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新浦島太郎  作者: ISM
第8章 時間の渦
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2 夏の約束



 網の先が、勢いよく枝に引っかかった。

「あっ」

 新太郎が引くと、枝が大きくしなった。

「ちょっと待ってください」

 芽が慌てて声を上げた。

「大丈夫です。すぐ取れますから」

「本当ですか?」

「たぶん」

「昨日も同じこと言ってましたよ」

「昨日?」

「バーベキューの火がなかなかつかなかったとき」

「あれは炭が湿ってたんですよ」

「管理人さんが来たら、すぐつきましたけど」

「……そうでしたね」

 芽が笑い出した。

 新太郎はもう一度、網の柄をそっと持ち上げた。枝から外れた網が勢いよく戻ってきて、危うく自分の頭に当たりそうになる。

「危ない!」

 芽が身を引いた。

「今のはちょっと危なかったですね」

「ちょっとじゃないです。虫を捕まえる前に、新太郎さんが捕まりそうでした」

「誰にですか?」

「木に」

 新太郎は網を見下ろした。

「なかなか手強いですね」

「木が?」

「ええ」

「相手を間違えてませんか?」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 頭上では蝉が鳴いていた。

 長野の山間にあるキャンプ場は、朝からよく晴れていた。木々の間を抜ける風には涼しさが残っているが、日なたに出ると夏の強い日差しが肌を照らした。

 遊歩道の脇には背の高い草が茂り、その向こうには白樺やクヌギの木が続いている。

 少し離れた場所から、子供たちの声が聞こえてきた。

「それにしても、本当に買ったんですね」

 芽が新太郎の持つ網を見た。

「約束しましたから」

「ちょっと疑ってました」

「信用ないですね」

「だって、大人になって虫取り網を買う人、あまりいないでしょう?」

「お店でも少し恥ずかしかったですよ」

「どうしてですか?」

「店員さんに、お子さんと行かれるんですかって聞かれて」

「何て答えたんです?」

「自分で使いますって」

 芽は口元を押さえた。

「それで?」

「店員さん、一瞬黙りました」

「ふふっ」

「でも、大人用の丈夫なものも売っていると教えてくれましたよ」

「よかったですね。丈夫で」

「ええ。さっきも壊れませんでしたから」

 芽はとうとう声を立てて笑った。


 キャンプ場に来たのは、前日の昼過ぎだった。

 二人ともテントや寝袋を持っていなかったので、宿泊には小さなコテージを選んだ。

 木造の建物にはベッドと簡単な台所があり、外には屋根のついたバーベキュー用のスペースが設けられていた。

 到着して荷物を置くと、二人はキャンプ場のそばを流れる川へ向かった。

 釣り道具は現地で借りられた。新太郎は久しぶりの川釣りに夢中になり、芽はその隣で竿を握ったまま、流れる水を眺めていた。

 夕方、釣った魚をキャンプ場の調理場で下処理して、塩を振って串に刺した。夕食には、あらかじめ用意されていた肉や野菜も並んだ。

 魚の皮が少しずつ色づき、脂が落ちるたびに炭が小さく音を立てた。

「魚って、こうやって焼くとおいしそうですね」

 芽は焼き上がった魚を皿に移しながら言った。

「焼きたてですからね」

「でも、さっきまで泳いでたんですよね」

「そうですよ」

「なんだか不思議な気分です」

「食べにくいですか?」

「いえ。ちゃんといただきます」

 芽は両手を合わせてから、箸で身をほぐした。

 一口食べると、目を丸くした。

「おいしい」

「でしょう?」

「新太郎さん、もっともっと食べられそうです」

「じゃあ今から釣ってきます」

「えっ、本当に?」

「冗談ですよ」

「もう。ちょっと期待しちゃったじゃないですか」

 二人は笑った。

 夜になると、コテージの周りは静かになった。

 外の椅子に並んで座り、二人はしばらく空を眺めていた。

 木々の向こうに見える星は、街で見るよりもずっと多かった。

「明日、ちゃんと起きられるでしょうか」

 芽が言った。

「そんなに早起きしなくても大丈夫ですよ」

「虫って、朝の方がいるんじゃないですか?」

「種類によりますけどね」

「じゃあ、何を捕まえるんです?」

「それは明日のお楽しみで」

「決めてないんですね」

「……まあ、そうとも言います」

 芽は笑った。

「新太郎さんらしいです」

 その夜の空気の冷たさを、新太郎はよく覚えていた。

 虫の声と、遠くを流れる川の音。

 隣に座る芽が、両手で温かいお茶のカップを包んでいたことも。

 そして翌朝、約束していた虫取りが始まった。

「いました?」

 芽が後ろから尋ねた。

「まだです」

「さっきから木ばっかり見てますけど」

「クワガタがいそうな木を探してるんです」

「見ただけで分かるんですか?」

「何となく」

「また何となく」

「経験ですよ」

「昔の?」

「そうです」

「じゃあ、期待してます」

 新太郎は一本のクヌギの前で立ち止まった。

 幹には黒っぽい染みがあり、その周りを小さな虫が飛んでいる。

「こういうところにいることがあるんですよ」

「へえ」

 芽が顔を近づけた。

「何か甘い匂いがしますね」

「樹液ですね」

「これを食べに来るんですか?」

「そうです」

 芽は幹の上の方を見上げた。

「あれは?」

「どれですか?」

「ほら、あの枝の下」

 新太郎が目を凝らすと、樹皮の隙間に黒いものが見えた。

「あ、本当だ」

「クワガタですか?」

「ちょっと待ってください」

 新太郎は網を構えた。

 慎重に近づき、柄を伸ばす。

 しかし、あと少しというところで黒いものが動き、木の裏側へ消えた。

「ああっ」

「逃げちゃいました?」

「逃げました」

「惜しかったですね」

「もう少しだったんですけど」

「見つけたのは私ですよ」

「分かってます」

「捕まえる係が頑張らないと」

「厳しいですね」

「期待してますから」

 芽は涼しい顔でそう言った。


 しばらく歩くと、遊歩道の先に小さな草地が開けた。

 草の間には白い花が点々と咲き、蝶が数匹、花から花へ移っていた。

「あ、きれい」

 芽が足を止めた。

 新太郎も網を下ろした。

「蝶ですね」

「ええ。あの白い花、何でしょう」

「芽さんでも分からないんですか?」

「私、植物の専門家じゃないですよ」

「いつもよく見てるから、詳しいのかと思ってました」

「好きなのと詳しいのは別です」

「なるほど」

 芽はしゃがみ込み、花を覗いた。

「でも、名前が分からなくても、きれいなものはきれいでしょう?」

「それはそうですね」

「この花も、ここで咲いているからいいのかもしれませんね」

 新太郎は周囲を見回した。

 草地の向こうには山の斜面が続き、濃い緑の中にところどころ明るい葉が混じっている。

 風が通るたび、草が一斉に傾いた。

「ところで、虫取りは?」

 新太郎が尋ねた。

「もう少し見てから」

「虫が逃げますよ」

「花も逃げますから」

 新太郎は足元の小さな花を見た。

「……なるほど」

「でしょう?」

 芽は得意そうに笑った。

 小さな花の上に、一匹の蝶が止まった。

 翅をゆっくり開いたり閉じたりしている。

「捕まえます?」

 新太郎が小声で聞いた。

 芽は首を横に振った。

「これは、見てるだけでいいです」

「了解です」

 二人はしばらく、その蝶を眺めていた。

 やがて蝶はふわりと舞い上がり、草地の向こうへ飛んでいった。

「ああ、行っちゃった」

「残念でしたね」

「いいんです。飛んでる方がきれいですから」

 芽は立ち上がり、スカートについた草を払った。

「じゃあ、次は本当に虫取りしましょう」

「今まで何をしてたんでしょうね」

「散歩です」

「なるほど」

 新太郎は網を肩に担いだ。

 草地を抜けたところで、芽が突然立ち止まった。

「あっ」

「どうしました?」

「そこ」

 芽が指さした先に、一匹のトンボが止まっていた。

 細い枝の先で、透明な翅を水平に広げている。

「今度こそ」

 新太郎はゆっくり網を持ち上げた。

「待ってください」

 芽が小声で言った。

「何ですか?」

「私にやらせてください」

「えっ?」

「一回くらい、捕まえてみたいです」

 新太郎は網を手渡した。

「じゃあ、そっと近づいて」

「はい」

「網は上からじゃなくて、後ろから」

「はい」

「それで、素早く」

「分かりました」

 芽は慎重に歩き出した。

 一歩。

 もう一歩。

 トンボは動かない。

 新太郎は息をひそめて見守った。

 次の瞬間、芽が網を振った。

 網の中で何かが小さく動いた。

「入った!」

 芽が振り返った。

「捕まえました?」

「はい!」

 新太郎が駆け寄ると、網の先にトンボが入っていた。

「すごいですね」

「本当ですか?」

「一回で捕まえるとは思いませんでした」

「教え方がよかったんですよ」

「いや、僕はまだ一匹も捕まえてませんから」

「じゃあ、私の勝ちですね」

「勝負だったんですか?」

「今、決めました」

 芽は得意そうに笑った。

 新太郎は網の中のトンボを傷つけないようにそっと取り出し、芽の手のひらに乗せた。

 透明な翅に陽が当たり、細い筋が光った。

「きれいですね」

 芽はじっと見つめた。

「飛ばしてあげますか?」

「はい」

 芽が手を開くと、トンボは一瞬だけ指先にとどまり、それから勢いよく空へ飛び立った。

 二人はその姿を目で追った。

「行っちゃいましたね」

「ええ」

「でも、捕まえましたよね?」

「ちゃんと捕まえました」

「証人ですね」

「はい」

「忘れないでくださいね」

「忘れませんよ」

 芽は満足そうに頷いた。

 昼近くになると、二人は林を出て川辺へ下りた。

 浅い流れのそばには大きな岩がいくつもあり、木陰になった場所に腰を下ろすことができた。

 新太郎はリュックから水筒を取り出した。

「はい」

「ありがとうございます」

 芽は受け取った水筒のお茶を飲み、長く息をついた。

「歩きましたねえ」

「疲れました?」

「少し。でも楽しかったです」

「虫取りの成果は一匹でしたけど」

「私が捕まえた一匹ですね」

「そこは強調するんですね」

「大事なところですから」

 新太郎は笑った。

 川の水は澄んでいて、底の小石がよく見えた。流れの速いところでは白い泡が立ち、岸辺の草が水に触れて揺れていた。

「昨日も、ここを通りましたよね」

 芽が言った。

「釣りに行くときですか?」

「はい。帰りも」

「そうでしたね」

「私、昨日の夜のこと、まだ覚えてます」

「昨日ですからね」

「そうですけど」

 芽は少し笑った。

「外でご飯を食べるの、あんなに楽しいとは思いませんでした」

「また来ましょうか」

「今度は、上手に火をつけることができますかね」

「そこはもう忘れてください」

「忘れません」

 芽は即答した。

「それに、魚もおいしかったです」

「二匹も食べましたからね」

「二匹?」

 芽が首を傾げた。

「私、一匹しか食べてませんよ」

「あれ、そうでしたっけ」

「新太郎さんが二匹食べたんでしょう?」

 新太郎は昨夜の食卓を思い浮かべた。

 炭の赤い光。

 網の上に並んだ魚。

 芽が箸を持って笑っていた。

 皿の上には、食べ終わった魚の骨が二つ並んでいたような気がした。

「そうだったかもしれませんね」

「昨日のことなのに」

「おいしかったのは覚えてますよ」

「それは私もです」

 芽は笑った。

 新太郎もつられて笑った。

 川の向こう岸で、鳥が一声鳴いた。

「子供のころ、夏休みって長かったですよね」

 芽が言った。

「長かったですね」

「毎日遊んでても、まだ休みが残ってて」

「宿題は最後まで残ってましたけど」

「新太郎さん、そういうタイプだったんですか?」

「計画は立てるんですよ」

「計画だけ?」

「ええ。立派な計画を」

「実行は?」

「八月の終わりにまとめて」

 芽は笑った。

「私は先に終わらせる方でした」

「そうでしょうね」

「どういう意味ですか?」

「何となく、そういう気がしました」

「でも、自由研究だけは最後まで残してましたよ」

「意外ですね」

「好きなことをやっていいって言われると、なかなか決められなくて」

「なるほど」

「結局、毎年植物を育てたり、葉っぱを集めたりしてました」

「今とあまり変わらないですね」

「そうかもしれません」

 芽は足元の小石を一つ拾い、手のひらで転がした。

「新太郎さんは?」

「僕は虫の観察をしたことがありますよ」

「本当ですか?」

「ええ。何日も同じ木を見に行って」

「ちゃんと記録したんですか?」

「もちろん」

「それなら今日も、もっと捕まえられそうなのに」

「昔の話ですから」

「腕が落ちちゃったんですね」

「厳しいなあ」

 芽は笑いながら、小石を元の場所に戻した。

「でも、今日は楽しかったです」

「僕もです」

「虫取りの約束、覚えててくれてありがとうございます」

「こちらこそ、付き合ってくれて」

「来年もやります?」

「もう一度勝負しますか」

「いいですよ」

「次は負けませんから」

「じゃあ、ちゃんと練習しておいてくださいね」

「練習?」

「はい。木に網を引っかけない練習から」

 新太郎は苦笑した。

「そこからですか」

「そこからです」

 二人の笑い声が、川の音に混じった。

 コテージへ戻るころには、陽の当たる道はすっかり暑くなっていた。

 芽は玄関先の椅子に座り、靴を脱いで足を伸ばした。

「もう動けません」

「帰る準備、しないといけませんよ」

「あと五分だけ」

「五分ですね」

「十分でもいいです」

「増えてません?」

「気のせいです」

 新太郎は隣の椅子に腰を下ろした。

 屋根の下には、昨夜のバーベキューの匂いがかすかに残っていた。

 向かいの林から、蝉の声が絶え間なく聞こえてくる。

「また来たいですね」

 芽が言った。

「ええ」

「今度は、もう少し長く」

「そうしましょう」

 芽は目を閉じた。

 頬にかかった髪が、風で小さく揺れた。

 新太郎はその横顔を眺めながら、次に来るときは何を持ってこようかと考えていた。

 釣り道具。

 虫取り網。

 それから、芽が好きそうなものを何か。

 思いつくものはいくつもあった。

「それで、虫取りの方はどうでしたか?」

「結局、芽さんの方が上手でした」

「そうですか」

 高瀬は手元の記録に何かを書き込んだ。

「何を捕まえたんです?」

「トンボです。僕はクワガタを捕まえようとしてたんですけど、逃げられてしまって」

「なるほど」

「でも、楽しかったですよ。子供のころに戻ったみたいで」

 新太郎は椅子の背にもたれた。

 部屋の隅では、空調が低い音を立てていた。

 高瀬の前には、記録用の端末と、何枚かの用紙が置かれている。

「その旅行では、ほかにどんなことをされましたか?」

「川で釣りをしました。コテージの外でバーベキューも」

「釣った魚を食べたんですか?」

「ええ。塩焼きにして」

「おいしかったでしょうね」

「おいしかったです。芽さんも喜んでくれました」

「どんな様子でした?」

「最初は、さっきまで泳いでた魚だからって、少し食べにくそうにしてたんです。でも、一口食べたら気に入ったみたいで」

 新太郎は笑った。

「二匹も食べたんですよ」

 高瀬は端末に記録を続けた。

「前日のことも、よく覚えていらっしゃるんですね」

「ええ。つい昨日のことみたいです」

「そう感じますか」

「はい」

 高瀬は画面を確かめた。

「そのときの景色も、思い出せますか?」

「もちろんです。川がすごくきれいで、山も近くて。夜は星がたくさん見えました」

「星ですか」

「ええ。コテージの外で二人で見てたんです」

「何か話しましたか?」

「明日は虫取りだねって。それから……」

 新太郎は少し考えた。

「芽さんが、早起きできるか心配してました」

「なるほど」

 高瀬は頷いた。

「ほかには?」

「そうですね……」

 新太郎は窓のない壁を見つめた。

 木々の向こうに見えた星の光が、まだ目の奥に残っているようだった。

「そのくらいですかね」

「分かりました。ありがとうございます」

 高瀬は用紙を一枚めくった。

「では、少し休憩にしましょう」

「はい」

「お水をお持ちしますね」

「ありがとうございます」

 高瀬が席を立ち、新太郎は肩を回した。

 長く座っていたせいか、背中が少し重かった。

 目を閉じると、川の音が聞こえてきそうだった。

 芽の笑い声も。

 網を持って得意そうに振り返った顔も、はっきりと思い出せた。

 あのとき、芽はどんな服を着ていただろう。

 淡い色のシャツだった気がする。

 それとも、青いシャツだっただろうか。

 新太郎は少し考えて、やめた。

 服の色なんて、そんなに大事なことではない。

 楽しかったことは、ちゃんと覚えている。

 それで十分だった。


 しばらくして高瀬が戻ってきた。

 紙コップに入った水を受け取り、新太郎は半分ほど飲んだ。

「お疲れではありませんか?」

「大丈夫です」

「無理はなさらないでくださいね」

「はい」

 高瀬は向かいの椅子に座り、端末の画面を確かめた。

「では、もう少し続けてもよろしいでしょうか」

「お願いします」

「今度は、別の出来事について伺いたいと思います」

「分かりました」

「ほかに、最近のことで印象に残っていることはありますか?」

 新太郎は少し考えた。

 いくつもの景色が頭に浮かんだ。

 その中に、夜空いっぱいに広がる光があった。

「花火ですね」

「花火ですか」

「ええ。毎年、芽さんと見に行っているんです」

「そうですか」

 高瀬は画面から顔を上げた。

「では、そのときのことを聞かせてください」

 新太郎は頷いた。

 遠くで花火の上がる音がした。

 夜空に大きな光の輪が開き、少し遅れて、腹に響くような音が届く。

 隣には芽がいた。

 その横顔が、赤や金色の光に照らされていた。

「きれいですね」

 芽が言った。

 新太郎は、その声まで覚えていた。




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