1 いつかの日常
午前十時を少し過ぎたころ、新太郎の机に内線電話が入った。
『浦さん、午後の打ち合わせなんですけど、先方の担当者が一人増えるそうです』
「分かりました。資料、もう一部用意しておきます」
『すみません。あと、先週お願いした数字の確認も』
「ああ、そっちは終わってます。共有フォルダに入れてありますよ」
『助かります』
電話を切ると、新太郎は椅子の背にもたれた。
朝から細かな仕事が続いていた。急ぎの案件というほどではないが、一つ片づけるたびに次の用事が増えていく。
少し離れたところで、先輩がパソコンの画面から顔を上げた。
「浦、今日も残業か?」
「どうでしょう。打ち合わせが長引かなければ」
「最近、帰るの早いよな」
「そうですか?」
「前はもう少し残ってた気がするけど」
「仕事が減ったわけじゃないですよ」
「分かってるよ。むしろ最近よく片づけてくれるから助かってる」
先輩は笑って、手元の書類を揃えた。
「帰りたい理由でもできたか?」
「別に、そういうわけじゃ」
「そうかそうか」
「何ですか、その顔」
「いや、何でもない」
新太郎は苦笑して、画面に向き直った。
今夜は芽と食事をする約束だった。
以前から気になっていた店を予約してある。
仕事を定時で切り上げられれば、待ち合わせには十分間に合うはずだった。
昼休みを終えて席に戻ると、スマートフォンに芽からメッセージが届いていた。
『ごめんなさい。今日、少し難しくなりそうです』
続けて、もう一通。
『急に仕事が入ってしまって、何時に終わるか分からなくなりました』
新太郎は画面を見つめた。
予約した店のことが頭に浮かんだが、すぐに返信した。
『分かりました。お店はキャンセルしておきます。仕事、頑張ってください』
『本当にごめんなさい』
『大丈夫ですよ。また行きましょう』
それきり、しばらく返事はなかった。
新太郎は店に電話をかけ、予約を取り消した。
電話口の店員は快く応じてくれた。
楽しみにしていただけに、少し残念だった。
しかし、芽の仕事が急に忙しくなることは、付き合い始めたころから分かっていた。
新太郎はスマートフォンを机に伏せ、午後の資料を開いた。
その夜、芽から電話がかかってきたのは、午後十一時を少し過ぎたころだった。
『遅くにすみません』
「いえ。まだ起きてましたよ」
『今日、本当にごめんなさい』
「気にしないでください。また行けばいいですから」
『でも、お店まで予約してもらってたのに』
「お店は逃げませんよ」
電話の向こうで、芽が小さく笑った。
『そうですね』
「仕事、終わったんですか?」
『はい。今、会社を出たところです』
「こんな時間まで大変でしたね」
『今日はちょっと長くなっちゃいました』
「夕飯は食べました?」
『まだなんです。帰りにコンビニに寄ろうと思って』
「そうですか。何か温かいものでも食べてくださいね」
『はい。ありがとうございます』
少し間があった。
『新太郎さん』
「はい」
『こういうこと、これからもあると思うんです』
「そうですよね」
『今日みたいに急に予定が変わったり、何日も会えなくなったり』
「はい」
『今はいいかもしれませんけど、ずっとこんな感じだったら、嫌になりませんか?』
新太郎は少し考えた。
「会えないのは寂しいと思いますよ」
『……はい』
「でも、それは芽さんも同じでしょう?」
『え?』
「芽さんだって、会いたくても会えないんですよね」
『……そうです』
「だったら、お互い様じゃないですか」
電話の向こうが静かになった。
「それに、今日会えなかった分、次に会うのが楽しみになりました」
『新太郎さんは、いつもそうやって考えるんですね』
「そうですか?」
『はい。何だか、少し羨ましいです』
「僕だって、がっかりすることはありますよ」
『そうなんですか?』
「もちろん。でも、芽さんに会えない時間まで、仕事に取られたわけじゃないですから」
芽はしばらく黙っていた。
『……ありがとうございます』
「お礼を言われることじゃないですよ」
『いえ。何だか、安心しました』
新太郎はソファに座り直した。
「ただ、一つだけお願いしてもいいですか?」
『何ですか?』
「無理して約束を守ろうとしないでください。疲れてるときは、疲れてるって言ってほしいです」
芽はすぐには答えなかった。
『……はい』
「じゃあ、今日はもう気をつけて帰ってください」
『ありがとうございます』
「おやすみなさい」
『おやすみなさい』
電話を切る直前、芽がもう一度、小さな声で言った。
『早く会いたいです』
新太郎は思わず笑った。
「僕もです」
それから数日、芽とは短いメッセージを交わすだけの日が続いた。
朝早く研究室に入り、夜遅く帰る日もあれば、会社に泊まり込むこともあるらしい。
新太郎は何度か電話をかけようとして、やめた。
その代わり、帰り道に見つけた変わった形の雲や、昼休みに食べた妙に大きなコロッケの写真を送った。
芽からの返信は、翌朝になることもあった。
『このコロッケ、顔みたいですね』
『そう見えます?』
『目が二つあります』
『それ、グリーンピースです』
『ふふ。かわいい』
そんなやり取りが続いた。
以前なら、返事が来ない時間が少し気になったかもしれない。
今は、芽が忙しくしているのだろうと思うだけだった。
朝九時を少し過ぎたころ、新太郎のスマートフォンが鳴った。
祝日の朝だった。洗濯機を回し、遅めの朝食を用意しようとしていたところだった。
画面には芽の名前が表示されていた。
「もしもし。おはようございます」
『おはようございます……』
いつもより声が小さかった。
「どうしました?」
『いえ、何でもないんですけど』
少し間があった。
『声が聞きたくなって』
新太郎は手にしていた食パンを皿に戻した。
「仕事、終わったんですか?」
『はい。明け方に帰ってきました』
「じゃあ、少しは眠れました?」
『それが、全然……』
「そうですか」
『疲れてるんですけどね』
芽は小さく笑った。
「何か食べました?」
『まだです』
「じゃあ、何か持って行きましょうか?」
『……いいんですか?』
「今日は休みですから」
『でも……』
「芽さんの顔も見たいですし」
電話の向こうが静かになった。
『……じゃあ、お願いします』
「分かりました。少し待っててください」
『はい……ありがとう』
電話が切れた。
新太郎は皿に戻した食パンをトースターに入れ、洗濯機の残り時間を確かめた。
洗濯物を干してから家を出た。
冬の空はよく晴れていた。風は冷たかったが、日差しの当たる場所には、わずかな温もりがあった。
駅前のスーパーで買い物をしながら、何を作ろうか考えた。
温かくて、あまり手間のかからないものがいい。
白菜、きのこ、豆腐、鶏肉。鍋なら残った分も温め直せる。
食材を袋に詰め、芽の部屋へ向かった。
チャイムを鳴らすと、少し間があって扉が開いた。
「いらっしゃい」
芽はゆったりした部屋着にカーディガンを羽織っていた。
髪は後ろで無造作にまとめられ、目元には疲れが残っている。
そして、眼鏡をかけていた。
「あれ、眼鏡なんですね」
「あ……はい。普段はコンタクトなので」
芽は少し恥ずかしそうに、眼鏡の位置を直した。
「変ですか?」
「いえ。初めて見たので」
「今日はもう、何もする気になれなくて」
「似合ってますよ」
芽は新太郎を見上げた。
「……ありがとうございます」
そう言って、少しだけ笑った。
新太郎は手にした袋を持ち上げた。
「鍋にしようと思って」
「お鍋?」
「朝からですけど」
「嬉しいです」
芽は袋の中をのぞき込んだ。
「何か手伝います」
「今日は休んでてください」
「でも」
「できたら呼びますから」
芽は少し迷ってから頷いた。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
部屋に入ると、テーブルの上には読みかけの本とマグカップが置かれていた。
ソファにはブランケットが広がっている。
新太郎が台所に立つと、芽はソファに腰を下ろし、ブランケットを膝に掛けた。
包丁がまな板に当たる音が、静かな部屋に響いた。
ときどき芽がこちらを見ているのが分かったが、何も言わなかった。
鍋に火をかけ、蓋をすると、新太郎は振り返った。
「もう少しでできますよ」
「はい」
芽は眼鏡の奥で目を細めた。
「……いい匂い」
それだけ言って、ブランケットを肩まで引き上げた。
鍋が煮えるころには、窓ガラスがうっすら曇っていた。
新太郎がテーブルに鍋を運ぶと、芽もゆっくりと起き上がった。
「熱いので気をつけてくださいね」
「はい」
芽は白菜と鶏肉を取り皿によそい、少し冷ましてから口に運んだ。
「……おいしい」
「よかった」
芽はもう一口食べた。
それから、湯気の向こうで新太郎を見た。
「こういうの、いいですね」
「鍋ですか?」
「それも、ですけど」
芽は小さく笑い、また箸を動かした。
食事を終えると、二人はソファに並んで座った。
窓から差し込む冬の日差しが、床の上に四角い光を落としていた。
芽はブランケットを膝に掛け、眼鏡を外してテーブルに置いた。
「眠くなってきました?」
「少し……」
「よかったですね」
「はい」
芽は新太郎の肩に、そっと頭を預けた。
「……このままで、いいですか?」
「もちろん」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
遠くで車の走る音がした。
芽の呼吸が、少しずつゆっくりになっていく。
「新太郎さん」
「はい」
「今日みたいな日が、もっとあったらいいですね」
「そうですね」
「仕事から帰ってきたら、誰かがいて……」
芽はそこで言葉を止めた。
「……毎日お鍋じゃ、困りますけど」
新太郎が言うと、芽は目を閉じたまま笑った。
「ふふ。たまには炒飯も」
「それでも二種類ですね」
「少しずつ、増やしてください」
「頑張ります」
芽は小さく頷いた。
「……楽しみ」
それきり、芽は黙った。
やがて、肩にかかる重みが少し増した。
眠ってしまったらしい。
新太郎は窓の方へ目を向けた。
日差しがゆっくりと移り、床に伸びた光の形が変わっていく。
テーブルの上には、外したばかりの眼鏡が置かれていた。
新太郎は芽を起こさないよう、もうしばらくそのままでいることにした。




