3 写真のない夜
待ち合わせの場所に着いたとき、新太郎は少し早く来すぎたことに気づいた。
駅前の広場には大きなクリスマスツリーが立ち、夕暮れの空の下で無数の小さな光を灯していた。ツリーの周りでは、家族連れや若いカップルがスマートフォンを向けている。
新太郎はコートのポケットに手を入れ、腕時計を確かめた。約束の時間まで、まだ十五分ほどある。
今夜の店を決めるまでには、少し時間がかかった。
最初は、クリスマスらしい特別なレストランを探していた。けれど、どこも予約が埋まっていたり、驚くほど高いコース料理しかなかったりした。結局、以前から気になっていた小さな洋食店に電話をかけたところ、ちょうど二人分の席が空いていた。
芽に店の名前を伝えると、『素敵ですね。楽しみにしています』と返ってきた。
それでも、今日になってから、もう少し雰囲気のある店を選ぶべきだったのではないかと考えてしまう。
「新太郎さん」
声のする方を振り向くと、芽が歩いてくるところだった。
淡い色のコートに、深い赤のマフラーを巻いている。髪はいつもより少し丁寧に整えられていて、耳元には小さな銀色の飾りが光っていた。
「お待たせしました」
「いや、僕も今来たところ」
言ってから、新太郎は少し笑った。
「……というのは嘘で、十五分くらい前かな」
「そんなに早く?」
「家にいても落ち着かなかったから」
芽は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「私も、少し早く出てきたんです」
「じゃあ、同じだね」
二人は並んで歩き出した。
芽が自然に新太郎の手を取り、指を絡めた。冷たい指先が触れたが、しばらくすると互いの手の温かさが伝わってきた。
「今日は寒いですね」
「うん。でも、雨じゃなくてよかった」
「雪だったら、もっとクリスマスらしかったかもしれませんけど」
「雪か。そういえば、最近はこの辺りで積もることも少ないね」
「子供の頃は、雪が降ると嬉しかったんですけどね」
「今は?」
「電車が止まらないか心配になります」
二人は顔を見合わせて笑った。
店は駅前の賑やかな通りから少し離れた場所にあった。
古い建物の一階にあり、木製の扉の横には小さなリースが飾られている。ガラス越しに見える店内は、柔らかな橙色の明かりに包まれていた。
扉を開けると、バターと焼いた肉の香りが漂ってきた。
「いらっしゃいませ」
年配の女性が二人を迎えた。
新太郎が予約の名前を告げると、窓際の席へ案内された。
店内には十卓ほどのテーブルがあり、どの席にも小さなキャンドル型の照明が置かれている。窓辺には、赤い帽子をかぶった木製の小さな人形が二つ並んでいた。一つは少し傾いていて、隣の人形にもたれかかっているように見えた。
「かわいいですね」
芽が人形を指さした。
「片方、寄りかかってる」
「本当だ。酔っぱらってるみたいだね」
「クリスマスなのに、もう酔っちゃったんでしょうか」
芽は楽しそうに笑った。
新太郎は、その笑顔を見ながら、ようやく肩の力が抜けていくのを感じた。
「こういうお店、好きです」
芽が店内を見回しながら言った。
「よかった。もう少しちゃんとしたレストランの方がいいかなとも思ったんだけど」
「十分ちゃんとしてますよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「分かってます」
芽は少し首を傾げた。
「でも、私、あんまり格式ばったお店だと緊張しちゃうんです。ここなら、ゆっくり話せそう」
新太郎はほっとした。
「実は僕も、そういう店はあんまり得意じゃないんだ」
「じゃあ、正解でしたね」
運ばれてきたメニューには、クリスマス限定のコースが用意されていた。
前菜、スープ、魚料理、肉料理、デザート。特別な食材が並んでいるわけではないが、どれも美味しそうだった。
二人は同じコースを注文し、飲み物を選んだ。
乾杯すると、グラスが小さく音を立てた。
「メリークリスマス」
「メリークリスマス」
そう言い合うと、二人とも少し照れくさくなって笑った。
食事が始まると、会話はいつものように自然に続いた。
芽は最近、職場の同僚からもらったお菓子の話をした。新太郎は仕事で起きたちょっとした失敗を話した。
料理が運ばれてくるたびに、二人は感想を言い合い、ときには相手の皿を覗き込んだ。
「新太郎さん、こういう料理も作れます?」
芽が肉料理を指して尋ねた。
「いや、これは無理だな」
「でも、この前の炒飯、美味しかったですよ」
「あれは、かなり練習したからね」
「知ってます」
「えっ、なんで?」
「だって、何回か作ったって言ってたじゃないですか」
「ああ、そうだった」
新太郎は笑った。
「でも、また何か作ってみようかな」
「楽しみにしてます」
「期待しすぎないでよ」
「じゃあ、少しだけ期待しておきます」
そんな話をしているうちに、皿は次々と空になっていった。
食後のコーヒーが運ばれてきた頃には、店内の客も少しずつ入れ替わっていた。
窓の外には、細い路地を行き交う人たちの姿が見える。向かいの建物の軒先にも小さな電飾が飾られ、ガラスに淡い光が映り込んでいた。
芽は窓辺の人形を眺めていた。
「このお店、いつからあるんでしょうね」
「どうだろう。建物は結構古そうだけど」
「なんだか、ずっと前からここにあるみたい」
「常連さんも多そうだね」
「何年か経って、また来てみたいですね」
新太郎はコーヒーカップを置いた。
「いいね。そのときも、この人形があったりして」
「きっと、もっと傾いてますよ」
「最後は二人とも倒れてるかもしれない」
「それは困りますね」
芽は笑いながら、傾いた人形を見つめた。
「でも、こういう小さなものって、案外長く残るのかもしれませんね」
「そうかもね」
新太郎は窓に目を向けた。
外の明かりを映したガラスには、向かい合って座る二人の姿が薄く重なっていた。芽がカップを持ち上げると、ガラスの中の芽も同じように手を動かした。
当たり前のことなのに、何となく面白かった。
「どうしました?」
「いや、窓に僕らが映ってるなと思って」
芽もガラスを見た。
「あ、本当ですね」
「外から見たら、どんなふうに見えるんだろう」
「普通に食事している二人じゃないですか?」
「そうだね」
新太郎は笑った。
芽も微笑んで、残っていたコーヒーを口にした。
そのとき、新太郎はふと、こうして二人で向かい合っている時間が、ずっと前から続いているような気がした。
もちろん、実際には知り合ってからまだそれほど経っていない。
それでも、芽といると、初めて訪れた店でさえ、どこか懐かしく感じられることがあった。
店を出ると、夜の空気は一段と冷たくなっていた。
「美味しかったですね」
「うん。また来よう」
「はい」
芽はそう答え、新太郎の手を取った。
二人は駅へ向かってゆっくり歩き始めた。
通りにはクリスマスの飾りが並び、店先から音楽が聞こえてくる。すれ違う人たちの顔も、いつもより少し楽しそうに見えた。
広場に戻ると、大きなツリーが無数の光を放っていた。
「やっぱり、夜の方がきれいですね」
芽が足を止めた。
「写真、撮ろうか」
「そうですね」
新太郎はスマートフォンを取り出し、ツリーに向けた。
ところが、画面には人の頭ばかりが映り込む。
「難しいな」
「もう少し横からならどうでしょう」
二人は少し場所を移動した。
今度はツリーの全体が入ったが、手前を歩いていた子供がちょうど画面の真ん中に入り込んだ。
「あ、また」
新太郎が笑うと、芽も覗き込んで笑った。
「なかなかうまくいきませんね」
「まあ、いいか」
「撮らないんですか?」
「うん。今日はもう、十分見たし」
芽は少し意外そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「そうですね」
新太郎はスマートフォンをポケットに戻した。
二人はしばらく、光に包まれたツリーを眺めていた。
風が吹くと、芽のマフラーの端が揺れた。
「寒くない?」
「少し。でも大丈夫です」
新太郎はつないだ手を、自分のコートのポケットに入れた。
芽が小さく笑った。
「暖かいですね」
「ポケットの中だけね」
「それでも十分です」
二人はそのまま、もう少しだけ広場を歩いた。
駅の入口が見えてくると、芽が少し歩く速度を落とした。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかった」
「私もです」
二人は立ち止まった。
いつもなら、ここで手を離して、それぞれの帰り道につく。
けれど、芽はまだ新太郎の手を握っていた。
「また、あのお店に行きたいですね」
「うん。今度はクリスマスじゃないときに」
「そうですね。普段の日も、きっと素敵でしょうね」
芽が笑った。
新太郎も笑い返したが、二人ともすぐには動かなかった。
少し離れたところで、誰かの笑い声が聞こえた。
「……芽さん」
「はい」
「今日は、一緒に過ごせてよかった」
芽は小さく頷いた。
「私もです」
そして、少し間を置いて言った。
「新太郎さんといると、なんだか安心するんです」
「僕も、そうだよ」
芽は嬉しそうに微笑んだ。
新太郎はつないでいた手をそっと引き寄せた。
芽が一歩近づいた。
どちらからともなく、二人は抱き合った。
芽の赤いマフラーが、新太郎の頬に触れた。
新太郎は芽の背中に腕を回した。コート越しに伝わる温もりが、冷えた指先まで届くような気がした。
しばらくして、芽が小さな声で言った。
「……あったかいですね」
「うん」
「もう少し、このままでいてもいいですか」
「もちろん」
二人は、もうしばらくそのままでいた。
やがて芽がゆっくり体を離し、少し照れたように笑った。
「そろそろ行かないと」
「そうだね」
芽は新太郎の手をもう一度握った。
「また、連絡しますね」
「うん。気をつけて」
改札へ向かう芽を、新太郎はしばらく見送った。
途中で芽が振り返り、小さく手を振った。
新太郎も手を振り返した。
やがて、その姿が人混みの向こうに消えた。
帰りの電車は、思ったより空いていた。
新太郎は窓際に立ち、暗いガラスに映る街の灯りを眺めていた。
頭の中には、今夜のさまざまな光景が浮かんでいた。
赤いマフラーを巻いた芽の姿。小さな洋食店の温かな明かり。窓辺で寄りかかる二つの人形。ガラスに映った二人の姿。
そして、別れ際の芽の笑顔。
新太郎は、ふと口元が緩むのを感じた。
何年か経ったあとも、今日のことを覚えているだろうか。
きっと覚えている。
そう思った。
電車は静かに速度を上げ、窓の外の光が細い線になって流れていった。
新太郎はポケットの中のスマートフォンに触れたが、取り出さなかった。
今夜のことは、もう少しだけ、自分の中にしまっておきたかった。




