2 自動販売機の前で
研究施設のロビーには、昼前の柔らかな光が差し込んでいた。
新太郎は受付で渡された入館証を首にかけ、壁際の時計を見上げた。
約束の時間まで、まだ二十分ほどある。
今日は実験ではなく、次の段階についての説明と、いくつかの手続きが予定されていた。高瀬から届いたメールには、前回までの実験結果を踏まえ、新しい課題について説明したいと書かれていた。
受付の女性に待合室の場所を尋ねると、奥の廊下を進んだところにある休憩スペースを案内された。
何度か訪れている施設だったが、こちらの廊下を歩くのは初めてだった。
大きな窓に沿って、低いソファと丸いテーブルが並んでいる。窓の外には中庭があり、冬枯れの木々の間を細い遊歩道が通っていた。
奥には飲み物の自動販売機が二台置かれている。
新太郎は温かいコーヒーでも買おうと思い、そちらへ向かった。
自動販売機の前には、先客がいた。
濃い紺色のパンツスーツを着た女性だった。
長い黒髪を背中に流し、片手に小さな財布を持っている。背筋の伸びた立ち姿が、どことなく印象に残った。
女性は販売機の画面を見つめたまま、動かない。
新太郎が少し離れて待っていると、女性が振り返った。
「あ、ごめんなさい。お待たせしてます?」
「いえ、大丈夫です」
「よかった。ちょっと迷ってしまって」
女性は困ったように笑った。
「いつも同じものを飲んでいるから、たまには違うものにしようと思ったんですけど」
「そういうときって、結局いつものを選びませんか」
「そうなんです。もう三分くらい悩んでるのに」
新太郎は思わず笑った。
「三分は長いですね」
「でしょう? 会議なら、とっくに結論を出してる時間なのに」
女性はそう言って、もう一度画面を見た。
「何かおすすめ、あります?」
「僕ですか?」
「ええ。こういうの、他人に決めてもらった方が早い気がして」
新太郎は販売機を覗き込んだ。
「甘いのは大丈夫ですか」
「大丈夫です。でも、あまり甘すぎない方がいいかな」
「じゃあ、これとか」
新太郎が指さしたのは、少し濃いめのカフェラテだった。
「なるほど」
女性は画面を見つめた。
「決めました」
そして、迷わずその隣のボタンを押した。
出てきたのは、温かいミルクティーだった。
「あれ?」
新太郎が言うと、女性は悪びれずに笑った。
「人に勧めてもらうと、自分が何を飲みたいか分かることってありません?」
「それなら、僕に聞いた意味がないような」
「ありますよ。とても参考になりました」
女性は真面目な顔で言ったあと、こらえきれないように笑った。
「ごめんなさい。せっかく選んでくださったのに」
「いえ。結果が出たならよかったです」
「そう言っていただけると助かります」
女性はミルクティーを取り出し、少し横へ退いた。
「どうぞ。今度はあなたの番です」
新太郎はコーヒーのボタンを押した。
迷うことなく選んだつもりだったが、取り出し口に缶が落ちてくるのを見て、女性が言った。
「あら、ブラックなんですね」
「はい。いつもこれです」
「冒険しない方なんですね」
「さっきの話を聞いた後だと、ちょっと反論しにくいですね」
「ふふ。そうですね」
女性は楽しそうに笑った。
二人はそのまま、窓際のテーブルへ移った。
女性の方から、ここで少し休んでいこうと誘ったのだった。
新太郎は時計を確かめた。まだ十分以上ある。
「こちらの方ですか?」
女性が尋ねた。
「いえ、今日は用事があって来ました」
「そうなんですね。お仕事の関係?」
「研究に協力しているんです。被験者として」
「ああ、そうでしたか」
女性はミルクティーの缶を両手で包んだ。
「どんな研究なんですか?」
「記憶についての研究です。まだ始めたばかりですけど」
「記憶」
女性はその言葉を小さく繰り返した。
「面白そうですね」
「ええ。思っていたより、ずっと面白いです」
「例えば、どんなところが?」
新太郎は少し考えた。
「自分の記憶って、もっとちゃんとしてると思ってたんです」
「ちゃんとしてる?」
「はい。覚えていることは、だいたいそのとおりに起きたんだろうって。でも、実験をしてみると、案外そうでもないみたいで」
「へえ」
女性は興味深そうに身を乗り出した。
「それで、がっかりしました?」
「いえ。逆ですね」
「逆?」
「なんだか、面白くなってきました」
女性は少し意外そうな顔をした。
「面白く?」
「だって、自分の頭の中なのに、知らないことがあるんですよ。ずっと自分のものだと思ってたのに」
女性は新太郎を見つめた。
それまでの笑顔とは少し違う、静かな表情だった。
「なるほど……」
小さく呟いてから、再び微笑んだ。
「あなた、面白いことをおっしゃるのね」
「そうですか?」
「ええ。普通は、自分の記憶が当てにならないと知ったら、少し不安になりそうですけど」
「まあ、全部が間違ってるわけじゃないでしょうし」
「それはそうですね」
「それに、忘れていたことを思い出すのも、結構楽しいんです」
女性は頷いた。
「昔のことを?」
「それもありますけど、最近のことでも。普段は思い出さないような小さなことが、急に浮かんできたりして」
「例えば?」
「ええと……」
新太郎は少し迷った。
クリスマスの人形の話をしようかと思ったが、気恥ずかしくて他の話をした。
「昔、友達と釣りに行ったときのこととか。魚が釣れたことより、帰りに食べたラーメンの方をよく覚えてたりするんです」
「あら」
女性は笑った。
「それは、よほどおいしいラーメンだったんでしょうね」
「いや、それが味はあまり覚えてないんですよ」
「じゃあ、何を覚えているんですか?」
「友達が、釣れなかったくせに一人前に疲れた顔してたことです」
女性は声を立てて笑った。
「それはいい思い出ですね」
「本人に言ったら怒るかもしれませんけど」
「でも、そういうのってありますよね。大事な出来事そのものより、その周りの何でもないことを覚えている」
「そうなんです」
新太郎は頷いた。
不思議と話しやすい人だった。
初対面の相手と、こんなふうに自然に会話が続くことは、あまり多くない。
女性は自分のことをほとんど話さないのに、こちらばかりが話しているという感じもしなかった。
相槌の打ち方がうまいのかもしれない。
それとも、単に話を聞くのが好きなのだろうか。
「あなたは、思い出したくないことってあります?」
女性がふと尋ねた。
新太郎は少し考えた。
「ありますよ。もちろん」
「例えば?」
「学生の頃の失敗とか。仕事でやらかしたこととか」
「それは、私もあります」
「そうなんですか?」
「ありますよ。たくさん」
女性は少し大げさに頷いた。
「今でも思い出すと、布団をかぶりたくなるようなことが」
「意外ですね」
「どうして?」
「何となく、失敗しなさそうな人に見えるので」
女性は目を丸くした。
それから、少し嬉しそうに笑った。
「まあ。そんなふうに見えます?」
「はい。何でもきちんとできそうな感じがします」
「それは困りましたね」
「困るんですか?」
「ええ。期待されると、失敗できなくなっちゃうでしょう?」
新太郎は笑った。
「でも、さっき自動販売機で三分も悩んでましたよね」
「あら。そこを覚えていらっしゃるの?」
「ついさっきですから」
「記憶の研究に参加している方には、うかつなことができませんね」
女性はそう言って、ミルクティーを一口飲んだ。
「でも、これは正解でした」
「よかったですね」
「ええ。あなたのおかげです」
「僕は別のを勧めましたけど」
「そうでしたっけ?」
女性はとぼけた顔をした。
新太郎はまた笑ってしまった。
そのとき、廊下の向こうから足早に近づいてくる靴音が聞こえた。
「失礼します」
スーツ姿の男性が、テーブルの少し手前で立ち止まった。
手にはタブレット端末を持っている。
女性が顔を上げた。
「どうしました?」
その声は、先ほどまでとは少し違っていた。
柔らかさは残っているが、言葉の輪郭がはっきりしている。
「午後の会議で使用する資料について、確認をお願いしたいのですが」
「変更があったの?」
「はい。解析部門から、追加データが届きまして」
「いつ?」
「今朝です」
「今朝?」
女性は静かに聞き返した。
男性の背筋が少し伸びた。
「昨夜の時点では、まだ確認が取れていなかったようで」
「確認が取れていないものを、会議の資料に入れるつもり?」
「いえ、その判断をお願いしたくて」
女性は少し考えた。
「元の資料はそのままにしてください。追加データは別紙にして、検証状況を明記すること。確定した数字と、まだ確認中の数字を一緒にしないで」
「承知しました」
「それから、解析部門には私から連絡します。会議の開始時間は変えません」
「分かりました」
男性は端末を操作し、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お願いします」
女性がそう答えると、男性は足早に廊下を戻っていった。
新太郎は、少し驚いていた。
先ほどまで自動販売機の前で迷っていた人と、同じ人物とは思えないほどだった。
女性は男性の後ろ姿を見送ってから、新太郎の方を向いた。
そして、少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめんなさいね。仕事になると、どうしてもあんな話し方になっちゃうの」
「いえ、すごいですね」
「何がですか?」
「判断が早いなと思って」
「そうでもないですよ。さっきのミルクティーの方が、ずっと難しかったです」
新太郎は吹き出した。
「それ、まだ言うんですね」
「だって、本当ですもの」
女性は楽しそうに笑った。
そして、少しだけ声を落とした。
「仕事の方は、間違えたら困る人がたくさんいますから」
その言葉には、冗談とは違う響きがあった。
新太郎は何となく頷いた。
「責任のあるお仕事なんですね」
「まあ、それなりに」
女性は軽く肩をすくめた。
「でも、今日は少し息抜きができました」
「僕もです」
「あら、よかった」
女性は嬉しそうに微笑んだ。
新太郎は、その顔をどこかで見たことがあるような気がした。
目元だろうか。
それとも、顔を上げたときの表情だろうか。
初対面のはずなのに、妙な既視感があった。
けれど、思い当たる人はいなかった。
「浦さん」
背後から声がした。
振り返ると、高瀬が廊下から歩いてくるところだった。
「あ、高瀬さん」
「お待たせしました。少し早いですが、準備ができましたので」
「はい」
新太郎は立ち上がりかけた。
そのとき、高瀬が女性に気づいた。
「あ、大冨社長。こちらにいらしたんですね」
新太郎の動きが止まった。
女性は高瀬に向かって頷いた。
「ええ。少し休憩していたところです」
「午後の会議の件で、秘書室がお探しでした」
「さっき聞きました。予定どおりで大丈夫です」
「承知しました」
高瀬は新太郎の方を向いた。
「浦さん、こちらは大冨咲姫社長です。ドラゴンパレス製薬の代表を務めていらっしゃいます」
新太郎は、思わず女性の顔を見た。
大冨咲姫。
その名前には覚えがあった。
以前、芽の社員証を返しに本社を訪れたとき、ロビーに置かれていた雑誌の表紙。
黒いジャケットを着て、腕を組み、真っ直ぐこちらを見つめていた女性。
それから、会社のホームページで見た経営者の写真。
「あ……」
新太郎は思わず声を漏らした。
「思い出しました?」
女性が笑った。
「はい。すみません。どこかで見たことがあると思ってたんですけど」
「そうでしたか」
「雑誌で……」
「あら。どんな雑誌でした?」
「ええと、英語の経済誌だったと思います」
「それなら、きっと怖い顔をしていたでしょう?」
新太郎は返事に困った。
女性はその様子を見て、楽しそうに笑った。
「いいんですよ。ああいう写真って、なぜか笑わせてもらえないんです」
「いえ、そんな……」
「ほら、今も困ってる」
新太郎は苦笑した。
高瀬は二人のやり取りを、少し意外そうに見ていた。
「もう、お話しされていたんですね」
「ええ。飲み物を選ぶのを手伝っていただいたんです」
咲姫が答えた。
「そうでしたか」
「とても頼りになる方でしたよ」
新太郎は慌てて言った。
「いや、僕は何もしてないです」
「そんなことありません。おかげでおいしいミルクティーが飲めました」
高瀬は少し首を傾げたが、それ以上は尋ねなかった。
「浦さん、そろそろ参りましょうか」
「はい」
新太郎は咲姫に向き直った。
「すみません。お名前も知らずに、いろいろ話してしまって」
「どうして謝るんですか?」
「いや、社長さんだとは思わなくて」
「知らなかったから、楽しくお話しできたんじゃありません?」
咲姫はそう言って、少し首を傾けた。
「私も、今日は普通におしゃべりができて楽しかったです」
新太郎は、その言葉に少し救われた気がした。
「こちらこそ、ありがとうございました」
「お名前、浦さんでしたね」
「はい。浦新太郎です」
「新太郎さん」
咲姫は確かめるように繰り返した。
「素敵なお名前ですね」
「あ、ありがとうございます」
「またお会いできるといいですね」
そう言って微笑むと、咲姫は立ち上がった。
高瀬に軽く頷き、廊下の向こうへ歩いていく。
その姿は、先ほどまでの親しみやすい女性とはまた違って見えた。
背筋を伸ばし、迷いのない足取りで歩いていく。
すれ違う社員たちが、自然に道を空けて挨拶をしていた。
咲姫はその一人ひとりに短く言葉を返しながら、角を曲がって見えなくなった。
「驚かれました?」
高瀬が尋ねた。
「ええ。まさか、あの人が社長さんだとは」
「そうでしょうね」
「すごく話しやすい方ですね」
高瀬は少し意外そうな顔をした。
「そうでしたか」
「ええ。自動販売機の前で会って、しばらく話していたんです」
「なるほど……」
高瀬は小さく頷いた。
「珍しいですね。社長が初対面の方と、そんなふうにお話しされるのは」
「そうなんですか?」
「ええ。普段はお忙しい方ですし、仕事中はかなり厳しい方ですから」
「さっき、少しだけ見ました」
「そうでしょう」
高瀬は笑った。
「でも、研究に関しては本当に熱心な方です。私たちも、ずいぶん鍛えられています」
「高瀬さんも大変ですね」
「まあ、慣れましたけどね。特に、ご自身が納得されないことについては、簡単には引き下がりませんから」
「へえ……」
「昔は社長と意見が合わなくて、研究所を辞めた方もいたそうです」
「そうなんですか」
「ええ。まあ、私は直接ご一緒したことがないので、詳しいことは知りませんけどね」
高瀬はそう言って、軽く肩をすくめた。
「それだけ、この研究に真剣なんでしょうね」
新太郎は、先ほど自動販売機の前で笑っていた咲姫の顔を思い浮かべた。
あの人にも、いろいろな顔があるのだろう。
「では、そろそろ参りましょうか」
「はい」
新太郎は高瀬の後に続いた。
案内された部屋では、次回の実験についての説明が行われた。
前回までの課題で得られた記録をもとに、今後は記憶を呼び起こす条件を少しずつ変えていくという。
高瀬は資料を示しながら、一つずつ説明した。
「これまでは、記憶を思い出すときの反応を観察してきました。今後は、その過程に外部から働きかける研究も予定しています」
「外部から、ですか?」
「はい。音や映像などの刺激だけでなく、薬を用いる方法も検討されています」
「薬ですか」
新太郎は資料に目を落とした。
「飲む薬なんですか?」
「方法については、まだ詳しくご案内できる段階ではありません。今後、そうした研究に進む場合には、作用や安全性について改めて説明し、参加の意思を確認することになります」
「なるほど」
「もちろん、今の段階で決めていただく必要はありません」
新太郎は頷いた。
薬を使うとなれば、これまでの実験とは少し違う。
興味はあったが、実際に参加するかどうかは、詳しい説明を聞いてから考えたいと思った。
その後、高瀬は次回の実験で使用する装置や手順について説明を続けた。
新太郎はいくつか質問をし、同意書の内容を確認した。
「それから、今日は健康状態の確認もあります。簡単な問診と採血ですが、お時間は大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
「ありがとうございます。では、こちらへどうぞ」
案内された別の部屋で、白衣の女性に最近の体調や服用している薬について尋ねられた。
手続きが終わるころには、正午を少し過ぎていた。
冬の雲が薄くほどけ、朝よりも明るい空が広がっていた。
駅へ向かう途中、新太郎はポケットの中の振動に気づいた。
芽からのメッセージだった。
『今日は説明の日でしたよね。もう終わりましたか?』
『今終わったところです』
少し考えてから、もう一通送った。
『そういえば、今日、社長さんに会いました』
しばらくして返信が届いた。
『社長って、大冨社長ですか?』
『はい。偶然、自動販売機の前で』
『えっ、そうなんですか?』
『飲み物を選ぶのを手伝ったんですけど、僕が勧めたものは選んでもらえませんでした』
芽から笑っている絵文字が届いた。
『それは残念でしたね』
『でも、面白い方でした』
『そうですね。仕事では厳しい方ですけど』
新太郎は、先ほど社員に指示を出していた咲姫の姿を思い出した。
『それは少し分かる気がします』
そう返信して、スマートフォンをしまった。
駅に着くと、ちょうど電車がホームに入ってくるところだった。
新太郎は空いている座席に腰を下ろし、鞄から今日渡された資料を取り出した。
次の実験では、これまでとは少し違った方法が使われるらしい。
資料を読み進めているうちに、電車はゆっくりと走り始めた。
窓の外には、いつもの街並みが流れていた。




