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新浦島太郎  作者: ISM
第7章 春を待つ島
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29/31

3 来年も、その先も



 日曜日の午後、二人は駅から少し離れた通りを歩いていた。

 街路樹の裸の枝が、冬の空に細い線を引いていた。陽だまりには、まだ名前のつかない春の気配が漂っている。

 芽は淡いベージュのコートに白いマフラーを巻き、新太郎の隣を歩いていた。先日、部屋着に眼鏡をかけていた姿とはずいぶん違って見える。

「もう、疲れは取れました?」

「はい。あの日は、びっくりするくらい眠れました」

「それならよかった」

「目が覚めたら、夕方だったんです」

「そんなに?」

「新太郎さん、黙って帰っちゃってるし」

「起こすのも悪いと思って」

「分かってます。でも、ちょっと残念でした」

 芽はそう言って、マフラーに口元を埋めた。

「今日は、どこに行きましょうか」

 新太郎が尋ねると、芽は少し考えた。

「特に決めてないんです」

「そうなんですか?」

「はい。新太郎さんに会いたかっただけなので」

「じゃあ、僕も同じです」

 芽は顔を上げた。

「ふふ。そういうこと、普通に言いますよね」

「変でした?」

「いいえ」

 芽は首を振った。

「嬉しいです」


 二人は駅前の通りを抜け、川沿いの遊歩道へ向かった。

 水面には午後の日差しが反射し、ときおり風に崩れていた。

 川岸にはまだ葉をつけていない木々が並んでいたが、枝先には小さな芽が膨らみ始めている。

「あ、見てください」

 芽が足を止めた。

 植え込みの根元に、小さな黄色い花が咲いていた。

「こんなところに」

「春が近いんですね」

「まだ寒いですけどね」

「でも、ちゃんと準備してるんですね」

 芽はしゃがんで、しばらく花を眺めていた。

 新太郎も隣に立ち止まった。

 通り過ぎる人たちの足音が、背後で小さく響いていた。

「芽さん」

「はい?」

「今日は、仕事のことを考えてませんか?」

 芽は振り返った。

「どうでしょう」

「考えてるんですね」

「少しだけ」

 そう言って笑った。

「でも、今はこっちの方が大事です」

「こっち?」

 芽は立ち上がり、新太郎の手を取った。

「こっちです」

 新太郎はその手を握り返した。


 しばらく歩くと、小さな喫茶店があった。

 窓際の席が空いているのを見つけ、二人は中に入った。

 新太郎はコーヒーを、芽は温かい紅茶を注文した。

 店内には静かな音楽が流れていた。

「そういえば、金曜日は研究施設に行ってたんですよね」

 芽がカップに手を添えながら言った。

「はい」

「どうでした?」

「今回は、昔のことをいろいろ思い出しました」

「どんなことですか?」

「中学生のころの話とか」

「へえ」

 芽は興味深そうに顔を上げた。

「聞いてもいいですか?」

「たいした話じゃないですよ」

「そう言われると、余計に気になります」

 新太郎は笑った。

「中学一年のとき、三年生の先輩からチョコレートをもらったことがあって」

「えっ」

 芽はカップを置いた。

「それ、告白じゃないですか」

「まあ、そうだったんでしょうね」

「だったんでしょうね、って」

「それで、どうなったんですか?」

「何もなかったです。卒業しちゃいましたし」

「もったいない」

「そうですか?」

「だって、勇気を出して渡してくれたんでしょう?」

「そうですね。でも、中一の僕には、どう答えていいのか分からなくて」

「新太郎さんにも、そんな時代があったんですね」

「僕だって中学生だったことはありますよ」

 芽は声を立てて笑った。

「そうですよね」

 それから少しだけ、考えるような顔をした。

「でも、その先輩、きっと嬉しかったと思います」

「何がですか?」

「受け取ってもらえたこと」

 新太郎は、階段の踊り場で笑った先輩の顔を思い出した。

「そうだったらいいですね」

 芽は微笑み、紅茶を一口飲んだ。

「……ところで」

「はい」

「今日は何の日か、覚えてます?」

「もちろん」

「本当に?」

「バレンタインデーですよね」

「よかった」

 芽は鞄に手を伸ばしかけて、途中でやめた。

「どうしました?」

「いえ。もう少し後にします」

「何をですか?」

「秘密です」

「さっきから秘密ばっかりですね」

「今日はそういう日なんです」

 芽はいたずらっぽく笑った。


 店を出るころには、日差しが少し傾いていた。

 川沿いを駅へ戻りながら、二人は取りとめのない話をした。

 芽は研究室で育てている小さな観葉植物の話をした。忙しい日に水をやり忘れても、思いのほか元気なのだという。

「名前、つけてるんですか?」

「つけてませんよ」

「芽さんなのに?」

「どういう意味ですか?」

「植物と仲良さそうだなと思って」

「それなら、新太郎さんは魚に名前をつけるんですか?」

「釣った魚にですか?」

「はい」

「それは、ちょっと食べづらくなりますね」

 芽は笑いながら、新太郎の腕に軽く触れた。


 駅の近くまで戻ると、芽が足を止めた。

「あの、新太郎さん」

「はい」

「ちょっと待ってください」

 芽は鞄の中を探り、小さな紙袋を取り出した。

「これ」

 新太郎は袋と芽の顔を交互に見た。

「僕にですか?」

「はい」

「ありがとうございます」

「まだ中、見てないですよ」

「でも、嬉しいですから」

 芽は少し照れたように笑った。

「よかったら、開けてみてください」

 新太郎は袋から小さな箱を取り出した。

 蓋を開けると、形の違うチョコレートが四つ並んでいた。

「おいしそうですね」

「どれが好きか分からなかったので、いろいろ入っているのにしました」

「僕、チョコレートは何でも好きですよ」

「それ、選ぶ前に聞けばよかったです」

 二人は笑った。

「一つ食べてもいいですか?」

「もちろん」

 新太郎は丸いチョコレートを一つつまんだ。

 口に入れると、ほろ苦さのあとから、ゆっくり甘さが広がった。

「おいしい」

「本当ですか?」

「はい。芽さんも一つどうです?」

「いいんですか?」

「四つありますから」

 芽は少し迷ってから、隣の一つを取った。

「じゃあ、いただきます」

 二人はしばらく、並んでチョコレートを味わった。

「自分で買ったのに、人からもらったみたい」

 芽が言った。

「じゃあ、僕からのプレゼントってことで」

「それはずるいです」

「そうですか?」

「はい。新太郎さんは何も選んでないじゃないですか」

「確かに」

 芽は笑った。

「でも、いいです」

「いいんですか?」

「今日は、半分こしたかったので」

 新太郎は芽を見た。

 芽は少し恥ずかしそうに視線を落としたが、すぐに顔を上げた。

「来年も、一緒に食べましょうね」

「はい」

 新太郎は答えた。

「来年は僕が選びますよ」

「じゃあ、再来年は私ですね」

「ずいぶん先まで決まりましたね」

「だめですか?」

「いいえ。楽しみです」

 芽は嬉しそうに笑った。


 別れ際、芽は新太郎のコートの袖を軽く引いた。

「新太郎さん」

「はい」

「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ」

「この前も、今日も……何だか、私ばっかり」

「そんなことないですよ」

「そうですか?」

「はい。僕も楽しかったですから」

 芽はしばらく新太郎を見つめていた。

 それから、少し背伸びをして、彼の頬にそっと唇を触れさせた。

 新太郎が驚いている間に、芽は離れた。

「……また、連絡します」

 芽は頬を赤くして笑った。

「はい」

 新太郎も笑った。

「待ってます」

 改札へ向かう芽の後ろ姿を、しばらく見送った。


 帰宅した新太郎は、コートを脱ぎ、残ったチョコレートを箱ごとテーブルに置いた。

 部屋は静かだった。

 窓の外には、向かいの建物の明かりがいくつか灯っていた。

 新太郎は箱の蓋を開けた。

 残りは二つ。

 どちらから食べようか迷い、結局、蓋を閉じた。

 今日はもう、十分だった。

 テーブルの端には、チョコレートの入っていた紙袋が置かれていた。

 淡い水色の袋だった。

 表面には銀色の細い線で、二匹の魚が向かい合うように描かれていた。



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