1 いつもと同じ金曜日
午後六時十二分。
浦新太郎は、パソコンの右下に表示された時刻を見てから、もう一度、机の上のスマートフォンを見た。
意味はない。どちらも同じ時刻だった。
「浦さん、今日ですよね?」
向こうから声が飛んできた。
新太郎は顔を上げた。
「何が?」
「何が、じゃないですよ。飲み会」
声の主は二年後輩の三宅だった。モニターの横から顔だけを出している。
「ああ」
「忘れてたんですか?」
「忘れてないよ」
「絶対忘れてたでしょ」
三宅が笑った。
新太郎は答えず、作りかけの見積書に視線を戻した。
窓の外はもう暗い。
十月に入って、日が落ちるのが急に早くなった。
十八階のオフィスから見下ろす街には、白や赤の小さな光が連なっている。大通りは渋滞しているらしく、車列はほとんど動いていない。
ガラスに映った自分の顔が、街の灯りに重なっていた。
今年二十九。
入社五年目。
髪はまだある。腹も出ていない。健康診断にも引っかかっていない。
だからどうした、という程度の男だった。
「浦」
今度は後ろから呼ばれた。
「はい」
振り向くと、課長の野々村が鞄を肩に掛けて立っていた。
「まだやってんの?」
「もう終わります」
「それ明日でいいだろ」
「あと数字入れるだけなんで」
「真面目だねえ」
野々村はそう言いながら、新太郎のモニターを覗き込んだ。
「あれ。東邦、こんな数字だったっけ」
「先方から四時半に修正来ました」
「あ、そう」
「メール、CC入ってますよ」
「見てない」
「でしょうね」
「お前、五年目になって可愛げなくなったな」
「課長に育てられましたから」
三宅が吹き出した。
野々村は新太郎の肩を二度叩いた。
「じゃあ、その可愛げのない浦君。七時、新橋な。今日は逃げんなよ」
「逃げませんよ」
「前回逃げたじゃん」
「あれは熱があったんです」
「三十七度一分だろ」
「なんで覚えてるんですか」
「お前が体温計の写真送ってきたからだよ」
「証拠が必要かと思って」
「三十七度一分は証拠にならねえよ」
三宅がまた笑った。
「じゃ、先行ってるからな」
「はい」
野々村は手を振り、そのまま出口へ向かった。
途中で女性社員に声を掛け、何か言って笑わせている。
三宅が椅子を滑らせ、新太郎の隣までやってきた。
「浦さん」
「何」
「今日、二次会行きます?」
「行かない」
「即答」
「明日早いから」
「土曜日ですよ?」
「だから」
三宅はしばらく新太郎を見ていた。
「ああ、釣り?」
「うん」
「また?」
「また」
「よく飽きませんね」
新太郎はキーボードを打ちながら言った。
「飽きないから趣味なんだろ」
「何釣るんです?」
「まだ決めてない」
「決めないで行くんですか?」
「海見て決める」
三宅が露骨に理解できないという顔をした。
「それ、楽しいんですか?」
新太郎の指が止まった。
少し考える。
「何も起きないからな」
「はい?」
「何も起きないのがいいんだよ」
「……意味分かんないっす」
「俺も上手く説明できない」
Enterキーを押した。
数字が確定する。
新太郎はファイルを保存して、社内システムへアップロードした。
「終わり」
「じゃあ行きましょう」
「ちょっと待って」
「何ですか」
新太郎はスマートフォンを手に取った。
天気予報を開く。
明日の朝。
晴れ。
降水確率十パーセント。
風速、北東二・三メートル。
波高〇・四メートル。
「よし」
「何がよしなんですか」
「明日、風ない」
三宅は呆れたように笑った。
「飲み会より明日の海なんですね」
「当たり前だろ」
「浦さん、彼女作った方がいいですよ」
「なんで」
「なんとなく」
「余計なお世話だよ」
新太郎はパソコンを落とした。
モニターが暗くなる。
一瞬だけ、そこに自分の顔が映った。
ネクタイを少し緩め、鞄を持つ。
「行くか」
「はい」
二人でオフィスを出た。
居酒屋は地下にあった。
階段を下りる途中から、油と醤油と煙草の代わりに使われている甘い電子タバコの匂いが混じって鼻に入ってきた。
入口には「本日満席」の札。
奥から笑い声とグラスのぶつかる音が聞こえる。
「遅えぞ、浦!」
野々村がすでに赤い顔で手を上げた。
「まだ七時三分ですよ」
「三分遅刻」
「課長が早いんです」
「社会人は五分前行動だろ」
「仕事ではそうしてます」
「飲み会こそ仕事だろ」
「一番嫌な考え方ですね、それ」
「お前ほんと可愛くなくなったな」
席が詰められる。
新太郎は壁際に座った。
「生でいい?」
向かいの女性社員が聞いた。
「お願いします」
「三宅君も?」
「僕、ハイボールで」
「若者だねえ」
「ハイボールで若者判定されるんですか?」
そんなやり取りの向こうで、誰かが笑っていた。
乾杯。
ビールを一口飲む。
冷たい液体が喉を通った。
新太郎は別に酒が嫌いではなかった。
会社の人間も嫌いではない。
野々村は口うるさいが悪い上司ではないし、三宅とも気が合う。
それでも、会社の飲み会になるといつも同じことを思う。
――いつ帰ろう。
「浦、お前今年どうすんの?」
突然、野々村に聞かれた。
「何がです?」
「昇格試験」
「ああ」
「『ああ』じゃねえよ」
焼き鳥を持ったまま、野々村が眉を寄せる。
「受けますよ」
「ほんとか?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困るんだよ」
「じゃあ受けます」
「なんだその返事」
向かいから声が飛んだ。
「浦君って出世欲ないですよね」
営業企画の篠田だった。
「そう見えます?」
「見える見える。なんかいつも、五時になったら海に帰りたそうな顔してる」
「鮭じゃないんですから」
テーブルが笑った。
「でも浦さん、仕事はちゃんとするんですよ」
三宅が言った。
「ちゃんとするけど、それ以上やらない」
野々村がすぐ付け足す。
「それ、褒めてます?」
「半分」
「じゃあ残り半分は?」
「もっと欲出せってことだよ」
新太郎はビールを飲んだ。
「欲ですか」
「そう。お前、何か欲しいものないの?」
「ありますよ」
「何」
「ステラ」
「何それ」
「リールです」
一瞬、沈黙した。
三宅だけが笑った。
「いくら?」
篠田が聞いた。
「買うやつによりますけど、八万くらい」
「高っ」
「八万あったらバッグ買う」
「魚釣る糸巻くやつで八万?」
「糸巻くやつって言わないでください」
「糸巻くやつだろ」
「まあ、そうですけど」
また笑いが起きた。
新太郎も笑った。
こういう時間は嫌いではない。
ただ、長く続いてほしいとも思わなかった。
一時間半後。
テーブルには空いた皿が積まれ、最初は綺麗に並んでいた箸袋もおしぼりも、誰のものか分からなくなっていた。
野々村の声は二割ほど大きくなっている。
「だからさあ、浦はもっと自分から行けよ」
「何にですか」
「全部だよ」
「範囲広すぎません?」
「仕事も、女も」
「またそれですか」
「彼女いないんだろ?」
「いませんよ」
「何年?」
「取り調べですか?」
「何年?」
「二年くらい」
「もったいねえなあ」
「何がですか」
「若さが」
新太郎は笑った。
「課長、五十二でしたっけ」
「四十八だよ!」
その日一番大きな笑いが起きた。
九時を少し回ったところで一次会は終わった。
地下から地上へ上がる。
夜風が思ったより冷たかった。
「あー、気持ちいい」
三宅が両腕を広げた。
歩道には人が溢れている。
金曜の夜だった。
タクシーが何台も通り過ぎる。客引きの声。信号機の電子音。遠くで救急車のサイレン。
新太郎はジャケットのポケットに手を入れた。
「じゃ、俺帰るわ」
「何言ってんだよ」
すぐ野々村に肩を掴まれた。
「二次会」
「明日四時起きなんですよ」
「四時?」
「釣りです」
「魚と俺、どっちが大事なんだ」
「魚ですね」
「即答すんな!」
また皆が笑う。
「一杯だけ!」
「その一杯が一杯で終わったことないでしょう」
「今日は終わる」
「先月も聞きました」
そんな押し問答をしている間に、何人かは二次会へ向かって歩き始めていた。
「浦さん、行きましょうよ」
三宅まで言う。
「お前、さっき俺に明日釣りですよねって言っただろ」
「言いましたけど」
「裏切るなよ」
「一時間だけ」
「お前らの一時間、信用できないんだよな……」
結局、新太郎は連れていかれた。
二次会の店へ向かう途中だった。
大通りを外れ、狭い路地へ入った。
表通りの喧騒が少し遠くなる。
雑居ビルの室外機が低い音を立てている。
飲食店の裏口に積まれたビールケース。濡れたアスファルト。どこかから流れてくる焼肉の匂い。
前を歩く野々村たちが何かを話している。
三宅が笑っている。
新太郎は少し離れて、その後ろを歩いていた。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
取り出す。
釣り仲間からだった。
『明日、五時半くらいからでどう?』
新太郎は歩きながら返信した。
『了解。たぶん間に合う』
送信。
顔を上げる。
そのときだった。
「やめてください」
女の声がした。
新太郎は足を止めた。
声は路地のさらに奥から聞こえた。
前を歩いていた三宅たちは気づいていない。
「いいじゃん。ちょっとだけだから」
男の声。
「触らないで」
さっきより強い声だった。
新太郎は路地の奥を見る。
暗がりに三人いた。
男が二人。
そして、その間に女が一人。
女の背中が壁に当たっている。
男の一人が、彼女の腕を掴んでいた。
新太郎は小さく息を吐いた。
面倒だ。
そう思った。
警察を呼べばいい。
店の人間を呼んでもいい。
自分が関わる必要なんてない。
「浦さーん!」
遠くから三宅の声がした。
「置いてきますよー!」
「ああ、今行く!」
新太郎は答えた。
もう一度、女を見る。
こちらからは顔がよく見えない。
「離してください」
「だから話するだけだって」
「嫌です」
「お前さあ――」
男が女の腕を強く引いた。
「痛っ」
新太郎は目を閉じた。
「……四時起きなんだけどな」
誰に言うでもなく呟いた。
そして路地の奥へ歩き出した。




