3 お礼の食事
午後五時十七分。
新太郎が腕時計を見たところで、エレベーターホールから芽が現れた。
先ほどのカーディガンの上にベージュの薄いコートを羽織り、肩には小さな革のバッグを掛けている。
「お待たせしました」
「いや、全然」
「本当に五分で戻れました?」
「ええと……」
新太郎は時計を見た。
「八分ですね」
「えっ」
「冗談です。別に計ってないですよ」
芽は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「もう。びっくりした」
「すみません」
「浦さんって、意外と意地悪ですね」
「初めて言われました」
「そうなんですか?」
「たぶん」
「また、たぶん」
二人は並んで出口へ向かった。
自動ドアを抜けると、夕方の風が頬に当たった。
ビルの谷間にはまだ明るさが残っていたが、街路樹の根元では照明が点き始めていた。
「こちらです」
芽は歩行者デッキとは反対の方向を指した。
「駅の方じゃないんですね」
「はい。運河沿いに小さなお店があるんです」
「運河?」
「ここから五分くらいです」
「いいですね」
「釣りはできませんけど」
新太郎は芽を見た。
「そんなに釣り人っぽいですか、俺」
「だって、さっきも池のお魚を見てたでしょう」
「え?」
「警備の方から聞きました。魚の種類を尋ねられたお客様がいらっしゃるって」
「そんな報告までされるんですか」
「ちょうど受付で話しているのが聞こえたんです」
芽は楽しそうに笑った。
「それで、浦さんかなって」
「まだ会う前ですよね」
「はい」
「なんで俺だと思ったんですか」
「何となく」
「何となく、ですか」
「違いました?」
「いや、当たってますけど」
新太郎は頭を掻いた。
「恥ずかしいな」
「どうしてですか?」
「社員証を届けに来たのに、魚ばっかり見てると思われたら」
「私は、いいと思います」
芽はそう言って、少し前を歩いた。
「好きなものがある人って、いいですよね」
新太郎はその横顔を見た。
「香椎さんにもあるでしょう。好きなもの」
「ありますよ」
「何ですか?」
「うーん」
芽は考え込んだ。
「たくさんあります」
「一つくらい教えてくださいよ」
「じゃあ、チーズケーキ」
「さっきも言ってましたね」
「本当に好きなんです」
「それは期待できそうだ」
「期待してください」
芽は胸を張った。
その仕草が少し子どもっぽくて、新太郎は笑った。
運河沿いの遊歩道には、仕事帰りらしい人たちが行き交っていた。
水面には対岸の建物が映り、風が吹くたびに輪郭が崩れる。
係留された小型船が何隻か揺れていた。
芽が案内したのは、低い煉瓦造りの建物の一階にあるカフェだった。
店の前には黒板が置かれ、白いチョークでメニューが書かれている。
「ここです」
「へえ、いい感じですね」
「会社の帰りに、ときどき来るんです」
「一人で?」
「はい。一人でも来ますし、同僚と来ることもあります」
芽は扉を開けた。
小さなベルが鳴った。
店内にはコーヒー豆を焙煎したような香りが漂っていた。
照明は少し暗めで、木のテーブルがゆったりと配置されている。
窓際には二人掛けの席がいくつか並び、奥には本棚があった。
平日の夕方だからか、客はそれほど多くなかった。
「いらっしゃいませ」
若い男性店員が声を掛けた。
「二名様ですか?」
「はい」
芽が答えた。
「お好きなお席へどうぞ」
二人は窓際の席に座った。
新太郎は鞄を足元に置き、メニューを開いた。
「コーヒー、結構種類ありますね」
「そうなんです」
「俺、あんまり詳しくないんですけど」
「私も詳しくないですよ」
「そうなんですか?」
「いつも同じの頼んじゃうので」
「何です?」
「カフェラテです」
「じゃあ詳しくなる必要ないですね」
「そうなんです」
芽は楽しそうに笑った。
結局、新太郎はブレンドコーヒー、芽はカフェラテを注文した。
それから、芽が勧めたチーズケーキを一つずつ。
「本当においしいんですよ」
芽はメニューを閉じながら言った。
「期待してます」
「そんなに期待されると困ります」
「さっきから結構勧めてましたよ」
「そうでしたっけ」
「会社でも有名なんですか?」
「いえ。私の周りでは、あんまり」
「じゃあ穴場ですね」
「そうかもしれません」
芽は嬉しそうに頷いた。
注文を終えると、少しだけ沈黙が訪れた。
さっきまで自然に話していたのに、向かい合って座ると、急に相手の顔がよく見える。
新太郎は水の入ったグラスを手に取った。
芽も同じようにグラスを持った。
二人の動きが重なった。
「あ」
芽が笑った。
「何ですか?」
「いえ、同じタイミングだったので」
「ああ」
新太郎も笑った。
また少し沈黙があった。
今度は、芽が口を開いた。
「あの、浦さん」
「はい」
「改めて、ありがとうございました」
「いや、もう十分言ってもらいましたよ」
「でも、ちゃんとお礼を言いたかったんです」
「気にしないでください」
「……あの夜、本当に怖かったので」
芽はグラスを置いた。
指先が、コースターの縁をなぞっている。
「お仕事の人だったんですよね」
新太郎が言った。
「はい」
「何か揉めてたみたいでしたけど」
「ちょっと、意見が合わなくて」
「仕事の?」
「そうですね」
芽は曖昧に微笑んだ。
新太郎はそれ以上聞かなかった。
自分の会社でも、仕事上の揉め事は珍しくない。
もっとも、路地裏で女性の腕を掴むような話にはならないが。
「でも、あんなふうにされたら、普通は怖いですよ」
新太郎が言うと、芽は少し驚いたように顔を上げた。
「そう、ですよね」
「はい」
「私、あのとき、ちゃんと話せば分かってもらえると思ってたんです」
「うん」
「でも、全然……」
芽は言葉を切った。
窓の外へ目を向ける。
夕暮れの街を、バスがゆっくり通り過ぎていった。
「すみません。せっかくなのに、暗い話になっちゃって」
「別にいいですよ」
「でも」
「話したくなかったら、話さなくていいですし」
新太郎はそう言って、水を一口飲んだ。
「話したくなったら聞きますけど」
芽はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「ありがとうございます」
今度の礼は、さっきまでとは少し違う響きだった。
ちょうどそのとき、コーヒーが運ばれてきた。
白いカップに入ったブレンドコーヒー。
芽のカフェラテには、ミルクの泡で小さな葉の模様が描かれていた。
「わあ」
芽が声を上げた。
「きれいですね」
「いつもこうなんですか?」
「日によって違うんです」
「へえ」
「この前はハートでした」
「店員さんの気分?」
「かもしれません」
芽はスマートフォンを取り出しかけて、やめた。
「写真撮らないんですか?」
「え?」
「今、撮ろうとしてませんでした?」
「あ、はい。でも、浦さんがいるのに失礼かなって」
「全然。どうぞ」
「いいですか?」
「もちろん」
芽は嬉しそうにスマートフォンを構えた。
何枚か撮ってから、画面を確認する。
「うん、きれい」
「そんなに違うもんですか?」
「何がです?」
「写真と実物」
「違いますよ」
芽は少し考えた。
「写真にすると、あとでそのときのことを思い出せるじゃないですか」
「ああ」
「どこで飲んだとか、誰といたとか」
「なるほど」
「浦さんは、あんまり写真撮らないんですか?」
「魚は撮ります」
芽が笑った。
「魚だけ?」
「たまに海も」
「人は?」
「ほとんど撮らないですね」
「どうして?」
「うーん……」
新太郎は考えた。
「釣った魚は、写真撮らないと大きさを盛っちゃうんで」
「盛る?」
「三十センチだったのが、話してるうちに四十センチになるんですよ」
芽は吹き出した。
「そんなことあるんですか?」
「釣り人はみんなやります」
「浦さんも?」
「俺はやりません」
「怪しい」
「本当ですって」
芽は笑いながら、カップを持ち上げた。
新太郎もコーヒーを飲んだ。
少し酸味があって、後味がすっきりしている。
悪くなかった。
やがてチーズケーキが運ばれてきた。
小さな白い皿に、三角形のケーキが一切れ。
表面は薄いきつね色で、横には生クリームと赤いベリーのソースが添えられている。
「どうぞ」
芽が言った。
「俺が食べるんですか?」
「もちろんです」
「じゃあ」
新太郎はフォークを入れた。
思ったより柔らかかった。
一口食べる。
「……あ、うまい」
芽の顔がぱっと明るくなった。
「でしょう?」
「うん。これ、うまいですね」
「よかった」
「結構濃厚なのに、くどくない」
「そうなんです」
「甘さもちょうどいいし」
「そうなんです!」
芽は身を乗り出した。
新太郎は笑った。
「そんなに嬉しいですか」
「あ……すみません」
「いや、いいですけど」
「好きなものを褒められると、嬉しくて」
「分かります」
「浦さんも?」
「俺も、よく釣れる場所を人に教えて、実際釣れたって言われると嬉しいです」
「じゃあ同じですね」
「たぶん」
「また、たぶん」
二人は笑った。
食べながら、仕事の話になった。
「浦さんは、どんなお仕事をされてるんですか?」
「普通の会社員です」
「普通の会社員?」
「はい。営業です」
「何を扱ってるんですか?」
「産業機器の部品とか、設備関係ですね。工場向けの」
「へえ」
「説明しても面白くないですよ」
「そんなことないです」
「いや、俺自身がたまに面白くないですから」
芽は笑った。
「そんなこと言っていいんですか?」
「会社には内緒でお願いします」
「分かりました」
芽は少しだけ声を潜めた。
「秘密にします」
その仕草が妙に可愛らしく、新太郎は思わず笑った。
「香椎さんは研究のお仕事なんですか?」
「はい」
「製薬会社って、やっぱり薬を作ってるんですか?」
「そうですね。私は神経科学の分野にいます」
「神経科学」
新太郎は繰り返した。
「脳とか?」
「そうです。脳や神経の働きを調べたり、それに関係する薬の研究をしたり」
「すごいですね」
「そんなことないですよ」
「いや、俺、理科苦手だったんで」
「私も、得意じゃないこといっぱいあります」
「例えば?」
「料理とか」
「ああ、魚捌けないって言ってましたね」
「はい。それから、道を覚えるのも苦手です」
「意外ですね」
「よく迷います」
「この辺でも?」
「たまに」
「毎日通ってるのに?」
「……はい」
芽は少し恥ずかしそうに笑った。
「この前、駅の反対側に出ちゃって」
「それは結構ですね」
「ですよね」
「研究所の中では迷わないんですか?」
「研究所は大丈夫です」
「じゃあ、脳が仕事用になってるんですね」
芽は声を立てて笑った。
「何ですか、それ」
「いや、適当です」
「でも、そうかもしれません」
芽はカフェラテを飲んだ。
カップを置いたあと、ふと思い出したように言った。
「浦さん、土曜日も釣りに行かれたんですよね」
「はい」
「何時くらいから?」
「五時半くらいです」
「朝の?」
「朝の」
「早い……」
「まあ、朝の方が釣れること多いんで」
「何時に起きるんですか?」
「四時くらいですかね」
「私、その時間まだ寝てます」
「普通そうですよ」
「お休みの日なのに」
「休みだからですよ」
芽は不思議そうに首を傾げた。
「休みだから?」
「仕事の日は、そんなに早く起きたくないですから」
「ああ」
芽は納得したように頷いた。
「好きなことなら早起きできるんですね」
「そういうことです」
「いいですね」
「何がです?」
「そういう、夢中になれるものがあるのって」
芽はそう言って、窓の外を見た。
夕暮れはいつの間にか夜へ変わり始めていた。
建物の窓に明かりが灯り、歩道を行く人の姿がガラスに映っている。
「香椎さんにもあるでしょう。研究とか」
新太郎が言うと、芽は視線を戻した。
「……そうですね」
少し考えるような間があった。
「あります」
「でしょう」
「でも、仕事と趣味って、やっぱり違う気がします」
「まあ、そうかもしれませんね」
「浦さんは、釣りを仕事にしたいと思ったことはないんですか?」
「ないですね」
「即答」
「仕事になったら、釣れない日に困るじゃないですか」
芽は笑った。
「確かに」
「趣味なら、釣れなくても文句言われませんし」
「そうですね」
「せいぜい友達に馬鹿にされるくらいです」
「それは嫌ですね」
「慣れますよ」
芽はまた笑った。
気づけば、店に入ってから一時間近く経っていた。
チーズケーキの皿は空になり、カップの底のコーヒーもすっかり冷めている。
新太郎は腕時計を見た。
「そろそろ行きますか」
「あ、もうこんな時間」
芽も時計を見た。
「すみません。長く引き留めちゃって」
「いや、楽しかったです」
新太郎は何気なく言った。
芽が顔を上げた。
「……本当ですか?」
「はい」
「よかった」
彼女は少し照れたように笑った。
「私も、楽しかったです」
会計のとき、芽は新太郎が財布を出すより先に伝票を手に取った。
「今日は私に払わせてください」
「いや、でも」
「お礼ですから」
「じゃあ、せめて自分の分くらい」
「駄目です」
芽は笑った。
「今日は私が誘ったんです」
「……分かりました。ごちそうになります」
「はい」
芽は満足そうに頷いた。
店を出ると、すっかり暗くなっていた。
海から吹く風が少し冷たい。
芽はコートの前を合わせた。
「寒くないですか?」
新太郎が聞いた。
「少し。でも大丈夫です」
「もう十月ですもんね」
「そうですね」
二人は駅へ向かって歩き出した。
行き交う人の数は、来たときより増えていた。
芽は歩道の端を歩き、新太郎はその隣を歩いた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
気まずい沈黙ではなかった。
ただ、何となく話すきっかけを探しているような時間だった。
やがて芽が口を開いた。
「あの、浦さん」
「はい」
「今日は本当にありがとうございました」
「いや、それはもう」
「金曜日のことじゃなくて」
「え?」
「今日、来てくださって」
「ああ」
新太郎は笑った。
「社員証を返しに来ただけですよ」
「でも、来てくださってよかったです」
芽は前を向いたまま言った。
「お話できたので」
新太郎は少しだけ返事に詰まった。
「……そうですね」
駅の入口が見えてきた。
階段の手前で、芽が足を止めた。
「浦さん」
「はい」
「もし、よかったら」
彼女はバッグからスマートフォンを取り出した。
「連絡先、交換しませんか?」
新太郎は一瞬、言葉を失った。
芽は少し慌てたように続けた。
「あ、もちろん、嫌だったら全然いいんですけど」
「いや、嫌じゃないですよ」
「本当ですか?」
「はい」
「よかった」
芽はほっとしたように笑った。
二人はスマートフォンを取り出し、連絡先を交換した。
画面に表示された名前。
香椎 芽。
新太郎はそれを見て、少し不思議な気持ちになった。
数日前までは、社員証に印刷された文字でしかなかった名前。
今は、自分のスマートフォンの中にある。
「じゃあ、また」
芽が言った。
「はい。また」
新太郎は答えた。
芽は小さく手を振り、改札へ向かった。
その後ろ姿を見送りながら、新太郎は少し考えた。
また。
そう言ったけれど、次に会う約束をしたわけではない。
それでも、不思議ともう一度会うような気がしていた。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
『今日はありがとうございました。チーズケーキ、おいしかったですね。』
芽からだった。
新太郎は思わず笑った。
少し考えてから、返信した。
『こちらこそ。ごちそうさまでした。またおすすめのお店があったら教えてください。』
送信する。
数秒後、既読がついた。
そして、すぐに返事が届いた。
『はい。ぜひ。』
短い文章だった。
最後に、小さな笑顔の絵文字が付いていた。
新太郎はスマートフォンをポケットにしまった。
駅の階段を下りる。
地下へ続く通路には、帰宅する人たちの足音が響いていた。
新太郎はその流れに混じりながら、さっきの会話を思い返していた。
魚の話。
仕事の話。
チーズケーキの話。
どれも、特別な話ではなかった。
けれど、どれも不思議と楽しかった。
電車がホームに滑り込んできた。
新太郎は乗り込み、窓際に立った。
ガラスに自分の顔が映る。
少し笑っていた。
「……何だよ」
小さく呟いて、表情を戻した。
電車が動き出した。
窓の向こうで、湾岸の街の明かりがゆっくり遠ざかっていった。




