1 花吹雪
川沿いの桜は、ちょうど満開を迎えていた。
遊歩道の両側から伸びた枝が、川の上で重なるように広がっている。ほのかに紅を帯びた白い花が春の日差しを受け、水面にもその色を映していた。
「思っていたより、ずっときれいですね」
芽が足を止めた。
「そうですね。こんなに咲いているとは思いませんでした」
「新太郎さん、ここは初めてですか?」
「ええ。近くを通ったことはあるんですけど、桜の季節に来たのは初めてです」
「私も初めてです」
芽はそう言って、川の向こう岸を眺めた。
対岸にも桜並木が続き、ところどころで花見を楽しむ人たちの姿が見えた。
「来年も来たいですね」
「まだ今日の花見が始まったばかりですよ」
「そうですけど」
芽は笑った。
「気に入っちゃいました」
「じゃあ、来年も」
「はい。約束です」
二人は再び歩き始めた。
川沿いには、散歩を楽しむ家族連れや、ベンチに腰掛けて話をしている老夫婦の姿があった。小さな子供が、地面に落ちた花びらを両手ですくい上げている。
芽はその様子を見て、ふっと笑った。
「春って、いいですね」
「そうですね」
「なんだか、外に出たくなります」
「今日は出てきて正解でしたね」
「はい。誘ってくれてありがとうございます」
「僕も来たかったですから」
新太郎はそう言って、頭上に広がる桜を見上げた。
枝の隙間から差し込む日差しが、足元に柔らかな影を落としている。川面には光が揺れ、ときおり風が吹くたびに小さな波が立った。
「そういえば、ホワイトデーの」
芽が思い出したように言った。
「あの鉢植え、元気にしてますよ」
「それはよかった。枯れてたらどうしようかと思ってました」
「そんなに信用ないですか?」
「いえ、芽さん、忙しいから」
「ちゃんとお世話してますよ。お菓子はもうなくなっちゃいましたけど」
「そっちは早かったですね」
「おいしかったですから」
「実は、あれを選ぶのに結構迷ったんですよ」
「お菓子ですか?」
「ええ。どれがいいか決められなくて」
「それで三つも?」
「一応、三つまで絞ったんです」
芽は吹き出した。
「最初はいくつあったんですか?」
「それは聞かない方がいいと思います」
「そんなに?」
「お店の人にも、だいぶ相談しました」
「迷惑なお客さんですね」
「たぶん、そう思われてたでしょうね」
二人は笑った。
「でも、どうして植物も一緒に?」
芽が尋ねた。
「芽さん、よく花とか見てるでしょう。だから」
「見られてましたか」
「まあ、なんとなく」
芽は少し嬉しそうに笑った。
「大事に育てますね」
「お願いします。僕より長生きさせてください」
「そんなに?難しいかもしれませんで」
「いや、冗談ですよ」
「ふふ。分かってます」
芽は楽しそうに笑った。
「でも、来年はそんなに悩まなくていいですからね」
「じゃあ、来年は鉢植えを三つにします」
「それは困ります」
「どうしてですか?」
「部屋が植物だらけになっちゃいます」
「それも悪くないと思いますけど」
「新太郎さんがお世話しに来てくれるなら、考えます」
「それなら、まず水やりの勉強からですね」
芽は声を立てて笑った。
少し先では、桜の枝が川の上まで低く張り出していた。芽は手すりに近づき、その枝を見上げた。
「こんなにたくさん咲いているのに、散るのはあっという間なんですよね」
「そうですね。来週にはもう葉桜かもしれません」
「なんだか、もったいないですね」
「でも、だから毎年見に来たくなるのかもしれませんよ」
「そういうものですか?」
「たぶん」
新太郎が答えると、芽は少し考えるように桜を見上げた。
「じゃあ、来年も楽しみにしておきます」
「はい」
ひときわ強い北風が吹いた。
桜の枝が大きく揺れ、無数の花びらが舞い上がった。
白に淡い紅を残した花びらが、風に巻かれ、二人の周りを踊るように流れていく。
新太郎は思わず足を止めた。
頬に触れた一片が、ひんやりと冷たかった。
白いものが、風に乗ってふわりと舞った。
「珍しいですね」
芽はそう言って、マフラーに口元を埋めた。
「ほんとですね」
新太郎は季節外れの雪に、空を見上げた。
空は青く晴れ渡っていた。風に運ばれてきた白いひとひらが、芽の肩にそっと降りた。
「でも、きれいですね」
芽が言った。
「そうですね。こういうのも悪くないですね」
風がやむと、辺りはまた静かになった。
芽が歩き出そうとしたとき、新太郎はその肩に手を伸ばした。
「ちょっと待って」
「どうしました?」
「花びらがついてます」
新太郎は芽の肩に乗った桜の花びらを、そっと指先でつまんだ。
「ありがとうございます」
芽は微笑んだ。
足元には白に近い花びらが散り、並木の向こうでは、まだ満開の桜が春の日差しを浴びていた。
「新太郎さん」
「はい?」
「写真、撮りませんか?」
「いいですよ」
芽はスマートフォンを取り出した。
「せっかくだから、二人で」
「じゃあ、誰かに頼みましょうか」
ちょうど近くを通りかかった年配の女性に声をかけると、快く引き受けてくれた。
二人は桜の枝が垂れた場所に並んだ。
「もう少し寄った方がいいわよ」
女性がスマートフォンを構えながら言った。
芽が少し近づいた。
新太郎も、肩が触れるくらいまで体を寄せた。
「はい、笑って」
シャッターの音がした。
「もう一枚撮るわね」
女性は角度を少し変え、もう一度シャッターを押した。
「ありがとうございます」
芽がスマートフォンを受け取った。
画面には、満開の桜を背に並んだ二人が写っていた。
「いい写真ですね」
芽が嬉しそうに言った。
「そうですね」
「あとで送りますね」
「お願いします」
芽は画面に映る二人を眺め、少し照れくさそうに笑った。
「どうしました?」
「いえ、こうして見ると、なんだか不思議だなって」
「何がですか?」
「去年の今頃は、新太郎さんのこと、まだ知らなかったんですよね」
「そうですね」
「それが、今は一緒にお花見してるんですから」
「去年の僕に教えても、信じないでしょうね」
「ふふ。私もです」
芽はもう一度写真に目を落とした。
「でも、こういうのって、いいですね」
「こういうの?」
「少しずつ、思い出が増えていくのって」
新太郎は頷いた。
「そうですね。これからも増やしていきましょう」
「はい」
芽は嬉しそうに答えた。
それから二人は、川沿いの小さな喫茶店に入った。
店内には四人掛けのテーブルがいくつか並び、窓際の席からは桜並木が見えた。
新太郎はコーヒーを、芽は紅茶を注文した。
「ここ、いいですね」
芽が窓の外を見ながら言った。
「桜を見ながら休めるのは、贅沢ですね」
「歩き疲れたところでしたし」
「そんなに歩きました?」
「新太郎さんは平気かもしれませんけど、私は普段あまり歩かないので」
「研究室と家の往復ですもんね」
「そうなんです。もう少し運動しないと」
「じゃあ、これから暖かくなるし、休みの日は散歩でもしますか」
「いいですね。でも、毎週だと疲れちゃうかもしれません」
「無理しない程度に」
「はい。それなら」
運ばれてきた紅茶に、芽はミルクを少し注いだ。
窓の外では、歩道を行き交う人たちの頭上で、桜の枝がゆっくり揺れていた。
「春になると、何か新しいことを始めたくなりませんか?」
芽が尋ねた。
「新しいことですか」
「はい。旅行とか、習い事とか」
「芽さんは何か始めたいことがあるんですか?」
「まだ決めてないんですけど、今まで行ったことのないところに行ってみたいです」
「旅行ですね」
「そうですね。できれば、海がきれいなところ」
「また海ですか?」
「だって、新太郎さんが好きでしょう?」
「まあ、そうですけど」
「私も、好きになりましたから」
芽はそう言って、紅茶を一口飲んだ。
「じゃあ、夏になったらどこか行きましょうか」
「本当ですか?」
「はい。休みが合えば」
「どこがいいでしょうね」
「まだ時間がありますから、ゆっくり考えましょう」
「そうですね。行きたいところ、いくつか探しておきます」
「お願いします」
芽は嬉しそうに笑った。
「でも、その前に虫取りですね」
新太郎が言うと、芽は目を丸くした。
「まだ覚えてたんですか?」
「もちろん。約束しましたから。まだ虫取り網は買ってないですけどね」
「本当に行くつもりなんですね」
「そのつもりですよ」
「ふふ。大人二人で虫取り網を持って歩くんですか?」
「ちょっと怪しいですかね」
「かなり」
二人は笑った。
「でも、虫取りなんて何年ぶりでしょう」
芽はカップを置いた。
「小学生のころ以来かもしれません」
「僕も、それくらいですね」
「ちゃんと捕まえられるでしょうか」
「どうでしょう。昔は結構得意だったんですけど」
「じゃあ、期待してます」
「そんなに期待されると困りますね」
「大丈夫です。捕まえられなくても、怒りませんから」
「それなら安心です」
芽は楽しそうに笑った。
新太郎も笑いながら、窓の外へ目を向けた。
川沿いの桜は、こぼれ落ちそうな新雪を枝に抱き、まだしばらく咲いていそうだった。
こうして一緒に過ごす休日が、少しずつ当たり前になってきた。
次の週末も、その次の週末も。
春が過ぎれば夏が来る。
夏が過ぎれば、また秋が来る。
そんな当たり前の季節の巡りを、これからも芽と一緒に過ごしていけたらいい。
新太郎はそう思った。
「新太郎さん?」
芽がこちらを見ていた。
「どうしました?」
「いえ、何でもないです」
「何か考えてました?」
「ちょっと先のことを」
「先のこと?」
「夏の旅行とか」
「まだ何も決まってませんよ」
「そうですね」
新太郎は笑った。
「でも、楽しみです」
「私もです」
芽はそう言って、窓の外へ目を向けた。
川沿いを歩く人たちの間を、春の風が通り抜けていく。
窓ガラスの向こうで、風に乗った花びらが一枚、ゆっくりと舞い落ちていった。
恥じらうような白色の花びらだった。




