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新浦島太郎  作者: ISM
第2章 潮の満ちるころ
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1 週末の忘れ物



 午前四時十分。

 スマートフォンのアラームが鳴るより五分早く、新太郎は目を覚ました。

 部屋はまだ真っ暗だった。

 カーテンの隙間から街灯の光が細く差し込み、床に脱ぎ捨てたスラックスを照らしている。

「……頭いてえ」

 仰向けのまま呟いた。

 昨日の酒が少し残っていた。

 結局、二次会は一時間では終わらなかった。野々村が長渕剛を三曲歌い、三宅が妙な振り付けで盛り上がり、篠田が終電を気にし始めたころ、ようやく解散となった。

 帰宅したのは午前零時を少し回ったころだった。

 四時間しか寝ていない。

 新太郎は天井を見つめた。

「……やめるか」

 誰も聞いていないのに声に出した。

 しばらくそのままでいた。

 やがて布団を跳ねのけた。

「いや、行くか」

 釣りに関してだけは、昔から諦めが悪かった。

 洗面所で顔を洗い、冷蔵庫から麦茶を取り出す。半分ほど飲んでから、残りを流しに置いた。

 昨夜のうちに準備しておいた道具が玄関に並んでいる。

 ロッドケース。

 タックルバッグ。

 クーラーボックス。

 新太郎はそれらを一つずつ確認した。

 財布。鍵。スマートフォン。

 最後にジャケットのポケットを探る。

「あれ?」

 いつも入れている小さな財布がない。

 昨日のスラックスを拾い上げ、ポケットを探った。

 財布はすぐに見つかった。

 その代わり、内ポケットから別のものが滑り落ちた。

 床に小さな音がした。

「あ」

 社員証だった。

 紺色のストラップが、フローリングの上に曲線をつくる。

 新太郎はしゃがんで拾った。

 香椎 芽。

 MEI KASHII。

 写真の女性は、相変わらず穏やかな顔でこちらを見ていた。

「そうだった」

 昨日の出来事が蘇った。

 路地裏。

 二人の男。

 逃げていった女。

 そして、妙に冷静だった眼鏡の男。

 新太郎は社員証を裏返した。

 会社の所在地と、紛失した場合の連絡先が小さく印刷されていた。

「電話すりゃいいのか」

 しかし時刻はまだ四時過ぎだ。

 当然、会社に電話する時間ではない。

 社員証を机の上に置き、代わりにスマートフォンを手に取った。

 釣り仲間からメッセージが届いていた。

『先に場所取っとく。寝坊すんなよ』

 送信時刻は午前三時五十二分。

「早すぎだろ、あいつ」

 新太郎は笑った。

『今から出る』

 そう返信して、玄関へ向かった。

 海に着いたのは午前五時二十七分だった。

 駐車場にはすでに十台ほどの車が停まっていた。

 空はまだ暗い。

 東の水平線だけが、わずかに青みを帯びている。

 車を降りると、冷たい潮の匂いが鼻に入った。

 風はほとんどない。

 遠くで船のエンジン音が聞こえる。

 防波堤の先には釣り人たちの小さな灯りが点々と並んでいた。

「おーい!」

 声がした。

 堤防の中ほどで、男が手を振っている。

 大学時代からの友人、石川亮介だった。

 新太郎と同い年だが、すでに結婚して三歳の娘がいる。

 学生のころは一緒に徹夜で釣りをした仲だったが、最近は月に一度会えればいい方だった。

「遅い!」

 亮介が言った。

「五時半って言っただろ」

「朝マズメ始まっちまうぞ」

「まだ暗いじゃん」

「魚は時計見ねえんだよ」

「名言っぽく言うな」

 新太郎は隣に荷物を置いた。

 亮介のバケツを覗く。

「釣れた?」

「まだ」

「なんだよ」

「今からだよ」

 亮介は缶コーヒーを差し出した。

「ほら」

「お、サンキュー」

「昨日飲み会だったんだろ?」

「うん」

「よく起きたな」

「気合い」

「仕事にもその気合い使えよ」

「お前までそんなこと言うのか」

 新太郎は缶を開けた。

 温かいコーヒーが喉を通る。

 潮の匂いと、かすかな苦味。

 ようやく目が覚めてきた。

「で、今日は何狙い?」

 亮介が聞いた。

「とりあえず青物。反応なければ底でも探る」

「相変わらず適当だな」

「柔軟って言えよ」

 新太郎はロッドケースから竿を取り出した。

 ガイドに糸を通し、ルアーを結ぶ。

 何百回と繰り返してきた作業だった。

 指が自然に動く。

 結び目を軽く引いて確かめる。

 海を見る。

 水面は穏やかだった。

 遠くで小魚が跳ねた。

「お」

 新太郎が言う。

「いた?」

「たぶん」

「どこ?」

「あの船の右」

 亮介が目を凝らした。

「分かんねえ」

「今、跳ねた」

「お前、魚の幻覚でも見えてんじゃねえの」

「まだそこまで釣り馬鹿じゃない」

「十分だろ」

 二人は笑った。

 新太郎は竿を振った。

 ルアーが暗い海へ飛んでいく。

 小さな着水音。

 糸が伸びる。

 リールのベールを戻し、ゆっくりと巻き始めた。

 その瞬間、昨夜まで頭の中を占めていたものが遠ざかっていった。

 会社。

 昇格試験。

 野々村の説教。

 騒がしい居酒屋。

 路地裏の男たち。

 考えることは、今、水の中でルアーがどう動いているか、それだけだった。

 午前七時を過ぎたころ、亮介の竿が大きく曲がった。

「来た!」

「お、いいじゃん!」

「結構引く!」

「ドラグ緩めすぎじゃない?」

「分かってる!」

「全然分かってなさそうだけど」

「うるせえ、タモ!」

 新太郎は足元に置いていたタモ網を手に取った。

 海面に銀色の魚体が見えた。

「サバだな」

「サバかあ」

「なんだよ、嬉しくないのか」

「いや、嬉しいけど」

「じゃあ文句言うな」

 魚が最後に一度暴れた。

 新太郎が網を差し出し、亮介が竿を持ち上げる。

 四十センチほどのサバだった。

「いいサイズじゃん」

「まあな」

 亮介は満足そうに笑った。

「持って帰る?」

「お前にやるよ」

「いいの?」

「嫁さん、サバ好きだから」

「じゃあ、俺が持って帰って捌いて、亮介の嫁さんに渡すよ」

「お前が釣ったって言えば?」

「バレる」

「なんで」

「俺が釣った魚、いつもお前が捌いてるから」

「信用ねえな」

 新太郎は笑いながらサバの針を外した。

 まだ勢いよく尾を振っている魚を押さえ、手早くエラを切って血を抜く。しばらく海水に浸してから、氷と海水を入れたクーラーボックスに収めた。

「相変わらず手際いいな」

 亮介が感心したように言った。

「お前も少しは覚えろよ」

「お前がいるからいいんだよ」

「俺がいないときどうすんだ」

「そのときは釣らない」

「釣り人失格だな」

 二人は笑った。

 亮介が隣にしゃがみ込んだ。

「そういや、お前さ」

「ん?」

「彼女できた?」

「なんだよ、急に」

「いや、嫁が気にしてて」

「なんでお前の奥さんが俺の恋愛事情気にするんだよ」

「誰か紹介しようかって」

「いいよ、別に」

「いい人いるらしいぞ」

「毎回それ言ってない?」

「今回は本当にいい人らしい」

「前回も言ってた」

「そうだっけ」

「そうだよ」

 亮介は笑った。

「でも、お前もう二十九だろ」

「お前もな」

「俺は結婚してるから」

「結婚すると年齢が止まるのか?」

「そういう意味じゃねえよ」

 亮介は海に向き直った。

「一人が楽なのは分かるけどさ」

「うん」

「ずっと一人でいるつもりでもないんだろ?」

 新太郎は少し考えた。

「別に、決めてない」

「お前らしいな」

「そんなもんだろ」

「まあな」

 しばらく二人とも黙った。

 遠くの堤防で誰かが魚を釣り上げたらしく、歓声が上がった。

 亮介がそちらを見る。

「お、あっち釣れてんな」

「場所移る?」

「いや、もうちょっとここでやろう」

「了解」

 新太郎は再びルアーを投げた。

 空はすっかり明るくなっていた。

 薄い雲の間から朝日が差し込み、水面に長い光の道を作っている。

 新太郎はその光を見つめた。

 昨日の夜、あの女は無事に家へ帰れただろうか。

 ふと、そんなことを思った。

 自分でも意外だった。

 もう忘れたつもりだったのに。

「どうした?」

 亮介が聞いた。

「何が?」

「手、止まってるぞ」

「ああ」

 新太郎はリールを巻いた。

「いや、昨日ちょっと変なことあってさ」

「変なこと?」

「女の人が男二人に絡まれてて」

「お前が?」

「俺じゃなくて女の人が」

「分かってるよ」

 亮介が笑った。

 新太郎は昨夜の出来事を簡単に話した。

 路地裏で声を聞いたこと。

 男たちに声を掛けたこと。

 女が逃げてしまったこと。

 社員証を拾ったこと。

 亮介は途中から真面目な顔になっていた。

「それ、結構やばくない?」

「そう?」

「だって、普通のナンパじゃないだろ」

「まあ、知り合いっぽかったけど」

「知り合いだから安全ってわけじゃないし」

「それはそうだけど」

「で、その社員証どうした?」

「家にある」

「返すの?」

「そりゃ返すだろ」

「警察に届けりゃいいじゃん」

「まあ、それでもいいんだけど」

「何?」

「いや……」

 新太郎は言いかけて、やめた。

「何だよ」

「別に」

「気になるんだろ、その女の人」

「違うって」

「何が違うんだよ」

「そういうんじゃない」

「じゃあどういうんだよ」

 新太郎は少し困った。

 別に恋愛感情があるわけではない。

 そもそもまともに顔も見ていない。

 ただ、何かが引っかかっていた。

 助けた相手が礼も言わず逃げたこと。

 眼鏡の男が自分の名前を尋ねたこと。

 そして、社員証の写真。

 写真の中の彼女は、あんなに穏やかな顔をしていた。

「まあ、ちゃんと本人に返した方がいいかなって」

 新太郎は言った。

 亮介はにやりと笑った。

「ほら」

「何が」

「会いたいんじゃん」

「違うって」

「はいはい」

「本当に違うからな」

「分かった分かった」

 まったく分かっていない顔だった。

 新太郎は呆れて海に向き直った。

 ルアーを投げる。

 風が少し出てきた。

 糸が右へ流される。

 新太郎は竿先を下げ、ゆっくりとリールを巻いた。

 数秒後、竿先が小さく震えた。

「ん?」

 もう一度。

 今度ははっきりと重みが乗った。

「来た!」

 新太郎は竿を立てた。

 魚が走る。

 リールから糸が引き出される音がした。

「お、いいじゃん!」

 亮介が立ち上がった。

「結構でかいかも」

「バラすなよ!」

「分かってる!」

 新太郎は笑った。

 目の前の海が、朝日を受けてきらきらと輝いていた。

 このとき彼はまだ、いつもの週末を過ごしているつもりだった。

 釣りを終えて帰宅したのは、昼を少し過ぎたころだった。

 シャワーを浴び、洗濯機を回し、釣り道具を水洗いする。

 クーラーボックスの中にはサバが二匹。

 亮介が釣った一匹と、自分が釣った一匹だった。

 新太郎は魚をさばき、一匹を塩焼き用、もう一匹を味噌煮用にした。

 切り身にして下ごしらえを済ませた。

 包丁とまな板を洗い、ようやく一息ついた。

 冷蔵庫から麦茶を取り出す。

 椅子に座る。

 そして、机の上の社員証に目が留まった。

「……さて」

 新太郎はそれを手に取った。

 会社名をスマートフォンで検索する。

 ドラゴンパレス製薬。

 検索結果の一番上に、企業の公式サイトが表示された。

 青と白を基調にした洗練されたページ。

 画面には、海を思わせる深い青色の背景と、白い文字が浮かんでいた。

『生命の可能性に、限界をつくらない。』

「へえ……」

 新太郎は画面をスクロールした。

 世界各地に研究拠点を持ち、数万人の従業員を抱える巨大企業。

 再生医療。

 神経科学。

 新薬開発。

 聞き慣れない専門用語が並んでいる。

「すげえ会社だな」

 さらに下へ進むと、経営陣の紹介があった。

 代表取締役社長兼CEO。

 大冨咲姫。

 写真には、黒いスーツを着た女性が写っていた。

 長い髪を後ろに流し、こちらを真っ直ぐ見つめている。

 整った顔立ちだった。

 しかし笑顔はない。

 新太郎は何となく、その写真をしばらく見ていた。

「女社長か……」

 プロフィールには華々しい経歴が並んでいた。

 新太郎は途中で読むのをやめた。

 自分とはまるで違う世界の人間だ。

 そう思った。

 画面を戻し、会社概要から本社所在地を確認する。

 湾岸エリア。

 新太郎の勤める会社から電車で三十分ほどの場所だった。

「意外と近いな」

 土日は受付業務を行っていないらしい。

 社員証の裏に記載された紛失物の連絡先も、平日のみの対応だった。

 新太郎はカレンダーを開いた。

 月曜日。

 午後は外回りの予定が入っている。

 火曜日は社内会議。

 水曜日なら、夕方に時間を作れそうだった。

「水曜か」

 スマートフォンを置く。

 社員証をもう一度見た。

 香椎芽。

 写真の彼女は、少しだけ微笑んでいる。

「……ちゃんと返してやるか」

 新太郎はカードホルダーを机の引き出しに入れた。

 引き出しを閉める。

 それだけのことだった。

 落とし物を拾った。

 持ち主に返す。

 ただ、それだけ。

 新太郎はそう思っていた。


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