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新浦島太郎  作者: ISM
第6章 乙姫
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26/28

5 もう一度の一日



 実験室の扉が開くと、廊下の明るさに新太郎は少し目を細めた。

「お疲れさまでした」

 高瀬が後ろから声をかけた。

「今日は、ずいぶん早かったですね」

「そうですね。予定していたところまで、順調に進みましたので」

 新太郎は腕時計を見た。

 施設に入ってから、一時間ほどしか経っていなかった。

「何だか、あっという間でした」

「今日は短い課題をいくつか組み合わせましたから」

「そうなんですね」

「次回は、また少し違った内容になる予定です」

「今度は何をするんですか?」

「詳しいことは、改めてご説明します」

 高瀬は手元のファイルを持ち直した。

「浦さん、最近は研究に参加されることにも慣れてきましたね」

「そうですね。最初は何をするのか、よく分からなかったですけど」

「今はいかがですか?」

「次は何をするんだろうって、少し楽しみになってきました」

「それは何よりです」

 高瀬は微笑んだ。

「では、受付までご案内します」

 二人は廊下を歩き始めた。

 窓の向こうには、冬の薄い日差しが差し込んでいた。中庭の木々はすっかり葉を落とし、枝の間から向かい側の建物が見えている。

 そのとき、高瀬が廊下の先に目を向けた。

「ああ、社長」

 新太郎も顔を上げた。


 少し先のガラス張りの会議室の前に、数人の研究員が立っていた。

 その中心にいたのは、大冨咲姫だった。

 濃い色のジャケットに、細身のパンツ。長い髪を肩の後ろに流し、手元の資料に目を落としている。

「その数字、昨日の報告と合っていませんね」

 咲姫の声が、静かな廊下によく通った。

「はい。再計算したところ、一部に修正が必要でして」

「修正が必要なのは分かりました。私が聞いているのは、どちらを基準に次の判断をするのか、ということです」

 研究員は手元の資料をめくった。

「確認して、改めてご報告します」

「お願いします。この数字で、次の工程を決めるわけにはいきませんから」

 口調は落ち着いていたが、言葉には曖昧さがなかった。

 研究員が頷くと、咲姫は資料を返した。

「それでは、午後までに」

 そこで、こちらに気づいた。

「あら」

 咲姫の表情が、ふっと和らいだ。

「新太郎さん」

「こんにちは」

「またお会いしましたね」

 咲姫は高瀬にも軽く会釈した。

「今日は実験の日でしたか?」

「はい。ちょうど終わったところです」

「そうでしたか。お疲れさま」

 咲姫は新太郎の顔を見て、小さく笑った。

「今日は、飲み物を選ぶのを手伝っていただかなくても大丈夫そうですね」

「もう決めたんですか?」

「ええ。今日は迷わずお茶にしました」

「ミルクティーじゃなくて?」

「残念ながら。あの日以来、少しだけ自信がついたんです」

「飲み物を選ぶ自信ですか?」

「そう。小さな進歩でしょう?」

 新太郎は笑った。

 先ほどまで研究員に指示を出していた人と、同じ人物とは思えないほど柔らかな口調だった。

「高瀬さん、少しだけ新太郎さんをお借りしてもいいかしら」

「もちろんです」

 高瀬は頷いた。

「私は先に記録を確認してまいります。浦さん、帰りの手続きは受付でお願いします」

「分かりました」

 高瀬が廊下の奥へ歩いていくと、咲姫は窓の方へ目を向けた。

「少し歩きませんか。私もちょうど、部屋に戻るところなので」

「はい」

 二人は並んで歩き始めた。


「研究には、もう慣れました?」

 咲姫が尋ねた。

「そうですね。最初ほど緊張しなくなりました」

「それはよかった」

「でも、毎回違うことをするので、何が分かるのか不思議です」

「そうでしょうね」

「今日は、楽しかったことをいくつか思い出しました」

「あら、面白い課題だったのね」

咲姫は興味深そうに新太郎を見た。

「思い出すだけなら、ですけど」

「難しかった?」

「一番楽しかったのはいつかって考えたら、全然決められなくて」

「ふふ。分かる気がします」

「社長でも迷いますか?」

「もちろん」

 咲姫は少し大げさに頷いた。

「私なんて、昼食のメニューでも迷うことがありますから」

「それは飲み物のときに分かりました」

「そのことは、忘れていただけません?」

「忘れませんよ。三分ぐらい迷ってましたから」

「そんなに長かったかしら」

「たぶん」

 咲姫は楽しそうに笑った。

「では、少し意地悪な質問をしてもいい?」

「何でしょう」

「もし、一日だけ、好きな日をもう一度過ごせるとしたら、いつを選びます?」

「もう一度、ですか?」

「ええ。子供のころでも、昨日でも。いつでもいいの」

 新太郎は少し考えた。

「それは、難しいですね」

「でしょう?」

「同じ一日を、もう一回過ごすんですよね」

「そう。朝起きてから夜眠るまで、もう一度」

「前と同じことが起こるんですか?」

「どうかしら。そこは新太郎さんの想像にお任せします」

「それだと、余計に難しいですよ」

「質問した私が、ずるいみたいね」

 咲姫は笑った。

 新太郎は窓の外を見た。

 中庭には細い遊歩道が延び、冬枯れの植え込みの向こうに、小さなベンチが置かれている。

「子供のころの夏休みとか、いいかもしれません」

「夏休み?」

「ええ。朝から外で遊んで、夕方まで帰らなかったころです」

「楽しそうね」

「でも、今考えると、何がそんなに楽しかったのか分からないんですよね」

「それでも、もう一度過ごしてみたい?」

「そうですね……」

 新太郎は少し考えてから答えた。

「たぶん、あのころの自分に戻ってみたいんだと思います」

 咲姫は黙って頷いた。

「今の自分のまま同じことをしても、きっとあんなに楽しくないでしょうから」

「そうかもしれませんね」

 咲姫は窓の外へ目を向けた。

「同じ場所で、同じ人と、同じことをしても、同じ幸せになるとは限らない」

「ええ」

「不思議ね」

 その声が少し静かになったので、新太郎は咲姫を見た。

 けれど、咲姫はすぐに微笑んだ。

「では、もう一つだけ」

「まだあるんですか?」

「これで最後。約束します」

「どうぞ」

「その楽しかった一日を、何度でも過ごせるとしたら?」

「何度でも?」

「ええ。十回でも、百回でも」

 新太郎は思わず笑った。

「それは、さすがに飽きませんか?」

「あら、そう?」

「最初は楽しいと思いますけど」

「百回目には?」

「もう、次の日に行きたくなるんじゃないですかね」

 咲姫は声を立てて笑った。

「なるほど。次の日に」

「だって、ずっと同じ日だったら、何も新しいことが起きないでしょう」

「そうね」

 咲姫は頷いた。

「新太郎さんは、先のことが楽しみなのね」

「そんな大げさなものじゃないですよ」

「そう?」

「明日、何かいいことがあるかもしれないじゃないですか」

 咲姫は新太郎を見た。

 その目元に、柔らかな笑みが浮かんだ。

「そうね。きっと、そういう考え方も素敵なんでしょうね」

 新太郎は少し照れくさくなった。

「社長は、どの日を選ぶんですか?」

「私?」

「ええ。人に聞いてばかりじゃ、不公平でしょう」

「あら、一本取られたわね」

 咲姫は笑った。

 それから、少しだけ考えるように視線を落とした。

「そうねえ……」

 廊下の向こうで、誰かの足音が響いた。

 咲姫は顔を上げた。

「私は、まだ秘密にしておこうかしら」

「ずるいですね」

「ええ。社長には、少しくらい秘密があってもいいでしょう?」

「そんなものですか」

「そんなものよ」

 咲姫はいたずらっぽく笑った。


 ちょうどそのとき、向こうから女性の研究員が歩いてきた。

「社長、失礼します。先ほどの件ですが」

「確認できました?」

「はい。修正した資料をお持ちしました」

 咲姫は受け取った資料に目を通した。

「ありがとうございます。こちらなら問題ありません。午後の会議では、この数字を使ってください」

「承知しました」

「それから、変更した箇所は分かるようにしておいてくださいね」

「はい」

 研究員が立ち去ると、咲姫は新太郎に向き直った。

「ごめんなさい。帰るところだったのに、引き止めてしまいましたね」

「いえ。面白かったです」

「本当?」

「はい。こんなこと、考えたことがなかったので」

「それならよかった」

 咲姫は満足そうに微笑んだ。

「研究も、案外そういうところから始まるものなの。誰かが、ふと不思議に思うところから」

「そうなんですね」

「新太郎さんも、何か気になったことがあったら、遠慮なく高瀬さんに聞いてみてください」

「はい」

「もちろん、私でも構いませんよ」

「社長に直接ですか?」

「あら、いけない?」

「いえ、そんなことはないですけど」

「では、決まりね」

 咲姫は楽しそうに笑った。

「またお話ししましょう」

「はい。ありがとうございました」

「こちらこそ」

 咲姫は軽く手を振り、廊下の奥へ歩いていった。

 新太郎はその後ろ姿を見送ってから、受付へ向かった。

 高瀬が言っていたとおり、研究に熱心な人なのだろう。

 社長という立場でありながら、一人の協力者の話にも耳を傾けてくれる。

 少なくとも、新太郎にはそう感じられた。


 駅へ向かう道には、冬の冷たい風が吹いていた。

 新太郎はコートの襟元を少し寄せながら、咲姫の言葉を思い返した。

 もう一度過ごしたい一日。何度でも過ごせる一日。

 夏休み。亮介との釣り。芽と過ごした海。

 最初は、記憶を調べるという仕事がどんなものなのか、ほとんど想像もできなかった。

 けれど今は、その先に何があるのか、少し知りたくなっていた。


 夕方、芽と待ち合わせたのは、駅から少し歩いたところにある小さな喫茶店だった。

 店に入ると、窓際の席に芽が座っていた。

 テーブルには、読みかけの文庫本と、湯気の立つカップが置かれている。

 新太郎に気づくと、芽は本を閉じて微笑んだ。

「お疲れさまでした」

「お待たせしました」

「いえ、私もさっき来たところです」

 新太郎は向かいの席に腰を下ろした。

「今日は早く終わったんですね」

「ええ。思ったより順調だったみたいです」

「そうでしたか」

 店員が注文を取りに来たので、新太郎はコーヒーを頼んだ。

 芽はカップを両手で包みながら言った。

「今日の実験はどうでした?」

「楽しかったことを、いろいろ思い出しました」

「楽しかったこと?」

「ええ。子供のころとか、最近のこととか」

「へえ」

「でも、一番楽しかった日を選ぼうとすると、なかなか難しいですね」

「そうかもしれませんね」

 芽は少し考えるように頷いた。

「何か、思い浮かびました?」

「いくつか。でも、結局決められませんでした」

「一つに決めなくても、いいんじゃないですか?」

「高瀬さんにもそう言われました」

 新太郎は笑った。

「今日は、そんなことばかり考えてました」

「そんなこと?」

「実は、また社長にお会いしたんです」

「また?」

「ええ。実験の帰りに」

 芽は少し驚いたように目を丸くした。

「そうだったんですか」

「今度は自動販売機じゃなくて、廊下でした」

「ふふ。今度も飲み物の話をしたんですか?」

「少しだけ」

芽は笑った。

「本当に気さくにお話しされるんですね」

「ええ。でも、仕事のときはずいぶん印象が違いますね」

「そうですね。厳しい方ですから」

「今日も研究員の人に指示を出してました」

「そうでしょうね」

芽はカップに口をつけた。

「それで、どんなお話を?」

「もし、好きな日をもう一度過ごせるなら、いつがいいかって」

「もう一度?」

「ええ。何年も前でも、昨日でも」

 芽は少し考えた。

「面白い質問ですね」

「でしょう?」

「新太郎さんは、何て答えたんですか?」

「子供のころの夏休みとか、いいかなって」

「夏休みですか」

「ええ。毎日遊んでばかりでしたから」

「新太郎さんらしいですね」

「そうですか?」

「はい。何となく想像できます」

 芽は楽しそうに笑った。

「でも、今の自分が戻っても、きっと同じようには楽しめないんでしょうね」

「どうしてですか?」

「大人になってしまいましたから」

「そうでしょうか」

「芽さんは、今から虫取りに行こうって言われたら、楽しいですか?」

 芽は少し考えた。

「……相手によりますね」

「相手?」

「新太郎さんとなら、案外楽しいかもしれません」

 新太郎は笑った。

「じゃあ、夏になったら行きますか」

「本当に?」

「ええ。虫取り網を持って」

「ふふ。ちょっと楽しそうですね」

 二人は笑った。

 店員がコーヒーを運んできた。

 新太郎は礼を言い、カップを手元に引き寄せた。

「それで、芽さんならどうします?」

「何をですか?」

「もう一度過ごしたい日です」

 芽はカップを置いた。

「そうですね……」

 窓の外に目を向け、少し考えた。

「まだ、選びたくないですね」

「選びたくない?」

「はい」

「どうしてですか?」

 芽は新太郎を見て、微笑んだ。

「これから、もっといい日があるかもしれませんから」

 新太郎は少し驚いた。

「なるほど」

「過去の一日を選んでしまうのは、何だかもったいない気がして」

「そういう考え方もありますね」

「もちろん、もう一度過ごしたい日もありますけど」

「例えば?」

 芽は少し首を傾げた。

「それは、秘密です」

「社長にも同じことを言われました」

「あら」

 芽は笑った。

「じゃあ、私も社長になれますね」

「飲み物を選ぶのに三分かかれば、完璧です」

「それは難しいですね。私、いつもすぐ決めちゃいますから」

「じゃあ、社長には向いてないかもしれません」

「残念です」

 二人はまた笑った。


 しばらくして、芽が尋ねた。

「研究、だいぶ面白くなってきました?」

「そうですね」

 新太郎はコーヒーを一口飲んだ。

「最初は、何をするのかも分からなかったけど」

「はい」

「最近は、次に何をするのか楽しみになってきました」

 芽は静かに頷いた。

「そうなんですね」

「今日、社長とも話して思ったんですけど、記憶って、ただ昔のことを覚えてるだけじゃないんですね」

「ええ」

「何を思い出すかで、今の気持ちまで変わることがある」

 芽は少し考えてから言った。

「そうですね。私たちも、そういうところに関心を持っています」

「これからは、もっと違う方法も使うんですよね」

「そう聞いています」

「どんなことをするのか、ちょっと楽しみです」

 芽は新太郎を見た。

「でも、無理はしないでくださいね」

「大丈夫ですよ」

「本当に?」

「ええ。嫌になったら、ちゃんと言います」

 芽は少し笑った。

「それならいいんですけど」

「心配性ですね」

「そうかもしれません」

 芽はそう言って、カップに目を落とした。

 新太郎は窓の外を見た。

 通りを歩く人たちは、みな厚手の上着を着ている。小さな子供が母親の手を引き、店先に並んだ菓子を指差していた。

「そういえば」

 新太郎が言った。

「夏になったら、本当に虫取りに行きます?」

 芽は顔を上げた。

「まだ覚えてたんですか?」

「さっきの話ですよ」

「ふふ。そうでしたね」

「でも、虫取り網って、今でも売ってるんですかね」

「売ってると思いますよ」

「じゃあ、探しておきます」

「本気なんですね」

「もちろん」

 芽は笑った。

「じゃあ、約束ですね」

「はい」

 新太郎も笑った。

 夏までは、まだずいぶん時間がある。

 その間にも、きっといろいろなことがあるのだろう。

 新太郎はコーヒーを飲みながら、そんなことを考えた。

 窓の外では、冬の夕暮れがゆっくりと街を包み始めていた。



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