2 路地裏の女
新太郎が近づいていくと、男の一人がこちらに気づいた。
「何?」
黒いジャケットを着た男だった。三十代半ばくらいだろうか。短く刈った髪に、無精髭。背は新太郎より少し高い。
「いや、あの……」
新太郎は一瞬、言葉に詰まった。
何と言えばいいのだろう。
喧嘩を売りに来たわけではない。ましてや正義の味方を気取るつもりもなかった。
「その人、嫌がってるみたいなんで」
「あ?」
「いや、だから。嫌がってるじゃないですか」
男は新太郎の顔を見たあと、隣の男と目を合わせた。
「知り合い?」
「いえ」
「じゃあ関係ねえだろ」
「まあ、そうなんですけど」
自分でも情けない返事だと思った。
もう一人の男は、女の腕を掴んだままだった。
こちらは痩せていて、銀縁の眼鏡を掛けている。紺色のシャツに黒いスラックス。酔っ払いにしては妙に身なりが整っていた。
新太郎は女の顔を見た。
二十代半ばくらいだろうか。
肩まで伸びた黒髪が少し乱れ、白いブラウスの襟元が片方だけ折れていた。大きな目が新太郎を捉えた。
助けて。
そう言っているように見えた。
「すみません、もう遅いですし。女性一人に男二人っていうのも、ちょっと……」
「だから何だよ」
黒いジャケットの男が一歩近づいた。
酒の匂いはしなかった。
代わりに、鼻を刺すような強い香水の匂いがした。
「お兄さんさ、何か勘違いしてない?」
「勘違い?」
「俺たち、知り合いなんだよ。この子と」
男が顎で女を示した。
「な?」
女は答えなかった。
唇を固く結んでいる。
「ほら、知り合いだって言ってるだろ」
「でも嫌がってますよね」
「しつけえな」
男の声が低くなった。
新太郎は少し後悔した。
こういうとき、どうするのが正解なのだろう。
テレビドラマなら主人公が相手を殴り倒すのかもしれない。しかし自分には格闘技の経験もないし、学生時代に喧嘩をした記憶さえほとんどない。
何より、殴られるのは嫌だった。
「じゃあ、警察呼びましょうか」
口から出た言葉に、新太郎自身が少し驚いた。
「は?」
「知り合い同士なら、事情説明すれば済む話でしょうし」
スマートフォンを取り出す。
画面を点灯させたところで、眼鏡の男が初めて口を開いた。
「おい、もういい」
低いが、妙にはっきりした声だった。
ジャケットの男が振り返る。
「でもよ」
「いいから」
眼鏡の男は女の腕を離した。
女はすぐに一歩下がり、掴まれていた手首を反対の手で押さえた。
「今日は帰れ」
眼鏡の男が女に言った。
女は動かなかった。
「聞こえただろ」
その声に、女の肩が小さく震えた。
次の瞬間、彼女は新太郎の横をすり抜けるように走り出した。
「あ、ちょっと!」
新太郎は思わず声を掛けた。
しかし女は振り返らなかった。
細いヒールがアスファルトを叩く音が、路地の出口へ向かって遠ざかっていく。
黒髪が一度だけ街灯の下で揺れた。
それきりだった。
「……え?」
新太郎は呆然とした。
お礼の一言くらいあってもいいんじゃないか。
そう思ったが、口には出さなかった。
「満足したか?」
背後から声がした。
振り返ると、ジャケットの男が睨んでいた。
「ええと、まあ……」
「余計なことしやがって」
「すみません」
謝ってから、なぜ自分が謝るのか分からなくなった。
眼鏡の男は新太郎をじっと見ていた。
街灯の光がレンズに反射して、その目がよく見えない。
「お兄さん」
「はい」
「あの女、知ってるのか?」
「いえ。全然」
「本当に?」
「初めて見ましたけど」
眼鏡の男は少し黙った。
「名前は?」
「え?」
「名前」
新太郎は眉を寄せた。
「なんでですか?」
「いや。聞いてみただけだ」
男はそう言って、ジャケットの男の肩を叩いた。
「行くぞ」
「おい、いいのかよ」
「いい」
二人は新太郎の横を通り過ぎた。
ジャケットの男が肩をぶつけてきた。
わざとなのか、狭い路地のせいなのか、分からない程度の強さだった。
「気をつけろよ、お兄さん」
男が言った。
新太郎は何も答えなかった。
二人の足音が遠ざかる。
やがて表通りの騒音に紛れて聞こえなくなった。
「……なんなんだよ」
ようやく声が出た。
新太郎はスマートフォンを見た。
警察への通報画面は開いていなかった。
ただロック画面が明るくなっているだけだった。
実際に電話を掛けるつもりだったのか、自分でもよく分からない。
時計は午後九時二十八分を示していた。
明日の起床まで、あと六時間半。
「最悪だな」
ため息をつき、スマートフォンをポケットへ戻した。
それでも、女が無事に逃げられたことには少しほっとしていた。
新太郎は来た道を戻ろうとした。
そのとき、足元で何かが光った。
ビールケースの脇だった。
小さな長方形のプラスチック板が、濡れたアスファルトの上に落ちている。
「ん?」
しゃがんで拾い上げる。
透明なカードホルダーだった。
紺色のストラップが付いている。先ほどの騒ぎで外れたのだろうか。
中には社員証が入っていた。
顔写真。
名前。
会社名。
写真の女性は、さっきの女に間違いなかった。
髪をきちんと整え、真っ直ぐ前を見ている。路地裏で怯えていた姿とはまるで違う。
新太郎は名前を声に出して読んだ。
「かしい……め?」
香椎 芽。
珍しい名前だった。
下の名前は一文字で「芽」。読み方は社員証のローマ字表記で分かった。
MEI KASHII。
「ああ、めいか」
新太郎は小さく頷いた。
その下に英語で会社名が印刷されていた。
DRAGON PALACE PHARMACEUTICALS
「ドラゴン……パレス?」
聞き覚えがあった。
どこかで見た名前だ。
テレビのコマーシャルだったか。ニュースだったか。
しばらく考えて、思い出した。
「ドラゴンパレス製薬か」
最近、経済ニュースでよく耳にする会社だった。
新しいがん治療薬の開発に成功したとか、海外の巨大製薬会社を買収したとか、そんな話を見た気がする。
確か女性の社長が有名だった。
名前までは思い出せない。
新太郎はもう一度、写真を見た。
大企業の社員。
それも世界的な製薬メーカー。
そんな女性が、なぜあんな男たちに絡まれていたのだろう。
恋人とのトラブルだろうか。
借金か。
それとも単に、酔っ払いにしつこくされたのか。
「……まあ、関係ないか」
考えても分からない。
社員証は明日、会社へ届ければいい。
土曜日だから受付が開いているかどうか分からないが、郵送するという手もある。
新太郎はカードホルダーをジャケットの内ポケットに入れた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
三宅だった。
「もしもし」
『浦さん! 何してるんですか!』
「ああ、悪い」
『どこです? もう店着いちゃいましたよ』
「今、路地」
『路地?』
「ちょっといろいろあって」
『何ですか、いろいろって』
「女の人が男に絡まれててさ」
『えっ?』
「まあ、もう大丈夫」
『浦さんが助けたんですか?』
「助けたってほどじゃないけど」
『マジですか! すごいじゃないですか!』
「別にすごくないよ」
『で、その女の人は?』
「逃げた」
『え?』
「走って逃げた」
『なんで?』
「知らん」
電話の向こうで三宅が笑った。
『何それ。浦さん、振られたんですか?』
「告白してねえよ」
『いやあ、でもそういうの、ドラマみたいじゃないですか』
「どこがだよ」
『運命の出会い的な』
「お礼も言われてないんだけど」
『そこから始まるんですよ』
「何が」
『恋が』
「お前、酔ってるだろ」
『ちょっとだけ』
新太郎は笑った。
「とにかく、今から行くわ」
『早くしてくださいよ。課長、もう歌い始めてます』
「早いな」
『しかも一曲目から長渕です』
「うわ、帰りてえ」
『ダメですって!』
電話を切った。
新太郎は路地を抜け、明るい通りへ出た。
さっきまでの出来事が嘘のように、街は賑やかだった。
居酒屋の呼び込み。
タクシーを止めようとする酔客。
肩を寄せ合って歩く若い男女。
コンビニの前で缶チューハイを飲む学生らしい集団。
誰も、ほんの数分前に路地裏で何があったのか知らない。
新太郎も、もう考えるのをやめようと思った。
ただ、歩いているうちに一度だけ、内ポケットの社員証が気になった。
指先でジャケットの上から確かめる。
硬いカードの感触があった。
「香椎、芽……」
もう一度、名前を呟いた。
めい。
悪くない名前だと思った。
ふと、写真の顔が浮かんだ。
社員証の中では、彼女はほんの少し微笑んでいた。
あの路地裏では一度も見せなかった表情だった。
新太郎は信号が青になるのを待ちながら、明日の釣りのことを考えた。
朝マズメには間に合うだろうか。
釣り場に着くころ、潮はどのくらい動いているだろう。
そう考えているうちに、信号が変わった。
人の流れに押されるように横断歩道を渡る。
ジャケットの内側で、社員証が胸に当たった。
その小さな違和感を、新太郎はまだ気に留めていなかった。




