1 いつもの日曜日
日曜日の午前四時二十分、新太郎はスマートフォンのアラームで目を覚ました。
窓の外はまだ暗かった。
部屋の電気を点け、洗面所で顔を洗う。前の晩に用意しておいた服に着替え、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。
釣りに行く朝は、いつもこんなものだった。
眠いことは眠い。それでも、仕事の日とは違って、目覚ましを止めてから二度寝しようとは思わない。
スマートフォンには亮介からメッセージが届いていた。
『起きてる?』
送信時刻は四時十二分。
『起きた』
返信すると、すぐに返事が来た。
『寝坊するなよ』
『お前こそ』
『もう準備できてる』
『じゃあ迎えに来て』
『五時な』
新太郎はスマートフォンをポケットにしまい、キッチンに立った。
食パンを一枚焼き、コーヒーを淹れる。
テレビは点けなかった。
静かな部屋に、トースターの小さな音だけが響いている。
食べ終わると、玄関に置いてあった道具を確認した。
ロッドケース、タックルボックス、クーラーボックス。
忘れ物はなさそうだった。
五時少し前、亮介の車がマンションの前に停まった。
新太郎は荷物を持って外に出た。
「おはよう」
運転席の窓が下がった。
「おう。早いな」
「お前が五時って言ったんだろ」
「そうだった」
亮介は笑った。
新太郎は荷物を車の後ろに積み込み、助手席に乗った。
車内にはコンビニのコーヒーの匂いが漂っていた。
「眠くないのか?」
「少しな」
「運転代わろうか?」
「まだ大丈夫。帰りは頼むかも」
「了解」
車はゆっくりと走り出した。
日曜日の早朝だけあって、道路は空いていた。
街灯に照らされた交差点をいくつか通り過ぎると、亮介が口を開いた。
「で?」
「何が?」
「その後、どうなった?」
「何の話?」
「分かってるくせに」
新太郎は窓の外を見た。
「別に、普通だよ」
「普通って?」
「連絡取ったり、飯食ったり」
「飯?」
「うん」
「二人で?」
「そう」
亮介はちらりと新太郎を見た。
「へえ」
「前見て運転しろよ」
「見てるよ」
しばらく沈黙があった。
新太郎は、これで話が終わったと思った。
しかし、亮介はそう簡単には引き下がらなかった。
「で、次は?」
「次?」
「また会うんだろ?」
「まあ」
「いつ?」
「再来週……いや、今度の土曜になるかもしれない」
「何するの?」
「海に行こうかって話になってる」
亮介は一瞬、黙った。
「海?」
「うん」
「お前、女の子と海行くの?」
「何だよ、その言い方」
「いや、だってお前、海って言ったら釣りじゃん」
「別に釣りだけじゃないだろ」
「へえ」
亮介は笑った。
「何だよ」
「いや、楽しそうで何より」
「うるさいな」
「で、どこの海?」
「まだ決めてない」
「三浦とか?」
「その辺かな」
「いいじゃん。ドライブして、海見て、飯食って」
「普通だろ」
「そう。普通のデートだな」
新太郎は返事をしなかった。
デート。
自分でもそういうつもりがなかったわけではない。
けれど、人からそう言われると、妙に落ち着かなかった。
「まだ日程も決まってないから」
「何だ、そうなのか」
「仕事が忙しいらしくて」
「へえ。何の仕事?」
「製薬会社の研究員」
「すごいな」
「そうなのかな」
「そりゃすごいだろ。何の研究?」
「脳とか、記憶とか」
「へえ」
亮介は少し考えた。
「難しそうだな」
「実際、難しいんだと思う」
「お前、話についていけるの?」
「失礼だな」
「いや、だって」
「俺だって、多少は分かるよ」
「何が?」
「……人によって時間の感じ方が違うとか」
「それは分かるだろ」
「そうだけど」
亮介は笑った。
「まあ、いいじゃん。話してて楽しいなら」
新太郎は頷いた。
「そうだな」
車は高速道路に入った。
空の端が、少しずつ明るくなり始めていた。
釣り場に着いたのは、六時を少し回ったころだった。
海沿いの駐車場には、すでに何台か車が停まっている。
新太郎たちは荷物を下ろし、堤防へ向かった。
東の空には薄い雲がかかっていた。
海面は穏やかで、岸壁に小さな波が当たっている。
「いい感じだな」
亮介が言った。
「そうだな」
二人は周囲の釣り人と間隔を取り、道具を準備した。
新太郎は竿を継ぎ、リールを取り付ける。
仕掛けを確認し、足元にクーラーボックスを置いた。
亮介は隣で、早くも準備を終えかけていた。
「今日は負けないからな」
「何に?」
「釣果」
「勝負してたのか?」
「今決めた」
「勝手だな」
亮介は笑った。
新太郎は海を見た。
潮の匂いがした。
遠くで船のエンジン音が聞こえる。
竿を持つと、いつもの感覚が戻ってきた。
仕事のことも、明日の予定も、しばらくは考えなくていい。
ただ、海を見ていればよかった。
しばらくして、亮介の竿先が小さく揺れた。
「おっ」
亮介がリールを巻き始めた。
「来た?」
「たぶん」
海面近くで銀色の魚が跳ねた。
「サバだな」
「よし」
亮介は慎重に魚を抜き上げた。
堤防の上で、二十センチほどのサバが跳ねた。
「一匹目」
「おめでとう」
「余裕だな」
「まだ始まったばっかりだろ」
新太郎も仕掛けを投入した。
しばらくすると、竿先に小さな反応があった。
少し待ってから竿を上げる。
仕掛けの先には、小さなアジが掛かっていた。
「お、アジ」
亮介が覗き込んだ。
「小さいな」
「そうだな」
新太郎は魚を濡らした手で押さえ、針を外した。
十数センチほどの小さなアジだった。
海へ戻すと、魚は一瞬横向きになり、それから泳いでいった。
「一匹には数えないのか?」
亮介が聞いた。
「数えなくていいよ」
「じゃあ俺の勝ちだな」
「まだ始まったばっかりだって」
亮介は笑った。
太陽が雲の上に顔を出した。
海面に光の道が伸びていく。
新太郎はしばらく、その景色を眺めていた。
ふと、芽のことを思い出した。
『ずっと見ていられるような海、かな』
彼女はそう言っていた。
この海なら、どうだろう。
釣り人が並ぶ堤防。
沖を行き交う船。
遠くには港のクレーンも見える。
新太郎にとっては見慣れた景色だったが、芽が求めている海とは少し違う気がした。
もっと静かで、視界が開けた場所。
釣りをしなくても、ただ座って過ごせるような場所。
「何考えてんの?」
亮介が聞いた。
「いや、別に」
「また例の人?」
「……何で分かるんだよ」
「顔に出てる」
「そんなに?」
「かなり」
新太郎は苦笑した。
亮介は海を見ながら言った。
「だったら、釣り場じゃなくて普通の海岸に連れてけばいいじゃん」
「そうだな」
「三浦の方なら、いいところあるだろ」
「うん」
「それで、もし釣りしたいって言ったら、できる場所に行けばいいし」
「そうだな」
「お前さ」
「何?」
「相手に楽しんでもらおうとするのはいいけど、自分も楽しめよ」
新太郎は亮介を見た。
「何だよ、急に」
「いや、何となく」
「お前までそれか」
「何が?」
「何でもない」
二人は笑った。
午前十時を過ぎるころには、釣り人も増えてきた。
新太郎はその後、小ぶりなサバを二匹釣った。
亮介は三匹。
「俺の勝ち」
亮介が得意そうに言った。
「そうだな」
「もっと悔しがれよ」
「別に勝負してないし」
「つまんないな」
二人は道具を片づけ、釣り場を後にした。
帰り道、亮介が運転する車の助手席で、新太郎はスマートフォンを確認した。
芽からメッセージが届いていた。
『おはようございます。今日は釣りの日でしたよね。何か釣れましたか?』
送信時刻は午前九時半。
新太郎は返信した。
『サバが二匹釣れました。今、帰るところです』
しばらくして、返事が来た。
『お疲れさまでした。海はきれいでしたか?』
新太郎は窓の外を見た。
高速道路の向こうに、まだ少しだけ海が見えていた。
『きれいでしたよ。でも、芽さんと行くなら別の場所がいいかな』
『どうしてですか?』
『釣り人が多いので。もっとゆっくりできるところを探してます』
返信はすぐに届いた。
『そんなに気を遣わなくて大丈夫ですよ』
『気を遣ってるわけじゃないです』
『本当ですか?』
『はい。俺も行ってみたいところがあるので』
少し間があった。
『じゃあ、楽しみにしてます』
新太郎は笑った。
続けて、もう一通。
『来週の土曜日、お休みが取れそうです』
新太郎は画面を見つめた。
『本当ですか?』
『はい。今のところ大丈夫です』
『じゃあ、土曜日にしましょう』
『ぜひ』
新太郎は少し考えてから、もう一通送った。
『三浦半島の方、どうですか?』
しばらくして、返信が来た。
『いいですね。行ってみたいです』
新太郎はスマートフォンをポケットにしまった。
「決まった?」
亮介が聞いた。
「何が?」
「海」
「……うん」
「いつ?」
「来週の土曜」
「よかったじゃん」
「まあな」
亮介は笑った。
「楽しんでこいよ」
「分かってる」
車は都心へ向かって走り続けた。
新太郎はシートに背中を預け、窓の外を見た。
来週の土曜日。
芽と二人で海へ行く。
その予定が、ようやく本当の約束になった。
新太郎は目を閉じた。
車の振動が心地よかった。
頭の中には、さっきまで見ていた海が広がっていた。




