3 暮らしの余白
金曜日の昼休み、休憩室には弁当の匂いが漂っていた。
新太郎は窓際の席に座り、買ってきた弁当の蓋を開けた。向かいでは三宅が、スマートフォンを片手におにぎりを頬張っている。
「浦さん、明日は休みですよね。何か予定あるんですか?」
「久しぶりに釣りに行こうと思ってる」
「へえ、こんな寒いのに?」
「冬でも釣りはできるよ」
「そりゃそうでしょうけど。僕だったら家で寝てますね」
三宅はそう言って、味噌汁の蓋を開けた。
壁に掛けられたテレビでは、昼のニュースが流れていた。
全国の出来事を伝えていた画面が切り替わり、緑に囲まれた大きな施設が映し出された。
『続いては、地域の話題です』
新太郎は弁当の卵焼きを口に運んだ。
『障害のある方々の生活や社会参加を支えるこちらの施設では、通所から入所、就労支援まで、幅広い活動が行われています。その運営を長年にわたって支えているのが、ドラゴンパレス製薬の社長、大冨咲姫さんです』
聞き覚えのある名前に、新太郎は箸を止めた。
「あれ、この人……」
「どうしたんですか?」
三宅が顔を上げた。
「この前、ちょっと話した人なんだ」
「知り合いですか?」
「いや、知り合いってほどじゃないんだけど」
三宅もテレビに目を向けた。
画面には、車椅子の男性の傍らに腰を下ろす咲姫の姿があった。
男性はどこか遠くを見つめ、何かを言いかけては口を閉じていた。
咲姫は急かすこともなく、その横顔を見守っていた。やがて男性の手にそっと自分の手を重ね、穏やかに微笑んだ。
『大冨さんは十年以上にわたり、施設の設備や運営を支援し、利用者たちとの交流も続けています』
新太郎は、自動販売機の前で会ったときのことを思い出した。
あのときも、彼女は初対面の自分に気さくに話しかけてきた。
けれど画面の中の咲姫には、あのときとは少し違う落ち着きがあった。
「へえ……こういうこともしてるんだ」
新太郎が呟くと、三宅が感心したように言った。
「すごい人ですね。浦さん、こんな人と知り合いなんですか?」
「だから、ちょっと話しただけだって」
「何を話したんです?」
「自動販売機で、何を買おうか迷ってたから」
「えっ、それだけですか?」
「それだけ」
「製薬会社の社長と、自販機の前で飲み物の話ですか」
三宅は呆れたように笑った。
「浦さんらしいというか、何というか」
「どういう意味だよ」
「いや、別に」
三宅は笑いながら、残っていたおにぎりを食べた。
テレビでは、ニュースが終わり、天気予報が始まっていた。
「でも、いいですよね。こういう活動って」
三宅が言った。
「うちの会社も、こういう社会に感謝されるようなこと、やればいいのにね」
「そうだね」
「浦さん、今度の会議で提案してみてくださいよ」
「なんで僕が」
「僕が言っても、相手にされないですって」
「僕だって同じだよ」
三宅は笑った。
『明日の関東地方は、おおむね晴れるでしょう。ただし、沿岸部では風が強まるところもありそうです』
「そういえば浦さん、明日釣りに行くって言ってましたよね?」
「うん」
「風、強いみたいですよ」
「そうだね。ちょっと気になるな」
「無理しないでくださいよ」
「分かってるよ」
三宅は時計を見た。
「そろそろ戻りますか」
「うん」
新太郎も弁当の蓋を閉じた。
午後は、午前中に届いた資料の確認と、来週の打ち合わせの準備が残っていた。
席に戻ると、机の上には新しい書類が置かれていた。新太郎は上着を椅子の背に掛け、パソコンの画面を開いた。
何度か電話が鳴り、資料の数字を確かめ、修正したファイルを送り直す。
夕方になっても、仕事は片づかなかった。
周囲の席から一人、また一人と人がいなくなっていく。
新太郎は机の上に広げた書類を見比べながら、数字の合わない箇所を探していた。
ようやく原因が分かったころには、窓の外はすっかり暗くなっていた。
修正した資料を保存し、明日の朝に確認するつもりだった仕事がないか、もう一度確かめる。
時計は八時を少し回っていた。
「お疲れさまでした」
まだ残っている社員に声を掛けて、会社を出た。
冷たい風が頬に当たる。駅へ向かう人の流れは、昼間に比べてずいぶん少なくなっていた。
歩きながらスマートフォンを取り出すと、亮介からメッセージが届いていた。
『明日、予定どおりでいいか?』
『大丈夫。よろしく』
『寒そうだから、防寒しっかりな』
『分かってるよ』
短く返信して、スマートフォンをポケットにしまった。
駅へ向かう途中、新太郎は少し遠回りをして、釣具店に立ち寄った。
店の扉を開けると、小さな電子音が鳴った。
壁には釣り竿が並び、棚には色とりどりの仕掛けが吊るされている。店内には数人の客がいて、それぞれ目当ての道具を探していた。
新太郎は手袋の並んだ棚の前で足を止めた。
今使っているものも、まだ使えないわけではない。ただ、指先の生地が少し薄くなっていた。
何種類か手に取ってみたが、結局、元の場所に戻した。
代わりに、いつも使っている仕掛けをいくつか買い足すことにした。
レジへ向かう途中、入口近くに貼られた釣果の写真が目に入った。
冬の海を背景に、大きな魚を抱えた男が笑っている。
新太郎はしばらく写真を眺めた。
明日は何か釣れるだろうか。
亮介は、釣れなくても何だかんだ言いながら一日付き合うだろう。そう思うと、少し笑みがこぼれた。
店を出るころには、夜の空気がいっそう冷たくなっていた。
街灯の下を歩きながら、新太郎は明日の朝のことを考えた。
冬の海は、きっと寒い。
それでも、久しぶりに竿を出すのが楽しみだった。




