↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新浦島太郎  作者: ISM
第6章 乙姫
PR
25/27

4 幸福のかたち



 土曜日の朝、海沿いの道を走る車の窓から、冬の朝日が差し込んでいた。

 空はよく晴れていたが、風は冷たい。遠くに見える海は、夏よりも色が濃く感じられた。

「今日は渋いかもしれないな」

 運転席の亮介が言った。

「そうなのか?」

「昨日から風が強いんだよ。まあ、行ってみないと分からないけどな」

「釣れなかったら、早めに飯でも食おう」

「お前、まだ着いてもいないのに諦めるなよ」

 亮介は笑った。

 久しぶりの釣りだった。

 最近は仕事や研究、それに芽と過ごす時間も増えて、以前ほど頻繁には海へ出かけなくなっていた。

 亮介とはときどき連絡を取り合っていたが、こうして朝から二人で釣りに出かけるのは久しぶりだった。

 駐車場に着くと、二人は道具を持って堤防へ向かった。

 海から吹きつける風に、新太郎は思わず首をすくめた。

「寒いな」

「だから言っただろ」

「もう少し暖かい日でもよかったんじゃないか?」

「冬の釣りってのは、こういうもんだ」

「お前はいつもそう言うよな」

「釣れたら寒さなんか忘れるって」

「釣れなかったら?」

「もっと寒くなる」

 新太郎は笑った。

「じゃあ、今日は覚悟しとくよ」

 二人は少し間隔を空けて竿を出した。

 波は穏やかだったが、堤防の先では、ときおり白い飛沫が上がっていた。

 指先が冷えて、糸を結ぶのに少し手間取った。

「手、動かねえだろ」

 亮介が言った。

「寒いからな」

「だからもっと早く来て、体動かしとけばよかったんだよ」

「早く来たら、もっと寒かっただけだろ」

「それもそうか」

 二人は笑った。


 しばらくの間、釣り竿の先を眺めながら、とりとめのない話をした。

 亮介の仕事のこと。最近値上がりした釣り道具のこと。以前よく通っていた釣具店が、営業時間を短くしたこと。

 話題が途切れても、別に気まずくはならなかった。

 波の音と、遠くを走る船のエンジン音が聞こえている。

 亮介が缶コーヒーを開けた。

「そういや、お前」

「ん?」

「クリスマス、どうだったんだよ」

 新太郎は竿の先を見たまま答えた。

「どうって?」

「とぼけんなよ。芽ちゃんと会うって言ってただろ」

「ああ」

「で?」

「楽しかったよ」

「それだけ?」

「それだけって、何を聞きたいんだよ」

 亮介はにやりと笑った。

「いやあ、別に?」

「その顔、絶対何か聞きたいだろ」

「そりゃあな。お前が女の子とクリスマス過ごすなんて、そうそうないだろ」

「悪かったな」

「悪いとは言ってねえよ。むしろ喜んでるんだ」

 亮介は竿を持ち直した。

「で、どこ行った?」

「食事したり、街を歩いたり」

「普通だな」

「普通でいいだろ」

「まあ、そうだな」

 亮介は少し間を置いた。

「で、キスぐらいしたのか?」

「おい」

「何だよ」

「朝から何聞いてんだ」

「朝だからいいんだろ。夜だったらもっと突っ込んで聞くぞ」

 新太郎は思わず笑った。

「お前、ほんと変わらないな」

「お前もな。昔からそうやって肝心なことは教えねえんだから」

「釣りに集中しろよ」

「お、否定しないんだな」

「もういいって」

「はいはい」

 亮介は笑いながら海へ向き直った。

 新太郎も竿の先に目を戻した。

 けれど、少しだけ頬が熱かった。

 クリスマスの夜、芽を抱きしめたときのことが、ふいに浮かんだ。

 腕の中に感じた温もりと、頬に触れた芽のマフラーの柔らかさ。

 あのとき、自分がどんな顔をしていたのかは分からない。

 亮介に話すつもりはなかった。

 あの時間は、二人だけのものにしておきたかった。


 やがて亮介の竿が小さく曲がった。

「おっ」

 亮介が素早く竿を上げる。

「来たか?」

「いや、軽いな」

 上がってきたのは、小さなカサゴだった。

「かわいいのが来たな」

 新太郎が言った。

「お前に似てるだろ」

「どこがだよ」

「目がでかいところ」

「似てないだろ」

 亮介は笑いながら針を外し、魚を海へ戻した。

「もう少し大きくなってから来いよ」

 魚は一瞬、海面近くで体をひるがえし、すぐに見えなくなった。

 新太郎はその様子を眺めていた。

「そういや、研究の方はどうなんだ?」

 亮介が何気なく尋ねた。

「ああ、続けてるよ」

「まだ記憶のやつ?」

「うん」

「何か分かったのか?」

「自分の記憶が、思ったより曖昧だってことぐらいかな」

「そりゃ、誰でもそうだろ」

「まあな」

 亮介は缶コーヒーを一口飲んだ。

「俺なんか、昨日の晩飯も怪しいぞ」

「それは単に忘れっぽいだけじゃないか」

「失礼な。ちゃんと覚えてるわ」

「何食べた?」

「……カレー」

「今、考えただろ」

「考えてねえよ」

「本当か?」

「たぶん」

 二人は笑った。

 亮介は少し考えてから言った。

「でもさ、昔のことって、案外覚えてるよな」

「そうか?」

「ほら、前に二人で夜釣り行ったとき。お前、靴びしょ濡れになっただろ」

「ああ、あれか」

「帰りの車、ずっと裸足だったじゃん」

「そんなことあったな」

「俺、あれは一生忘れねえと思う」

「忘れてくれよ」

 新太郎は笑った。

 亮介の話を聞いているうちに、当時のことが少しずつ浮かんできた。

 暗い堤防。濡れた靴下。車の暖房を足元に向けたこと。

 確かに、そんな夜があった。

「でも、何年前だったっけ」

 新太郎が尋ねた。

「三年ぐらい前じゃねえか?」

「もっと前じゃないか?」

「そうだっけ」

「五年ぐらい前の気がする」

「じゃあ五年だ」

「適当だな」

「年数なんかどうでもいいだろ。お前が裸足で帰ったのは事実なんだから」

 亮介はそう言って笑った。

 新太郎も笑った。

 研究室では、思い出したことが正確かどうかを気にしていた。

 けれど、亮介と話していると、そんなことはどうでもよくなる。

 何年前だったか分からなくても、二人で笑える出来事がある。

 それで十分な気がした。


 昼前になると、風が少し強くなった。

 釣果は結局、二人合わせても大したことはなかった。

「今日は撤収だな」

 亮介が言った。

「そうだな。寒くなってきた」

「腹減ったし」

「そっちが本音だろ」

「当たり前だろ。釣れない釣りより、うまい飯だ」

 二人は道具を片づけ、駐車場へ戻った。

 亮介が近くの食堂へ行こうと言い出した。

 以前から何度か入ったことのある、港の近くの小さな店だった。

 昼時には漁師らしい客や、作業着姿の男たちで賑わう。

 店に入ると、ちょうど窓際の席が空いていた。

 二人は日替わり定食を注文した。

 出てきたのは、焼き魚と小鉢、味噌汁のついた定食だった。

「釣れなかった日に魚食うって、何か負けた気がするな」

 新太郎が言った。

「何言ってんだ。釣れなかったから食うんだろ」

「そういうもんか」

「そういうもんだ」

 亮介は迷いなく箸をつけた。

 新太郎も焼き魚をほぐした。

 脂が乗っていて、思った以上においしかった。

「うまいな」

「だろ。ここは外れない」

 亮介は満足そうに頷いた。

 しばらく食べ進めてから、ふと顔を上げた。

「で、芽ちゃんとは順調なんだな」

「まあ、うん」

「よかったじゃん」

 今度は、からかうような口調ではなかった。

 新太郎は亮介を見た。

「何だよ、急に」

「いや、別に」

 亮介は味噌汁を飲んだ。

「お前、前より楽しそうだからさ」

「そうか?」

「そうだよ」

 亮介はあっさりと言った。

「最近、誘っても断られること増えたしな」

「それは悪かった」

「冗談だよ。毎週釣りに来いなんて言わねえって」

 亮介は笑った。

「まあ、大事にしろよ」

 新太郎は少し照れくさくなって、焼き魚に目を戻した。

「分かってるよ」

「ならいい」

 亮介もそれ以上は言わなかった。


 食事を終え、店を出ると、海から吹く風が一段と冷たく感じられた。

 駐車場まで歩く途中、亮介が言った。

「また来月ぐらいに行くか」

「いいな。もう少し暖かくなってからでもいいけど」

「そんなこと言ってると春になるぞ」

「春でいいじゃないか」

「お前、釣り人としてどうなんだよ」

「今日は釣り人らしい結果だっただろ」

「確かにな」

 二人は笑った。

 帰りの車では、亮介がラジオをつけた。

 軽快な音楽に続いて、週末の交通情報が流れてきた。

 新太郎は窓の外を眺めながら、少し眠気を感じていた。

 朝が早かったせいだろう。

 亮介はときどきラジオに合わせて鼻歌を歌い、思い出したように釣りの話をした。

 新太郎は適当に相槌を打ちながら、流れていく街並みを眺めていた。


 街へ戻るころには、午後の日差しが少し傾き始めていた。

 新太郎は信号待ちの間にスマートフォンを確認した。

 芽から、夕食の買い物についてのメッセージが届いていた。

『今日は白菜が安かったので、鍋にしようかと思ってます』

『いいですね。何か買っていきましょうか?』

『じゃあ、豆腐をお願いします』

『了解です』

 新太郎はスマートフォンをしまった。

「亮介、悪いけど、駅の近くで降ろしてくれるか」

「いいけど。何かあるのか?」

「ちょっと買い物」

「そうか」

 亮介はそれ以上聞かなかった。

 駅前のロータリーで車を停めると、新太郎は礼を言って降りた。

「今日はありがとう」

「おう。また行こうぜ」

「今度はもう少し暖かい日にしよう」

「考えとく」

 亮介は笑って、車を走らせた。

 新太郎はその後ろ姿を見送り、駅前のスーパーへ向かった。

 自動ドアが開くと、店内の暖かな空気が流れてきた。

 亮介と海で過ごす時間と同じく、芽と食卓を囲む夜も、いつの間にか新太郎の日常の一部になっていた。

 そんな日々が、少しずつ積み重なっていく。

 新太郎は豆腐を手に取った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。