4 記憶の手触り
クリスマスが過ぎると、街は急に年末の顔になった。
駅前の大きなツリーは姿を消し、商店街には正月飾りが並び始めていた。つい数日前まで赤や緑の光に包まれていた通りを、新太郎は少し不思議な気持ちで歩いた。
あの夜、芽と食事をした店の前を通りかかった。
窓辺にはまだ小さな人形が二つ並んでいた。片方は相変わらず、隣の人形にもたれかかっている。
新太郎は足を止め、ガラス越しにそれを眺めた。
店内では、年配の女性がテーブルを拭いていた。あの日と同じ橙色の明かりが灯っている。
スマートフォンを取り出して写真を撮ろうかと思ったが、ちょうど女性がこちらを向いたので、何となく気恥ずかしくなってやめた。
そのまま歩き出したところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
芽からのメッセージだった。
『今日はもうお仕事終わりましたか?』
『うん。今帰るところ』
『お疲れさまです。寒いので気をつけてくださいね』
『芽さんは?』
『私も今、駅に向かっています』
新太郎は少し考えてから、短い文章を送った。
『この前のお店の前を通ったよ。あの人形、まだちゃんと並んでた』
すぐに返信が来た。
『よかった。まだ倒れてなかったんですね』
『片方はかなり危なそうだったけど』
『次に行くときまで頑張ってほしいですね』
新太郎は笑いながらスマートフォンをしまった。
別れ際に抱きしめた芽の温もりを、ふと思い出した。あれから何度かメッセージを交わしていたが、そのことについては二人とも何も言っていない。
けれど、言葉にしなくても、何かが少し変わったことは分かっていた。
研究施設からメールが届いたのは、その翌日の夜だった。
夕食を終え、流しに食器を運んだところで、机の上に置いていたスマートフォンが鳴った。
差出人はドラゴンパレス製薬研究支援室。
新太郎は手を拭いてから、メールを開いた。
『先日は事前説明および適性確認にご協力いただき、ありがとうございました』
続く文章には、研究参加の条件を満たしていること、本人の希望があれば初回の実験に参加できることが記されていた。
「通ったんだ」
思わず声に出した。
試験に合格したわけでもないのに、少し嬉しかった。
添付された日程表には、年明けの候補日がいくつか並んでいた。新太郎は予定を確認し、休日の午前中を選んだ。
返信を送ると、今度は芽にメッセージを打った。
『研究の参加が決まったよ』
しばらくして返事が届いた。
『おめでとうございます!』
『ありがとう。でも、おめでたいことなのかな』
『新しい経験ができるんですから、おめでたいですよ』
『そう言われると、そんな気がしてきた』
『初回はいつですか?』
『年が明けてから。休日の午前中』
『そうなんですね。無理しないでくださいね』
『大丈夫。前回の説明も丁寧だったし』
『それならよかったです』
新太郎は少し迷ってから、もう一通送った。
『それより、年が明けて、お互い実家から戻ったらまた会おうね』
返事はすぐに来た。
『はい。楽しみにしています』
画面を閉じても、しばらくその言葉が頭に残っていた。
年末年始をそれぞれの実家で過ごし、新太郎が自宅へ戻ってから最初の週末がやってきた。
朝の空気は冷たく、駅へ向かう道にはまだ正月の静けさが残っていた。通り沿いの店の中には、シャッターを下ろしたままのところもある。
研究施設に着くと、前回と同じ受付で名前を告げた。
しばらくして、高瀬が姿を見せた。
「新太郎さん、おはようございます。今年もよろしくお願いします」
「あけましておめでとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
「今日は初回ですので、少し時間を長めに取っています。体調はいかがですか」
「大丈夫です」
「よかったです。では、ご案内しますね」
高瀬は相変わらず穏やかな口調だった。
エレベーターで三階に上がり、廊下を進む。前回は会議室へ案内されたが、今日はその奥にある実験室へ向かった。
扉の横には小さなプレートがあり、「認知実験室」と書かれていた。
室内は思っていたよりも簡素だった。
中央に机と椅子があり、机の上にはモニターとキーボード、小さなボタンのついた装置が置かれている。壁際には棚が並び、ケースに入った機器や書類が整然と収められていた。
「もっと大きな機械があるのかと思ってました」
新太郎が言うと、高瀬は笑った。
「そういう装置を使う研究もありますが、今日はそこまで大がかりなものではありません」
「ちょっと安心しました」
「緊張されてましたか」
「少しだけ」
「最初は皆さんそうですよ」
高瀬は机の上の機器を指した。
「今日は、いくつかの言葉や音を手がかりに、ご自身の経験を思い出していただきます。その間の反応を記録しますが、難しいことをしていただくわけではありません」
説明を受けながら、新太郎は椅子に腰を下ろした。
別の研究員が入ってきた。三十代くらいの女性で、白いシャツの上に薄いグレーのカーディガンを羽織っている。
「本日、実験を担当します佐伯です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
佐伯は新太郎の手首に小さなセンサーを取りつけ、指先にも別の装置を装着した。
「痛みはありませんが、気になるようでしたら教えてください」
「はい」
「少し冷たいですよ」
指先に触れた金属は、確かにひんやりとしていた。
モニターの横には小さなカメラも設置されていた。
「目の動きも記録するんですか?」
「はい。画面のどこをご覧になっているかを確認するためです」
佐伯は椅子の位置を調整し、新太郎の目線がモニターの中央に来るようにした。
「では、まず練習から始めましょう」
画面に白い文字が現れた。
『学校』
その下に、小さく指示が表示されている。
『この言葉から思い浮かぶ、ご自身の経験を一つ思い出してください』
新太郎は少し考えた。
最初に浮かんだのは、小学校の教室だった。窓際の席。黒板の前に立つ先生。机の中に押し込んだ教科書。
けれど、どれも特定の日の出来事というより、いくつもの記憶が重なった風景のようだった。
「何か思い浮かびましたか」
佐伯の声が聞こえた。
「はい。でも、これって一つの出来事じゃなくてもいいんですか」
「できれば、ある一日の出来事を選んでみてください。急がなくて大丈夫です」
新太郎は目を閉じた。
すると、雨の降る日の放課後が浮かんできた。
教室には数人の児童が残っていて、窓ガラスを雨粒が伝っていた。傘を忘れた新太郎は、誰かが迎えに来るのを待っていた。
そのとき隣にいたのは、誰だっただろう。
顔は思い出せない。
ただ、窓の外が薄暗かったことと、濡れた校庭の色だけは妙にはっきりしていた。
「思い出せました」
「では、ボタンを押してください」
新太郎がボタンを押すと、画面が切り替わった。
『その出来事を、どの程度はっきりと思い出せましたか』
数字の並んだ目盛りが表示された。
新太郎は少し迷ってから、真ん中より一つ上を選んだ。
続いて、楽しい記憶だったか、悲しい記憶だったか、どのくらい昔のことに感じられるか、といった質問が現れた。
最後の質問で、指が止まった。
小学生の頃の出来事なのだから、ずいぶん昔のはずだった。
それでも、雨粒のついた窓ガラスは、つい最近見たもののように思い出せる。
新太郎はしばらく考えてから、回答を選んだ。
「ありがとうございます。今の要領で続けてください」
佐伯の声が聞こえた。
次の言葉は『旅行』だった。
家族で出かけた温泉、友人と行った京都、学生時代の短い一人旅。いくつもの場面が頭に浮かんだ。
その中から一つを選ぶのに、少し時間がかかった。
『誕生日』では、子供の頃に食べたケーキを思い出した。ろうそくの本数は分からなかったが、皿に描かれた青い模様だけは覚えていた。
『約束』という言葉が現れたときには、芽の顔が浮かんだ。
クリスマスの夜、窓辺に置かれた二つの人形。向かい合って座る芽が、何年か経ったらまた来てみたいと言った。
新太郎は思わず微笑んだ。
けれど、すぐに別のことが気になった。
あれは約束だったのだろうか。
確かに、また来ようとは言った。
でも、具体的にいつ来るかを決めたわけではない。
新太郎は少し考え、ボタンを押した。
画面に表示された質問に答えていく。
その出来事は、かなり鮮明に思い出せた。
楽しい記憶かと聞かれれば、迷わず一番高い数字を選べる。
しかし、どのくらい昔のことに感じられるかという質問では、また少し迷った。
ついこの前のことなのに、何度も思い返しているせいか、もっと前から知っている風景のようにも感じられた。
いくつかの課題が終わると、佐伯が声をかけた。
「ここで少し休憩しましょう」
新太郎は指先の装置を外してもらい、椅子から立ち上がった。
廊下の先にある小さな休憩スペースには、自動販売機と丸いテーブルが置かれていた。
紙コップの水を飲みながら、新太郎は窓の外を眺めた。
冬の空はよく晴れていた。遠くの建物の屋上に、白い雲の影がゆっくり動いている。
高瀬がやってきた。
「いかがですか」
「思ったより難しいですね」
「どのあたりが?」
「何かを思い出すのは簡単なんですけど、それがいつのことだったかとか、どのくらい昔に感じるかとか。普段、そんなこと考えないので」
「そうですね。日常では、思い出したものを細かく評価することはあまりありませんから」
「それに、思い出せるところと、全然思い出せないところがあるんですね」
「例えば?」
「小学校の教室を思い出したんですけど、雨が降っていたことは覚えてるのに、一緒にいた友達の顔は出てこないんです」
高瀬は頷いた。
「そういうことは、珍しくありませんよ」
「でも、不思議ですよね。顔の方が大事そうなのに」
「記憶に残るものは、必ずしもその出来事で重要だったものとは限りませんから」
高瀬は壁の時計を見た。
「そろそろ後半を始めましょうか」
「はい」
新太郎は紙コップを捨て、実験室へ戻った。
後半の課題では、ヘッドホンを使った。
最初に聞こえてきたのは、雨の音だった。
屋根を叩くような細かい音が続き、ときどき遠くで車の走る音が混じる。
佐伯の指示に従い、新太郎は雨にまつわる出来事を一つ思い出した。
朝、突然降り始めた雨。濡れた靴。駅の階段で滑りそうになったこと。
先ほど思い出した小学校の教室とは違う、比較的新しい出来事だった。
音が止まり、画面に質問が表示された。
回答を終えると、次の音が流れた。
今度は波の音だった。
寄せては引く波。少し離れたところで、子供たちの声が聞こえる。
新太郎は自然に、幼い頃に家族で行った海を思い出した。
砂浜を走ったこと。足の裏が熱かったこと。波打ち際で、何か小さな生き物を見つけたこと。
母親が少し離れたところから呼んでいたような気もする。
けれど、声までは思い出せなかった。
画面が切り替わった。
今度は、青い海の写真が表示された。
穏やかな波が砂浜に寄せ、遠くには低い岬が見える。
『先ほど思い出した出来事を、もう一度思い出してください』
新太郎は写真を眺めた。
同じ海の記憶のはずだった。
ところが、今度は砂浜よりも、帰り道の車の中が浮かんできた。
窓の外を流れる夕方の景色。後部座席に座っていた自分。膝の上には、濡れたタオルがあったような気がする。
さっきまで、そんなことは少しも思い出していなかった。
新太郎は首を傾げた。
タオルは本当に膝の上にあったのだろうか。
海に行った帰りなら、そういうこともあったかもしれない。
しかし、実際に見た光景なのか、今になって思い浮かべただけなのか、よく分からなかった。
画面の隅で、小さな数字が変わっていく。
新太郎は回答を選び、次の画面へ進んだ。
実験が終わったとき、新太郎は思わず大きく息を吐いた。
「お疲れさまでした」
佐伯がヘッドホンを受け取った。
「疲れましたか?」
「少し。でも、面白かったです」
「それはよかったです」
佐伯は手首と指先のセンサーを外し、皮膚に赤みが残っていないか確かめた。
「気分が悪くなったり、頭が痛くなったりしていませんか」
「大丈夫です」
「ありがとうございます。では、最後に簡単な確認をお願いします」
新太郎は体調に関する質問に答え、椅子から立ち上がった。
高瀬が実験室の外で待っていた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。いろいろ面白かったです」
「何か気になったことはありますか」
「最後の海のところなんですけど」
「はい」
「同じ出来事を思い出してるはずなのに、音を聞いたときと写真を見たときで、全然違う場面が浮かんだんです」
高瀬は新太郎の話を聞いていた。
「そういうものなんでしょうか」
「手がかりによって、思い出しやすい部分が変わることはあります」
「じゃあ、どっちも本当の記憶なんですかね」
高瀬は少し考えてから答えた。
「それは、思い出した内容だけでは判断できませんね」
「なるほど」
「ただ、どちらが正しいかを決める必要はありません。今日の研究では、どんなふうに思い出されたかが大切なので」
新太郎は頷いた。
言われてみれば、そのとおりだった。
自分は昔の出来事を確かめに来たわけではない。
それでも、帰りの車の中で膝に置いていたタオルのことが、少し気になった。
「今後も、同じような実験をするんですか」
「基本的には、今日のような課題が中心になります。ただ、次回以降は条件を少し変えた課題も予定しています」
「条件を変える?」
「使う手がかりや、思い出していただく順番などですね。詳しいことは、その都度ご説明します」
「分かりました」
高瀬は手元の端末を確認した。
「次回の日程については、改めてメールでご案内します。今日のところは、これで終了です」
「ありがとうございました」
新太郎は頭を下げた。
建物を出ると、思っていたより日が高くなっていた。
腕時計を見ると、もう昼をかなり過ぎている。
「そんなに経ってたのか」
実験室では何度も昔の出来事を思い出していたのに、そこに座っていた時間は、妙に短く感じられた。
新太郎は近くの店で昼食を済ませ、駅へ向かった。
ホームで電車を待っていると、芽からメッセージが届いた。
『今日は研究の日でしたよね。お疲れさまでした』
『うん。さっき終わったところ』
『どうでしたか?』
『面白かったよ。でも、思ったより頭を使った』
『そうなんですね。今日はゆっくり休んでください』
『ありがとう。そうする』
少しして、もう一通届いた。
『そういえば、あのお店の前を通ったんです』
新太郎は画面を見つめた。
『クリスマスの?』
『はい。窓辺の人形、まだありました』
『まだ倒れてなかった?』
『ちゃんと二つ並んでましたよ』
『よかった。次に行くまで持ちそうだね』
『今度は何を食べましょうか』
『コース料理もいいけど、普段のメニューも気になるな』
『じゃあ、今度は普通の日に行きましょう』
『うん。約束ね』
芽から笑顔の絵文字が届いた。
新太郎はスマートフォンをしまい、ホームに入ってきた電車に乗った。
窓際の席が空いていたので、そこに腰を下ろした。
電車が動き出すと、建物の間から冬の空が見えた。
新太郎は目を閉じた。
波の音が、まだ耳の奥に残っているような気がした。
幼い頃の海。砂浜。帰り道の車。
それから、クリスマスの夜の小さな洋食店。
窓辺に並んだ二つの人形と、向かい側で笑っていた芽。
どちらも自分の中にある記憶なのに、一方はずいぶん遠く、もう一方はつい先日のことだった。
それでも、目を閉じれば、どちらの風景も同じように浮かんでくる。
新太郎は目を開けた。
窓の外では、見慣れた街並みが流れていた。
次の駅を告げるアナウンスが聞こえた。
数日後、研究支援室から次回の案内が届いた。
メールには、前回と同じ施設で行うこと、所要時間はおよそ二時間であることが記されていた。
その下に、今回とは少し違う注意事項が添えられていた。
『次回は、事前に選んでいただいた個人的な出来事について、複数回の想起課題を行う予定です』
さらに、別紙の質問票への回答を求める文章が続いていた。
新太郎は添付ファイルを開いた。
そこには、これまでの人生で経験した出来事をいくつか挙げ、それぞれについて簡単に記入する欄が設けられていた。
楽しかった出来事。
悲しかった出来事。
今でも鮮明に覚えている出来事。
そして、もう一つ。
『もう一度経験できるとしたら、戻ってみたいと思う出来事』
新太郎はその一文を読んで、しばらく手を止めた。
何を選ぼうか。
子供の頃の夏休みだろうか。それとも、学生時代に友人たちと出かけた旅行だろうか。
いくつかの光景が浮かんでは消えた。
ふと、赤いマフラーを巻いた芽の姿が思い浮かんだ。
駅前の広場。光に包まれたクリスマスツリー。冷たい夜の空気。
そして、二人で抱き合ったときの温かさ。
新太郎は少し笑った。
あの夜は、まだついこの前のことだ。
わざわざ戻らなくても、これから一緒に過ごせる時間はいくらでもある。
そう思いながら、彼は最初の記入欄にカーソルを合わせた。




