3 来年も、その先も
日曜日の午後、二人は駅から少し離れた通りを歩いていた。
街路樹の裸の枝が、冬の空に細い線を引いていた。陽だまりには、まだ名前のつかない春の気配が漂っている。
芽は淡いベージュのコートに白いマフラーを巻き、新太郎の隣を歩いていた。先日、部屋着に眼鏡をかけていた姿とはずいぶん違って見える。
「もう、疲れは取れました?」
「はい。あの日は、びっくりするくらい眠れました」
「それならよかった」
「目が覚めたら、夕方だったんです」
「そんなに?」
「新太郎さん、黙って帰っちゃってるし」
「起こすのも悪いと思って」
「分かってます。でも、ちょっと残念でした」
芽はそう言って、マフラーに口元を埋めた。
「今日は、どこに行きましょうか」
新太郎が尋ねると、芽は少し考えた。
「特に決めてないんです」
「そうなんですか?」
「はい。新太郎さんに会いたかっただけなので」
「じゃあ、僕も同じです」
芽は顔を上げた。
「ふふ。そういうこと、普通に言いますよね」
「変でした?」
「いいえ」
芽は首を振った。
「嬉しいです」
二人は駅前の通りを抜け、川沿いの遊歩道へ向かった。
水面には午後の日差しが反射し、ときおり風に崩れていた。
川岸にはまだ葉をつけていない木々が並んでいたが、枝先には小さな芽が膨らみ始めている。
「あ、見てください」
芽が足を止めた。
植え込みの根元に、小さな黄色い花が咲いていた。
「こんなところに」
「春が近いんですね」
「まだ寒いですけどね」
「でも、ちゃんと準備してるんですね」
芽はしゃがんで、しばらく花を眺めていた。
新太郎も隣に立ち止まった。
通り過ぎる人たちの足音が、背後で小さく響いていた。
「芽さん」
「はい?」
「今日は、仕事のことを考えてませんか?」
芽は振り返った。
「どうでしょう」
「考えてるんですね」
「少しだけ」
そう言って笑った。
「でも、今はこっちの方が大事です」
「こっち?」
芽は立ち上がり、新太郎の手を取った。
「こっちです」
新太郎はその手を握り返した。
しばらく歩くと、小さな喫茶店があった。
窓際の席が空いているのを見つけ、二人は中に入った。
新太郎はコーヒーを、芽は温かい紅茶を注文した。
店内には静かな音楽が流れていた。
「そういえば、金曜日は研究施設に行ってたんですよね」
芽がカップに手を添えながら言った。
「はい」
「どうでした?」
「今回は、昔のことをいろいろ思い出しました」
「どんなことですか?」
「中学生のころの話とか」
「へえ」
芽は興味深そうに顔を上げた。
「聞いてもいいですか?」
「たいした話じゃないですよ」
「そう言われると、余計に気になります」
新太郎は笑った。
「中学一年のとき、三年生の先輩からチョコレートをもらったことがあって」
「えっ」
芽はカップを置いた。
「それ、告白じゃないですか」
「まあ、そうだったんでしょうね」
「だったんでしょうね、って」
「それで、どうなったんですか?」
「何もなかったです。卒業しちゃいましたし」
「もったいない」
「そうですか?」
「だって、勇気を出して渡してくれたんでしょう?」
「そうですね。でも、中一の僕には、どう答えていいのか分からなくて」
「新太郎さんにも、そんな時代があったんですね」
「僕だって中学生だったことはありますよ」
芽は声を立てて笑った。
「そうですよね」
それから少しだけ、考えるような顔をした。
「でも、その先輩、きっと嬉しかったと思います」
「何がですか?」
「受け取ってもらえたこと」
新太郎は、階段の踊り場で笑った先輩の顔を思い出した。
「そうだったらいいですね」
芽は微笑み、紅茶を一口飲んだ。
「……ところで」
「はい」
「今日は何の日か、覚えてます?」
「もちろん」
「本当に?」
「バレンタインデーですよね」
「よかった」
芽は鞄に手を伸ばしかけて、途中でやめた。
「どうしました?」
「いえ。もう少し後にします」
「何をですか?」
「秘密です」
「さっきから秘密ばっかりですね」
「今日はそういう日なんです」
芽はいたずらっぽく笑った。
店を出るころには、日差しが少し傾いていた。
川沿いを駅へ戻りながら、二人は取りとめのない話をした。
芽は研究室で育てている小さな観葉植物の話をした。忙しい日に水をやり忘れても、思いのほか元気なのだという。
「名前、つけてるんですか?」
「つけてませんよ」
「芽さんなのに?」
「どういう意味ですか?」
「植物と仲良さそうだなと思って」
「それなら、新太郎さんは魚に名前をつけるんですか?」
「釣った魚にですか?」
「はい」
「それは、ちょっと食べづらくなりますね」
芽は笑いながら、新太郎の腕に軽く触れた。
駅の近くまで戻ると、芽が足を止めた。
「あの、新太郎さん」
「はい」
「ちょっと待ってください」
芽は鞄の中を探り、小さな紙袋を取り出した。
「これ」
新太郎は袋と芽の顔を交互に見た。
「僕にですか?」
「はい」
「ありがとうございます」
「まだ中、見てないですよ」
「でも、嬉しいですから」
芽は少し照れたように笑った。
「よかったら、開けてみてください」
新太郎は袋から小さな箱を取り出した。
蓋を開けると、形の違うチョコレートが四つ並んでいた。
「おいしそうですね」
「どれが好きか分からなかったので、いろいろ入っているのにしました」
「僕、チョコレートは何でも好きですよ」
「それ、選ぶ前に聞けばよかったです」
二人は笑った。
「一つ食べてもいいですか?」
「もちろん」
新太郎は丸いチョコレートを一つつまんだ。
口に入れると、ほろ苦さのあとから、ゆっくり甘さが広がった。
「おいしい」
「本当ですか?」
「はい。芽さんも一つどうです?」
「いいんですか?」
「四つありますから」
芽は少し迷ってから、隣の一つを取った。
「じゃあ、いただきます」
二人はしばらく、並んでチョコレートを味わった。
「自分で買ったのに、人からもらったみたい」
芽が言った。
「じゃあ、僕からのプレゼントってことで」
「それはずるいです」
「そうですか?」
「はい。新太郎さんは何も選んでないじゃないですか」
「確かに」
芽は笑った。
「でも、いいです」
「いいんですか?」
「今日は、半分こしたかったので」
新太郎は芽を見た。
芽は少し恥ずかしそうに視線を落としたが、すぐに顔を上げた。
「来年も、一緒に食べましょうね」
「はい」
新太郎は答えた。
「来年は僕が選びますよ」
「じゃあ、再来年は私ですね」
「ずいぶん先まで決まりましたね」
「だめですか?」
「いいえ。楽しみです」
芽は嬉しそうに笑った。
別れ際、芽は新太郎のコートの袖を軽く引いた。
「新太郎さん」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「この前も、今日も……何だか、私ばっかり」
「そんなことないですよ」
「そうですか?」
「はい。僕も楽しかったですから」
芽はしばらく新太郎を見つめていた。
それから、少し背伸びをして、彼の頬にそっと唇を触れさせた。
新太郎が驚いている間に、芽は離れた。
「……また、連絡します」
芽は頬を赤くして笑った。
「はい」
新太郎も笑った。
「待ってます」
改札へ向かう芽の後ろ姿を、しばらく見送った。
帰宅した新太郎は、コートを脱ぎ、残ったチョコレートを箱ごとテーブルに置いた。
部屋は静かだった。
窓の外には、向かいの建物の明かりがいくつか灯っていた。
新太郎は箱の蓋を開けた。
残りは二つ。
どちらから食べようか迷い、結局、蓋を閉じた。
今日はもう、十分だった。
テーブルの端には、チョコレートの入っていた紙袋が置かれていた。
淡い水色の袋だった。
表面には銀色の細い線で、二匹の魚が向かい合うように描かれていた。




