2 淡い記憶
金曜日の午後、新太郎はドラゴンパレス製薬の研究施設を訪れていた。
仕事は半日休暇を取っていた。受付を済ませ、いつもの部屋に入ると、高瀬が端末を操作していた。
「浦さん、こんにちは」
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。先日お話しいただいた内容、ずいぶん参考になりました」
「そうですか。それならよかったです」
高瀬は軽く頷き、端末を机の上に置いた。
この日は、前回までの検査結果をもとに、薬剤試験の進め方について説明を受けた。続いて、記憶に関するいくつかの確認を終えると、高瀬は画面を切り替えた。
「次は、以前の質問票に書いていただいたことを、少し振り返ってみたいと思います」
「はい」
「人から何かをもらって嬉しかった記憶、という項目がありましたね」
「ああ、ありましたね」
「浦さんは、子供のころに誕生日プレゼントをもらったことを書かれていました」
「そうでした?」
「どんなプレゼントでしたか?」
新太郎は少し考えた。
「何でしょうね……」
高瀬は急かさずに待っていた。
ふと、古い記憶が浮かんだ。
「ああ、そういえば」
「何か思い出しました?」
「書いたことと違うことを思い出しました」
「いいですよ」
「中学生の今頃、チョコレートをもらったことがあります」
「そろそろバレンタインデーですもんね」
「ええ。中学一年のときです」
高瀬は微笑んだ。
「それは、嬉しかったでしょうね」
「嬉しいというか、びっくりしました。三年生の先輩だったんです」
「二つ年上の?」
「はい。ほとんど話したこともなかったので」
新太郎は少し笑った。
「何で俺なんだろうって、当時はそればっかり考えてました」
「そのときのこと、覚えていますか?」
「そうですね……」
あの日は、放課後になっても教室に何人か残っていた。
窓際では女子たちが集まって話していて、廊下からは運動部の掛け声が聞こえていた。
新太郎は机の中に残っていた教科書を鞄に押し込み、帰ろうとしていた。
「浦くん、呼ばれてるよ」
同じクラスの女子が、教室の入口を指差した。
廊下に出ると、見覚えのある女子生徒が立っていた。
三年生の先輩だった。
名前は知っていた。校内ですれ違えば挨拶をすることもあったが、まともに話したことはほとんどなかった。
「ちょっと、いい?」
「はい」
先輩は廊下の奥を見た。
「ここだと、ちょっと……」
新太郎は先輩について歩いた。
階段の踊り場には誰もいなかった。窓の外には校庭が見え、部活動の準備をする生徒たちが行き来していた。
先輩は鞄から小さな袋を取り出した。
「これ、よかったら」
新太郎は差し出されたものを見た。
淡い水色の袋だった。表面には銀色の細い線で、何かの模様が描かれていた。
「え、俺にですか?」
「うん」
「どうして……」
そこまで言って、新太郎は口をつぐんだ。
先輩は困ったように笑った。
「どうしてって、今日、バレンタインだから」
「あ、はい」
そんなことは分かっていた。
けれど、ほかに何と言えばいいのか思いつかなかった。
先輩は袋を持ったまま、少し俯いた。
「迷惑だった?」
「いえ、全然」
新太郎は慌てて首を振った。
「ありがとうございます」
袋を受け取ると、先輩はほっとしたように笑った。
「よかった」
その笑顔を見て、新太郎はようやく、何が起きているのか分かった気がした。
先輩は窓の外に目を向けた。
「もうすぐ卒業だから、渡せないままになるのも嫌で」
「……はい」
「返事とか、いらないから」
先輩はそう言って、少し照れたように笑った。
「急にごめんね」
「いえ」
新太郎は袋を持ったまま、何も言えなかった。
「じゃあ、またね」
「あ、先輩」
呼び止めたものの、続く言葉が見つからなかった。
先輩が振り返る。
「……ありがとうございました」
先輩は一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。
「さっきも聞いたよ」
新太郎は顔が熱くなるのを感じた。
「うん。じゃあね」
先輩は階段を上がっていった。
新太郎はしばらく、その場に立っていた。
手の中の袋は、思っていたよりも軽かった。
鞄に押し込む気になれず、鞄と身体の間に隠して慌てて帰った。
途中で友達に会わないように願った。
別に悪いことをしているわけではないのに、見つかったら何か言われるような気がした。
家に着いて、自分の部屋で袋を開けた。
中には小さな箱が入っていて、チョコレートが四つ、きれいに並んでいた。
一つ食べてみた。
甘かった。
特別な味だったのかどうか、今となっては分からない。
ただ、食べ終わるのが惜しくて、残りは箱に戻した。
次の日、学校で先輩を見かけた。
声をかけようか迷っているうちに、先輩は友達と一緒に廊下の向こうへ行ってしまった。
結局、その後も何も話せなかった。
「……それで、どうなったんですか?」
高瀬の声で、新太郎は顔を上げた。
「どうなった、というと?」
「その先輩とは」
「ああ。結局、何もなかったんです」
「そうなんですか?」
「ええ。卒業式の日に一緒に写真撮ろうと言われたぐらいですね」
「お付き合いはしなかったんですね」
「子供でしたね。何をどうすればいいのか、全然分からなくて」
新太郎は笑った。
「今思えば、もう少し話しておけばよかったですね」
「後悔していますか?」
「どうでしょう。後悔というほどじゃないですけど」
少し考えた。
「でも、嬉しかったことは覚えてます」
高瀬は頷いた。
「先輩の顔は覚えていますか?」
「何となく。髪が長かったと思います」
「チョコレートの味は?」
「甘かったことぐらいしか」
「では、何が一番印象に残っていますか?」
新太郎は考えた。
階段の踊り場。
校庭から聞こえてきた声。
先輩が笑った顔。
「……渡してくれたときの、先輩の顔ですかね」
「どんな表情でした?」
「緊張してたと思います。でも、僕が受け取ったら、すごく嬉しそうに笑ったんです」
新太郎は少し照れくさくなった。
「それが、何だか嬉しくて」
高瀬は手元の端末に何かを入力した。
「なるほど」
「こんな話でも役に立つんですか?」
「もちろんです」
高瀬は顔を上げた。
「同じ出来事でも、何を覚えているかは人によって違います。贈り物そのものより、相手の表情や、そのときの気持ちが残っていることもありますから」
「そういうものなんですね」
「ええ」
高瀬は端末を閉じた。
「今日はありがとうございました」
「いえ。昔のことを話しただけですけど」
「思い出していただくことが大切なんです」
新太郎は頷いた。
中学生のころの自分が、少し可笑しく思えた。
あの先輩は、今ごろどうしているのだろう。
そんなことを考えたのは、何年ぶりだろうか。
帰り道、空にはまだ明るさが残っていた。
歩道を行き交う人たちの中に、制服姿の学生が何人か混じっている。
新太郎はふと、あの階段の踊り場を思い出した。
先輩の名前は今は思い出せない。
どんな声だったかも、もうはっきりしない。
あれからずいぶん長い時間が過ぎた。
あのときは、誰かと付き合うことも、その先にある暮らしも、想像できなかった。
今は、仕事を終えて帰る道に、会いたい人がいる。
それが何だか、不思議だった。
スマートフォンが震えた。
芽からだった。
『昨日はありがとうございました。久しぶりにぐっすり眠れました』
新太郎は足を止めた。
『それならよかったです。また何か作りますよ』
少しして、返信が届いた。
『楽しみにしています』
続けて、もう一通。
『日曜日、空いていますか?』
『空いてますよ』
『じゃあ、少しだけ時間をください』
『もちろん。どうしました?』
『それは、会ってからのお楽しみです』
新太郎は思わず笑った。
『分かりました。楽しみにしてます』
スマートフォンをしまい、駅へ向かって歩き出した。
通りの向こうに、小さな洋菓子店が見えた。
ショーウィンドウには赤やピンクの飾りが並び、店先で若い女性が二人、楽しそうに何かを選んでいた。




