2 夏の約束
網の先が、勢いよく枝に引っかかった。
「あっ」
新太郎が引くと、枝が大きくしなった。
「ちょっと待ってください」
芽が慌てて声を上げた。
「大丈夫です。すぐ取れますから」
「本当ですか?」
「たぶん」
「昨日も同じこと言ってましたよ」
「昨日?」
「バーベキューの火がなかなかつかなかったとき」
「あれは炭が湿ってたんですよ」
「管理人さんが来たら、すぐつきましたけど」
「……そうでしたね」
芽が笑い出した。
新太郎はもう一度、網の柄をそっと持ち上げた。枝から外れた網が勢いよく戻ってきて、危うく自分の頭に当たりそうになる。
「危ない!」
芽が身を引いた。
「今のはちょっと危なかったですね」
「ちょっとじゃないです。虫を捕まえる前に、新太郎さんが捕まりそうでした」
「誰にですか?」
「木に」
新太郎は網を見下ろした。
「なかなか手強いですね」
「木が?」
「ええ」
「相手を間違えてませんか?」
二人は顔を見合わせて笑った。
頭上では蝉が鳴いていた。
長野の山間にあるキャンプ場は、朝からよく晴れていた。木々の間を抜ける風には涼しさが残っているが、日なたに出ると夏の強い日差しが肌を照らした。
遊歩道の脇には背の高い草が茂り、その向こうには白樺やクヌギの木が続いている。
少し離れた場所から、子供たちの声が聞こえてきた。
「それにしても、本当に買ったんですね」
芽が新太郎の持つ網を見た。
「約束しましたから」
「ちょっと疑ってました」
「信用ないですね」
「だって、大人になって虫取り網を買う人、あまりいないでしょう?」
「お店でも少し恥ずかしかったですよ」
「どうしてですか?」
「店員さんに、お子さんと行かれるんですかって聞かれて」
「何て答えたんです?」
「自分で使いますって」
芽は口元を押さえた。
「それで?」
「店員さん、一瞬黙りました」
「ふふっ」
「でも、大人用の丈夫なものも売っていると教えてくれましたよ」
「よかったですね。丈夫で」
「ええ。さっきも壊れませんでしたから」
芽はとうとう声を立てて笑った。
キャンプ場に来たのは、前日の昼過ぎだった。
二人ともテントや寝袋を持っていなかったので、宿泊には小さなコテージを選んだ。
木造の建物にはベッドと簡単な台所があり、外には屋根のついたバーベキュー用のスペースが設けられていた。
到着して荷物を置くと、二人はキャンプ場のそばを流れる川へ向かった。
釣り道具は現地で借りられた。新太郎は久しぶりの川釣りに夢中になり、芽はその隣で竿を握ったまま、流れる水を眺めていた。
夕方、釣った魚をキャンプ場の調理場で下処理して、塩を振って串に刺した。夕食には、あらかじめ用意されていた肉や野菜も並んだ。
魚の皮が少しずつ色づき、脂が落ちるたびに炭が小さく音を立てた。
「魚って、こうやって焼くとおいしそうですね」
芽は焼き上がった魚を皿に移しながら言った。
「焼きたてですからね」
「でも、さっきまで泳いでたんですよね」
「そうですよ」
「なんだか不思議な気分です」
「食べにくいですか?」
「いえ。ちゃんといただきます」
芽は両手を合わせてから、箸で身をほぐした。
一口食べると、目を丸くした。
「おいしい」
「でしょう?」
「新太郎さん、もっともっと食べられそうです」
「じゃあ今から釣ってきます」
「えっ、本当に?」
「冗談ですよ」
「もう。ちょっと期待しちゃったじゃないですか」
二人は笑った。
夜になると、コテージの周りは静かになった。
外の椅子に並んで座り、二人はしばらく空を眺めていた。
木々の向こうに見える星は、街で見るよりもずっと多かった。
「明日、ちゃんと起きられるでしょうか」
芽が言った。
「そんなに早起きしなくても大丈夫ですよ」
「虫って、朝の方がいるんじゃないですか?」
「種類によりますけどね」
「じゃあ、何を捕まえるんです?」
「それは明日のお楽しみで」
「決めてないんですね」
「……まあ、そうとも言います」
芽は笑った。
「新太郎さんらしいです」
その夜の空気の冷たさを、新太郎はよく覚えていた。
虫の声と、遠くを流れる川の音。
隣に座る芽が、両手で温かいお茶のカップを包んでいたことも。
そして翌朝、約束していた虫取りが始まった。
「いました?」
芽が後ろから尋ねた。
「まだです」
「さっきから木ばっかり見てますけど」
「クワガタがいそうな木を探してるんです」
「見ただけで分かるんですか?」
「何となく」
「また何となく」
「経験ですよ」
「昔の?」
「そうです」
「じゃあ、期待してます」
新太郎は一本のクヌギの前で立ち止まった。
幹には黒っぽい染みがあり、その周りを小さな虫が飛んでいる。
「こういうところにいることがあるんですよ」
「へえ」
芽が顔を近づけた。
「何か甘い匂いがしますね」
「樹液ですね」
「これを食べに来るんですか?」
「そうです」
芽は幹の上の方を見上げた。
「あれは?」
「どれですか?」
「ほら、あの枝の下」
新太郎が目を凝らすと、樹皮の隙間に黒いものが見えた。
「あ、本当だ」
「クワガタですか?」
「ちょっと待ってください」
新太郎は網を構えた。
慎重に近づき、柄を伸ばす。
しかし、あと少しというところで黒いものが動き、木の裏側へ消えた。
「ああっ」
「逃げちゃいました?」
「逃げました」
「惜しかったですね」
「もう少しだったんですけど」
「見つけたのは私ですよ」
「分かってます」
「捕まえる係が頑張らないと」
「厳しいですね」
「期待してますから」
芽は涼しい顔でそう言った。
しばらく歩くと、遊歩道の先に小さな草地が開けた。
草の間には白い花が点々と咲き、蝶が数匹、花から花へ移っていた。
「あ、きれい」
芽が足を止めた。
新太郎も網を下ろした。
「蝶ですね」
「ええ。あの白い花、何でしょう」
「芽さんでも分からないんですか?」
「私、植物の専門家じゃないですよ」
「いつもよく見てるから、詳しいのかと思ってました」
「好きなのと詳しいのは別です」
「なるほど」
芽はしゃがみ込み、花を覗いた。
「でも、名前が分からなくても、きれいなものはきれいでしょう?」
「それはそうですね」
「この花も、ここで咲いているからいいのかもしれませんね」
新太郎は周囲を見回した。
草地の向こうには山の斜面が続き、濃い緑の中にところどころ明るい葉が混じっている。
風が通るたび、草が一斉に傾いた。
「ところで、虫取りは?」
新太郎が尋ねた。
「もう少し見てから」
「虫が逃げますよ」
「花も逃げますから」
新太郎は足元の小さな花を見た。
「……なるほど」
「でしょう?」
芽は得意そうに笑った。
小さな花の上に、一匹の蝶が止まった。
翅をゆっくり開いたり閉じたりしている。
「捕まえます?」
新太郎が小声で聞いた。
芽は首を横に振った。
「これは、見てるだけでいいです」
「了解です」
二人はしばらく、その蝶を眺めていた。
やがて蝶はふわりと舞い上がり、草地の向こうへ飛んでいった。
「ああ、行っちゃった」
「残念でしたね」
「いいんです。飛んでる方がきれいですから」
芽は立ち上がり、スカートについた草を払った。
「じゃあ、次は本当に虫取りしましょう」
「今まで何をしてたんでしょうね」
「散歩です」
「なるほど」
新太郎は網を肩に担いだ。
草地を抜けたところで、芽が突然立ち止まった。
「あっ」
「どうしました?」
「そこ」
芽が指さした先に、一匹のトンボが止まっていた。
細い枝の先で、透明な翅を水平に広げている。
「今度こそ」
新太郎はゆっくり網を持ち上げた。
「待ってください」
芽が小声で言った。
「何ですか?」
「私にやらせてください」
「えっ?」
「一回くらい、捕まえてみたいです」
新太郎は網を手渡した。
「じゃあ、そっと近づいて」
「はい」
「網は上からじゃなくて、後ろから」
「はい」
「それで、素早く」
「分かりました」
芽は慎重に歩き出した。
一歩。
もう一歩。
トンボは動かない。
新太郎は息をひそめて見守った。
次の瞬間、芽が網を振った。
網の中で何かが小さく動いた。
「入った!」
芽が振り返った。
「捕まえました?」
「はい!」
新太郎が駆け寄ると、網の先にトンボが入っていた。
「すごいですね」
「本当ですか?」
「一回で捕まえるとは思いませんでした」
「教え方がよかったんですよ」
「いや、僕はまだ一匹も捕まえてませんから」
「じゃあ、私の勝ちですね」
「勝負だったんですか?」
「今、決めました」
芽は得意そうに笑った。
新太郎は網の中のトンボを傷つけないようにそっと取り出し、芽の手のひらに乗せた。
透明な翅に陽が当たり、細い筋が光った。
「きれいですね」
芽はじっと見つめた。
「飛ばしてあげますか?」
「はい」
芽が手を開くと、トンボは一瞬だけ指先にとどまり、それから勢いよく空へ飛び立った。
二人はその姿を目で追った。
「行っちゃいましたね」
「ええ」
「でも、捕まえましたよね?」
「ちゃんと捕まえました」
「証人ですね」
「はい」
「忘れないでくださいね」
「忘れませんよ」
芽は満足そうに頷いた。
昼近くになると、二人は林を出て川辺へ下りた。
浅い流れのそばには大きな岩がいくつもあり、木陰になった場所に腰を下ろすことができた。
新太郎はリュックから水筒を取り出した。
「はい」
「ありがとうございます」
芽は受け取った水筒のお茶を飲み、長く息をついた。
「歩きましたねえ」
「疲れました?」
「少し。でも楽しかったです」
「虫取りの成果は一匹でしたけど」
「私が捕まえた一匹ですね」
「そこは強調するんですね」
「大事なところですから」
新太郎は笑った。
川の水は澄んでいて、底の小石がよく見えた。流れの速いところでは白い泡が立ち、岸辺の草が水に触れて揺れていた。
「昨日も、ここを通りましたよね」
芽が言った。
「釣りに行くときですか?」
「はい。帰りも」
「そうでしたね」
「私、昨日の夜のこと、まだ覚えてます」
「昨日ですからね」
「そうですけど」
芽は少し笑った。
「外でご飯を食べるの、あんなに楽しいとは思いませんでした」
「また来ましょうか」
「今度は、上手に火をつけることができますかね」
「そこはもう忘れてください」
「忘れません」
芽は即答した。
「それに、魚もおいしかったです」
「二匹も食べましたからね」
「二匹?」
芽が首を傾げた。
「私、一匹しか食べてませんよ」
「あれ、そうでしたっけ」
「新太郎さんが二匹食べたんでしょう?」
新太郎は昨夜の食卓を思い浮かべた。
炭の赤い光。
網の上に並んだ魚。
芽が箸を持って笑っていた。
皿の上には、食べ終わった魚の骨が二つ並んでいたような気がした。
「そうだったかもしれませんね」
「昨日のことなのに」
「おいしかったのは覚えてますよ」
「それは私もです」
芽は笑った。
新太郎もつられて笑った。
川の向こう岸で、鳥が一声鳴いた。
「子供のころ、夏休みって長かったですよね」
芽が言った。
「長かったですね」
「毎日遊んでても、まだ休みが残ってて」
「宿題は最後まで残ってましたけど」
「新太郎さん、そういうタイプだったんですか?」
「計画は立てるんですよ」
「計画だけ?」
「ええ。立派な計画を」
「実行は?」
「八月の終わりにまとめて」
芽は笑った。
「私は先に終わらせる方でした」
「そうでしょうね」
「どういう意味ですか?」
「何となく、そういう気がしました」
「でも、自由研究だけは最後まで残してましたよ」
「意外ですね」
「好きなことをやっていいって言われると、なかなか決められなくて」
「なるほど」
「結局、毎年植物を育てたり、葉っぱを集めたりしてました」
「今とあまり変わらないですね」
「そうかもしれません」
芽は足元の小石を一つ拾い、手のひらで転がした。
「新太郎さんは?」
「僕は虫の観察をしたことがありますよ」
「本当ですか?」
「ええ。何日も同じ木を見に行って」
「ちゃんと記録したんですか?」
「もちろん」
「それなら今日も、もっと捕まえられそうなのに」
「昔の話ですから」
「腕が落ちちゃったんですね」
「厳しいなあ」
芽は笑いながら、小石を元の場所に戻した。
「でも、今日は楽しかったです」
「僕もです」
「虫取りの約束、覚えててくれてありがとうございます」
「こちらこそ、付き合ってくれて」
「来年もやります?」
「もう一度勝負しますか」
「いいですよ」
「次は負けませんから」
「じゃあ、ちゃんと練習しておいてくださいね」
「練習?」
「はい。木に網を引っかけない練習から」
新太郎は苦笑した。
「そこからですか」
「そこからです」
二人の笑い声が、川の音に混じった。
コテージへ戻るころには、陽の当たる道はすっかり暑くなっていた。
芽は玄関先の椅子に座り、靴を脱いで足を伸ばした。
「もう動けません」
「帰る準備、しないといけませんよ」
「あと五分だけ」
「五分ですね」
「十分でもいいです」
「増えてません?」
「気のせいです」
新太郎は隣の椅子に腰を下ろした。
屋根の下には、昨夜のバーベキューの匂いがかすかに残っていた。
向かいの林から、蝉の声が絶え間なく聞こえてくる。
「また来たいですね」
芽が言った。
「ええ」
「今度は、もう少し長く」
「そうしましょう」
芽は目を閉じた。
頬にかかった髪が、風で小さく揺れた。
新太郎はその横顔を眺めながら、次に来るときは何を持ってこようかと考えていた。
釣り道具。
虫取り網。
それから、芽が好きそうなものを何か。
思いつくものはいくつもあった。
「それで、虫取りの方はどうでしたか?」
「結局、芽さんの方が上手でした」
「そうですか」
高瀬は手元の記録に何かを書き込んだ。
「何を捕まえたんです?」
「トンボです。僕はクワガタを捕まえようとしてたんですけど、逃げられてしまって」
「なるほど」
「でも、楽しかったですよ。子供のころに戻ったみたいで」
新太郎は椅子の背にもたれた。
部屋の隅では、空調が低い音を立てていた。
高瀬の前には、記録用の端末と、何枚かの用紙が置かれている。
「その旅行では、ほかにどんなことをされましたか?」
「川で釣りをしました。コテージの外でバーベキューも」
「釣った魚を食べたんですか?」
「ええ。塩焼きにして」
「おいしかったでしょうね」
「おいしかったです。芽さんも喜んでくれました」
「どんな様子でした?」
「最初は、さっきまで泳いでた魚だからって、少し食べにくそうにしてたんです。でも、一口食べたら気に入ったみたいで」
新太郎は笑った。
「二匹も食べたんですよ」
高瀬は端末に記録を続けた。
「前日のことも、よく覚えていらっしゃるんですね」
「ええ。つい昨日のことみたいです」
「そう感じますか」
「はい」
高瀬は画面を確かめた。
「そのときの景色も、思い出せますか?」
「もちろんです。川がすごくきれいで、山も近くて。夜は星がたくさん見えました」
「星ですか」
「ええ。コテージの外で二人で見てたんです」
「何か話しましたか?」
「明日は虫取りだねって。それから……」
新太郎は少し考えた。
「芽さんが、早起きできるか心配してました」
「なるほど」
高瀬は頷いた。
「ほかには?」
「そうですね……」
新太郎は窓のない壁を見つめた。
木々の向こうに見えた星の光が、まだ目の奥に残っているようだった。
「そのくらいですかね」
「分かりました。ありがとうございます」
高瀬は用紙を一枚めくった。
「では、少し休憩にしましょう」
「はい」
「お水をお持ちしますね」
「ありがとうございます」
高瀬が席を立ち、新太郎は肩を回した。
長く座っていたせいか、背中が少し重かった。
目を閉じると、川の音が聞こえてきそうだった。
芽の笑い声も。
網を持って得意そうに振り返った顔も、はっきりと思い出せた。
あのとき、芽はどんな服を着ていただろう。
淡い色のシャツだった気がする。
それとも、青いシャツだっただろうか。
新太郎は少し考えて、やめた。
服の色なんて、そんなに大事なことではない。
楽しかったことは、ちゃんと覚えている。
それで十分だった。
しばらくして高瀬が戻ってきた。
紙コップに入った水を受け取り、新太郎は半分ほど飲んだ。
「お疲れではありませんか?」
「大丈夫です」
「無理はなさらないでくださいね」
「はい」
高瀬は向かいの椅子に座り、端末の画面を確かめた。
「では、もう少し続けてもよろしいでしょうか」
「お願いします」
「今度は、別の出来事について伺いたいと思います」
「分かりました」
「ほかに、最近のことで印象に残っていることはありますか?」
新太郎は少し考えた。
いくつもの景色が頭に浮かんだ。
その中に、夜空いっぱいに広がる光があった。
「花火ですね」
「花火ですか」
「ええ。毎年、芽さんと見に行っているんです」
「そうですか」
高瀬は画面から顔を上げた。
「では、そのときのことを聞かせてください」
新太郎は頷いた。
遠くで花火の上がる音がした。
夜空に大きな光の輪が開き、少し遅れて、腹に響くような音が届く。
隣には芽がいた。
その横顔が、赤や金色の光に照らされていた。
「きれいですね」
芽が言った。
新太郎は、その声まで覚えていた。




