5 もう一度の一日
実験室の扉が開くと、廊下の明るさに新太郎は少し目を細めた。
「お疲れさまでした」
高瀬が後ろから声をかけた。
「今日は、ずいぶん早かったですね」
「そうですね。予定していたところまで、順調に進みましたので」
新太郎は腕時計を見た。
施設に入ってから、一時間ほどしか経っていなかった。
「何だか、あっという間でした」
「今日は短い課題をいくつか組み合わせましたから」
「そうなんですね」
「次回は、また少し違った内容になる予定です」
「今度は何をするんですか?」
「詳しいことは、改めてご説明します」
高瀬は手元のファイルを持ち直した。
「浦さん、最近は研究に参加されることにも慣れてきましたね」
「そうですね。最初は何をするのか、よく分からなかったですけど」
「今はいかがですか?」
「次は何をするんだろうって、少し楽しみになってきました」
「それは何よりです」
高瀬は微笑んだ。
「では、受付までご案内します」
二人は廊下を歩き始めた。
窓の向こうには、冬の薄い日差しが差し込んでいた。中庭の木々はすっかり葉を落とし、枝の間から向かい側の建物が見えている。
そのとき、高瀬が廊下の先に目を向けた。
「ああ、社長」
新太郎も顔を上げた。
少し先のガラス張りの会議室の前に、数人の研究員が立っていた。
その中心にいたのは、大冨咲姫だった。
濃い色のジャケットに、細身のパンツ。長い髪を肩の後ろに流し、手元の資料に目を落としている。
「その数字、昨日の報告と合っていませんね」
咲姫の声が、静かな廊下によく通った。
「はい。再計算したところ、一部に修正が必要でして」
「修正が必要なのは分かりました。私が聞いているのは、どちらを基準に次の判断をするのか、ということです」
研究員は手元の資料をめくった。
「確認して、改めてご報告します」
「お願いします。この数字で、次の工程を決めるわけにはいきませんから」
口調は落ち着いていたが、言葉には曖昧さがなかった。
研究員が頷くと、咲姫は資料を返した。
「それでは、午後までに」
そこで、こちらに気づいた。
「あら」
咲姫の表情が、ふっと和らいだ。
「新太郎さん」
「こんにちは」
「またお会いしましたね」
咲姫は高瀬にも軽く会釈した。
「今日は実験の日でしたか?」
「はい。ちょうど終わったところです」
「そうでしたか。お疲れさま」
咲姫は新太郎の顔を見て、小さく笑った。
「今日は、飲み物を選ぶのを手伝っていただかなくても大丈夫そうですね」
「もう決めたんですか?」
「ええ。今日は迷わずお茶にしました」
「ミルクティーじゃなくて?」
「残念ながら。あの日以来、少しだけ自信がついたんです」
「飲み物を選ぶ自信ですか?」
「そう。小さな進歩でしょう?」
新太郎は笑った。
先ほどまで研究員に指示を出していた人と、同じ人物とは思えないほど柔らかな口調だった。
「高瀬さん、少しだけ新太郎さんをお借りしてもいいかしら」
「もちろんです」
高瀬は頷いた。
「私は先に記録を確認してまいります。浦さん、帰りの手続きは受付でお願いします」
「分かりました」
高瀬が廊下の奥へ歩いていくと、咲姫は窓の方へ目を向けた。
「少し歩きませんか。私もちょうど、部屋に戻るところなので」
「はい」
二人は並んで歩き始めた。
「研究には、もう慣れました?」
咲姫が尋ねた。
「そうですね。最初ほど緊張しなくなりました」
「それはよかった」
「でも、毎回違うことをするので、何が分かるのか不思議です」
「そうでしょうね」
「今日は、楽しかったことをいくつか思い出しました」
「あら、面白い課題だったのね」
咲姫は興味深そうに新太郎を見た。
「思い出すだけなら、ですけど」
「難しかった?」
「一番楽しかったのはいつかって考えたら、全然決められなくて」
「ふふ。分かる気がします」
「社長でも迷いますか?」
「もちろん」
咲姫は少し大げさに頷いた。
「私なんて、昼食のメニューでも迷うことがありますから」
「それは飲み物のときに分かりました」
「そのことは、忘れていただけません?」
「忘れませんよ。三分ぐらい迷ってましたから」
「そんなに長かったかしら」
「たぶん」
咲姫は楽しそうに笑った。
「では、少し意地悪な質問をしてもいい?」
「何でしょう」
「もし、一日だけ、好きな日をもう一度過ごせるとしたら、いつを選びます?」
「もう一度、ですか?」
「ええ。子供のころでも、昨日でも。いつでもいいの」
新太郎は少し考えた。
「それは、難しいですね」
「でしょう?」
「同じ一日を、もう一回過ごすんですよね」
「そう。朝起きてから夜眠るまで、もう一度」
「前と同じことが起こるんですか?」
「どうかしら。そこは新太郎さんの想像にお任せします」
「それだと、余計に難しいですよ」
「質問した私が、ずるいみたいね」
咲姫は笑った。
新太郎は窓の外を見た。
中庭には細い遊歩道が延び、冬枯れの植え込みの向こうに、小さなベンチが置かれている。
「子供のころの夏休みとか、いいかもしれません」
「夏休み?」
「ええ。朝から外で遊んで、夕方まで帰らなかったころです」
「楽しそうね」
「でも、今考えると、何がそんなに楽しかったのか分からないんですよね」
「それでも、もう一度過ごしてみたい?」
「そうですね……」
新太郎は少し考えてから答えた。
「たぶん、あのころの自分に戻ってみたいんだと思います」
咲姫は黙って頷いた。
「今の自分のまま同じことをしても、きっとあんなに楽しくないでしょうから」
「そうかもしれませんね」
咲姫は窓の外へ目を向けた。
「同じ場所で、同じ人と、同じことをしても、同じ幸せになるとは限らない」
「ええ」
「不思議ね」
その声が少し静かになったので、新太郎は咲姫を見た。
けれど、咲姫はすぐに微笑んだ。
「では、もう一つだけ」
「まだあるんですか?」
「これで最後。約束します」
「どうぞ」
「その楽しかった一日を、何度でも過ごせるとしたら?」
「何度でも?」
「ええ。十回でも、百回でも」
新太郎は思わず笑った。
「それは、さすがに飽きませんか?」
「あら、そう?」
「最初は楽しいと思いますけど」
「百回目には?」
「もう、次の日に行きたくなるんじゃないですかね」
咲姫は声を立てて笑った。
「なるほど。次の日に」
「だって、ずっと同じ日だったら、何も新しいことが起きないでしょう」
「そうね」
咲姫は頷いた。
「新太郎さんは、先のことが楽しみなのね」
「そんな大げさなものじゃないですよ」
「そう?」
「明日、何かいいことがあるかもしれないじゃないですか」
咲姫は新太郎を見た。
その目元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
「そうね。きっと、そういう考え方も素敵なんでしょうね」
新太郎は少し照れくさくなった。
「社長は、どの日を選ぶんですか?」
「私?」
「ええ。人に聞いてばかりじゃ、不公平でしょう」
「あら、一本取られたわね」
咲姫は笑った。
それから、少しだけ考えるように視線を落とした。
「そうねえ……」
廊下の向こうで、誰かの足音が響いた。
咲姫は顔を上げた。
「私は、まだ秘密にしておこうかしら」
「ずるいですね」
「ええ。社長には、少しくらい秘密があってもいいでしょう?」
「そんなものですか」
「そんなものよ」
咲姫はいたずらっぽく笑った。
ちょうどそのとき、向こうから女性の研究員が歩いてきた。
「社長、失礼します。先ほどの件ですが」
「確認できました?」
「はい。修正した資料をお持ちしました」
咲姫は受け取った資料に目を通した。
「ありがとうございます。こちらなら問題ありません。午後の会議では、この数字を使ってください」
「承知しました」
「それから、変更した箇所は分かるようにしておいてくださいね」
「はい」
研究員が立ち去ると、咲姫は新太郎に向き直った。
「ごめんなさい。帰るところだったのに、引き止めてしまいましたね」
「いえ。面白かったです」
「本当?」
「はい。こんなこと、考えたことがなかったので」
「それならよかった」
咲姫は満足そうに微笑んだ。
「研究も、案外そういうところから始まるものなの。誰かが、ふと不思議に思うところから」
「そうなんですね」
「新太郎さんも、何か気になったことがあったら、遠慮なく高瀬さんに聞いてみてください」
「はい」
「もちろん、私でも構いませんよ」
「社長に直接ですか?」
「あら、いけない?」
「いえ、そんなことはないですけど」
「では、決まりね」
咲姫は楽しそうに笑った。
「またお話ししましょう」
「はい。ありがとうございました」
「こちらこそ」
咲姫は軽く手を振り、廊下の奥へ歩いていった。
新太郎はその後ろ姿を見送ってから、受付へ向かった。
高瀬が言っていたとおり、研究に熱心な人なのだろう。
社長という立場でありながら、一人の協力者の話にも耳を傾けてくれる。
少なくとも、新太郎にはそう感じられた。
駅へ向かう道には、冬の冷たい風が吹いていた。
新太郎はコートの襟元を少し寄せながら、咲姫の言葉を思い返した。
もう一度過ごしたい一日。何度でも過ごせる一日。
夏休み。亮介との釣り。芽と過ごした海。
最初は、記憶を調べるという仕事がどんなものなのか、ほとんど想像もできなかった。
けれど今は、その先に何があるのか、少し知りたくなっていた。
夕方、芽と待ち合わせたのは、駅から少し歩いたところにある小さな喫茶店だった。
店に入ると、窓際の席に芽が座っていた。
テーブルには、読みかけの文庫本と、湯気の立つカップが置かれている。
新太郎に気づくと、芽は本を閉じて微笑んだ。
「お疲れさまでした」
「お待たせしました」
「いえ、私もさっき来たところです」
新太郎は向かいの席に腰を下ろした。
「今日は早く終わったんですね」
「ええ。思ったより順調だったみたいです」
「そうでしたか」
店員が注文を取りに来たので、新太郎はコーヒーを頼んだ。
芽はカップを両手で包みながら言った。
「今日の実験はどうでした?」
「楽しかったことを、いろいろ思い出しました」
「楽しかったこと?」
「ええ。子供のころとか、最近のこととか」
「へえ」
「でも、一番楽しかった日を選ぼうとすると、なかなか難しいですね」
「そうかもしれませんね」
芽は少し考えるように頷いた。
「何か、思い浮かびました?」
「いくつか。でも、結局決められませんでした」
「一つに決めなくても、いいんじゃないですか?」
「高瀬さんにもそう言われました」
新太郎は笑った。
「今日は、そんなことばかり考えてました」
「そんなこと?」
「実は、また社長にお会いしたんです」
「また?」
「ええ。実験の帰りに」
芽は少し驚いたように目を丸くした。
「そうだったんですか」
「今度は自動販売機じゃなくて、廊下でした」
「ふふ。今度も飲み物の話をしたんですか?」
「少しだけ」
芽は笑った。
「本当に気さくにお話しされるんですね」
「ええ。でも、仕事のときはずいぶん印象が違いますね」
「そうですね。厳しい方ですから」
「今日も研究員の人に指示を出してました」
「そうでしょうね」
芽はカップに口をつけた。
「それで、どんなお話を?」
「もし、好きな日をもう一度過ごせるなら、いつがいいかって」
「もう一度?」
「ええ。何年も前でも、昨日でも」
芽は少し考えた。
「面白い質問ですね」
「でしょう?」
「新太郎さんは、何て答えたんですか?」
「子供のころの夏休みとか、いいかなって」
「夏休みですか」
「ええ。毎日遊んでばかりでしたから」
「新太郎さんらしいですね」
「そうですか?」
「はい。何となく想像できます」
芽は楽しそうに笑った。
「でも、今の自分が戻っても、きっと同じようには楽しめないんでしょうね」
「どうしてですか?」
「大人になってしまいましたから」
「そうでしょうか」
「芽さんは、今から虫取りに行こうって言われたら、楽しいですか?」
芽は少し考えた。
「……相手によりますね」
「相手?」
「新太郎さんとなら、案外楽しいかもしれません」
新太郎は笑った。
「じゃあ、夏になったら行きますか」
「本当に?」
「ええ。虫取り網を持って」
「ふふ。ちょっと楽しそうですね」
二人は笑った。
店員がコーヒーを運んできた。
新太郎は礼を言い、カップを手元に引き寄せた。
「それで、芽さんならどうします?」
「何をですか?」
「もう一度過ごしたい日です」
芽はカップを置いた。
「そうですね……」
窓の外に目を向け、少し考えた。
「まだ、選びたくないですね」
「選びたくない?」
「はい」
「どうしてですか?」
芽は新太郎を見て、微笑んだ。
「これから、もっといい日があるかもしれませんから」
新太郎は少し驚いた。
「なるほど」
「過去の一日を選んでしまうのは、何だかもったいない気がして」
「そういう考え方もありますね」
「もちろん、もう一度過ごしたい日もありますけど」
「例えば?」
芽は少し首を傾げた。
「それは、秘密です」
「社長にも同じことを言われました」
「あら」
芽は笑った。
「じゃあ、私も社長になれますね」
「飲み物を選ぶのに三分かかれば、完璧です」
「それは難しいですね。私、いつもすぐ決めちゃいますから」
「じゃあ、社長には向いてないかもしれません」
「残念です」
二人はまた笑った。
しばらくして、芽が尋ねた。
「研究、だいぶ面白くなってきました?」
「そうですね」
新太郎はコーヒーを一口飲んだ。
「最初は、何をするのかも分からなかったけど」
「はい」
「最近は、次に何をするのか楽しみになってきました」
芽は静かに頷いた。
「そうなんですね」
「今日、社長とも話して思ったんですけど、記憶って、ただ昔のことを覚えてるだけじゃないんですね」
「ええ」
「何を思い出すかで、今の気持ちまで変わることがある」
芽は少し考えてから言った。
「そうですね。私たちも、そういうところに関心を持っています」
「これからは、もっと違う方法も使うんですよね」
「そう聞いています」
「どんなことをするのか、ちょっと楽しみです」
芽は新太郎を見た。
「でも、無理はしないでくださいね」
「大丈夫ですよ」
「本当に?」
「ええ。嫌になったら、ちゃんと言います」
芽は少し笑った。
「それならいいんですけど」
「心配性ですね」
「そうかもしれません」
芽はそう言って、カップに目を落とした。
新太郎は窓の外を見た。
通りを歩く人たちは、みな厚手の上着を着ている。小さな子供が母親の手を引き、店先に並んだ菓子を指差していた。
「そういえば」
新太郎が言った。
「夏になったら、本当に虫取りに行きます?」
芽は顔を上げた。
「まだ覚えてたんですか?」
「さっきの話ですよ」
「ふふ。そうでしたね」
「でも、虫取り網って、今でも売ってるんですかね」
「売ってると思いますよ」
「じゃあ、探しておきます」
「本気なんですね」
「もちろん」
芽は笑った。
「じゃあ、約束ですね」
「はい」
新太郎も笑った。
夏までは、まだずいぶん時間がある。
その間にも、きっといろいろなことがあるのだろう。
新太郎はコーヒーを飲みながら、そんなことを考えた。
窓の外では、冬の夕暮れがゆっくりと街を包み始めていた。




