2 ガラスの宮殿
水曜日、午後四時四十七分。
「浦、今日もう上がるの?」
野々村が顔を上げた。
「はい。午前中に話してた件ですけど」
「ああ、東邦の資料?」
「修正して共有フォルダに入れてあります。先方にも送りました」
「早いねえ」
「たまには褒めてくださいよ」
「今褒めただろ」
「もう少し心を込めて」
「お前、最近要求が多いな」
新太郎は笑いながら鞄を持った。
向かいの席で三宅が顔を上げた。
「浦さん、今日何かあるんですか?」
「ちょっと用事」
「釣り?」
「平日だぞ」
「浦さんなら行きそうですけど」
「俺を何だと思ってるんだ」
「海の人」
「陸で働いてるだろ」
三宅が笑った。
「じゃ、お疲れさまです」
「お疲れ」
エレベーターに乗る。
十八階から一階へ。
数字が一つずつ減っていくのを眺めながら、新太郎は鞄の中を確かめた。
社員証は入っている。
月曜日の昼休みに、裏面に書かれていた番号へ電話を掛けた。
出たのは若い女性だった。
『ドラゴンパレス製薬、総務部でございます』
「あの、社員証を拾ったんですけど」
『弊社の社員証でしょうか』
「はい。香椎芽さんという方の」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
『……香椎ですね。少々お待ちください』
保留音が流れた。
軽快なピアノの曲だった。
一分ほど待たされて、別の女性が出た。
『お待たせいたしました。香椎の社員証をお預かりいただいているとのことですが』
「はい」
『ありがとうございます。お手数ですが、本社の総合受付までお持ちいただくことは可能でしょうか』
「水曜日の夕方なら」
『かしこまりました。午後五時半までにお越しいただければ結構です』
そのまま名前と連絡先を聞かれた。
新太郎は少し迷ってから答えた。
拾った場所を尋ねられたので、新橋の路地裏だと伝えた。
電話はそれだけで終わった。
香椎本人と話せるかと思っていたが、そんなことはなかった。
考えてみれば当然だった。
世界的な製薬会社の社員証なのだから、個人に直接取り次ぐより、総務が管理する方が自然だろう。
新太郎はそう納得していた。
電車を二本乗り継ぎ、湾岸エリアの駅で降りた。
改札を抜けると、駅前の景色が一変した。
新橋の雑然とした街並みとは違い、歩道は広く、街路樹が等間隔に植えられている。
ガラス張りのオフィスビル。
低層階に入ったカフェ。
整備された植え込み。
車道にはタクシーよりも黒塗りの送迎車が目立った。
海が近いせいか、風にわずかな塩気が混じっていた。
新太郎はスマートフォンの地図を確認した。
「こっちか」
駅から続く歩行者デッキを進む。
しばらくすると、前方にひときわ大きな建物が現れた。
ドラゴンパレス製薬本社。
地上三十数階はありそうだった。
緩やかに湾曲した青みがかったガラスの外壁が、夕方の空を映している。
隣には、同じ意匠の低い建物が二棟並んでいた。渡り廊下のようなガラスの通路が、それぞれをつないでいる。
建物の前には人工池があり、水面から細い噴水がいくつも立ち上がっていた。
その向こうには、企業名を刻んだ石のモニュメントが置かれている。
DRAGON PALACE PHARMACEUTICALS
「……でか」
新太郎は思わず呟いた。
自分の会社もそれなりの規模だと思っていたが、比較する気にならなかった。
入口へ向かう途中、池の中に魚がいるのを見つけた。
銀色の小さな魚が、数匹まとまって泳いでいる。
新太郎は立ち止まった。
「何だ、あれ」
水面に顔を近づける。
細長い体。
群れで泳ぐ習性。
メダカに似ているが、少し大きい。
種類を考えていると、背後から声がした。
「お客様、何かお探しでしょうか」
振り返ると、警備員が立っていた。
濃紺の制服に白い手袋。
年齢は五十代くらいだろうか。
「あ、すみません。魚がいたんで」
「魚、ですか」
「はい。あの池に」
警備員は池を見た。
「ああ。おりますね」
「何て魚なんですか?」
「さあ……」
警備員は困ったように笑った。
「申し訳ありません。そこまでは」
「ですよね。すみません」
「いえ。ご用件は?」
「あ、社員証を届けに来たんですけど」
「それでしたら、正面の総合受付で承っております」
「ありがとうございます」
新太郎は頭を下げた。
警備員も丁寧に頭を下げた。
歩き出してから、新太郎は少し恥ずかしくなった。
世界的な製薬会社まで来て、最初に聞いたのが池の魚の名前とは。
「……まあ、俺らしいか」
誰にも聞こえない声で呟いた。
自動ドアが開くと、冷たい空気が流れてきた。
ロビーは驚くほど広かった。
天井は三階分ほどの吹き抜けになっていて、壁一面のガラスから夕方の光が差し込んでいる。
磨かれた白い床に、その光が長い四角形を作っていた。
中央には巨大な円形のオブジェが吊り下げられている。
透明なガラスの輪が何重にも重なり、その内側を青い光がゆっくり移動していた。
海の中に浮かぶ泡のようにも見えた。
奥の壁には、大きな映像が流れている。
顕微鏡で撮影したような細胞。
緑色に光る神経の網。
白衣を着た研究者たち。
そして、青い海の映像。
『すべての生命に、まだ見ぬ未来を。』
静かな女性の声が、ロビーに響いていた。
「……すげえな」
また同じ言葉が出た。
総合受付はロビーの右手にあった。
長い白いカウンターの向こうに、三人の受付担当者が座っている。
新太郎が近づくと、一人が立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
「あの、月曜日に電話した浦と申します。社員証を拾って……」
「浦様ですね。お待ちしておりました」
受付の女性はすぐに頷いた。
「恐れ入りますが、こちらにお掛けになって少々お待ちいただけますでしょうか」
「あ、はい」
「社員証はお持ちでしょうか」
「あります」
新太郎は鞄からカードホルダーを取り出した。
受付の女性は両手で受け取り、名前を確認した。
「香椎芽の社員証でございますね」
「はい」
「ありがとうございます。担当者をお呼びいたします」
彼女はそう言って、カウンターの奥へ下がった。
新太郎はロビーのソファに腰を下ろした。
柔らかすぎず、硬すぎない。
妙に座り心地がよかった。
目の前のテーブルには、会社案内と英語の経済誌が並べられていた。
新太郎は一冊を手に取った。
表紙に、大冨咲姫の写真があった。
黒いジャケット。
組んだ腕。
真っ直ぐこちらを見る目。
英語の見出しはよく分からなかったが、世界の製薬業界を変える女性経営者、といった意味らしかった。
「……すごい人なんだな」
ページをめくろうとした、そのときだった。
「浦さん、ですか?」
顔を上げた。
目の前に女性が立っていた。
白いブラウスに、薄いグレーのカーディガン。
紺色の細身のパンツ。
肩まで伸びた黒髪が、毛先だけ少し内側に曲がっている。
新太郎は一瞬、誰だか分からなかった。
女性が少し緊張したように微笑んだ。
「あの……金曜日の夜、新橋で」
「あ」
新太郎は立ち上がった。
「ああ、あのときの」
「はい」
彼女は深く頭を下げた。
「先日は、本当にありがとうございました」
「あ、いや、そんな」
「それから、社員証まで届けていただいて……」
「いえ。たまたま拾っただけなんで」
彼女は顔を上げた。
写真よりもずっと柔らかい表情だった。
大きな目。
形のよい眉。
少し薄い唇。
特別に派手な顔立ちではない。
けれど、笑うと目元が優しく細くなる。
新太郎は、その表情を見て少し驚いた。
あの夜の怯えた顔とは、まるで違っていた。
「香椎芽と申します」
「浦新太郎です」
「新太郎さん」
彼女は名前を確かめるように繰り返した。
「はい」
「素敵なお名前ですね」
「え?」
「新太郎って」
「いや、普通ですよ」
「そうですか?」
「むしろ古いってよく言われます」
「私は好きです」
あまりに自然に言われたので、新太郎は返事に困った。
「あ、ありがとうございます」
芽は小さく笑った。
「すみません。変なこと言って」
「いえ」
「こちらこそ、突然お名前を褒めたりして」
「いや、名前褒められることあんまりないんで」
「そうなんですか?」
「だいたい浦島太郎って言われます」
芽は目を丸くした。
「浦島太郎?」
「浦に、新太郎なんで」
少し間があった。
それから芽が笑った。
声を立てて、というほどではない。
けれど、肩が小さく揺れるくらいには。
「本当だ」
「でしょう」
「すみません、今気づきました」
「大体みんなそう言います」
「子どものころから?」
「小学校のときは、あだ名がずっと浦島でした」
「ふふっ」
芽は口元を押さえた。
「ごめんなさい。笑っちゃって」
「慣れてますから」
新太郎も笑った。
それだけの会話だった。
しかし、妙に話しやすかった。
初対面の女性と話すときに感じる、何を言えばいいのか分からない気まずさが、あまりなかった。
芽はふと表情を改めた。
「あの、金曜日のことなんですけど」
「はい」
「ちゃんとお礼も言わずに逃げてしまって、本当にごめんなさい」
「ああ、いえ。あれは仕方ないですよ」
「すごく怖くて……」
芽はそこで言葉を切った。
視線が少し下がる。
新太郎は彼女の右手首を見た。
カーディガンの袖から、薄い赤紫色の痕が覗いていた。
「あの、腕、大丈夫ですか?」
芽は一瞬、驚いた顔をした。
それから袖を引き下ろした。
「あ……はい。もう大丈夫です」
「結構強く掴まれてましたよね」
「少し、痣になっちゃって」
「病院とかは?」
「行ってません。でも、本当に大したことないんです」
芽は微笑んだ。
「心配してくださって、ありがとうございます」
「いや……」
新太郎は言葉を探した。
「あの人たち、知り合いだったんですか?」
芽の表情がわずかに変わった。
笑顔が消えたわけではない。
ただ、返事をするまでに少し時間があった。
「……仕事で、少し」
「ああ、そうなんですね」
「ちょっと、行き違いがあって」
「なるほど」
新太郎は頷いた。
それ以上は聞かなかった。
聞いたところで、自分に何かできるわけでもない。
芽は少しだけほっとしたように見えた。
「本当に、助かりました」
「大したことしてないですよ。警察呼ぶって言っただけですし」
「でも、あのとき誰も来てくれなかったら……」
芽は言いかけて、首を振った。
「ごめんなさい。変な話をして」
「いや、全然」
「せっかく来ていただいたのに、立ち話ですみません」
「いえ。社員証も返せましたし、俺はこれで」
新太郎が鞄を持ち上げると、芽が慌てたように言った。
「あ、待ってください」
「はい?」
「あの……」
芽は少し迷っているようだった。
両手を体の前で重ね、指先を軽く握っている。
「もし、お時間があればなんですけど」
「はい」
「お茶でも、いかがですか?」
新太郎は瞬きをした。
「お茶?」
「はい。お礼をしたくて」
「いや、そこまでしてもらわなくても」
「でも、私がしたいんです」
芽はまっすぐに新太郎を見た。
強い口調ではなかった。
むしろ、控えめで柔らかい声だった。
それでも、不思議とはっきりした意思が感じられた。
「今日、お忙しいですか?」
「いや、もう仕事は終わったんで」
「よかった」
芽の顔が明るくなった。
「この近くに、静かなカフェがあるんです。コーヒー、お好きですか?」
「好きですよ」
「甘いものは?」
「普通に食べます」
「よかった。そこのチーズケーキ、おいしいんです」
新太郎は少し笑った。
「じゃあ、せっかくなんで」
「本当ですか?」
「はい」
「ありがとうございます」
芽は嬉しそうに笑った。
新太郎は少し不思議な気持ちになった。
お礼を言うのは、どう考えても自分ではない。
けれど彼女は、まるでこちらが何か特別なことをしてくれたかのように喜んでいた。
「少しだけ待っていただけますか?」
芽が言った。
「荷物を取ってきます。五分くらいで戻りますので」
「分かりました」
「本当に五分で戻ります」
「そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
「でも、お待たせするの悪いので」
「俺、待つの得意なんです」
「え?」
「釣りが趣味なんで」
芽は少し首を傾げた。
「釣り?」
「はい」
「海ですか?」
「ほとんど海ですね」
「へえ……」
芽は何かを想像するように目を細めた。
「いいですね」
「そうですか?」
「はい。海、好きなんです」
「そうなんですね」
「でも、釣りはしたことなくて」
「意外と楽しいですよ」
「何が釣れるんですか?」
「場所と季節によりますけど。先週はサバを釣りました」
「サバ?」
「はい」
「食べるんですか?」
「食べますよ。自分で捌いて」
芽の目が大きくなった。
「すごい」
「いや、普通ですよ」
「普通じゃないです。私、魚を捌けないので」
「慣れればできますよ」
「本当ですか?」
「たぶん」
芽は笑った。
「じゃあ、いつか教えてください」
「え?」
「あ……」
芽は自分の言葉に気づいたように、少し頬を赤くした。
「すみません。いきなり変なこと言って」
「いや、別に」
「じゃあ、ちょっと行ってきますね」
「はい」
芽はもう一度小さく頭を下げ、奥のエレベーターホールへ歩いていった。
新太郎はその後ろ姿を見送った。
歩くたびに、黒髪が肩のあたりで揺れる。
やがて彼女は社員用のゲートを通り、見えなくなった。
新太郎はソファに座り直した。
さっきまで手にしていた経済誌が、テーブルの上に開いたままになっていた。
大冨咲姫の写真がこちらを向いている。
新太郎は雑誌を閉じた。
「……魚の捌き方、か」
思わず笑ってしまった。
ずいぶん変わった話の流れだ。
それにしても。
あの夜、礼も言わず走り去った女性が、こんなふうに笑う人だったとは。
新太郎はロビーを見渡した。
青い光が、天井から吊り下げられたガラスの輪の中をゆっくり巡っている。
その下を、白衣を着た研究者らしい男女が通り過ぎていった。
遠くで誰かが英語を話している。
受付の電話が静かに鳴る。
空調の音が低く響いていた。
ここは、自分の日常とはまるで違う場所だった。
それでも、さっきまで話していた女性は、不思議なくらい普通だった。
魚を捌けないことを恥ずかしがり、チーズケーキの話をすると嬉しそうに笑う。
新太郎は腕時計を見た。
午後五時十二分。
まだ三分しか経っていなかった。
ふと、ロビーのガラスの向こうに目をやる。
人工池の水面が、夕暮れの光を受けて揺れていた。
入口で見かけた小さな魚たちの姿は、ここからでは見えなかった。
新太郎は水面を眺めながら、芽が戻ってくるのを待った。




