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新浦島太郎  作者: ISM
第3章 海の向こう側
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8/26

1 いつもの日曜日



日曜日の午前四時二十分、新太郎はスマートフォンのアラームで目を覚ました。

 窓の外はまだ暗かった。

 部屋の電気を点け、洗面所で顔を洗う。前の晩に用意しておいた服に着替え、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。

 釣りに行く朝は、いつもこんなものだった。

 眠いことは眠い。それでも、仕事の日とは違って、目覚ましを止めてから二度寝しようとは思わない。

 スマートフォンには亮介からメッセージが届いていた。

『起きてる?』

 送信時刻は四時十二分。

『起きた』

 返信すると、すぐに返事が来た。

『寝坊するなよ』

『お前こそ』

『もう準備できてる』

『じゃあ迎えに来て』

『五時な』

 新太郎はスマートフォンをポケットにしまい、キッチンに立った。

 食パンを一枚焼き、コーヒーを淹れる。

 テレビは点けなかった。

 静かな部屋に、トースターの小さな音だけが響いている。

 食べ終わると、玄関に置いてあった道具を確認した。

 ロッドケース、タックルボックス、クーラーボックス。

 忘れ物はなさそうだった。

 五時少し前、亮介の車がマンションの前に停まった。

 新太郎は荷物を持って外に出た。

「おはよう」

 運転席の窓が下がった。

「おう。早いな」

「お前が五時って言ったんだろ」

「そうだった」

 亮介は笑った。

 新太郎は荷物を車の後ろに積み込み、助手席に乗った。

 車内にはコンビニのコーヒーの匂いが漂っていた。

「眠くないのか?」

「少しな」

「運転代わろうか?」

「まだ大丈夫。帰りは頼むかも」

「了解」

 車はゆっくりと走り出した。

 日曜日の早朝だけあって、道路は空いていた。

 街灯に照らされた交差点をいくつか通り過ぎると、亮介が口を開いた。

「で?」

「何が?」

「その後、どうなった?」

「何の話?」

「分かってるくせに」

 新太郎は窓の外を見た。

「別に、普通だよ」

「普通って?」

「連絡取ったり、飯食ったり」

「飯?」

「うん」

「二人で?」

「そう」

 亮介はちらりと新太郎を見た。

「へえ」

「前見て運転しろよ」

「見てるよ」

 しばらく沈黙があった。

 新太郎は、これで話が終わったと思った。

 しかし、亮介はそう簡単には引き下がらなかった。

「で、次は?」

「次?」

「また会うんだろ?」

「まあ」

「いつ?」

「再来週……いや、今度の土曜になるかもしれない」

「何するの?」

「海に行こうかって話になってる」

 亮介は一瞬、黙った。

「海?」

「うん」

「お前、女の子と海行くの?」

「何だよ、その言い方」

「いや、だってお前、海って言ったら釣りじゃん」

「別に釣りだけじゃないだろ」

「へえ」

 亮介は笑った。

「何だよ」

「いや、楽しそうで何より」

「うるさいな」

「で、どこの海?」

「まだ決めてない」

「三浦とか?」

「その辺かな」

「いいじゃん。ドライブして、海見て、飯食って」

「普通だろ」

「そう。普通のデートだな」

 新太郎は返事をしなかった。

 デート。

 自分でもそういうつもりがなかったわけではない。

 けれど、人からそう言われると、妙に落ち着かなかった。

「まだ日程も決まってないから」

「何だ、そうなのか」

「仕事が忙しいらしくて」

「へえ。何の仕事?」

「製薬会社の研究員」

「すごいな」

「そうなのかな」

「そりゃすごいだろ。何の研究?」

「脳とか、記憶とか」

「へえ」

 亮介は少し考えた。

「難しそうだな」

「実際、難しいんだと思う」

「お前、話についていけるの?」

「失礼だな」

「いや、だって」

「俺だって、多少は分かるよ」

「何が?」

「……人によって時間の感じ方が違うとか」

「それは分かるだろ」

「そうだけど」

 亮介は笑った。

「まあ、いいじゃん。話してて楽しいなら」

 新太郎は頷いた。

「そうだな」

 車は高速道路に入った。

 空の端が、少しずつ明るくなり始めていた。

 釣り場に着いたのは、六時を少し回ったころだった。

 海沿いの駐車場には、すでに何台か車が停まっている。

 新太郎たちは荷物を下ろし、堤防へ向かった。

 東の空には薄い雲がかかっていた。

 海面は穏やかで、岸壁に小さな波が当たっている。

「いい感じだな」

 亮介が言った。

「そうだな」

 二人は周囲の釣り人と間隔を取り、道具を準備した。

 新太郎は竿を継ぎ、リールを取り付ける。

 仕掛けを確認し、足元にクーラーボックスを置いた。

 亮介は隣で、早くも準備を終えかけていた。

「今日は負けないからな」

「何に?」

「釣果」

「勝負してたのか?」

「今決めた」

「勝手だな」

 亮介は笑った。

 新太郎は海を見た。

 潮の匂いがした。

 遠くで船のエンジン音が聞こえる。

 竿を持つと、いつもの感覚が戻ってきた。

 仕事のことも、明日の予定も、しばらくは考えなくていい。

 ただ、海を見ていればよかった。

 しばらくして、亮介の竿先が小さく揺れた。

「おっ」

 亮介がリールを巻き始めた。

「来た?」

「たぶん」

 海面近くで銀色の魚が跳ねた。

「サバだな」

「よし」

 亮介は慎重に魚を抜き上げた。

 堤防の上で、二十センチほどのサバが跳ねた。

「一匹目」

「おめでとう」

「余裕だな」

「まだ始まったばっかりだろ」

 新太郎も仕掛けを投入した。

 しばらくすると、竿先に小さな反応があった。

 少し待ってから竿を上げる。

 仕掛けの先には、小さなアジが掛かっていた。

「お、アジ」

 亮介が覗き込んだ。

「小さいな」

「そうだな」

 新太郎は魚を濡らした手で押さえ、針を外した。

 十数センチほどの小さなアジだった。

 海へ戻すと、魚は一瞬横向きになり、それから泳いでいった。

「一匹には数えないのか?」

 亮介が聞いた。

「数えなくていいよ」

「じゃあ俺の勝ちだな」

「まだ始まったばっかりだって」

 亮介は笑った。

 太陽が雲の上に顔を出した。

 海面に光の道が伸びていく。

 新太郎はしばらく、その景色を眺めていた。

 ふと、芽のことを思い出した。

『ずっと見ていられるような海、かな』

 彼女はそう言っていた。

 この海なら、どうだろう。

 釣り人が並ぶ堤防。

 沖を行き交う船。

 遠くには港のクレーンも見える。

 新太郎にとっては見慣れた景色だったが、芽が求めている海とは少し違う気がした。

 もっと静かで、視界が開けた場所。

 釣りをしなくても、ただ座って過ごせるような場所。

「何考えてんの?」

 亮介が聞いた。

「いや、別に」

「また例の人?」

「……何で分かるんだよ」

「顔に出てる」

「そんなに?」

「かなり」

 新太郎は苦笑した。

 亮介は海を見ながら言った。

「だったら、釣り場じゃなくて普通の海岸に連れてけばいいじゃん」

「そうだな」

「三浦の方なら、いいところあるだろ」

「うん」

「それで、もし釣りしたいって言ったら、できる場所に行けばいいし」

「そうだな」

「お前さ」

「何?」

「相手に楽しんでもらおうとするのはいいけど、自分も楽しめよ」

 新太郎は亮介を見た。

「何だよ、急に」

「いや、何となく」

「お前までそれか」

「何が?」

「何でもない」

 二人は笑った。

 午前十時を過ぎるころには、釣り人も増えてきた。

 新太郎はその後、小ぶりなサバを二匹釣った。

 亮介は三匹。

「俺の勝ち」

 亮介が得意そうに言った。

「そうだな」

「もっと悔しがれよ」

「別に勝負してないし」

「つまんないな」

 二人は道具を片づけ、釣り場を後にした。

 帰り道、亮介が運転する車の助手席で、新太郎はスマートフォンを確認した。

 芽からメッセージが届いていた。

『おはようございます。今日は釣りの日でしたよね。何か釣れましたか?』

 送信時刻は午前九時半。

 新太郎は返信した。

『サバが二匹釣れました。今、帰るところです』

 しばらくして、返事が来た。

『お疲れさまでした。海はきれいでしたか?』

 新太郎は窓の外を見た。

 高速道路の向こうに、まだ少しだけ海が見えていた。

『きれいでしたよ。でも、芽さんと行くなら別の場所がいいかな』

『どうしてですか?』

『釣り人が多いので。もっとゆっくりできるところを探してます』

 返信はすぐに届いた。

『そんなに気を遣わなくて大丈夫ですよ』

『気を遣ってるわけじゃないです』

『本当ですか?』

『はい。俺も行ってみたいところがあるので』

 少し間があった。

『じゃあ、楽しみにしてます』

 新太郎は笑った。

 続けて、もう一通。

『来週の土曜日、お休みが取れそうです』

 新太郎は画面を見つめた。

『本当ですか?』

『はい。今のところ大丈夫です』

『じゃあ、土曜日にしましょう』

『ぜひ』

 新太郎は少し考えてから、もう一通送った。

『三浦半島の方、どうですか?』

 しばらくして、返信が来た。

『いいですね。行ってみたいです』

 新太郎はスマートフォンをポケットにしまった。

「決まった?」

 亮介が聞いた。

「何が?」

「海」

「……うん」

「いつ?」

「来週の土曜」

「よかったじゃん」

「まあな」

 亮介は笑った。

「楽しんでこいよ」

「分かってる」

 車は都心へ向かって走り続けた。

 新太郎はシートに背中を預け、窓の外を見た。

 来週の土曜日。

 芽と二人で海へ行く。

 その予定が、ようやく本当の約束になった。

 新太郎は目を閉じた。

 車の振動が心地よかった。

 頭の中には、さっきまで見ていた海が広がっていた。

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