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新浦島太郎  作者: ISM
第2章 潮の満ちるころ
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4 不器用な距離



 木曜日の朝、新太郎はアラームが鳴るより十五分ほど早く目を覚ました。

 枕元のスマートフォンを手に取り、時刻を確認する。午前六時四十五分。

 通知は二件。ニュースアプリと、会社のメールだった。

 新太郎はメッセージアプリを開いた。

 最後に表示されているのは、昨夜のやり取りだった。

『おやすみなさい、新太郎さん』

 その上には、自分が送った『じゃあ、芽さん。おやすみなさい』という文章が残っている。

 新太郎はしばらく画面を眺め、スマートフォンを伏せた。

 別に、新しい連絡を期待していたわけではない。

 ただ、昨日のことが少し気になっていただけだ。

 そう考えながら起き上がり、洗面所へ向かった。

 鏡の中には、いつもどおり寝癖のついた二十九歳の男がいた。

「……何やってんだろ」

 呟いてから、顔を洗った。

 朝食はトーストと目玉焼きだった。

 電気ケトルで湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れる。

 昨日の店で飲んだコーヒーとは、ずいぶん違う味がした。

 それでも、普段はこれで十分だった。

 食べ終えて食器を洗い、ネクタイを締める。

 玄関で靴を履いたところで、スマートフォンが震えた。

『おはようございます。昨日はありがとうございました。ちゃんと帰れましたか?』

 芽からだった。

 新太郎は靴べらを持ったまま、少し笑った。

『おはようございます。無事に帰れました。芽さんも?』

 送信する。

 すぐに既読がついた。

『はい。昨日は久しぶりに楽しかったです』

 新太郎はその文章を読み返した。

 久しぶりに。

 水曜日の夜、運河沿いのカフェで芽は、最近は仕事ばかりだと言っていた。

 研究開発部門にいるらしいが、具体的にどんな仕事をしているのかは、まだよく知らない。

 脳の働きや、記憶の仕組み。

 同じ時間でも、人によって長く感じたり短く感じたりする。

 彼女が話していたことを思い出した。

『俺も楽しかったです。チーズケーキ、おいしかったですね』

 少しして、返信が来た。

『でしょう? 気に入ってもらえて嬉しいです』

『また食べたいです』

『じゃあ、また一緒に行きましょう』

 新太郎は画面を見つめた。

 また一緒に。

 その言葉が、妙に嬉しかった。

『ぜひ』

 短く返信して、スマートフォンをポケットにしまった。

 通勤電車はいつもどおり混んでいた。

 新太郎は吊り革につかまりながら、窓の外を流れる建物を眺めていた。

 いつもと変わらない朝だった。

 それなのに、少しだけ気分がよかった。

 会社に着くと、三宅がすでに自分の席にいた。

「おはようございます」

「おはよう」

「浦さん、昨日早く帰りましたよね」

「うん」

「何かあったんですか?」

「別に」

「別に、ですか」

 三宅は新太郎の顔を見た。

「何だよ」

「いや、何か機嫌よさそうだなって」

「そうか?」

「はい」

「気のせいだろ」

「そうですかね」

 三宅は納得していない顔だった。

 新太郎はパソコンを起動し、メールを開いた。

 午前中は見積書の確認と、取引先への連絡で過ぎた。

 昼休みになり、三宅と近くの定食屋に入った。

 新太郎が生姜焼き定食を注文すると、三宅は向かいでスマートフォンを操作しながら言った。

「浦さん、最近釣り行ってます?」

「先週行ったよ」

「何釣れました?」

「サバ」

「またサバですか」

「またって何だよ」

「いや、いつもサバな気がして」

「この前もサバだったじゃないですか」

「それは先週だろ」

「そうでしたっけ」

 三宅は笑った。

 新太郎は箸を割った。

「お前は休みの日、何してるんだ?」

「彼女と出掛けたりですね」

「へえ」

「浦さんは?」

「釣り」

「それは知ってます」

「じゃあ聞くなよ」

 三宅は笑った。

「彼女とか、作らないんですか?」

「作るって、工作じゃないんだから」

「いや、そういう意味じゃなくて」

「分かってるよ」

「浦さん、普通にモテそうですけどね」

「普通に、って何だよ」

「いや、何となく」

 新太郎は味噌汁を飲んだ。

「お前、今日は何となくが多いな」

「そうですか?」

「そうだよ」

 三宅は笑いながら、唐揚げを口に運んだ。

 新太郎は何も言わなかった。

 芽のことを話す理由はなかったし、話したところで何と言えばいいのか分からなかった。

 路地裏で助けた女性に社員証を返しに行き、コーヒーとチーズケーキをごちそうになった。

 それだけだ。

 少なくとも、今は。

 その日の午後、芽から一通のメッセージが届いた。

『今日はお仕事、忙しいですか?』

 新太郎はデスクで資料を確認していた。

 すぐには返信せず、一区切りついてからスマートフォンを手に取った。

『そこそこです。芽さんは?』

 既読はつかなかった。

 十分。

 二十分。

 三十分。

 新太郎は仕事に戻った。

 夕方になって、ようやく返信が届いた。

『ごめんなさい。急に会議が入ってしまって』

『大丈夫ですよ。お疲れさまです』

『ありがとうございます。まだ少しかかりそうです』

『無理しないでください』

『はい』

 そこでやり取りは途切れた。

 新太郎はスマートフォンを机に置いた。

 製薬会社の研究職というのは、やはり忙しいのだろう。

 昨日も、仕事が終わるのが遅くなったと言っていた。

 大企業なら、会議も多そうだ。

 そう考えて、パソコンの画面に向き直った。

 金曜日は、朝から雨だった。

 窓ガラスを細かな雨粒が流れている。

 新太郎は折り畳み傘を鞄に入れ、いつもどおり会社へ向かった。

 午前十時を過ぎたころ、芽からメッセージが届いた。

『おはようございます。昨日は結局、帰りが遅くなってしまいました』

『お疲れさまです。何時くらいまで?』

 少し間があった。

『十一時くらいです』

『それは大変ですね』

『たまにあるんです』

『今日は早く帰れるといいですね』

『そうですね』

 続けて、もう一通。

『新太郎さんは、週末また釣りですか?』

『天気次第ですね。雨だと行かないかも』

『そうなんですね』

『芽さんは?』

 しばらく返信がなかった。

 昼休みになって、ようやくメッセージが届いた。

『まだ決めていません』

 その後に、もう一通。

『もし、お時間があれば』

 新太郎は画面を見つめた。

 続きが来るのを待った。

 一分ほどして、次の文章が表示された。

『また、ご飯でもいかがですか?』

 新太郎は思わず背筋を伸ばした。

 三宅が顔を上げた。

「どうしたんですか?」

「いや、何でもない」

「何かいいことありました?」

「別に」

「最近それ多いですね」

「仕事しろ」

「昼休みですけど」

 新太郎はスマートフォンを持ったまま、席を立った。

 廊下の窓際まで歩いてから、返信を打った。

『ぜひ。土曜か日曜なら空いてます』

 送信する。

 すぐに既読がついた。

『本当ですか?』

『はい』

『じゃあ、土曜日はどうでしょう』

『大丈夫です』

『よかった』

 新太郎は少し考えた。

『今度は俺にごちそうさせてください』

 しばらくして、返事が来た。

『じゃあ、お言葉に甘えようかな』

『ぜひ』

『でも、高いお店じゃなくていいですよ』

『分かってます』

『本当ですか?』

『たぶん』

 すぐに笑顔の絵文字が送られてきた。

 新太郎は窓の外を見た。

 雨はまだ降っていた。

 灰色の空の下を、車がゆっくり走っている。

 その景色が、さっきまでとは少し違って見えた。

 土曜日。

 新太郎は朝から落ち着かなかった。

 約束は午後六時。

 場所は、都内の小さなイタリアンレストランだった。

 前日に予約を入れた。

 ネットで評判を調べ、口コミを読み、写真を見た。

 それから、もう一度口コミを読んだ。

 普段なら、店選びにそこまで時間をかけることはない。

 けれど今回は、何となく失敗したくなかった。

 午後五時四十分。

 新太郎は待ち合わせ場所に着いた。

 まだ二十分もある。

 駅前の広場には、人が多かった。

 待ち合わせをする人たちが、スマートフォンを見ながら立っている。

 新太郎は柱のそばに立ち、周囲を見渡した。

 五分ほどして、芽が現れた。

 白いブラウスに、濃い緑色のスカート。

 肩には小さなバッグ。

 髪はいつもより少し柔らかく巻かれていた。

「新太郎さん」

 芽が手を振った。

「こんばんは」

「こんばんは。早いですね」

「いや、今来たところです」

「本当ですか?」

「はい」

 芽は腕時計を見た。

「まだ十五分前ですよ」

「……少し早く来ました」

「ふふっ」

 芽は笑った。

「私もです」

 二人は並んで歩き始めた。

 駅前の喧騒を抜け、少し静かな通りへ入る。

 街路樹の葉が雨に濡れ、街灯の光を反射していた。

「昨日、遅くまでお仕事だったんですよね」

 新太郎が聞いた。

「はい」

「大丈夫ですか? 疲れてません?」

「大丈夫です」

 芽は微笑んだ。

「今日は楽しみにしてたので」

 新太郎は少し照れた。

「俺もです」

 芽が顔を上げた。

「本当ですか?」

「はい」

「よかった」

 彼女は嬉しそうに笑った。

 レストランは、住宅街の一角にあった。

 小さな看板が出ているだけの、落ち着いた店だった。

 店内には暖かな照明が灯り、奥から料理の香りが漂ってくる。

 新太郎が予約の名前を告げると、店員が二人を窓際の席へ案内した。

「素敵なお店ですね」

 芽が言った。

「よかった」

「よく来るんですか?」

「いや、初めてです」

「そうなんですね」

「昨日、調べました」

 芽は少し驚いたように目を丸くした。

「私のために?」

「まあ……そうですね」

 芽はしばらく新太郎を見ていた。

 それから、静かに笑った。

「嬉しいです」

 その言葉に、新太郎は少しだけ胸が熱くなるのを感じた。

 料理を注文し、二人はゆっくり話し始めた。

 仕事のこと。

 休日のこと。

 子どものころのこと。

 芽は小さいころ、海辺で拾った貝殻を集めるのが好きだったという。

「今も持ってるんですか?」

「少しだけ」

「へえ」

「実家に置いてあります」

「どんな貝です?」

「小さいのが多いです。名前は分からないんですけど」

「写真あります?」

「ありますよ」

 芽はスマートフォンを取り出した。

 画面には、小さなガラス瓶に入った貝殻が写っていた。

 白や薄い桃色の貝殻が、いくつも重なっている。

「きれいですね」

「でしょう?」

 芽は嬉しそうに笑った。

「小さいころ、宝物だったんです」

「今は?」

「今も、かな」

 芽は少し考えてから言った。

「昔のものって、捨てられないんですよね」

「分かります」

「新太郎さんも?」

「俺も、子どものころの釣り道具とか残してます」

「使うんですか?」

「いや、もう使えないですね」

「じゃあ、どうして?」

「何となく」

 芽は笑った。

「また、何となく」

「便利な言葉なんですよ」

「そうですね」

 二人は笑った。

 食事が終わるころには、店内の客も少なくなっていた。

 芽はグラスの水を飲み、窓の外を見た。

 雨は上がっていた。

 街灯の下で、濡れた舗道が鈍く光っている。

「新太郎さん」

「はい」

「今日、楽しかったです」

「俺もです」

「また、会えますか?」

 新太郎は少し驚いた。

「もちろん」

「本当ですか?」

「はい」

 芽はほっとしたように笑った。

「よかった」

 その笑顔を見て、新太郎は思った。

 この人と、もう少し一緒にいたい。

 理由は、まだうまく説明できなかった。

 ただ、そう思った。

 店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。

 二人は駅へ向かって歩いた。

 途中、芽のスマートフォンが震えた。

 彼女は画面を見た。

 ほんの一瞬、表情が変わった。

「……ごめんなさい」

 芽はスマートフォンを伏せた。

「仕事ですか?」

「はい」

「大変ですね、土曜日なのに」

「そうですね」

 芽は小さく笑った。

 けれど、その笑顔は少し硬かった。

 新太郎は何も聞かなかった。

 駅に着くと、芽は改札の前で立ち止まった。

「今日はありがとうございました」

「こちらこそ」

「ごちそうさまでした」

「いえ。前のお礼です」

「じゃあ、次は私ですね」

「いや、次は割り勘にしましょう」

「どうして?」

「このままだと、ずっと交互におごることになるんで」

 芽は笑った。

「それも、いいかもしれませんよ」

「え?」

「だって、また会う理由になるでしょう?」

 新太郎は返事に詰まった。

 芽は少し照れたように笑った。

「……冗談です」

「いや」

 新太郎は首を振った。

「俺は、いいと思います」

 芽が顔を上げた。

「本当ですか?」

「はい」

 二人はしばらく見つめ合った。

 やがて芽が小さく頷いた。

「じゃあ、また」

「はい。また」

 芽は改札を抜け、人の流れの中へ消えていった。

 新太郎はその後ろ姿を見送った。

 そして、ポケットの中のスマートフォンを取り出した。

 まだ何の通知もない。

 画面を消して、駅の階段を下りた。

 ホームに着くころ、メッセージが届いた。

『今日は本当にありがとうございました。次は私の番ですね』

 新太郎は笑った。

『じゃあ、楽しみにしてます』

 送信する。

 すぐに既読がついた。

『はい。私も』

 新太郎はスマートフォンをポケットに戻した。

 電車がホームに入ってくる。

 扉が開き、人々が乗り込んでいく。

 新太郎もその流れに混じった。

 窓の外では、雨上がりの街が静かに光っていた。

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