↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新浦島太郎  作者: ISM
第8章 時間の渦
PR
30/31

1 花吹雪



 川沿いの桜は、ちょうど満開を迎えていた。

 遊歩道の両側から伸びた枝が、川の上で重なるように広がっている。ほのかに紅を帯びた白い花が春の日差しを受け、水面にもその色を映していた。

「思っていたより、ずっときれいですね」

 芽が足を止めた。

「そうですね。こんなに咲いているとは思いませんでした」

「新太郎さん、ここは初めてですか?」

「ええ。近くを通ったことはあるんですけど、桜の季節に来たのは初めてです」

「私も初めてです」

 芽はそう言って、川の向こう岸を眺めた。

 対岸にも桜並木が続き、ところどころで花見を楽しむ人たちの姿が見えた。

「来年も来たいですね」

「まだ今日の花見が始まったばかりですよ」

「そうですけど」

 芽は笑った。

「気に入っちゃいました」

「じゃあ、来年も」

「はい。約束です」

 二人は再び歩き始めた。

 川沿いには、散歩を楽しむ家族連れや、ベンチに腰掛けて話をしている老夫婦の姿があった。小さな子供が、地面に落ちた花びらを両手ですくい上げている。

 芽はその様子を見て、ふっと笑った。

「春って、いいですね」

「そうですね」

「なんだか、外に出たくなります」

「今日は出てきて正解でしたね」

「はい。誘ってくれてありがとうございます」

「僕も来たかったですから」

 新太郎はそう言って、頭上に広がる桜を見上げた。

 枝の隙間から差し込む日差しが、足元に柔らかな影を落としている。川面には光が揺れ、ときおり風が吹くたびに小さな波が立った。

「そういえば、ホワイトデーの」

 芽が思い出したように言った。

「あの鉢植え、元気にしてますよ」

「それはよかった。枯れてたらどうしようかと思ってました」

「そんなに信用ないですか?」

「いえ、芽さん、忙しいから」

「ちゃんとお世話してますよ。お菓子はもうなくなっちゃいましたけど」

「そっちは早かったですね」

「おいしかったですから」

「実は、あれを選ぶのに結構迷ったんですよ」

「お菓子ですか?」

「ええ。どれがいいか決められなくて」

「それで三つも?」

「一応、三つまで絞ったんです」

 芽は吹き出した。

「最初はいくつあったんですか?」

「それは聞かない方がいいと思います」

「そんなに?」

「お店の人にも、だいぶ相談しました」

「迷惑なお客さんですね」

「たぶん、そう思われてたでしょうね」

 二人は笑った。

「でも、どうして植物も一緒に?」

 芽が尋ねた。

「芽さん、よく花とか見てるでしょう。だから」

「見られてましたか」

「まあ、なんとなく」

 芽は少し嬉しそうに笑った。

「大事に育てますね」

「お願いします。僕より長生きさせてください」

「そんなに?難しいかもしれませんで」

「いや、冗談ですよ」

「ふふ。分かってます」

 芽は楽しそうに笑った。

「でも、来年はそんなに悩まなくていいですからね」

「じゃあ、来年は鉢植えを三つにします」

「それは困ります」

「どうしてですか?」

「部屋が植物だらけになっちゃいます」

「それも悪くないと思いますけど」

「新太郎さんがお世話しに来てくれるなら、考えます」

「それなら、まず水やりの勉強からですね」

 芽は声を立てて笑った。


 少し先では、桜の枝が川の上まで低く張り出していた。芽は手すりに近づき、その枝を見上げた。

「こんなにたくさん咲いているのに、散るのはあっという間なんですよね」

「そうですね。来週にはもう葉桜かもしれません」

「なんだか、もったいないですね」

「でも、だから毎年見に来たくなるのかもしれませんよ」

「そういうものですか?」

「たぶん」

 新太郎が答えると、芽は少し考えるように桜を見上げた。

「じゃあ、来年も楽しみにしておきます」

「はい」

 ひときわ強い北風が吹いた。

 桜の枝が大きく揺れ、無数の花びらが舞い上がった。

 白に淡い紅を残した花びらが、風に巻かれ、二人の周りを踊るように流れていく。

 新太郎は思わず足を止めた。

 頬に触れた一片が、ひんやりと冷たかった。

 白いものが、風に乗ってふわりと舞った。

「珍しいですね」

 芽はそう言って、マフラーに口元を埋めた。

「ほんとですね」

 新太郎は季節外れの雪に、空を見上げた。

 空は青く晴れ渡っていた。風に運ばれてきた白いひとひらが、芽の肩にそっと降りた。

「でも、きれいですね」

 芽が言った。

「そうですね。こういうのも悪くないですね」

 風がやむと、辺りはまた静かになった。

 芽が歩き出そうとしたとき、新太郎はその肩に手を伸ばした。

「ちょっと待って」

「どうしました?」

「花びらがついてます」

 新太郎は芽の肩に乗った桜の花びらを、そっと指先でつまんだ。

「ありがとうございます」

 芽は微笑んだ。

 足元には白に近い花びらが散り、並木の向こうでは、まだ満開の桜が春の日差しを浴びていた。

「新太郎さん」

「はい?」

「写真、撮りませんか?」

「いいですよ」

 芽はスマートフォンを取り出した。

「せっかくだから、二人で」

「じゃあ、誰かに頼みましょうか」

 ちょうど近くを通りかかった年配の女性に声をかけると、快く引き受けてくれた。

 二人は桜の枝が垂れた場所に並んだ。

「もう少し寄った方がいいわよ」

 女性がスマートフォンを構えながら言った。

 芽が少し近づいた。

 新太郎も、肩が触れるくらいまで体を寄せた。

「はい、笑って」

 シャッターの音がした。

「もう一枚撮るわね」

 女性は角度を少し変え、もう一度シャッターを押した。

「ありがとうございます」

 芽がスマートフォンを受け取った。

 画面には、満開の桜を背に並んだ二人が写っていた。

「いい写真ですね」

 芽が嬉しそうに言った。

「そうですね」

「あとで送りますね」

「お願いします」

 芽は画面に映る二人を眺め、少し照れくさそうに笑った。

「どうしました?」

「いえ、こうして見ると、なんだか不思議だなって」

「何がですか?」

「去年の今頃は、新太郎さんのこと、まだ知らなかったんですよね」

「そうですね」

「それが、今は一緒にお花見してるんですから」

「去年の僕に教えても、信じないでしょうね」

「ふふ。私もです」

 芽はもう一度写真に目を落とした。

「でも、こういうのって、いいですね」

「こういうの?」

「少しずつ、思い出が増えていくのって」

 新太郎は頷いた。

「そうですね。これからも増やしていきましょう」

「はい」

 芽は嬉しそうに答えた。

 それから二人は、川沿いの小さな喫茶店に入った。

 店内には四人掛けのテーブルがいくつか並び、窓際の席からは桜並木が見えた。

 新太郎はコーヒーを、芽は紅茶を注文した。

「ここ、いいですね」

 芽が窓の外を見ながら言った。

「桜を見ながら休めるのは、贅沢ですね」

「歩き疲れたところでしたし」

「そんなに歩きました?」

「新太郎さんは平気かもしれませんけど、私は普段あまり歩かないので」

「研究室と家の往復ですもんね」

「そうなんです。もう少し運動しないと」

「じゃあ、これから暖かくなるし、休みの日は散歩でもしますか」

「いいですね。でも、毎週だと疲れちゃうかもしれません」

「無理しない程度に」

「はい。それなら」

 運ばれてきた紅茶に、芽はミルクを少し注いだ。

 窓の外では、歩道を行き交う人たちの頭上で、桜の枝がゆっくり揺れていた。

「春になると、何か新しいことを始めたくなりませんか?」

 芽が尋ねた。

「新しいことですか」

「はい。旅行とか、習い事とか」

「芽さんは何か始めたいことがあるんですか?」

「まだ決めてないんですけど、今まで行ったことのないところに行ってみたいです」

「旅行ですね」

「そうですね。できれば、海がきれいなところ」

「また海ですか?」

「だって、新太郎さんが好きでしょう?」

「まあ、そうですけど」

「私も、好きになりましたから」

 芽はそう言って、紅茶を一口飲んだ。

「じゃあ、夏になったらどこか行きましょうか」

「本当ですか?」

「はい。休みが合えば」

「どこがいいでしょうね」

「まだ時間がありますから、ゆっくり考えましょう」

「そうですね。行きたいところ、いくつか探しておきます」

「お願いします」

 芽は嬉しそうに笑った。

「でも、その前に虫取りですね」

 新太郎が言うと、芽は目を丸くした。

「まだ覚えてたんですか?」

「もちろん。約束しましたから。まだ虫取り網は買ってないですけどね」

「本当に行くつもりなんですね」

「そのつもりですよ」

「ふふ。大人二人で虫取り網を持って歩くんですか?」

「ちょっと怪しいですかね」

「かなり」

 二人は笑った。

「でも、虫取りなんて何年ぶりでしょう」

 芽はカップを置いた。

「小学生のころ以来かもしれません」

「僕も、それくらいですね」

「ちゃんと捕まえられるでしょうか」

「どうでしょう。昔は結構得意だったんですけど」

「じゃあ、期待してます」

「そんなに期待されると困りますね」

「大丈夫です。捕まえられなくても、怒りませんから」

「それなら安心です」

 芽は楽しそうに笑った。

 新太郎も笑いながら、窓の外へ目を向けた。

 川沿いの桜は、こぼれ落ちそうな新雪を枝に抱き、まだしばらく咲いていそうだった。

 こうして一緒に過ごす休日が、少しずつ当たり前になってきた。

 次の週末も、その次の週末も。

 春が過ぎれば夏が来る。

 夏が過ぎれば、また秋が来る。

 そんな当たり前の季節の巡りを、これからも芽と一緒に過ごしていけたらいい。

 新太郎はそう思った。

「新太郎さん?」

 芽がこちらを見ていた。

「どうしました?」

「いえ、何でもないです」

「何か考えてました?」

「ちょっと先のことを」

「先のこと?」

「夏の旅行とか」

「まだ何も決まってませんよ」

「そうですね」

 新太郎は笑った。

「でも、楽しみです」

「私もです」

 芽はそう言って、窓の外へ目を向けた。

 川沿いを歩く人たちの間を、春の風が通り抜けていく。

 窓ガラスの向こうで、風に乗った花びらが一枚、ゆっくりと舞い落ちていった。

 恥じらうような白色の花びらだった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。