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新浦島太郎  作者: ISM
第7章 春を待つ島
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27/31

1 いつかの日常



 午前十時を少し過ぎたころ、新太郎の机に内線電話が入った。

『浦さん、午後の打ち合わせなんですけど、先方の担当者が一人増えるそうです』

「分かりました。資料、もう一部用意しておきます」

『すみません。あと、先週お願いした数字の確認も』

「ああ、そっちは終わってます。共有フォルダに入れてありますよ」

『助かります』

 電話を切ると、新太郎は椅子の背にもたれた。

 朝から細かな仕事が続いていた。急ぎの案件というほどではないが、一つ片づけるたびに次の用事が増えていく。

 少し離れたところで、先輩がパソコンの画面から顔を上げた。

「浦、今日も残業か?」

「どうでしょう。打ち合わせが長引かなければ」

「最近、帰るの早いよな」

「そうですか?」

「前はもう少し残ってた気がするけど」

「仕事が減ったわけじゃないですよ」

「分かってるよ。むしろ最近よく片づけてくれるから助かってる」

 先輩は笑って、手元の書類を揃えた。

「帰りたい理由でもできたか?」

「別に、そういうわけじゃ」

「そうかそうか」

「何ですか、その顔」

「いや、何でもない」

 新太郎は苦笑して、画面に向き直った。

 今夜は芽と食事をする約束だった。

 以前から気になっていた店を予約してある。

 仕事を定時で切り上げられれば、待ち合わせには十分間に合うはずだった。


 昼休みを終えて席に戻ると、スマートフォンに芽からメッセージが届いていた。

『ごめんなさい。今日、少し難しくなりそうです』

 続けて、もう一通。

『急に仕事が入ってしまって、何時に終わるか分からなくなりました』

 新太郎は画面を見つめた。

 予約した店のことが頭に浮かんだが、すぐに返信した。

『分かりました。お店はキャンセルしておきます。仕事、頑張ってください』

『本当にごめんなさい』

『大丈夫ですよ。また行きましょう』

 それきり、しばらく返事はなかった。

 新太郎は店に電話をかけ、予約を取り消した。

 電話口の店員は快く応じてくれた。

 楽しみにしていただけに、少し残念だった。

 しかし、芽の仕事が急に忙しくなることは、付き合い始めたころから分かっていた。

 新太郎はスマートフォンを机に伏せ、午後の資料を開いた。


 その夜、芽から電話がかかってきたのは、午後十一時を少し過ぎたころだった。

『遅くにすみません』

「いえ。まだ起きてましたよ」

『今日、本当にごめんなさい』

「気にしないでください。また行けばいいですから」

『でも、お店まで予約してもらってたのに』

「お店は逃げませんよ」

 電話の向こうで、芽が小さく笑った。

『そうですね』

「仕事、終わったんですか?」

『はい。今、会社を出たところです』

「こんな時間まで大変でしたね」

『今日はちょっと長くなっちゃいました』

「夕飯は食べました?」

『まだなんです。帰りにコンビニに寄ろうと思って』

「そうですか。何か温かいものでも食べてくださいね」

『はい。ありがとうございます』

 少し間があった。

『新太郎さん』

「はい」

『こういうこと、これからもあると思うんです』

「そうですよね」

『今日みたいに急に予定が変わったり、何日も会えなくなったり』

「はい」

『今はいいかもしれませんけど、ずっとこんな感じだったら、嫌になりませんか?』

 新太郎は少し考えた。

「会えないのは寂しいと思いますよ」

『……はい』

「でも、それは芽さんも同じでしょう?」

『え?』

「芽さんだって、会いたくても会えないんですよね」

『……そうです』

「だったら、お互い様じゃないですか」

 電話の向こうが静かになった。

「それに、今日会えなかった分、次に会うのが楽しみになりました」

『新太郎さんは、いつもそうやって考えるんですね』

「そうですか?」

『はい。何だか、少し羨ましいです』

「僕だって、がっかりすることはありますよ」

『そうなんですか?』

「もちろん。でも、芽さんに会えない時間まで、仕事に取られたわけじゃないですから」

 芽はしばらく黙っていた。

『……ありがとうございます』

「お礼を言われることじゃないですよ」

『いえ。何だか、安心しました』

 新太郎はソファに座り直した。

「ただ、一つだけお願いしてもいいですか?」

『何ですか?』

「無理して約束を守ろうとしないでください。疲れてるときは、疲れてるって言ってほしいです」

 芽はすぐには答えなかった。

『……はい』

「じゃあ、今日はもう気をつけて帰ってください」

『ありがとうございます』

「おやすみなさい」

『おやすみなさい』

 電話を切る直前、芽がもう一度、小さな声で言った。

『早く会いたいです』

 新太郎は思わず笑った。

「僕もです」


 それから数日、芽とは短いメッセージを交わすだけの日が続いた。

 朝早く研究室に入り、夜遅く帰る日もあれば、会社に泊まり込むこともあるらしい。

 新太郎は何度か電話をかけようとして、やめた。

 その代わり、帰り道に見つけた変わった形の雲や、昼休みに食べた妙に大きなコロッケの写真を送った。

 芽からの返信は、翌朝になることもあった。

『このコロッケ、顔みたいですね』

『そう見えます?』

『目が二つあります』

『それ、グリーンピースです』

『ふふ。かわいい』

 そんなやり取りが続いた。

 以前なら、返事が来ない時間が少し気になったかもしれない。

 今は、芽が忙しくしているのだろうと思うだけだった。


 朝九時を少し過ぎたころ、新太郎のスマートフォンが鳴った。

 祝日の朝だった。洗濯機を回し、遅めの朝食を用意しようとしていたところだった。

 画面には芽の名前が表示されていた。

「もしもし。おはようございます」

『おはようございます……』

 いつもより声が小さかった。

「どうしました?」

『いえ、何でもないんですけど』

 少し間があった。

『声が聞きたくなって』

 新太郎は手にしていた食パンを皿に戻した。

「仕事、終わったんですか?」

『はい。明け方に帰ってきました』

「じゃあ、少しは眠れました?」

『それが、全然……』

「そうですか」

『疲れてるんですけどね』

 芽は小さく笑った。

「何か食べました?」

『まだです』

「じゃあ、何か持って行きましょうか?」

『……いいんですか?』

「今日は休みですから」

『でも……』

「芽さんの顔も見たいですし」

 電話の向こうが静かになった。

『……じゃあ、お願いします』

「分かりました。少し待っててください」

『はい……ありがとう』

 電話が切れた。

 新太郎は皿に戻した食パンをトースターに入れ、洗濯機の残り時間を確かめた。


 洗濯物を干してから家を出た。

 冬の空はよく晴れていた。風は冷たかったが、日差しの当たる場所には、わずかな温もりがあった。

 駅前のスーパーで買い物をしながら、何を作ろうか考えた。

 温かくて、あまり手間のかからないものがいい。

 白菜、きのこ、豆腐、鶏肉。鍋なら残った分も温め直せる。

 食材を袋に詰め、芽の部屋へ向かった。


 チャイムを鳴らすと、少し間があって扉が開いた。

「いらっしゃい」

 芽はゆったりした部屋着にカーディガンを羽織っていた。

 髪は後ろで無造作にまとめられ、目元には疲れが残っている。

 そして、眼鏡をかけていた。

「あれ、眼鏡なんですね」

「あ……はい。普段はコンタクトなので」

 芽は少し恥ずかしそうに、眼鏡の位置を直した。

「変ですか?」

「いえ。初めて見たので」

「今日はもう、何もする気になれなくて」

「似合ってますよ」

 芽は新太郎を見上げた。

「……ありがとうございます」

 そう言って、少しだけ笑った。

 新太郎は手にした袋を持ち上げた。

「鍋にしようと思って」

「お鍋?」

「朝からですけど」

「嬉しいです」

 芽は袋の中をのぞき込んだ。

「何か手伝います」

「今日は休んでてください」

「でも」

「できたら呼びますから」

 芽は少し迷ってから頷いた。

「……じゃあ、お言葉に甘えます」


 部屋に入ると、テーブルの上には読みかけの本とマグカップが置かれていた。

 ソファにはブランケットが広がっている。

 新太郎が台所に立つと、芽はソファに腰を下ろし、ブランケットを膝に掛けた。

 包丁がまな板に当たる音が、静かな部屋に響いた。

 ときどき芽がこちらを見ているのが分かったが、何も言わなかった。

 鍋に火をかけ、蓋をすると、新太郎は振り返った。

「もう少しでできますよ」

「はい」

 芽は眼鏡の奥で目を細めた。

「……いい匂い」

 それだけ言って、ブランケットを肩まで引き上げた。


 鍋が煮えるころには、窓ガラスがうっすら曇っていた。

 新太郎がテーブルに鍋を運ぶと、芽もゆっくりと起き上がった。

「熱いので気をつけてくださいね」

「はい」

 芽は白菜と鶏肉を取り皿によそい、少し冷ましてから口に運んだ。

「……おいしい」

「よかった」

 芽はもう一口食べた。

 それから、湯気の向こうで新太郎を見た。

「こういうの、いいですね」

「鍋ですか?」

「それも、ですけど」

 芽は小さく笑い、また箸を動かした。


 食事を終えると、二人はソファに並んで座った。

 窓から差し込む冬の日差しが、床の上に四角い光を落としていた。

 芽はブランケットを膝に掛け、眼鏡を外してテーブルに置いた。

「眠くなってきました?」

「少し……」

「よかったですね」

「はい」

 芽は新太郎の肩に、そっと頭を預けた。

「……このままで、いいですか?」

「もちろん」

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 遠くで車の走る音がした。

 芽の呼吸が、少しずつゆっくりになっていく。

「新太郎さん」

「はい」

「今日みたいな日が、もっとあったらいいですね」

「そうですね」

「仕事から帰ってきたら、誰かがいて……」

 芽はそこで言葉を止めた。

「……毎日お鍋じゃ、困りますけど」

 新太郎が言うと、芽は目を閉じたまま笑った。

「ふふ。たまには炒飯も」

「それでも二種類ですね」

「少しずつ、増やしてください」

「頑張ります」

 芽は小さく頷いた。

「……楽しみ」

 それきり、芽は黙った。

 やがて、肩にかかる重みが少し増した。

 眠ってしまったらしい。

 新太郎は窓の方へ目を向けた。

 日差しがゆっくりと移り、床に伸びた光の形が変わっていく。

 テーブルの上には、外したばかりの眼鏡が置かれていた。

 新太郎は芽を起こさないよう、もうしばらくそのままでいることにした。




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