2 被験者
駅を出ると、思っていたよりも冷たい風が吹いていた。
新太郎はコートの襟を立て、スマートフォンの地図を確かめた。目的地までは歩いて十分ほど。大通りを一本外れると、休日のせいか、人通りは急に少なくなった。
しばらく歩くと、街路樹の向こうにガラス張りの建物が見えてきた。
ドラゴンパレス製薬の研究施設だった。
五階建てほどの建物で、正面には小さな広場があり、低い植え込みが整然と並んでいる。入口の脇には、会社名と研究センターの名称が控えめな文字で記されていた。
新太郎は腕時計を見た。約束の時間まで、まだ十分ほどある。
自動ドアを抜けると、暖かい空気が頬に触れた。
広いロビーには受付カウンターと、いくつかのソファが置かれている。壁には研究成果を紹介するパネルが並び、奥のガラス越しには中庭の緑が見えた。
思っていたよりも、ずっと普通の建物だった。
「おはようございます。本日はどのようなご用件でしょうか」
受付の女性が声をかけてきた。
「あの、記憶研究の説明会に来たんですが」
「ありがとうございます。お名前をお願いいたします」
新太郎が名乗ると、女性は端末を確認し、首から下げる来訪者用のカードを差し出した。
「こちらをお着けください。担当の者が参りますので、少々お待ちいただけますか」
新太郎はカードを受け取り、ソファに腰を下ろした。
向かいの壁には、人間の脳を描いた大きな図が掛けられている。いくつもの領域が色分けされ、それぞれに専門用語が添えられていた。
眺めてみたものの、ほとんど意味は分からない。
それでも、あの複雑な形をした器官の中に、自分がこれまで見てきた風景や、出会った人たちの記憶が収まっているのだと思うと、妙な気分になった。
「新太郎様でしょうか」
顔を上げると、三十代半ばくらいの男性が立っていた。白衣ではなく、紺色のジャケットにシャツという服装だった。
「本日ご案内いたします、研究支援室の高瀬と申します」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。寒い中、ありがとうございます。では、ご案内しますね」
高瀬は穏やかな口調でそう言い、廊下の奥へ歩き始めた。
途中、何度かカードを読み取り機にかざして扉を開けたが、それ以外は一般的なオフィスとあまり変わらなかった。
通されたのは、十人ほどが入れる会議室だった。
すでに二人の参加希望者が座っている。一人は新太郎より少し年上に見える男性、もう一人は若い女性だった。
新太郎が軽く会釈すると、二人も小さく頭を下げた。
「本日は三名の方にお越しいただいています。まず研究の概要をご説明して、そのあと個別に確認と簡単な検査を行います。お昼過ぎには終わる予定です」
高瀬はそう言って、机の上に資料を配った。
「飲み物はご自由にどうぞ。途中で休憩も取りますので、何かありましたら遠慮なくおっしゃってください」
新太郎は紙コップに水を注ぎ、資料の表紙を眺めた。
『記憶想起に伴う認知・情動反応の研究』
いかにも研究らしい、少し堅苦しい題名だった。
「皆さんは、昨日の夕食に何を食べたか覚えていますか」
説明が始まって間もなく、高瀬はそんな質問をした。
三人は顔を見合わせた。
「私はカレーでした」
若い女性が答えた。
「私は……焼き魚だったかな」
隣の男性が少し考えてから言った。
新太郎も昨日の夕食を思い出した。冷蔵庫に残っていた野菜を使って、簡単な炒め物を作ったはずだ。
「では、その夕食を食べていたときのことを、できるだけ詳しく思い出してみてください。部屋の明るさや、周りの音、食器の位置なんかも」
新太郎は目を伏せた。
自宅の食卓が浮かんでくる。テレビはついていただろうか。何か音楽を流していたような気もする。
「どうでしょう。食べたものは覚えていても、細かいところは意外と曖昧ではありませんか」
高瀬が笑った。
「記憶というのは、録画した映像を再生するようなものではないんですね。思い出すとき、私たちの脳は、残っている情報を手がかりに、その場面を組み立て直していると考えられています」
新太郎は頷いた。
先日、募集ページを読んだときにも気になった話だった。
「今回の研究では、そのときにどんな情報が使われ、感情や時間の感じ方がどう関わっているのかを調べます」
高瀬はスクリーンにいくつかの画像を映した。
海辺の風景、雑踏の中の交差点、誰もいない教室。
「例えば、この写真を見て懐かしいと感じる人もいれば、何も感じない人もいます。同じものを見ても、そこから呼び起こされる記憶は人によって違います」
海辺の写真が映ったとき、新太郎は子供の頃の夏休みを思い出した。
白い砂浜。父親の声。足元を洗っていく波。
先週、自宅で思い浮かべたのと、よく似た風景だった。
「では、皆さんに少し質問です」
高瀬はスクリーンを消した。
「楽しかった旅行の一日と、何もせず家で過ごした一日。あとから思い返したとき、どちらの方が長く感じられるでしょうか」
「旅行の方ですかね」
隣の男性が答えた。
「そうですね。そう感じる方は多いと思います。でも、旅行中は時間があっという間に過ぎた、という経験もありませんか」
「ああ、ありますね」
「面白いですよね。過ごしている最中の時間と、あとから振り返った時間は、必ずしも同じ長さには感じられないんです」
新太郎は思わず口を開いた。
「それって、記憶が多いからなんでしょうか」
高瀬がこちらを向いた。
「といいますと?」
「旅行だと、いろんな場所に行ったり、初めて見るものがあったりしますよね。だから、あとから思い出すと長く感じるのかなって」
「ええ。新しい出来事の多さや、記憶に残った情報の量は、時間の感じ方に関係すると考えられています。ただ、それだけで説明できるわけでもないんです」
高瀬は少し楽しそうに続けた。
「例えば、怖い思いをした一瞬が、ものすごく長く感じられることもありますよね。感情の強さも、時間の感じ方に影響するんです」
新太郎は、なるほど、と呟いた。
記憶と時間。
別々のものだと思っていた二つが、実は深く結びついている。
芽がこの仕事を面白いと感じる理由が、少し分かったような気がした。
説明が終わると、研究参加に関する同意書が配られた。
高瀬は、研究への協力は本人の自由意思によるものであり、途中で辞退しても不利益はないこと、測定された情報は適切に管理されることなどを、資料に沿って説明した。
「ここまでで、何かご質問はありますか」
若い女性が手を挙げた。
「あの、記憶の検査というのは、昔の嫌なことを思い出したりするんでしょうか」
「今回予定している課題では、強い精神的負担がかかるような記憶を、無理に思い出していただくことはありません。もし不快に感じることがあれば、その場で中止できます」
女性は安心したように頷いた。
新太郎も資料に目を落とした。
質問に答えること、画面に表示される画像や言葉を覚えること、簡単な生体反応の測定を受けること。記載されている内容に、特に気になる点はなかった。
「ちなみに、研究はどれくらいの期間続くんですか」
新太郎が尋ねた。
「参加していただく課題によって異なりますが、数回に分けてお越しいただく可能性があります。もちろん、その都度ご都合を確認します」
「仕事があるので、平日はちょっと難しいかもしれません」
「土曜日にも実施していますので、そのあたりは調整できると思いますよ」
新太郎は頷いた。
同意書に署名し、ペンを置いた。
その瞬間も、特別な感慨はなかった。
ただ、これから少し面白い経験ができそうだという期待があった。
しばらくして、新太郎は別の部屋へ案内された。
白い壁に机と椅子が置かれ、机の上にはノートパソコンと小さな操作用のボタンがある。
「こちらで簡単な検査を行います」
担当の女性研究員が説明した。
「まず、画面にいくつかの図形が表示されます。あとで同じものが出てきたかどうかを答えてください。正解することが目的というより、反応の傾向を調べるためのものですから、気楽にやってくださいね」
「分かりました」
新太郎は椅子に座った。
画面に、青い円が現れた。次に赤い三角形、黄色い四角形。形や色が次々に切り替わっていく。
しばらくすると画面が暗くなり、今度は二つの図形が並んで表示された。
先ほど見たものはどちらか。
新太郎はボタンを押した。
簡単だと思ったのは最初だけだった。
図形の数が増え、表示される時間が短くなるにつれ、だんだん自信がなくなってくる。
赤い三角形だったか、オレンジ色の三角形だったか。
さっきまで確かに見ていたはずなのに、もう曖昧になっている。
思わず笑ってしまった。
「難しいですか?」
研究員が尋ねた。
「いや、自分の記憶力って、こんなものなのかと思って」
「皆さん、そうおっしゃいますよ」
研究員も笑った。
「でも、これで記憶力の良し悪しが決まるわけではありませんから」
そのあと、短い文章を覚える課題や、画面に表示された単語を分類する課題が続いた。
どれもゲームのようで、思っていたより退屈しなかった。
検査を終えると、今度は小さな面談室に通された。
高瀬が待っていた。
「お疲れさまでした。いかがでしたか」
「思ったより難しかったです。特に、図形を覚えるやつが」
「そうですか。あれは慣れないと大変ですよね」
高瀬は手元の端末を確認した。
「少しだけ、応募の動機についてお聞きしてもよろしいですか」
「はい」
「今回の研究には、どうして興味を持たれたんでしょう」
新太郎は少し考えた。
「知り合いに、記憶の研究をしている人がいるんです」
「そうなんですね」
「その人から話を聞いて、記憶って思っていたよりずっと曖昧なものなんだなって。自分では確かに覚えているつもりでも、本当は違うかもしれないっていうのが、面白くて」
高瀬は頷きながら聞いていた。
「ご自身の記憶について、何か気になることがあるんですか」
「特別なことはないんですけど……」
新太郎は少し迷ってから続けた。
「子供の頃のことなんか、今でもよく覚えているつもりなんです。でも、よく考えると、細かいところは全然はっきりしないんですよね」
「例えば?」
「昔、家族で海に行ったことがあって。砂浜とか、波の音とか、そういうのはすぐ思い浮かぶんです。でも、誰がどこにいたとか、何を話したとか、そういうのは怪しくて」
「なるほど」
「それなのに、思い出すと、すごく懐かしい気持ちになるんです。細かいことは覚えていないのに、楽しかったっていう感じだけは、はっきり残っている」
高瀬はペンを動かした。
「それは興味深いですね。出来事の細部と、そのときの感情は、必ずしも同じように記憶されるわけではありません」
「そうなんですか」
「ええ。何が起きたかは曖昧でも、嬉しかったとか、怖かったとか、そういう感情が強く残ることはあります」
新太郎は頷いた。
高瀬は端末に何かを入力し、顔を上げた。
「ちなみに、その海の思い出は、今でも楽しい記憶ですか」
「ええ。そうですね」
新太郎は笑った。
「実際にどんな一日だったのかは、もうよく分からないですけど」
「ありがとうございます」
高瀬はそれ以上、海の話を掘り下げなかった。
続いて、睡眠や生活習慣、最近の体調などについていくつか質問があり、面談は終わった。
すべての手続きを終えてロビーへ戻ると、正午を少し過ぎていた。
高瀬が出口まで見送ってくれた。
「本日はありがとうございました。検査結果を確認したうえで、改めてご連絡いたします」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「何かご不明な点があれば、メールでお問い合わせください」
新太郎は来訪者用のカードを返却し、建物を出た。
外の空気は朝より少し暖かくなっていたが、日陰にはまだ冷たさが残っている。
駅へ向かって歩きながら、新太郎は今日のことを振り返った。
研究施設というから、もっと難しい話ばかりなのかと思っていた。
けれど、実際に体験したのは、普段当たり前に使っている記憶というものを、少し違った角度から眺めるような時間だった。
自分が覚えていることと、実際に起きたことは、どこまで同じなのだろう。
その問いが、頭の片隅に残っていた。
駅前まで戻ると、広場のクリスマスツリーが目に入った。昼間のツリーは電飾が消えていて、夜とはずいぶん印象が違う。
新太郎はスマートフォンを取り出した。
芽に、今日のことを報告しておこうと思った。
『今日、例の研究施設に行ってきたよ。説明と簡単な検査を受けてきた』
少しして、返信が届いた。
『お疲れさまでした。どうでした?』
『思ったより面白かった。自分の記憶力にはちょっと自信がなくなったけど』
『ふふ。それは研究に参加した人がよく言う感想かもしれませんね』
『芽さんも、ああいう検査をするの?』
『似たような課題を扱うことはありますよ。でも、研究の目的によっていろいろ違います』
『なるほど。今度また話を聞かせて』
『はい。でも、研究の詳しい内容は、私には話さなくていいですからね』
新太郎は少し首を傾げた。
『どうして?』
『参加者の方から研究の内容を聞くと、知らないうちに結果に影響してしまうこともあるんです。担当していない研究なら、なおさら』
『そういうものなんだ』
『そういうものなんです』
最後に笑顔の絵文字が添えられていた。
新太郎はスマートフォンをしまった。
駅前の通りには、買い物袋を提げた人たちが行き交っている。クリスマスまで、あと数日だった。
芽との食事の店も、そろそろ決めなければならない。
新太郎は、先日見かけたレストランの案内を思い出した。
少し高かったけれど、たまにはああいう店も悪くないかもしれない。
もっとも、芽が喜ぶかどうかは分からない。
そんなことを考えているうちに、研究施設で過ごした午前中のことは、少しずつ日常の向こうへ遠ざかっていった。
あとは結果の連絡を待つだけだった。
新太郎は駅へ向かって歩き出した。
冬の日差しが、通りの先を明るく照らしていた。




