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新浦島太郎  作者: ISM
第6章 乙姫
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23/31

2 自動販売機の前で



 研究施設のロビーには、昼前の柔らかな光が差し込んでいた。

 新太郎は受付で渡された入館証を首にかけ、壁際の時計を見上げた。

 約束の時間まで、まだ二十分ほどある。

 今日は実験ではなく、次の段階についての説明と、いくつかの手続きが予定されていた。高瀬から届いたメールには、前回までの実験結果を踏まえ、新しい課題について説明したいと書かれていた。

 受付の女性に待合室の場所を尋ねると、奥の廊下を進んだところにある休憩スペースを案内された。

 何度か訪れている施設だったが、こちらの廊下を歩くのは初めてだった。

 大きな窓に沿って、低いソファと丸いテーブルが並んでいる。窓の外には中庭があり、冬枯れの木々の間を細い遊歩道が通っていた。

 奥には飲み物の自動販売機が二台置かれている。

 新太郎は温かいコーヒーでも買おうと思い、そちらへ向かった。

 自動販売機の前には、先客がいた。

 濃い紺色のパンツスーツを着た女性だった。

 長い黒髪を背中に流し、片手に小さな財布を持っている。背筋の伸びた立ち姿が、どことなく印象に残った。

 女性は販売機の画面を見つめたまま、動かない。

 新太郎が少し離れて待っていると、女性が振り返った。

「あ、ごめんなさい。お待たせしてます?」

「いえ、大丈夫です」

「よかった。ちょっと迷ってしまって」

 女性は困ったように笑った。

「いつも同じものを飲んでいるから、たまには違うものにしようと思ったんですけど」

「そういうときって、結局いつものを選びませんか」

「そうなんです。もう三分くらい悩んでるのに」

 新太郎は思わず笑った。

「三分は長いですね」

「でしょう? 会議なら、とっくに結論を出してる時間なのに」

 女性はそう言って、もう一度画面を見た。

「何かおすすめ、あります?」

「僕ですか?」

「ええ。こういうの、他人に決めてもらった方が早い気がして」

 新太郎は販売機を覗き込んだ。

「甘いのは大丈夫ですか」

「大丈夫です。でも、あまり甘すぎない方がいいかな」

「じゃあ、これとか」

 新太郎が指さしたのは、少し濃いめのカフェラテだった。

「なるほど」

 女性は画面を見つめた。

「決めました」

 そして、迷わずその隣のボタンを押した。

 出てきたのは、温かいミルクティーだった。

「あれ?」

 新太郎が言うと、女性は悪びれずに笑った。

「人に勧めてもらうと、自分が何を飲みたいか分かることってありません?」

「それなら、僕に聞いた意味がないような」

「ありますよ。とても参考になりました」

 女性は真面目な顔で言ったあと、こらえきれないように笑った。

「ごめんなさい。せっかく選んでくださったのに」

「いえ。結果が出たならよかったです」

「そう言っていただけると助かります」

 女性はミルクティーを取り出し、少し横へ退いた。

「どうぞ。今度はあなたの番です」

 新太郎はコーヒーのボタンを押した。

 迷うことなく選んだつもりだったが、取り出し口に缶が落ちてくるのを見て、女性が言った。

「あら、ブラックなんですね」

「はい。いつもこれです」

「冒険しない方なんですね」

「さっきの話を聞いた後だと、ちょっと反論しにくいですね」

「ふふ。そうですね」

 女性は楽しそうに笑った。


 二人はそのまま、窓際のテーブルへ移った。

 女性の方から、ここで少し休んでいこうと誘ったのだった。

 新太郎は時計を確かめた。まだ十分以上ある。

「こちらの方ですか?」

 女性が尋ねた。

「いえ、今日は用事があって来ました」

「そうなんですね。お仕事の関係?」

「研究に協力しているんです。被験者として」

「ああ、そうでしたか」

 女性はミルクティーの缶を両手で包んだ。

「どんな研究なんですか?」

「記憶についての研究です。まだ始めたばかりですけど」

「記憶」

 女性はその言葉を小さく繰り返した。

「面白そうですね」

「ええ。思っていたより、ずっと面白いです」

「例えば、どんなところが?」

 新太郎は少し考えた。

「自分の記憶って、もっとちゃんとしてると思ってたんです」

「ちゃんとしてる?」

「はい。覚えていることは、だいたいそのとおりに起きたんだろうって。でも、実験をしてみると、案外そうでもないみたいで」

「へえ」

 女性は興味深そうに身を乗り出した。

「それで、がっかりしました?」

「いえ。逆ですね」

「逆?」

「なんだか、面白くなってきました」

 女性は少し意外そうな顔をした。

「面白く?」

「だって、自分の頭の中なのに、知らないことがあるんですよ。ずっと自分のものだと思ってたのに」

 女性は新太郎を見つめた。

 それまでの笑顔とは少し違う、静かな表情だった。

「なるほど……」

 小さく呟いてから、再び微笑んだ。

「あなた、面白いことをおっしゃるのね」

「そうですか?」

「ええ。普通は、自分の記憶が当てにならないと知ったら、少し不安になりそうですけど」

「まあ、全部が間違ってるわけじゃないでしょうし」

「それはそうですね」

「それに、忘れていたことを思い出すのも、結構楽しいんです」

 女性は頷いた。

「昔のことを?」

「それもありますけど、最近のことでも。普段は思い出さないような小さなことが、急に浮かんできたりして」

「例えば?」

「ええと……」

 新太郎は少し迷った。

 クリスマスの人形の話をしようかと思ったが、気恥ずかしくて他の話をした。

「昔、友達と釣りに行ったときのこととか。魚が釣れたことより、帰りに食べたラーメンの方をよく覚えてたりするんです」

「あら」

 女性は笑った。

「それは、よほどおいしいラーメンだったんでしょうね」

「いや、それが味はあまり覚えてないんですよ」

「じゃあ、何を覚えているんですか?」

「友達が、釣れなかったくせに一人前に疲れた顔してたことです」

 女性は声を立てて笑った。

「それはいい思い出ですね」

「本人に言ったら怒るかもしれませんけど」

「でも、そういうのってありますよね。大事な出来事そのものより、その周りの何でもないことを覚えている」

「そうなんです」

 新太郎は頷いた。

 不思議と話しやすい人だった。

 初対面の相手と、こんなふうに自然に会話が続くことは、あまり多くない。

 女性は自分のことをほとんど話さないのに、こちらばかりが話しているという感じもしなかった。

 相槌の打ち方がうまいのかもしれない。

 それとも、単に話を聞くのが好きなのだろうか。

「あなたは、思い出したくないことってあります?」

 女性がふと尋ねた。

 新太郎は少し考えた。

「ありますよ。もちろん」

「例えば?」

「学生の頃の失敗とか。仕事でやらかしたこととか」

「それは、私もあります」

「そうなんですか?」

「ありますよ。たくさん」

 女性は少し大げさに頷いた。

「今でも思い出すと、布団をかぶりたくなるようなことが」

「意外ですね」

「どうして?」

「何となく、失敗しなさそうな人に見えるので」

 女性は目を丸くした。

 それから、少し嬉しそうに笑った。

「まあ。そんなふうに見えます?」

「はい。何でもきちんとできそうな感じがします」

「それは困りましたね」

「困るんですか?」

「ええ。期待されると、失敗できなくなっちゃうでしょう?」

 新太郎は笑った。

「でも、さっき自動販売機で三分も悩んでましたよね」

「あら。そこを覚えていらっしゃるの?」

「ついさっきですから」

「記憶の研究に参加している方には、うかつなことができませんね」

 女性はそう言って、ミルクティーを一口飲んだ。

「でも、これは正解でした」

「よかったですね」

「ええ。あなたのおかげです」

「僕は別のを勧めましたけど」

「そうでしたっけ?」

 女性はとぼけた顔をした。

 新太郎はまた笑ってしまった。


 そのとき、廊下の向こうから足早に近づいてくる靴音が聞こえた。

「失礼します」

 スーツ姿の男性が、テーブルの少し手前で立ち止まった。

 手にはタブレット端末を持っている。

 女性が顔を上げた。

「どうしました?」

 その声は、先ほどまでとは少し違っていた。

 柔らかさは残っているが、言葉の輪郭がはっきりしている。

「午後の会議で使用する資料について、確認をお願いしたいのですが」

「変更があったの?」

「はい。解析部門から、追加データが届きまして」

「いつ?」

「今朝です」

「今朝?」

 女性は静かに聞き返した。

 男性の背筋が少し伸びた。

「昨夜の時点では、まだ確認が取れていなかったようで」

「確認が取れていないものを、会議の資料に入れるつもり?」

「いえ、その判断をお願いしたくて」

 女性は少し考えた。

「元の資料はそのままにしてください。追加データは別紙にして、検証状況を明記すること。確定した数字と、まだ確認中の数字を一緒にしないで」

「承知しました」

「それから、解析部門には私から連絡します。会議の開始時間は変えません」

「分かりました」

 男性は端末を操作し、軽く頭を下げた。

「ありがとうございます」

「お願いします」

 女性がそう答えると、男性は足早に廊下を戻っていった。

 新太郎は、少し驚いていた。

 先ほどまで自動販売機の前で迷っていた人と、同じ人物とは思えないほどだった。

 女性は男性の後ろ姿を見送ってから、新太郎の方を向いた。

 そして、少し申し訳なさそうに笑った。

「ごめんなさいね。仕事になると、どうしてもあんな話し方になっちゃうの」

「いえ、すごいですね」

「何がですか?」

「判断が早いなと思って」

「そうでもないですよ。さっきのミルクティーの方が、ずっと難しかったです」

 新太郎は吹き出した。

「それ、まだ言うんですね」

「だって、本当ですもの」

 女性は楽しそうに笑った。

 そして、少しだけ声を落とした。

「仕事の方は、間違えたら困る人がたくさんいますから」

 その言葉には、冗談とは違う響きがあった。

 新太郎は何となく頷いた。

「責任のあるお仕事なんですね」

「まあ、それなりに」

 女性は軽く肩をすくめた。

「でも、今日は少し息抜きができました」

「僕もです」

「あら、よかった」

 女性は嬉しそうに微笑んだ。

 新太郎は、その顔をどこかで見たことがあるような気がした。

 目元だろうか。

 それとも、顔を上げたときの表情だろうか。

 初対面のはずなのに、妙な既視感があった。

 けれど、思い当たる人はいなかった。


「浦さん」

 背後から声がした。

 振り返ると、高瀬が廊下から歩いてくるところだった。

「あ、高瀬さん」

「お待たせしました。少し早いですが、準備ができましたので」

「はい」

 新太郎は立ち上がりかけた。

 そのとき、高瀬が女性に気づいた。

「あ、大冨社長。こちらにいらしたんですね」

 新太郎の動きが止まった。

 女性は高瀬に向かって頷いた。

「ええ。少し休憩していたところです」

「午後の会議の件で、秘書室がお探しでした」

「さっき聞きました。予定どおりで大丈夫です」

「承知しました」

 高瀬は新太郎の方を向いた。

「浦さん、こちらは大冨咲姫社長です。ドラゴンパレス製薬の代表を務めていらっしゃいます」

 新太郎は、思わず女性の顔を見た。

 大冨咲姫。

 その名前には覚えがあった。

 以前、芽の社員証を返しに本社を訪れたとき、ロビーに置かれていた雑誌の表紙。

 黒いジャケットを着て、腕を組み、真っ直ぐこちらを見つめていた女性。

 それから、会社のホームページで見た経営者の写真。

「あ……」

 新太郎は思わず声を漏らした。

「思い出しました?」

 女性が笑った。

「はい。すみません。どこかで見たことがあると思ってたんですけど」

「そうでしたか」

「雑誌で……」

「あら。どんな雑誌でした?」

「ええと、英語の経済誌だったと思います」

「それなら、きっと怖い顔をしていたでしょう?」

 新太郎は返事に困った。

 女性はその様子を見て、楽しそうに笑った。

「いいんですよ。ああいう写真って、なぜか笑わせてもらえないんです」

「いえ、そんな……」

「ほら、今も困ってる」

 新太郎は苦笑した。

 高瀬は二人のやり取りを、少し意外そうに見ていた。

「もう、お話しされていたんですね」

「ええ。飲み物を選ぶのを手伝っていただいたんです」

 咲姫が答えた。

「そうでしたか」

「とても頼りになる方でしたよ」

 新太郎は慌てて言った。

「いや、僕は何もしてないです」

「そんなことありません。おかげでおいしいミルクティーが飲めました」

 高瀬は少し首を傾げたが、それ以上は尋ねなかった。

「浦さん、そろそろ参りましょうか」

「はい」

 新太郎は咲姫に向き直った。

「すみません。お名前も知らずに、いろいろ話してしまって」

「どうして謝るんですか?」

「いや、社長さんだとは思わなくて」

「知らなかったから、楽しくお話しできたんじゃありません?」

 咲姫はそう言って、少し首を傾けた。

「私も、今日は普通におしゃべりができて楽しかったです」

 新太郎は、その言葉に少し救われた気がした。

「こちらこそ、ありがとうございました」

「お名前、浦さんでしたね」

「はい。浦新太郎です」

「新太郎さん」

 咲姫は確かめるように繰り返した。

「素敵なお名前ですね」

「あ、ありがとうございます」

「またお会いできるといいですね」

 そう言って微笑むと、咲姫は立ち上がった。

 高瀬に軽く頷き、廊下の向こうへ歩いていく。

 その姿は、先ほどまでの親しみやすい女性とはまた違って見えた。

 背筋を伸ばし、迷いのない足取りで歩いていく。

 すれ違う社員たちが、自然に道を空けて挨拶をしていた。

 咲姫はその一人ひとりに短く言葉を返しながら、角を曲がって見えなくなった。


「驚かれました?」

 高瀬が尋ねた。

「ええ。まさか、あの人が社長さんだとは」

「そうでしょうね」

「すごく話しやすい方ですね」

 高瀬は少し意外そうな顔をした。

「そうでしたか」

「ええ。自動販売機の前で会って、しばらく話していたんです」

「なるほど……」

 高瀬は小さく頷いた。

「珍しいですね。社長が初対面の方と、そんなふうにお話しされるのは」

「そうなんですか?」

「ええ。普段はお忙しい方ですし、仕事中はかなり厳しい方ですから」

「さっき、少しだけ見ました」

「そうでしょう」

 高瀬は笑った。

「でも、研究に関しては本当に熱心な方です。私たちも、ずいぶん鍛えられています」

「高瀬さんも大変ですね」

「まあ、慣れましたけどね。特に、ご自身が納得されないことについては、簡単には引き下がりませんから」

「へえ……」

「昔は社長と意見が合わなくて、研究所を辞めた方もいたそうです」

「そうなんですか」

「ええ。まあ、私は直接ご一緒したことがないので、詳しいことは知りませんけどね」

 高瀬はそう言って、軽く肩をすくめた。

「それだけ、この研究に真剣なんでしょうね」

 新太郎は、先ほど自動販売機の前で笑っていた咲姫の顔を思い浮かべた。

 あの人にも、いろいろな顔があるのだろう。

「では、そろそろ参りましょうか」

「はい」

 新太郎は高瀬の後に続いた。


 案内された部屋では、次回の実験についての説明が行われた。

 前回までの課題で得られた記録をもとに、今後は記憶を呼び起こす条件を少しずつ変えていくという。

 高瀬は資料を示しながら、一つずつ説明した。

「これまでは、記憶を思い出すときの反応を観察してきました。今後は、その過程に外部から働きかける研究も予定しています」

「外部から、ですか?」

「はい。音や映像などの刺激だけでなく、薬を用いる方法も検討されています」

「薬ですか」

 新太郎は資料に目を落とした。

「飲む薬なんですか?」

「方法については、まだ詳しくご案内できる段階ではありません。今後、そうした研究に進む場合には、作用や安全性について改めて説明し、参加の意思を確認することになります」

「なるほど」

「もちろん、今の段階で決めていただく必要はありません」

 新太郎は頷いた。

 薬を使うとなれば、これまでの実験とは少し違う。

 興味はあったが、実際に参加するかどうかは、詳しい説明を聞いてから考えたいと思った。

 その後、高瀬は次回の実験で使用する装置や手順について説明を続けた。

 新太郎はいくつか質問をし、同意書の内容を確認した。

「それから、今日は健康状態の確認もあります。簡単な問診と採血ですが、お時間は大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です」

「ありがとうございます。では、こちらへどうぞ」

 案内された別の部屋で、白衣の女性に最近の体調や服用している薬について尋ねられた。

 手続きが終わるころには、正午を少し過ぎていた。


 冬の雲が薄くほどけ、朝よりも明るい空が広がっていた。

 駅へ向かう途中、新太郎はポケットの中の振動に気づいた。

 芽からのメッセージだった。

『今日は説明の日でしたよね。もう終わりましたか?』

『今終わったところです』

 少し考えてから、もう一通送った。

『そういえば、今日、社長さんに会いました』

 しばらくして返信が届いた。

『社長って、大冨社長ですか?』

『はい。偶然、自動販売機の前で』

『えっ、そうなんですか?』

『飲み物を選ぶのを手伝ったんですけど、僕が勧めたものは選んでもらえませんでした』

 芽から笑っている絵文字が届いた。

『それは残念でしたね』

『でも、面白い方でした』

『そうですね。仕事では厳しい方ですけど』

 新太郎は、先ほど社員に指示を出していた咲姫の姿を思い出した。

『それは少し分かる気がします』

 そう返信して、スマートフォンをしまった。

 駅に着くと、ちょうど電車がホームに入ってくるところだった。

 新太郎は空いている座席に腰を下ろし、鞄から今日渡された資料を取り出した。

 次の実験では、これまでとは少し違った方法が使われるらしい。

 資料を読み進めているうちに、電車はゆっくりと走り始めた。

 窓の外には、いつもの街並みが流れていた。



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