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新浦島太郎  作者: ISM
第6章 乙姫
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22/28

1 思い出すたびに



 火曜日の朝、会社のフロアには、いつもと変わらないキーボードの音が響いていた。

 新太郎はパソコンの画面を見ながら、先週から持ち越していた資料の修正を進めていた。年明けの慌ただしさもようやく落ち着き、仕事は普段のペースに戻りつつあった。

「浦さん、先週の件、先方から返事が来てましたよ」

 隣の席の同僚が声をかけてきた。

「あ、ありがとう。確認するよ」

 メールを開くと、修正を求められていた箇所について、いくつか追加の質問が届いていた。

「また増えたな」

「そうなんですよ。これで最後だと思ったんですけどね」

「まあ、今日中には何とかなるかな」

 新太郎は苦笑しながら、資料を開き直した。

 昼休みには、同僚たちと近くの定食屋へ出かけた。年末年始にどこへ行ったとか、正月に食べすぎたとか、そんな話が続いた。

 新太郎も適当に相槌を打ちながら、焼き魚定食を食べた。

 特別なことは何もない。

 けれど、こうして仕事をしていると、研究施設で過ごした時間が、少し遠い出来事のようにも感じられた。

 午後になって、スマートフォンに通知が届いた。

 研究支援室からのメールだった。

 次回の実験について、予定どおり実施するという確認の連絡だった。

 新太郎はカレンダーを開き、週末の予定をもう一度確かめた。

 先日送った質問票の回答も、受け付けられているらしい。

 あの質問票には、思っていた以上に時間がかかった。

 楽しかった出来事や悲しかった出来事を挙げるだけなら、それほど難しくない。けれど、実際に文章にしようとすると、何を書けばいいのか迷ってしまう。

 結局、子供の頃の夏休みや、学生時代の旅行、最近の出来事などを、思いつくままに記入した。

 最後まで迷ったのは、もう一度経験してみたい出来事だった。

 クリスマスの夜が頭に浮かんだものの、まだ新しい思い出を選ぶのは少し違う気もした。

 それでも、あの夜のことを思い出すと、不思議と気持ちが温かくなる。

 新太郎は結局、その日のことを書いた。

 駅前の広場で芽と待ち合わせ、小さな洋食店で食事をしたこと。そして、帰り道で交わした言葉や、二人で過ごした時間のこと。

 詳しいことまでは書かなかった。

 ただ、もう一度あの夜を過ごせるなら、きっと同じように幸せだろうと思った。

 新太郎はメールを閉じ、再び仕事に戻った。

 画面には、まだ修正の終わっていない資料が開かれていた。


 土曜日の午前、新太郎は研究施設を訪れた。

 前回と同じ受付で手続きを済ませ、案内された待合室でしばらく待っていると、高瀬が姿を見せた。

「浦さん、おはようございます」

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

「こちらこそ。事前の質問票、ありがとうございました」

「結構、悩みました」

「そうでしょうね。普段、自分の思い出をああいう形で整理する機会は、あまりありませんから」

 高瀬は笑いながら、廊下の奥へと案内した。

 今日の部屋は、前回よりも少し小さかった。

 机と椅子が二脚。壁には時計が掛かり、机の上にはタブレット端末と小さなマイクが置かれていた。

「今日は、事前に書いていただいた出来事の中から、一つを選んで詳しく思い出していただきます」

 高瀬は端末を操作した。

「その前に、ひとつ確認しておきたいことがあります。前回の実験では、音や写真によって思い出される場面が変わることを体験していただきましたね」

「はい。あれは面白かったです」

「今日は、外から手がかりを与えるのではなく、ご自身で同じ出来事を何度か思い出していただきます」

「同じことを何度も?」

「そうです。思い出すたびに、どんな部分が鮮明になり、どんな部分が曖昧になるのか。その変化を見ていきます」

 新太郎は頷いた。

 高瀬は画面をこちらに向けた。

「今回は、こちらの出来事を使わせていただこうと思います」

 画面には、新太郎が質問票に記入した文章が表示されていた。

『昨年のクリスマスに、親しい人と食事をした。とても楽しい時間だった。もう一度同じ夜を過ごせるなら、戻ってみたいと思う』

 新太郎は少し照れくさくなった。

「ああ、それですか」

「何か問題がありますか」

「いえ。ただ、ちょっと個人的なことなので」

「もちろん、話したくない部分は省いていただいて構いません。別の出来事に変更することもできます」

 新太郎は少し考えた。

 確かに、芽とのクリスマスを他人に話すのは気恥ずかしい。

 けれど、実験のために選んだのは自分だった。

「大丈夫です」

「ありがとうございます。では、まずその日のことを、思い出せる範囲でお話しください」

 高瀬が録音を開始した。

 新太郎は椅子に座り直し、ゆっくりと話し始めた。

 駅前の広場で待ち合わせをしたこと。

 クリスマスツリーの明かりがきれいだったこと。

 少し歩いて、小さな洋食店に入ったこと。

 店内には温かな照明が灯り、窓際の席に案内された。

 そこまで話したところで、ふと、二つの人形が頭に浮かんだ。

「あ、そうだ。窓辺に、小さな人形が二つ並んでいたんです」

「人形ですか」

「はい。木でできた、赤い帽子をかぶった人形です。片方が少し傾いていて、もう片方にもたれかかっているみたいで」

 新太郎は思わず笑った。

「それを見て、二人で笑ったんです。酔っぱらってるみたいだって」

「印象に残っているんですね」

「そうですね。なぜか、よく覚えています」

 新太郎は続けた。

 料理のこと。食後のコーヒーのこと。何年か経って、またこの店に来てみたいと芽が言ったこと。

 それから、店を出て、冬の街を歩いたこと。

 話しているうちに、あの夜の光景が少しずつ戻ってきた。

 街の明かり。冷たい空気。赤いマフラー。

 そして、芽の笑顔。

 高瀬は途中で口を挟まず、静かに聞いていた。

 ひととおり話し終えると、端末に何かを記録した。

「ありがとうございます。では、少し休憩しましょう」

 新太郎は紙コップの水を飲んだ。

 話してみると、思っていたより多くのことを覚えているものだ。

 もっとも、すべてを話したわけではない。

 あの夜、芽を抱きしめたときのことは、口にしなかった。

 それは、研究のためとはいえ、誰かに説明するようなことではない気がした。


 数分後、高瀬が再び声をかけた。

「では、もう一度、同じ日のことを思い出していただきます」

「今度も最初からですか」

「いいえ。今度は、いちばん印象に残っている場面から始めてください」

 新太郎は目を閉じた。

 真っ先に浮かんだのは、窓辺の人形だった。

 二つ並んだ赤い帽子。片方が隣にもたれかかっている。

 その向こうに、芽が座っている。

 彼女は人形を見ながら笑っていた。

「人形が浮かびました」

「先ほどお話しされたものですね」

「はい」

「その場面を、もう少し詳しく思い出してみてください」

 新太郎は記憶の中の店内を見回した。

 窓の外には、通りを歩く人たちが見える。

 小さな照明がテーブルを照らし、コーヒーカップが置かれている。

 芽は少し身を乗り出して、人形を眺めていた。

「人形は、どちらが傾いていましたか」

 高瀬が尋ねた。

「ええと……左側だったと思います」

「確かですか」

「たぶん」

 新太郎は少し考えた。

 左側だっただろうか。

 今、頭に浮かんでいる光景では、確かに左の人形が傾いている。

 けれど、実際にそうだったという自信はなかった。

「すみません。そこまでは、はっきり覚えていません」

「構いません。今思い出せることを、そのまま教えてください」

 新太郎は頷いた。

 それから、芽が何を言ったのかを思い出そうとした。

 何年か経って、また来てみたい。

 そんなことを言っていたはずだ。

 人形がもっと傾いているかもしれない、とも。

 けれど、どちらが先に言ったのだったか。

 新太郎は少し首を傾げた。

「会話の順番が、よく分からなくなってきました」

「先ほどは、比較的すらすらお話しされていましたね」

「そうなんです。でも、今考えると、あれで合っていたのかなって」

 高瀬は頷いた。

「では、そのことも記録しておきましょう」

 実験はその後も続いた。

 今度は店を出た後のことだけを思い出し、次には食事の場面へ戻った。

 順番を変えるたびに、鮮明になる部分が違った。

 料理の味はよく覚えているのに、どの皿が先に運ばれてきたのかは曖昧だった。

 芽が笑っていたことは確かなのに、何を話して笑ったのかは、思い出すたびに少しずつ違っていた。

 そして、何度目かの回想で、新太郎は奇妙なことに気づいた。

 最初は曖昧だった人形の位置が、今ではすっかりはっきりしている。

 左側の人形が右側にもたれかかっている。

 その光景が、まるで写真を見ているように浮かぶのだ。

 けれど、その鮮明さが、かえって気になった。

「高瀬さん」

「はい」

「さっき、どっちの人形が傾いていたか分からないって言いましたよね」

「ええ」

「今は、左側だったとはっきり思えるんです」

「なるほど」

「でも、それが本当にそうだったのか、それとも何度も思い出しているうちに、そういう形になったのか……」

 高瀬は少し考えてから答えた。

「その違いを、ご自身で感じられたんですね」

「はい。なんだか変な感じです」

「思い出すという行為は、単純に保存された情報を取り出すだけではないと考えられています。思い出した内容が、その後の記憶に影響することもあります」

「じゃあ、何度も思い出しているうちに、間違ったことを覚えてしまう可能性もあるんですか」

「そういう可能性はあります。ただし、今回の結果だけで、浦さんの記憶が実際に変わったと断定することはできません」

「なるほど」

「私たちが記録しているのは、思い出された内容と、そのときの確信の強さです。実際の出来事と照合できる場合には、その違いも調べます」

 新太郎は、もう一度人形を思い浮かべた。

 赤い帽子をかぶった二つの人形。

 どちらが傾いていたかは、もう分からない。

 けれど、二つ並んでいたことだけは、確かな気がした。

 芽からも、あの人形はまだちゃんと並んでいたとメッセージが届いている。

 あの夜の店は、今もあそこにある。

 人形だって、きっとまだ窓辺に置かれているだろう。

 確かめようと思えば、確かめられる。

 そう考えると、少しおかしかった。

 自分は今、たった二つの人形の位置について、こんなに真剣に考えている。

「面白いですね」

 新太郎が言うと、高瀬は顔を上げた。

「何がでしょう」

「こんな小さなことでも、思い出そうとすると、ずいぶん違ってくるんだなって」

「そうですね」

「でも、不思議なんです。人形がどっちに傾いていたかは分からなくなっても、あの夜が楽しかったことは、全然変わらないんですよ」

 高瀬はすぐには答えなかった。

 少しして、穏やかに言った。

「その違いも、私たちが関心を持っていることの一つです」

「違い、ですか」

「出来事の細部をどれほど正確に覚えているかということと、その出来事にどんな感情を持っているかということは、必ずしも一致しません」

 新太郎は頷いた。

 確かに、そうなのかもしれない。

 人形が右に傾いていようと、左に傾いていようと、芽と過ごした夜の意味が変わるわけではない。

 それでも、もし何もかもが違っていたらどうなのだろう。

 そんな考えが一瞬浮かんだが、新太郎はすぐに打ち消した。

 そこまで考える必要はない。

 あの夜は、確かにあったのだから。


 実験が終わると、高瀬は今日の記録を保存した。

「お疲れさまでした。今回は、事前に選んでいただいた出来事を、思い出す順番や視点を変えながら繰り返していただきました」

「思ったより疲れました」

「そうでしょうね。普段は、ここまで意識して記憶をたどることはありませんから」

 高瀬は端末を閉じた。

「次回は、もう少し違った方法を試していただく予定です」

「また記憶を思い出すんですか」

「基本的にはそうですが、今度は思い出すための手がかりを、こちらから提示することになります」

「前回みたいに、写真や音を使うんですか」

「それもあります。ただ、今回はご自身の経験を扱っていますので、少し条件が変わります」

「なるほど」

「詳しい内容については、次回の前にご説明します。参加されるかどうかも、そのときに判断していただいて構いません」

 新太郎は頷いた。

 研究が少しずつ進んでいることは感じられた。

 最初は、単純な記憶の実験だと思っていた。

 それが今では、自分の思い出そのものを調べている。

 けれど、不安よりも好奇心の方が大きかった。

「分かりました。次も楽しみにしています」

「ありがとうございます」

 高瀬は微笑んだ。

「では、またご連絡します」


 施設を出ると、冬の午後の空が広がっていた。

 雲の切れ間から弱い日差しが差し込み、歩道の端に細い影を落としている。

 新太郎は駅へ向かいながら、スマートフォンを取り出した。

 芽に、今日の実験が終わったことを伝えようと思ったのだ。

『今日の実験、終わりました』

 少し考えて、もう一文付け加えた。

『クリスマスのことを、何度も思い出しました』

 送信してから、少し照れくさくなった。

 何もそこまで書かなくてもよかったかもしれない。

 けれど、しばらくして届いた返信を見て、新太郎は微笑んだ。

『そうだったんですね。何を思い出したんですか?』

『あのお店の人形です』

『ああ、あの酔っぱらった子ですね』

 新太郎は思わず笑った。

『どっちの人形が傾いてたか、覚えてます?』

 返事はすぐには来なかった。

 駅の改札を通り、ホームに降りたところで、スマートフォンが震えた。

『そう言われると、どっちだったでしょう』

 続けて、もう一通届いた。

『でも、二つ並んでたのは覚えてます』

 新太郎は画面を見つめた。

 それから、ゆっくりと返信した。

『僕もです』

 少しして、芽から笑顔の絵文字が届いた。

 ホームに電車が入ってきた。

 新太郎はスマートフォンをしまい、空いている座席に腰を下ろした。

 窓の外では、冬の街並みがゆっくりと動き始めていた。

 人形がどちらに傾いていたか。

 そんなことは、今度あの店へ行けば分かるだろう。

 けれど、芽があの人形を見て笑ったことは、確かめるまでもなく覚えている。

 新太郎は目を閉じた。

 窓辺に並ぶ二つの赤い帽子。

 その向こうで笑っている芽。

 あの夜の光景は、何度思い出しても、温かなままだった。



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