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新浦島太郎  作者: ISM
第5章 記憶の岸辺
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19/25

2 被験者



 駅を出ると、思っていたよりも冷たい風が吹いていた。

 新太郎はコートの襟を立て、スマートフォンの地図を確かめた。目的地までは歩いて十分ほど。大通りを一本外れると、休日のせいか、人通りは急に少なくなった。

 しばらく歩くと、街路樹の向こうにガラス張りの建物が見えてきた。

 ドラゴンパレス製薬の研究施設だった。

 五階建てほどの建物で、正面には小さな広場があり、低い植え込みが整然と並んでいる。入口の脇には、会社名と研究センターの名称が控えめな文字で記されていた。

 新太郎は腕時計を見た。約束の時間まで、まだ十分ほどある。

 自動ドアを抜けると、暖かい空気が頬に触れた。

 広いロビーには受付カウンターと、いくつかのソファが置かれている。壁には研究成果を紹介するパネルが並び、奥のガラス越しには中庭の緑が見えた。

 思っていたよりも、ずっと普通の建物だった。

「おはようございます。本日はどのようなご用件でしょうか」

 受付の女性が声をかけてきた。

「あの、記憶研究の説明会に来たんですが」

「ありがとうございます。お名前をお願いいたします」

 新太郎が名乗ると、女性は端末を確認し、首から下げる来訪者用のカードを差し出した。

「こちらをお着けください。担当の者が参りますので、少々お待ちいただけますか」

 新太郎はカードを受け取り、ソファに腰を下ろした。

 向かいの壁には、人間の脳を描いた大きな図が掛けられている。いくつもの領域が色分けされ、それぞれに専門用語が添えられていた。

 眺めてみたものの、ほとんど意味は分からない。

 それでも、あの複雑な形をした器官の中に、自分がこれまで見てきた風景や、出会った人たちの記憶が収まっているのだと思うと、妙な気分になった。

「新太郎様でしょうか」

 顔を上げると、三十代半ばくらいの男性が立っていた。白衣ではなく、紺色のジャケットにシャツという服装だった。

「本日ご案内いたします、研究支援室の高瀬と申します」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ。寒い中、ありがとうございます。では、ご案内しますね」

 高瀬は穏やかな口調でそう言い、廊下の奥へ歩き始めた。

 途中、何度かカードを読み取り機にかざして扉を開けたが、それ以外は一般的なオフィスとあまり変わらなかった。

 通されたのは、十人ほどが入れる会議室だった。

 すでに二人の参加希望者が座っている。一人は新太郎より少し年上に見える男性、もう一人は若い女性だった。

 新太郎が軽く会釈すると、二人も小さく頭を下げた。

「本日は三名の方にお越しいただいています。まず研究の概要をご説明して、そのあと個別に確認と簡単な検査を行います。お昼過ぎには終わる予定です」

 高瀬はそう言って、机の上に資料を配った。

「飲み物はご自由にどうぞ。途中で休憩も取りますので、何かありましたら遠慮なくおっしゃってください」

 新太郎は紙コップに水を注ぎ、資料の表紙を眺めた。

 『記憶想起に伴う認知・情動反応の研究』

 いかにも研究らしい、少し堅苦しい題名だった。


「皆さんは、昨日の夕食に何を食べたか覚えていますか」

 説明が始まって間もなく、高瀬はそんな質問をした。

 三人は顔を見合わせた。

「私はカレーでした」

 若い女性が答えた。

「私は……焼き魚だったかな」

 隣の男性が少し考えてから言った。

 新太郎も昨日の夕食を思い出した。冷蔵庫に残っていた野菜を使って、簡単な炒め物を作ったはずだ。

「では、その夕食を食べていたときのことを、できるだけ詳しく思い出してみてください。部屋の明るさや、周りの音、食器の位置なんかも」

 新太郎は目を伏せた。

 自宅の食卓が浮かんでくる。テレビはついていただろうか。何か音楽を流していたような気もする。

「どうでしょう。食べたものは覚えていても、細かいところは意外と曖昧ではありませんか」

 高瀬が笑った。

「記憶というのは、録画した映像を再生するようなものではないんですね。思い出すとき、私たちの脳は、残っている情報を手がかりに、その場面を組み立て直していると考えられています」

 新太郎は頷いた。

 先日、募集ページを読んだときにも気になった話だった。

「今回の研究では、そのときにどんな情報が使われ、感情や時間の感じ方がどう関わっているのかを調べます」

 高瀬はスクリーンにいくつかの画像を映した。

 海辺の風景、雑踏の中の交差点、誰もいない教室。

「例えば、この写真を見て懐かしいと感じる人もいれば、何も感じない人もいます。同じものを見ても、そこから呼び起こされる記憶は人によって違います」

 海辺の写真が映ったとき、新太郎は子供の頃の夏休みを思い出した。

 白い砂浜。父親の声。足元を洗っていく波。

 先週、自宅で思い浮かべたのと、よく似た風景だった。

「では、皆さんに少し質問です」

 高瀬はスクリーンを消した。

「楽しかった旅行の一日と、何もせず家で過ごした一日。あとから思い返したとき、どちらの方が長く感じられるでしょうか」

「旅行の方ですかね」

 隣の男性が答えた。

「そうですね。そう感じる方は多いと思います。でも、旅行中は時間があっという間に過ぎた、という経験もありませんか」

「ああ、ありますね」

「面白いですよね。過ごしている最中の時間と、あとから振り返った時間は、必ずしも同じ長さには感じられないんです」

 新太郎は思わず口を開いた。

「それって、記憶が多いからなんでしょうか」

 高瀬がこちらを向いた。

「といいますと?」

「旅行だと、いろんな場所に行ったり、初めて見るものがあったりしますよね。だから、あとから思い出すと長く感じるのかなって」

「ええ。新しい出来事の多さや、記憶に残った情報の量は、時間の感じ方に関係すると考えられています。ただ、それだけで説明できるわけでもないんです」

 高瀬は少し楽しそうに続けた。

「例えば、怖い思いをした一瞬が、ものすごく長く感じられることもありますよね。感情の強さも、時間の感じ方に影響するんです」

 新太郎は、なるほど、と呟いた。

 記憶と時間。

 別々のものだと思っていた二つが、実は深く結びついている。

 芽がこの仕事を面白いと感じる理由が、少し分かったような気がした。


 説明が終わると、研究参加に関する同意書が配られた。

 高瀬は、研究への協力は本人の自由意思によるものであり、途中で辞退しても不利益はないこと、測定された情報は適切に管理されることなどを、資料に沿って説明した。

「ここまでで、何かご質問はありますか」

 若い女性が手を挙げた。

「あの、記憶の検査というのは、昔の嫌なことを思い出したりするんでしょうか」

「今回予定している課題では、強い精神的負担がかかるような記憶を、無理に思い出していただくことはありません。もし不快に感じることがあれば、その場で中止できます」

 女性は安心したように頷いた。

 新太郎も資料に目を落とした。

 質問に答えること、画面に表示される画像や言葉を覚えること、簡単な生体反応の測定を受けること。記載されている内容に、特に気になる点はなかった。

「ちなみに、研究はどれくらいの期間続くんですか」

 新太郎が尋ねた。

「参加していただく課題によって異なりますが、数回に分けてお越しいただく可能性があります。もちろん、その都度ご都合を確認します」

「仕事があるので、平日はちょっと難しいかもしれません」

「土曜日にも実施していますので、そのあたりは調整できると思いますよ」

 新太郎は頷いた。

 同意書に署名し、ペンを置いた。

 その瞬間も、特別な感慨はなかった。

 ただ、これから少し面白い経験ができそうだという期待があった。


 しばらくして、新太郎は別の部屋へ案内された。

 白い壁に机と椅子が置かれ、机の上にはノートパソコンと小さな操作用のボタンがある。

「こちらで簡単な検査を行います」

 担当の女性研究員が説明した。

「まず、画面にいくつかの図形が表示されます。あとで同じものが出てきたかどうかを答えてください。正解することが目的というより、反応の傾向を調べるためのものですから、気楽にやってくださいね」

「分かりました」

 新太郎は椅子に座った。

 画面に、青い円が現れた。次に赤い三角形、黄色い四角形。形や色が次々に切り替わっていく。

 しばらくすると画面が暗くなり、今度は二つの図形が並んで表示された。

 先ほど見たものはどちらか。

 新太郎はボタンを押した。

 簡単だと思ったのは最初だけだった。

 図形の数が増え、表示される時間が短くなるにつれ、だんだん自信がなくなってくる。

 赤い三角形だったか、オレンジ色の三角形だったか。

 さっきまで確かに見ていたはずなのに、もう曖昧になっている。

 思わず笑ってしまった。

「難しいですか?」

 研究員が尋ねた。

「いや、自分の記憶力って、こんなものなのかと思って」

「皆さん、そうおっしゃいますよ」

 研究員も笑った。

「でも、これで記憶力の良し悪しが決まるわけではありませんから」

 そのあと、短い文章を覚える課題や、画面に表示された単語を分類する課題が続いた。

 どれもゲームのようで、思っていたより退屈しなかった。


 検査を終えると、今度は小さな面談室に通された。

 高瀬が待っていた。

「お疲れさまでした。いかがでしたか」

「思ったより難しかったです。特に、図形を覚えるやつが」

「そうですか。あれは慣れないと大変ですよね」

 高瀬は手元の端末を確認した。

「少しだけ、応募の動機についてお聞きしてもよろしいですか」

「はい」

「今回の研究には、どうして興味を持たれたんでしょう」

 新太郎は少し考えた。

「知り合いに、記憶の研究をしている人がいるんです」

「そうなんですね」

「その人から話を聞いて、記憶って思っていたよりずっと曖昧なものなんだなって。自分では確かに覚えているつもりでも、本当は違うかもしれないっていうのが、面白くて」

 高瀬は頷きながら聞いていた。

「ご自身の記憶について、何か気になることがあるんですか」

「特別なことはないんですけど……」

 新太郎は少し迷ってから続けた。

「子供の頃のことなんか、今でもよく覚えているつもりなんです。でも、よく考えると、細かいところは全然はっきりしないんですよね」

「例えば?」

「昔、家族で海に行ったことがあって。砂浜とか、波の音とか、そういうのはすぐ思い浮かぶんです。でも、誰がどこにいたとか、何を話したとか、そういうのは怪しくて」

「なるほど」

「それなのに、思い出すと、すごく懐かしい気持ちになるんです。細かいことは覚えていないのに、楽しかったっていう感じだけは、はっきり残っている」

 高瀬はペンを動かした。

「それは興味深いですね。出来事の細部と、そのときの感情は、必ずしも同じように記憶されるわけではありません」

「そうなんですか」

「ええ。何が起きたかは曖昧でも、嬉しかったとか、怖かったとか、そういう感情が強く残ることはあります」

 新太郎は頷いた。

 高瀬は端末に何かを入力し、顔を上げた。

「ちなみに、その海の思い出は、今でも楽しい記憶ですか」

「ええ。そうですね」

 新太郎は笑った。

「実際にどんな一日だったのかは、もうよく分からないですけど」

「ありがとうございます」

 高瀬はそれ以上、海の話を掘り下げなかった。

 続いて、睡眠や生活習慣、最近の体調などについていくつか質問があり、面談は終わった。


 すべての手続きを終えてロビーへ戻ると、正午を少し過ぎていた。

 高瀬が出口まで見送ってくれた。

「本日はありがとうございました。検査結果を確認したうえで、改めてご連絡いたします」

「こちらこそ、ありがとうございました」

「何かご不明な点があれば、メールでお問い合わせください」

 新太郎は来訪者用のカードを返却し、建物を出た。

 外の空気は朝より少し暖かくなっていたが、日陰にはまだ冷たさが残っている。

 駅へ向かって歩きながら、新太郎は今日のことを振り返った。

 研究施設というから、もっと難しい話ばかりなのかと思っていた。

 けれど、実際に体験したのは、普段当たり前に使っている記憶というものを、少し違った角度から眺めるような時間だった。

 自分が覚えていることと、実際に起きたことは、どこまで同じなのだろう。

 その問いが、頭の片隅に残っていた。

 駅前まで戻ると、広場のクリスマスツリーが目に入った。昼間のツリーは電飾が消えていて、夜とはずいぶん印象が違う。

 新太郎はスマートフォンを取り出した。

 芽に、今日のことを報告しておこうと思った。

 『今日、例の研究施設に行ってきたよ。説明と簡単な検査を受けてきた』

 少しして、返信が届いた。

 『お疲れさまでした。どうでした?』

 『思ったより面白かった。自分の記憶力にはちょっと自信がなくなったけど』

 『ふふ。それは研究に参加した人がよく言う感想かもしれませんね』

 『芽さんも、ああいう検査をするの?』

 『似たような課題を扱うことはありますよ。でも、研究の目的によっていろいろ違います』

 『なるほど。今度また話を聞かせて』

 『はい。でも、研究の詳しい内容は、私には話さなくていいですからね』

 新太郎は少し首を傾げた。

 『どうして?』

 『参加者の方から研究の内容を聞くと、知らないうちに結果に影響してしまうこともあるんです。担当していない研究なら、なおさら』

 『そういうものなんだ』

 『そういうものなんです』

 最後に笑顔の絵文字が添えられていた。

 新太郎はスマートフォンをしまった。

 駅前の通りには、買い物袋を提げた人たちが行き交っている。クリスマスまで、あと数日だった。

 芽との食事の店も、そろそろ決めなければならない。

 新太郎は、先日見かけたレストランの案内を思い出した。

 少し高かったけれど、たまにはああいう店も悪くないかもしれない。

 もっとも、芽が喜ぶかどうかは分からない。

 そんなことを考えているうちに、研究施設で過ごした午前中のことは、少しずつ日常の向こうへ遠ざかっていった。

 あとは結果の連絡を待つだけだった。

 新太郎は駅へ向かって歩き出した。

 冬の日差しが、通りの先を明るく照らしていた。



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