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新浦島太郎  作者: ISM
第6章 乙姫
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3 暮らしの余白



 金曜日の昼休み、休憩室には弁当の匂いが漂っていた。

 新太郎は窓際の席に座り、買ってきた弁当の蓋を開けた。向かいでは三宅が、スマートフォンを片手におにぎりを頬張っている。

「浦さん、明日は休みですよね。何か予定あるんですか?」

「久しぶりに釣りに行こうと思ってる」

「へえ、こんな寒いのに?」

「冬でも釣りはできるよ」

「そりゃそうでしょうけど。僕だったら家で寝てますね」

 三宅はそう言って、味噌汁の蓋を開けた。

 壁に掛けられたテレビでは、昼のニュースが流れていた。

 全国の出来事を伝えていた画面が切り替わり、緑に囲まれた大きな施設が映し出された。

『続いては、地域の話題です』

 新太郎は弁当の卵焼きを口に運んだ。

『障害のある方々の生活や社会参加を支えるこちらの施設では、通所から入所、就労支援まで、幅広い活動が行われています。その運営を長年にわたって支えているのが、ドラゴンパレス製薬の社長、大冨咲姫さんです』

 聞き覚えのある名前に、新太郎は箸を止めた。

「あれ、この人……」

「どうしたんですか?」

 三宅が顔を上げた。

「この前、ちょっと話した人なんだ」

「知り合いですか?」

「いや、知り合いってほどじゃないんだけど」

 三宅もテレビに目を向けた。

 画面には、車椅子の男性の傍らに腰を下ろす咲姫の姿があった。

 男性はどこか遠くを見つめ、何かを言いかけては口を閉じていた。

 咲姫は急かすこともなく、その横顔を見守っていた。やがて男性の手にそっと自分の手を重ね、穏やかに微笑んだ。

『大冨さんは十年以上にわたり、施設の設備や運営を支援し、利用者たちとの交流も続けています』

 新太郎は、自動販売機の前で会ったときのことを思い出した。

 あのときも、彼女は初対面の自分に気さくに話しかけてきた。

 けれど画面の中の咲姫には、あのときとは少し違う落ち着きがあった。

「へえ……こういうこともしてるんだ」

 新太郎が呟くと、三宅が感心したように言った。

「すごい人ですね。浦さん、こんな人と知り合いなんですか?」

「だから、ちょっと話しただけだって」

「何を話したんです?」

「自動販売機で、何を買おうか迷ってたから」

「えっ、それだけですか?」

「それだけ」

「製薬会社の社長と、自販機の前で飲み物の話ですか」

 三宅は呆れたように笑った。

「浦さんらしいというか、何というか」

「どういう意味だよ」

「いや、別に」

 三宅は笑いながら、残っていたおにぎりを食べた。

 テレビでは、ニュースが終わり、天気予報が始まっていた。

「でも、いいですよね。こういう活動って」

 三宅が言った。

「うちの会社も、こういう社会に感謝されるようなこと、やればいいのにね」

「そうだね」

「浦さん、今度の会議で提案してみてくださいよ」

「なんで僕が」

「僕が言っても、相手にされないですって」

「僕だって同じだよ」

 三宅は笑った。

『明日の関東地方は、おおむね晴れるでしょう。ただし、沿岸部では風が強まるところもありそうです』

「そういえば浦さん、明日釣りに行くって言ってましたよね?」

「うん」

「風、強いみたいですよ」

「そうだね。ちょっと気になるな」

「無理しないでくださいよ」

「分かってるよ」

 三宅は時計を見た。

「そろそろ戻りますか」

「うん」

 新太郎も弁当の蓋を閉じた。

 午後は、午前中に届いた資料の確認と、来週の打ち合わせの準備が残っていた。

 席に戻ると、机の上には新しい書類が置かれていた。新太郎は上着を椅子の背に掛け、パソコンの画面を開いた。

 何度か電話が鳴り、資料の数字を確かめ、修正したファイルを送り直す。

 夕方になっても、仕事は片づかなかった。

 周囲の席から一人、また一人と人がいなくなっていく。

 新太郎は机の上に広げた書類を見比べながら、数字の合わない箇所を探していた。

 ようやく原因が分かったころには、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 修正した資料を保存し、明日の朝に確認するつもりだった仕事がないか、もう一度確かめる。

 時計は八時を少し回っていた。

「お疲れさまでした」

 まだ残っている社員に声を掛けて、会社を出た。

 冷たい風が頬に当たる。駅へ向かう人の流れは、昼間に比べてずいぶん少なくなっていた。

 歩きながらスマートフォンを取り出すと、亮介からメッセージが届いていた。

『明日、予定どおりでいいか?』

『大丈夫。よろしく』

『寒そうだから、防寒しっかりな』

『分かってるよ』

 短く返信して、スマートフォンをポケットにしまった。

 駅へ向かう途中、新太郎は少し遠回りをして、釣具店に立ち寄った。

 店の扉を開けると、小さな電子音が鳴った。

 壁には釣り竿が並び、棚には色とりどりの仕掛けが吊るされている。店内には数人の客がいて、それぞれ目当ての道具を探していた。

 新太郎は手袋の並んだ棚の前で足を止めた。

 今使っているものも、まだ使えないわけではない。ただ、指先の生地が少し薄くなっていた。

 何種類か手に取ってみたが、結局、元の場所に戻した。

 代わりに、いつも使っている仕掛けをいくつか買い足すことにした。

 レジへ向かう途中、入口近くに貼られた釣果の写真が目に入った。

 冬の海を背景に、大きな魚を抱えた男が笑っている。

 新太郎はしばらく写真を眺めた。

 明日は何か釣れるだろうか。

 亮介は、釣れなくても何だかんだ言いながら一日付き合うだろう。そう思うと、少し笑みがこぼれた。

 店を出るころには、夜の空気がいっそう冷たくなっていた。

 街灯の下を歩きながら、新太郎は明日の朝のことを考えた。

 冬の海は、きっと寒い。

 それでも、久しぶりに竿を出すのが楽しみだった。

 


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