会う約束が入っていた。
まだ店も時間も決まっていない、クリスマスの予定だった。
二つの予定を眺めていると、何だか少しおかしくなった。
ひとつは、これまでほとんど縁のなかった科学研究への参加。
もうひとつは、最近知り合った女性と過ごすクリスマス。
どちらも、少し前の自分には想像もしていなかったことだった。
新太郎はカレンダーを閉じた。
年末まで、まだいくつか楽しみが残っている。
そんなことを考えながら、机の上に置いたコーヒーに手を伸ばした。
窓の外では、冬の短い一日が静かに暮れようとしていた。




