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新浦島太郎  作者: ISM
第2章 潮の満ちるころ
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5 海を見たい

 


 日曜日の午前九時、新太郎はベランダに出て空を見上げた。

 前日の雨が嘘のように晴れていた。

 隣のマンションの屋上には、まだ小さな水たまりが残っている。遠くの空には薄い雲が伸びていたが、風は穏やかだった。

 釣りに行くには悪くない天気だった。

 もっとも、今から出掛けるには少し遅い。

 新太郎は部屋に戻り、冷蔵庫から麦茶を取り出した。

 テーブルの上には、昨夜脱いだシャツが畳まずに置かれている。

 その横に、スマートフォンがあった。

 画面を点ける。

 昨夜、芽から届いた最後のメッセージが表示された。

『はい。私も』

 短い文章だった。

 新太郎はそれを見て、昨日のことを思い出した。

 小さなイタリアンレストラン。

 白いブラウスに緑色のスカート。

 芽が見せてくれた、貝殻の入ったガラス瓶の写真。

 そして、駅の改札で交わした言葉。

『だって、また会う理由になるでしょう?』

 新太郎は麦茶を飲んだ。

 冷たい液体が喉を通っていく。

 あれは冗談だったのだろうか。

 芽はそう言っていた。

 けれど、そのあと少し照れたように笑った顔を思い出すと、どうにも冗談だけではなかったような気がした。

 もちろん、自分の都合のいい解釈かもしれない。

「……考えすぎだな」

 新太郎はグラスを置いた。

 洗濯機を回し、掃除機をかける。

 シンクに残っていた食器を洗い、ゴミをまとめる。

 普段なら昼近くまでかかる家事が、十一時前には終わってしまった。

 することがなくなった。

 新太郎はソファに座り、テレビを点けた。

 日曜日の情報番組が流れている。

 画面では、どこかの観光地の紅葉が紹介されていた。

 まだ色づき始めたばかりの山並みを、出演者が歩いている。

 新太郎はしばらく眺めていたが、やがてテレビを消した。

 スマートフォンを手に取る。

 芽に何か送ろうかと思った。

 しかし、何を送ればいいのか分からなかった。

『おはようございます』

 もう十一時だ。

『今日はいい天気ですね』

 天気予報みたいだ。

『昨日は楽しかったです』

 それは昨夜、もう伝えた。

 新太郎はメッセージ画面を閉じた。

 こういうことに、どうしてこんなに時間を使っているのだろう。

 釣りなら、もっと簡単だった。

 天気を調べ、潮汐表を確認し、釣り場を決める。

 あとは道具を持って出掛ければいい。

 魚が釣れるかどうかは分からないが、少なくとも何をすればいいかは分かっている。

 人間相手だと、そうはいかないらしい。

 そのとき、スマートフォンが震えた。

 亮介からだった。

『来週の日曜、空いてる?』

 新太郎は少し考えてから返信した。

『今のところ空いてる』

『釣り行かない? この前の場所、またサバ回ってるらしい』

『いいね』

『今度はもっと釣ろうぜ』

『お前がな』

『何だよ』

 新太郎は笑った。

 続けて亮介から電話がかかってきた。

「もしもし」

『おう。来週どうする?』

「行くつもりだけど」

『朝五時集合でいい?』

「いいよ」

『前と同じところで』

「了解」

『あとさ』

「何?」

『この前言ってた社員証、どうなった?』

「ああ。返したよ」

『ちゃんと?』

「ちゃんとって何だよ」

『いや、無事に返せたのかなって』

「返せたよ。水曜日に会社まで行ってきた」

『へえ。で?』

「で、って?」

『それだけ?』

「それだけって……」

 新太郎は言葉に詰まった。

 亮介は電話の向こうで笑った。

『何だよ。その間』

「別に」

『あ、何かあったな』

「何もないって」

『嘘つけ』

「社員証返して、お茶飲んだだけだよ」

『お茶?』

「うん」

『二人で?』

「そうだけど」

『へえ』

 亮介の声が少し高くなった。

「何だよ」

『いや、別に』

「絶対何か言いたいだろ」

『その人、かわいい?』

「……まあ」

『まあ?』

「普通に」

『普通にかわいいってこと?』

「うるさいな」

 亮介は声を立てて笑った。

『お前、分かりやすいな』

「何が」

『いや、何でもない』

「来週の釣り、やめるぞ」

『悪かったって』

 まだ笑っている。

『でも、よかったじゃん』

「何が?」

『その人と仲良くなれて』

 新太郎は少し黙った。

「……まあな」

『じゃあ来週、詳しく聞かせろよ』

「釣りの話だけにしろ」

『無理だな』

 電話が切れた。

 新太郎はスマートフォンを置き、ため息をついた。

 亮介には、どうにも隠し事ができない。

 昔からそうだった。

 そのとき、画面がもう一度明るくなった。

 今度は芽だった。

『こんにちは。今日はいいお天気ですね』

 新太郎は思わず笑った。

 さっき自分が送ろうとして、やめた文章とほとんど同じだった。

『こんにちは。本当にいい天気ですね』

 送信する。

 少しして、返信が来た。

『こういう日は、釣りに行くんですか?』

『行きたいところですけど、今日は家にいます』

『珍しいですね』

『毎週行ってるわけじゃないですよ』

『そうなんですね』

 続けて、もう一通。

『私、今朝少し散歩してきました』

『どこへ?』

『近くの公園です。池があるんです』

『池ですか』

『魚探しましたけど、よく分かりませんでした』

『また魚ですか』

『新太郎さんなら、そう聞くと思って』

 新太郎は笑った。

『完全に読まれてますね』

『ふふっ』

 しばらくして、芽から写真が送られてきた。

 水辺の遊歩道だった。

 木々の間から日差しが差し込み、池の水面が光っている。

 岸辺には落ち葉が集まっていた。

『きれいなところですね』

『はい。お気に入りなんです』

『よく行くんですか?』

『たまに。考え事をしたいときとか』

『研究のこと?』

 送信してから、新太郎は少し迷った。

 仕事のことを聞きすぎただろうか。

 けれど、すぐに返信が届いた。

『それもあります。でも、何も考えたくないときにも行きます』

『なるほど』

『新太郎さんは、そういう場所ありますか?』

 新太郎は少し考えた。

『やっぱり海ですかね』

『海』

『はい。釣りしてると、余計なこと考えなくて済むんで』

『いいですね』

 少し間があった。

『私も、海を見たいです』

 新太郎は画面を見つめた。

 昨日、芽が見せてくれた貝殻の写真を思い出した。

 海辺で育ったと言っていた。

 小さいころ、父親に連れられて海を見に行ったこともあるらしい。

『最近、行ってないんですか?』

『ずいぶん行ってません』

『会社の近くにも海はありますよね』

『あります。でも、あそこは何だか違うんです』

『違う?』

『ビルとか道路とか、いろいろ見えるでしょう』

『確かに』

『もっと、海だけが見えるところに行きたいなって』

 新太郎は窓の外を見た。

 東京の空は青かった。

 けれど、そこから海は見えない。

『だったら、今度一緒に行きます?』

 送信してから、新太郎は少し驚いた。

 自分で思っていたより、あっさり誘ってしまった。

 既読がついた。

 返信はなかなか来なかった。

 一分。

 二分。

 新太郎はスマートフォンをテーブルに置いた。

 別に、すぐ返事をする必要はない。

 そう思いながら、また手に取った。

 画面は変わっていなかった。

「……何やってんだ、俺」

 呟いたところで、通知が届いた。

『いいんですか?』

『もちろん』

『釣りの邪魔になりません?』

『釣りしなくてもいいですよ』

『え?』

『海を見るだけでも』

 少しして、返信が来た。

『それ、嬉しいです』

 新太郎は笑った。

『じゃあ、天気のいい日に行きましょう』

『はい』

 続けて、芽からもう一通届いた。

『でも、釣りも少し見てみたいです』

『釣り、したことあります?』

『子どものころに一度だけ』

『何か釣れました?』

『覚えてないんです』

『じゃあ、今度は覚えて帰れるようにしましょう』

『ふふっ。そうですね』

 新太郎はスマートフォンを置いた。

 来週の日曜日は亮介と釣りに行く約束をしたばかりだった。

 その次の週末なら、空いている。

 ただ、芽の仕事の都合もあるだろう。

 新太郎はもう一度スマートフォンを手に取った。

『再来週の土曜あたり、どうですか?』

 しばらくして、返信が来た。

『予定を確認してもいいですか?』

『もちろんです』

『ありがとうございます。明日には分かると思います』

『急がなくて大丈夫ですよ』

『はい』

 それから少し間があった。

『楽しみです』

 新太郎は画面を見て、微笑んだ。

『俺もです』

 送信する。

 その日の夕方、新太郎は釣り道具を整理した。

 押し入れからロッドケースを取り出し、リールを点検する。

 先週使った仕掛けを確認し、傷んだ針を交換した。

 来週の亮介との釣行の準備だった。

 けれど、頭の片隅では別のことを考えていた。

 芽を海に連れていくなら、どこがいいだろう。

 足場がよくて、景色のいい場所。

 釣りをしなくても楽しめるところ。

 できれば、あまり人が多くない場所。

 新太郎はスマートフォンで地図を開いた。

 房総半島。

 三浦半島。

 湘南。

 いくつかの場所を眺めているうちに、いつの間にか一時間近く経っていた。

 ふと、亮介の言葉を思い出した。

『その人、かわいい?』

 新太郎は苦笑した。

 かわいいかどうか。

 もちろん、かわいいと思う。

 けれど、それだけではなかった。

 芽と話していると、時間が早く過ぎる。

 普段なら気にも留めないようなことが、妙に面白く感じられる。

 魚の話をしても、面倒くさがらずに聞いてくれる。

 自分の知らないことを、楽しそうに教えてくれる。

 それに、笑うときの顔が好きだった。

 新太郎はリールをケースに戻した。

 窓の外では、夕日が建物の壁を赤く染めていた。

 そのとき、スマートフォンが震えた。

 芽からだった。

『さっきはありがとうございました。海のこと、考えてたら楽しみになってきました』

 新太郎は返信した。

『まだ場所も決めてないですよ』

『そうでしたね』

『どんな海が好きですか?』

 少しして、返事が届いた。

『静かな海が好きです』

『波がない方がいいですか?』

『波はあってもいいです』

『じゃあ、どういう海ですか?』

 今度は少し長い間があった。

『ずっと見ていられるような海、かな』

 新太郎はその文章を読んだ。

 何となく、芽らしい答えだと思った。

『分かりました。探してみます』

『ありがとうございます』

 続けて、もう一通。

『でも、あんまり頑張らないでくださいね』

『どうして?』

『新太郎さんと行けるなら、どこでも楽しそうなので』

 新太郎はしばらく画面を見つめていた。

 それから、ゆっくりと文字を打った。

『じゃあ、気楽に考えます』

『はい』

 最後に、小さな波の絵文字が送られてきた。

 新太郎はスマートフォンをテーブルに置いた。

 窓の外は、すっかり夕暮れになっていた。

 海へ行く約束。

 まだ日程も場所も決まっていない。

 けれど、新太郎には、それがもう一つの楽しみになっていた。

 来週の日曜日には、亮介と釣りに行く。

 その次の週末には、芽と海へ行くかもしれない。

 そんなことを考えながら、新太郎は窓を開けた。

 夕方の風が、部屋の中へ入ってきた。

 遠くで、電車の走る音が聞こえた。

 新太郎はしばらく、その風に当たっていた。



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