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新浦島太郎  作者: ISM
第5章 記憶の岸辺
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4 記憶の手触り



 クリスマスが過ぎると、街は急に年末の顔になった。

 駅前の大きなツリーは姿を消し、商店街には正月飾りが並び始めていた。つい数日前まで赤や緑の光に包まれていた通りを、新太郎は少し不思議な気持ちで歩いた。

 あの夜、芽と食事をした店の前を通りかかった。

 窓辺にはまだ小さな人形が二つ並んでいた。片方は相変わらず、隣の人形にもたれかかっている。

 新太郎は足を止め、ガラス越しにそれを眺めた。

 店内では、年配の女性がテーブルを拭いていた。あの日と同じ橙色の明かりが灯っている。

 スマートフォンを取り出して写真を撮ろうかと思ったが、ちょうど女性がこちらを向いたので、何となく気恥ずかしくなってやめた。

 そのまま歩き出したところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。

 芽からのメッセージだった。

『今日はもうお仕事終わりましたか?』

『うん。今帰るところ』

『お疲れさまです。寒いので気をつけてくださいね』

『芽さんは?』

『私も今、駅に向かっています』

 新太郎は少し考えてから、短い文章を送った。

『この前のお店の前を通ったよ。あの人形、まだちゃんと並んでた』

 すぐに返信が来た。

『よかった。まだ倒れてなかったんですね』

『片方はかなり危なそうだったけど』

『次に行くときまで頑張ってほしいですね』

 新太郎は笑いながらスマートフォンをしまった。

 別れ際に抱きしめた芽の温もりを、ふと思い出した。あれから何度かメッセージを交わしていたが、そのことについては二人とも何も言っていない。

 けれど、言葉にしなくても、何かが少し変わったことは分かっていた。


 研究施設からメールが届いたのは、その翌日の夜だった。

 夕食を終え、流しに食器を運んだところで、机の上に置いていたスマートフォンが鳴った。

 差出人はドラゴンパレス製薬研究支援室。

 新太郎は手を拭いてから、メールを開いた。

『先日は事前説明および適性確認にご協力いただき、ありがとうございました』

 続く文章には、研究参加の条件を満たしていること、本人の希望があれば初回の実験に参加できることが記されていた。

「通ったんだ」

 思わず声に出した。

 試験に合格したわけでもないのに、少し嬉しかった。

 添付された日程表には、年明けの候補日がいくつか並んでいた。新太郎は予定を確認し、休日の午前中を選んだ。

 返信を送ると、今度は芽にメッセージを打った。

『研究の参加が決まったよ』

 しばらくして返事が届いた。

『おめでとうございます!』

『ありがとう。でも、おめでたいことなのかな』

『新しい経験ができるんですから、おめでたいですよ』

『そう言われると、そんな気がしてきた』

『初回はいつですか?』

『年が明けてから。休日の午前中』

『そうなんですね。無理しないでくださいね』

『大丈夫。前回の説明も丁寧だったし』

『それならよかったです』

 新太郎は少し迷ってから、もう一通送った。

『それより、年が明けて、お互い実家から戻ったらまた会おうね』

 返事はすぐに来た。

『はい。楽しみにしています』

 画面を閉じても、しばらくその言葉が頭に残っていた。


 年末年始をそれぞれの実家で過ごし、新太郎が自宅へ戻ってから最初の週末がやってきた。

 朝の空気は冷たく、駅へ向かう道にはまだ正月の静けさが残っていた。通り沿いの店の中には、シャッターを下ろしたままのところもある。

 研究施設に着くと、前回と同じ受付で名前を告げた。

 しばらくして、高瀬が姿を見せた。

「新太郎さん、おはようございます。今年もよろしくお願いします」

「あけましておめでとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」

「今日は初回ですので、少し時間を長めに取っています。体調はいかがですか」

「大丈夫です」

「よかったです。では、ご案内しますね」

 高瀬は相変わらず穏やかな口調だった。

 エレベーターで三階に上がり、廊下を進む。前回は会議室へ案内されたが、今日はその奥にある実験室へ向かった。

 扉の横には小さなプレートがあり、「認知実験室」と書かれていた。

 室内は思っていたよりも簡素だった。

 中央に机と椅子があり、机の上にはモニターとキーボード、小さなボタンのついた装置が置かれている。壁際には棚が並び、ケースに入った機器や書類が整然と収められていた。

「もっと大きな機械があるのかと思ってました」

 新太郎が言うと、高瀬は笑った。

「そういう装置を使う研究もありますが、今日はそこまで大がかりなものではありません」

「ちょっと安心しました」

「緊張されてましたか」

「少しだけ」

「最初は皆さんそうですよ」

 高瀬は机の上の機器を指した。

「今日は、いくつかの言葉や音を手がかりに、ご自身の経験を思い出していただきます。その間の反応を記録しますが、難しいことをしていただくわけではありません」

 説明を受けながら、新太郎は椅子に腰を下ろした。

 別の研究員が入ってきた。三十代くらいの女性で、白いシャツの上に薄いグレーのカーディガンを羽織っている。

「本日、実験を担当します佐伯です。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 佐伯は新太郎の手首に小さなセンサーを取りつけ、指先にも別の装置を装着した。

「痛みはありませんが、気になるようでしたら教えてください」

「はい」

「少し冷たいですよ」

 指先に触れた金属は、確かにひんやりとしていた。

 モニターの横には小さなカメラも設置されていた。

「目の動きも記録するんですか?」

「はい。画面のどこをご覧になっているかを確認するためです」

 佐伯は椅子の位置を調整し、新太郎の目線がモニターの中央に来るようにした。

「では、まず練習から始めましょう」


 画面に白い文字が現れた。

『学校』

 その下に、小さく指示が表示されている。

『この言葉から思い浮かぶ、ご自身の経験を一つ思い出してください』

 新太郎は少し考えた。

 最初に浮かんだのは、小学校の教室だった。窓際の席。黒板の前に立つ先生。机の中に押し込んだ教科書。

 けれど、どれも特定の日の出来事というより、いくつもの記憶が重なった風景のようだった。

「何か思い浮かびましたか」

 佐伯の声が聞こえた。

「はい。でも、これって一つの出来事じゃなくてもいいんですか」

「できれば、ある一日の出来事を選んでみてください。急がなくて大丈夫です」

 新太郎は目を閉じた。

 すると、雨の降る日の放課後が浮かんできた。

 教室には数人の児童が残っていて、窓ガラスを雨粒が伝っていた。傘を忘れた新太郎は、誰かが迎えに来るのを待っていた。

 そのとき隣にいたのは、誰だっただろう。

 顔は思い出せない。

 ただ、窓の外が薄暗かったことと、濡れた校庭の色だけは妙にはっきりしていた。

「思い出せました」

「では、ボタンを押してください」

 新太郎がボタンを押すと、画面が切り替わった。

『その出来事を、どの程度はっきりと思い出せましたか』

 数字の並んだ目盛りが表示された。

 新太郎は少し迷ってから、真ん中より一つ上を選んだ。

 続いて、楽しい記憶だったか、悲しい記憶だったか、どのくらい昔のことに感じられるか、といった質問が現れた。

 最後の質問で、指が止まった。

 小学生の頃の出来事なのだから、ずいぶん昔のはずだった。

 それでも、雨粒のついた窓ガラスは、つい最近見たもののように思い出せる。

 新太郎はしばらく考えてから、回答を選んだ。

「ありがとうございます。今の要領で続けてください」

 佐伯の声が聞こえた。


 次の言葉は『旅行』だった。

 家族で出かけた温泉、友人と行った京都、学生時代の短い一人旅。いくつもの場面が頭に浮かんだ。

 その中から一つを選ぶのに、少し時間がかかった。

 『誕生日』では、子供の頃に食べたケーキを思い出した。ろうそくの本数は分からなかったが、皿に描かれた青い模様だけは覚えていた。

 『約束』という言葉が現れたときには、芽の顔が浮かんだ。

 クリスマスの夜、窓辺に置かれた二つの人形。向かい合って座る芽が、何年か経ったらまた来てみたいと言った。

 新太郎は思わず微笑んだ。

 けれど、すぐに別のことが気になった。

 あれは約束だったのだろうか。

 確かに、また来ようとは言った。

 でも、具体的にいつ来るかを決めたわけではない。

 新太郎は少し考え、ボタンを押した。

 画面に表示された質問に答えていく。

 その出来事は、かなり鮮明に思い出せた。

 楽しい記憶かと聞かれれば、迷わず一番高い数字を選べる。

 しかし、どのくらい昔のことに感じられるかという質問では、また少し迷った。

 ついこの前のことなのに、何度も思い返しているせいか、もっと前から知っている風景のようにも感じられた。


 いくつかの課題が終わると、佐伯が声をかけた。

「ここで少し休憩しましょう」

 新太郎は指先の装置を外してもらい、椅子から立ち上がった。

 廊下の先にある小さな休憩スペースには、自動販売機と丸いテーブルが置かれていた。

 紙コップの水を飲みながら、新太郎は窓の外を眺めた。

 冬の空はよく晴れていた。遠くの建物の屋上に、白い雲の影がゆっくり動いている。

 高瀬がやってきた。

「いかがですか」

「思ったより難しいですね」

「どのあたりが?」

「何かを思い出すのは簡単なんですけど、それがいつのことだったかとか、どのくらい昔に感じるかとか。普段、そんなこと考えないので」

「そうですね。日常では、思い出したものを細かく評価することはあまりありませんから」

「それに、思い出せるところと、全然思い出せないところがあるんですね」

「例えば?」

「小学校の教室を思い出したんですけど、雨が降っていたことは覚えてるのに、一緒にいた友達の顔は出てこないんです」

 高瀬は頷いた。

「そういうことは、珍しくありませんよ」

「でも、不思議ですよね。顔の方が大事そうなのに」

「記憶に残るものは、必ずしもその出来事で重要だったものとは限りませんから」

 高瀬は壁の時計を見た。

「そろそろ後半を始めましょうか」

「はい」

 新太郎は紙コップを捨て、実験室へ戻った。


 後半の課題では、ヘッドホンを使った。

 最初に聞こえてきたのは、雨の音だった。

 屋根を叩くような細かい音が続き、ときどき遠くで車の走る音が混じる。

 佐伯の指示に従い、新太郎は雨にまつわる出来事を一つ思い出した。

 朝、突然降り始めた雨。濡れた靴。駅の階段で滑りそうになったこと。

 先ほど思い出した小学校の教室とは違う、比較的新しい出来事だった。

 音が止まり、画面に質問が表示された。

 回答を終えると、次の音が流れた。

 今度は波の音だった。

 寄せては引く波。少し離れたところで、子供たちの声が聞こえる。

 新太郎は自然に、幼い頃に家族で行った海を思い出した。

 砂浜を走ったこと。足の裏が熱かったこと。波打ち際で、何か小さな生き物を見つけたこと。

 母親が少し離れたところから呼んでいたような気もする。

 けれど、声までは思い出せなかった。

 画面が切り替わった。

 今度は、青い海の写真が表示された。

 穏やかな波が砂浜に寄せ、遠くには低い岬が見える。

『先ほど思い出した出来事を、もう一度思い出してください』

 新太郎は写真を眺めた。

 同じ海の記憶のはずだった。

 ところが、今度は砂浜よりも、帰り道の車の中が浮かんできた。

 窓の外を流れる夕方の景色。後部座席に座っていた自分。膝の上には、濡れたタオルがあったような気がする。

 さっきまで、そんなことは少しも思い出していなかった。

 新太郎は首を傾げた。

 タオルは本当に膝の上にあったのだろうか。

 海に行った帰りなら、そういうこともあったかもしれない。

 しかし、実際に見た光景なのか、今になって思い浮かべただけなのか、よく分からなかった。

 画面の隅で、小さな数字が変わっていく。

 新太郎は回答を選び、次の画面へ進んだ。


 実験が終わったとき、新太郎は思わず大きく息を吐いた。

「お疲れさまでした」

 佐伯がヘッドホンを受け取った。

「疲れましたか?」

「少し。でも、面白かったです」

「それはよかったです」

 佐伯は手首と指先のセンサーを外し、皮膚に赤みが残っていないか確かめた。

「気分が悪くなったり、頭が痛くなったりしていませんか」

「大丈夫です」

「ありがとうございます。では、最後に簡単な確認をお願いします」

 新太郎は体調に関する質問に答え、椅子から立ち上がった。

 高瀬が実験室の外で待っていた。

「今日はありがとうございました」

「こちらこそ。いろいろ面白かったです」

「何か気になったことはありますか」

「最後の海のところなんですけど」

「はい」

「同じ出来事を思い出してるはずなのに、音を聞いたときと写真を見たときで、全然違う場面が浮かんだんです」

 高瀬は新太郎の話を聞いていた。

「そういうものなんでしょうか」

「手がかりによって、思い出しやすい部分が変わることはあります」

「じゃあ、どっちも本当の記憶なんですかね」

 高瀬は少し考えてから答えた。

「それは、思い出した内容だけでは判断できませんね」

「なるほど」

「ただ、どちらが正しいかを決める必要はありません。今日の研究では、どんなふうに思い出されたかが大切なので」

 新太郎は頷いた。

 言われてみれば、そのとおりだった。

 自分は昔の出来事を確かめに来たわけではない。

 それでも、帰りの車の中で膝に置いていたタオルのことが、少し気になった。

「今後も、同じような実験をするんですか」

「基本的には、今日のような課題が中心になります。ただ、次回以降は条件を少し変えた課題も予定しています」

「条件を変える?」

「使う手がかりや、思い出していただく順番などですね。詳しいことは、その都度ご説明します」

「分かりました」

 高瀬は手元の端末を確認した。

「次回の日程については、改めてメールでご案内します。今日のところは、これで終了です」

「ありがとうございました」

 新太郎は頭を下げた。


 建物を出ると、思っていたより日が高くなっていた。

 腕時計を見ると、もう昼をかなり過ぎている。

「そんなに経ってたのか」

 実験室では何度も昔の出来事を思い出していたのに、そこに座っていた時間は、妙に短く感じられた。

 新太郎は近くの店で昼食を済ませ、駅へ向かった。

 ホームで電車を待っていると、芽からメッセージが届いた。

『今日は研究の日でしたよね。お疲れさまでした』

『うん。さっき終わったところ』

『どうでしたか?』

『面白かったよ。でも、思ったより頭を使った』

『そうなんですね。今日はゆっくり休んでください』

『ありがとう。そうする』

 少しして、もう一通届いた。

『そういえば、あのお店の前を通ったんです』

 新太郎は画面を見つめた。

『クリスマスの?』

『はい。窓辺の人形、まだありました』

『まだ倒れてなかった?』

『ちゃんと二つ並んでましたよ』

『よかった。次に行くまで持ちそうだね』

『今度は何を食べましょうか』

『コース料理もいいけど、普段のメニューも気になるな』

『じゃあ、今度は普通の日に行きましょう』

『うん。約束ね』

 芽から笑顔の絵文字が届いた。

 新太郎はスマートフォンをしまい、ホームに入ってきた電車に乗った。

 窓際の席が空いていたので、そこに腰を下ろした。

 電車が動き出すと、建物の間から冬の空が見えた。

 新太郎は目を閉じた。

 波の音が、まだ耳の奥に残っているような気がした。

 幼い頃の海。砂浜。帰り道の車。

 それから、クリスマスの夜の小さな洋食店。

 窓辺に並んだ二つの人形と、向かい側で笑っていた芽。

 どちらも自分の中にある記憶なのに、一方はずいぶん遠く、もう一方はつい先日のことだった。

 それでも、目を閉じれば、どちらの風景も同じように浮かんでくる。

 新太郎は目を開けた。

 窓の外では、見慣れた街並みが流れていた。

 次の駅を告げるアナウンスが聞こえた。


 数日後、研究支援室から次回の案内が届いた。

 メールには、前回と同じ施設で行うこと、所要時間はおよそ二時間であることが記されていた。

 その下に、今回とは少し違う注意事項が添えられていた。

『次回は、事前に選んでいただいた個人的な出来事について、複数回の想起課題を行う予定です』

 さらに、別紙の質問票への回答を求める文章が続いていた。

 新太郎は添付ファイルを開いた。

 そこには、これまでの人生で経験した出来事をいくつか挙げ、それぞれについて簡単に記入する欄が設けられていた。

 楽しかった出来事。

 悲しかった出来事。

 今でも鮮明に覚えている出来事。

 そして、もう一つ。

『もう一度経験できるとしたら、戻ってみたいと思う出来事』

 新太郎はその一文を読んで、しばらく手を止めた。

 何を選ぼうか。

 子供の頃の夏休みだろうか。それとも、学生時代に友人たちと出かけた旅行だろうか。

 いくつかの光景が浮かんでは消えた。

 ふと、赤いマフラーを巻いた芽の姿が思い浮かんだ。

 駅前の広場。光に包まれたクリスマスツリー。冷たい夜の空気。

 そして、二人で抱き合ったときの温かさ。

 新太郎は少し笑った。

 あの夜は、まだついこの前のことだ。

 わざわざ戻らなくても、これから一緒に過ごせる時間はいくらでもある。

 そう思いながら、彼は最初の記入欄にカーソルを合わせた。



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